2026年4月6日月曜日

摂津国河辺郡多田院領であった摂津国善源寺庄(大阪市都島区)について

明治40年(1907)まで、この地にあった善源寺は、大阪市西区本田へ移転し、今はその跡地になっています。(同じ系譜なのかは不明)しかし、その寺名を冠する地名になる程の古刹で、奈良時代の行基建立寺院の一つと伝わっています。また、沢上江村には法皇山母恩寺があり、後白河法皇が、母待賢門院の菩提寺として建立しています。
 このように、この付近は古刹が多いのですが、経緯の判らない寺院も多く、この善源寺もその一つです。
 そしてまた、このあたりは善源寺庄という荘園で、建武4年(1337)7月、足利尊氏が源氏の宗廟多田院への信仰の証しとして、善源寺東方地頭職を寄進した事から多田院の領するところとなります。

しかしなぜ、足利尊氏は、この地を選んで多田院へ寄進したのでしょうか。先ずは、善源寺村について、見たいと思います。
※大阪府の地名1(平凡社)P621

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善源寺跡地に立つモニュメント
【善源寺村】
(都島区善源寺町1-2丁目、都島北通1-2丁目、本通3-5丁目、中通3丁目)
沢上江村の北に位置する細長い村で東は京街道、西は淀川に接する。村名ともなった善源寺については、奈良時代の行基建立寺院の一と伝え、「行基年譜」に天平2年(730)、行基が63歳の時、西城(成)郡津守村(現西成区)に建てたとある善源院が前身という。また「行基菩薩伝」には天平勝宝5年(753)7月2日「乗船下去善源寺、於寺内、以二千余蓮花荘厳自余」とみえる。平安時代、摂関家領榎並庄四至内に所領をもつものとして、天王寺(現天王寺区の四天王寺)とともに善源寺があり(「水左記」承暦4年6月25日条)、善源寺が榎並庄の近辺に存在したことがうかがえる。この寺との関係は明らかでないが、明治40年(1907)まで当地に黄檗宗善源寺があり、現在西区本田に移転。当村は榎並庄に含まれ、南北朝時代から多田院(現兵庫県川西市多田神社)領善源寺庄となった。多田神社文書ではおおかた西成郡とされているが、近世以降は東成郡に属する。天文(1532-55)頃、当村の本願寺門徒は、毎年石山本願寺(跡地は現中央区)に銭や白米を上納、付近には石山本願寺の本願寺出城もあった(→沢上江村)。
 元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領、続いて幕府領となり、そのまま幕末に至ったとみられる。江戸時代初期の村高は中野村の項参照。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では575石余、元禄14年(1701)の摂津国村々石高書上帳では607石余となり、以後幕末まで変化はない。享保年間(1716-36)村民のなかには淀川筋に小舟を出して、往来の旅船に酒・餅などを売り、淀川煮売茶船の特権をもつ島上郡柱本村(現高槻市)の茶船持中にとがめられている(浜家文書)。天保8年(1837)大塩平八郎の窮民施行を受け、乱に連座して30日手鎖刑となった者は百姓惣八など15人(「出潮引汐奸賊聞集記」大阪市立博物館蔵)。当村から西成郡南長柄村(現大阪市北区)へは江戸中期頃善源寺渡があった(摂陽群談)。字八幡には応神天皇を祀る産土神社があったが明治42年桜宮に合祀。産土神社は長徳年間(995-999)源頼光の創建と伝え、境内には頼光の臣渡辺綱が馬を繋いだと伝える樹齢800年の駒繋のクスがあったが、第二次世界大戦時に被災して枯死。かつて正月に古い注連縄を焼き、新しい縄で氏子が綱引きをしたのちクスに巻くという神事があった。浄土真宗本願寺派字山心宗寺がある。
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次に、善源寺庄についてです。同庄園の所属行政区は、「欠郡中嶋」か「西成郡」かは、ハッキリとせず、その範囲も不明なところがあるようです。
※大阪府の地名1(平凡社)P621

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渡辺綱・駒つなぎの樟
【善源寺庄】

現都島区善源寺町付近にあった多田院(現兵庫県川西市多田神社)の庄園。建武4年(1337)7月、足利尊氏が源氏の宗廟多田院への信仰の証として諏訪三郎左衛門尉の欠所地であった善源寺東方の地頭職を寄進したことから多田院領となった(同月25日「足利尊氏寄進状」多田神社文書、以下同神社文書は個別文書のみ記す)。
 南北朝動乱のなかで、多田院が当庄の支配を推進していくには多大の困難を伴った。観応元年(1350)には、旧主の諏訪三郎左衛門尉の代官が違乱をはたらき、多田院住持は足利直義に訴えてそれを停止してもらわねばならなかった(同年12月18日足利直義書下)。また貞治5年(1366)6月9日には、西成郡守護の畠山義深が「中嶋善源寺」地頭職を多田院雑掌に去り渡す措置を講じている(畠山義深書下)。康暦2年(1380)この地頭職はまたもや近隣の者に押領され、管領斯波義将は守護渋川満頼に、違乱を停止するよう二度にわたって命じているが、押領の中心になったのは、赤松義則・楠木中務大輔の家人らで、多田院雑掌を追い出し狼藉をはたらいた(同年6月3日および7月16日足利将軍家御教書)。守護方からは下地を多田院雑掌に返還する措置をとったという報告があったものの、実際にはなかなか実源されなかったようで、永徳2年(1382)多田院雑掌は、善源寺庄西方地頭職について「度々尊行之処、尚以不事行」と訴えている(同年9月10日渋川満頼奉行人連署奉書)。西方地頭職がいつ多田院領になったか明らかでないが、東方地頭職と同じく諏訪三郎左衛門尉の欠所地で、室町幕府の将軍から寄進されたものと考えられる。明徳4年(1393)にも、幕府が西成郡守護結城満藤に対し、善源寺地頭職の多田院雑掌への返付を取計らえと命じるなど、侵略・押領が繰り返されていった(同年8月23日結城満藤尊行状)。
 こうした情勢のなかで、足利尊氏以下歴代将軍は多田院を将軍家祈祷所として崇敬し、多田院領の一つとして当庄にも積極的な保護を加えた。三代将軍義満は、応永元年(1394)11月12日、寺領や代々の給主寄付田畑山野などの知行を安堵する御判御教書を下し、以後義持・義教・義政がいずれも同内容の御判御教書を出している。また幕府は多田院領の段銭・棟別銭などを免除し、多田院の修造費に充てるようにした。善源寺庄も幕府から代々これらの負担を免除する御墨付を得ていたが、次第にその特権が侵害される情勢が進展していった。永享元年(1429)西成郡の守護赤松氏が大挙して当庄に入部し、百姓を譴責して段銭を取立てる事件が起こり、多田院の訴えを受けた幕府は、守護代薬師寺出雲入道に段銭徴収の禁止命令を出している(同年12月17日室町幕府奉行人奉書)。以後も、永享2年・同5年・文安2年(1445)と、幕府は段銭・兵庫砂掘人夫役・伊勢神宮役夫工米などの免除を令し、同4年11月9日には、善源寺庄に段銭以下諸役を免除し、守護使不入の地とする将軍家下知状を発している。やがて応仁・文明の乱が勃発すると、この事態はきわめて危機的なものとなっていった。文明14年(1432)3月22日付で、細川政元は多田院雑掌あてに奉書を出し、近年、敵方の乱入により善源寺地頭職が奪われ所務が行われなくなっているが、先規のように課役を免除するので領知を全うせよと述べている。だが、多田院の支配はこうした一片の奉書で完遂できる状態ではなく、その後しだいに衰微していったとみられる。天文年間(1532-55)には本願寺勢力が入り込み、善源寺・沢上江などの門徒は毎年の斎料を負担、また両村には本願寺の出城も設けられた(天文日記)。なお多田神社文書において善源寺は、文明14年3月22日の細川政元奉行人奉書に「欠郡善源寺村」とある以外ほとんど西成郡とされ、また「中嶋善源寺」とあるようにかつては西成郡中嶋のうちであったとも考えられる。北隣の友淵庄も同じく西成郡とされているが、付近が西成郡であったと断定はできない。「水左記」承暦4年(1080)6月25日条には、当地東方一帯に広がる榎並庄の四至内に所領をもつものとして善源寺の名がみえ、善源寺が榎並庄の近辺にあったことは確実であるが、寺そのものについては不明。
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善源寺庄や沢上江庄は、距離的にも近い本願寺教団の影響力が強く、また一時期、三好長慶実弟十河存保の代官地にもなっていました。しかし、天文22年(1553)頃に三好氏は、本願寺宗へ沢上江庄を返還したようです。
※本願寺日記(上)P704

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12月24日条:
(前略)三好筑前守へ、沢上江返付事就き、梅染十端之遣わす。又只音信為、綿十把之遣わす。松永弾正忠へ、沢上江事に就き、綿二十把之遣わす。塩田へ、同儀に就き、梅染三端之遣わす。又音信為、綿三把之遣わす。松山へ右の事就き、梅染め三端之遣わす。赤木兵部へ、同儀就き、綿二把之遣わす(是は松山他行之時之申し置き、一筆等之調べ出す。)。右使い為芝田之差し遣わす。頼資書状調え之遣わす。(後略)
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一応、善源寺村に隣接する、沢上江村についても見ておきます。
※大阪府の地名1(平凡社)P620

