2019年8月25日日曜日

此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(戦国武将甲賀谷長正という人物像の輪郭)

今のところ、甲賀谷又左衛門尉正長についての直接的な史料は限定的ですが、様々な断片的資料を集めてみると、旧池田(荒木)家中の人々の動きから推測もできるように思えます。今現在、甲賀谷正長について判っていることから、以下にまとめてみたいと思います。

摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
◎甲賀伊賀守とのつながり
池田での古老の話しによる(西暦2000年頃の)と、その方の小さい頃から「甲ヶ谷」の人々は、近江国甲賀(現甲賀市)から移り住んで来た、と聞き伝わっているようです。前述の通り『穴織宮拾要記 末』の記述(資料7)には、甲ヶ谷には「甲賀伊賀守」という家老が居たとあり、この人物は甲賀地域出身の人物と考えられます。この人物が住む地域であった事から「甲賀谷」という呼び名がついたのだろうと考えられます。
 甲賀地域出身者は、特に「土木技術」に優れた技能を持ち、破壊と普請(造作・造成)が常の時代にあっては、これらの人々は各地で大切にされたのではないかと思われます。現代のように、公的機関としての学校の無い時代には、技術伝承を徒弟制度の中で、一族や衆がそれを保持しています。それらの事も含め、甲賀谷正長は、地名を冠する程この甲ヶ谷に深くつながる人物である事が想定できます。婚姻や血縁もあったりするかもしれません。「名は体を表す」と云われる程、意味の無い名乗りは、全く考えられないからです。
 また、一方で、尼崎長遠寺での行動を見ると、多宝塔や客殿などに棟札を上げているところを考慮すると、木工・大工技術に優れた人物であった可能性もあります。
 現甲賀市域には優れた建築物が多く存在し、安土城もそういった技術に頼って完成した経緯を考えると、土木・建設に優れた才能を発揮した人物であった可能性も考えられます。
 もしかすると、呉春酒造の酒蔵梁の書き付けにある「甲賀谷仁兵衛・助兵衛」は、甲賀谷正長と関係の深い人物かもしれません。また、元禄10年の池田村絵図に記録されている「甲賀谷」の大工5名は、正に仁兵衛と助兵衛、その人です。呉春酒造の梁に縁起を書いたのもその人です。

伝法正蓮寺の寺紋と摂津池田の甲賀谷氏
大阪市此花区伝法の海照山 正蓮寺の寺紋「巴藤」
寺院はたいてい、衆派に属している事が多いので、宗紋を持っています。それに加えて、そのお寺にゆかりの深い紋を持っています。ですので、2つの紋がある事が多いのです。時にはそれ以上の事もありますが、たいてい、そういう構成になっています。伝法の正蓮寺は、日蓮宗ですので、「井桁に橘」紋を宗紋として掲げてあります。そしてもう一つ、寺紋は「巴藤」です。
 摂津池田家の本姓は「藤原」でした。時代の習慣としての行動と判断は、同族の結合が信用の繫がりの拠(よりどころ)です。ですので、藤原系とのつながりは、自分を守ることであり、助け合いであるのです。現代社会のように戸籍制度もありませんし、学校、警察もありません。現代のように、公的な信用醸成の制度はありません。そうであれば、どうしても信用の拠は、血統的なつながりに頼るところが大きくなります。
 故に、摂津池田氏の場合、どうしても藤原氏とのつながりが深くなり、接点も藤原氏の同族結合となっていきます。また、例えば、池田や伊丹といった名乗りは、時代やその時の個別環境により、変化します。荒木村重が池田家中に所属した時は、荒木と池田姓を使い分けていました。
 しかし、その家系が持つ紋は、あまり変化しません。ただ、功名があった時や所属によって下される紋はあったようですが、「一族」を示す紋は変わることがありませんし、それが一族生存の基本です。家紋は自分と家族の起源を示す、非常に大切な印なのです。現代の日本国国旗と同じです。
  歴史的な調査で「紋」は、探求の手がかりとして、非常に有力です。
 正蓮寺を創建した甲賀谷正長は、この寺の起源ですので、やはり甲賀谷氏の「巴藤」紋を用いたのではないかと思われいます。そうすると、甲賀谷氏は、藤原氏にゆかりの一族となります。前述のように、甲賀谷氏は元々近江国甲賀にあったようですが、そのルーツは「藤原氏」であった縁で、池田家につながりを持つようになった可能性が考えられます。

◎「正」の通字を持つ意味
摂津池田家は、元々「藤原」性です。また、その一族当主は「筑後守」を名乗り、諱(いみな)に「正」の字を持ちます。これは、通字(つうじ)といって、これを継いでいるかどうかで区別があります。更に、「正」の字が諱の上か下か、でも違いがあります。例えば、勝正、信正、知正などが、下正(したまさ)といい、正詮、正久、正秀などが、上正(うえまさ)といいます。
 時代によって、違いもあるようですが、傾向からすると、下正は、惣領家(当主)とそれに近い人々が用い、家老など、少し本家筋とでもいいましょうか、少し血の遠いと思われる家系は、上正を用いているように思います。
甲賀伊賀守屋敷跡(2001年頃撮影)
さて、今回注目している甲賀谷正長も、正の字を持ち、しかも上正です。甲賀伊賀守は、家老との伝承ですので、池田家のその当時の慣習を踏襲したと思われる形跡があります。
 伝承されていた、甲賀から来た人々は、時の流れの中で池田家と婚姻などで縁を深くし、「正」の字を得たのかもしれません。正長の生きた時代は、池田家も滅びて(滅びつつあった)しまい、戦国時代も終盤でしたので、その時代に必要な名前に変えて行きます。「甲賀」と「正」を残すことの意味があたのでしょう。また、正長は「左衛門尉」という官途も名乗っており、位は正六位から従六位です。一般人ではありません。
 伝法の正蓮寺では、「甲賀谷正長は武士」と伝わっていますが、これは正確な伝わり方をしているのではないかと思われます

◎没年の推定
尼崎市教育委員会による『長遠寺所蔵甲賀谷氏関係資料』によれば、寛永14年(1637)6月27日付の鐘楼棟札に、「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也 願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」とあることから、この頃に正長は死亡していることが窺えます。
 また、同資料の元和9年(1623)5月付けの本堂棟札に、「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」によれば、長遠寺本堂を寄進しているようです。本堂はその寺の中心建築物ですから、相当な費用も必要だと思います。この頃には事業(実際の生業は不明)も順調で、そういった行いのできる環境が整っていたものと想像されます。この頃の池田は、酒造業が盛況で、活気に包まれていたころでもあります。
 一方で、この翌々年(1625)、伝法の正蓮寺を創建しますので、少し前からそういった取り組みの準備もしていたのかもしれません。
 ちなみに、同資料をもう少し見ると、元和元年(1615)9月5日付で、正長が長遠寺に「日蓮曼荼羅本尊(尼崎市指定文化財)」を寄進していますが、この時の裏書きに「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)」とあって、改元を機に、隠居して息子なる人物に当主を譲っているようです。この頃から法名(法号の日寶は、元和4年11月17日か)を正蓮と名乗っているようです。
 正長の息子は、「貞勝」を名乗っているようで、正長はその後、見役となっていたのでしょう。息子は「正」の通字を継がず、「貞勝」となっているのは、池田は京都所司代の支配管轄で、この時の筆頭は板倉勝重・重宗でしたので、その板倉氏と何らかの関係があるのかもしれません。今のところ想像ですが...。

気になる記述の残像
これは予備的な要素として書き残しておきたいと思います。『穴織宮拾要記』は、池田の町の復興や成り立ちについて、非常に重要な記述が多い、資料としての価値が大変高いものですが、全文翻刻されておらず、今は断片的な翻刻をつなぎ合わせる中での判断です。これは、池田の町のみならず、伊丹や周辺地域に様々な影響を及ぼす、非常に重要な文書です。
 そこに記述されている一説に、気になる要素があります。「資料3」にあるのですが、- 秀吉公・秀頼公之御時より池田ハ御代官所成ル、片桐市正御預り牧治右衛門池田支配ノ時、右之屋敷本養寺へ寄付せられ候。町人も城之用聞五軒伊丹へ引、又帰り候。 - とあって、先にご紹介した五家老との関係はどれ程あったのか、非常に気になるところです。
 この「城ノ用聞き五軒」とは、商業的要素のみならず、様々な要望を引き受けるため、非常に信頼の厚い人物で有り、組織であったと考えられます。現代は、社会現象の事柄を細かく分類していますが、当時はそれ程、細かに分ける必要もなく、商業であれ、建設であれ、戦争であれ、用聞きとは要望に応える商社のような存在であたっことでしょう。これに甲賀谷氏も関わっていたかもしれません。それが気になります。
 一方で、池田郷は、その地理的位置から非常に重要な場所であり、社会に軍事的な不安定要素がある間は、幕府の直轄領として、池田家をはじめとした旧ブランドの台頭を警戒し、その胎動を許しませんでした。徳川幕府は池田に代官所を置き、村役との連携をとる体制で地域支配を行いました。
 しかし、地域政治を進める上では、事実上、絶縁させる訳にもいかず、ある程度の許容の中で、円滑な運びも計る必要があると思います。そういう中で、選別しながら有用な取り込みを行うなど、無害化されたブランドの許容(活用)は存在したと考えられます。

