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2014年1月27日月曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その7:補遺3 (幣久良山とその周辺の要害性について))

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦についての補足を「補遺」としていくつかご紹介しています。今までの資料に加えて、最近、新たな研究成果が公的に発表されたりしていますので、それらを全体の流れに組み入れて考える必要があります。

可能性を再度精査し、精度を上げる事で、その時何があったのかを論理的に検証・復元することが可能になると考えています。

さて、最近『わがまち茨木』の「水利編」と「街道編」を手に入れ、読んでみました。同じシリーズで「城郭編」は持っていたのですが、それらを併せ読んでちょっと新たに気づいた事がありますので、ご紹介してみようと思います。

耳原大池
「城郭編」に「耳原城(砦)」の事は紹介してあって、知ってはいたのですが、広域図が無く、城跡見取り図だけでは、関連性に気づきませんでした。
 最近購入した「水利編」に幣久良山の事とそこに関連する耳原大池の紹介が詳しくされていて、記事の中に耳原城の事も紹介されていました。城郭編と同じ方が記事を書いているのですが、発行時期が違うので、また違う書き方になっています。地図も「水利」についての視点になっています。それが、読む私の視点とちょうど一致しました。

幣久良山のすぐ東側に「鼻摺古墳(反正天皇陵)」という小さな古墳があって、それには東側から南をぐるりと回り込むような、半円形の濠跡も昭和51年時点まであったようです。それは西国街道に面しています。 100メートル以内の至近距離です。しかも、幣久良山へ南北に通じる道(福井街道)を挟むように立地もして、幣久良山に陣を置くには大変都合の良い環境を自然に作っています。
 要するに、街道の交差点にある要害のような環境が、自然に出来ているという訳です。

現在の西国街道の様子
そして、そこから西国街道を東へ300メートル以内のところに耳原城跡があったと伝わっているようです。現在の法華寺の裏というか、接するようにして直ぐ北側にあったと伝わっているのですが、現在は帝人大阪研究センターの敷地となり、駐車場の一部になっています。発掘がされたかどうかは今のところ確認できていません。

そこは法華寺よりも少し地面が高く、東側にすぐ段差があって、砦や城を置くには適しています。この場所は、庄屋であった市兵衛という人の屋敷で、「市兵衛屋敷」と呼ばれていたようです。そこには北と西側を守る堀の跡もあったようです。
 ちなみに、市兵衛さんのお墓が、法華寺内にあるようですので、両者の関係は密接にあるようです。

また、『武城旧記』という資料には、「手鞍山(幣久良山)也 天正年中、明智日向守在城、其の後織田辰之助耳原に在城す」とあるようです。「織田辰之助」とは不明ですが、これは荒木村重の謀反の時に近くの太田に陣を置いて合戦などがあったようですので、その頃のことを指しているのかもしれません。
 そして、元亀2年の白井河原合戦の時も明智光秀は9月24日に京都を出陣して摂津国方面へ入っている事から、断定はできませんが、何か関係しているのかもしれません。同月中旬には一時的に双方とも、停戦しています。
 もっとも、その頃に池田衆は高槻方面まで侵攻していますから、幕府(和田)方である明智勢が耳原まで進駐することは難しいかもしれません。ちなみにこの合戦で総持寺は焼失しています。

全容は不明ですが、耳原城が元亀2年頃も何らかのカタチで機能していたとすれば、幣久良山の陣と安威城との軍事的補完関係も考慮されたでしょう。耳原の城は、街道の監視などに使われたのかもしれません。

鼻摺古墳と耳原城の存在が、幣久良山に陣を取った和田惟政の戦術にどう影響したか、再度見直してみる必要もあると思います。まあ、この二つの要素は、全体に大きな影響を与えるというよりは、幣久良山の陣をより堅固に保持・支援するための要素なのかもしれません。







2013年12月14日土曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その6:補遺2 (最近の研究結果から白井河原合戦に関する情報を拾い上げてみる))

先日、高槻市立しろあと歴史館にて開催された企画展「高山右近の生涯 -発掘 戦国武将伝-」が開催され、その企画展用に発行された図録は大変価値のある一冊になっています。最新研究では様々な可能性が示唆され、高山右近の研究も更に進展した印象を受けます。

この企画展は、高山右近の生涯が対象になっていますので、期間が長く、地域も広いのですが、その中で特に、白井河原合戦の頃の素材に注目してみたいと思います。
 高槻市立しろあと歴史館の学芸員中西裕樹氏が、「高槻城主 高山右近の家臣と地域支配 -織田政権下の茨木城主中川清秀との比較から-」(以下「図録」と表記)で、研究成果を詳しく発表されています。他にも「しろあとだより」(以下「たより」と表記)など色々と小考を発表されており、それらを含めて、気になった要素を以下に抜き出してみます。

「里城」が「佐保城」との説を打ち出す (出典:たより第7号)
「(前略)「里」地名は未確認だが、北西約3キロメートルの山間部に位置する佐保村には複数の城郭遺構が存在し、「サホ」に「里」の字を当てたとも推測される。(後略)」との見解が示されています。
 この事は、これまでご紹介した白井河原合戦の分析にも合致するところがあります。池田衆は、決戦を意図し多数の兵を動員、また、隠密行動を取っていた事が判明している中で、それを更に裏付ける推定でもあるように思います。
 「里」の記述が「佐保」の誤記であれば、佐保は宿久庄の裏側でもあり、また更に、池田方面からの街道伝いに進めます。そしてまた、同地域に城跡が多くあるということは、要地であった証拠でもあるのでしょう。
 この時、池田衆にとっても重要な地域と捉えられ、制圧目標となっていたと考えられます。ここを手に入れる事ができれば、宿久庄の裏を確保し、街道を押さえ、連絡と補給を安全に行えると同時に、敵の同じ動きを封じる事ができます。敵の情報経路を絶つことは、隠密行動にも必要な要素かもしれません。
 また、池田方は、佐保から福井方面を経て向かう一隊と、宿久庄からの一隊が、2つの方向から白井河原の決戦場に向かう作戦を立てたのかもしれません。
 ちなみに、「余野氏」は、池田の一族衆でもあり、その拠点である余野から山道を伝って南下すれば2里(8キロメートル)程で到着します。また、止々呂美方面からもほぼ同じ距離です。

郡氏の由緒書(他に甲冑なども)の白井河原合戦部分を公表 (出典:図録)
系図の関連では取り上げられていたのかもしれませんが、まとまって紹介され、分析されたのは、今回の「高山右近の生涯」が初めてではないでしょうか。大変興味深い記述があります。
 一連の資料の中に郡宗保公の肖像画があり、この宗保は、伊丹親保の子が郡兵太夫正信の養子に入り、白井河原合戦で郡兵太夫の戦死後、宗保が郡氏の跡を継いで、荒木村重に仕えたと伝わっています。
 確かに元亀2年から天正元年の春頃にかけて、和田惟長と伊丹氏は同じ幕府方として親密な行動を取っています。ですので、この言い伝え部分に矛盾はありません。
 但し、白井河原合戦に勝った池田衆は、千里丘陵の東側にも勢力を伸ばしたと考えられ、茨木城までも手に入れていたのでしょう。そうすると、郡氏の本拠地は、当然池田方に接収される事となりますので、高槻・伊丹などで再興を図ったり、また、別の郡一族が池田衆方となって、郡村などの本貫地を守ったのでしょう。そのあたりの所は不明です。

由緒書には、白井河原合戦の時の郡兵太夫の行動が記され、フロイス日本史の記述を補う状況を見ることができます。これらは追々紹介していきたいと思います。

郡村周辺にある、2つの「馬塚」について (出典:図録)
旧郡村付近に「馬塚」と呼ばれる場所が2カ所あります。その内の一つに池田衆が陣を取り、白井河原合戦に臨んだとする逸話もあります。
 1つは、現在の国道171号線の下井町交差点から郡村方面に入る道に「馬塚」とされるところがあり、コンモリとした古墳のようになっています。少し小高い所にあり、陣跡とされるのですが、それにも適した場所です。
 もう一つは、その「馬塚」の前の道を更に郡村方面に進みます。郡小学校の東側にもう一つの「馬塚」があります。こちらは、人工的な小さな山で、木が一本生えています。墓石もその上にいくつかあります。こちらはこの地域が開発されるまでは、田んぼの中にあり、前者の「馬塚」とは趣が少し違います。

事情としては、命からがら逃げてきた郡兵大夫一行が、村の内に入った所で力尽きたのでは無いかとも思える、「下井町交差点」に近い馬塚がそれのような気がします。
 この馬塚は、郡氏の子孫の方々が今も決まった日に供養を行っているそうで、双方の馬塚で行われているそうです。
 また、この馬塚付近は、兵糧を炊き出す場所でもあったと伝わっています。白井河原の時だけの事なのか、定位置の作業場だったのかわは判りませんが、城に付随するのか、公的な場所でもあったようです。

「どちらが本当の馬塚か」という、二者択一的な事では無く、どちらも人や馬などの遺体を葬った場所なのかもしれません。由緒書が描く状況から見ると、郡兵太夫が自分の村に戻る行動をしているため、この辺りは、白井河原合戦の当日はまだ、池田衆の勢力が及んでいなかったと考えた方が自然だと思います。そしてまた、郡村には城もあったようです。

ですので、伝承として伝わっている、池田衆が馬塚に陣を取り、和田方が糠塚に陣を取った事で、「馬は糠を食うから我らの勝利だ」と縁起を担いだ逸話は、事実とは違うような感じが強くなってしまうように思います。
 池田衆は、郡村の北を流れる勝尾寺川を越えておらず、制圧地域は宿久庄城を制圧し、福井村あたりの平地が最前線になった可能性が高くなります。

高山右近と中川清秀が対立していたとの説を打ち出す (出典:図録)
 中々複雑な経緯がありますので、詳しくは『高山右近の生涯』をご覧いただければと思います。同書の研究発表では、(前略) 高山氏と中川氏との間には上郡西部の山間〜千里丘陵〜淀川沿岸地域にかけての緊張が継続し、右近の地域支配にも影響が及んだと考えられる。(後略) 、としています。
 中々興味深い論考だと思います。それが賤ヶ岳の合戦の行動に繋がるのかもしれませんね。この観点でも自分自身の研究ノートをじっくり見てみたいと思います。

松永久秀の出身地の一つとして、五百住説が浮上 (出典:たより第5号)
学芸員の中西裕樹氏が、松永久秀の出自について小考をまとめられています。久秀の出自は不明な事が今も多いのですが、高槻市の東五百住にその言い伝えがある事を資料と共に紹介されています。こちらも興味深い視点です。

白井河原合戦の時にも、松永久秀が高槻方面へ頻繁に出陣していますし、気になる動きをしています。三好義継も関係して動いています。また、戦後の高槻城を巡る交渉では、高槻城に義継が入るといった条件も出されていた程です。
 一連の資料には、ちょっと不自然に思えるような動きもあったので、この五百住に久秀が縁を持つとの説は、大変注目しています。

合戦以前に、中川清秀が新庄城に入っていたとの説を採用 (出典:たより第7号)
元亀2年5月に、池田方で三好三人衆に加担していた吹田城が和田惟政によって落とされた頃、中川清秀は神崎川対岸の新庄城に入っていたとする説を採用して取り上げています。この出典は、日本城郭体系・中川氏御年譜のようですが、これはどうも今のところ信じがたい説です。
 私の研究ノートではこの頃、池田衆は分が悪く、防戦姿勢で、池田から勢力を伸張させる余裕は無かったように思います。ですので、池田衆が元亀元年から翌年夏にかけて、新庄方面へ勢力を伸張・維持できるような動きを示す資料も見たことはありません。 またもし、元亀2年時点で、新庄城を確保していたのなら、吹田が攻撃されている時点やその後に反撃するなり、和田方の交戦地域が吹田から南へ広がっていくなり、何かとその痕跡は見られるはずですが、それはありません。