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浄土宗法皇山母恩寺
【沢上江村】

(都島区都島本町1-3丁目、中通1-3丁目、南通1-2丁目、中野町5丁目)
中野村の北にある狭長な村で、西は淀川。東端を京街道が通るが、集落は淀川寄りにある。「沢上江」と書いてカスガエと読むことについて「摂陽群談」は「世俗滓を澤に誤り」と記し、すでに本願寺10世証如の「天文日記」に「滓」(天文5年7月25日条)と「澤」(同6年7月25日条)の混用がみられる。慶長10年(1605)の摂津国絵図は「澤」の略字「沢」をもって「沢上江」と表記、江戸時代は一般的に「沢」が用いられるが、「摂津志」や「摂津名所図会」など「滓上江」と表記するものも多い。また元和初年の摂津一国高御改帳では「春日江」の字をあてる。観応元年(1350)3月27日付の売券(小杉榲邨採集文書)に「四天王寺御料沢上江庄」とみえ、南北朝期には四天王寺(現天王寺区)の寺領であった。室町時代には当地付近に本願寺教団の勢力伸長、「天文日記」天文5年(1536)7月25日条によれば、当村の門徒は善源寺・辻・放出(現鶴見区)の各村とともに毎年7月28日の斎日の勤仕として石山本願寺(跡地は中央区)に銭3貫・白米一石を上納していた。また、同年正月29日条には「従中山方、滓上江・善源寺焼跡に又従中嶋可構城之由候間、足軽を懸候条、為案内申候ツ」、同年8月8日条には「従山中蔵人、今度滓上江之城へ入城候とて五種五荷到来也」との記事があり、当地・善源寺付近に本願寺の出城があったが焼失したらしいこと、その城が直ちに再築されたことがわかる。同22年12月24日条には「三好筑前守へ就沢上江返付事、梅染十端遣之」とあり、当地を一時三好氏が領している。
 江戸時代には上・下2村に分けて記されることもあった(明暦元年の大坂三郷町絵図など)。領主の変遷および江戸初期の村高は中野村の項参照。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると高586石余、元禄14年(1701)の摂津国村々石高書上帳では666石余、以後幕末に至るまで変化がない。享保年間(1716-36)村人のなかには無断で淀川往来の船に餅・酒などを売る者があり、茶船持中から度々抗議を受けている(→網島町→中野村)。享和2年(1802)の大洪水で、河内国茨田郡西部八ヶ庄(現門真市)と、東成郡榎並庄(現都島区・城東区・旭区など)の水を淀川に落とすため、沢上江村の堤防を「態と切」しようとする者があったが、大坂市街の被害と風聞による混乱を恐れた町奉行はこれを許さず、ついに与力同心が銃口を向けて鎮圧するという事件があった(大阪市史)。「摂陽奇談」によれば文化5年(1808)当村百姓上田与一郎は伯耆産の白牛を買育て、嘉端として評判となった。また百姓上田孝太郎は大塩平八郎の洗心洞学塾(跡地は北区)に入塾し、天保8年(1837)の大塩の乱では檄文配布役を勤め死罪となった。当村でこの乱に連座して30日手鎖刑を受けた者は作兵衛ほか11人、過料刑となった者18人(「出潮引汐奸賊聞集記」大阪市立博物館蔵)。
 字寺の前の法皇山母恩寺は浄土宗の尼寺で、仁安3年(1168)後白河法皇が、母待賢門院の菩提寺として創建したと伝え、寺号は母后報恩の意。本尊阿弥陀如来立像は恵心僧都の作という(摂津名所図会)。同寺の尼僧は常に綿帽子を製し(摂陽群談)、「淀川両岸一覧」は「その色清白にして美を好す。もって名物とし世に名高し」と記す。寺はもと大伽藍を有し、寺域はほとんど一村に及んだというが、天正年間(1573-92)の兵火で衰微(大阪府全志)。母恩寺北東の鵺塚は、近衛天皇のとき源頼政(頼光と同族で摂津源氏)が御所で退治した(「平家物語」巻4)という「鵼」が漂着したので、祟りを恐れて埋めた所と伝えるが(摂陽群談)、大かたの地誌類はこの伝承に否定的で、「淀川両岸一覧」は「その事実詳らかならず、疑ふらく、いにしへ高貴の人を葬りし塚なるべし」と記す。
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そして次に、多田院についてみてみます。先述の「なぜ、善源寺庄を尊氏が、この地を選んで多田院へ寄進したのでしょうか。」の理由がここにあります。
※兵庫県の地名1(平凡社)P381

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多田院拝殿(2001年3月撮影)
【多田神社】

祭神は源満仲のほか頼光・頼信・頼義・義家。旧県社。当初多田院として創建されたもので、摂関家領多田庄とともに摂津源氏(多田源氏)の拠点となった。境内は国指定史跡。
[多田院の創建]
多田院は多田院鷹尾山法華三昧堂と称したといわれるが、中世の史料では確認できない。本尊は丈六釈迦如来。天禄元年(970)源満仲は嫡男頼光・次男頼親・四男頼信らとともに七堂伽藍を建立して多田院とし、比叡山の慈恵(良源)を導師とし堂塔供養を行った(歴代編年集成)。満仲は寛和2年(986)多田で出家、長徳3年(997)86歳で死去し、多田院に廟所が営まれた。平安時代末源平の戦の後、源頼朝は多田蔵人行綱を勘当し源氏一族の大内惟義に多田院を預けたが、行綱の家人は元のごとくとした(元暦2年6月8日「大江広元奉書案」多田神社文書、以下断りのない限り同文書)。大内氏もまた承久の乱で京方についたため失脚し、北条泰時は、摂津国多田院は君(源頼朝)の先祖の御領で古来守護不入の地であるとし(安貞2年9月14日北条泰時書状案)、初め泰時が管理し、ついで北条氏得宗領となった。
 文永9年(1272)頃恒念が勧進聖となって堂舎の修造に着手(同年9月5日得宗公文所奉行人連署奉書)、翌10年には得宗は多田院造営条々13条を定め(同年4月2日得宗公文所連署下知状)、建治元年(1275)得宗の信頼あつい鎌倉極楽寺の長老刃性が多田院の別当職ならびに勧進職に起用された(同年10月15日得宗公文所奉行人連署奉書)。それとともに多田院は従来の天台宗系から律宗奈良西大寺末となり、弘安4年(1281)本堂を中心に方10町が殺生禁断と定められ(同年4月18日得宗禁制案など)、また永仁6年(1298)定められた西大寺以下34ヵ寺からなる関東祈願所の「専随一」と称されている(元応元年7月25日工藤貞祐書下など)。
[鎌倉の堂舎]
弘安4年3月23日金堂復興がなって、西大寺の叡尊を導師として供養が行われた(金堂供養注進状・金堂供養供養曼荼羅供僧衆等交名)。正和5年(1316)10月13日に三重塔の供養が行われたが、その指図によれば、再建当時の伽藍配置は中央に金堂、左右に常行堂・法花堂という叡山西塔型であるが、南と北に南大門・学問所、後方東に経蔵、西に塔・鐘楼などがある変型で、境内の北東隅に拝殿つきの満仲の御廟があり、全体として氏寺的権威を示しているとされる(川西市史)。なお境内南西隅には「一庄の鎮守」「多田院惣社」の六所宮が拝殿つきで描かれている。修造はさらに千手堂・南大門と進められ、元徳3年(1331)頃南大門供養が行われたものとみられる(同年11月21日工藤貞祐行状など)。多田院修造のため、もともと多田庄の年貢の一部が充てられいたが、文永10年給主等田畠得分の半分を充てるよう得宗は命じており(後述の多田院御家人を除く)、正応6年(1293)には摂津国および丹後国の棟別銭(棟別10文)が許可され(同年正月19日官宣旨など)、さらに永仁6年から3年間多田庄の全年貢を、正安3年(1301)から2年間年貢の半分を修造料に充てている(永仁6年4月20日得宗公文所奉行人連署奉書など)。しかし多田庄政所や給人等の未進も多かったようで、得宗の意気込みにもかかわらず多田院の修造は結局長期を要し、得宗の滅亡直前に一応の完成をみた。
 なお多田院には他に往生院・地蔵院などの院坊があった。延慶4年(1311)僧住真は往生院住持職と田畠を尊阿弥陀仏に売渡し(同年3月11日住真売渡状)、同年僧源証(おそらく尊阿弥陀仏)は養子松若女に譲与した(応長元年7月16日源証譲状)。しかしこのうち灯油畠は正嘉3年(1259)頃から住持と作人との間に紛争があり、住持の進退であることを裁可していたが、再燃し、再び正和4年に多田院住持の安堵を得た(同年9月1日往生院灯油畠定書案)。のち貞和2年(1346)紀松若女は子息の祖恂房に譲り(同年2月紀松若譲状)、康安元年(1361)祖恂は多田院内地蔵院の円珠房に永代譲渡した(同年12月1日祖恂譲状)。往生院・地蔵院ともに多田院指図に記載がなく、境外の住房か。
多田院本殿(2001年3月撮影)
[足利氏の信仰と多田院鳴動]
足利尊氏による幕府の再興以後、足利将軍家の代々は曩祖満仲の氏寺として多田院と満仲廟所を深く信仰し、これを保護した。尊氏は建武4年(1337)7月25日善源寺(現大阪市都島区)東方地頭職を寄附し(足利尊氏寄進状)、延文3年(1358)尊氏の没後2代義詮によって遺骨が多田院に分骨された(同年6月29日足利義詮御判御教書)。これが先例となって義詮・8代義政・12代義晴・13代義輝の遺骨の分骨が確認できる。一方、将運若君誕生の節、多田院に神馬一疋を引進めて無事成長を祈願することも、史料の上では永享6年(1434)6代将軍義教の若君(のちの7代義勝)に始まり(同年8月1日室町幕府評定衆奉書)、戦国期に及んでいる。
 史料の上では貞治2年(1363)を初見に佐々木道誉が多田院と多田庄に大きな支配力をもち(同年6月5日佐々木道誉年貢寄進状)、多田庄に段銭や人夫役などを課して多田院堂舎の修造に励んでいる。道誉の権限は多田庄の分郡守護説が有力で、一時期赤松義則(守護代時則)に交替したほかは道誉の子孫が継承して宝徳元年(1449)頃に及んでいる。さらに幕府は摂津一国平均に臨時の段銭・棟別銭を課したとき、多田庄と周辺加納の庄や村についてはこれを免除し、修造料として多田院に寄附して独自に徴収させた。史料では至徳3年(1386)に始まり(同年6月7日室町将軍家御教書)、この慣例も戦国時代に及んでいる。関係史料は多数伝わり、多田院が実際に段銭を徴収した結解状も伝わる(文明18年多田庄段銭結解状など)。次に述べる狭義の寺領に対する将軍代替りごとの安堵など、通常の保護のうえに格別な助も加えられていたわけで、国人・土豪らの祈祷料田等の増加とあいまって、室町期は多田院の全盛期であったとみられる。なお文明16年(1484)5月10日9代将軍義尚は、「多田院廟前詠五十首和歌」を奉納している(群書類従)。
 こうした足利将軍の深い信仰を背景に、多田院鳴動が起こった。多田院鳴動とは満仲の廟所が音を発してゆれ動くといわれることで、鳴動があると多田院はただちに幕府に注進した。たとえば文明14年9月17日には、「御廟所 御鳴動注進之事 大動両度 9月14日亥刻、小動十箇度同刻、中動二度 同十五日戌刻、小動三度同十六日辰刻、右任御佳例、注進之状、如件」と注進されている(御廟所鳴動注進状案)。廟所の鳴動はもともと信仰の所産で、京都東山の将軍塚(坂上田村麻呂の墓という)などに平安期以来先例がある。「多田院縁起」などによれば、満仲は死に際して「吾没後神をこの廟窟に留め置き、弓箭の家を譲るべし。しかのみならず当院鳴動を以て、兼ねてまさに四海の安危を知見すべし」云々と遺誡したとされ、前九年の役や平家滅亡のときにすでに鳴動があったという。しかし遺誡もこれらの鳴動も史料上確認はできない。史料上の初見は応永22年(1415)で、同年11月16日の足利義持御判御教書には「鳴動事、為佳例上者、弥可抽祈祷精誠之状、如件」とあって、多田院住持宛に祈祷を命じている。「佳例」とは多田院鳴動にすでに先例があったのか、廟所の鳴動そのものが佳例なのかは明瞭ではないが、多田院鳴動に対する幕府の対応はこの頃では一定していないようで、応永22年が最初でないにしても遠からぬ時期に始まったようである。多田院鳴動は現存史料では17回知られ、最後は室町幕府滅亡直前の元亀3年(1572)頃である(年未詳10月1日足利義昭御内書。「後鑑」は元亀3年とする。)鳴動の注進があると将軍の御判御教書をもって多田院に祈祷を命ぜられるが、寛正5年(1464)から同時に馬一疋と銀剣を献じる(代銭の場合もある)のが慣例となった(「続史愚抄」同年11月1日条)。文明4年7月の鳴動には折からの応仁の乱と吉田兼倶の影響もあってか、将軍足利義政は大きな打撃をうけた。義政は多田院鳴動を「万代守護の権現」である満仲の怒りととらえ、これを鎮めるために兼倶に命じて神祇斎場(現京都市左京区)で義政の意中を敬白させるとともに廟所に銀剣・馬を奉献して祝詞を捧げた。宣命体の義政の祝詞から、満仲の神格化がうかがわれる。さらに義政は後土御門天皇に働きかけて、正四位下で死んだ満仲に従二位を追贈した。贈位の宣命と位記は勅使が下向して廟前で読み上げた(ともに現存)。贈位から勅使派遣のいきさつは、「親長卿記」などに詳しく記される。
[多田院領]
康正2年(1456)8月日足利義政袖判の寺領安堵状には「多田院本寺領並び御寄進代々給主寄進所々」として、前述の善源寺東方地頭職をはじめ鷹尾(惣社六所権現御灯油並御壇供料所、北畠殿寄進)・櫛作(上寺観音堂免、北畠殿寄進)・鎮守惣社六所権現免(北畠殿寄進)・猪淵村(毎日仏性米並び護摩供料、高師直寄進、現猪名川町)・原郷(現同上)地頭給内五反(御塔仏修理料、高師冬寄進)・多田郷内(佐々部方瓜生名、承仕給、仁木義長寄進)・山原村(本堂以下修理料、佐々木道誉寄進)・石道村(新田方並平居弥九郎跡屋敷内三段本堂寄進、赤松時則寄進)・紫合(本田方、談義料所、赤松時則寄進)の10所が記され、この寺領内の検断も寺家沙汰とされている。永禄12年(1569)5月30日この10所は足利義昭御判御教書によって安堵されており、戦国末まで維持された。一方、鎌倉後期以来、小規模田畠の加地子等の寄進も相次ぎ、寄進状は多数伝来する。寄進先はたんに多田院と記し、あるいは千部経料田など多田院の法会料所として寄進していることが多いが、戦国期には塩川氏・山問氏ら多田院御家人の系譜をひく国人・土豪らは、武運長久などを祈って満仲廟所の灯明料などに寄進することが多くなり、満仲廟所の信仰が高まっていることがうかがわれる。
[多田院御家人]