◎正長が活躍した背景
池田では古くから酒造が行われていたと伝わっており、池田郷内の最も酒造高のあった満願寺屋は、その代表でした。その始まりは、応仁年間(1467 - 69)頃といわれるものがあります。古来、酒造は寺で、生産されていましたので、満願寺屋という名の通り、池田の酒造のキッカケも寺に関わるものと思われます。池田郷の西北西約4キロメートルのところに、満願寺という古刹があります。
 この境内の発掘調査の結果では、平安時代末頃には寺院があったと確認されており、寺記によると神亀年間(724 - 29)に千手観音像を祀ったのに始まるとされています。池田家も満願寺に寄進などを行い、つながりも持っています。
 これが何らかの縁で、交通の要衝である池田へ移り、根付いたものと思われます。戦国時代を経て、江戸時代になる頃には、荒廃した郷土復興が盛んになっていきます。その過程で酒造業も活気を呈します。
池田村宛禁制(松平武蔵守:池田利隆のこと)
大坂冬の陣(1614)のために河内・大和国境の暗峠(くらりとうげ)に進んだ徳川家康に、池田酒・物資・軍資金を献じて、池田の立場表明(味方となる)をいち早く行ったことから、その後に保護を受けるようになります。これは郷内保護のための禁制を受けるためで、その時の禁制が残って(他に板倉伊賀守の副状も)います。池田村役の庄屋菊屋助兵衞、年寄牧屋五兵衛、同淡路屋新兵衛などが付き添い、陣中見舞いを献上しています。池田村は慶長年間より正保頃まで、庄屋1人・年寄2人(安永4年2月2日文書)がいたようです。池田は重要な場所であったため、徳川幕府の直轄領(天領)でした。
 戦国時代は、禁制を発行する側であった池田が、今度は、受ける側に変わっていました。もはや、池田には地域権力が存在していませんでした。
 しかし、それまでの地域ブランド力と地勢が、他の地域とは違う価値をもっており、単なる禁制拝受ではありませんでした。そのことは、酒造業にとっても、大いなる恩恵となりました。間もなく、徳川政権から大坂の陣の戦勝の礼として、池田酒に銘を贈り「養命酒」としました。これが特権化もしつつ、その後、池田での酒造が年々盛んとなり、元禄期(1688 - 1704)には最盛期を迎えます。
 そういった行動の中心的役割を果たしていたのが、旧池田家中、荒木家中の人々で、甲賀谷正長もその一人であったと思われます。平和になりつつあるとはいえ、江戸の幕藩体制が盤石となるのは、徳川将軍3代目の家光の頃(元和〜寛永期:1615 - 44)であり、それまでは日本各地で争乱も止みませんでした。ですので、政治と武力は一体的に考え、行動する必要がまだまだあった時代でした。
 一方で、徳川幕府によって、武力の台頭を許さない社会への圧迫を加えつつある中で、世が安定しはじめており、経済活動が日本各地で盛んとなっていました。ですので、政治・経済・軍事をうまく使い分けて活動できた池田武士が活躍する場もあり、その能力を持っていた一人が甲賀谷正長だったのかもしれません。

甲賀谷正長と伝法及び尼崎のつながり
甲賀谷正長と伝法及び尼崎のつながりですが、それらはやはり、「酒造」と「日蓮宗信仰」ではないかと思います。日蓮宗は町屋と町衆を布教対象にしており、そういった点で、人々の集まる町には自然と縁が深くなります。
 ちなみに、正長と関わっている法華宗系の寺院(池田の本養寺、尼崎の長遠寺)は、京都六条本圀寺の六条門流です。伝法の正蓮寺は、その流れの中で創建されています。
 また、酒は輸送が重要であり、これも町や輸送の拠点との結びつきが強くなります。その意味で、尼崎・伝法は、輸送の拠点であり、地縁と人と宗教が、持ちつ持たれつの関係で調和が取れていたのだと思われます。伝法は、特に酒の輸送で発展した町で、池田・伊丹の酒造の発展と両輪で成長したともいえる歴史を持っています。(資料4「伝法村」の下線部分を参照下さい。)また、伝法は元々交通の要衝で、戦国時代には、城や砦が置かれていたとの伝承もある程です。同地は輸送の大動脈であった瀬戸内海が西側に開けている訳ですから、どの時代も自然と重要視される地理となっています。
 そういった古今東西、森羅万象をうまく使い分け、池田の酒造などの産業育成、町の発展を担った中心的な人々が活躍した時代が、甲賀谷正長の生きた時代だったのだと思います。


尼崎 長遠寺 甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の墓






此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(戦いの無い平和な時代の池田と甲賀谷氏を考える)

図1:元禄期の酒屋・炭屋の分布図
池田も伊丹も尼崎も、戦いの無くなった世で、復興を遂げていきます。その過程で池田は満願寺屋を中心とした酒造業が隆盛し、一大産業化して町の復興を牽引します。池田酒は、その品質がもてはやされ、江戸でもブランドとなっていきます。池田酒について以下にご紹介します。
※江戸下り 銘醸 池田酒と菊炭(池田市立歴史民俗資料館)

(資料9)-----------------------
【池田の酒造業の発展】
池田の酒造業は、満願寺村(川西市)から応仁年間(1467 - 69)、池田に移って酒造業をはじめた満願寺屋にはじまるといわれている。家伝によれば、宝暦14年(1764)時点ですでに、「2〜300年以前より酒造仕候様に相聞へ」といい、慶長19年(1614)、大坂冬の陣で家康が暗峠に陣した際、池田の銘酒を献じ、そのために朱印状が授けられたという。
表1:摂泉十二郷の江戸積入津樽数
物事の始まりをよく古く表現することは、古来から常に行われてきたことなので、これをもって池田の酒造業の始まりとするわけにはいかないが、室町時代終わりごろには、既に町屋が形成されるなど、早くからひらけた土地であったため、酒造業の始まりも、戦国時代末期から安土・桃山時代ごろまで遡ることができるものと推定されている。
 江戸時代に入り、幕府の酒造統制政策のもと、池田は「往還の道筋、市の立つ処」として酒造業がみとめられ、朱印状の庇護もあって、伊丹と並ぶ銘醸地へと発展したのである。

◎池田酒 豊島郡池田村に造之、神崎の川船に積しめ、諸国の市店に運送す、猪名川の流れを汲で、山水の小清く澄を以て造に因って、香味勝て、如も強くして軽し、深く酒を好者求之、世俗辛口酒を伝へり。(「摂陽群談」元禄14年刊)
◎池田、伊丹の売り酒、水より改め、米の吟味、麹を惜しまず、・・・・・軒を並べて今の繁盛、・・・・・大和屋、満願寺屋、賀茂屋、清水屋、此の外次第に栄えて、上々吉諸白、・・・・・。(井原西鶴「織留」)

このほか、池田の酒を紹介した当時の書物は、枚挙にいとまがない。
 明暦3年(1657)の酒造株設定時には、42株、13,640石がみとめられ、元禄期には、60株を超えた。江戸積銘醸地の中でも中心的存在で、元禄10年(1697)、池田から江戸へ下った酒は、28,238駄 = 56,576樽にものぼる。これは、この年の江戸下り酒総入津髙の8.8%を占め(表1参照)、まさに、近世池田酒造業の全盛期であった。
 このころの酒屋の分布状況をみてみると(図1参照)、そのほとんどが東・西本町(現栄本町)に集中している。池田屈指の酒造家満願寺屋や大和屋も、東本町(現在のコミュニティセンターから職業安定所付近)にあった。
図3:江戸時代・池田酒の商標
満願寺屋は「小判印」「養命酒」、大和屋は「山印」「滝ノ水」を醸造し、江戸の人々の評判も高かったという。伊居太神社(綾羽2丁目)には、全盛期の元禄14年、酒屋六尺中から奉納された井戸が残っている

【池田酒造業の衰退】
幕府の酒造統制が緩和され、灘をはじめとする新興酒造地が登場してくると、池田はだんだん遅れをとるようになった。その後の酒造政策によって若干の変動はみられるものの、池田が占める江戸積入津樽数の割合は減少の一途をたどり(表1参照)、酒造株のなかでも休株のものが目立ってきた。
 衰退の要因には、いくつか指摘されている。その一つは、池田が海岸線から遠く、江戸積みには不利な条件であったことである。江戸時代を通じ、猪名川通船願いが何度となく出されるが、その都度、池田をはじめ周辺諸駅の馬借らが反対し、実現しなかった。天明4年(1874)、ようやく許可されたが、それは、下河原(伊丹市) - 戸野内(尼崎)間に限られていた。
池田から江戸までの輸送経路と運賃
したがって、池田の酒荷はまず、牛馬で広芝、あるいは神崎・下河原へ運ばれ、そこで小型廻船(小廻し)に積み替えられ、安治川・伝法まで送られたのち、再び樽廻船に積み替えられて江戸まで廻送された。このことは、単に運賃が余分にかかるというだけではなく、駄送では輸送量も限られ、なんといっても二度の積み替え作業で、江戸着までに多くの日数を要することが大きな問題であった。酒荷は、特に迅速性が要求されるものであっただけに、海岸沿いの灘にくらべ、奥まった地の池田は不利であった。
 第2点としては、酒造技術(水車精米・仕込方法)改良の遅れがあげられる。灘では、近世中期から、既に水車精米を採り入れていたのに対し、池田や伊丹では、依然、足踏み精米にたよっていた。明治期に入ると、木部の水車場を利用していたことが知られているが、いつ頃から水車による精米が始まったか定かでない。文化年間(1804 - 18)にも、木部の水車場が米搗きに使用されていた記錄があるが、酒造業との関係は詳らかではなく、仮に酒造米の精白に使用されていたとしても、灘方面の急流を利用した水車に比べ、その精白度や精白量は低かったと思われる。
 仕込技術の面では、薄物辛口への好みの変化に対応し、文化・文政期、灘では、米1石に対し水1石の仕込方法に成功しているのに対し、池田では、米1石に対する水は5割弱に過ぎなかった。
呉春酒造酒蔵梁の書付(元禄14年 甲賀谷仁兵衛)
第3点目は、在郷町池田の特権のよりどころであった朱印状が、官没収されてしまったことである。この「朱印状事件」は、安永3年(1774)、満願寺屋が大和屋からの借金300両の返済を拒否したことに端を発し、朱印状の下付先が満願寺屋か池田村かの争いへと発展、ついに、安永5年、満願寺屋の借財返済と朱印状官没収が命じられたものである。特権のよりどころを失った池田は、酒造業だけでなく、在郷町の機能全体としてもかげりをみせるようになったと訴えている。
 このほか、酒造家が金融業へ一部資本を転換するようになったことなども要因の一つにあげられている。こうした諸条件が重なって、やがて、江戸積酒造体制から脱落し、酒造株の質入れや売買が行われ、「出造り」が一般化していった。
 以上のような発展、衰退の歴史のなかにも、新旧酒造家の交代がみられる。元禄期ごろ、上位を占めていた小部屋、菊屋、満願寺屋に替わり、江戸時代後期は、甲字屋、綿屋などが成長してくる。これら新興酒造家の中には、酒造技術の改良に努め、辛口薄物の酒の量産化を実現したものもいる。しかし、こうした動きが池田の酒造業の復興までに至らなかったのは、これら酒造家が、純粋に酒造経営を行っていたのではなく、貸金を主とし、酒造業を行っていたという点にあったといわれている。仕込技術では、遅れを取らずとも、原料の酒米の多くを質入米に頼っていたことが、酒の品質を左右したのではないかと考えられている。
-----------------------(資料9おわり)
※文中の酒造家小部屋とは、「小戸」か。

