2022年9月27日火曜日

「公文書管理を考える」と題した国際日本文化研究センター准教授 磯田道史氏(いそだ みちふみ)の講演は、非常に勉強になります。

2018年6月、日本記者クラブにて、「公文書管理を考える」と題したシリーズの公聴会が行われた公開動画です。その4回目に、国際日本文化研究センター准教授 磯田道史氏(いそだ みちふみ)の講演が行われました。文書管理と、印判について歴史的経緯を発表されています。磯田氏は、永年に渡り、NHKの歴史番組を担当されていますので、ご存知の方も多いと思います。

非常に勉強になる講話ですので、皆さんのご参考のために紹介しておきます。

公文書管理について、如何に厳格に行われてきたのかを知る、非常に良いお話しです。今、私たちが目にすることができる、過去の文書は、それを守り続けてきたからであり、整理されていたからであり、また、正確に記録されていたから、過去を遡る事ができるのです。これそのものが、素晴らしい事だと思います。

また、今現在のように、過去は、簡単にどこそこの文書が閲覧できた訳ではなく、このことも、知っておくべき事だと思います。その意味では、文書管理の難しい時代、平和であった江戸時代においても、固有所蔵の文書を見ることは非常に難しく、それでも歴史編纂をを行う事は、非常に難しいことだったことが判ります。

過去の経緯を知り、私たちがこれを受け継いで、次の世代に渡す事は、大きな意義があり、非常に大切な事だと思います。

 



2022年9月24日土曜日

山城国西岡地域にあった勝龍寺城について、その地域公共性、公権の城としての研究

 京都府長岡京市は、歴史的遺物、事柄の保存活用に非常に熱心な地域の一つで、様々な取組を行っており、それを市民へ還元しつつ、活力ある地域活動に活かそうとされています。

その中の一つが、毎年11月に行われる「ガラシャ祭」です。1ヶ月程の期間を設けて、様々なイベントが行われ、中でもこのガラシャ祭は、そのファイナル的な大規模イベントです。長岡京の時代祭的要素もあり、長岡京市に所在した勝龍寺城の城主でもあった細川藤孝の息子、忠興とその妻のガラシャ(明智光秀の娘)を主人公に立てて行われます。それぞれの時代の一団が、市内のメインストリートを練り歩きます。

その勝龍寺城を地域の活性化拠点ともすべく、研究が続けられており、その成果を折々に還元して、城の復元施設や書籍などにまとめられています。
 近年、世界中を騒がせたコロナ禍により、このガラシャ祭も中止されており、本年(2022)は、3年ぶりの開催となり、長岡京市民も楽しみにされているようです。

その中止の期間の間、歴史分野では、イベントの代替企画として、研究者のリレートークや研究成果の講演が行われ、中止期間中も非常に有効的に対処されたと思います。出来ることを考えて、活力の縁が切れないようにうまく企画されたと思います。

 さて、その中止期間中に行われた講演で、非常に興味深い研究発表がありましたので、このブログでも紹介しておきたいと思います。
 中世から近世への移行期、また、これまで考えられていた幕府と地域住民の関係性、遠く離れて暮らす血族と地元の絆が、時代によって、どのように維持されてきたかを一次史料から明らかにされています。
 熊本へ国替えとなった細川家と、その細川家を支える、山城国西岡地域に縁を持つ家臣の関係を解かれています。素晴らしい成果で、これまでの大名像が一変する程です。

これは、私の研究対象である摂津国豊嶋郡池田にも近く、地域性の乖離も左ほど無いと思われますし、通念的には日本全体の文化だったのではないかと思われます。江戸時代の大名は、幕府によって、地縁を切られた、いわゆる「鉢植え大名」と考えられていたことが、大きく変わる事実だと思います。

繰り返しになりますが、摂津池田でも同様の事があったでしょうから、そういった視野も以て、今後は私の研究に活かせるようになり、大変勉強になりました。以下は、その講演の模様です。2時間弱ありますが、非常に有意義な研究成果ですので、是非ご覧下さい。

◎戦国時代の西岡と藤孝・光秀~熊本に伝わった古文書を中心に~
 熊本大学永青文庫研究センター長・教授の稲葉継陽氏
【概要】
戦国時代の乙訓・西岡には、現在につながる集落ごとに国衆(地侍)たちが割拠し、向日宮や勝龍寺城を核にして、ときに「惣国」と呼ばれる自治的組織を創出しました。そこに乗り込んできた細川藤孝は、西岡の国衆、そして地域社会とどう向き合ったのでしょうか。熊本藩主細川家や西岡国衆出身の細川家臣のもとに伝えられた貴重な古文書をもとにお話します。また、西岡時代の藤孝・光秀コンビの活躍についても紹介します。

(公式ユーチューブコンテンツより)




2022年8月20日土曜日

彼ら在地領主達は、なぜ室町時代になって「国人」と呼ばれるようになったのであろうか。『備後の山城と戦国武士』に大きな気付きがありました。

 私が続けている、摂津国人池田筑後守勝正について、関係史料を追い続けています。しかし、在野でもあり、いわゆる素人ですので、その道の勉強をされた方とは、まだまだ知識量の足りないところが多々あります。また、基本的な知識も無い場合があります。あるのは、情熱だけです。
 そういうところを補うためには、やはり学ばなければなりません。その道の先生に教えを請う。先行する諸先輩方に教えを請う。既刊の書物から学ぶ。それらから知識を得るしかありません。

リンゴが落ちて、重力に気付いたように、自分自身が、そのレベルに無ければ、リンゴが落ちたとしても、何も気付きません。自分自身が学んでいなければ、何を見ても、言われても気付きません。だから、知りたければ、学ぶしかありません。

さて、私が史料を読む中で、そういうこともあると思います。知識がないために、気付いていないこと。理解していない事。それをできるだけ小さくしたいと思っています。
 時々は、業界の先生方の論文を読んだり、地域の資料館などで行われる企画展の関連出版物などで、専門家の解説を参考にさせていただき、その意味に気付く事も多々あります。

やはり、当時の法・習慣・宗教などについて、もっと学ばなければと感じます。法によって人々は活動し、宗教によって、精神的な営みを続けているからには、文書の意味、建築物の意匠の意味、生活道具の意味が正確に読み取れません。
 その意味で、今回手に入れた『備後の山城と戦国武士 - 田口 義之著 -』は、私にとって大変気付きの多い著作でした。
 私の一族は、備後国神石郡の出莊で、備後国のことについても興味を持っており、その意味で、購入しました。また、田口氏は憧れの先生でもあるため、どうしても欲しい本でした。(残念ながらこの本は絶版で、今は入手が困難になっています。)