中川清秀が、池田から出て利益の一端を守っていたとするなら、それなりの立場を得ていたでしょうし、と言うことは、それなりの署名資料があっても良いと思いますが見られません。
 年記未詳で、池田二十一人衆の署名とされる史料『中之坊文書』には、中川清秀が署名していますが、今のところ天正以前ではその一通のみ見られます。

池田衆は、白井河原合戦後に支配地域が過去最大となりますが、それ以前は神崎川など、川を越えない範囲での豊嶋郡を中心とする支配地域(川辺郡・豊能郡など越境していく部分もあった)だったと思われます。






2013年12月13日金曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その5:補遺1 (和田惟政が鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近か))

白井河原合戦で和田惟政が池田衆の鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近かもしれません。

先日、高槻市しろあと歴史館で開催された「高山右近の生涯 -発掘 戦国武将伝-」を見てきました。最近は、毎年のように高山右近を取り上げた企画展を開催してもらえるので、その度に足を運んでいます。

それまでは、正直、真新しさはあまり無かったのですが、今回は素晴らしかったです。様々な可能性、角度から検討が加えられ、資料の少ない高山右近を何とか具現化しようという姿勢が伝わる企画展示になっていたと思います。ですので、図録も素晴らしいです。

その中で、白井河原合戦の折、和田惟政の重臣として参加した郡兵太夫正信についての資料群(肖像画・甲冑・陣羽織など)も公開されていました。また、同氏の家系に伝わる由緒書きも公開され、それには白井河原合戦の様子が詳しく書かれています。

図録にも収められていますが、由緒書の釈文の気になる部分を見てみますと、

-史料(1)------------------------------------------------------------
(前略)
和田伊賀守も郡山より三町(約330メートル)計り北東の方に当たり、箕原村と中河原村と之間、糠塚と云う所迄、出張致され候。此の所前者、川原の北は山にして戦の後者、郡山北白井堤という五町(約550メートル)計り堤此有り。是者、中河原と宿河原と之間、北山の南平場也。郡兵太夫、先手進み勇み戦さ致され候得共、和田伊賀守、中川瀬兵衛尉と戦い討ち死に致され候故、郡兵太夫も陣場より二町(約220メートル)程こなた、郡村の内に於いて討ち死に致され候。其の時の馬者、黒馬の名馬たる由にて、彼の馬に向かい乍ら玄星も能く働き候事と申され候。馬もうな垂れ、終いに落ち申し候に付き、所々者、此の所に埋め、印に松を植え置き申し候。其の時、討ち死に申し武士の死骸共集め、埋め候所、臼の様に二つかつぎ、是を哉、茶臼塚と申し候。兵糧を炊き候所、竈成りに残り候をへつい塚と申し候。
(後略)
-------------------------------------------------------------
とあります。

少し細かく見てみましょう。

和田伊賀守も郡山より三町計り北東の方に当たり、箕原村と中河原村と之間、糠塚と云う所迄、出張致され候。
 若干距離感は違いますが、「糠塚と云う所」とは、幣久良山に陣を置いた事を指していると思われます。郡兵太夫は、郡村から出て幣久良山の陣へ入っていたと伝えています。

此の所前者、川原の北は山にして戦の後者、郡山北白井堤という五町計り堤此有り。
これも幣久良山の要害性を示すものです。和田惟政は、そういう場所を選んで陣を置いていた事が判ります。

中河原と宿河原と之間、北山の南平場也。郡兵太夫、先手進み勇み戦さ致され候得共
記述によると、和田惟政は郡兵太夫などを率いて幣久良山の陣を出て、茨木川を渡って西進したようです。そして早朝、この付近で『フロイス日本史』 にある、
-史料(2)------------------------------------------------------------
(前略)
そして彼ら(和田方)は見つかると忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました池田衆の更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、池田方は真ん中に捉えた和田方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。
(後略)
-------------------------------------------------------------
交戦となったのでしょう。「そして彼らは見つかると...」とは、和田惟政も何かを目的として、密かに行動していたらしい様子が描かれています。しかし、池田衆は既に、宿久庄村の東側あたりの山裾に隠れていたのでしょう。

和田伊賀守、中川瀬兵衛尉と戦い討ち死に致され候故
宿久庄村の南東側あたりで交戦となり、ここで和田惟政は討ち死にしたのでしょうか。

郡兵太夫も陣場より二町程こなた、郡村の内に於いて討ち死に致され候
和田惟政が戦死したため、重臣であった郡兵太夫はその場から、更に220メートル程移動しているようです。郡村の内にまで入っていたようですので、勝尾寺川を渡って南に移動していたようです。郡村へ帰ろうとしていたようです。郡村には城があったと伝えていますので、そこに戻ろうとしていたのかもしれません。
 そしてその時に郡兵太夫の乗り馬も倒れ、それが塚として残されたとの事です。それは今も伝わる馬塚なのでしょう。また、ここには戦死者も集められて埋葬されたとの事です。
 ちなみに、城はその後、池にしたと伝わっています。

埋め候所、(中略)、兵糧を炊き候所、竈成りに残り候をへつい塚と申し候
また、馬を埋めた所は、兵糧を炊く場所だったとの事です。 その時だけの事なのか、そういう固定的な場所だったのか、これについてはよく判らないのですが、他との関連性も掴めない場所です。郡村からは少し離れているような場所ですし、郡城と関係する施設なのかどうか、ちょっと今のところ判りません。

白井河原合戦で戦死した和田惟政も郡兵太夫も勝尾寺川を越えて、南へ逃れようとしているようですので、その方向には敵が居なかったと考える方が自然なのかもしれません。
 という事は、郡村や郡山村の辺りは、合戦当日にはまだ池田衆の手に落ちていたとは考え難いのかもしれません。池田衆は宿久庄城を落とし、そこから幣久良山方面に対峙しようとしていましたが、郡方面が確保できていないために池田衆は、前進方向の右手に不安を抱えながらも決戦を挑み、和田方に打ち勝ったといえるのかもしれません。

更に考えてみると、和田惟政は宿久庄村の山際の縁を回り込み、郡村方面からの挟撃を考えていたのかもしれません。200の手勢で強行したのは、こういった作戦と、前後の判断があっての事ではなかったでしょうか。また、宿久庄方面の残党など遊軍と何らかの呼応を行おうと、惟政は考えていたのかもしれません。
 何れにしても、買って知ったる自領ですから、多少の無理は利きますし、当然ながら、発想もそうなるでしょう。それが逆に、詰めの甘さとなり、池田衆にその辺りをつけ込まれたものと思われます。

これらの伝承が、ある程度正確なものだとすると、ちょっと白井河原合戦の詳細検討で修正する部分が出てきそうです。辻褄の一致するところは多く感じます。検討し、随時行いたいと思います。

この後もちょっと白井河原合戦について、書いてみたいと思います。






2013年11月21日木曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(はじめに)

元亀元年(1570)6月、荒木村重も加わった池田家内訌は、突然起きたように見えますが、そこに至るまでには原因があります。その出来事の前後を見れば、それはよくわかります。どんな事もそうですよね。

個人的に池田家の内訌については、朝倉・浅井攻めの最中に起きており、将軍義昭・織田信長政権の最初の大きな躓きだった、いわば失策が招いた事件であったと考えています。
 言い方を換えれば、三好三人衆が調略を成功させる隙を作ってしまう程、織田信長は五畿内社会の様相を変えてしまったのでは無いかと思います。

元亀元年4月の越前朝倉氏討伐を第一次とするならば、浅井氏の態度を見た幕府軍が態勢を立て直し、再び攻めようとした姉川の合戦を代表する軍事行動は、第二次朝倉・浅井討伐と位置づけられると思います。
 
その説明を、以下の要素からそれぞれ進めていきたいと思います。お楽しみに。

(1)6月18日に起きた池田家内訌当日を分析する
(2)元亀元年の越前国朝倉氏攻めについて
(3)5月、幕府は、五畿内の主立った家に対して人質を出すよう命令した
   ※高島郡への動座
(4)三好三人衆勢力は、依然侮れない影響力があった
(5)反幕府勢を束ねる人物 ←只今執筆中
(6)荒木村重の池田家中での地位(家中権力の多極化) ←只今執筆中
(7)池田勝正追放後に別の当主を立てたか
(7.1)池田勝正追放後に別の当主を立てたか「続報」
(8)三好為三政勝の動き ←只今執筆中
(9)その他の要素(元亀元年6月の池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか


2013年10月25日金曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その4:完結)

高山右近の参加した白井河原合戦について、筆者記述の「キリシタン武将高山右近と白井河原合戦」その1〜3をまとめてみたいと思います。
 まとめ方をどうするか、悩んだのですが、少し趣向を凝らして、『スロイス日本史』を当時の事実に沿うように書き直してみたいと思います。
 原文は『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』の抜粋部分を使用します。


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(前略)
私(ルイス・フロイス)が、最後に和田殿にお目にかかりましたのは、去る邦暦7月の事で、時に私は戦争で殺された高山ダリオ殿の一子を埋葬するために、ロレンソ修道士と共に都から津の国に赴いていました。
 私達は、高槻城の一方から四分の一里離れたところまで来ました時に、ロレンソ修道士を遣わして和田殿にこう申させました。
(中略)
和田殿は戦の最中でありましたが、大勢の武士達、また、刻々として殿の諸城などから届けられる色々の書状に返書をしたためる自分の2人の秘書との協議で多忙を極めていました。
(中略)
此れ以前、和田殿は攻撃の足がかりとするために、多数の甚だ好戦的な家臣を有する池田殿の領地との境に近いところで、新たに2つの城を築いていました。池田殿はそれらの城が築かれた事にひどく激昂していました。和田殿は、早速自分に対して出陣するのは確実であると思いましたので、その機も利用して、決着をつけようと考えていました。
 和田殿はその後、都の公方様とも相談を重ね、池田殿を攻める体制を整え、細川殿や三淵殿の援助を得て、池田領へ攻め入りました。
 邦暦の6月10日、和田殿は池田方の吹田城を攻めて、これを落城させました。吹田は水陸の要衝で、ここを手に入れた和田殿は、その後の戦いを有利に導きました。それから更に和田殿は、細川・三淵殿の助けを借りて、池田領内深く進み、原田城をも手に入れました。そしてここに、今は幕府に身を寄せている、旧領主であった池田勝正殿が入城しました。彼は、池田の元の領主に戻るために、和田殿に力を貸していました。
 また、この辺り一帯は、敵である池田殿の主たる収入源でもある土地で、またそれは百年以上に渡り続けられていた、非常に重要な場所でした。これに対する池田殿は、この事態を大いに嘆き、これらを取り戻すため、和田殿に反撃する機会を窺い、準備を進めました。

しかし一方で和田殿は、五畿内での幕府方の不利を補うために東奔西走しなければなりませんでした。また、彼は京都の防衛も受け持ち、非常に苦しい状態が続いてもいました。
 そして7月には、山城国南部や大和国へも出陣し、筒井殿の支援も行いました。兵や物資の調達も困難を極めました。そのため和田殿は、姻戚関係でもある友軍の伊丹殿を頼み、池田殿を攻める事を計画し、準備を進めました。

一方の池田殿も、領内を和田殿など幕府方に激しく攻められながらも、反撃の体制を整えました。池田殿の友軍である三好三人衆や大坂本願寺の援護も受けつつ、邦暦8月には準備を整えたようです。
 邦暦8月18日、和田殿は伊丹殿と連合して、池田領を攻めましたが、池田殿の反撃激しく失敗し、200名もの戦死者を出して後退しました。池田殿は、和田殿への反撃を始めました。
 和田殿は、戦の経験も豊富であり、予め要所に家臣を置き、予期せぬ敵の動きを掴むために工夫をしていましたが、もしも池田殿が多数の兵で攻撃してくるような事になれば、それを防ぐのは難しい状態でした。