少々長い引用でしたが、酒造と輸送は両輪ですから、効率のよい輸送(出荷)をどのように確保するのかは、非常に重要な問題です。この池田の一大産業の勃興に、池田の武士や元の住人が戻って従事するようになっていたようです。酒造最大手の満願寺屋は、当主の名を「荒城九郎右衛門」といい、「荒城」との字を充ててありますが、これはやはり「荒木」であろうと思われます。また、他の荒木一派も「鍵屋」という屋号で酒造業を営んでいたり、他にも池田家中の武士であった酒造家もありました。
 一方で、それに関連する役割を持つ者も当然いた事でしょう。荒木村重は没落して後、摂津国守護職であった頃の役目の延長で、鋳物師統括に関する取り計らいをしていたらしい史料もあります。
※中世鋳物師史料P141

(資料10)-----------------------
先刻申し入れ如く候。彼の知行分の儀、荒木弥四郎村基存分に成り候者、知行分存知候間、重馬之かい料の儀、進められるべく申しの由、松台(不明な人物)仰されるべく候。恐々謹言。
-----------------------(資料10おわり)

上記は年記を欠く、3月26日付の文書で、宇■真清、公卿真継久直宿所へ宛てて音信されているものです。宇■真清とは、■が欠字ですが、これは宇保という人物と思われ、宇保は今の池田市内にある地域の「宇保」の有力者と考えられます。この地域にも宇保姓の武士が居た事は、当時の発行文書からも明かです。また、真継久直とは、あまり地位の高くない公卿ですが、日野家に関係し、全国の鋳物師の統括を担っており、この頃は、一元化を推し進めている途上でした。その流れの中での文書です。

このように、甲賀谷正長も池田の家老的重職を務める役の家系にあったようですから、その政治力や人脈を活かした、時代時代の役割りがあったのだろうと思われます。
 先にも述べたように、正長は長遠寺の復興や正蓮寺の創建に、中心的な役割りを果たしており、それに伴う経済的支援もしていることから、相当な経済力も持っていたことは明かです。甲賀谷という、いち地域から町全体の政務(まつりごと)を行う地位に昇っていたのかもしれません。

最後の桶職人 武呂氏(池田酒と菊炭より)
ちなみに、甲賀谷正長の名乗りの起源であった、江戸時代の甲ヶ谷の様子について、資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料11)-----------------------
【甲賀谷町(現池田市城山町・綾羽1丁目)】
東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
-----------------------(資料11おわり)

甲賀谷は、近年まで大工職をはじめ、職人の多い町として知られていて、この江戸時代の流れが、その時代に沿いながら地域の定形文化が続いていたといえます。




此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(摂津池田出身の甲賀谷氏の出自が武士であったであった可能性)

池田家中(若しくは荒木家中)にあった甲賀谷正長も、その流れの中で、自身の役割りと能力を生かして活動していたと思われます。甲賀谷氏と深い繫がりがあると考えられる「甲賀伊賀守」についての記述を参考までにご紹介しておきます。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

(資料7)-----------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
-----------------------(資料7おわり)

摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
上記は伝聞資料ではありますが、ある程度正確に記述されていると考えられます。また、時代もハッキリと記されていませんが、本拠地機能を拡大・移転させるにあたり、荒木村重が伊丹の有岡城を稼働させた天正3年頃を区切りに記述したものと考えられます。
 個人的には、荒木村重が池田家から身を起こして地域勢力の主導権を確立して行く中での統治・支配体制(軍事的にも)ではないかと考えています。
 当時の発行史料から見れば、池田一族が中心であった頃の統治機構(池田四人衆:家老)はこのメンバーでは無い事が明らかです。
 記述にある「池田の城伊丹へ引さる先」とは、天正3年秋以降の事を指すと思われますが、流れとしては、天正元年の8月頃に、村重を「摂津守護に目す(正式では無いが)」公言があったようで、それを元に様々な状況変化が起きています。
 織田信長の期待通りに行動した村重は、天正3年8月頃に「摂津守」を正式任官し、名実共にその座に就いています。その頃には、地域政権の体制ができていたようですが、そこに至るまでの黎明期には、地域に影響力のある人物を立てざるを得ませんので、村重に理解のある旧池田勢力を活用したのだろうと思われます。それが記述に見られる、「右五人之家老町ニ住ス」顔ぶれだったのかもしれません。
 本拠機能が伊丹の有岡城に移ってからも、池田でのこの体制は続いたと思われます。「池田と伊丹は一対の城」と記述されてもおり、池田は非常に重要視されていましたので、配置の人選も念を入れたものになっていたことでしょう。

また、天正6年秋、荒木村重が織田政権から離叛し、池田の町に戦火が及んだ様子が伝承されていますので、以下にご紹介します。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 本』)

(資料8)-----------------------
一、天正之乱■当国大形在々所々三日三夜之内中二焼き払われ方々へ逃げちらし金銀たくわへ有人は他国二住ス也。一、此時池田之人々他国へ行も有、池田山のうしろ丸尾はばと云所二小屋かけ住、折々里へ下り耕作つくり住人八十余有、雨降時ハ長櫃二置かがみ住人も有、作り付たる田を伊丹より夜ル来刈とらるる人も有。
■ = 欠字
-----------------------(資料8おわり)

このように、織田政権から離叛した荒木村重は、滅ぼされてしまいます。伊丹や池田、尼崎など主要な都市は攻め落とされて、町も大きな被害を受けました。
 池田の町の「甲賀谷」とは、甲賀伊賀守をはじめとした、甲賀地域から人々が移り住んだことがキッカケで地名となったと思われます。その地に関わりの深い人物が、甲賀谷氏であろうことは、自然な流れとして起きた事と考えられます。

しかし、その後、織田信長も斃れますが、時代は大きく動き、日本国全体は武力統一されて平和な世が訪れます。




2019年8月24日土曜日

此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(伝法(大阪市此花区)について)

正長自身が法名を「正蓮」と名乗り、それが寺号となっている正蓮寺は、現在此花区伝法にありますが、正長とは何の関係も無いところに建てられるはずがありません。これ程までに経済的に、心情的に支援できるからには、相当に強い結びつきがあったのではないかと考えられます。その「伝法」という場所について、引用してみます。
※大阪府の地名1(平凡社)P747