その中で、私の研究にも非常に有用で重要な一節があり、それを改めて意識する論稿がありましたので、忘れないように、該当部分を引用させていただき、ご紹介したいと思います。国人領主の誕生と法について、非常に端的に分かりやすくまとめられています。
 私の中では、当時の法的な分野は、関心が中途半端になっていた要素でした。大切な要素だと思います。

以下、部分引用させていただきます。少し長めです。
※『備後の山城と戦国武士』 備陽史探訪の会 会長 田口 義之著 葦陽文庫刊 平成九年初版発行(現在在庫無し)

---(引用部分)---------------------------
第二章 室町時代の備後
 備後の国人 - 国人領主制の成立と室町幕府 - 
より

◎国人
室町、戦国時代でよく使われた言葉に、「国人」「国衆」がある。国人とは在地の有力武士のことで、守護等外来の支配者と違い、その国生え抜きであることを示したもの。戦国大名毛利氏も英雄元就以前は、安芸国人の一人に過ぎなかったことは有名である。
 むろん、国人は室町時代に入って突然現れたものではない。鎌倉時代の「地頭」「下司」等が南北朝の内乱を戦い抜く中で、一段と強力な在地領主として姿を現したものである。
 だがなぜ、彼ら在地領主達は、室町時代になって「国人」と呼ばれるようになったのであろうか。在地領主という点では、前代の地頭達と似たような存在に思えるのだが、実はこの点に深い意味があるのである。

◎相続法の変化
このことを明らかにするためには、「南北朝の内乱」を一つの節目とした、武士団の変質を理解する必要がある。
 一つは相続法の変化である。鎌倉時代の典型的相続法は「分割相続法」と呼ばれるものであった。これは兄弟にまんべんなく所領を譲与するもので、所領を分与された一族は、惣領(本家)である嫡子の指揮のもと、団結して事にあたった。いわゆる「惣領制」である。
 しかし、代々分割相続によって所領が細分されて行くと、一族を束ねるべき惣領の手元に残される所領は非常に狭いものになってしまい、持続が困難になって来た。又、土地を分与された庶家(分家)も惣領の力が弱まれば、その桎梏(しっこく)から逃れ、独立しようとした。
 そこで、惣領家の力を強め、惣領制を再編するために採られたのが「嫡子単独相続法」であった
 備後地毘莊(じびのしょう:比婆郡高野町から庄原市北部にかけて存在した荘園)を本拠とした山内首藤氏の例では、鎌倉末期の元徳2年(1330)3月、惣領山内通資(みちすけ)は、嫡子通時(みちとき)に「譲状」を与え「庶子等に(所領を)相い分つべしと雖も、分限狭小の間、相分せしめるに於ては上の御大事に逢うべからざるに依って通時一人に所領を譲るものである」と述べ、嫡子単独相続制を断行している。
 この場合、「分限狭小」がその理由に挙げられているが、その真のねらいは、惣領の力を強化し、自立しつつある庶家を再び自己の支配下に収めようとしたものに他ならない。
 この結果、現れたのが庶家の「被官化」、庶家が惣領家の家臣となって行く現象である。

◎庶家の被官化

田総莊(たぶさ:甲奴郡総領町一帯に存在した荘園)の地頭、田総長井氏の場合を眺めてみよう。
 田総氏は鎌倉幕府創業の功臣大江広元の嫡流長井氏の一族で、鎌倉中期に、その祖長井重広が備後国田総莊地頭職を獲得し、在名を取って「田総」を号した。重広から四代目の直干(なおひろ)の代には、備後に本拠を移し、以後戦国時代末までの在地の有力武士として活躍している。
 『田総文書』によると、貞和2年(1346)の「田総重継譲状」では、すでに嫡子単独相続法を採っており、以後代々本領は嫡子一人に相伝されている。そして、重継の曾孫広里は、室町時代初期の応永34年(1427)正月、嫡子時里に「置文」を認(したた)め、一族に対する惣領の権限を定めている。この中で広里は、
 「一、おとと共之事、一所にても候へ ゆつりせす候。その器量によんて扶持あるへく候。」
 と述べ、嫡子(時里)以外の子息には所領を分与せず、能力(器量)に応じて給分を与えるようにせよと言っている。この場合、庶家達の地位は、明らかに惣領の被官の立場に転落している
 又、以前に分家した庶家に対しても、惣領の支配権は強化されている。
 「一、親類共之中ニ格別之譲をもんて、惣領之衆儀ニちかい候ハバ、その支證立ましく候。身の扶持にて候間、中(仲)をたかわれ候ハバ、給分の事にて候間、御計たるへく候。」
 つまり、所領を分与された庶家も、惣領の命令に違背する場合は、遠慮無く所領を没収せよ、庶家の所領も惣領から「給分」として与えられているに過ぎない、というのである。「給分」とは、主君が家臣に対して与える給与のことである。
 ということはどういうことか、田総氏の場合、室町時代初期には庶子や庶家をそれまでの対等に近い存在から、給分を与える被官(家臣)の地位に引きずり降ろし、総領権を著しく強めていることがわかるのである
 この惣領制の変質と強化は、周辺の弱小武士をも巻き込んだ地域再編成となって現れた

◎一円所領の形式
土豪の被官化と一円所領の形式がそれである。
 土豪(地侍)は、地頭クラスより一まわり小規模な在地領主達で、「名字」を持ち、荘園の下級荘官、或いは有力百姓を指す言葉である。土豪は元々独立して荘園領主と結んでいたのであるが、先に述べたように有力在地領主惣領家が権力を強化すると、その武力に押され、彼等の被官となって行った。
 戦国時代、田総氏の被官森戸弾正忠実泰(さねやす)は、田総莊内井原城(甲奴郡惣領町下領家)に拠って主君田総氏の一翼を担ったが、この森戸氏なども田総莊内森戸村を名字の地とした土豪に相違無く、田総氏惣領家の勢力伸張にともなってその支配下に入った者に違いない
 もちろん、これらのことに対しては、荘園領主側の抵抗もあったが、有力在地領主達は武力を背景に土豪を手なづけると共に、「地頭請」「下地中分(したじちゅうぶん)」等様々な方法によって荘園の土地そのものも自己の支配下に収めていった。
 田総氏が採ったのは下地中分である。下地中分とは、荘園の土地を領家の支配下とし地頭の支配下に二分し、互いに干渉しないようにするもの。田総氏は嘉元3年(1305)領家と「和与状」をとりかわし、田総莊の主に西半分を地頭分として、排他的な一円所領とすることに成功した。