平家滅亡後、多田蔵人行綱が頼朝によって追放されたが、行綱の家人武士たちは御家人として安堵され、閑院内裏(京都御所)の大番役を命じられた(元暦2年6月10日中原親能奉書案)。承久の乱後、多田庄御家人の再編成が行われ、御家人には給田一町が与えられて安堵された(嘉禎4年5月14日多田庄庄務条々事書案)。この御家人の義務を明記した史料はないが、給田一町では一般的家人に比べて過少で、多田院警固など限定されたものであったと思われる。これが多田院御家人である。ただし多田院御家人は鎌倉幕府の公式名称ではなかったようで、嘉禎3年(1237)3月28日の北条泰時奉書案に多田院御家人とみえる以外に、鎌倉期の史料では、たんに御家人と記される。弘安4年8月21日多田院の御家人16名が連署して多田院の塔造営、十町四方の山河殺生禁断、小松池山狩猟禁断について誓っている。この請文の署名は法名・源姓などが多いが、弘安元年の金堂上棟引馬注進状や正和5年10月13日の多田院堂供養指図によると、塩河・山問・石道のほか、佐曾利・槻並・吉川・木器・森本・今北・高岡・平井・野間・能勢らの名がみえる。
 建武4年多田院御家人の評定衆13人には多田庄が多田院「御家人中」に勲功の賞として幕府から与えられたが、庄内の多田院当知行の田畠は違乱しないことなどを決定した「衆議」を多田院に申し入れている(同年4月8日多田院御家人連署申状)。鎌倉幕府の滅亡とともに御家人制は消滅したはじだが、もと御家人は自主的に組織を維持したのかもしれない。ただし「御家人中」の存在を示す史料はこの一点のみである。応安元年(1368)の多田院金堂修理供養に際し御家人は馬(代銭)を引進めたが、各御家人とも「塩河刑部大夫入道跡」のように「跡」をつけている(同年4月8日金堂供養御家人引馬注文)。室町幕府あるいは佐々木氏支配の多田庄では公式の御家人制は存在せず、鎌倉期の御家人の名跡を継承する意味と解される。ただし、南北朝期の軍忠状には髙橋茂宗(建武2年「髙橋茂宗軍忠状」書上古文書など)、森本為時(建武3年7月日「森本為時軍忠状」書上古文書など)のように、自ら多田院御家人と称している場合がある。それだけ名誉と考えられていたのであろう。もと多田院御家人の有力者は、こうした軍忠とともに多田庄の内外で領主権を拡大していったと考えられるが、鎌倉時代後期にすでに多田院御家人の筆頭的位置にあった塩川氏は、嘉吉元年(1441)の塩川秀仲、文明9年の塩川慶秀、さらに明応4年(1495)の塩川種満、永正3年(1506)の塩川太郎左衛門尉らが史料上から知られるが、多田庄および多田院に広範な支配権をもつようになっていた。
 多田院御家人で一向宗門徒のなかには石山合戦に参加する者があったという(「多田雪霜談」仁部家文書)。天正5年(1577)に石山本願寺(大坂御坊)に籠城する顕如に加勢している。これに対して織田信長は多田の地を塩川国満に支配させており、また織田信澄を遣わして多田院や天野山安楽寺(現猪名川町)を含む河辺郡・能勢郡・有馬郡の諸寺院を焼き払ったという。同14年羽柴秀吉による九州の島津氏征討に従軍した能勢氏の留守をねらって塩川国満は能勢氏の領内に攻め入ったが、このことが秀吉の怒りにふれ、国満は切腹し、塩川氏は滅亡した。また塩川氏に同調した御家人は、古来の屋敷地は所持を認められたものの、知行分は没収されたうえ、以後の多田院の怠りない守護を命じられたという(以上、多田雪霜談)。慶長19年(1614)11月上旬に多田院御家人は旧知行を回復する好機とみたか、大坂城攻撃のため摂津国中嶋(現大阪市北区など)に出陣し、多田銀山町を制圧しようとする大坂方の300余人と交戦しているが、農事を第一として弓矢・槍の訓練に遠ざかっていたため、もろくも打ち破られてしまった。
摂津名所図会に描かれた多田院(神社
[近世の多田院再興]
多田院は室町期には応永27年と永享2年の二度火災にあい、文明12年庄内御家人らの奉加を得て金堂を再興したものの、文亀3年(1503)当時塔婆はいまだ再興されず、同年8月日付で塔婆勧進疏が作成されている。塔婆は結局再興されず、豊臣秀頼による修復が伝えられるものの近世初頭には荒廃はさらに進んだと思われる。多田院別当の智栄は廟堂が大破して久しいのを憂い、寛文2年(1662)幕閣の理解を得るため古文書多数を携行して江戸に赴き、老中はじめ多くの要人の閲覧を得ている。同3年源氏の祖たる由緒をもって幕府が多田院を再興することが決定、四代将軍徳川家綱による多田院の再興事業は全境内の建物に及んで行われた。満仲・頼光の廟所や本殿(祭神は頼義・頼光・満仲・頼信・義家)・拝殿・八足門(隋身門)・釈迦堂・仁王門、その他が再興の対象とされた。普請は同5年に始まり、同7年に成就、同8年に正遷宮が行われた(多田院再興口上覚)。名称こそ依然多田院であるものの、廟所と本殿を中心とする多田権現として再生した。なお古例に従い多田院御家人は警護に参勤した。のち大風による破損の再修理を含めて諸建物の修復が続けられ、延宝9年(1681)に完成、10年余にわたる多田院再興は完了した。延宝8年7月智栄はこれを記念し厳有院殿(家綱)の石碑を建立。家綱の祖廟への敬心は、寛文5年の多田院への高500石の地(多田院村・新田村・東多田院村内)の寄進にもうかがえる(同11年多田院領寄進判物写)。
 元禄9年(1696)は源満仲没後七百年忌にあたり、五代将軍徳川綱吉を大壇主として社堂の修復を行い、同年4月に正遷宮、8月に東山天皇より多田権現社の勅号、次いで正一位神階の贈位があった。勅使の宣命読上げのとき満仲廟が鳴動したといわれ、翌10年満仲の尊影を開帳した(修復棟札写など)。なお元禄9年七百年忌祭のあと多田院御家人の惣代43人が江戸に出向いて由緒書を幕府に提出し、多田院御家人の復活を要望した。その結果、知行地の獲得はならなかったものの、苗字帯刀を許され、各種古文書・古記録から調べあげた82家を定数として、多田院御家人の称号が幕府公認となった。享保-元文期(1716-41)・天明期(1781-89)の社殿修復がある。寛文期・延宝期に再建された本殿・拝殿・随身門と多田神社文書492通(43巻)および寛文3年・貞享5年(1688)多田院文書修理目録三巻は国指定重要文化財。六所神社本殿・厳島神社本殿・東門(東高麗門)・西門(西高麗門)・南門は県指定文化財。明治初年の神仏分離に伴い多田院の寺号を廃し、多田神社となる。
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文中に「天禄元年、源満仲は、嫡男頼光、次男頼親、四男頼信らとともに七堂伽藍を建立して多田院とし、比叡山の慈恵(良源)を導師としてとして堂塔供養を行った。」とあります。
 そして当時、この善源寺に隣接していたと思われる八幡大神を祀っていた社地に立つ(伝頼光手植え)大樟の謂れと結び付きます。
 また、長徳年間に頼光が源氏の八幡大神を祀り、この地に産土神社を創建したのは、その父である満仲が出家し、長徳3年(997)86歳で死去した時期にあたります。何かの願掛けだったかもしれません。
※現地案内板

