元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方である摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。
この戦いに至るには、その前段階があります。その過程について、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、そこに至るまでの環境を確認したいと思います。
白井河原合戦をとり囲む、その外側の環境も俯瞰しておきましょう。
元亀元年(1570)12月も暮れ近くになって、幕府方であり官軍の総大将でもある織田信長が軍事的劣勢となり、三好三人衆を始め、越前国守護朝倉氏・京極氏被官浅井氏・六角氏・本願寺宗と一旦和睦を結びます。
しかし、正月を過ぎると、すぐに信長は戦端を開きます。近江国の中東部、東海道の通路を開くため、早速、信長は動きます。浅井氏被官の磯野貞昌を味方に引き入れるなどします。
1月28日、三好三人衆方の本願寺光佐は、これらの不穏な動きに早速反応し、諸門徒に檄文を発して、信長に対するよう要請します。そしてこの頃にはもう既に三好三人衆が、五畿内で行動を起こしていました。
3月5日、三好山城守康長被官木村宗治が、松永久秀を訪ねて、三好方に復帰するよう促しているようです。続いて同月22日、河内国若江城に居た松永久秀・三好義継を同じく木村宗治が訪ねています。これは調略です。
5月になる頃には三好三人衆方が攻勢を強めて、再び各地で火の手が上がり始めます。
そして、それに更なる拍車をかけたのは、中国地方の巨頭毛利元就の死去です。これを知った近隣の諸大名は、協同して毛利領内へ攻め入ります。三好三人衆・浦上宗景・尼子・大友などが毛利領境を積極的に侵すようになります。この頃、毛利氏は幕府に積極的に加担する大きな勢力でもあり、決して余裕があるわけではない幕府でしたが、共存のためにも毛利家を援助しなければならなくなりました。
状況を俯瞰すると、この環境でより京都に近く、中央政治における為政者としての実績を持っていたのは三好三人衆で、京都奪還を目指したその行動は、反幕府(将軍義昭)諸勢力への求心性も発揮していました。三好三人衆は京都の周縁部、近江・丹波・若狭・越前諸国勢力と直接的に連携できる関係にもありました。そしてこれに本願寺宗という宗教的つながりも持ち合わせています。
五畿内の中の摂津地域という部分で見た場合には、多少劣勢にも見えますが、このように三好三人衆方に復帰した摂津国池田家を取り巻く環境は、大局的には決して悲観する状況ではありませんでした。
一方、本願寺光佐の嫡子と朝倉義景の娘との婚姻の話しが進められ、同盟勢力同士の結びつきを強める動きや、7月に近江国守護の六角承禎が近江国内で挙兵して、浅井氏と連携した動きを強めます。更に、備前国の大名浦上氏は、播磨国へも兵を進め、自らの境界を拡大しようとするかたわら、幕府方勢力の牽制も行いました。
これがために幕府方摂津守護の伊丹氏は、本拠地の伊丹から思う通りに動く事ができなくなったようです。また、伊丹氏は本拠の南、尼崎方面へも三好三人衆方淡路衆や本願寺方勢力のために、警戒せざるを得なくなります。
それから三好三人衆は、権力の取り込みも積極的に行っています。将軍義昭と敵対関係にあった公卿近衛前久に接近し、また、前久自身も利害関係の一致から、積極的に三好三人衆方の政治的な動きを支えていました。更に三好三人衆は、正式な管領継承権を持つ細川昭元をも抱え、昭元自身も積極的に三好三人衆の政治的動きを支えていました。
近畿からは遠い大友・尼子・河野氏などの動きについては、まだ私の調べが及ばず、不明な事が多いので記しませんが、三好三人衆の影響力の強い、特に近畿に影響のあった大名を見てみます。
備前・美作国などを勢力圏としていた大名浦上宗景は、元々播磨国守護家の守護代的立場で(時代により離れたりすり寄ったりですが)、その縁でこの時は、置塩城の守護家筋の赤松氏についていました。
そしてその間に挟まれた龍野の赤松氏は、それと敵対し、幕府方についていました。