◎国人領主
田総氏のように庶家や土豪を自己の被官として所領を排他的に支配する在地領主のことを「国人領主」という
 そして、彼等がその領主制を確立したのが南北朝の内乱期であった
 山内首藤氏や田総氏の場合、国人領主化は鎌倉時代末期には達成されているが、彼等の場合はやや特殊な例である。山内首藤氏が備後に本拠を移した原因は東国の本領が余りにも狭小だったためで、田総氏の場合も、同氏自身の所領は備後国内に限定されており、いわば備後が本拠だったからである。
 では、一般の武士達はどうだったのか。彼等は全国各地に分散して所領を持ち、王朝国家(京都の公家政権)、鎌倉幕府という中央権力によってその権利を保障され、所領を維持してきた。しかし、南北朝の内乱はそれを不可能にした。王朝国家は分裂し、鎌倉幕府は滅亡してしまい、武士達は自己の所領を守るのは自分の力だけ、という厳しい現実に直面したのである。
 こうなると力の分散は致命的である。生きんがためにはどこか一ヵ所の所領に一族の力が集中し、その確保に全力をあげる必要があった。むろん、本拠地以外の所領は放置する以外にすべはない。山内首藤氏もこの内乱で、備後以外の所領は他の武士に押領され「不知行」となっている。
 又、この内乱は、南朝(公家一統)か、北朝(幕府の復興)か、というイデオロギーの対立でもあったが、このことは独立を目指す庶家達に絶好の口実を与えた。惣領家に不満を持つ庶家は、惣領が北朝方ならば南朝方に走るというように、堂々と自立を宣言できたのである。このため惣領家は自己の力を強化する必要に迫られ、分割相続制をやめ、単独相続制を採用したのである。いきおい、庶家は惣領家の被官と化し、土豪もその下に系列化された
 一円所領の形成も内乱のため、比較的容易に達成された。荘園領主の力が著しく弱体化していたからである。

そこで元に戻って、有力在地領主はなぜ「国人」と呼ばれたのか、考えてみよう。
 原因は、彼等の所領が備後なら備後一円内に限定されるようになったからである。つまり、前代鎌倉時代までは、全国各地に所領を持ち、「御家人(将軍の家来)」、或いは「非御家人(御家人以外の武士)」としか呼びようがなかった武士(在地領主の意)達も、自らの所領が一国内に限られるに従って、某国の住人、「国人」、或いは「国衆」と呼ばれるようになったのである。
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『備後の山城と戦国武士』 備陽史探訪の会 会長 田口 義之著


2022年8月15日月曜日

摂津国池田の地域権力と社寺などの宗教勢力について、あれこれ思索(備忘録)

 自分の中の考えの整理、備忘録として、あれこれと雑感を書いてみます。

先月、20年ぶりくらいに、勝竜寺城(京都府長岡京市)を訪ねました。新たな発掘成果などを元に、復元遺構などがあって、大変興味深く見学させていただきました。中でも、長岡京市の市制50周年事業(2020年)として、勝竜寺城の関係資料集(『勝龍寺城関係資料集 -長岡京市歴史資料集成1-』:長岡京市教育委員会)があり、買い求めました。資料中に仁木・馬部両先生の論稿が収められており、私にとっては多くの気づきがありました。

その中の仁木先生の論稿中、「守護方拠点としての勝龍寺」章に、「諸国において、この時代の守護所が固有の建物ではなく、寺院の間借りである事例が多いことは既に論じられている。勝龍寺は、山城一国の守護所ではもちろんないが、守護方の郡レベルの支配拠点であったことは確かであろう。この時点では臨時的なものである可能性も高いが、のちに勝龍寺が帯びる「公的な性格」を既に孕んでいたともいえるだろう。」との一節があり、これには私の疑問に対する、非常なヒントがありました。

摂津池田家が、箕面寺(大阪府箕面市)に対して、惣領の代替わり、地域争乱時(禁制)、何らかの地域関係の通達、等々を出す場合、時代を経ても定型文であったり、宛先が箕面寺(豊嶋郡・政所宛なども)である事が多いのは、箕面寺に郡役所的な性格もあったのではないかと考えました。
 前述の仁木氏の論稿中の「寺院の間借り」の概念を知る前から、摂津国豊嶋郡を治めていたと思われる動きを感じており、摂津池田家と箕面寺の関係が非常に深い事に注目はしていました。しかし、それがどんな関係なのかは、理解していませんでした。それが、『勝龍寺城関係資料集』によって、認識のメドが立ちました。

古代寺院や山岳寺院と地域権力の関係や城郭の発展過程は、多くの研究がありますので、これからは、それらを読み進めて、摂津池田での、その動きについても考えてみたいと思います。

現代社会と中世社会の宗教の社会的役割りは全く違います。現代感覚で宗教を見ることはできませんし、通信事情や政治権力、協働関係は、考慮するべき必須要素だと感じます。
 勝尾寺・箕面寺の他、摂津池田家の膝元としての大寺院は、久安寺(池田市伏尾)があります。また、時代により盛衰はあるものの、他に大広寺(池田市綾羽)・弘誓寺(同市綾羽)・寿命寺(同市西本町)・常福寺(同市神田)・禅城寺(同市宇保)などの関係も、地域権力としては良好を保つ必要があったと思われますし、一体化的な協働宇関係もあったのではないかと思われます。池田一族の中には、僧も居り、これらとの関係維持も目的化(双方の調整役的な)していたところもあるのではないかと思います。

これらの組織と良好な関係を築く事に、権力は腐心していたと考えるのが自然で、このいかんで、勢力の拡大縮小の趨勢が決まったと感じています。
 今後は、こちらの方面も調べを深めたいと思います。

2022年8月13日土曜日

摂津原田城についてのご紹介(城主(土豪)とともに城館の変遷がわかる遺構としては大変貴重)

16世紀後半の推定復元図
16世紀後半の推定復元図
摂津国豊嶋郡内にあった、原田城について、詳しく取り上げていなかった事に今さら気付き、先ずは記事を作った次第です。
 それについて、豊中市教育委員会発行の『原田城跡(豊中市指定史跡)・旧羽室家住宅(国登録有形文化財)』という案内パンフレットが、非常に端的に、簡潔にまとめられて分かりやすいので、こちらから抜粋してご紹介できればと思います。