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八幡宮旧跡顕彰石碑
【渡辺綱・駒つなぎの樟】

ことあたりは、かつて善源寺荘と呼ばれ、大江山の鬼退治で有名な源頼光が支配する荘園でした。
 長徳年間(995-998)頼光は源氏の八幡大神を祀り、この地に産土神社を創建しましたが、そのとき頼光自らが、この樟(くす)を植えたといわれています。駒つなぎの呼び名は、頼光の四天王の一人で、この荘園の管理を任されていた渡辺綱が、この神社に詣でるとき、いつも馬をこの樟につないだためであると伝えられています。
 樹齢900年と推定される樟は、昭和のはじめに大阪府の天然記念物第一号に指定されましたが、残念なことに戦災にあい、現在は枯死状態になっています。
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この善源寺庄は、元々源頼光が支配する荘園だったのです。足利尊氏は、その源氏の祖である満仲を祀る多田院へ旧地を還したのです。400年程の時を経ていますが、当時もその調べが及んでおり、尊氏がこの地を寄進するに至ったのです。

今となっては伝承として語られていますが、史料上からも確認する事ができますので、もはや現実的な歴史的遺物として、更なる顕彰をしても良いように思います。

最後に、源頼光の四天王の一人といわれた、渡辺綱についての「出生古跡」が伝わりますので、ご紹介しておきます。
※摂陽群談(大日本地誌大系刊行会)P200

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渡辺津顕彰碑(2013年4月撮影)
【渡辺綱出生古跡】

武庫郡武庫庄村にあり。土俗、此所出生の旧地と云へり。洛陽東寺の門に於て、鬼神の腕を斬、第宅に帰り、戸を塞いで慎之。綱養育の伯母、爰に来て、其の恐しき腕を見と請ふ。綱不應之。伯母養育の昔を語り恨之。終に令見之。即鬼女と成て、榑風(はふ)を破り逃去。其謀取るる事を忌で、渡辺党の姓を継者、四阿屋造にして、榑風を造ざるの諺あり。因茲、当村の民家、皆悉く今に四阿屋造也。軍記に所載、武蔵国三田を産とす。亦渡辺の号は、今大坂の津に在て、西成郡に属し、如も座摩社前を指て、世俗渡辺屋敷と云へり。其の鬼神は、所謂茨木童子とする者也。童子も亦、河辺郡東留松村に旧栖あつて、前に論之。是猶爰に遠からず。各伝語詳也と云ども、未見其證其記。猶亦丹後国千丈嶽、酒顚童子退治発向の時、河辺郡北田原村、大井の薬師仏に願書を納ること、光明寺記に見えたり。此地より遠らず。暫く武庫庄に居住するや。亦藤原保昌旧栖、河辺郡平井村にあり。綱・公時・保昌の碑石、西畝野村小童子院内にあり。源満仲公より相伝り、頼光公相従之輩、多田の地辺の出生とするに、理あり。
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渡辺綱は、多田地域の出生と推察されています。小童寺(現兵庫県川西市)に今も綱の霊廟があります。そしてその末裔は「渡辺党」として渡辺津(天満橋から天神橋あたり)を中心に活動し、摂津国の中枢武士団として時代を生きています。

2026年3月31日火曜日

摂津国豊嶋郡に所在する久安寺の伝総門が存在した可能性は高い

応永年間(1394-1427)に大修理された楼門
非売品で、流通していない書籍『久安寺ものがたり』には、久安寺に伝わる逸話がまとめられています。同書は、ご住職であった故国司禎相さんが、後世への引き継ぎとして、既知の限りを尽くしてまとめられています。
 そこには、非常に重要な事柄が収められており、郷土研究を進める上でも、外す事のできない伝書です。今では知り得ない久安寺の過去の繁栄と、その痕跡について、貴重な手がかりでもあります。
 この著書の中で気になっている要素の一つとして、「久安寺に総門があり、それが現在の楼門から南へ2キロメートル程のところにあったと伝わる。」との記述です。
※久安寺ものがたりP93+P54

-(資料1)------------------
◎外院は楼門より五十丁(約2キロメートル:誤記か。)南に総門が建てられ、様々な施設と共に僧院があったという。この様なスタイルがこの時代の仏教寺院の典型であった。
◎この門(楼門)より北には、内院として四十九院と堂塔。南側の外院は東山町神殿(ここには一本松があったという)に総門が、また香華田(寺の運営に充てがう田)や寺院僧堂もあったと聞き及ぶ。吉田橋の東(イゴキ)に、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院。東山に松雲寺、木部に蓮台寺(現ショウノミ堂)、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。
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◎伝総門の場所を特定できる有力な手がかり
上記の注釈で、「一本松があったと伝わる」との記述...。互いに意識していたとは思いませんが、それを結びつける記録があります。
※新修 池田市史 第5巻P627+P635(池田の民話一覧 28番)

-(資料2)------------------
【池田の民話一覧 28番】
琴の松(神殿の松)/ 東山町 / 東山町と中川原町の間の池田亀岡線(中川原北縁)
※地元では「こどのまつ」と読んでいたため「琴の松」「神殿の松(神をこうと読む)」の文字表記が存在すると思われます。
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そこには伝承として、「神殿(こど)の松」との記録が確認できます。これは伝承と伝承の一致であり、確かな証拠として、一段階昇格する要素になるように思います。
 これにより、久安寺の総門は確かに存在した可能性が高まりました。東山村の南縁、中河原村の北縁にそれはあったのです。

また、この辺りは墓石が寄せ集められて「地蔵さん」として祀られている場所が複数あり、他の地域と比べても多く感じられます。何度かこの辺りを歩いていて、「地蔵さん」がとても多いのはどうしてだろう?と感じていました。

ここで久安寺について、ザッと概要を見ておきたいと思います。
※大阪府の地名1(平凡社)P319

-(資料3)------------------
高野山真言宗。大沢山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
 天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
 文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
 文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる
 境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
 慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
 楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。おもな寺宝に安養寺旧本尊と推定される藤原時代木造阿弥陀如来像(国指定重要文化財)、同時代の薬師如来像、久安寺真名縁起、同仮名縁起、久安寺文書一巻がある。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。
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◎伝総門付近にあった村々
それから、久安寺総門があったと考えられる場所にある村について見てみましょう。先ずは、東山村についてです。
※大阪府の地名1(平凡社)P318

-(資料4)------------------
伝行基創建の曹洞宗東禅寺
中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。
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続いて、中河原村についてです。
※大阪府の地名1(平凡社)P318

-(資料5)------------------
臨済宗天龍寺派松雲寺
木部村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、その左岸を余野道(摂丹街道)が通る。村域東部は五月山の北側にあたる山地で、耕地や集落は西部に展開。嘉禄2年(1226)11月15日の土師某田地売券(勝尾寺文書)に「在摂津国豊島北条仲川原村十九条二里十六坪内西依也」とみえ、この「仲川原村」を当地にあてる説もあるが、五月山より南の地で当地ではないとの見解が強い(池田市史)。康正2年(1456)造内裏段銭並国役引付によると、代官と思われる安東平左衛門が、中川原段銭として1貫文を進納、また「後法興院雑事要録」の文明11年(1479)条によると、当地に摂関家が得分権を有しており、代官池田若狭守が200疋を進納している。
 元和初年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後、幕府領として続くが、文政10年(1827)より三卿の一橋領となり(川西市史)幕末に至る。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では182石余であるが、享保20年(1735)摂河泉石高調では219石余。植木栽培が盛んであった。臨済宗天龍寺派松雲寺・真宗大谷派千行寺がある。
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◎久安寺は一時的に没落している
一方で、久安寺の寺院そのものについて、再び見てみます。『久安寺ものがたり』の記述に気になる要素があります。
※久安寺ものがたりP110

-(資料6)------------------
永禄年間(1558-70)、兵乱により寺領は没収され、天正年間(1573-92)の兵火では楼門と三重塔を残し、伽藍僧堂灰燼に帰したと伝わっています。
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応永年間の楼門修復以前に製作された仁王像
このあたりの出来事について、今現在も発掘調査は行われておらず、また、史料調査もされていない事から、科学的な知見は得られていません。
 上記寺伝に「永禄年間、兵乱により寺領は没収され、...。」とある部分、事実だとすれば、どの勢力によるものなのか気になります。この地域の有力武家である池田氏は、永禄年間にほぼ最盛期を迎えます。典型的な中世型武家である池田氏が、朝廷や室町幕府(足利氏)とも縁のある久安寺を潰すような行動はしないように思います。

◎久安寺と摂津池田氏の関係
この要素を以て全てではありませんが、池田氏と久安寺の関係を知る一例を挙げてみます。
※大阪府の地名1(平凡社)P610

-(資料7)------------------
【赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)】
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
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上記について、その奥書部分です。
※池田郷土史研究8-P22

-(資料8)------------------
【大般若経修補本奥書】(川西市満願寺蔵)
天文十六年丁未、池田信正以此経、奉納于摂津豊嶋郡久安寺、永禄八年池田御寅丸、同太松丸、同妙安禅尼等加修補、慶長十三年池田筑(備)後守光重、子息多聞丸重重修補(下略)同経本五二二巻奥書に、多聞丸寅年施主息災延命御祈祷、慶長十三年五月吉日
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このような記述を見れば、永禄年間頃も池田氏と久安寺は共存関係を保っていたと考えられ、その寺領を没収するような強権は発動し得ず、それを越える権力もありません。寺領没収があるとすれば、これよりも後の時代(近世)になると考えられます。それについては後述します。

吉田町から出土した約2万枚の古銭(宋銭)
◎久安寺の没落時期の特定

一般的な感覚では、中世の終わりの最動乱期、荒木村重と織田信長の時代以降であるように思われます。
 吉田村の地面下から多量の古銭が見つかるなどしており、このあたりにまで兵火や混乱が迫った事が、公的にも想定されています。ひとつの判断基準なるものと思われます。この頃だとすれば、久安寺は荒木方に付いたのかもしれません。
 その復興として、豊臣秀吉が天正年間の終わり頃、あるいは文禄年間に久安寺にて「月見の宴」を催したのかもしれません。これは今のところ想像の域ではありますが...。
※久安寺ものがたりP110