(資料4)-----------------------
現在の正蓮寺の様子(2019年撮影)
【伝法村】 此花区伝法1 - 6丁目
中津川が下流の中州によって伝法川と正蓮寺川に分流する地に位置し、伝法川の北岸を北伝法(伝法北組)、南岸を南伝法(伝法南組)と称した。南東側は四貫島村。地名は仏教伝来にちなむとか、鳥羽上皇が紀州高野山に伝法院を建立する時、その用材を船積みした地であるからなどの里伝がある。
 当地は、中世末期には中津川河口の湊として交通の要衝となっており、伝法口とも称された。「陰徳太平記」によると石山本願寺を攻める織田信長が、「伝法」に武将を配置している。また慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、大坂城に籠もる豊臣方が当地に砦を築いたともいわれる(大阪市史)。諸川船要用留所収の慶長8年付徳川家康の過書中宛朱印状写に過書船発着地の一つとして当地があげられている。同10年の摂津国絵図には「テンホ」とみえる。元和元年(1615)大坂藩松平忠明の支配下で船手加子役を賦課され、同6年には大坂御船手(小浜氏)の支配下となり、船番所も設置された。寛永11年(1634)から加子扶持7石を支給されている。寛文10年(1670)幕府領となったことにより加子役はそのままで、年貢も賦課されるようになった(西成郡史)。当地が行政的に村となったのはこれ以後のことで、それ以前は大坂に準じて幕府直轄都市の扱いを受けていたと思われる。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領となっている。以後幕末に至る。享保20年(1735)摂河泉石高帳によると130石余、流作地4石余。加子役は屋敷を単位に賦課され、南北両伝法に185軒の公事屋敷があった。ところが天明年間(1781 - 89)町を単位に賦課する方法に改められ、当時、当地辺りに成立していた八か町、すなわち北伝法上之町に35役、同中之町40役、同下之町30役、南伝法上之町42役、弥右衛門開の内八軒町6役、南伝法下之町12役、五右衛門開5役、十三軒町15役が課せられた。なおこの加子役の賦課率は村小入用の割付にも適用され、享保8年以降は村小入用の6割は加子役に、4割は村高に割付られたという(西成郡史)。
埋め立てられている正蓮寺川(2019年撮影)
大坂市中の河川を回漕する上荷船・茶船のうち、当村上荷船は最も古い由緒をもつ七村上荷船の一つに数えられている。年次は未詳だが船極印方(「海事史料叢書」所収)によると、上荷船45艘をたばねる組頭一人が南伝法に、同45艘の組頭二人と同44艘の頭一人が北伝法にいた。正保期(1644-48)上方から江戸への下り酒が伝法廻船で積み出され、万治元年(1658)佃田屋与治兵衛が北伝法上島町で江戸積の廻船問屋を開業、寛文年中、中島屋小左衛門・小山屋源左衛門・堂屋藤兵衛が酒樽専門の江戸積問屋を開業、元禄年中(1688 - 1704)には綿屋治兵衛・大鹿屋九兵衛・宮本弥三兵衛・薬屋新右衛門らも加わって、その数を増やした(「船法御定並諸方聞書」同書所収)。それに用いられた伝法船は従来の菱垣廻船よりも迅速に回漕したため「小早」と称され、やがて酒樽以外の商品も積み込んで菱垣廻船に対抗した。これが享保期以降、樽廻船と呼ばれるようになった(「菱垣廻船問屋規錄」同書所収)。樽廻船はとくに伊丹・池田の酒造業の発展に対応して繁栄した。しかし当地においては貞享元年(1684)安治川の開削によって河港としの繁栄を順次安治川沿岸に奪われ、当時船数700余・家数800余・人数3500余と栄えていたのに対し、天明年間には船数200余・家数400・人数1900余に減少したといわれる(西成郡史)。もっともその頃当地には廻船業の他に酒株37・醤油造株3・樽屋26・運送屋3・寒天曝屋4・籠屋2・竹屋2・畳屋2・家および船大工9・紺屋4・質屋4・寺子屋4・商人73・医師4・按摩17・社人3・僧尼道心者35などがあり、小都市の景観を呈していた。また、伝法川に設けられた船渡しは「伝法の渡し」とよばれ、尼崎に至る街道に通じて、大名参勤の通路となっていた。
 当地には鴉宮(からすのみや)・澪標(みおつくし)住吉神社、浄土真宗本願寺派浄泉寺・西光寺、真宗大谷派慶善寺、浄土宗宝泉寺・西念寺、日蓮宗正蓮寺、単立(浄土真宗系)安楽寺がある。鴉宮はもと伝法の船問屋が祀った「伝母頭神社」といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、三羽の鴉が水先案内をしたことから現社名に改称したと伝える。川名の由来ともなった正蓮寺では8月26日に川施餓鬼を行う。「伝法の施餓鬼」とよばれ、天神祭とともに浪速の夏の二大行事とされている。明治10年(1877)当村は南伝法村・北伝法村に分村した。なお、天保郷帳に弥右衛門開18石余と「助太夫・五右衛門開」77石余がみえるが、うち弥右衛門開と五右衛門開は当村に近い伝法川上流中州に開かれた地で、助太夫開は大野村(現西淀川区)に接して開かれた新田である。
-----------------------(資料4おわり)

上記のように伝法は、交通の要衝で、古くから開けていた場所であるようです。当然、その地勢環境(素質)は、長い間受け継がれ、戦国時代にも重視された場所で、伝法から北側に2〜3キロメートルのところには、大和田城があって、それぞれ尼崎街道でつながっていました。
 また、港の機能として、近代時代まで尼崎あたりが大型船の出入りに向いており、大坂よりも尼崎が港として賑わいがあったようです。大坂は、土砂の堆積で海底が浅く、大型の船の航行には不便だったようです。
 それ故に尼崎は古くから港として機能しており、人や物が集まって、それらの活動に相対して古刹も多くあるようです。その内のひとつ、甲賀谷長正長と関係の深い尼崎の大尭山 長遠寺について資料を引用します。
※兵庫県の地名1(平凡社)P446

(資料5)-----------------------
大尭山 長遠寺
【長遠寺】
江戸時代の寺町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和3年(1617)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは、風呂辻町辰巳市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永2年(1705)の大尭山縁起によれば、観応元年(1350)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院16坊を数えたという。歴代住持のうち5世日了が、本山12世となるなど、京都本圀寺末の有力寺院の一つであった
 開基の地については七ッ松で、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄12年(1569)3月の織田信長の軍勢による尼崎4町の焼き討ちの際には、当寺と如来院だけが戦火を免れたという(細川両家記)。当時は「尼崎内市場巽」に所在しており、元亀3年(1572)に信長は、同地での当寺建立に際して、陣取りや矢銭・兵粮米賦課などの禁止を命じている(同年3月日「織田信長禁制」長遠寺文書)。
16世紀の尼崎(尼崎市立地域研究史料館紀要 -第111号-)
さらに天正2年(1574)には荒木村重が、信長とほぼ同内容の禁制を与えているが(同年3月日「荒木村重禁制」同文書)、禁制の冒頭には「摂州尼崎巽市場法花寺内長遠寺建立付条々」とあり、伽藍造営だけではなく、当寺を中心とする地内町の建設工事であったことを示している。村重はさらに巽(辰巳)・市庭の年寄中に対して堀構のことを申し付けるとともに(3月15日「荒木村重書状」同文書)、尼崎惣中に対して当寺普請を油断なく沙汰するよう指示しているほか(4月3日「荒木村重書状」同文書)、貴布禰社などの諸職の進退や公事・諸物成の納入、諸役諸座などの免除、守護使不入等について定めた寺院式目条々を当寺に付与している(天正2年3月日「荒木村重定書」同文書)。同16年には勅願道場となった(同年3月25日「後陽成天皇綸旨」同文書)。
 江戸時代には長洲貴船大明神宮(現貴布禰神社)の神職も兼ねており、毎年1月7日礼祭神事を執行した(尼崎志)。境内に祖師堂・妙見堂・護法堂と僧院三房があった。
 本妙院は観応元年創立、宝泉院は文亀元年(1501)創立。開基不詳。中正院(現存)は明徳年中(1390-94)創立、開基不詳(明治12年調寺院明細帳)。慶長3年(1598)建立の本堂(付棟札2枚)と同12年建立の多宝塔(付棟札5枚)は、国指定重要文化財。鐘楼・客殿・庫裏は、県指定文化財であったが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震のために全てが破損した。一石五輪塔として天正3年10月10日、慶長13年(基礎)・同14年銘のもの、同13年4月8日銘の石灯籠がある。
-----------------------(資料5おわり)

また、正長の信仰の篤さを知る事ができる、長遠寺へ寄進するなどした関係資料一覧を以下にあげます。

(資料6)-----------------------
資料名
年代
内容等
1
多宝塔棟札
慶長11年
「願主甲賀谷又左衛門尉正長敬白」
2
多宝塔棟札
慶長12年
「甲賀谷又左衛門尉正長(花押)
3
日桓曼荼羅本尊
慶長13年1月2日
裏書「授与甲賀谷又左衛門尉正長」
4
客殿棟札
慶長18年4月6日
「大願主甲賀谷又左衛門造之」
5
日蓮書状
(乙御前母御書)
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日
願主甲賀谷又左衛門法名正蓮(花押)
6
日蓮曼荼羅本尊
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)
7
日桓曼荼羅本尊
元和4年11月17日
裏書「甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶授与」
8
日厳曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
9
日聡曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
10
日円題目
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
11
本堂棟札
元和9年5月
「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」
12
甲賀谷正蓮書状
8月14日
長遠寺宛
13
鐘楼棟札 
寛永14年6月27日
「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也
願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」
-----------------------(資料6おわり)

尼崎は、軍事的・経済的にも重要でしたので、時の大名は尼崎を重要視していました。池田家中から成長した荒木村重も織田信長政権下で地域勢力として伸張し、尼崎も支配下に置きます。村重は、摂津国全域と河内国の北半分を担い、統治しました。





此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(瑞光山 本養寺(大阪府池田市)について)

日蓮宗(法華)の特徴は、主に町屋と町衆を布教対象としていたため、周辺地域の拠点的特徴も持っていた池田に、日蓮宗の布教拠点(寺院)があったのも、それは自然なことと言えるのかもしれません。以下、池田の本養寺について、ご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料2)--------------------
瑞光山 本養寺(2001年頃撮影)
【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
 元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
 なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
--------------------(資料2おわり)

また、池田での『穴織宮拾要記 末』による伝承では、荒木村重が池田城を畳み、本拠機能を伊丹へ移したときに、本養寺も伊丹へ移したとしています。しかし、場所など伊丹での実態状況が不明です。江戸時代に再び池田へ戻ったとされるまでの間はよくわかっていません。
 町衆と深く結びつく宗教で、歴史も永く、池田では大きな寺院でもあったことから、本拠を移すにあたって行動を伴にすることは、何ら不自然ではありません。
 ちなみに、法華宗も日蓮宗も日蓮上人を宗祖としています。本山の違いがあって、宗派が別れています。時代を経る中で、考え方の違いで派生していきました。元々は法華宗と呼ばれていたようです。

また、天正3年頃に池田から伊丹へ本拠機能を移した時の伝承記錄に、本養寺のことが記述されています。『町並調査報告書』など、いくつかの資料からの引用です。
※(1)北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P32(『穴織宮拾要記 末』)、(2)荒木村重史料(伊丹史料叢書4)P136(『穴織宮拾要記 本』)