浦上氏は三好三人衆方と同盟し、毛利方に対する備えと東への攻勢に、自ら持てる資力を注ぎました。浦上氏は龍野の赤松氏を圧迫し、その領域を自らのものにすべく企みながら、行動します。これは、播磨国東端の別所氏にとっても脅威となります。
そしてその別所氏は、龍野赤松氏・毛利氏と同盟し、自領の西側を牽制しようとし、そして更に幕府と結んでいました。ちなみに別所氏は、この数年前には三好三人衆方の有力勢力でした。
これに対し、三好三人衆方は瀬戸内海東側の制海権を優位に保ち、更に本願寺とも連合して、幕府方勢力を圧迫します。特に三好三人衆勢は、海を渡って自在に背後へ廻り込んだり、同盟勢力に加勢を行えます。
どちらかというと、この方面では、やはり幕府方が不利、幕府方勢力は、積極的には動けない状況であったようです。瀬戸内海も多くの海域で三好三人衆方勢力が有利だったと考えられます。
幕府方の播磨国東部の勢力が、東へ動けない状況の中、三好三人衆方池田家は、京都を目指して動く事が可能となっていたのです。三好三人衆勢力全体から「駒」的要素を見ると、「本能寺の変」の明智光秀のように、京都を目指す事が可能な自由な「駒」と、それが可能な周辺環境が出来上がっていました。もしかすると三好三人衆勢力は、総合的な計画を立て、役割分担していた可能性もあります。
池田衆は、その任を勤めるべく役割りを任され、また、それに足る実力を持っていたように思えます。
さて、五畿内に近寄りつつ、更に周辺状況を見れば、丹波国内も幕府方と三好三人衆方とに入り乱れた膠着状態で、波多野・赤井に、松永久秀の血族である内藤氏などがありました。幕府方に近い丹後国守護の一色氏は、三好三人衆方の朝倉氏に加担する武田氏と対峙し、更には地理上、近江国からも侵入を受けた場合の用意も必要でした。
そして、その近江国北西部は三好三人衆方朝倉・浅井氏が優勢で、東南部も旧守護勢力である三好方六角氏が挙兵して、あなどれない数を有していました。
将軍が在京してはいても、このように、それを取り巻く状況は、非常に不安定なものでした。更に、三好三人衆方に加担する、公卿近衛前久や五山といわれる伝統的権威を持つ宗教や時宗勢力にも幕府を信用しない勢力(傾向)がありました。
この状況に対し、織田信長は武力と共に政治・外交にも力を入れていました。
三好三人衆方に協力し、一時は将軍義昭方から迫害されていた公卿烏丸光康に、知行を与える(回復)などして扶持をつけると共に、その領地を京都周縁部に設け、守りの布石の要素とします。その他、幕府内の要人などへの対応も次々と行い、人の楯を作って京都を守ろうとします。
織田信長は同時に武力も強行し、心理的な圧力・喧伝の策ともし、政権の意思力を内外に誇示します。有名な「比叡山焼き討ち」です。比叡山は当時、京都鎮護の重要な場所とそれを司る宗教組織でしたが、信長はこれに武力行使を行います。
これ以前の永禄12年春、同じく南の京都鎮護として崇められる石清水八幡に対して信長は、三好三人衆を匿ったとして、武力行使を行っています。その他、尼崎などでも大きな宗教組織や町衆組織も同じく、交渉が決裂すると、ためらわず武力行使を敢行しています。ですので、「タブー」に手をつける信長のイメージは比叡山のみではありません。
また信長は、決して準備の整わない行動はせず、越前朝倉征伐の折、正式に朝廷から許しを得た「官軍」の社会的大儀を維持し、更に同年暮の和睦も、朝廷との関係を保ちながら行うという、政治的後ろ盾も保持していたからこそ可能だった「比叡山焼き討ち」だったのです。
「比叡山といえども官軍(朝廷)に弓を引く者は、信長が代って成敗する」という状況だったのでしょう。戦の勝ち負けは、今も昔も変わらず、公的意味合いが大きい程、有利といえます。更に、その公的意味合いを継続させる努力も重要です。組織的にも、その外側の社会にも。
京都を囲む軍事情勢は、元亀2年の冬頃まで幕府方が劣勢でしたが、9月のこの「比叡山焼き討ち」を境に同方面では、三好三人衆方との形勢が徐々に逆転し始めます。