先の合戦で勝利していた池田方は、活気に満ちていました。邦暦8月21日、池田殿は全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し、たとえ身分がいかに低かろうとも、此の度の戦いにおいて、和田殿の首級を挙げた者には、何人であれ1,500クルザードの禄を授けるであろうと知らせました。
 その翌日早暁、池田殿は和田殿との決戦のために、精選した兵士3,000を、3名の高位の武士が3隊に分ち、出陣しました。

高山ダリオ殿は、子息を戦死させた後、元に居た場所から移り、別の任務に就いていました。彼は、和田殿の築いた萱野の城に城主として入っており、彼の息子ジュスト右近殿と共に、幾ばくかの家臣と共に居ました。そこで哨兵達から敵が来襲したとの報せに接しますと、ダリオは直ちにそこから3里の所に居た奉行に通報しました。
 和田殿の懸念は現実となりました。和田殿は、池田殿との合戦に敗退し、次なる前進のために態勢を立て直す協議を行っていた時、高山ダリオからの通報が届きました。和田殿は急いで吹田を経て高槻城に戻り、敵の軍勢を防ぐ手楯を考えました。敵は西国街道といくつかの街道を使い、一計を案じて東進していました。

和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢な武将でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な士官級の戦士達でありました。
 しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に残しておいた控えや予備の兵卒700名あるかなしかを率いて、兎に角も出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たため、直ぐには兵を増やす事ができない状態でした。和田殿は、増援の通知をするため、遣いを急派させました。

幣久良山
高山ダリオ殿に通報を受けてから、刻々と入る戦況は、和田殿にとって、思わしくありませんでした。宿久・里など、いくつかの城は落ちたり、敵に包囲される等していました。敵の動きが思いの外早かったため、また、詳しくも判らず、和田殿はその対応に苦慮しました。
 和田殿は準備が整わない中でも、手持ちの兵数を以て領地を守るには、どの場所が適しているかを考えました。間もなく和田殿は、去る邦暦5月に落した安威城の近くにある幣久良山に陣を置き、ここで敵を防ぐ事に決しました。ここなら複数の川もあり、天然の要害性もあって、更に背後を憂える事も無く戦えると考えたからでした。
 和田殿は、城内の高位の貴人へ通達した後、先駆けとして手筈を整え、高槻城を出陣しました。
(中略)
幣久良山から南を望む
彼は先ず前記の200名の貴人だけを伴って幣久良山に入りました。他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の1人の息子(太郎丸)と共に後衛として後に続く手筈になっていました。
 和田殿は1,500名の兵を用意できる見通しを立てていましたので、敵が率いてくるかも知れぬ軍勢の数を恐れてはいませんでした。和田殿は、これまでの状況を見て、池田殿は多数の兵を用意する事はできないと考えていました。
 和田殿は池田殿との決戦を予定し、幣久良山の城で敵を迎え撃つ準備を整えました。また、夜襲に備えて兵卒に注意を促していましたが、何事もなく夜が明け始めました。
 しかし夜が明けると、その準備が整わない間に、その城から半里ばかりのところに敵勢を認めました。こちらへ対陣する敵方は、1,000名の兵の外は目視できなかった事から、和田殿は一計を案じ、間もなく息子と共にやって来る軍勢を待つ事なく、その敵に攻撃する事を決しました。和田殿は武術に長じた自分の家臣を大いに信用して、勇敢に戦おうとしました。
 そして出陣した和田殿は、前衛として先頭を騎行し、間もなく彼は一同を下馬させ(交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから)、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。
 しかし、彼らはある丘の麓で待ち伏せて、隠れていました更に2,000名もの敵兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、敵方は真ん中に捉えた和田殿の軍勢に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。
(中略)

イメージ写真:鉄砲隊
しかし、和田殿と共に、かの200名の貴人も全員討死にし、殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは、和田殿の予想に反して、池田からはそれ程多くが出陣したのでした。また、敵は秘密裏に行動し、和田殿に悟られないようにも注意を払っていました。

和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、和田殿並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。また、幣久良山の城で決戦を迎えるために、各地からそこへ向かっていた和田殿の家臣達も同様に、それぞれの場所に戻ってしまいました。

この不幸な合戦の当日、私はそこから4里離れた河内国讃良郡三箇の教会にいました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。
 そしてその朝方、家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして、道中が危険なので、和田殿から私達のため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私達はそこから銃声を聞き、長い間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達にはそれが何であるかは知る由もありませんでした。
 ところが、午後に前記の家僕がこの悲報を持ち帰って、和田殿が戦死し、彼と共に五畿内の彼の全く高貴な武士達が運命を共にした事、そして彼(家僕)が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。

後になって判明した事ですが、この合戦にあたって、新城に籠っていた高山ダリオ殿とその息子ジュスト達は逃げ延び、共に殪れなかった事は、我らの主(デウス)のお取計らいでありました。 
(後略)
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いかがでしょうか。こういった感じになろうかと思います。白井河原合戦についての実際の時間の区切り、要素の連続性と切れ目が判り易くなったのではないかと思います。






2013年10月24日木曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その3:ルイス・フロイスが残した記録の誤訳部分を確認する)

宣教師ルイス・フロイスの残した白井河原合戦についての記録を補足・補正し、その合戦とそれに至る状況を復元してみたいと思います。
 前回の「キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について」の記事を元に、以下説明していきたいと思います。マーキング及び下線部分を文章の前から順に説明したいと思います。なお、『耶蘇会士日本通信』は「日本通信」、『フロイス日本史』は、「日本史」と略し、以下に論を進めます。また、基本的には『日本通信』のフレーズに対比させて、双方の訳の違いを見たいと思います。

◎フロイスが最後に和田惟政に面会したのは去る8月
これは『日本通信』の解釈が正しいように思います。フロイスの表記は基本的に洋暦で、邦暦では7月の事としています。もしかすると邦暦の6月にかかる頃かもしれませんが、いずれにしても和田・池田方との交戦は始まっていました。この一連の交戦で、高山右近の兄弟が戦死しています。

◎総督は戦争の噂ありしを以て
『日本通信』では、「戦争の噂ありしを以て」とあり、『日本史』では、「戦の最中ではありましたが」とあります。この7月頃、既に惟政は、池田方と交戦及び南山城・大和国方面へも出陣するなどしており、正に「戦の最中」でしたので、『日本史』の訳が実情に合います。

◎池田の主将は大いに此の築城を憤り
この時、荒木村重は池田家中の全権を握る立場にはありませんでした。惣領の池田勝正を逐い、村重は官僚集団である池田四人衆を再編した、池田三人衆ともいえる家政機関の一人となっていました。
 白井河原合戦ではその3名が各々1,000名ずつを受け持っていましたので、『日本史』の訳にある「荒木」は、当時の実態に沿わず、『日本通信』の訳が正しいと言えます。
 それに関する参考史料をご紹介します。年記未詳11月8日付けで、池田勘右衛門尉正村などが、摂津国豊嶋郡中所々散在に宛てた禁制です。
※箕面市史(資料編2)P411、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P17

--(参考史料)----------------------------
本文:摂津国箕面寺山林自り所々散在盗み取り由候。言語道断曲事候。宗田(故池田筑後守信正)御時筋目以って彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在り於者、則ち成敗加えられるべく由候也。仍て件の如し。
署名部分:(池田勘右衛門尉)正村・(荒木信濃守)村重・(池田紀伊守清貧斎)正秀
※実際は諱のみが記されている。
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◎池田殿は9月7日
この池田殿が領内に通知を発した日付について、『日本通信』では、9月7日であり、『日本史』では9月10日となっています。もちろん表記は洋暦です。3日間の差がありますが、前者のこれを邦暦の8月18日とした場合には、池田衆が和田・伊丹勢に大規模な反撃を行い、和田・伊丹勢に200名もの戦死者を出させる会戦があったのですが、この日が18日です。
 ですので、18日に池田衆が領内に出陣の「触れ」を兼ねた通知を行うのは不可能と思われますので、『日本史』の解釈が実態に沿っていたと思われます。
 ただ、18日から28日までを一連の出来事とも考える事は不自然ではありませんが、今のところ、そう考える根拠がありませんので、フロイスの記述と18日の会戦は別のものと考えています。
 
◎領内の高貴なる大身一同に(中略)自署の書簡を送る
この要素の訳は『日本史』では、「自分(荒木)の全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し」とあり、この訳し方が実態に合います。但し、その主体は「荒木」では無く、「池田の主将」です。主体の理解については『日本通信』の訳が正しいと言えます。このような状況ですので、原文に「荒木」とは無いのかもしれません。
 また、これに関する史料があります。年記未詳6月24日付けで池田衆が、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てた音信(『中之坊文書』)を見ると、池田家中は実際にそのような体制の時期があった事が判ります。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180

--(参考史料)----------------------------
本文:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名部分:小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、萱野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
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◎同所(ダリオが守りし城)より約3里の高槻に在りし和田に報告
この状況の理解は若干困難を来たしますが、高槻から3里の距離となれば、当然その西側で、萱野のあたりになろうかと思われます。上記署名中にも「萱野助大夫宗清」なる人物が確認でき、池田方であった事が判ります。
 和田の居た場所が高槻と言っているのは『日本通信』ですが、『日本史』では、高槻とは言っていません。原文を見る必要がありそうですが、具体的に地名を原文に書いているなら、このような訳の違いは出ない筈で、この部分は次の文脈を考えて、意訳されているように思えます。
 ですので個人的には、高山飛騨守ダリオ(右近の父)が、和田に通報した居場所は高槻では無く、別のところだった可能性を考えています。前述の合戦、和田・伊丹勢が200名もの戦死者を出す会戦をしている事から、惟政は猪名川の西側や吹田などのあたりで、態勢を立て直すための準備を行っていたのではないかと考えています。
 高山ダリオはその場所に居た惟政に、池田衆の動きを急報したと考えられます。高槻城には700程の僅かな控えの兵を残して惟政が出陣していたため、惟政は池田方のこの動きに至急の対応を迫られたのでしょう。惟政はギリギリの人数で、池田城攻略を行っていたと見られます。というのは、大和国方面の筒井順慶支援のために、細川藤孝など幕府勢は、そちらへの対応を行っていたからです。ですので、伊丹衆と連合で池田を攻めていたのです。
 池田衆が出陣したのは8月22日早朝で、白井河原合戦の同月28日までには実際のところ、6日間あったわけですから、惟政は急遽1,500程は掻き集める事ができると考え、手配を行っていたのでしょう。元数は700ですので、それに800の加勢です。
 その状況が『日本史』にある、「武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき」で、また、「なぜならば他の家臣はすべて、そこから、3〜5、乃至8里も遠く離れたところに居たからでした」との記述要素は、兵の招集に関する事を示すものだろうと思われます。

◎徒歩にて来れる其の子の後陣を待たず
『日本史』では、「息子と共にやって来る後衛を待つ事無く」とのみあります。「徒歩」の言葉が元々あるのか、無いのかは今のところ不明ですが、意訳かもしれません。「徒歩」なのかどうかで、ちょっと状況が変わってしまいます。
 惟政の嫡子惟長は、歩兵を連れて来る予定だったのか、馬の数が不足していたのかもしれません。はたまた、惟政が考えあって馬を使い、先に出たのでしょうか。