-(資料9)------------------
天正の末、豊臣秀吉は久安寺に詣で、三光大膳神に祈願し珍寿山に月見の宴をはり、庭を借景よろしく庭造りの範だ、と誉めた(『摂津名所図絵』)と伝わっています。秀吉を迎えた小坂院(久安寺の塔頭)には桃山風の木戸を残し、楼門前の丹波屋(亀山街道沿いの岩崎家)には、秀吉一行の行列順を記した文書が残っています。文禄元年(1592)3月、秀吉は久安寺の塔を京の伏見城へ運び出したといわれています。(『穴織宮拾要記』)
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この頃から秀吉の寺社政策は、保護下での統制を行っており、政権は寺社後援策をとっているようです。
 そして一方で、秀吉は朝鮮出兵を計画し、3月1日に出陣日を定めて、行動が始まります。秀吉自身も肥前国名護屋へ向けて出陣しています。こういった大きな動きも参考にしつつ、史料の発掘をする事も課題です。


さて、久安寺の寺院規模感で参考になる資料がありますので、それも見ておきます。久安寺に伝わる古い巻物に描かれた境内図があります。
※久安寺ものがたり巻頭資料

時期は不明ながら久安寺最盛期と思われる境内図

これは、いつ頃のものか不明ですが、江戸時代の繁栄の様子と考えられます。再び『久安寺ものがたり』を引用します。
※久安寺ものがたりP54

昭和後半まであった一本松
-(資料10)------------------
この門(楼門)より北には、内院として四十九院と堂塔。南側の外院は東山町。神殿(ここには一本松があったという)に総門が、また香華田(寺の運営に充てがう田)や寺院僧堂もあったと聞き及ぶ。吉田橋の東(イゴキ)に、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院。東山に紫雲寺、木部に蓮台寺、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。
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◎久安寺境内の外にも関連集落が広がっていた

久安寺には往時、内院と外院があり、病院施設もある「寺尾千軒」なる大集落や附属の町が、外院としてあったと伝わります。
 著者の国司さんは資料(1)により「東山に紫雲寺、木部に蓮台寺、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。」としていますが、それらは行基開創の諸寺が連なる何かがあったのかもしれません。
 余談ながら、久安寺川(現余野川)から北側の集落は、久安寺と直接的に山の尾根が連続しており、時代が下るにつれて(特に室町時代以降)、こちら側の地域へ影響力を増したのではないかと考えられます。また、その川の名の通り、久安寺が治水や用水の開発・管理を行っていたとも考えられます。
 そしてまた、南北朝時代、南朝方の中心人物であった、北畠親房や足利尊氏と久安寺は縁があります。
※久安寺ものがたりP51

-(資料11)------------------
久安寺本尊、千手観音の両脇侍、不動明王と毘沙門天の二木造は、親房の寄進だと伝えられている。この仁王像も親房や尊氏の何らかの護持力があったのではと考えられる。尊氏の花押のある「池田荘寄進状」が保存され、池田伊居太神社社殿の修築などからも、室町時代の何者かが力を注いだのだろう。その大きな力が二王尊像を荘厳している。
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◎久安寺に城(八幡)があったと伝わる
一方で、久安寺の山内に城があったとも伝わります。
※摂陽群談(大日本地誌大系:大正5年刊行)P174、P137

-(資料12)------------------
【八幡古城】
豊嶋郡伏尾村久安寺山内にあり。多田満仲公の家臣藤原仲光在城。後に播磨守在城と云へり。氏年暦所伝未詳。山の原に麗水あり。井水の部に記す。是れ則ち城郭の用水也と云へり。
【水槽清水(みずふねしみず)】
同郡伏尾村久安寺内、城山の原にあり。是れ則ち古城の用水也と云へり。数月雨なうして水不乾。亦淫雨洪水すると云へども、濁らざるの名水也。
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池田市古江南公園が八幡宮跡地

「八幡城」とは、足利尊氏が、源氏の氏神である八幡宮を篤く崇敬し、軍事・政治の拠り所ともしていた事と無関係ではないかもしれません。
 それからまた、古江丘陵の西端にある古江村には「八幡宮」があり、その東隣の片岡にある「如来寺」の山号が「八幡山」です。如来寺は、元は道場であり、江戸時代の宝暦年間に寺号を許されたのですが、「八幡」との山号は何らかの縁りがあるものと思われます。

このように、余野川(旧久安寺)以北に「八幡」を冠する呼称が少なからずあるというのは、偶然ではないように思われ、久安寺内院の東側からの地形が、古江丘陵にも連続している関係上、また防衛上も、西側への関係性を伸ばしていたものと思われます。そして、古江丘陵には、能勢街道・妙見(長尾)道・多田道を通しており、交通の要衝でもありました。
 摂津池田氏が勢力を拡大する永禄年間頃は、どちらかというと久安寺川から北に久安寺勢力が浸透し、同川の南側は東山村・中河原村・木部村が独立的で、池田氏の勢力が及んでいたような構成であったと思われます。この南側、五月山の北縁は、池田氏の本拠である池田城の裏庭でもありますので、直接的な影響力を及ぼす必要があったと考えられます。
 『摂陽群談』には、(前略)久安元年、近衛帝御宇再建、久安寺と改め賜勅額、賢実上人を中興開祖とす。此の時四十九院にして、七十余町の香花田あり。文禄年中没収せり。(後略)とあります。
 また、文禄年間に豊臣秀吉は、久安寺の塔を京の伏見城へ運び出したとも伝わっています。(『穴織宮拾要記』)「文禄年中没収せり」との整合性も感じる伝聞です。
 久安寺は非常に大きな勢力であり、新たな時代の統治には、その権力が邪魔になったのだろうと思われます。このあたりの地域は、日本国内でも有数の鉱山地帯でもあり、この近くには多田銅銀山があり、銅を大量に産出した能勢・箕面地域もあります。

◎能勢街道は摂津池田氏の地域政権にとっての基幹道であった
摂津国豊嶋郡を中心とした地域政権である池田氏にとって、その本拠地の地勢特性上、経済・軍事上、最も重視したのは能勢街道でした。
 発掘調査によると、池田城変遷過程の最終段階で、能勢街道を城内に取り込む構成になっており、同街道を重視していた事が解ります。したがって、少なくとも政策として、領内にある同街道は管理・監視する必要があったと思われますので、古江丘陵のあたりがそう言う意味で、最北端の重要拠点になっていたと考えられます。 

細河地域を通る重要街道
◎伝久安寺総門は伝承どおり存在した可能性は高い
今のところ、推測ではありますが、伝久安寺総門の存在有無について、まとめておきたいと思います。

 当初、私は総門の場所を、余野街道に沿いにある東山村の地蔵堂がその跡かと考えていました。この場所にも象徴的な大きな木があり、地蔵さんが点在します。
 しかし、この度はこれまでの資料の見直しで、有力な総門跡地が浮上しました。

総門推定場所の地図を元に、少々考察を加えたいと思います。その有無から言うと、存在した可能性が非常に高いと思われます。
 そして、その場所ですが、余野街道沿いという直接的に久安寺へ向かう途上にありつつ、ここから久安寺川(現余野川)を渡って西と北への接続道があり、能勢街道・妙見道・多田道の交差点でもあります。中でも注目しているのは、中河原村から分岐した道(途中に今も中川原橋がある)を真西に進むと、能勢街道に接続しますが、その途上に古江村の「八幡社」があります。結界や道標のような役割があったと思いますし、久安寺に纏わる象徴的な意味合いもあったのではないかと思われます。

このように巨大な宗教勢力であり、都市であった久安寺ですので、楼門や総門を備えた威厳を示す時代もあったと考えて良いように思います。
 場所の特定には、更なる資料集めや聞き取りなどして精度を上げる必要もあります。継続して、追求してみたいと思います。

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2026年3月19日木曜日

池田市にある五月山愛宕神社は、摂津池田城の関連施設である可能性が非常に高い

大阪府池田市の五月山頂上にある愛宕神社(綾羽2丁目)の地は、摂津池田城の関連施設であった可能性が非常に高いと思われます。この愛宕社の由緒などについては、公的には以下のように記述されています。
※新修 池田市史5(民俗編)P135

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摂津名所図絵にある五月山愛宕神社
【愛宕神社の勧請】
愛宕神社が京都から勧請された時の次第については、柴田久徳が『愛宕火と八坂の額灯』(市立歴史民俗歴史館図録)の中で詳細に述べているので、以下、この研究を参照しながら説明を進めていきたい。愛宕神社の勧請についての同時代史料は、今のところ確認されていないが、享保12年(1727)ごろ作成された『穴織宮拾要記 末』(伊居太神社蔵)には、次のように記載がある。正保元年(1644)に多田屋・板屋・中村屋・丸屋の四人が、山上で百味の箱を竹に立てて火をともしたところ、人々がその火をみて、池田に愛宕が飛来したといいながら、競って参集したのが当地の愛宕神社の始まりである。その評判があまりに高いために、京都の愛宕神社から抗議があったが、箕面勝尾寺宝泉院は、京都所司代板倉周防守に働きかけ、和解を果たしている。和解後、慶安2年(1649)には、宝泉院は板倉周防守に感謝するため、22人の僧によって護摩を焚いている。それ以後、本格的な社殿の建築が進められている。近世都市においては多くの流行神がみられ、その中には神が飛来するというパターンもみられるが、池田における愛宕神社の創始には、典型的な都市における民衆信仰の発生過程が示されている。
 元禄6年(1693)に作られた『池田村寺社吟味帳』(伊居太神社蔵)には、当時池田にあった寺社の明細が記されているが、愛宕権現社は当時皐月山にあった上仙寺境内の一社として記載されている。ただしその説明部分には、「是ハ勝尾寺宝泉院当村高法寺両寺之支配」と書かれていることから、愛宕神社の支配はこの上仙寺ではなく、勝尾寺宝泉院と池田の高法寺の両寺がおこなっていたことがわかる。柴田久徳は高法寺が池田の会所寺としての機能を持っていたことを指摘したうえで、勧請の後、庄屋衆が愛宕神社の利権の一部を貰い受けたために、高法寺が支配権を得たことを述べている。会所寺とは、町民の集会所としての性格の強い寺院である。勧請から50年後には、愛宕神社は池田の町が全体として祭祀するという特別な位置を確かなものとしていたのである。
池田村寺社御吟味帳(部分)より
 愛宕神社勧請についての事情は、おおむね以上のとおりであるが、それ以前の五月山についても少し考えてみたい。先に取り上げた元禄6年(1693)の『池田村寺社吟味帳』の皐月山上仙寺の項目には、愛宕大権現以外に、常住院と地蔵堂2宇、護摩堂が書かれている。この堂宇の構成からは、愛宕信仰の前提として地蔵信仰があったことがうかがえるし、護摩堂という記載からは、山岳の信仰としての修験道が根付いていたことも想像できる。史料的な実証は困難であるが、池田の町民が日々仰ぎみる美しい山としての五月山に対する素朴な山岳信仰が古代から存在し、そこに地蔵信仰や修験道がまず定着し、その前提の上で、近世初期に愛宕神社が都市的様相を強くにじませながら勧請されたという歴史的推移が考えられよう。池田における愛宕神社は、単なる火伏せの神というだけではなく、在郷町池田全体の守護神的性格が感じられるが、その背景として、愛宕神社のこのような成立過程を考慮する必要があるだろう。
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もう一つ、愛宕神社についての資料をご紹介します。
※摂津名所図絵 下巻(臨川書店)P41