摂津原田氏とその城について考える」という、特集も中途半端に終わっており、これを機に、完成させたいと思います。

原田氏は、能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場するのが、1279年(弘安元)のようで、池田氏とほぼ同時期に頭角を表して来るようです。原田氏は北から南下、池田氏は南から北上して、最終地に定着するという、イメージです。また、応仁の乱を経て、次第に経済・軍事力の差がつき、池田勝正が池田家の惣領となる1563年(永禄6)頃には、池田家の被官的情況に変化しています。また、池田勝正も原田城に度々入っていて、池田とは一心同体の存在であったようです。姻戚関係なども持っていていたのかもしれません。非常に親密な行動を互いに取っており、池田城が攻められたり、落城する時には、運命を共にすることも多くありました。

個人的に思うのは、推定復元図は印象的ですが、私が史料を見ていく中では、若干違和感も感じなくは無いです。しかし、どこかの情況で、このような視覚化は必要ですから、その均衡を保つのは至難とも言えますね。それもこれも、科学の継続が答えを出してくれることでしょう。兎に角、今後に期待です。

さて、そんな原田城について、以下、案内パンフレットの内容です。
※文章・絵・写真の全ては、案内パンフレットからです。

◎はじめに
原田城跡(北城)は、1963年(昭和38)、当時の豊中市文化財保護規則により市史跡に指定され、1987年(昭和62)の豊中市文化財保護条例の施行にともなって、あらためて市史跡に指定された中世城館です。
 「城」というと、天守閣がそびえ立つ江戸時代の城郭、あるいは山そのものを要塞にする戦国時代の山城をイメージすることでしょう。しかし、原田城跡はそうした大規模な城郭ではなく、原田・曽根一帯を中心に活動した土豪原田氏の居城で、いわゆる「小規模城館」と呼ばれるものです。


◎北城と南城

原田村には、北城と南城という二つの城がありました。江戸時代末期に作成された絵図(『文政七年原田村絵図』)を見ると、原田村の中に南城跡を示す四角形の堀跡が描かれています。南城は、発掘調査によって16世紀後半に内堀と外堀が掘削されたことが確認され、その範囲と位置が推定されています。
 一方、北城については「北城跡」と記され、その一帯には松林が描かれています。北城についても発掘調査によって鎌倉時代に築かれたことがわかってきました。

◎北城の構造

北城は、豊中台地南西端の丘陵にあり、南西に広がる平野を一望できる絶好の位置に立地します。その丘陵の東側には、南北140m・東西120mの城域を示すように、「ヨ」字状の外堀が巡らされています。丘陵先端にある約50m四方の主郭部は、荒木村重の乱が起きた16世紀後半に、幅15m・深さ5mもある内堀を巡らすなど、大規模な改修を行って守りを固めています。
出土した巨大な堀跡
 主郭部の内側には、現在でも高さ1.5m〜2.8m・幅5〜10mの土塁が残っているほか、東側と南側にもその痕跡が確認されています。
 主郭内部の発掘調査では、数多くの柱穴や疎石痕が確認されており、土豪の居宅に相応しい家屋が建てられていた可能性があります。また、焼けた壁土や廃棄された土坑、3層にわたる焼土層があることから、数回の火災があったと考えられます。
16世紀後半:荒木村重の乱の頃

◎北城の築城と原田氏

原田氏は、1279年(弘安元)に能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場します。一方、北城は13世紀後半から14世紀初頭のうちに築かれたことが、発掘調査で出土した遺物から推定されています。
 1344年(康永3)に、原田氏は大炊寮(おおいりょう)の所領である六車御稲(むぐるまみいな)の年貢を押領するなど、徐々にその力を蓄えていきます。15世紀中頃には原田一帯を支配する土豪に成長すると共に、室町幕府の管領(将軍の補佐役)で、摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれ、戦乱の世に巻き込まれていくことになります。
16世紀中葉から後半頃の勢力図

◎北城の廃城とその後の原田氏

1547年(天文16)、細川氏の内紛で細川氏綱側についた原田氏は、その敵である細川晴元の大軍に攻められ、北城は落城しました。これにより北城は廃城し、興廃していったことが推測されます。16世紀後半には南城の堀が掘削されていることから、これ以降、原田氏は南城を中心に活動していたとみられます。
 また、荒木村重の乱では、織田信長方の古田織部と中川清秀が北城に陣を構えたようです。1994年(平成6)に行われた発掘調査からは、16世紀後半に大改修が行われ、一時的に城として使われたことが明らかとなっています。
 慶長年間(1596〜1615)には、北城・南城とも廃城し、原田氏の多くは豊後国直入(なおいり:大分県竹田市)などへ移り、現地には土塁や堀跡、伝承だけが残されました。

◎原田城跡のもつ意義
戦国時代には、織田信長のように華々しい活躍が伝えられる武将が多くいます。それら戦国武将の活躍を支えた人々の中には、中世の村を基盤に活動する土豪たちがいました。原田氏も、戦乱の世に生きた土豪の一人でした。
 このような土豪たちは記録の中に数多く見出され、豊中市内では芝原(柴原)・熊田(熊野田)・利倉など、村の名前を冠した土豪が知られています。彼らが活動の拠点とした城館で、堀の配置が復元できる事例は、大阪府内では原田城跡以外にはあまりなく、さらに城主である土豪とともに城館の変遷がわかるものは、今のところ他に見られないことから、原田城跡は非常に貴重な史跡であると言えます。


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2022年6月5日日曜日

摂津池田家の政治体制の考察

応仁・文明頃の勢力図

池田家の惣領が信正の頃(勝正の先々代)になると、摂津国人の中でも一歩抜き出た存在に成長します。信正は畿内地域で活躍していた三好一族と親密になり、当時の管領であった細川晴元重臣三好政長の娘を娶って一族となりました。そのため、管領職であった晴元とも一気に距離が近くなり、重臣的な扱いを受けるようになります。
 また一方で、信正は幕府(将軍義晴)に「毛氈・鞍覆」使用の許可を申請し、間もなくこれを認められると、幕府とも直接的な関係を結びました。池田家は、御家人のような関係と、晴元の重臣としての立場を持ち、それらの関係性を一種の自衛策としても機能させていたらしい事が窺えます。これは管領・将軍職共に、政治的変転多く、安定しなかったからでもあります。
 こういった池田家当主の社会的地位の上昇で、支配領域の拡大と共に、経済的にも富む事となりました。それに相対して、政治的な必要用件も増大するのは当然で、京都に屋敷を持ったり、池田以外の場所にも屋敷を置く必要もあったようです。
 それに伴って、家中の政治が、当主だけでは対応できない状況ともなって、いわゆる近世時代の家老のような「池田四人衆」制度が創出されたと考えられます。
 池田四人衆は、当時の史料でもその呼称が確認できる事から、外部組織からも認識されていた事が解ります。池田家の国内有力者としての急成長は、社会的地位の上昇による、家政機関の創出と役割分担組織を作ったことが、成長の源となったと考えられます。