◎1,000名以上の兵が向かって来るのを認める事無く
『日本史』の訳し方が、ちょっと実感の涌かないものですが、『日本通信』では、「対陣しし敵1,000名の外認めざりしが」とあるので、こちらの方が自然な訳で、実態に合います。
 池田勢の荒木村重は、囮となって1,000名を露出させ、他の兵は伏せていたのですから、惟政が敵数の目算を誤った事を表現するには何ら矛盾はありません。伝聞記録ですが、この時の村重について、新参だったために囮役を買って出たとするものがあります。また、池田三人衆の一人である、池田紀伊守清貧斎正秀は、織田信長にも賞された老練な武将です。よく練られた作戦を白井河原合戦でも実行したのでしょう。
 この作戦で惟政は「大膽(胆)勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ又、武術に達したる武士」を選抜して先駆けていた事もあって、池田勢の思惑通りに功を奏しました。それからまた、惟政が「大胆勇猛」だったとしても、敵情の確認とこの先の予定等を考えて、何らかの勝機を見出したと思われます。
 一方で、惟政程の武将が、自分の率いる兵の数を勘違いする事は絶対に無いと思います。そんな基本的な事も出来ない様では、戦になりません。

◎同朝(8月28日)住院の一僕を
『日本史』では、「そして朝方、都の家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして」とあるのですが、これも当時の状況として首を傾げます。フロイスは、堺から京都に向かうために、その途上の河内国讃良郡三箇の教会に居り、そこで白井河原合戦を目撃しています。
 一行の目的地は京都ではありましたが、都(京都)の家僕が既に三箇へ来ていたのか、はたまた、そうでは無くて、三箇から京都へ遣いをやり、そこから高槻に向かわせたのでしょうか。しかしそれでは、時間も手間もかかり過ぎます。残念ながら、そこまでの事は『日本史』の訳からは読み取る事ができません。
 それに対して『日本通信』では、「住院(三箇)の一僕をダリオ(高槻方面)に遣わし」とあり、これならば状況は理解できます。三箇から高槻方面は4里(16キロメートル)ですから、徒歩では1里に1時間として、4時間程で高槻へ到着できます。馬ならもっと早く着けるでしょう。朝早く三箇を出て、午後4時頃には高槻方面から戻って来れるでしょう。
参考:河内国讃良郡にあった三箇城
参考:旧三箇村歴史案内ツアー
 
◎12時間小銃の音を聞き
『日本史』では、「私たちはそこから銃声を聞き、1・2時間ほどの間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ました」としています。これは訳のニュアンスの違いでしょう。実際には1ヶ月以上、高槻周辺で交戦が行われていましたので、そんなに短時間で銃声は止まなかったでしょう。同書では、「2日2晩」に渡って高槻周辺が燃え上がるのを見たと、言っています。

◎都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる
『日本史』では、「五畿内の彼の全く高貴な貴族達が運命を共にした事」とあります。京都には様々な人材が近隣諸国から集まりますので、そういった人々が惟政に登用されたりしていたのでしょう。勿論、その中には土豪や身分のある人物も多く居たと思われます。また、茨木や郡などの国人とも結びつきを深くしていたようです。







2013年10月23日水曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について)

キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記述を読み解くにあたり、何からご紹介すればいいのか、要素があり過ぎて悩むところがありますが、先ずは、各々の資料を上げておきたいと思います。
 双方は、概ね同じ流れと内容ですが、少し違いがあります。ポルトガル語ですが、原文を見ないと何とも言えないところがありますが、訳に微妙な差があります。その部分を淡赤色(アンダーライン)でマーキングしておきますので、読み比べてみて下さい。
 今回は、フロイスの記事中の白井河原合戦の部分だけを抜き出してあります。全文をご覧になりたい方は、出典を辿り、図書館などでご覧下さい。


『耶蘇会士日本通信 下 -(西暦)1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡-』----------------
※この訳本は、初版が昭和3年に発行されたもので、口調も古語調になっています。

(前略)
予が最後に面会したるは去る8月(註:元亀2年7月)、戦争に於て殺されたるダリヨ高山殿の一子埋葬の為、イルマン・ロレンソと共に当地より摂津国に赴きたる時にして、高槻の城より四分の一レグワの所に到りて、予はロレンソを総督(和田惟政)の許に遣わして、時既に遅く、当時此の道路に殺人及び掠奪多く行われ、我等は聖祭の器具を携帯せるを以て不幸に遭遇せんことを恐るるが故に、危険の場所を通過するまで兵士数人を我等と同行せしめん事を閣下(総督)に求むと云わしめたり。
 総督は戦争の噂ありしを以て、多数の武士と会議中にて非常に忙しく、書記2人は毎時間受領せし多数の書簡に対する返答を認めたるが、ロレンソの入るや、パードレは何処にあるやと尋ねたれば、
(中略)
総督は彼の敵にして、多数の甚だ戦を好める兵士を有する領主池田の領土に接して、今新たに2城を築造せり。池田の主将は大いに此の築城を憤り、之を囲みて陥落せしめ破壊せんと決心せり。
 而(しかり)して和田殿彼に対して直に出陣すべきを確信し、池田殿9月7日(註:元亀2年8月18日)領内の高貴なる大身一同に假令下賤なる者なりと雖も此の戦争に於いて和田殿の首を斬りたる者には1,500クルザードの収入を与うる事を約する自署の書簡を送りたり。
 翌日早朝此の敵は、3,000の兵士を3隊に分ち、新城のひとつを攻囲せん為出陣せり。該城はキリシタンなるダリオ其の一子及び少数の兵士と共に之を守りしが、敵の来るを聞き、急使を以て同所より約3レグワの高槻に在りし総督に報告せり。総督は大膽(胆)勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ又、武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき。総督は(中略)、先頭に立ち、前に述べたる200の武士之に随い、500人は少しく後方に約18歳なる総督の一子(註:太郎惟長)と共に進みたり。
 総督は計数を誤り、1,500の兵士共に城を出ずべしと思いたれば、敵が如何に多数なりとも少しも恐れず、新城に達する前約半レグワの所にて敵を認め、一同を下馬せしめ、徒歩にて来れる(徒歩にて戦う日本の習慣なるが故に)其の子の後陣を待たず、彼の200人を率いて敵を襲撃せり。彼は此の時対陣しし敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏したる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督の対手勇ましく戦い、(中略)。
 彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16歳の甥(註:茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。
 和田殿の子は高槻の城に引返せしが、総督死したるを聞き部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ少数なりき。

此の不幸なる戦争の当日、予は同所より4レグワの河内国讃良郡三箇の会堂に在りしが、同朝住院の一僕をダリオの許に遣わし、途中危険なるが故に、我等の為に総督より護衛兵を請い受けん事を依頼せり。聖祭終わりて12時間小銃の音を聞き、又周囲の各地悉く延焼せるを見しが、何事なるか知らざりき。僕は午後に至り、此の不幸の報せをもたらして帰り、我等に総督及び都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる事、並びに高槻の城に着きし時、其の子敗戦して退き来たりしを見たる事を告げたり。ダリオ高山殿及び其の子が、新城に籠り居て此の戦争に死せざりしは我等の主を称賛すべき事なり。
(後略)
---- (耶蘇会士日本通信 部分抜粋 終わり)----------------------


『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』----------------
(前略)
私が最後に和田殿にお目にかかりましたのは、去る8月の事で、時に私は戦争で殺された高山ダリオ殿の一子を埋葬するために、ロレンソ修道士と共に都から津の国に赴いていました。
 私達は、城の一方から四分の一里離れたところまで来ました時に、ロレンソ修道士を遣わして奉行(和田殿)にこう申させました。
(中略)
奉行は戦の最中でありましたが、大勢の武士達、また、刻々として殿の諸城から届けられる色々の書状に返書をしたためる自分の2人の秘書との協議で多忙を極めていました。
 ロレンソが入って来ますと奉行は、伴天連はどこにおられるか、と彼に訊ねました。
(中略)
奉行は新たに、池田領との境に近いところに2つの城を築きました。同領は、和田殿の敵であり、多数の甚だ好戦的な家臣を有する荒木と称する殿に属していました荒木はそれらの城が築かれた事にひどく激昂し、和田殿は、早速自分に対して出陣するのは確実であると思いましたので、それらを包囲接収し、且つ、破壊しようと決心しました。
 当9月10日(邦暦8月21日)、荒木は自分の全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し、たとえ身分がいかに低かろうとも、此の度の戦いにおいて、和田殿の首級を挙げた者には、何人であれ1,500クルザードの禄を授けるであろうと知らせました。
 その翌日早暁、荒木は上記の城の一つを包囲するために、精選した自分の兵士3,000を3隊に分ち、これを率いて出陣しました。その一城には、城主として高山ダリオ殿と息子のジュスト右近殿が幾ばくかの家臣と共に居ましたが、そこで哨兵達から敵が来襲したとの報せに接しますと、ダリオは直ちにそこから3里の所に居た奉行に通報致しました。
 和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な戦士達でありました。しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に居ました700名あるかなしかの兵卒を率いて、直ちに出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たからでした
 奉行は、(中略)。前衛の先頭を騎行しました。(中略)。彼は前記の200名の貴人だけしか伴っておらず、他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の1人の息子(太郎丸)と共に後衛として後に続きました。
 和田殿は計数を誤り、自分達は、城から1,500名の兵を率いて出陣したものと思い込んでいましたので、敵が率いてくるかも知れぬ軍勢の数を恐れてはいませんでした。それ故彼は敵勢を、城から半里ばかりのところで認めますと、息子と共にやって来る後衛を待つ事なく、一同を下馬させ(交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから)、そして敵方から自分の方へ1,000名以上の兵が向かって来るのを認める事無く、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。そして彼らは見つかると忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、敵方は真ん中に捉えた相手方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。(中略)。
 奉行と共に、かの200名の貴人も全員討死にし、殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは、池田からはそれ程多くが出陣したのでした。

和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。

この不幸な合戦の当日、私はそこから4里離れた河内国讃良郡三箇の教会にいました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。そして朝方、都の家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして、道中が危険なので、奉行から私達のため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私達はそこから銃声を聞き、1・2時間程の間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達にはそれが何であるかは知る由もありませんでした。ところが、やっと午後になって前記の家僕がこの悲報を持ち帰って、奉行が戦死し、彼と共に、五畿内の彼の全く高貴な貴族達が運命を共にした事、そして彼(家僕)が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。
 この合戦にあたって、新城に居た高山ダリオ殿とその息子ジュストが共に殪れなかった事は、我らの主(デウス)のお取計らいでありました。
(後略)
---- (フロイス日本史 部分抜粋 終わり)----------------------


次回は、上記の資料を元に、訳の違いを含め、更に日本側の資料を併せ見て、当時の状況を復元してみたいと思います。






2013年10月17日木曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その1:日本側に残る資料群)

摂津国豊能郡高山村出身とされる高山右近は、非常に有名でありながら、謎の多い武将でもあります。
 荒木村重の家臣となり、有力な武将となる以前については、詳しく判っていません。そんな高山右近が、元亀2年8月28日に行われた白井河原合戦とそこに至る活動に関わっている事が、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した報告書と、彼が後に編纂した『フロイス日本史』の中に記述されています。
 ただ、フロイスは外国人であるために、起きた出来事をその意味を含めて正確に把握しているとも言えず、また、敵味方の主観的な見方も極端なところがあって、この記述のみで全てを言い表しているとはいえないのも事実です。他の記録類も同様に、「真実とは何か」という、そもそもの価値をどう定義するかにもよるのですが、やはりそれは対象についての記録を全て見比べる事でのみ真実の描写が可能であり、本来、記録とは、自分(記録者)の目線以上でも、以下でも無いのです。
 特に合戦という出来事については、残った記録と地形・気象、それらを取り巻く背景(政治・経済・権力など)を総合的に見る事で、「その時」が見えて来るのだろうと思います。真実とは、それでなければ見えないものと感じます。調査不足、それから自分の対象への偏見、無学のある内は、いくらそれについて語ろうとも矛盾が多く、決して真実に至る事ができません。
 これは他のどんな分野でも同じ事が言えると思います。その探求が、いわゆる「科学」であり、歴史の分野は、その元は科学であって、私個人的には「歴史科学」と捉えています。