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【池田愛宕】
五月山にあり。池田の町より山路八町北の方なり。佐伯部の祖神を祭るとぞ。此の所高きにより、里俗愛宕とよぶ。南方大いに晴れて浪速尼ヶ崎の海上遙かに見えわたりて、風景の地なり。毎年七月二十四日群参して、数の燈籠を照らして法会を修す。此の夜大坂天満の野原より星の如く見ゆる、これを愛宕火という。
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現池田市米屋町にある高法寺
◎真言宗 待兼山 高法寺は、池田筑後守の祈願所であったという伝承

また、上記引用文中に登場する「高法寺」とは、摂津池田筑後守の祈願所であったとも伝わっており、古くから摂津池田とは関係の深い寺です。以下、その由緒です。
※大阪府全志3-P1109

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【高法寺】
高法寺は米屋町にあり、待兼山と号し、真言宗高野派西禅院末にして十一面観世音を本尊とす。僧正行基の開基なりと伝う。もと待兼山の絶頂にありて、池田城主筑後守祈願所たりしが、後兵燹に罹りて当所に移転し、慶長3年(1598)静辨之を中興せり。境内は141坪を有し、本堂兼庫裏・薬医門を存す。外に不動堂あり。
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ちなみに愛宕社では、大阪府無形民俗文化財「五月山の愛宕火(がんがら火)」も、ここを基点毎年8月24日に催行されます。同日に、地蔵盆行事も行われています。

◎高地性集落があったとみられる愛宕神社遺跡
それからまた、この場所は、弥生時代から古墳時代に渡る「愛宕神社遺跡」として、公的な認知がされてもおり、高地性集落が営まれていたと考えられています。
※新修 池田市史1-P155

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摂津名所図絵:鼓ヶ滝
【池田の高地性集落】

愛宕神社遺跡:
五月山の頂上近くの標高210メートル、麓との比高差約150メートルのところにある遺跡である。昭和6年(1931)、愛宕神社の相撲場があったところの付近で、林田良平氏が、弥生土器を採集したが現在は不明である。また、同年秀望台の下にある愛宕神社鳥居近くの旧道において石器が採集されている。その石器の石質は安山岩で有孔磨製石器が1個あり、他の石器は皮剥ぎなどに使用されたと思われる刃噐である。愛宕神社の宮司によって、弥生土器・石器・土師器などが採集保管されている。土器は畿内第五様式を中心に第三様式が一部含まれている。土器の種類は、甕と壺である。その中に中河内産の搬入の土器もある。石器は不定形の刃噐と安山岩片がある。土師器は古墳時代前期の布留式の高杯の完成品が2点ある。この愛宕神社遺跡から南方を望むと、弥生時代中期の加茂大集落が眼下に見え、西方を望むと、弥生前期の木部遺跡と、時代も性格も同じの鼓ヶ滝遺跡が見える。愛宕神社遺跡は、猪名川流域全体を見張ることのできる場所としては最高の高地性集落である。また、出土遺物から古墳時代初めには祭祀などを行っていたかもしれない。
鼓ヶ滝遺跡:
古江丘陵が西に伸びる標高約100メートルのところにある。遺跡の範囲は、尾根上の緩斜面に広がっており、その中心は北側の川西市にある。遺物は個人により採集保管されていた。土器は、畿内第五様式にあたるもので、その種類は、壺・甕・高杯・甑(こしき)などであった。この遺跡の特徴は、猪名川と両岸の山塊とによって関門状になっているところである。遺跡は、左岸の端で比高差約60メートルの古江丘陵の尾根にあり、多田方面をみると矢問遺跡が見え、南方は木部遺跡と加茂大集落が見える。また、この地は、池田地方と多田地方との交通上の要所であることから、人と物の交流に関係のあった遺跡ではないかと推定される。
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この場所は同じ高地性集落の鼓ヶ滝遺跡(標高100メートル)よりも更に高く、標高が210メートル(麓との比高差約150メートル)に位置します。改めて、高地性集落の概要を引用してみます。
※かわにし文化財ウォーキング(川西市教育委員会)P36

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【鼓ケ滝遺跡 古代の狼煙台?】
(前略)
弥生時代中期から後期にかけて、大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸にかけての地域では、鼓ヶ滝遺跡と同じように標高100〜200メートルの山頂に集落をつくることが多くなり、これを高地性集落と呼びます。
 高地性集落は、高い山上に集落があるために稲作には適しません。それでは、なぜ、このような所に集落をつくったのでしょうか?
 各地の発掘調査例をみてみると、濠や土塁のようなものが集落の回りを巡っていたり、鉄・銅・石鏃や投弾と考えられる石器が多数出土しています。また、中国の歴史書の『後漢書』に「倭国大いに乱れ…」という記載があることから軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。中でも芦屋市の会下山遺跡は有名な高地性集落で、遺構などを現地で見学できるようになっています。
 鼓ケ滝遺跡周辺は現在でも但馬・丹後方面へ向かう交通の要衝です。弥生人達も山上から人々の通るのを眺めて、危険がせまると狼煙を上げていたのでしょうか。
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「鼓ヶ滝(山)」の軍事的な要素について、もう一つ資料を見てみましょう。摂津名所図絵の各地の名所解説に以下のようにあります。上記絵図の赤色丸印部分です。
※摂津名所図絵(臨川書店)下巻P71

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【旗指山】
多田村にあり。峰巒高聳(ほうらんこうしょう)にして、一郡の秀嶺なり。曾て満仲公此の峰に御旗を靡かし、諸軍の機を窺い給うとなり。
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江戸時代の伝承ですが、鼓ヶ滝の高みを利用して陣を取っていた様が「旗指山」として使われていたと伝わっています。これは「旗振山」としても使われていた可能性もあります。

五月山頂上の代表的な道
(奥地への道は省略、他にも無数に道がある)
◎五月山半島には無数の山道が交わる重要な通路

このように五月山愛宕神社の地は、古くから人の活動が認められ、軍事的、時には精神的な場所でもありました。また、五月山は山頂が比較的に平坦であるためか、多くの山道を通して、その交差点ともなっていました。
 半島状の五月山の根本にあたる北東方向には、勝尾寺・箕面寺や茨木方面、北へは高山や能勢・丹波国方面へつながる山間道が通じていました。
 近距離では五月山南麓にある池田城とその町などと、細河郷の村々を繋ぐ山間道が多数あり、相互に行き来は盛んに行われたようです。五月山頂上が交通上のロータリー構造になり、分岐点・結節点として、平地を通る西国街道や能勢街道などと同様に、重要な通路になっていました。

五月山の山間道の利用を考える上で参考になる史料があります。欠年2月14日付、楢葉宗祐なる人物が、摂津国豊嶋郡勝尾寺年行事へ宛てた音信で、池田への連絡(夜間の移動)のため、その使者である「中間(ちゅうげん)」の道案内を依頼しています。この宗祐なる人物は、摂津国人芥河孫十郎常信の被官であり、年代比定は天文21年と嶋中佳輝先生は述べられています。以下、その史料をご紹介します。
※勝尾寺文書1139号(箕面市史:史料編2)P379、歴史研究(戎光祥出版)724号-P79+83

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前置:寺納候。御油断候ては然るべからず候。
本文:急度申し入れ候。仍って此の中間は「芥新十」より池田まで急用候て参り候池田へ案内者御添へ候て、遣わされるべく候由「新十」より申しかへの由申され候。今夜中に遣わされるべく候。詳しくは此の者申すべく候。恐々謹言。
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五月山愛宕神社の地形
◎五月山愛宕神社の場所は、監視・管理・連絡などの要害施設

それ故に、戦国時代にあっては、これらの街道の監視・管理などを目的とした場所として、五月山愛宕社の地に要害を設けていたと考えられます。五月山の北から西及び南側の警戒や連絡場所として機能していたと思われます。ここからは、それらを一望することができます。
 今の五月台展望台は、観光用も兼ねて広くなっていますが、ここは太平洋戦争中には防空監視所があったようで、この頃に手が加えられているのかもしれません。
要害性のある西側からの入口
 五月山愛宕社へつながる山道は、2つあり、ひとつは五月台(展望台)の中央部にある階段から神社へ登る道があります。もうひとつは、神社境内へつながる鳥居のある所から南へ伸びる道(今はドライブウェイで切断)があったようです。なお、これらは時代による変遷はあると思われます。

◎古江村方面の郡境の警戒
摂津池田領内の北端にあたる、古江から吉田村に至る小丘陵は河辺郡との境にあたり、比較的長期間に亘り敵対していた塩川氏との最前線となっていた重要な場所です。また、ここには能勢街道など複数の重要街道を交差させています。
 この半島状のいわゆる「鼓ヶ滝」は、古江丘陵と呼ばれます。この丘陵は、猪名川を挟んで西側にある、より標高の高い釣鐘山(約200メートル)・石切山(約284メートル)から見下ろされる立地にあります。したがってその不利を補うために付近の要所と連携を取って同半島を守る必要があり、その意味でも、五月山愛宕社に示威的な建造物などを置きつつ、その見通しにより、警戒・監視・補完を常時行う必要があったと考えられます。
 余談ながら、古江丘陵の南側、猪名川を越えて、河辺郡小戸村や栄根村、賀茂村、久代村へも池田氏が影響力を持っており、これらも塩川・伊丹氏など河辺郡勢力への対応を行っていたと思われます。

◎能勢街道は摂津池田氏の地域政権にとっての基幹道であった
摂津国豊嶋郡を中心とした地域政権である池田氏にとって、その本拠地の地勢特性上、経済・軍事上、最も重視したのは能勢街道でした。
 発掘調査によると、池田城変遷過程の最終段階で、能勢街道を城内に取り込む構成になっており、同街道を重視していた事が解ります。したがって、少なくとも政策として、領内にある同街道は管理・監視する必要があったと思われますので、古江丘陵のあたりがそう言う意味で、最北端の重要拠点になっていたと考えられます。