しかし、白井河原合戦の行われた頃は、幕府方が劣勢の中で人員をやり繰りする厳しい状況で、京都を維持すべく苦闘していました。和田惟政はそんな中で、池田衆と決戦に挑まなければならなかったのです。
この戦いに至るには、その前段階があります。その過程について、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、そこに至るまでの環境を確認したいと思います。
白井河原合戦をとり囲む、その外側の環境も俯瞰しておきましょう。
元亀元年(1570)12月も暮れ近くになって、幕府方であり官軍の総大将でもある織田信長が軍事的劣勢となり、三好三人衆を始め、越前国守護朝倉氏・京極氏被官浅井氏・六角氏・本願寺宗と一旦和睦を結びます。
しかし、正月を過ぎると、すぐに信長は戦端を開きます。近江国の中東部、東海道の通路を開くため、早速、信長は動きます。浅井氏被官の磯野貞昌を味方に引き入れるなどします。
1月28日、三好三人衆方の本願寺光佐は、これらの不穏な動きに早速反応し、諸門徒に檄文を発して、信長に対するよう要請します。そしてこの頃にはもう既に三好三人衆が、五畿内で行動を起こしていました。
3月5日、三好山城守康長被官木村宗治が、松永久秀を訪ねて、三好方に復帰するよう促しているようです。続いて同月22日、河内国若江城に居た松永久秀・三好義継を同じく木村宗治が訪ねています。これは調略です。
5月になる頃には三好三人衆方が攻勢を強めて、再び各地で火の手が上がり始めます。
そして、それに更なる拍車をかけたのは、中国地方の巨頭毛利元就の死去です。これを知った近隣の諸大名は、協同して毛利領内へ攻め入ります。三好三人衆・浦上宗景・尼子・大友などが毛利領境を積極的に侵すようになります。この頃、毛利氏は幕府に積極的に加担する大きな勢力でもあり、決して余裕があるわけではない幕府でしたが、共存のためにも毛利家を援助しなければならなくなりました。
状況を俯瞰すると、この環境でより京都に近く、中央政治における為政者としての実績を持っていたのは三好三人衆で、京都奪還を目指したその行動は、反幕府(将軍義昭)諸勢力への求心性も発揮していました。三好三人衆は京都の周縁部、近江・丹波・若狭・越前諸国勢力と直接的に連携できる関係にもありました。そしてこれに本願寺宗という宗教的つながりも持ち合わせています。
五畿内の中の摂津地域という部分で見た場合には、多少劣勢にも見えますが、このように三好三人衆方に復帰した摂津国池田家を取り巻く環境は、大局的には決して悲観する状況ではありませんでした。
一方、本願寺光佐の嫡子と朝倉義景の娘との婚姻の話しが進められ、同盟勢力同士の結びつきを強める動きや、7月に近江国守護の六角承禎が近江国内で挙兵して、浅井氏と連携した動きを強めます。更に、備前国の大名浦上氏は、播磨国へも兵を進め、自らの境界を拡大しようとするかたわら、幕府方勢力の牽制も行いました。
これがために幕府方摂津守護の伊丹氏は、本拠地の伊丹から思う通りに動く事ができなくなったようです。また、伊丹氏は本拠の南、尼崎方面へも三好三人衆方淡路衆や本願寺方勢力のために、警戒せざるを得なくなります。
それから三好三人衆は、権力の取り込みも積極的に行っています。将軍義昭と敵対関係にあった公卿近衛前久に接近し、また、前久自身も利害関係の一致から、積極的に三好三人衆方の政治的な動きを支えていました。更に三好三人衆は、正式な管領継承権を持つ細川昭元をも抱え、昭元自身も積極的に三好三人衆の政治的動きを支えていました。
近畿からは遠い大友・尼子・河野氏などの動きについては、まだ私の調べが及ばず、不明な事が多いので記しませんが、三好三人衆の影響力の強い、特に近畿に影響のあった大名を見てみます。
備前・美作国などを勢力圏としていた大名浦上宗景は、元々播磨国守護家の守護代的立場で(時代により離れたりすり寄ったりですが)、その縁でこの時は、置塩城の守護家筋の赤松氏についていました。
そしてその間に挟まれた龍野の赤松氏は、それと敵対し、幕府方についていました。