前置きが長くなりました。高山右近と白井河原合戦についての本題に移ります。

『フロイス日本史』などによると、高山右近には男子の兄弟があったようで、その一人が元亀2年(1571)7月頃に戦死しているようです。
 これについて『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』や『耶蘇会士日本通信 下 -(西暦)1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡-』には、詳しく記述されています。
 先にも触れたように、フロイスは外国人であるために、民俗性や五畿内特有の習慣等を踏まえていない場合や記憶違いなども記述に多々見られます。ですので、他の日本側の史料(資料)と照らし合わせる事で、その間違いを補正する事ができます。
 それから更に、フロイスの元の記述は外国語です。それを訳してもらったものを私達は資料として読んでいるのですが、その訳の感覚も時代や担当者などの人によっての違いがあります。それらの要素も補正する必要があります。

先ず、日本側の当時の資料群を見、その時に何があったのか、フロイスの記述の空白と間違いを補う元にしたいと思います。それに並行し、『フロイス日本史』などにある関連部分を、それぞれ抜き出してみます。同じ部分を『耶蘇会士日本通信』から抜き出して比較してみたいと思います。
 
このテーマも結構長くなりそうなので、いくつかに分けて述べてみたいと思います。
 論点の主要素となる、ルイス・フロイスの記述の分析の前に、日本側の各資料から白井河原合戦に至る背景を見てみたいと思います。
 
日本側に残る資料では、元亀2年中の和田惟政・池田衆・高槻方面、その関連について時間経過を追ってみたいと思います。

--(元亀2年中の時間経過)---------------------------------

2/5   三好三人衆方本願寺光佐、和田惟政との誼について返信せず
2/5   三好三人衆方荒木村重など池田衆、堺商人の茶席へ出座
3/5   三好三人衆被官木村宗治、松永久秀などを訪ねる
3/19  三好三人衆方池田正秀など池田衆、堺商人天王寺屋の茶席へ出座
3/22  三好三人衆など、河内国若江城の松永久通を訪ねる
5     和田惟政、三好三人衆方安威城を落す
6/2   三好三人衆方細川晴元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
6/6   三好三人衆方松永久秀、「渡出」などへ音信
6/10  和田惟政、吹田城を落とす
6/中旬  和田惟政など、原田城を落とす
6/23  和田惟政、牛頭天王(現原田神社)へ禁制を下す
6/24  三好三人衆方池田衆、湯山年寄中へ宛てて音信
7/8   和田惟政、三淵藤英などとともに山城国木津へ出陣
7/11  和田惟政、大和国へ入る
7/12  和田惟政、奈良周辺で交戦
7/15  三好三人衆方松永久秀、高槻方面へ出陣
7/20  和田惟政、高槻城へ戻る?
7/21  和田惟政、京都へ入る
7/22  和田惟政、高槻城へ戻る
7/22  三好三人衆方松永久秀、高槻方面から撤退
7/23  三淵藤英・細川藤孝、高槻方面へ出陣
7/26  三淵藤英、南郷春日社に宛てて禁制を下す
7/26  三淵藤英、南郷春日社目代へ音信
7/下旬  細川藤孝・池田勝正など、池田城を攻める
8/1   三淵藤英、牛頭天王へ禁制を下す
8/2   池田勝正、原田城へ入る
8/3   三好三人衆方松永久秀、大和国辰市で大敗
8/7   細川藤孝など、筒井順慶の援軍として奈良へ出陣
8/18  和田・伊丹勢、池田周辺で交戦
8/21  三好三人衆方池田衆、出陣の触れを出す
8/22  三好三人衆方池田衆、東へ向けて出陣
8/27  和田惟政、幣久良山に陣を取る
8/28  白井河原合戦
8/28  三淵藤英、高槻城へ入る
8/29  三好三人衆方池田勢、白井河原周辺諸城を攻撃
9      総持寺が焼ける
9/4   三好三人衆方淡路衆、大坂周辺などへ上陸
9/6   三好三人衆方池田勢、幕府勢に局地的に敗北
9/9   交渉が成立し、池田・幕府勢と停戦となる
9/13  織田信長、京都へ入る
9/中旬  吹田城、三好三人衆方池田方に復帰か
9/18  織田方島田秀満勢、摂津国へ出陣
9/24  明智光秀、摂津国へ出陣
9/25  一色藤長など、摂津国へ出陣
9/30  三淵藤英、奈良へ出陣
10    三好三人衆方中川清秀、新庄城へ入る?
10/14 織田信長、細川藤孝へ勝竜寺城の普請について指示
11/1  織田信長、高槻城へ替番の兵を入れる事について指示
11/8  三好三人衆方池田三人衆、摂津国豊嶋郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
11/14 織田信長、伊丹忠親へ通路の封鎖を命じる
11/14 三好三人衆方松永久秀、摂津国へ出陣
11/14 三好三人衆方松永久秀、河内国佐太・金田の陣にて公卿近衛前久をもてなす
11/24 三好三人衆方池田衆の池田正秀所有の茶器、堺商人の茶席で披露される
12/6  三好三人衆方松永久秀、河内国十七カ所内波志者に在陣
12/13 三好三人衆方池田正行、今西橘五郎へ音信
12/20 和田惟長、摂津国神峯山寺寺家中へ宛てて音信
12/20 和田惟長一族同名惟増、摂津国神峯山寺同宿中へ宛てて音信

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上記の出来事の意味を簡単にお伝えしておきたいと思います。

池田城を推定復元した模型
この年の初頭、三好三人衆が幕府・織田信長方に反撃するために調略を行っており、それが成功します。2/5と3/19の茶会、3/5と3/22の三好三人衆と同被官木村宗治の行動は、それによるものです。また、茶会も三好三人衆方と池田衆を更に深く結びつけるための会席です。この時、荒木村重が池田家政の中心に就いた事を三好三人衆へ紹介したものと思われます。いわば、出世の足がかりとなった会合でした。様々な打ち合わせも行われた事でしょう。
 その後、5月頃から目立った行動が起き始め、軍事衝突が再び起こります。特に6月からは和田惟政が積極的に三好三人衆方の池田衆を攻めます。これは京都とその西側地域、またそれに続く海への連絡路を塞ぐカタチとなっている池田を制圧する必要があっため、幕府・織田方の当面の集中攻撃対象になっていたものと思われます。
 一方、元亀2年は、近江国方面で、幕府・織田方は大規模な戦略行動(戦争)があって、京都周辺へ兵を割く余裕が無かったために、和田は伊丹衆と共に東奔西走します。
 池田衆を攻めつつも、奈良方面へも出陣し、松永久秀などの三好三人衆方勢力にも対応しなければなりませんでした。それが、7/8・7/11・7/12の行動です。

原田神社
さて、白井河原合戦に至る環境を見てみます。
 6月10日頃、和田は吹田城を落しているようで、千里丘陵の南側から西へ進み始めます。同月23日、和田は、牛頭天王社へ禁制を下します。これは三好三人衆方の池田衆にとって、非常に深刻な出来事で、池田氏と繋がりの深い(被官化していたいと考えられる)原田氏の拠点、原田村の祭神が牛頭天王です。ここに幕府方の禁制が下されたという事は、池田氏の主要支配地域が和田方に移った事を示します。

その後、史料は暫く途切れますが、7月23日にまた、現れ始めます。
 その前日、和田が京都から高槻城に戻ると、幕府は三淵大和守藤英・細川兵部大輔藤孝を出陣させて、増援を行います。この時に池田勝正もこれに従軍しています。幕府方は池田城を攻めるための決定がなされ、そういった作戦が立てられていてものと思われます。
春日社の南郷目代今西家屋敷
同月26日、三淵は南郷春日社に宛てて禁制を下し、今西家にも音信しています。この事もまた、池田城に居る池田衆にとっては深刻な出来事です。池田氏はこの今西家の代官請けを代々続けており、主要な収入源の一つです。この関係が絶たれたのですから、一大事です。
 また、池田家当主の復帰を目指す池田勝正にとっても、勝正の名で禁制を下す事ができず、一旦は幕府に接収されるカタチになっている事から、勝正もこの状況に将来を憂慮した事でしょう。
 同時にこの頃、池田城は攻撃されていた事と思われます。禁制が下されているという事は、その付近で戦闘等が行われるなどして、無政府状態になっていたりしたのでしょう。

翌月1日、更に三淵により、牛頭天王社に再度の禁制が下されています。
 7月下旬から8月上旬にかけて、池田領内に幕府勢力が大規模に入り、交戦が行われていたようです。結局のところ、池田城が落ちなかったため、幕府方の池田勝正は池田城の監視のために、付け城的役割を帯びた原田城へ入ります。
 他方、池田城の池田衆は激しく抵抗したものと思われます。内部の事と地形をよく知る池田勝正を付けて大規模に攻めても落ちなかったのですから、そのような状況が想像できます。
 
この一連の交戦の中で、高山右近の兄弟(高山飛騨守の子)が戦死したのではないかと思われます。
 池田衆は、6月から7月の時点では、東へ大規模に進む余裕は無かったと思われますので、高山右近の兄弟は、原田から吹田のあたりで戦死したものと思われます。

摂津原田城跡
8月2日、池田勝正が原田城に入ってからは、大きな戦闘行動は無かったようです。1週間から10日程でしょうか。また、三淵と細川は京都等へ戻ったようです。また、現在の太陽暦では、9月6日頃で、そろそろ収穫の頃です。
 それからまた和田は、伊丹衆とも連携を考え、作戦の練り直しを行っていたようです。どのような規模か、また攻め方などは詳しく判りませんが、和田は池田城を続けて攻めようとしていた事が判ります。
 これに対し、池田衆も反撃の準備を進めていたようです。同月18日、和田・伊丹勢は200名もの戦死者を出す損害を受けています。池田衆は、この時点で反撃の体制が整っていたようです。
 
今西屋敷付近の田んぼ
白井河原合戦は、この流れの中で起きたもので、より長い期間を通じてこの合戦を見れば、一連の闘争の「決戦」だったと、捉える事ができると思います。
 フロイスの記述にある和田は、優位性を急激に崩された後の立て直しに窮した姿だったのだろうと思います。個人的には、そのように分析しています。また、その記述は文字としては繋がっていますが、そこにある要素は、必ずしも連続した出来事ではありません。断片的なものが一つになっています。

それからまた、この時の当主は高山飛騨守ですが、高山父子はこの戦いの中で、「新たに築造した城に籠って生き延びた」とある事から、その頃から城造りの才能に長けた一面があり、それが幸運にも命を守ったのかもしれません。はたまた、この時の事も含め、後に城造りに関して世に名を知られるようになるための、才能を開花させるキッカケになった出来事だったのかもしれません。
 
次は、フロイスの記述をその視点で確認してみたいと思います。






2013年8月27日火曜日

1571年(元亀2)の白井河原合戦前夜

今から442年前、1571年(元亀2)の8月28日、摂津国嶋上郡の郡村付近で三好三人衆方の摂津池田勢と幕府方の和田伊賀守惟政勢が、大合戦を行いました。池田方は3,000の兵、和田方は1,000余りの兵で合戦となり、池田方が勝利しました。

ちなみに、この日付は太陰暦ですので、今でいうと10月10日頃です。

この合戦の前日の27日、双方は決戦のために陣取りを行いました。準備の整わないまま決戦を迎えようとしていた和田方に対して、池田方は万全の体制で臨みます。
 池田方は3,000の兵の内、1,000名を露出させ、敵を油断させる策を講じます。残り2,000名を伏兵として、山裾などに隠し、その内300名程が鉄砲を備えていました。当然ながら、弓も備えていたでしょうから、多数の飛び道具を使用条件の良い所に配していた訳です。
 ちなみに。露出させた1,000名の兵は、いわゆる囮としての役割で、これを荒木村重が率いていたようです。 これらは池田三人衆(旧四人衆)が1,000名ずつ率いており、中でも村重は新参でしたから、囮役を申し出たようです。