五月山愛宕神社の周囲にある何本もの深谷
◎山を支配する事は水利権にも及ぶ

現代のように、水道の蛇口を捻れば、いつでも安全な水を当たり前のように得られる時代は、つい最近の事で、生命線である水の確保については、非常な労力が必要でした。戦国時代は、水の取り合いでもありましたが、山を支配する事は水の確保の面でも、必要な課題でした。
 生活の水はもちろん、農産物生産にも水は欠かせません。谷の上、尾根の最上部など、用水のための谷から、最適な所にある池を管理するためにも、要所に何らかの屯所は必要でした。そういう意味でも五月山愛宕社には、何本もの深い谷があり、水源管理(分水嶺)としても重要な場所でした。

この後の近世徳川時代には、分水嶺と交通の要衝は、全て幕府直轄地に指定しています。池田・細河郷も然りで、重要な場所だったからこその対策です。幕府の安定政権のための必須要素、交通と水を掌握することは、戦国時代を経た、知的政策でもありました。一方で、「水」争いなど、直轄化してその種を摘む事で、治安維持にも役立ちました。

それら幾つもの重要要素を持つ五月山愛宕社の地は、やはり戦国時代には軍事的な性格を帯びた施設がなければならない場所であった事が解ります。
 時代は降り、江戸時代となっても、やはり池田村としての重要な場所で、日照りが続くと同地で「雨乞い」が行われています。その場所が高法寺の支配地でもあり、同寺は池田郷の寄り合い場所ともなっていて、町政運営を話し合うために年寄り衆の集う寺でもありました。

五月山愛宕神社のある場所は、時代により意味合いが変化するのですが、重要な場所である事は変わらず、現在に至っています。


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2026年3月9日月曜日

摂津国豊嶋郡古江村(現大阪府池田市古江町)にあった古代寺院の(伝)等覚寺を探る

池田市五月台展望台(五月山)からの古江町遠景
今の大阪府池田市古江町にあったと伝わる古代寺院の等覚寺について、考えてみたいと思います。
 この等覚寺については、戦後は特に歴史資料上では、あまり触れられなくなって益々探求から遠のくばかりになり、人々に忘れられようとしています。
 それらの伝承資料を確認するため、池田市細河地域の各場所を踏査しています。その結果、それらは確かにあったと実感しています。
 また、考慮に入れるべき興味深い分野として、この辺りは鉱山がおおくあるということです。猪名川上流から五月山にかけては日本有数の鉱山地帯で、満仲を祖とする多田源氏が大きく勢力を拡大していった背景に、これらの鉱山の支配は見逃せません。長暦元年(1037)に摂津国能勢郡で銅鉱が発見され、銅が朝廷に献上されたことが『扶桑略記』に記述されています。(古江の歴史と民俗)
 今後は、各分野の専門家にも相談し、それらの意味を確認して、認定を行っていきたいと考えています。非常に有意義な発見に繋がる可能性も大いにあると考えられ、今後も地道に調査を進めていきたいと思います。

◎伝えられている等覚寺の姿
戦前に発行された池田町史(昭和14年発行)には、以下のようにあります。
※池田町史 第一篇(風物詩)P317

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【等覚寺址】
古江北方にあり、伝え言う当寺は天平年間(729-49)僧行基の開基なりしが寿永年中(1182-85)の兵燹にかかり、悉く烏有に帰せしと。今は田圃となりて遺址の見るべきものなきも字地に寺名及堂塔址を残せりと。(大阪府全志)
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この出典そのものは、大正11年(1922)11月に発行された『大阪府全志』によっています。内容は、殆ど同じですが、以下に掲示しておきます。
 ※大阪府全志3(昭和50年復刻版)P1116
 
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【大字古江】
(前略)等覚寺の址は北方にあり。伝え言う、寺は天平年間僧行基の開基なりしが、寿永年中の兵燹に罹りて悉く烏有に帰せしと。今は田圃となりて遺跡の見るべきなきも、字地に寺名及び堂塔銘を残せり。本地の領主及び区画の変遷は、大字中河原に同じ。
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どちらの記述にも「字地に寺名及び堂塔址を残す」とあるのですが、地籍(地番)には、今のところあたっておらず、これはまた、課題としておきます。位置特定が更に具体化するかもしれません。

古江村地図(新修 池田市史より)
◎近世に見られる等覚寺の記述
それから、平成11年(1999)に発行された『新修 池田市史』に等覚寺についての記述がみられます。
※新修 池田市史2-P156

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【古江村の寺社改め】
村の中には、住職や神主のいない小さな寺堂や庵、神社が多く存在した。(徳川)幕府はこれらの把握のため、村ごとの寺社改めもおこなった。元禄5年(1692)の寺社改めでは、古江村・畑村の届の写が残っている。
 「古江村寺社御改帳」には、寺として無二庵・清香寺、神社として八幡宮が書き上げられている。無二庵は、文明10年(1478)開基の禅宗の古刹で、当時は了納が住持を務め、その境内は除地となっている。無二庵境内には等覚寺・森堂があるが、前者は行基開基の伝承を持つ観音堂、後者は観音休堂とされている。もともと観音信仰があったところに、無二庵が開庵されたとも考えられる。八幡宮も無二庵の鎮守とされているが、起源は案外古い可能性があろう。無二庵では、近世には村の寄合も行われたこともあった。また清香寺は年貢地にあり、寺は廃絶して寺号のみ残り、敷地は村が支配して助兵衛に管理させていた。
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今もある無二庵(観音堂)
上記の伝記によると、文明10年には既に開創されていた寺であり、別説の永禄5年(1561)開基は、再興などいう事になるのかもしれません。
 また、同寺の山号が「鼓瀧山」とは、鼓ヶ滝を想起させる命名ですし、境内に「等覚寺」があるのは、無二寺が系譜を引き継いでいる要素があるのかもしれません。今後、もう少し調べてみます。
 それから、無二寺が八幡宮をも掌管していたと届け出ているのも気になります。古江村から少し離れた場所にある久安寺(現池田市伏尾町)内に城があり、それが「八幡城」であったと伝わるため、何か関連があるのかどうか気になります。

加えて、同市史から等覚寺についての記述をもう一つご紹介します。
※新修 池田市史2-P728

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【開基をめぐる諸説】
万治3年(1660)2月、片岡村惣道場(現八幡山 如来寺)の屋敷用地として、字等覚寺の下畑一畝五歩(35坪)が、代銀60匁で古江村本郷の七左衛門から片岡村へ譲り渡された。また、道場庫裏屋敷の用地として、字八幡屋敷の下畑十六歩(16坪)が、片岡村の治右衞門から代銀50匁で譲られている(「記録帳」)。(後略)
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上記には、同村内片岡の惣道場の屋敷用地として「等覚寺の下畑」の一部が売却されています。この場所がどこなのか、今のところ調べが及んでいませんが、片岡村が古江村の中心集落(本郷)とは少し離れた別の麓に展開されている集落ですので、等覚寺の土地の一部を売却するとなると、同寺域はこの山の頂きあたりに広く展開していたのかもしれません。

◎伝等覚寺と鼓ヶ滝遺跡は、連続した関係性があるのか
それからまた、等覚寺跡は、古江の北方にあったとしており、ここには「鼓ヶ滝遺跡」もあります。それについて、兵庫県川西市発行(1998年)の『かわにし文化財ウォーキング』に、同遺跡の紹介がありますので、ご紹介しておきます。
 ※かわにし文化財ウォーキング(川西市教育委員会)P36
 
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摂津名所図絵に描かれた鼓ヶ滝(旗指山ともある)
【鼓ケ滝遺跡 古代の狼煙台?】

能勢電車を鼓ケ滝駅で降りて、線路沿に南へ歩くと、相当急な坂道になります。この坂道を登りきった山項に鼓ケ滝遺跡があります。
 鼓ケ滝遺跡は、この山項を中心に東西約700メートル、南北約250メートルの範囲で、現在の池田市と川西市にまたがっています。この遺跡については、弥生時代中・後期の巣落跡という以外は不明で、これまで2回の発掘調査でも溝やピットがみつかっただけで、住居跡や墓などの集落の構造を確認できる遺構はみつかっていません。また、遺物は弥生土器や石器が多数出土していますが、土器については細片がほとんどで、形のわかるものはほとんどありません。その中で、地元の山県みさおさん採集品の中に、高さ8.2センチメートルの弥生時代後期の壺形土器が1個あり、当時の生活を知る唯一の手掛りとなっています。
 弥生時代中期から後期にかけて、大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸にかけての地域では、鼓ヶ滝遺跡と同じように標高100〜200メートルの山頂に集落をつくることが多くなり、これを高地性集落と呼びます。
 高地性集落は、高い山上に集落があるために稲作には適しません。それでは、なぜ、このような所に集落をつくったのでしょうか?
 各地の発掘調査例をみてみると、濠や土塁のようなものが集落の回りを巡っていたり、鉄・銅・石鏃や投弾と考えられる石器が多数出土しています。また、中国の歴史書の『後漢書』に「倭国大いに乱れ…」という記載があることから軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。中でも芦屋市の会下山遺跡は有名な高地性集落で、遺構などを現地で見学できるようになっています。
 鼓ケ滝遺跡周辺は現在でも但馬・丹後方面へ向かう交通の要衝です。弥生人達も山上から人々の通るのを眺めて、危険がせまると狼煙を上げていたのでしょうか。
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鼓ヶ滝遺跡全景(かわにし文化財ウォーキングより)

ここには「軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。」との見解が示されています。
 「鼓ヶ滝(山)」の軍事的な要素について、もう一つ資料を見てみましょう。

◎『摂津名所図絵』に描かれた鼓ヶ滝と旗指山
摂津名所図絵の各地の名所解説に以下のようにあります。絵図の赤色丸印部分です。
※摂津名所図絵(臨川書店)下巻P71

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【旗指山】
多田村にあり。峰巒高聳(ほうらんこうしょう)にして、一郡の秀嶺なり。曾て満仲公此の峰に御旗を靡かし、諸軍の機を窺い給うとなり。
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江戸時代の伝承ですが、鼓ヶ滝の高みを利用して陣を取っていた様が「旗指山」として使われていたと伝わっています。
 このように、非常に興味深い要素を多々確認できます。高地性集落として使われていた「鼓ヶ滝」の付近では、同じく高台に環濠を伴う大集落を形成した、加茂遺跡があります。

◎地図から考えてみる
地図を見てみます。ここは今も昔も境目で、近世から近代に至るまで、摂津国の豊嶋郡と河辺郡との境界でした。現代は、大阪府と兵庫県の境で、非常に重要な場所です。
  そして更に、現代の地図を見てみますと、兵庫県川西市鼓ヶ滝1丁目16番のあたりが、奇妙に大阪府池田市側に入り込んだ境界になっています。この理由は解りませんが、意味があるのだと思います。

Google マップの衛星写真モード(キャプチャー)