(資料3)-----------------------
(1)しかし荒木村重は間もなく、本養寺・大広寺を伊丹へ移し、町人も「城之用聞五軒伊丹へ引き」「池田之城をたたみ百姓二歩せ」(以上『末』)、本拠を伊丹へ移した。
(2)一、今ノ本養寺屋敷ハ池田ノ城伊丹へ引さるさき家老池田民部屋敷也。(中略)一、大広寺・本養寺二箇寺伊丹へ引跡二も小寺建置、旦那ノ内身体よろしき人死候時ハ伊丹へ和尚呼二行也。本養寺ハ元円住坊山二有、留守坊主ノ名円住坊と云候故、今畠ノ字円住坊山と云、伊丹崩候後池田二二ヶ寺被帰候。秀吉公・秀頼公之御時より池田ハ御代官所成ル、片桐市正御預り牧治右衛門池田支配ノ時、右之屋敷本養寺へ寄付せられ候。町人も城之用聞五軒伊丹へ引、又帰り候
-----------------------(資料3おわり)

このような伝承記錄があるのですが、伊丹市側では本養寺のこの動きについて把握されてされておらず、詳細は不明です。場所なども判っていません。もしかすると伊丹にある日蓮宗滋霔山 本泉寺に何らかの関係があるのかもしれませんが、それも不明です。






◎参考記事:摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(海照山 正蓮寺(此花区伝法)について)

前回は、大尭山長遠寺(現尼崎市)を中心に、甲賀谷正長と池田のつながりについて、考えてみたのですが、今回は特に、日蓮(法華)宗系の池田やその周辺の関係寺院に範囲を拡げて調べてみました。先ずは、大阪市此花区にある正蓮寺についてです。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より

(資料1)-----------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。
 大阪の代表寺院25ヶ寺の内に数えられた正蓮寺は、惟うに権門の庇護に依り建立された寺ではなく、土着の一無名人の発願にて創立された庶民的な寺院であります。創建以来来伝燈絶えずして信徒参集し、寺門興隆して現在は第26世を踏襲するに至っております。
第7世 寂行院 日解上人墓
【伝法の川施餓鬼】
享保6年(1721)、当山第7世、寂行院日解上人は、日蓮大聖人が海中にて衆生済度せられた功徳を継承せんとて、川供養の行事をはじめられたのが、いまの伝法の川施餓鬼であります。創始以来、正蓮寺川に棚を作り色々な供物をして、有無両縁の万霊を供養して参りました。摂津名所図絵に記されている様に、数百曳の船団で参拝者が群集したしました。地元の伝法・高見・四貫島の各家では、遠近より親類縁者を招いて精霊をお祀りし、法要の後は各船団は棚を片付けて船遊びに興じてお祭り騒ぎになるのが常でした。陸では数百の露店が賑わい、名物の枝豆・竹ごま・焼鳥屋などが繁昌し、全く天神祭をしのぐ程の盛大な大阪の夏を締めくくる行事でした。夕刻、船団も引き揚げ露店も終わる頃には涼風も吹く時期でもあり、「暑い夏には天神祭、あついあついも施餓鬼まで」と、今日までの夏の風物詩として語り継がれ親しまれて参りました。古来より仏法経典の渡来した最初の浜とも云われる伝法の地であります。仏事が盛大に行われて来たのも当然のことと思われます。昭和46年には、川施餓鬼創始250年の記念大法要を厳修いたしました。殊に現在は、区内に奉賛会が組織され、更には浪速全般に亘る参拝会の活躍は、誠に有り難いことでもあります。ただ、昭和42年頃より正蓮寺川の汚濁が甚だしくなった為、川渡御は新淀川に移すことになりました。平成26年度に「正蓮寺の川施餓鬼」として大阪市指定無形民俗文化財に指定されました。
-----------------------(資料1おわり)

正蓮寺さんに直接尋ねたところ、水害などで寺の文書などが流出してしまい、石仏など一部の遺物や口伝しか残っていないとの事で、今のところ、これ以上の直接的な手がかりはありません。

さて、上記の略縁起中の記述について、少し注目しておきたいと思います。甲賀谷正長は「武家」と伝わっており、やはり池田での伝承記述『穴織宮拾要記 末』にある甲賀伊賀守に系譜を持つ人物の可能性が高いように思われます。
摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
また、「たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。」との件について、池田城下には本養寺という日蓮(法華)宗のお寺があります。室町時代の創建で、近衛家ともつながり、京都の大寺院である本圀寺から開山の住持を迎えています。
 甲賀谷正長が、池田の本養寺を通じて日蓮(法華)宗に接していたのなら、京都から来た唯性院日泉上人とも接点はあるでしょう。ですので、この正蓮寺縁起中の話しの環境は、時代の事実に沿って、概ね整っています。
 それから、「毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。」の記述は、池田に海はありませんので、他のどこかでの出来事でしょう。邸内とは、池田の屋敷かもしれませんが、判別不明です。しかし、いつも身近なところに海があり、夜に起こる現象を度々見ることができるのですから、その辺りに定住するなどしていた可能性が窺えます。いくつかの屋敷を持っていたのかもしれません。
 後に延べますが、甲賀谷正長は、武士としての経験を活かした政治的活動や運送、酒造に関わる生業で、移動することが多かったのではないかと今のところ推定しています。


海照山 正蓮寺
〒554-0002 大阪府大阪市此花区伝法6丁目4−4





此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(はじめに)

摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?」の記事に続いて、同じテーマでもう少し調べを深くしてみました。この記事の中心である、甲賀谷又左衛門尉正長についてですが、その行動からして、日蓮宗(法華)への信仰を深くしている人物である事がわかります。要素を区切って、深く掘り下げていきたいと思います。

詳しくは、以下の記事をご覧下さい。

はじめに
海照山 正蓮寺について
瑞光山 本養寺について
伝法(大阪市此花区)について
摂津出身の甲賀谷氏の出自が武士であったであった可能性
戦いの無い平和な時代の池田と甲賀谷氏を考える
戦国武将甲賀谷長正という人物像の輪郭

参考記事:摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

2019年8月22日木曜日

何と!米原正義先生がお使いの史料を入手。

ネットで「蔭凉軒日録」を購入しました。これは単なる購買行動で、説明にその事があった訳ではありません。ただ、鉛筆による線引き多数とありました。ですので、全巻揃いのわりには、お買い得な価格でした。

米原正義先生宛の音信ハガキ
数日後、それらが手元に届き、状態の確認とか、史料の具合を見ていました。確かに鉛筆の線引きが沢山あり、「随分研究熱心な人だな」と思って見ていました。付箋も沢山付いていました。パラパラとページをめくっていましたら、ハガキが挟んでありました。崩し字だったこともあって、あまりよく見ずに、ゴミ箱へ一旦捨てました。
 しかし、古そうなハガキで、ハガキ1枚が40円の時代です。何となく気になって、宛名を見ると「米原正義」とありました。あれ、見覚えのある名前。誰だったかな...。暫くして、戦国史研究の大先生である事を思い出し、裏に書いてある通信内容を読んでみました。確かに歴史史料に関する事が書かれています。同名別人ではありません。確かに國學院大學名誉教授の米原先生です。

こんなことがあるんですね。驚きました。それを知って、もう一度、史料を確認してみると、そりゃそんな先生の史料なんだから、最初の私の印象も当然ですね。
 どんな風に、研究されているのかと思い、線引きされている様子を見ていました。やっぱり私の方法と同じ、史料中から人物の行動を具に追い、それを抜き出して他の動きと照合する。これをどのくらい精緻に行うか。それしか、研究の方法は無いようです。少し嬉しかったです。私は誰に教えて貰った訳では無いのですが、手探りでやっていただけに、その方法があながち間違いでは無かったこと。

無数の線引があり、重要部分は赤線
最近、本当に文化財の破壊が激しく、また、保護や活用の最前線にいる人の深層認識(自治体の担当者や委員)に触れ、非常に杜撰(ずさん)であること。それを改善しようともしない現実を目の当たりしに、少々めげていたところもあった中での出来事です。
 それも、見つけたハガキの日付にとても近い日に史料を受け取り(同じ日だったらドラマチックだったけど...)、何だか暑中見舞いを受けたようなタイミングでした。

写真のように、もの凄く沢山の線引きがあるので、消しゴムで消しています。何年ぶりに消しゴムをこんなに使うだろう。消さずに、先生の情報を活用すればいいのですが、やっぱりこれ程に沢山あると、私の視点が定まらず、少し邪魔になりますので、消したいと思います。後で消せるように鉛筆で書かれているのも、そういう配慮だと思います。私は私の視点で、史料上の要素を追いたいと思います。

それにしても驚きました。本当に驚きました。もの凄く希なご縁だと思います。これからも私の研究を頑張ります。

2019年7月7日日曜日

前田利家、佐々成政などの武将も陣を取った摂津太田城と太田氏について考えてみる

げ摂津太田城については、不明な事が今も多いようです。発掘も殆ど行われずに破壊されてしまった事と、文献があまり無いところから進展が図れないようです。摂津池田氏もそうですが、散見される手がかりを集めて、そこから推量することから始めないとダメなのでしょうね。
 ネットでザッと調べてみましたが、詳しく調べられたところは、あまり無いようなので、みなさんの参考になればと思い、記事としてアップしてみます。非常に文字数が多くなりますが、現在茨木市太田やその周辺にお住まいの方々の他、太田にゆかりの方へ何らかのお役に立てばと思い、長文ですが敢えて詳しく載せておきたいと思います。
 まず、『わがまち茨木(城郭編)』から該当項目を抜粋してみます。
※わがまち茨木(城郭編)P24