池田方はそれらを、夜の内に行ったと思われます。

それから、池田から郡村まで、どうやって3,000もの軍勢を進めたか、ですが、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した『日本史』などを見ると、3,000の兵を3隊に分けて進んだようですので、各々が別々の役割を担って進んだのかもしれません。また、軍勢を必要に応じて集中できるように、工夫して進んだのでしょう。道中、特に西国街道付近などに、和田方の拠点があります。
 池田方は最終的に、大軍を展開できる平野部で決戦を行う作戦だったと思われます。和田方にしてみれば、ここが一番良い防衛線したので、池田方は当然それを推定する訳です。それにここから先は、和田領でもあり、地形的にも兵を隠す所がありません。
 それから、池田から東へ向かうには西国街道が主要道になり、もちろんそのルートも侵攻に使われたようですが、もう一本北側に山裾を通る道があります。これは今の箕面・池田線(府道?9号線)がほぼその跡を踏襲しています。
 この道を使えば、今の茨木市宿久庄あたりまで池田家中の藤井氏などの領知ですので、隠密行動も可能だったと思われます。
 ですので、和田方は敵方の兵や行動が掴めないまま、決戦を迎える事となったわけです。
 
1年前にも白井河原合戦の事が気になって、このブログで詳しく取り上げたのですが、もう一度読み返してみて、言い忘れがありましたので、補足してみました。





2012年10月12日金曜日

和田惟政、決戦のため幣久良山に陣を取る

元亀2年(1571)8月27日、日本史上でも決して小さな出来事とは言えない「白井河原大合戦」の前日です。記録は陰暦ですので、現在の太陽暦に変換すると、本日10月12日です。
 田畑の実り豊かなこの時期に、反幕府方池田衆と幕府方摂津守護和田方が、攻防戦が繰り広げられて、いよいよ決戦のその時が近づきました。
 
この合戦で、池田衆が京都の至近である茨木方面で勝利し、京都の防衛に大きな穴が空いてしまいました。幕府方は京都を守りきれず敗走する事も十分にあり得た深刻な事態でした。なぜなら、一連の武力侵攻で池田衆が西国街道とその分岐点を押さえたからです。池田衆は、反幕府勢力であり、古巣の三好三人衆方です。

この白井河原合戦について、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した当時の報告書『耶蘇会士日本通信』には、その様子が詳しく記述されています。

そこには、(前略)惟政勇を恃(たの)みて聞かず、高槻を去る3里計りの糠塚に陣す。其の翌日、即ち元亀2年8月28日に惟政は、白井河原に突撃して村重らの軍と戦い、(後略)とあります。

白井河原の合戦は、早朝から行なわれていたようですので、前日に池田衆と和田惟政は陣取りを終えていたと考えられます。池田衆は今の茨木市郡のあたりに陣を取っていますが、ここに陣を取るには、宿久庄城や里城(佐保城)などを既に落としていたと考えられます。
 対する和田惟政は、自軍の体制が整わない中で快進撃を続ける池田方を口惜しく思いつつ、幣久良山(てくらやま)に陣を取り、池田衆の様子を見、諸方への連絡等、手筈を整えていたようです。
 惟政は、池田衆に不意を衝かれ、不本意ながらも白井河原付近まで池田衆の侵攻を許してしまいました。惟政は要害性があり、守りに適したこの付近で、池田衆の前進を阻む事ができると考えていたものと思われます。
 
池田衆は夜の間に伏兵を配し、惟政を誘き出す作戦に全力を尽くし、この先鋒に荒木村重が就いていたようです。村重は翌日の合戦で期待通りの活躍を見せ、近隣に名を知られる武将となります。

兎に角、双方共に「明日はいよいよ決戦」との決意を堅め、陣を周到に組んでいたと考えられます。

詳しくは、「白井河原合戦について」の項目をご覧下さい。


摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)




2012年8月28日火曜日

元亀2年8月28日の白井河原合戦の事

元亀元年(1571)8月28日の早朝、今の大阪府茨木市郡付近で三好三人衆方池田衆と幕府・織田信長方和田伊賀守惟政勢の合戦があり、池田衆が勝利しました。今から441年前です。

詳しくは昨年、「白井河原合戦に至るまで」として詳しく書いてみました。ご興味のある方は、ご覧下さい。

さて、今年は、ちょっと合戦の様子についてご紹介してみようと思います。
 白井河原合戦については、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの上司に宛てた現地報告書の中に詳しく書かれています。また、こういった報告書をフロイスが後年、再編集し、内容に修正等を加えたものが『(フロイス)日本史』として発行されています。
 前者は、『耶蘇会士日本通信』として、戦前に訳されて刊行されたものがあります。『日本史』は昭和53年になって発行されたもので、 『耶蘇会士日本通信』の誤訳を補完する役目も持っています。
 しかし、 『日本史』の方も昭和50年代の研究を元に訳されて、細かな人物関係や日時などには間違いがあり、また、本文そのものも少々訂正すべき所があるようで、それらを正すべく更に『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』など一定の年ごとに区切った訳本が発刊されてもいます。
 発刊される毎に発展しているのですが、地域権力についてはまだ全国的に周知されるに至らず、特に池田衆と和田勢の戦争である白井河原合戦については、今も間違いは正されいません。

白井河原合戦跡地(北を望む)
『(フロイス)日本史』では、この時の池田衆内の主導者として、池田知正と荒木村重が統一表記されているのですが、実際は、池田三人衆という勢力があって、その三人が当主を置かず合議統治していたのが実情です。この点では『耶蘇会士日本通信』の訳し方の方が正しいと言えます。
 この時の 池田家の主導者は池田勘右衛門尉正村・池田紀伊守(清貧斎)正秀・池田(荒木)信濃守村重です。これらの人物はいわゆる「家老」で、その下というか同列にも近いカタチで上位の武士がおり、その中に池田知正や中川清秀、池田正行などが含まれていました。
 この池田三人衆はそれぞれ1,000名程の軍勢を受け持ち、白井河原合戦に動員しています。池田家の実際の動員数はこれよりも多かったと思われます。全部を出陣させて、本拠地や重要地点を空にする分けにいきませんので、いくらかは残す筈ですので。

さて、白井河原合戦は、記述によると早朝から行なわれていた事がわかります。『(フロイス)日本史』の記述(第41章(第1部94章):和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛、ならびにその不運な死去について)を引用します。

(前略)
この不幸な合戦の当日、私はそこから4里(16キロメートル)離れた河内国三箇に居ました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。そして朝方、都の家僕を一人、高山飛騨守ダリオ(和田惟政家臣)のところに遣わして、道中が危険なので、奉行(和田惟政)から私たちのため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私たちはそこから銃声を聞き、1・2時間ほどの間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私たちにはそれが何であるかは知る由もありませんでした。
 ところがやっと午後になって遣わした家僕が戻り、この悲報を持ち帰って、奉行が戦死し、彼と共に、五畿内の彼の全く高貴な貴族たちが運命を共にした事、そして家僕が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し退去して入城していた事を私たちに報告しました。
 (中略)
奉行の首級は、すべての他の殿たちの首級とともに、直ちに彼の高槻城下にもたらされました。そこへは各地から和田殿の敵達が挙って駆けつけ、大きな歓声をあげて、この度の出来事(池田衆の勝利)を祝いました。
 二日二晩に渡って、彼らは和田殿領内の、ほとんど全ての町村を焼却・破壊し、そして高槻城を包囲し始めました。
(後略)

とあります。 また、『耶蘇会士日本通信』でもほぼ同じ記述内容ですが、そこには、聖祭終わりて12時間小銃の音を聞き、又周囲の各地悉く延焼せるを見しが、何事なるか知らざりき。、とあります。

合戦が早朝から始まったと考えられるのは、戦い方を見てもそう感じさせるものがあります。

現郡山宿本陣付近南側の高低差
同じく『(フロイス)日本史』の同条を見てみます。

(前略)
和田殿は、大胆、かつきわめて勇敢でした。彼は城中(高槻)、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、もっとも勇敢な戦士たちでありました。しかし、その報せ(前線からの敵進軍中の報告)はあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に 700名あるかなしかの兵卒を率いて直ちに出陣する他ありませんでした。
(中略)
彼(和田殿)は上記の200名の貴人だけしか伴っておらず、他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の一人の息子(愛菊惟長)とともに後衛として後に続きました。
(中略)
郡山地域にある馬塚跡
彼(和田殿)は敵勢を新城から半里(2キロメートル)ばかりのところで認めますと、息子とともにやってくる後衛を待つ事無く、交戦の際には徒歩で戦う日本の習慣に則り一同を下馬させ、そして敵方から自分の方へ1,000名以上の兵が向かって来るのを認める事無く、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。
そして彼らは見つかると、忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まるとすぐ、敵方は真ん中に捉えた相手方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫るのを見、はなはだ勇猛果敢に戦いました。
(中略)
奉行とともに、かの200名の貴人も全員討ち死にし、和田殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは池田からは、それほど多くが出陣したのでした。
 和田殿の息子は、父の破局に接しますと、後戻りをし、わずかばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒たちは、奉行並びにもっとも身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者たちも同じく分散してしまいました。
(後略)

とあります。

郡地域にある馬塚跡
池田勢は、3,000の兵を出陣させ、その内の1,000名だけを露出させ、他は伏兵として山裾に隠していました。これは夜のうちに、準備をしていたと考えられます。
 また、この白井河原あたりの地形は 南北に迫る山塊の谷にあたります。勝尾寺川はその谷を流れ、その川に沿って西国街道が走っています。したがって、西国街道を通れば、南北にある山塊から俯瞰されます。そして、白井河原付近からは南の山塊(千里丘陵)が途切れ、更に大きく視界が開けます。池田衆はこういった地形を利用して、決戦を挑む事をはじめから作戦を立てていたと考えられます。


池田衆は現在の茨木市郡山から郡あたりに陣を取りました。そこに「馬塚」という陣跡が2カ所ありますが、池田衆はその両方に陣を取っていたのかもしれません。勝尾寺川、西国街道の南側です。
 和田方は、その池田衆の陣から北東にある幣久良山に陣を取り、眼下の勝尾寺川と茨木川の合流点を天然の堀としていました。ここは、明治20年(1887年)2月、明治天皇が大阪鎮台兵の演習を御覧になったところでもあり、その事の碑が立っています。
 幣久良山からは、360度視界が開けていますので、そこから北東に1キロメートル程の安威城、また、南に2キロメートル程の茨木城の様子もすぐにわかります。

宿久庄城跡推定地
夜が明けた時、和田惟政は幣久良山から池田方の陣を見て、陣形がまだ調っていないと考えたのかもしれません。すぐ西側には宿久庄城と郡山城があり、それらを池田衆が攻囲していたため、そこに手を取られているとも考えたのでしょう。
 さて、郡山から郡あたりの池田の陣形が、1,000名程を二つに分配置されていたとすると、数も大して多くは見えなかったでしょう。軍勢の配置は1点では無く、複数点置かなければ、攻守に移れませんし、補完ができません。
和田方は、200名といえども指揮官クラスの武将ですので精強です。 和田惟政は、この状況を見て、相手の体制が調わないうちに、攻めようと考えたのだろうと思います。決して勘違いでは無く、勝機を見いだしての行動だったと思います。


郡山城跡
しかし、そう思わせた池田衆の思うつぼだったのです。出撃してきた和田方に300丁もの鉄砲の一斉射撃と2,000名もの伏兵が襲いかかりました。もちろん1,000名の囮の池田衆もそれに加わります。

