| 応永年間(1394-1427)に大修理された楼門 |
そこには、非常に重要な事柄が収められており、郷土研究を進める上でも、外す事のできない伝書です。今では知り得ない久安寺の過去の繁栄と、その痕跡について、貴重な手がかりでもあります。
この著書の中で気になっている要素の一つとして、「久安寺に総門があり、それが現在の楼門から南へ2キロメートル程のところにあったと伝わる。」との記述です。
※久安寺ものがたりP93+P54
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◎外院は楼門より五十丁(約2キロメートル:誤記か。)南に総門が建てられ、様々な施設と共に僧院があったという。この様なスタイルがこの時代の仏教寺院の典型であった。
◎この門(楼門)より北には、内院として四十九院と堂塔。南側の外院は東山町。神殿(ここには一本松があったという)に総門が、また香華田(寺の運営に充てがう田)や寺院僧堂もあったと聞き及ぶ。吉田橋の東(イゴキ)に、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院。東山に松雲寺、木部に蓮台寺(現ショウノミ堂)、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。
-------------------◎伝総門の場所を特定できる有力な手がかり
上記の注釈で、「一本松があったと伝わる」との記述...。互いに意識していたとは思いませんが、それを結びつける記録があります。
※新修 池田市史 第5巻P627+P635(池田の民話一覧 28番)
-(資料2)------------------
【池田の民話一覧 28番】
琴の松(神殿の松)/ 東山町 / 東山町と中川原町の間の池田亀岡線(中川原北縁)
※地元では「こどのまつ」と読んでいたため「琴の松」「神殿の松(神をこうと読む)」の文字表記が存在すると思われます。
-------------------そこには伝承として、「神殿(こど)の松」との記録が確認できます。これは伝承と伝承の一致であり、確かな証拠として、一段階昇格する要素になるように思います。
これにより、久安寺の総門は確かに存在した可能性が高まりました。東山村の南縁、中河原村の北縁にそれはあったのです。
また、この辺りは墓石が寄せ集められて「地蔵さん」として祀られている場所が複数あり、他の地域と比べても多く感じられます。何度かこの辺りを歩いていて、「地蔵さん」がとても多いのはどうしてだろう?と感じていました。
ここで久安寺について、ザッと概要を見ておきたいと思います。
※大阪府の地名1(平凡社)P319
-(資料3)------------------
高野山真言宗。大沢山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる。
境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。おもな寺宝に安養寺旧本尊と推定される藤原時代木造阿弥陀如来像(国指定重要文化財)、同時代の薬師如来像、久安寺真名縁起、同仮名縁起、久安寺文書一巻がある。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。
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◎伝総門付近にあった村々
それから、久安寺総門があったと考えられる場所にある村について見てみましょう。先ずは、東山村についてです。
※大阪府の地名1(平凡社)P318
-(資料4)------------------
| 伝行基創建の曹洞宗東禅寺 |
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続いて、中河原村についてです。
※大阪府の地名1(平凡社)P318
-(資料5)------------------
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| 臨済宗天龍寺派松雲寺 |
元和初年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後、幕府領として続くが、文政10年(1827)より三卿の一橋領となり(川西市史)幕末に至る。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では182石余であるが、享保20年(1735)摂河泉石高調では219石余。植木栽培が盛んであった。臨済宗天龍寺派松雲寺・真宗大谷派千行寺がある。
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◎久安寺は一時的に没落している
一方で、久安寺の寺院そのものについて、再び見てみます。『久安寺ものがたり』の記述に気になる要素があります。
※久安寺ものがたりP110
-(資料6)------------------
永禄年間(1558-70)、兵乱により寺領は没収され、天正年間(1573-92)の兵火では楼門と三重塔を残し、伽藍僧堂灰燼に帰したと伝わっています。
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| 応永年間の楼門修復以前に製作された仁王像 |