------------------------------------------
(1)はじめに
茨木市には数多くの城があるらしいが、城らしい城は茨木城だけではなかろうか。太田城は砦といったほうがよいかも知れない。しかし茨木城よりも200年余りも以前の平安時代末期の城であった。今、太田城の面影は、石垣の一部だかしか残っていない。また長く続いたであろうと思われる記録も残っていない。ただ側面的な事象を取り上げて”まぼろしの太田城”を構築してみたいと思う。
(2)太田の家並
旧市街(2002年4月頃の撮影)
太田一・二丁目の旧住宅内を歩くと、道路は狭く、まっすぐに突き抜ける道ではなく、T字型(三叉路)になって折れ続いている。これは城下町の特徴を示している。一戸一戸を見ると、古風な門や門長屋・格子の玄関など時代劇映画のセットを思わせる佇まいである。
(3)太田城跡
太田には”太田地番図”という大図面がある。その中に”城の口” ”城の前”という小字があり、太田城があったように思われる。そこは太田の旧住宅の南端から約200メートル南方の地点である。城の口は広い平地にあるが、城の前はそれより低いところにあった。1960年頃までは付近一帯水田であり、よい米の生産地であった。今この城の前は町名変更で付近の土地を合わせて”城の前町”と改名している。
わがまち茨木(城郭編)より
上の二図を比べると、城の半分は東芝中央倉庫の敷地になっている。城の西側と南側の落差は7〜8メートルの急斜面であって、いわゆる舌状台地の突端を利用した城であったと推定している。大きさは東西・南北共に150メートル前後だっただろうか。その東端に高さ2メートルくらいの”城の山”があり、太田城跡のシンボルでもあった。その位置から考えると、物見櫓的な働きをしていたのではなかろうか。
 昭和35年、城跡の半分が東芝に買収され、中央倉庫にするため約2メートルばかり切り下げる土地造成を行った。その折、城の山の西方で青みがかった幅2〜3メートルの土が50メートルばかり続いて出てきたが、遺物は何も出なかった。昭和32年、城の口の西方(通称”段の森”とか”お宮の下”とかいっている)の、里道を拡張して農道にするため土を掘り返した折に、松の根が数本でてきたことから大きな森があったのではなかろうかと想像される。
○大阪府全志---「太田城址は南方にあり。太田太郎頼基の築きし所にして、同氏累世の居城たりしも、廃城の年月は詳らかならず。今は田圃となりて、城の崎、城の前などの字地を存せり。」とあるしかし、太田地番図には、城の崎の地名は見当たらない。
(4)太田野太郎丸の墓
城の山は東西数メートル、南北10メートル、高さ2メートルばかりの草地で、その南方で北面した自然石の墓石があった。表には”地蔵菩薩”、裏には”太田野太郎丸”と彫り込まれ、これを覆う常緑樹が数本植えられていた。毎年8月24日の地蔵盆には、提灯をかかげてお祭りしていた。
○大阪府全志---「其の墓は南方田圃の間にありて、高さ三尺許の自然石なり。」
○三島村誌---「太田太郎源頼基文治三丁未年摂津国川原条に於いて義経の為に討ち死に。其碑銘表面に地蔵菩薩・裏面に太田野太郎丸と記載あり。本村の南へ距ること三町にして、田間に屹立せり。」
ところが、この城の山も買収範域に入ったので、約50メートル北西の空き地に墓石を移すと共に、伊吹をを植えてこざっぱりとしたところとし、例年通りのお祭りをしていた。しかし、年と共に荒れ果ててきたので、太田共有財産管理会では、1978年(昭和53)に石垣を造り、頼基の行跡を石に刻んで立派な顕彰場所とした。
(5)太田城
城跡の面影の残る段丘(2002年4月頃の撮影)
太田野太郎丸とは、太田太郎頼基のことで、太田城を居城としていた。太田城は彼が築城したというが、記録が無いので細部の点が不明である。ただ城の東・南・西の所々に石垣が散見できる程度であったが、これも1961年(昭和36)の土地造成のため破壊された。しかし北西部の1箇所だけが残っている
 源平合戦では全て討って出て戦っているように、その当時は城を守るという考えは無く、太田城も台地の上につくった砦の域を脱しなかったと思われる。
------------------------------------------

続いて、城郭を調べるには、バイブル的存在の『日本城郭大系12(大阪・兵庫)』より「太田城」の項目を抜粋します。ちなにに、城郭大系の該当項目も『わがまち茨木(城郭編)』を元に書かれています。
※日本城郭大系12(大阪・兵庫)P73

------------------------------------------
太田城は安威川の東岸、西国街道に接した南側付近一帯に築かれていたと推定されるが、昭和35年、この地に東芝中央倉庫が建設された際に、旧地形は全く損なわれてしまい、今はただ「城の前」町という町名にその名を留めるのみとなってしまった。それでも、1960年(昭和35)以前の様子は、太田在住の歴史家加藤弥三一氏の著された『まぼろしの太田城』によって僅かながらうかがうことができる。
城跡の面影の残る段丘(2002年4月頃の撮影)
同書によれば、従前この地には「城の口」「城の前」という小字と、「城の山」という小丘陵が存在していた。「城の口」は、同書中の図をも加味していえば、舌状に張り出した台地の先端部付近の平地を指し、「城の山」はその先端のやや東寄りに位置する高さ2〜3メートルの微高地であった。その大きさは、東西数メートル × 南北十数メートルであったという。「城の前」はこの舌状台地の南側一帯で、落差は7〜8メートルもあったといい、良田であった。また、「城の口」は、その西方を「段の森」あるいは「お宮の下」とかいったが、1957年(昭和32)、俚道拡張工事の際に土を掘り返したところ、数本の松根がでてきたところから、大きな森となっていたのではないかといわれている。さらに、東芝中央倉庫の造成工事に際して、この地を約2メートル切り下げたところ、「城の山」の西方で青味(泥)がかった幅数メートルの土が、南北に50メートルばかり続いていた。当時の堀かと思われたが、遺物は何も出土しなかった、と記されている。
 いずれも正確な場所がわからないのは残念なことであるが、加藤氏の貴重な著述によって、太田城の概略を知る事ができるのは、ありがたいことである。
 さて、以上に要約した加藤氏の所説によれば、太田城は、その南面においては7〜8メートルの比高を有する舌状台地の突端に築かれた城郭であったと推定される。「城の山」も、おそらく太田城に関係する施設であったと思われ、その位置からすれば、物見櫓的機能が想定されよう。
安威川の様子(2002年4月頃の撮影)
ところで、この太田の地は、東方の芥川と西方の安威川とによって挟まれた丘陵が沖積平野へと移行する傾斜変換点付近に立地しており、古来、開けた土地であった。『新撰姓氏録 摂津国神別』には、前述の中臣藍連と同族である中臣太田連の名が見えている他、太田城の北東、継体陵古墳の西傍には式内太田神社も鎮座している。また、京都と中国地方とを結ぶ西国街道も太田を通っていて、交通上の要衝としての側面も忘れることはできない。
 したがって、『大阪府全志』は太田城を太田頼基(12世紀後半在世)の築城とするが、おそらくその初源はさらに遡るものと思われ、その形態も、居館を兼ねた館城であった可能性が大きい。また、『平家物語』第12巻に、西国街道を通って中国地方へ落ちのびる源義経の軍勢に対する太田頼基の言葉として、「我が門の前を通しながら矢一つ射かけであるべきか」とみえているが、城跡の南面がその更に南側より7〜8メートルも高く、自然の要害をなしていた感があることと思い合わせれば、太田城は北側の西国街道に面して大手を開いていたことも考えられる。
昔の伝太田頼基墓(今よりも前の形態)
さて、平安時代末期頃に太田城に在城したと伝えられる太田頼基は、『尊卑分脈』によれば、多田源氏の祖、満仲九世の孫で、太田太郎と号したとされる。この頼基の名が史上初めて現れるのは『平家物語』第4巻で、治承4年(1180)4月9日の夜、源頼政が以仁王から令旨を賜らんとして、王のため馳せ参ずるであろう源氏の名を数えあげていく件があるが、その中に、「多田の次郎朝実、手嶋の冠者髙頼、太田の太郎頼基」とみえている。
また、『吉記』の寿永2年(1183)7月24日の条には、多田の下知と称して、太田太郎頼基なるものが、西国から送られてくる平氏の糧米を奪ったり、乗船を破壊したりしたこともみえており、この頃、太田氏は多田源氏の一族として、その支配下に組み込まれて活動していたことがうかがわれる。その他、太田頼基の名は『吾妻鏡』『玉葉』『源平盛衰記』などに見えるが、その居城については、『玉葉』43巻、文治元年(1185)10月30日の条に、「摂州の武士太田太郎以下、城郭を構えて云々」とみえるのみで、詳細は不明である。そして、それから約300年を経た大永7年(1527)に、細川高国と同晴元との間で戦われた合戦の最中に、太田城は周辺の茨木城・安威城などと共に、晴元方の武将柳本弾正の手によって開城させられてしまったという記事(『足利季世記』)を最後に、史上から姿を消してしまう。
 なお、『信長公記』には、天正6年(1578)の荒木征伐の際、信長が「荒木の城へ差し向け、太田郷北の山に御砦の御普請申し付けられ候」とあるが、これは地形から見て全く別の城(砦)を指すものであろうと思われる。
------------------------------------------

以上のように地形的には、太田村のあたりから段丘状になり、見通しも利く事から、軍事的な要地であったと思われます。
 『信長公記』の記述は、天正6年(1578)秋、荒木村重の織田信長政権離叛による武力闘争ですが、それより以前にも太田村は重要視されています。元亀2年(1571)秋の白井河原合戦の時です。『中川史料集』に太田郷の事が記述されています。先ずは、『信長公記』荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事の条をご紹介します。
※『改訂信長公記』(新人物往来社)P235