和田惟政率いる200名の武士は、ひとたまりもなく、全滅だったようです。

池田衆は28日から、二日二晩に渡って和田領内を打ち廻ったと、『(フロイス)日本史』などの記述に見られます。池田衆は遂に、芥川を渡って高槻城も囲み、攻め始めます。

結局、この戦いに幕府・織田信長方の兵も救援に駆けつけて、一時的に停戦などを行ないますが、 11月になっても禁制が出されていたところを見ると、この年いっぱい闘争が続いたようです。

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)




2011年9月10日土曜日

白井河原合戦に至るまで(その2:和田惟政の池田領侵攻の動き)

元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しました。
 しかし、この戦いに至るには、その前段階があります。実は池田衆は幕府方から当面の集中的攻撃対象となっており、長期の攻防で池田衆が劣勢に立たされていました。
 この池田衆は、三好三人衆方で、元亀2年5月頃に幕府方から離れて、同じく三好方へ復帰した松永久秀・三好義継と恊働関係にありました。加えて、大坂本願寺勢、和泉国衆の一部が三好三人衆方で、淡路国方面などからも本国と連なる三好勢が、随時五畿内に軍事的侵攻を行っていました。その目的は京都の奪還、則ち織田信長・将軍義昭の駆逐です。
この過程については、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、それをひも解いて行きたいと思います。
 『フロイス日本史』や『耶蘇会士日本通信』では、池田領の境近くに2つの城を築いたと記述があります。同書では、これが白井河原合戦の原因であるとの見解が示されていますが、私はこの事だけが和田方と決戦を行う直接的な理由になったのでは無く、それらの城の築造が、複数の要素の重なりの発火点になったのだと考えています。
 それから同書は、記憶違いだとは思うのですが、若干の矛盾があるように思います。外国人である事と、連続した状況を全て把握している訳ではありませんので、当然の事です。この点に注意しながら、記述を理解する必要があると思います。

さて、この池田領境界近くに築いた2つの城の場所とはどこなのか。フロイスの記述中の距離の単位には、「レグワ」とあるのですが、どうも1レグワとは、1里(約4キロメートル)にあたるようで、その事から推察すると、城の1つは、今の萱野(現箕面市萱野)あたりではないかと考えられます。
 仮に池田領を、同方面の西国街道と勝尾寺川の交差するあたりから西側と考えるなら、様々な池田方に関する構成要素と符合するように思います。この事は、今解っている事実と矛盾しないように思います。

8月22日、池田衆は3,000の兵を率いて池田城を出陣します。この頃、和田方の築いた新城を守っていた高山飛騨守が、3里離れたところに居た和田惟政に急報した、とあります。実は、フロイスはこれについて「高槻」とは書いていません。
 他の史料を見ると、この時の惟政は高槻から離れ、出陣中でした。ですので高山飛騨守は、萱野の新城からその場所に急報した事になります。
 それを考慮に入れてみると、もう一つの城があった場所とは、千里丘陵の南側の池田・和田領の境を想定できるのかもしれません。そこであれば、他の史料等からわかる池田衆の動きとフロイスの記述要素、そしてそれらの時間との一致が見られて、矛盾しません。
ちょっとフロイスの記述からは判断しがたいところもあるのですが、7月(下旬頃か)に白井河原合戦につながる一連の闘争で、高山飛騨守の息子(三男で右近の弟)が戦死しているようです。この葬儀のために、フロイスが摂津国に入っている事を記述しています。
 その高山飛騨守の息子、則ち右近の兄弟が、池田衆との一連の闘争で戦死した7月頃とは、千里丘陵の北側で話しを組み立てると、矛盾があるように思えます。更に、同丘陵の南側にこだわってみると、7月中頃から三好義継・松永久秀が軍勢を仕立てて、河内国から淀川を渡って、高槻方面に進んで、交戦しています。高槻から吹田へ繋がる線を切って、勢力の弱体化を図った行動と思われます。また、それによる、吹田などの淀川縁の確保も視野に入れていたのでしょう。
 更に同月23日、幕府衆三淵藤英・細川藤孝は、高槻方面から吹田を経て、池田の南側へ進んできます。

さて、こういった軍事行動の場合、攻める敵に対しては必ず最低2つの方向から攻めます。その事を考慮に入れると、千里丘陵の北側と南側に1ヶ所ずつ池田領との境に、和田惟政が橋頭堡的な新城を築いたのかもしれません。
 この頃、茨木・郡山は和田方として機能していましたので、千里丘陵の南北に新城を築けば補完関係も強固に維持できますし、補給も十分です。同時に、防禦的体制も兼ねる事ができます。

この事から、7月に行われた千里丘陵の南側の攻防戦で、高山飛騨守の息子が戦死したために、一旦、東へ後退。その後、池田衆が出陣する8月22日には、萱野付近の城に入っていたものと思われます。
 それから間もなく、高山衆は東進してくる池田衆と対峙しながら、東へ後退(時間稼ぎもしていたのだろう)していったものと思われます。この時池田衆は『多聞院日記』『尋憲記』にある、池田方が落とした4つの城(里(佐保)・宿久・茨木・高槻)の内、里や宿久を落とすか、攻囲して進んだのかもしれません。
 そしてまた、フロイスの記述をよく読んでみると、和田惟政が突撃前に陣を取ったらしき場所は、高山衆の入る城の近くだったと思われ、それは多分「福井」辺りの城に入っていたと考えられます。

さて、白井河原方面へ進んだ惟政は、幣久良山(てくらやま:現茨木市耳原)に陣を置きました。ここは山の直ぐ西側に佐保川がある天然の要害で、また、その北側半里(2キロメートル)程のところには、幕府衆である安威氏の本拠があります。そして南にも郡山・茨木の城があります。
 一説には、8月27日に惟政は、幣久良山(糠塚)に入ったとあります。白井河原合戦は、28日の午前中に行われたようですので、惟政が前日に入って状況を把握していたとすれば、それは史料と照合しても矛盾しません。ここは適度に広い平地もありますが、基本的には丘陵地帯で小さな丘や山が多く、しかも切り立った起伏のある地形ですので、伏兵を置くにも適した場所でした。当然、草木も茂っていた事でしょう。また、夜明けと同時に戦いを始める準備をしていたのでしょう。
 フロイスが記したように、和田方が兵を進めようと決断した環境を考えると、池田衆は和田方にそうさせるように、おびき寄せるための隙を態と作っていたと考えられます。
 この時池田衆は、下井付近に陣を取ったようです。今の郡小学校付近に2ヶ所、その跡とされる場所がありますが、どちらも陣跡だったのではないかと思います。

少し話しが前後しますが、高山飛騨守と和田惟政の動きをまとめておきたいと思います。

千里丘陵の南側の和田方新城で高山飛騨守は、交戦により息子を戦死させたために、東へ一旦後退。それが7月(下旬か)頃だったのではないかと思われます。その後、幕府勢は吹田方面を経て、池田を攻めるようになります。また、原田城に池田勝正が入る等、拠点も置き始めます。
 幕府方は三好三人衆方の拠点ともなっている池田城を制圧するため、積極的に攻め、伊丹と和田は池田を挟撃しようと出陣しましたが、8月18日の交戦で、伊丹と和田は、200余名を戦死させる敗北を喫します。そして、この時の合戦に惟政も出陣し、高槻を離れていたと考えられます。

これに合わせて高山衆は、西国街道を通す千里丘陵の北側の押さえとして、萱野に入っていたと考えられます。
 池田衆は、惟政が考える以上に力を蓄えており、8月18日の交戦では、200余名の戦死者を出すとされる、小さくない被害を受けています。重要な家臣も失ったのではないかと思います。
 その日から数日間、和田惟政は猪名川を渡って川辺郡(猪名寺・尼崎方面など)や吹田方面(庄内や江坂など)にとどまって、立て直しを図っていたと考えられます。
 一方、池田衆は池田周辺の交戦で勝利を得た事で勢いがつき、間髪を入れずに高槻を陥れるべく東進を始めたのでしょう。そして間もなく、萱野で池田衆の東進を確認した高山飛騨守は、そこから3里の距離に居た(尼崎・庄内あたりなら萱野から約3里の距離です)惟政に急報。惟政は急遽、高槻に戻り、出せるだけの兵をまとめて郡山方面に向かったのではないかと考えられます。

8月22日、池田を出陣した池田衆に対し高山衆は、郡山付近での決戦体制を整えるまでに5日間の時間を稼ぎ、要害性の高い郡山辺りで和田惟政と合流。そこで決戦し、事態を打開しようとしていたのでしょう。
 同時に惟政は兵を増強しようと各地に連絡もしていたと思われます。フロイスの記述に「惟政の家臣は高槻から3〜5里乃至8里の場所に居た」との旨の下りがありますが、その要素の指向性は、家臣の招集(動員)を描くものだったのではなかと思います。
 惟政が陣を取った場所を考えても、その事を感じさせる絶妙な場所です。幣久良山の北側には佐保・泉原・忍頂寺・千提寺・車作・音羽などに通じる街道があり、その方面の家臣の白井河原方面への着陣を予定していたのでしょうが、実際には8月28日に間に合わなかったようです。
 フロイスの記述にある、「惟政とその重臣が戦死したとの報が伝わると、家臣が散々に逃げてしまった」の旨の記述は、その事も指しているのだろうと思います。

フロイスの記述した内容の文字の間を観るならば、そのような想定もできるのではないかと思います。


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2011年9月7日水曜日

白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)

元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しました。
 しかし、この戦いに至るには、その前段階があります。実は池田衆は幕府方から当面の集中的攻撃対象となっており、長期の攻防で池田衆が劣勢に立たされていました。
 この池田衆は、三好三人衆方で、元亀2年5月頃に幕府方から離れて、同じく三好方へ復帰した松永久秀・三好義継と恊働関係にありました。加えて、大坂本願寺勢、和泉国衆の一部が三好三人衆方で、淡路国方面などからも本国と連なる三好勢が、随時五畿内に軍事的侵攻を行っていました。その目的は京都の奪還、則ち織田信長・将軍義昭の駆逐です。
この過程については、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、それをひも解いて行きたいと思います。
 『フロイス日本史』や『耶蘇会士日本通信』では、池田領の境近くに2つの城を築いたと記述があります。同書では、これが白井河原合戦の原因であるとの見解が示されていますが、私はこの事だけが和田方と決戦を行う直接的な理由になったのでは無く、それらの城の築造が、複数の要素の重なりの発火点になったのだと考えています。
 それから同書は、記憶違いだとは思うのですが、若干の矛盾があるように思います。外国人である事と、連続した状況を全て把握している訳ではありませんので、当然の事です。この点に注意しながら、記述を理解する必要があると思います。

さて、この池田領境界近くに築いた2つの城の場所とはどこなのか。フロイスの記述中の距離の単位には、「レグワ」とあるのですが、どうも1レグワとは、1里(約4キロメートル)にあたるようで、その事から推察すると、城の1つは、今の萱野(現箕面市萱野)あたりではないかと考えられます。
 仮に池田領を、同方面の西国街道と勝尾寺川の交差するあたりから西側と考えるなら、様々な池田方に関する構成要素と符合するように思います。この事は、今解っている事実と矛盾しないように思います。