天文17年(1548)5月、しかしその信正が、晴元から突然に切腹を命じられます。これが余りにも急であったため、池田家中は混乱し、次の当主選定を巡って対立が起きました。
 この時に、当主を支える補助機構であったはずの四人衆が、独自の当主候補を立てた形跡があり、当主とは別の権力機関としての側面も見せるようになります。
 しかし、この時の対立には理由があり、信正の舅であった三好政長が、信正亡き後の池田家に介入し、財産を我が物のようにしようとしたため、これに反発する動きが池田家中に起こったためです。
 四人衆側は、「孫八郎」なる人物を立て、それに対する当主と目される人物は長正(太松は多分、長正の子)でした。この両頭は数年間、対立、または併存していた可能性があります。
 
弘治3年(1557)5月、孫八郎は何らかの理由で死亡します。これを機に、池田家中は対立を止め、長正を当主として一本化したようです。最終的に長正は「筑後守」を名乗り、正統な池田家当主として内外に公言しています。
 この四人衆と長正の対立の過程で、長正は四人衆と同目的で独自に人材登用を行ったと見られ、この時に荒木氏が池田家に深く関わるようになります。四人衆と長正が和解した後も荒木氏は、長正の重臣としての地位を失う事無く、いわば四人衆と並列するカタチで四人衆制度が拡大さました。
 その後しばらくは家中の政治が安定し、信正時代には見られなかった、広範囲に禁制を下す行動や文書が見られ、池田家の活動範囲が大きく拡がっています。近畿地域で拡大する三好政権の下で、安定的な地域権力の確保に成功したと言えるでしょう。

山田彦太夫宛の池田筑後守長正書状

長正の死後、勝正の時代となりますが、この重臣集団は整理される事無く受け継がれ、その代替わりの時に、村重もその集団の中に組み込まれていったようです。
 また、いわゆる「池田二十一人衆」という多数の重臣集団も存在したと思われますが、その後直ぐに、意思決定の早さを重視した少人数制へと変化しているようです。
 この時、それまでの四人衆体制に戻らずに三人制、いわば「池田三人衆」という新しい体制を打ち出したと考えられ、それを示す史料も実在しています。
 多分これは、旧誼であり、永らく上位権威として、また一族として行動を共にしていた三好三人衆を手本として創出されたと考えられますが、間もなく、それがうまく機能しなくなり、家中対立が再び起きてしまいます。やはり池田家の社会的な位置づけからも、集団の代表は必要だったのです。
 そしてそれは、織田信長と将軍義昭の対立の時期であり、元亀3年(1572)冬頃には、池田一族が幕府方へ加担し、一方の村重は信長方へ加担する事となりました。
 この時、池田一族は、代表者を立てる必要性に迫られ、池田民部丞擁立を将軍義昭に通知し、受入られています。これが知正にあたるのかどうか、今のところは不明。


それからまた、元亀元年(1570)の勝正追放後に「民部丞」なる人物が、山城国大山崎惣中、摂津国多田院、同国箕面寺へ宛てて禁制を下しています。これらは何れも池田氏と浅からぬ関係を持っている場所です。この後に民部丞の禁制や文書は見られませんが、それが元亀3年の池田一族の文書に現れる「民部丞」と同一人物かどうか、完全に一致させる史料は今のところ見つかっていません。
 しかし、それは同一人物である可能性は極めて高いように思われます。特に箕面寺に宛てた禁制は、勝正が下した内容と同様である事から、その権力を継ぐ法則を実行できる人物である事は確実です。
 
元亀4年(1573)7月の室町幕府機能停止をもって、新たな時代を迎える事となり、元号は天正となります。しかし、その後も翌2年頃まで組織のカタチを維持できたかは不明ですが、池田衆は存続を維持していたと見られ、史料にも池田一族の行動が見られます。
 しかし、伊丹城の落城をもって京都周辺地域の拠点が消滅すると、史料上では池田衆の活動は見られなくなっています。翌3年には、完全に新たな時代を迎える事になったと思われます。

2022年6月2日木曜日

池田筑後守勝正の子とされる「勝恒」が、天正年間に和歌山県東牟婁郡古座川町(旧池口村)に逃れて居住したとの伝承

調べ事をしていて見つけました。池田筑後守勝正の子が、和歌山県の東牟婁郡まで逃れて居住したとの伝承があるようです。まだ、掘り下げて調べていないのですが、摂津国からはもの凄い距離があるところです。ここまでは流石に敵も追ってこないでしょう。

『紀伊続風土紀:紀伊国旧家地士中西孫左衛門』に以下のような記述があるようです。

◎旧家 地士 中西孫左衛門禅
天正年間に摂州池田ノ城主池田筑後守正久の子、八郎三郎勝政が荒木村重に押領され、その子吉兵衛勝恒が当村に逃れ居住。慶長年間に海部郡小雑賀村の中西氏を養子として改姓。その子孫4代、大庄屋を勤める。代々地士である。

ちなみに、昭和42年(1967)発行の池田市史の史料編には、池田氏に関する系図が載せられています。7種類くらいあるのですが、その中の大廣寺文書(所在不明)には、唯一、勝正の子とする系譜があり、長男:直正(所在未詳)、次男:為正(父退城の時僅かに5歳、能勢山中に隠れ住す)となっています。
 摂津国の池田一族が用いるのは「正」であり、「恒」や「勝」は使いませんが、家臣に偏諱(名を与える)を行う時には「勝」と与えた形跡があります。しかしながら、この場合は、勝正の実子の用ですので、それには当たりません。

また、「恒」の字は、美濃国の池田氏が用いていたことが多いようですので、そのあたりと混同しているか、曲折の中での混乱で、誤って伝わっているのかもしれません。

今のところ、速報的な情報です。また、後日に調べ、追ってレポートしたいと思います。

2022年5月13日金曜日

既知の史料なのに、読み返すと気付いたこと。「もしかして、これって...。」2点。

 今年初の更新です。新年、明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。永らくの未更新をお許し下さい。

近頃、元亀2年の史料を少し読み返すことがあり、時間が経って、改めて読んでみると「あれ?」ということがありますね。既知であり、既出の史料ですが、それを紹介したいと思います。