上記寺伝に「永禄年間、兵乱により寺領は没収され、...。」とある部分、事実だとすれば、どの勢力によるものなのか気になります。この地域の有力武家である池田氏は、永禄年間にほぼ最盛期を迎えます。典型的な中世型武家である池田氏が、朝廷や室町幕府(足利氏)とも縁のある久安寺を潰すような行動はしないように思います。
◎久安寺と摂津池田氏の関係
この要素を以て全てではありませんが、池田氏と久安寺の関係を知る一例を挙げてみます。
※大阪府の地名1(平凡社)P610
-(資料7)------------------
【赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)】
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
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上記について、その奥書部分です。
※池田郷土史研究8-P22
-(資料8)------------------
【大般若経修補本奥書】(川西市満願寺蔵)
天文十六年丁未、池田信正以此経、奉納于摂津豊嶋郡久安寺、永禄八年池田御寅丸、同太松丸、同妙安禅尼等加修補、慶長十三年池田筑(備)後守光重、子息多聞丸重重修補(下略)同経本五二二巻奥書に、多聞丸寅年施主息災延命御祈祷、慶長十三年五月吉日
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このような記述を見れば、永禄年間頃も池田氏と久安寺は共存関係を保っていたと考えられ、その寺領を没収するような強権は発動し得ず、それを越える権力もありません。寺領没収があるとすれば、これよりも後の時代(近世)になると考えられます。それについては後述します。
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| 吉田町から出土した約2万枚の古銭(宋銭) |
一般的な感覚では、中世の終わりの最動乱期、荒木村重と織田信長の時代以降であるように思われます。
吉田村の地面下から多量の古銭が見つかるなどしており、このあたりにまで兵火や混乱が迫った事が、公的にも想定されています。ひとつの判断基準なるものと思われます。この頃だとすれば、久安寺は荒木方に付いたのかもしれません。
その復興として、豊臣秀吉が天正年間の終わり頃、あるいは文禄年間に久安寺にて「月見の宴」を催したのかもしれません。これは今のところ想像の域ではありますが...。
※久安寺ものがたりP110
-(資料9)------------------
天正の末、豊臣秀吉は久安寺に詣で、三光大膳神に祈願し珍寿山に月見の宴をはり、庭を借景よろしく庭造りの範だ、と誉めた(『摂津名所図絵』)と伝わっています。秀吉を迎えた小坂院(久安寺の塔頭)には桃山風の木戸を残し、楼門前の丹波屋(亀山街道沿いの岩崎家)には、秀吉一行の行列順を記した文書が残っています。文禄元年(1592)3月、秀吉は久安寺の塔を京の伏見城へ運び出したといわれています。(『穴織宮拾要記』)
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この頃から秀吉の寺社政策は、保護下での統制を行っており、政権は寺社後援策をとっているようです。
そして一方で、秀吉は朝鮮出兵を計画し、3月1日に出陣日を定めて、行動が始まります。秀吉自身も肥前国名護屋へ向けて出陣しています。こういった大きな動きも参考にしつつ、史料の発掘をする事も課題です。
さて、久安寺の寺院規模感で参考になる資料がありますので、それも見ておきます。久安寺に伝わる古い巻物に描かれた境内図があります。
※久安寺ものがたり巻頭資料
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| 時期は不明ながら久安寺最盛期と思われる境内図 |
これは、いつ頃のものか不明ですが、江戸時代の繁栄の様子と考えられます。再び『久安寺ものがたり』を引用します。
※久安寺ものがたりP54
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| 昭和後半まであった一本松 |
この門(楼門)より北には、内院として四十九院と堂塔。南側の外院は東山町。神殿(ここには一本松があったという)に総門が、また香華田(寺の運営に充てがう田)や寺院僧堂もあったと聞き及ぶ。吉田橋の東(イゴキ)に、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院。東山に紫雲寺、木部に蓮台寺、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。
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◎久安寺境内の外にも関連集落が広がっていた
久安寺には往時、内院と外院があり、病院施設もある「寺尾千軒」なる大集落や附属の町が、外院としてあったと伝わります。
著者の国司さんは資料(1)により「東山に紫雲寺、木部に蓮台寺、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。」としていますが、それらは行基開創の諸寺が連なる何かがあったのかもしれません。