------------------------------------------
◎次の日(11月10日)、滝川左近将監一益、明智惟任日向守光秀、丹羽惟住五郎左衛門尉長秀、蜂屋兵庫頭頼隆、氏家左京亮直通、伊賀(安藤)伊賀守守就、稲葉伊予守良通、島上郡芥川、島下郡糠塚、同太田村、猟師川辺(地名?)に陣取り、御敵城茨木の城へ差し向かい、太田の郷、北の山に御砦の御普請申し付けられ候。(中略)茨木へ差し向かい候付け城、太田郷砦御普請出来(しゅったい)申すについて、越前衆、不破、前田、佐々、原、金森、日根野、入れ置く。(中略)
◎11月18日、信長公、總持寺へ御出で、津田七兵衛信澄人数を以て、茨木の小口押さえ、総持寺寺中御要害、越前衆、不破河内守、前田又左右衞門尉利家、佐々内蔵佐成政、金森五郎八長近、日根野備中守弘就、日根野弥治弥次右衛門尉盛就、原彦次郎長頼などに仰せ付けられ、太田郷御砦引き払い、近々と取り詰めさせ。(後略)
------------------------------------------

日本城郭大系12(大阪・兵庫)より
『信長公記』によれば、前田利家、佐々成政といった武将が、太田城に陣を取っています。西国街道を押さえる意味もあって、太田は重要視されていたと思われます。この折、普請作業も行われていますので、元の形態は改変されているようです。また、文中の「太田の郷、北の山に御砦の御普請申し付けられ候。」とは、太田茶臼山古墳(継体天皇 三嶋藍野陵)と思われます。太田の開発前のお話しを聞きますと、そのあたりがひときわ地形が高く、「山」と認識される場所であったようです。
 太田村の北側、2キロメートル程のところに塚原や安威といった要所があり、そこに通る塚原街道や茨木街道を押さえるための砦も普請したかもしれません。双方の道の北へは、丹波国と繋がっています。ちなみに、『公記』は、摂津池田を攻める時も、五月山を「北の山」と記しています。
 一方、この時点で織田信長の有力武将であった、明智光秀の名も記述されており、太田村の重要性から、きっと明智光秀も太田城に入ったりしていたのではないでしょうか。丹波国方面と頻りに連絡を取り合っていたりします。
 続いて、『中川史料集』太祖清秀公の元亀3年の項目の記述です。
※中川史料集P21

------------------------------------------
一、9月1日、暁、郡山御立ちあり。近郷の領主御味方として馳せ参る。人々には下村市之丞、熊田孫七、鳥養四郎大夫、山脇源大夫、太田平八、粟生兵衛尉、戸伏一族各手勢を召し連れ御備えに加わる。然る所に茨木方の諸士太田郷の山々、西の尾筋に出張し、弓鉄砲を打ち掛け遮り留めんとす。熊田千助、一の御先備えにて、加勢の人々相加わり鉄砲を真っ先に進め、即時に追い払い手を分け、馳せ立て競い進む。熊田孫七、森田彦市郎は地蔵峠より、人数を進め西南に掛け打ち入る。茨木方にも水尾図書助、倉垣宮内少輔等激しく防ぎ戦うといえ共、御先手は名を得たる者どもなれば、水尾、倉垣暫時に敗軍して討死す。(後略)
------------------------------------------

この詳しい分析は、当ブログの記事「白井河原合戦」をご参照いただければと思いますが、やはり太田村は要衝である事が、こういった記事により判明します。
 この白井河原合戦当時、元亀2年(1571)8月28日に合戦が行われ、高槻の地域領主(摂津守護)和田惟政が、高槻を中心としつつ太田村あたりも支配していたようです。その時の太田城主が、太田氏であったかどうかは不明ですが、『中川史料集』では、「太田平八」なる武士が登場しています。やはり、太田一族は脈々と続いていたのです。
 地形もですが、村に西国街道を通しており、また、川も隣接しています。更に、土地も肥沃で、米を初めとした産物に恵まれているなど、非常に重要な土地であったようです。

続けて、この太田平八について、『豊後岡藩(中川家)諸士系譜二』にその手がかりが記されています。
※摂津市史(史料編1)P532

------------------------------------------
 ◎第18巻
此の巻に者元亀三年九月朔日茨木城御討入之刻、大祖の旗下に属する輩記之。
太田元左衛門
其の祖太田平八、代々摂州太田の郷を領す。後家督衰微して水の尾村(現茨木市)に家居す。元亀三年九月茨木御討入の時来て、太祖の旗下に属す。
◎第19巻
此の巻に者元亀三年九月茨木城御討入之後、摂州の諸士、大祖の旗下に属する輩記之。
太田忠右衛門
其の祖太田志摩守、代々摂州太田郷に有りて、室町公方の御家人たり、元亀三年九月、清秀公茨木御討入之刻来て旗下に属す。
------------------------------------------

近世の中川家の文書に、家臣としての太田氏の名が見られます。ここに「太田平八」の名が見え、本流でありながら太田郷から出た家系としての太田氏を記しています。また、別の太田氏も記されており、こちらは、後に本流となった太田氏一派らしく、「志摩守」を名乗っているようです。
 どこでもあるのですが、太田氏も同族同士の内訌が起き、太田を出た一派があったり、取り込んだりした一派があって、本流が入れ替わったりした時期があったのではないかと思います。

さて、その太田村と同村を内包する太田保について、『大阪府の地名』から抜粋してみます。先ずは、太田村の項目です。
※大阪府の地名1(平凡社刊)P185

------------------------------------------
◎太田村(茨木市太田1-3丁目、太田東芝町、東太田1-4丁目、花園1-2丁目、城の前町、高田町、西太田町、十日市町、三島丘1-2丁目)
太田神社(2019年6月撮影)
耳原(みのはら)村の東、島下郡の中央東端にあり、東は島上郡土室(はむろ)村。村の西を安威川が流れ、中央部を西国街道が横断。古くは「大田」と表記。「新撰姓氏録」(摂津国神別)に、天児屋根命十三世の孫の御身宿禰の末裔とある中臣大田連本貫の地といわれ、継体天皇三島藍野陵という茶臼山古墳、延喜式内社に比定される太田神社、飛鳥時代の太田廃寺跡がある。「播磨国風土記」揖保郡大田里の項に「摂津国三島賀美郡大田村」がみえ、三島賀美郡にあたる島上郡には大田の村名がなく、当村との関係も考えられる。
 中世には造酒司領大田保が設けられた。また幕府御家人で摂津源氏の流れをくむという太田太郎頼基(「平家物語」巻一二判官都落ち)の居城があったと伝え、城の崎・城の前などの関係小字が残る(大阪府全志)。南北朝期には西国街道の宿所であったとみられ、応安4年(1371)有馬温泉(神戸市北区)へ出かけた京都八坂神社社家顕詮は、下向途中の9月20日、大田宿北側の「的屋」で一泊している(八坂神社記録)。
 戦国期には車屋という旅宿もあった(「大乗院寺社雑事記」文明19年3月14日条)。総持寺散在所領取帳写(常称寺文書)文安2年(1444)正月17日請取分に、大田村の「高津か」「馬田」「め極のつ」の総持寺領のことがみえ、高津か(髙塚)は茶臼山古墳をさすとみられる。
 元和初年の摂津一国高御改帳によると大田村1,015石余は丹波篠山藩松平康重領。以後篠山藩の支配が続き、延享3年(1746)三卿の田安領となって幕末に至る。江戸時代中期以降の戸口は65戸・300人前後(太田区有文書)。特産物に寒天があった。寛政10年(1798)安威村をはじめとする島下・島上29ヵ村が、太田村5名、上音羽村・道祖本(さいのもと)村各1名の寒天業者を相手に製造差留訴訟を行った。差留の理由は製造工程で原料の天草を安威川・茨木川に晒すため、その灰汁や塩分が用水を通して田地に流れ込み作付けが悪くなること、寒天製造は多くの労働力が必要とし、また農業日雇よりも軽労働なので、日雇稼が寒天製造に集まり、農業経営に差支えること、製造業者の中には田地を売払って専行化した者もおり、農地の余剰があること、天草を煮詰めるのに大量の薪・炭を必要とするため、薪・炭が高騰、それを理由に野道具鍛冶屋が農具の値を引き上げたこと、薪・炭の消費や京都の大火などで郡北の山林が乱伐され、保水がきわめて悪くなったことなどであった(水尾区有文書)。寒天製造は17世紀中頃、山城伏見から北摂地方へ移され、すでに元禄初年には天満市(現北区)の重要乾物となっていた。最盛期は明和〜寛政期(1764〜1801)で、寛政10年には当村を中心とした一里四方の地に、60〜70の釜が設けられていたようである(同文書)。文化10年(1813)には寒天株仲間も結成され、大坂三町人の一である尼崎家がその元締となった(石田家文書)。寒天のほか独活(うど)も当地の特産物で、天保年間(1830〜44)当村の与左衛門により品種改良がなされ、以後太田村では全村的に栽培、「与左衛門うど」とよばれて高く評価され、現在まで引き継がれている。
雲見坂(2002年4月頃の撮影)
茶臼山古墳西隣の太田神社は速素戔鳴命・天照皇大神・豊受大神を祀り、「延喜式」神名帳島下郡の「太田神社」に比定される。「延喜式」九条家本・金剛寺本は「大田神社」と表記。中臣大田連と関連の深い神社とみられている。俗に大神宮ともいう。神社には他に八坂神社・女九神社があり、女九神社は継体天皇の九人の妃を祀るという。寺院には浄土真宗本願寺派の安楽寺・西福寺・称念寺がある。なお西国街道に面して舟形光背の線刻如来石造があり、鎌倉時代のものといわれている。西国街道を横切る雲見坂は、太田頼基が雲気をみて戦の勝敗を占ったところと伝える。
------------------------------------------