浦上氏は三好三人衆方と同盟し、毛利方に対する備えと東への攻勢に、自ら持てる資力を注ぎました。浦上氏は龍野の赤松氏を圧迫し、その領域を自らのものにすべく企みながら、行動します。これは、播磨国東端の別所氏にとっても脅威となります。
そしてその別所氏は、龍野赤松氏・毛利氏と同盟し、自領の西側を牽制しようとし、そして更に幕府と結んでいました。ちなみに別所氏は、この数年前には三好三人衆方の有力勢力でした。
これに対し、三好三人衆方は瀬戸内海東側の制海権を優位に保ち、更に本願寺とも連合して、幕府方勢力を圧迫します。特に三好三人衆勢は、海を渡って自在に背後へ廻り込んだり、同盟勢力に加勢を行えます。
どちらかというと、この方面では、やはり幕府方が不利、幕府方勢力は、積極的には動けない状況であったようです。瀬戸内海も多くの海域で三好三人衆方勢力が有利だったと考えられます。
幕府方の播磨国東部の勢力が、東へ動けない状況の中、三好三人衆方池田家は、京都を目指して動く事が可能となっていたのです。三好三人衆勢力全体から「駒」的要素を見ると、「本能寺の変」の明智光秀のように、京都を目指す事が可能な自由な「駒」と、それが可能な周辺環境が出来上がっていました。もしかすると三好三人衆勢力は、総合的な計画を立て、役割分担していた可能性もあります。
池田衆は、その任を勤めるべく役割りを任され、また、それに足る実力を持っていたように思えます。
さて、五畿内に近寄りつつ、更に周辺状況を見れば、丹波国内も幕府方と三好三人衆方とに入り乱れた膠着状態で、波多野・赤井に、松永久秀の血族である内藤氏などがありました。幕府方に近い丹後国守護の一色氏は、三好三人衆方の朝倉氏に加担する武田氏と対峙し、更には地理上、近江国からも侵入を受けた場合の用意も必要でした。
そして、その近江国北西部は三好三人衆方朝倉・浅井氏が優勢で、東南部も旧守護勢力である三好方六角氏が挙兵して、あなどれない数を有していました。
将軍が在京してはいても、このように、それを取り巻く状況は、非常に不安定なものでした。更に、三好三人衆方に加担する、公卿近衛前久や五山といわれる伝統的権威を持つ宗教や時宗勢力にも幕府を信用しない勢力(傾向)がありました。
この状況に対し、織田信長は武力と共に政治・外交にも力を入れていました。
三好三人衆方に協力し、一時は将軍義昭方から迫害されていた公卿烏丸光康に、知行を与える(回復)などして扶持をつけると共に、その領地を京都周縁部に設け、守りの布石の要素とします。その他、幕府内の要人などへの対応も次々と行い、人の楯を作って京都を守ろうとします。
織田信長は同時に武力も強行し、心理的な圧力・喧伝の策ともし、政権の意思力を内外に誇示します。有名な「比叡山焼き討ち」です。比叡山は当時、京都鎮護の重要な場所とそれを司る宗教組織でしたが、信長はこれに武力行使を行います。
これ以前の永禄12年春、同じく南の京都鎮護として崇められる石清水八幡に対して信長は、三好三人衆を匿ったとして、武力行使を行っています。その他、尼崎などでも大きな宗教組織や町衆組織も同じく、交渉が決裂すると、ためらわず武力行使を敢行しています。ですので、「タブー」に手をつける信長のイメージは比叡山のみではありません。
また信長は、決して準備の整わない行動はせず、越前朝倉征伐の折、正式に朝廷から許しを得た「官軍」の社会的大儀を維持し、更に同年暮の和睦も、朝廷との関係を保ちながら行うという、政治的後ろ盾も保持していたからこそ可能だった「比叡山焼き討ち」だったのです。
「比叡山といえども官軍(朝廷)に弓を引く者は、信長が代って成敗する」という状況だったのでしょう。戦の勝ち負けは、今も昔も変わらず、公的意味合いが大きい程、有利といえます。更に、その公的意味合いを継続させる努力も重要です。組織的にも、その外側の社会にも。
京都を囲む軍事情勢は、元亀2年の冬頃まで幕府方が劣勢でしたが、9月のこの「比叡山焼き討ち」を境に同方面では、三好三人衆方との形勢が徐々に逆転し始めます。
しかし、白井河原合戦の行われた頃は、幕府方が劣勢の中で人員をやり繰りする厳しい状況で、京都を維持すべく苦闘していました。和田惟政はそんな中で、池田衆と決戦に挑まなければならなかったのです。