8月22日、池田衆は3,000の兵を率いて池田城を出陣します。この頃、和田方の築いた新城を守っていた高山飛騨守が、3里離れたところに居た和田惟政に急報した、とあります。実は、フロイスはこれについて「高槻」とは書いていません。
 他の史料を見ると、この時の惟政は高槻から離れ、出陣中でした。ですので高山飛騨守は、萱野の新城からその場所に急報した事になります。
 それを考慮に入れてみると、もう一つの城があった場所とは、千里丘陵の南側の池田・和田領の境を想定できるのかもしれません。そこであれば、他の史料等からわかる池田衆の動きとフロイスの記述要素、そしてそれらの時間との一致が見られて、矛盾しません。
ちょっとフロイスの記述からは判断しがたいところもあるのですが、7月(下旬頃か)に白井河原合戦につながる一連の闘争で、高山飛騨守の息子(三男で右近の弟)が戦死しているようです。この葬儀のために、フロイスが摂津国に入っている事を記述しています。
 その高山飛騨守の息子、則ち右近の兄弟が、池田衆との一連の闘争で戦死した7月頃とは、千里丘陵の北側で話しを組み立てると、矛盾があるように思えます。更に、同丘陵の南側にこだわってみると、7月中頃から三好義継・松永久秀が軍勢を仕立てて、河内国から淀川を渡って、高槻方面に進んで、交戦しています。高槻から吹田へ繋がる線を切って、勢力の弱体化を図った行動と思われます。また、それによる、吹田などの淀川縁の確保も視野に入れていたのでしょう。
 更に同月23日、幕府衆三淵藤英・細川藤孝は、高槻方面から吹田を経て、池田の南側へ進んできます。

さて、こういった軍事行動の場合、攻める敵に対しては必ず最低2つの方向から攻めます。その事を考慮に入れると、千里丘陵の北側と南側に1ヶ所ずつ池田領との境に、和田惟政が橋頭堡的な新城を築いたのかもしれません。
 この頃、茨木・郡山は和田方として機能していましたので、千里丘陵の南北に新城を築けば補完関係も強固に維持できますし、補給も十分です。同時に、防禦的体制も兼ねる事ができます。

この事から、7月に行われた千里丘陵の南側の攻防戦で、高山飛騨守の息子が戦死したために、一旦、東へ後退。その後、池田衆が出陣する8月22日には、萱野付近の城に入っていたものと思われます。
 それから間もなく、高山衆は東進してくる池田衆と対峙しながら、東へ後退(時間稼ぎもしていたのだろう)していったものと思われます。この時池田衆は『多聞院日記』『尋憲記』にある、池田方が落とした4つの城(里(佐保)・宿久・茨木・高槻)の内、里や宿久を落とすか、攻囲して進んだのかもしれません。
 そしてまた、フロイスの記述をよく読んでみると、和田惟政が突撃前に陣を取ったらしき場所は、高山衆の入る城の近くだったと思われ、それは多分「福井」辺りの城に入っていたと考えられます。

さて、白井河原方面へ進んだ惟政は、幣久良山(てくらやま:現茨木市耳原)に陣を置きました。ここは山の直ぐ西側に佐保川がある天然の要害で、また、その北側半里(2キロメートル)程のところには、幕府衆である安威氏の本拠があります。そして南にも郡山・茨木の城があります。
 一説には、8月27日に惟政は、幣久良山(糠塚)に入ったとあります。白井河原合戦は、28日の午前中に行われたようですので、惟政が前日に入って状況を把握していたとすれば、それは史料と照合しても矛盾しません。ここは適度に広い平地もありますが、基本的には丘陵地帯で小さな丘や山が多く、しかも切り立った起伏のある地形ですので、伏兵を置くにも適した場所でした。当然、草木も茂っていた事でしょう。また、夜明けと同時に戦いを始める準備をしていたのでしょう。
 フロイスが記したように、和田方が兵を進めようと決断した環境を考えると、池田衆は和田方にそうさせるように、おびき寄せるための隙を態と作っていたと考えられます。
 この時池田衆は、下井付近に陣を取ったようです。今の郡小学校付近に2ヶ所、その跡とされる場所がありますが、どちらも陣跡だったのではないかと思います。

少し話しが前後しますが、高山飛騨守と和田惟政の動きをまとめておきたいと思います。

千里丘陵の南側の和田方新城で高山飛騨守は、交戦により息子を戦死させたために、東へ一旦後退。それが7月(下旬か)頃だったのではないかと思われます。その後、幕府勢は吹田方面を経て、池田を攻めるようになります。また、原田城に池田勝正が入る等、拠点も置き始めます。
 幕府方は三好三人衆方の拠点ともなっている池田城を制圧するため、積極的に攻め、伊丹と和田は池田を挟撃しようと出陣しましたが、8月18日の交戦で、伊丹と和田は、200余名を戦死させる敗北を喫します。そして、この時の合戦に惟政も出陣し、高槻を離れていたと考えられます。

これに合わせて高山衆は、西国街道を通す千里丘陵の北側の押さえとして、萱野に入っていたと考えられます。
 池田衆は、惟政が考える以上に力を蓄えており、8月18日の交戦では、200余名の戦死者を出すとされる、小さくない被害を受けています。重要な家臣も失ったのではないかと思います。
 その日から数日間、和田惟政は猪名川を渡って川辺郡(猪名寺・尼崎方面など)や吹田方面(庄内や江坂など)にとどまって、立て直しを図っていたと考えられます。
 一方、池田衆は池田周辺の交戦で勝利を得た事で勢いがつき、間髪を入れずに高槻を陥れるべく東進を始めたのでしょう。そして間もなく、萱野で池田衆の東進を確認した高山飛騨守は、そこから3里の距離に居た(尼崎・庄内あたりなら萱野から約3里の距離です)惟政に急報。惟政は急遽、高槻に戻り、出せるだけの兵をまとめて郡山方面に向かったのではないかと考えられます。

8月22日、池田を出陣した池田衆に対し高山衆は、郡山付近での決戦体制を整えるまでに5日間の時間を稼ぎ、要害性の高い郡山辺りで和田惟政と合流。そこで決戦し、事態を打開しようとしていたのでしょう。
 同時に惟政は兵を増強しようと各地に連絡もしていたと思われます。フロイスの記述に「惟政の家臣は高槻から3〜5里乃至8里の場所に居た」との旨の下りがありますが、その要素の指向性は、家臣の招集(動員)を描くものだったのではなかと思います。
 惟政が陣を取った場所を考えても、その事を感じさせる絶妙な場所です。幣久良山の北側には佐保・泉原・忍頂寺・千提寺・車作・音羽などに通じる街道があり、その方面の家臣の白井河原方面への着陣を予定していたのでしょうが、実際には8月28日に間に合わなかったようです。
 フロイスの記述にある、「惟政とその重臣が戦死したとの報が伝わると、家臣が散々に逃げてしまった」の旨の記述は、その事も指しているのだろうと思います。

フロイスの記述した内容の文字の間を観るならば、そのような想定もできるのではないかと思います。






2011年8月28日日曜日

元亀2年の白井河原合戦について


今から440年前、元亀2年(1571)8月28日、白井河原にて三好三人衆方に加担する池田衆と幕府方摂津守護職であった和田伊賀守惟政勢とで、大きな合戦がありました。場所は現在の茨木市中河原町一帯で、茨木川と勝尾寺川の合流するあたりだったと伝わります。また、当時のこの戦争の呼び名は「白井河原合戦」というものではなかったようで、後世に書かれた家伝『陰徳太平記』などの記述によって定着したようです。その当時の史料には「郡山」などとかろうじて記される程度です。宣教師ルイスフロイスの耶蘇会への報告書や後の編書『日本史』にも「白井河原」という記述は登場しません。
とはいえ、現在では「白井河原合戦」とした方が通りがいいので、便宜上、それで統一します。
それから、この当時の年月基準は、陰暦ですので、今とは少し季節が違います。毎年、2月上旬頃に旧正月がありますが、そのくらい時期がずれています。ですので、和暦の8月28日といっても、現在の太陽暦に相対させると10月上旬頃になるでしょうか。もう秋で、収穫の時期です。

この白井河原合戦は、この決戦時期も重要です。米の収穫時期に、境界争いを起こしているわけですから、米の収奪も視野に入れた領土拡張です。当時、米はそのまま社会的価値を持っており、銭と同じように扱われていました。
詳しくはまた、取り上げてみたいと思いますが、とりあえず、追々とこのブログでご紹介して行きたいと思います。

この合戦に至る迄に、池田方と和田方に闘争が繰り返されていました。池田家は、幕府の要として摂津守護を任されていましたが、この前年6月、家中の内訌により、家政の方針が転換されて、元の主筋である阿波・讃岐・淡路を束ねる三好三人衆方に加担する勢力となっていました。
 対して、和田惟政は将軍義昭の側近であり、また、摂津守護職を任される幕府の重要人物で、京都に近い摂津国嶋上郡を任される勢力でした。
この当時、摂津国内には守護が3人居り、曖昧な境界の中で、それぞれが分割統治する状況にありました。ですので、争いの火種は元々あったとも言えるのかもしれません。


白井河原合戦当日の8月28日に至るまでに、池田領との境近くに、2つの城を築いた事から、一気に決戦の機運が先鋭化されたようです。
高山右近の父飛騨守などは、父子共にその前線に入って守備していたようです。
 また、『日本史』の記述にあるその砦の場所ですが、その一つは萱野(現箕面市萱野)かもしれません。三好三人衆方の池田家に与する土豪で、萱野長門守某などの名が見られ、他にもその附近の地名を持つ粟生や安威などの名も見られます。こういった土豪が、自分達の権利を守るためもあり、池田家へ与力して和田方に対抗していたのでしょう。

白井河原での合戦に至ったのは、池田方が和田方と決戦を行い、境界争いなどを含めて雌雄を一気に解決する一方で、三好三人衆方の京都入りを視野に入れた東進も意図していたのではないかと思われます。

池田衆は3,000の兵を出陣させ、それらを3つに分けて行動させており、白井河原の決戦では計策を実行します。和田惟政は和田方領内に向けた池田勢の動きを知り、惟政は急遽200程の手勢を率いて高槻城を出陣。間もなく、息子の惟長が後詰めのため500程の兵を用意して出陣しました。和田方は砦の勢力等を入れて1,000程。しかし、和田惟政率いる正面は200程であったようです。本来はもっと多くの軍事動員が可能でしたが、とりあえず用意できる数としては、これだけだったのでしょう。それ程、急な事だったようです。
詳しくはわかりませんが、惟政には何か考えがあってか、また、機転を利かせて無理を承知で戦闘を始めたようです。フロイスの記述では、惟政の勘違いのような事が述べられていますが、老練な社会的身分の高い武将ですし、武力が仕事の当時の武士にあって、勘違いはあまり無い様に思います。多分、何か考えがあっての行動だったと思います。

結局、この戦いで、大将である和田惟政が戦死し、主立ったその被官も多くが死に、和田家の組織維持が出来なくなる程、大敗を喫します。対する池田衆の側にも少なからず死傷者が出ていたらしい記述もありますので、相当な和田方の反撃があった事が想像できます。
 池田衆はこの決戦に勝ち、和田方の居城高槻を取り囲み、近隣の茨木城・宿久城・里城までも落としたようです。その後数ヶ月余りに渡って、高槻城の攻防が続いたようですが、幕府との和睦がまとまり、何とか本拠である高槻城の落城は免れたようです。
この白井河原合戦の勝利により、池田衆は千里丘陵を越えて嶋上郡へも領地を拡大させ、権益が大きく拡がりました。また、この合戦で、中川瀬兵衛尉清秀池田(荒木)信濃守村重が活躍し、名を世に知らしめるきっかけともなりました。

ちなみに、後世の出版物などに登場する池田勝正の跡を継いだ知正が、この池田衆を率いる総大将だったとする通説がありますが、今のところ、それを実証する当時の史料は見当たらず、池田紀伊守入道清貧斎正秀・池田勘右得門尉正村・池田(荒木)信濃守村重が、池田家中政治の実質的な主導者だったと考えられます。これらは当時の史料に見られます。


<写真(上から)>
写真1:郡山の山の城から、西国街道方面を望む
写真2:高槻カトリック教会内にある高山右近像
写真3:箕面市萱野に残る旧道
写真4:池田方の陣跡とされる、茨木市に残る馬塚(同市郡山下井町にも馬塚跡あり)
写真5:高槻市伊勢寺にある和田惟政供養塔