◎摂津国有馬郡の中之坊文書に署名した「池田蔵人正敦」について
欠年6月24日付けで、摂津国有馬郡の湯山年寄中に宛てて発行された文書です。個人的には元亀2年と推定しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P154

内容は、以下のようになっています。

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本文:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名部分:小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、萱野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
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この中で、「池田蔵人正敦」について、気になったことがあります。この署名中には、色々な地域の代表としての人物が関わっていると見られます。例えば、 萱野助大夫宗清は「萱野」(現箕面市)、藤井権大夫敦秀は「外院」(同市)、 宇保彦丞兼家は「宇保」(現池田市)、神田才右衛門尉景次は「神田」(同市)、藤田橘介重綱は「播磨国の由来か」といった感じで、非常に広範囲に渡ります。これは、象徴的・絶対的な人物がいない場合でも、その代替として、約束の根拠としては非常に有効だったと思われます。

余野古城跡

 一方で、池田信濃守村重とは、荒木村重と同一人物でありながら、この時は、池田姓で署名をしています。村重はこの時、池田家から嫁取りをし、池田一族となっていたからです。村重は、対外的にも「池田姓」で知られており、西国の大名である毛利家の音信でも「池田信濃守」として記述されて、認識されています。
 この『中之坊文書』にはそいうった要素も含まれており、時代による人物の所属や名乗り(官位)などを知る事ができる貴重な史料です。


その観点で見ると気になるのが「池田蔵人正敦」なのです。この人物は、余野(現箕面市)の蔵人ではないかと思います。余野蔵人は、摂津池田家から嫁取りをしており、一族的な扱いを受けている筈だからです。
 『フロイス日本史(中央公論社)』の192頁に、余野のクロン殿のことについて記述があります。余野氏は切支丹であり、池田家の婚姻関係(長正の娘?:記述では非常に高貴で、摂津国で最大の殿の娘)があったとしています。また、地元の伝承では「黒田姓」は地域に無い、との調査結果があることから、フロイス日本史にある、「クロン」「クロード」といった記述は、「蔵人(くろうど)」であり、余野氏はこの官名を名乗る系統だったと考えられます。また、余野氏は能勢一族の一派で、能勢氏・野間氏と並び三惣領と言われる地域の代表的一族でもあります。余野一族は、永禄7年正月に、蔵人と妻子、兄、弟、家臣など53名が受洗したと記されています。親戚である高山飛騨守ダリオの紹介によるものです。
 「池田蔵人正敦」とは、「余野蔵人正敦」ではないかと思います。余野は街道の交差点であり、非常に重要な場所でしたので、血統を継ぐ何らかの手盾で、地域政治の代表的地位を維持していたと思われます。また、池田家中に「敦」の字を使う系統もあります。

元亀2年と推定される6月24日付連署状(中之坊文書)


◎豊後岡藩中川氏諸士系譜「十七之四 安威氏」にある記述について
この記述に、粟生兵衛尉氏晴(隼人佐氏信次男)の事として、(前略)一、元亀2年5月、和田伊賀守惟政高槻の城に移りて、荒木村重と雄を争い、分内を広めんため敵味方を問はず、近隣の里村を掠め取り、領主・地頭を追い払う。ある時、粟生兵衛尉氏晴、池田へ参り向かいの留守、粟生の館をも攻め落とし、其の後氏晴は荒木が旗下に属し、本領安堵を望む。、とあります。
 この中で「里村」という言葉と粟生氏の関係が気になります。伝記史料は、年代の間違いが多いのですが、これは比較的正確なのかもしれません。すなわち、白井河原合戦の直前の様子ではないでしょうか。この時、粟生氏は粟生間谷城(現箕面市)を持ちます。
 また、もう一つの記述要素である「里村」とは、佐保村ではないかと考えられます。粟生間谷から佐保村までは、一里以下で、徒歩でも一時間足らずです。和田方は、一気にこの周辺を攻めたのではないでしょうか。
 この周辺の地域で「里」に関する伝聞史料は、「佐保」を「里」と聞き間違え、書き間違える事が少なからずあります。
 近年、大阪府高槻市の「市立しろあと歴史館」の『しろあとだより』などでは、『尋憲記』にある「里城」は「佐保城」ではないかとの見解を示されています。これは、私の悩みを一気に解く事となり認識の深まりを拡がりを得たところでした。
 その中にあって、『豊後岡藩中川氏諸士系譜「十七之四 安威氏」』にある記述も同様のことが言えるのではないかと、今さらながら考えました。記述の「分内を広めんため敵味方を問はず、近隣の里村を掠め取り、領主・地頭を追い払う。」とも時代状況は合致すると思われます。文脈からいうと、「里村」が「佐保村」を指すかどうかは、微妙ですが、里と村は、同じ意味のように思いますので、このような表現をこの当時にしていたのかどうか。単語が少々不自然のようにも思います。書き間違いの伝承のようにも思います。

いずれにしても、時期的に合致する現象である事は間違いありません。和田方と池田方が、境界を争っていたこと間違いありませんし、白井河原で決戦が行われた事と、その地域辺りの争奪戦が行われた情況は確実にありました。
 更にフォーカスすると、佐保村にある城は、新旧時代の入れ替わりの形態を残す痕跡があり、これがこの史料にある実態を示すものではないかというのは、非常に興味深いです。公式には、なぜこのような状態で、この地域に存続するのかは不明としています。

【参考サイト】山城賛歌:佐保城跡(大阪府茨木市)
http://ktaku.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_ff76.html

今後また、こういった気づきがあるかもしれません。その時は、向後のために小まめに記事にしておきたいと思います。

2021年10月30日土曜日

摂津郡山城(大阪府茨木市新郡山1丁目9付近)について考える

大阪府茨木市新郡山1丁目9のあたりにあった、摂津郡山城跡です。天正6年冬の荒木村重謀反の時、織田信長はここにも本陣を置き、対応に腐心しました。11月16日、信長はこの場所で高山右近と会見し、間もなく、茨木の中川清秀も開城。同月26日、織田信長は、この場所で、高山右近・中川清秀に黄金三十枚などの褒美を下しています。

しかし、公的な発掘などは行われていませんので、詳細は不明なままで、遺構もなく、今は地形などを見て想像することしかできません。
 かろうじて、茨木市教育委員会により、案内板が設置されていますので、以下、その内容をご紹介します。