続いて、太田保についてご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社刊)P186

------------------------------------------
◎太田保
茨木市東部、安威川流域にあった造酒司領。島下郡に属し、近世の太田村を中心として一部に耳原村を含んだ(勝尾寺文書)。「山槐記」応保元年(1161)12月26日条に「造酒司申、摂津国大田保為奈佐原■■妨事」とあるのが早く、東接する新熊野神社(現京都市東山区)領島上郡奈佐原庄より押妨を受け国司に訴えたが、その沙汰がない間に再度の押妨にみまわれている。造酒司領大田保は、諸寮司に割当てた官田の一つで、宮中での諸行事などに供される酒や酢の原料となる米を負担していた。成立は不明であるが、他の諸寮司田の成立からみて9世紀末頃と考えられ、また造酒司領の保が置かれたのは、令制下に摂津国に25戸設けられた酒戸(令義解)のいくつかが当地にあったことによるのではないかと推定される。大田保は造酒司領として鎌倉期まで続いていた。「平戸記」仁治元年(1240)閏10月17日条に引く嘉禄2年(1226)11月3日の左弁官下文に、造酒司への諸国納物のなかの摂津国米149石2斗のうち「於72石者、以大田保便補之、不足77石3斗」とみえ、摂津国からの納米は所済されず、当保からの便補によってまかわなわれている。この下文は同記同月日条所引の仁治元年閏10月3日の造酒司解に副進されたもので、その解文には「大和河内和泉摂津等、如形雖有便補之地、更不及半分之所済、於其外八ヶ国者、惣以忘進済之思」とあり、諸国からの納米が難渋するなかで、摂津国では大田保が貴重な便補地であったことを伝えている。
 室町期には足利将軍家の管轄に入ったらしく、「満済准后日記」永享4年(1432)2月22日条に「一条家門へ自将軍所領二ヶ所被進之云々」、康正2年造内裏段銭並国役引付に「弐貫五百文(中略)日野前大納言御家領(摂津国大田保段銭)」とみえる。これよりさき、永享3年11月15日の室町幕府奉行人連署奉書(御前落居記録)に「大田七郎頼忠与日野中納言家雑掌相論摂津国大田保内所職田畠(畠田五郎左衛門入道浄忠跡)事」とあり、南西方畑田に本拠があったと考えられる畠田浄忠の欠所地をめぐって、在地土豪の大田頼忠と日野家雑掌との間で紛争があった。以上のことから大田保のほとんどは足利将軍家より日野家に与えられ、公文職は裏松中納言(義資か)家に与えられていたが、永享4年将軍義教は改めて公文職を一条家に与えたことがわかる。当保の所職田畑は、本来足利将軍家領で、取巻く貴族らに随分得分として分与されていたと考えられる。なお、一条兼良の「桃華蘂葉」には「摂津国大田保公文職並売得田畠、普光院時(足利義教)、同時載一紙所宛行也、依有要用売与池田筑後守了、(此中少分為堀川判官給恩除之)」とみえ、その後、一条家は公文職と売得田を摂津国人池田氏に売却している。おそらく在地土豪太田氏や池田氏の進出によりその支配が維持できなくなったものと思われる。
------------------------------------------

これらの記述(事実)が示すように、地味、地勢が豊かである故に、権威までも吸着した歴史があります。時代による差異はありますが、江戸時代の基準で1,015石の採れ高は、非常に大きく、表高でこの規模ですから、やはり非常に豊かな土地であった事は間違いありません。
 戦国時代もいよいよ深まると、成長した地域勢力が、この地を求めて競うようになります。それが太田氏であり、同国人である池田氏であった訳です。池田氏は摂津国内でも、飛び抜けて優勢な勢力であり、本拠の豊嶋郡を出て島下郡まで勢力を伸ばす程に旺盛でした。

1570年(元亀元)創建の清浄山安楽寺
さて、これ程の素養を持つ太田村ですので、この豊かさを持つ土地であるからこそ、それを守るための策が無いはずがありません。当然、城があり、中心になる太田氏などの勢力があったはずです。それらの手がかりがどこにあるのか、今はわかりませんが、今後、明らかになることを楽しみにしています。

さて、この太田城に興味を持ち始めたキッカケであった安楽寺様には、色々とお世話になりました。今も親しくさせていただき、取材などで何か新しい事が判れば、お知らせしたいと思います。


◎浄土真宗本願寺派 西本願寺 清浄山 安楽寺
〒567-0018 大阪府茨木市太田1丁目14番6号
https://www.ibaraki-anrakuji.com




2019年6月18日火曜日

中之坊文書に署名している播磨国人らしき藤田橘介重綱について

年欠の『中之坊文書』について、これまでにも何度か、本ブログにて紹介しているところですが、この文書は摂津池田家の歴史を見る上で、非常に重要な文書の一つです。しかし、そこに署名している人物の出自が不明なところがあって、まだまだ課題の多い史料でもあります。

そんな中、意図せず、ツイッターでRTされた記事からたどり、そのブログを眺めていますと、中之文書中の署名者の手がかりと思しき記事があり、同文書の時期や状況からして、その手がかりから得た要素を非常に有力視しています。ここで一旦、中之坊文書を以下にあげます。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180など

--(史料)-----------------------------------------------------------
湯山之儀、随分馳走可申候、聊不存疎意候、恐々謹言
年欠 六月廿四日

小河出羽守家綱、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守■清(誤読:卜清)、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、萱野助大夫宗清、池田勘介正次(誤読:正行)、宇保彦丞兼家

湯山 年寄中参
-------------------------------------------------------------

さて、この文書の残存課題は以下です。

(1)年記がわからない
(2)人物の出自がわからない
(3)本文が短く、文書の意図がわからない
(4)池田衆(連署者)と宛所の関係がわからない

これらの内の(1)については、本ブログでも推定理由を述べて、元亀2年(1571)と、今のところ考えています。また、その時期の特定と同時に(3)+(4)も必然性の推定が出来、交通の要衝で、要地であった有馬の湯山年寄中からの協力同意に、池田衆が返報したものと考えています。
 この時期、三好三人衆勢力が再び五畿内地域で勢力を強め、将軍義昭・織田信長の幕府方本拠である、京都を圧迫する程になっていました。
 また、有馬郡に西接する播磨国(美嚢郡)三木城でも交戦があり、池田から西側の動きに確実な信頼を築いて、池田勢が敵に包囲された局面を打開するための反転攻勢を成功させようとしていた時期の音信と考えています。つまり、元亀2年の白井河原合戦直前の文書です。

◎参考:白井河原合戦についての研究 

『中之坊文書』は、私の研究にとって、そういう重要な文書なのですが、署名している20名の人物の出自が、全て把握できていないという、大変なジレンマがありました。これらの人物が判明すれば、その時の政治・軍事情勢解明の手がかりにもなるはずです。

今回、なんとなく出自の推定が立ったのは、藤田橘介重綱という人物です。志末与志さんのブログ『志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』 - 松山重治―境界の調停と軍事 -
という記事からで、それを読んでいて、「松山重治に従った勇士たち - 藤田忠正 -」の項目が非常に参考になりました。
 それによると、藤田氏は、播磨国美嚢郡の国人で、吉川荘に起源を持つ人物で、毘沙門城(現兵庫県三木市)主を務めた一族であったそうです。また、三好家中の松山重治被官であったようです。
 そういえば、私の研究ノートでの『播磨清水寺文書』では、藤田氏の名が度々見られ、このあたりに縁の国人であることは認知していたはずですが、気付いていませんでした。志末与志さんのおかげで、私の永年の疑問が晴れ、その日から少し、なんだか毎日嬉しいです。

さて、元亀2年という時期に藤田氏が、池田衆と共に名を連ねる理由ですが、池田と湯山とは有馬街道で繋がっており、政治・経済・軍事ともに非常に密接です。有馬道とは、京都 - 池田 - 湯山や、大坂 - 池田 - 湯山という流れがあり、当時の多くの人々が利用する主要道の一つで、往来も盛んでした。
 ちなみに藤田氏の家紋は、その名の通り「下がり藤」です。摂津池田氏と同じ本姓は、藤原氏で同族です。
 そしてまた、必要に迫られ、湯山と池田衆の双方にとって、何らかの約束をする時、地縁者や関係の深い既知の人物がそこに居れば、なお安心します。約束を違う確率が低くなり、実現が固くなるからです。

署名の中で、私の把握している人物を上げてみます。

【池田家臣】
池田清貧、池田(荒木)村重、池田正良、荒木卜清、神田景次、池田正慶、高野一盛(多分家臣)、池田正遠、池田正敦、藤井敦秀、瓦林加介、池田正行、宇保兼家
【不明な人物】
小河家綱、安井正房、行田賢忠、藤田重綱
【その他】 ※家臣では無いが、出自が推定できる人物。
萱野宗清(現箕面市萱野の住人)


萱野氏は、摂津守護であった高槻を本拠とした和田惟政の西進に圧迫され、自らの領知を保持するために、池田氏を頼った勢力であると思われます。
 これに同じような関係で、播磨国に出自を持つ藤田氏も行動していたのかもしれない、と思いつきました。加えて「小河」氏も不明だったのですが、読みは「おうご」で、そうすると播磨国人の「淡河」といった系譜が思い浮かびます。ただ、摂津国守護家一族の伊丹氏の縁者で「小河(おがわ)」という人物も見られますので、そこは何とも言えないところです。
 それにしても先にあげた「小河」氏は、中之坊文書では、一番初めに署名をしていますし、順番はあまり関係が無いとも言われるものの、一番初めや上位であることはやはり、何の意味も無いということは、考えられないのではないかと思います。小河出羽守家綱は、藤田重綱と同じ「綱」の字も持ちます。それも何か気になります。しかし、小河氏は池田家臣でもなく、この人物いについては、中之坊文書でのみ登場して、他では見られません。
 中之坊文書に見える人々は、播磨・有馬郡あたりの人物と池田衆が連絡を取り合い、互いの利益補助のために一時的に結束した足跡ではないかとも考えていますが、今のところは、確実な証拠はありません。

しかし、今回の藤田重綱の出自推定が立ったことで、そういった動きの可能性があったことも、推定ができるようになったかもしれません。続けてまた、調べていきたいと思います。