余談ながら、久安寺川(現余野川)から北側の集落は、久安寺と直接的に山の尾根が連続しており、時代が下るにつれて(特に室町時代以降)、こちら側の地域へ影響力を増したのではないかと考えられます。また、その川の名の通り、久安寺が治水や用水の開発・管理を行っていたとも考えられます。
そしてまた、南北朝時代、南朝方の中心人物であった、北畠親房や足利尊氏と久安寺は縁があります。
※久安寺ものがたりP51
-(資料11)------------------
久安寺本尊、千手観音の両脇侍、不動明王と毘沙門天の二木造は、親房の寄進だと伝えられている。この仁王像も親房や尊氏の何らかの護持力があったのではと考えられる。尊氏の花押のある「池田荘寄進状」が保存され、池田伊居太神社社殿の修築などからも、室町時代の何者かが力を注いだのだろう。その大きな力が二王尊像を荘厳している。
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◎久安寺に城(八幡)があったと伝わる
一方で、久安寺の山内に城があったとも伝わります。
※摂陽群談(大日本地誌大系:大正5年刊行)P174、P137
-(資料12)------------------
【八幡古城】
豊嶋郡伏尾村久安寺山内にあり。多田満仲公の家臣藤原仲光在城。後に播磨守在城と云へり。氏年暦所伝未詳。山の原に麗水あり。井水の部に記す。是れ則ち城郭の用水也と云へり。
【水槽清水(みずふねしみず)】
同郡伏尾村久安寺内、城山の原にあり。是れ則ち古城の用水也と云へり。数月雨なうして水不乾。亦淫雨洪水すると云へども、濁らざるの名水也。
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| 池田市古江南公園が八幡宮跡地 |
「八幡城」とは、足利尊氏が、源氏の氏神である八幡宮を篤く崇敬し、軍事・政治の拠り所ともしていた事と無関係ではないかもしれません。
それからまた、古江丘陵の西端にある古江村には「八幡宮」があり、その東隣の片岡にある「如来寺」の山号が「八幡山」です。如来寺は、元は道場であり、江戸時代の宝暦年間に寺号を許されたのですが、「八幡」との山号は何らかの縁りがあるものと思われます。
このように、余野川(旧久安寺)以北に「八幡」を冠する呼称が少なからずあるというのは、偶然ではないように思われ、久安寺内院の東側からの地形が、古江丘陵にも連続している関係上、また防衛上も、西側への関係性を伸ばしていたものと思われます。そして、古江丘陵には、能勢街道・妙見(長尾)道・多田道を通しており、交通の要衝でもありました。
摂津池田氏が勢力を拡大する永禄年間頃は、どちらかというと久安寺川から北に久安寺勢力が浸透し、同川の南側は東山村・中河原村・木部村が独立的で、池田氏の勢力が及んでいたような構成であったと思われます。この南側、五月山の北縁は、池田氏の本拠である池田城の裏庭でもありますので、直接的な影響力を及ぼす必要があったと考えられます。
『摂陽群談』には、(前略)久安元年、近衛帝御宇再建、久安寺と改め賜勅額、賢実上人を中興開祖とす。此の時四十九院にして、七十余町の香花田あり。文禄年中没収せり。(後略)とあります。
また、文禄年間に豊臣秀吉は、久安寺の塔を京の伏見城へ運び出したとも伝わっています。(『穴織宮拾要記』)「文禄年中没収せり」との整合性も感じる伝聞です。
久安寺は非常に大きな勢力であり、新たな時代の統治には、その権力が邪魔になったのだろうと思われます。このあたりの地域は、日本国内でも有数の鉱山地帯でもあり、この近くには多田銅銀山があり、銅を大量に産出した能勢・箕面地域もあります。
◎能勢街道は摂津池田氏の地域政権にとっての基幹道であった
摂津国豊嶋郡を中心とした地域政権である池田氏にとって、その本拠地の地勢特性上、経済・軍事上、最も重視したのは能勢街道でした。
発掘調査によると、池田城変遷過程の最終段階で、能勢街道を城内に取り込む構成になっており、同街道を重視していた事が解ります。したがって、少なくとも政策として、領内にある同街道は管理・監視する必要があったと思われますので、古江丘陵のあたりがそう言う意味で、最北端の重要拠点になっていたと考えられます。
◎伝久安寺総門は伝承どおり存在した可能性は高い
細河地域を通る重要街道
今のところ、推測ではありますが、伝久安寺総門の存在有無について、まとめておきたいと思います。
しかし、この度はこれまでの資料の見直しで、有力な総門跡地が浮上しました。
総門推定場所の地図を元に、少々考察を加えたいと思います。その有無から言うと、存在した可能性が非常に高いと思われます。
そして、その場所ですが、余野街道沿いという直接的に久安寺へ向かう途上にありつつ、ここから久安寺川(現余野川)を渡って西と北への接続道があり、能勢街道・妙見道・多田道の交差点でもあります。中でも注目しているのは、中河原村から分岐した道(途中に今も中川原橋がある)を真西に進むと、能勢街道に接続しますが、その途上に古江村の「八幡社」があります。結界や道標のような役割があったと思いますし、久安寺に纏わる象徴的な意味合いもあったのではないかと思われます。
このように巨大な宗教勢力であり、都市であった久安寺ですので、楼門や総門を備えた威厳を示す時代もあったと考えて良いように思います。
場所の特定には、更なる資料集めや聞き取りなどして精度を上げる必要もあります。継続して、追求してみたいと思います。


