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郡山城主郡平太夫は、摂津国高槻城主和田伊賀守惟政に仕え、この郡山の地に城を構え、近郷七ヵ村を支配していたといわれている。
 『陰徳太平記』によれば、元亀2年(1571)8月、茨木方の和田惟政と荒木村重ら池田二十一人衆との対立があり、勝尾寺川と茨木川の合流点辺りの白井河原をはさんでの合戦となった。この時平太夫は、奮戦むなしく戦死したと記されている。
 『中川氏年譜』によれば、合戦の夜、村重は酒宴を開催、翌日茨木城を攻め落としたのがこの郡山であった。
 さらに、『信長公記』によれば、織田信長に対する村重の逆心時、信長は高槻城主高山右近をこの土地に呼び、味方にしている。次いで、信長はこの城を有岡城攻めのひとつとし、津田七右衛門尉信澄が城番であった。

現在、城は残っていないが、新郡山1-9から西一帯に「城ノ内」という地名が残り、また『東摂城址図誌(明治初期 東城兎幾雄編)』に「郡山城址 在嶋下郡郡山村字城ノ内」と記されていることなどから、この城ノ内一帯が、城の中心であったことがうかがえる。
 周辺には、門口・山ドイ・物見塚・出シ・二ノ坂・西ノ谷・西ノ町・上ン町・中町・南町・東町など城に関する地名が残っており、伝承・地形・文献などから勘案すると、郡山全域がほぼ城域であったと考えられる。
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また更に、『わがまち茨木(城郭編)』では、以下のようにあります。但し、細かなところは今現在、判っている事実とは異なっています。

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【郡山城】 執筆者:田中 忠雄 刊行時

天正の頃、芥川城主和田伊賀守惟政の武将、郡平太夫宗弘城主たりき。郡家に蔵する「郡氏由緒書」の一節に、「郡平太夫は、摂津国高槻之城主和田伊賀守仕え、同国郡山之城主、郡村・中河原村・宿河原村・上野村・下井村・五ヶ市村、七ヶ村を領致申し候。天正元年7月、伊賀守は荒木摂津守と合戦有之。摂津守は馬塚に陣を取り候扁、伊賀守郡山より三町ばかり北東の方に當り箕原村と中河原村との間糠塚と云う所まで出張致し候。此所、前は川原、北は山にして(中略)平太夫先手に進み勇戦を致し候へば、伊賀守、中川瀬兵衛と戦ひ討ち死に致し候ゆえ、平太夫も陣地より二町程こなた、郡村の内において討ち死を致し候。その馬は黒毛の名馬たる由にて、彼馬に向へば、畜生も能く働き候事よと存じ申し候云々と記さる。
 また大阪府全志には、天正元年和田伊賀守、茨木佐渡守等の足利義昭の命を奉じ、三島村大字耳原の糠塚に陣して、織田信長の武将荒木摂津守村重、池田筑後守輝政と白井河原戦ふや、平太夫進みて輝政の先鉾に當りしも、遂に山脇某の手に斃る云々とあり、今や山地、田地、畠地、池と化し(大部分は浪速少年院の敷地)漸く字地域の内を有するのみ、少年院工事中ハニワ(殉死的人形焼物)掘り出づ。東城兎幾雄編の東摂城址図誌には、図53の如く見ゆ。いささか往昔を偲ぶに足らん。 ※以上の記は春日村誌刊行会編著者、内山平三郎氏の『春日村誌』より

追記:大正11年の浪速少年院工事中に、円筒埴輪が出る。この遺物は、現在も宇治少年院で保管されている。また多くの石が掘り出された中に、郡家の家紋と思われる、三ツ鱗、三ツ星印の城石が発見された。現在は浪速少年院玄関、車まわしの五葉松下に置かれている。(発見者:田中 忠雄)」

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個人的には「郡城」というのもあって、そこはそれに何らかの関係があるのではないかと思っています。若しくは、こちらが古く、新たに郡山城を作ったのかもしれません。郡神社から少年院のあたりに古い城があったのかもしれません。
 『わがまち茨木(城郭編)』に取り上げられている「郡山城」は、状況的に見れば、こちらが「郡城」ではないかと思われます。新しく城を作るには、今も昔も資金と地位が必要ですし、同じ規模のモノをつくるというのは考えられません。
 掲載されている縄張図は、郡城で、いわば旧城の形態ではないかと思われます。役割分担をし、両方共に使ったか、古い方を廃して新しい城に資力を集中させたのかまでは解りませんが、そういった流れで、同じ地域に二つの「郡山城」が存在するのだと思います。

※写真の撮影時期は、2006〜07年で、3月〜5月の春先に撮っています。



大阪府茨木市新郡山1丁目9付近にある茨木市教育委員会の案内板
 

郡山城域北側から北方向を望む眼下には西国街道が通る


郡山城跡付近から出た墓塔など


明治41・43年頃の測量地図


わがまち茨木(城郭編)に掲載の郡山城縄張図

2021年10月28日木曜日

摂津穂積城(大阪府茨木市中穂積2丁目)が存在したか否かについて

久々の更新です。いつも気まぐれですみません。

今回は、大阪府茨木市中穂積2丁目にあった、穂積城についてです。以前から気になっていたのですが、訪ねる事無く数十年が過ぎてしまったことを悔いています。しかし、今も面影は残っており、見ておいて良かったなと思います。町並みが変わる前に、今度は詳しく見たいと思います。まぁ、既にもう、変わったっぽいのですが...。

ざっと、穂積城についてまとめておきたいと思います。後日、また、詳しく調べた上で、記事を更新しますので、速報としてご覧いただければと思います。

文献は、ほぼありません。多くが『摂津志』からの引用で、山田城十三の支城の一つとしてあります。村の様子については、平凡社刊『大阪府の地名』が参考になります。城については、いつもの『日本城郭大系』では取り上げられていませんので、今現在で手に取ることのできる参考資料は、やはり茨木市教育委員会刊『わがまち茨木(城郭編)』が最も参考になると思います。地元に伝わる言い伝えを検証を交えて収録してあります。

以下、「穂積城」の項目を抜粋します。

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【穂積城】 執筆者:中村修 刊行時

古い史料(摂津志)によると、茨木市中穂積の春日神社境内になっている小高い山林一帯が、穂積城の跡として伝えられている。

  • 大阪府全志「塁堡の址、春日村中穂積、塁堡の址は字地に「城の堀」と称するあり。「摂津志」に塁堡の址ありと記せるは、是れ、その所ならんか。」
  •  松岡洲泉著「城を訪ねて(茨木市の部)」に、穂積城の頁が掲載されている。「城名:穂積、所在地:中穂積二丁目、北春日丘一丁目。形状:平山。築年・城主・興廃:不詳。所見:史料散見するも城郭確認できず。城の樋、城の堀の地名残る。」

以下「穂積城」について調査したことについて記すことにする。

  1. 松岡洲泉氏の著書をもとに、中穂積二丁目、北春日丘一丁目及び見付山一丁目周辺の地形を調べる。※「穂積城跡周辺の地形A」と「穂積城跡周辺の地形B」を参照のこと
    • 標高と高低差:亀岡海道20メートル、山ノ下30メートル、山上地60メートルで、その標高差は40メートルである。
    •  山ノ下より5〜10メートルの高さに、土塁状の平地が続いている。
    •  土塁より、更に10〜20メートルの高さで、急峻な崖になり、山上は約1200坪(4000㎡)程の広さが見られる。

  2.  中穂積二丁目、岡村俊一氏、長沢五三六氏の話
    • 「城ノ堀」の土地は、昔から湿地帯であった。
    • 春日神社の山が穂積城(塁堡)の跡であったとする話しは、今までに聞いたことが無い。
    •  弁天宗になっている山は「さんじょ山」または「さんじょう山」と読んでいたが、見付山とは言わなかった。
    •  また、今の弁天さんのある山に、昔は小野原からの杣道があって、村人は牛の背に荷をつけて山越えしていた。その道のことを「殿さん道」と言っていた。
    【注】「さんじょう」は「山城」の意にとれる。また、「見付山」は、城の見張りの番兵がいた山のことである。

  3.  穂積城(城郭)の想像図
    今回の調査によって、穂積城としての城郭跡を確認することはできなかったが、その地形や地名などからみて、何らかの塁堡が存在していたことは想定される。
    • 穂積郷(飛鳥時代・奈良時代の律令体制時代:700〜800年頃)を支配していた穂積氏の館があったとする想定。
    •  垂水東牧(平安時代・鎌倉時代:800〜1300年頃)を守護する砦があったとする想定。
    •  室町時代・戦国時代(1300〜1570年頃)における、戦略上の一時的な塁堡が作られたとする想定。
    以上のことから、この穂積の山地は茨木地方を一望できる格好の場所であるので、要地として利用されたことが考えられる。
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穂積城跡周辺の地形A   

穂積城跡周辺の地形B

標高断面図

穂積城(城郭)想像図

穂積城跡の遠望(昭和50年頃)

ここまで、『わがまち茨木』より。以下は、それぞれに引用元を記します。



大日本帝國陸地測量部(5万分1地形図) 明治41・43年頃


 

 境内ストリートビュー(筆者撮影)

 

『わがまち茨木(城郭編)』によると、城に関係すると思われる、城の樋(とい)、城ノ堀、さんじょう山、殿さん道、見付山との呼称があったと伝えています。これらの証言は、とても貴重だと思います。中でも「城の樋」との地名は気になります。
 建築史的に、現在のような家屋用の「雨樋」はありませんでしたので、土木的なものだと思います。現在でも用水作事では「樋」という概念がありますが、これもそれではないでしょうか。城や地域社会基盤としての樋があったということですね。

それらの要素を元に、明治40年代当時の地図を見ると、今の春日神社のあるところから、更に北側にもう一つのピークがあり、北側は地形が下がっています。そしてまた、上がり、今の弁天宗のある山へ続きます。
 見付山から弁天宗の山まで一連の施設となると広すぎます(何らかの関連性は持ちつつ)ので、『わがまち茨木(城郭編)』で想定されているように、城としては、丘陵の突端の二つのピークを利用した構成だったのではないでしょうか。城跡である現春日神社境内には、井戸がありますので、水の心配も無く、長期の籠城も不可能ではありません。
 一方、「さんじょう山」とは、中心的な部分の上にある山、「殿さん道」はそこに繋がる道ではありますが、一つの方向性ではなく、放射状に伸びる道の行き来を含めてそのように、地域象徴的に呼んだのではないでしょうか?拠点地域や大都市に繋がる道をそう名付けたように。例えば、大坂や京都ですね。
 また、城下は中穂積村を構成する区域が居住地域だったのかもしれません。城の樋や城の堀の地名が残るのは、そのためだったのでしょう。

ここに城があったことは、蓋然性が高いと思います。ここから真東に半里(2キロメートル)以内に、茨木城の地域拠点があります。その間に、亀岡街道も南北に通ります。
 茨木には、幕府の要人として茨木長隆の本拠地でしたので、当然ながら、城も構えて近隣を軍事・政治的に固めていました。軍事的には、茨木から真西にこの穂積城があります。ここから、千里丘陵の森となり、杣道(山の道)が縦横に走り、西国街道や各街道のショートカット的な脇道としても多く利用されていたようです。
 実際、穂積から南南東へ1里(4キロメートル)以内には、この地域の中心的な街である「山田地区」があり、山田十三支城とは、ここからの発想です。
 この環境下で、守る側としては、森からの不意打ちを防ぐために、ここに監視の城を置いておく必要がある筈です。「見付山」とはそういった意味もあると思います。また、手旗など、簡単な連絡網も構築していたことでしょう。江戸時代には、千里の丘の要所(吹田市千里山西3など)に「旗振山」を設け、大坂の米相場の上がり下がりを京都や四方に伝えていました。個人的には、通信網はそれ以前からあったと考えています。江戸時代にそれを活用したのでしょう。
※参考サイト:旗振り通信ものがたり

元亀2年(1571)8月下旬から翌9月上旬にかけての白井河原合戦では、このあたりが主要戦場となり、茨木城も落城、周辺の城は悉く池田衆の手に落ちています。この後、荒木村重がその功により、茨木城を得たとも伝わっています。
 この合戦を目撃していた宣教師ルイス・フロイスは、白井河原合戦が始まり、12時間以上銃声が聞こえ、二日二晩、茨木・高槻方面で火の手が上がっていたと証言しています。フロイスは、この時、河内国の飯盛山城(頂上部標高約300メートル)に居て、この方面の様子を観察していたようです。

この戦争により、勝った側は1年分の収穫を得、負けた側は失った訳です。白井河原合戦は旧暦の8月28日未明から始まりました。太陽暦では10月初旬にあたります。このあたりは大地が肥沃で、各村の石高も比較的大きめで、豊かな地域でした。 

ということで、結論は、穂積城は確実に存在したと考えられます。いや、無いはずが無い、戦国時代には、地域を守る重要な拠点であったと思われます。