明治42年測量:陸軍参謀本部地図

そこで更なる推測のため、赤色立体地図を見てみます。生活に欠かすことのできない「水」を確保するために、谷を人工的に普請したと思われる跡が多数見られます。自然地形を利用して、水を配る事を企図したらしき跡(赤色実線)が、同一線的に南北に見られます。この谷を堺とするように、東西に大きな区画が感じられます。

赤色立体地図による地形の観察


それからまた、この鼓ヶ滝遺跡及び古江の等覚寺跡あたりは戦国時代後期には、摂津国豊嶋郡を中心とした池田氏が五月山南麓に本拠を構えて、勢力を拡大していました。河辺郡との境である、この丘陵を重要視していたと考えられる事から、等覚寺跡や高地性集落跡を再利用するなどしていた可能性が考えられます。

ミツマタ(枝が3つに分かれる木)
ちなみにこの付近には、紙の原料である、ミツマタなど木が多数みられます。都市や寺院では紙の需要が大量にあり、これを満たす(賄う)ために、生育環境に適する場所には悉く植えられていたと思われます。概ね、谷に多く植えられていたようで、多数を目にしました。

◎能勢街道は摂津池田氏の地域政権にとっての基幹道であった
摂津国豊嶋郡を中心とした地域政権である池田氏にとって、その本拠地の地勢特性上、経済・軍事上、最も重視したのは能勢街道でした。
 発掘調査によると、池田城変遷過程の最終段階で、能勢街道を城内に取り込む構成になっており、同街道を重視していた事が解ります。したがって、少なくとも政策として、領内にある同街道は管理・監視する必要があったと思われますので、古江丘陵のあたりがそう言う意味で、最北端の重要拠点になっていたと考えられます。
 
◎室町時代末期の郡境の推測

一方、河辺郡には、多田院御家人筆頭とされる塩川氏が居り、池田氏にとっても、この丘陵がその敵対していた頃には、最前線になっています。その時代にもやはり「要塞・のろし台・みはり台」などの機能を持たせた要地であった可能性は高いと考えられます。
 この古江地域には、能勢・多田・妙見街道を通し、猪名川には川港があったようです。五月山南麓に本拠を構える池田氏にとって、この地域は後背を守る重要な地域であり、交通の要衝であっため、主体的な管理を是非とも行うべき所でした。これは、天文年間からそのような動きがあったのかもしれません。 
多くの重要街道が交差する細河郷
(新修 池田市史)
 伝等覚寺についての興廃は、資料上で辿る事は難しいと思われますが、現地地形やフィールドワーク(現地踏査)を通じて、その間を埋める事は十分に可能だと考えられます。
 現時点での見立ては、妙見道などを通すこの舌状丘陵は、天文から永禄年間以降の隆盛期の池田氏が、この地域を掌握していたのではないかと感じています。
 その根拠の一つは、永禄5年(1561)、僧雲清により創建(別説では文明10年開基)されたとされる(大阪府全志)古江村内の鼓瀧山 無二寺が、池田氏の菩提寺である大広寺末寺である事。ここには和泉式部に関わる宝篋印塔があり、それにまつわる伝承も存在し、池田と関わっています。それを擁する事についても無縁ではないと思われます。
 その他にも、その丘陵上に多数の池田氏に関連するらしき遺跡が多数あり、それらを総合しても、この丘陵の支配は池田氏が優勢であった事を伺わせます。
 また、同じく古江村内の小字片岡というところの伝承では、「古御坊」と呼ばれる寺院があり、それが池田城の落城と共に焼失し、廃寺となったとの伝承があります。
※新修 池田市史5(民俗編)P333
 
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【古御坊
村の墓のもう一つ上の高いところに、古御坊というお寺があったという。今でもそこは、古御坊と伝えられている。戦国時代に池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。そこに寺男としておった人が片岡〇〇という人で、寺が焼かれて行き場がないので、ここに降りてきて住み着いたという。その片岡某の名前からここを片岡といっていた。江戸時代は古江村字片岡といわれていた。
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この伝承では、「古御坊は池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。」とあるため、天正6年(1578)秋から始まる、荒木村重の信長政権からの離反に伴う闘争に関係するかもしれません。
 拡大して想像するなら、大和国北部の松永久秀の守備構想のように、多聞山城と鹿背山城を一体化させたものであったり、荒木村重の伊丹城と池田城の連携のように補完し合う守備構想を立てていた可能性もあったかもしれません。何しろ鼓ヶ滝の山は低く、東側の「現滝山」から俯瞰される状況でもあり、この不利を補って維持する必要(工夫・連携構想)があったとも考えられるからです。

昭和43年10月頃の唐船ヶ淵付近
(グラフいけだNo.27 1978年3月発行)
摂津池田城の守備構想の中にあったと思われる猪名川は、水量の少ない冬期などは、徒渡り(徒渉)が可能で、岩や石が多い川原に板や梯子などを渡せば対岸に渡ることができます。
 それ故に、各地に渡河阻止や、渡られた場合の備えが必要であったと思われます。そういう意味でも、城や寺などで監視や管理、防御想定などがされており、村の避難所的な曲輪が多数見らるのは、その結果であろうと考えられます。

史料上からも、多くの街道を交差させる池田領内において、敵の侵入による合戦が、天文年間(1532-55)以降徐々に少なくなり、永禄年間(1558-70)になると殆どありません。非常に防御が固かったため侵入できなかったのだと思われます。

それらから想定される事は、古江地域の地政学的要素の不変性を帯びており、弥生時代から永きに渡って、利用され続けた実態です。伝等覚寺や伝古御坊は、時の勢いによる実態の痕跡と考えられます。


2025年10月21日火曜日

河内国の武将小寺美濃守高仲と飯島三郎右衛門と高井田村(現東大阪市)のこと

自分の中の記憶の点が結びついて、線から面になることが時々あります。地域の歴史案内板にある「由緒」が、その私の切れた思考と想定の線を繋いでくれます。
 河内国の戦国武将小寺美濃守高仲(現東大阪市布施付近)と同じく弓術の達人であった飯島三郎右衛門(現東大阪市岩田町)が、同国高井田を通じて、荒木村重との関係性にヒントを与えてくれました。

明治末期頃の地図
◎放出街道は摂津・河内の国境線
旧放出(はなてん)街道を南下していくと、旧深江村(現大阪市東成区深江南3丁目)あたりが、摂津と河内の国境に行き着きます。ここで奈良街道とも交差しており、この付近は重要な場所でした。それについて、東大阪市による説明板が立てられていますので、ご紹介します。

---(資料1)----------------
河内国と摂津国境(令和5年3月:東大阪市):
この児童公園の場所は、明治5年(1872)に高井田本村の西端に鎮座する延喜式内社の鴨高田神社へ合祀されるまで、西高井田の村社として八幡神社(祭神は品陀別命 = 応神天皇)が祀られていた所です。この神社跡の西側、大阪市側の深江との間を南北に通る道を境にして、東大阪市と大阪市の市境が続いています。
 この市境は、古代より江戸時代まで引き継がれてきた河内国(若江郡、渋川郡)と摂津国(東成郡)の国境となってきた古道の一つです。この国境は、場所によっては、周辺より約1mも高くなった堤状の道で、北は森河内の方へのびていました。南の足代村以南はやや屈曲した国境となっていますが、この国境堤は、北は茨田郡から南は平野郷まで続き、剣畷と呼ばれた堤にあたっており、ここを通る道は剣街道(放出街道)と呼ばれていました。
 平安時代の記録に”大同元年(806)10月に河内国と摂津両国堤を定める『日本紀略』”とありますが、深江と西高井田との間の堤道は、この時に定められた国堤の名残と思われます。
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今もここは、大阪市と東大阪市の境になっています。

◎摂津守護荒木村重領の境目、摂津・河内国
戦国時代、荒木村重が織田信長政権下にあって摂津と河内北半国の守護を務めていた頃、摂津の国境として、このあたりも管理していた筈です。ただ、時の政治状況により、統治領域の事態は動くようで、村重が河内北半国(若江以北)も信長から任されていたと思われますので、軍事的な緊張度合は低かったのではないかと思われます。村重統治時代は、比較的穏やかな国境だったと思われます。

◎高井田村地で戦死した武将小寺高仲

さて、既にご紹介したように、ここを南北に通る放出街道は国境も兼ねており、深江村に西接して西高井田村があります。同村には、今も念唱寺(融通念仏宗)という寺があり、同寺に足代(村)の豪族小寺美濃守高仲の墓地と祠が建てられていたと伝わります。高仲は、織田信長と戦い、高井田地域で戦死(高井田の戦い)したようです。東大阪市による念唱寺についての案内板には、以下のようにあります。

---(資料2)----------------
阿弥陀坐像は平安時代作
西高井田と念唱寺(平成5年1月:東大阪市):

念唱寺は融通念仏宗の寺院で、寺のある場所は、戦国の世、石山本願寺に味方して織田信長と高井田の戦いで討死にした、足代の豪族小寺美濃守高仲の墓地があり、祠が建てられて、毘沙門天がまつられていたといわれます。
 本山大念仏寺発行の「融通念仏宗年表」によると、寛文8年(1668)に、河州西高井田村毘沙門堂を寺院化して念昌寺としたことが記され、寺としての始まりを知ることができます。寺はその後衰退の時期もありましたが、寺の本尊の天蓋には、宝暦12年(1762)「施主 当寺中興浄恵大徳」また、瓔珞(ようらく)にも明和5年(1768)のこととして「再興浄恵法師」とあり、浄恵(安永9年没)という僧の時に、寺の再興が図られたことがわかります。
 本堂の奥中央に、本尊の阿弥陀三尊像が安置され、阿弥陀座像は、腹前で定印を結ぶ像高75.7cmの一木造りで、全体に後世の彫り直しで、相当に改変されていますが、平安時代の仏像で、両脇侍像は江戸時代前期頃と推定されています。
 脇にある厨子内の毘沙門天立像も大きく改変された像で、像高67cm、寄木造、玉眼嵌入(ぎょくがんがんじょう)の室町時代頃と推定されています。
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それから、近隣にもう一つ寺があったらしく、しかしこちらは残念ながら、明治時代に廃寺となったようです。その興りなど、今のところ調べていませんが、法華宗の聖源寺という寺があり、その跡に石碑が今も立っています。「ぐるり関西」というウェブサイト(https://gururinkansai.com/nensyoji.html)から引用します。

---(資料3)----------------
かつてあった法華宗聖源寺のこと(ぐるりん関西):
ウェブサイト上の観光案内コンテンツ『ぐるりん関西』によると、念唱寺の前にある「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑は、聖源寺ゆかりの遺物で、側面に「東足代村、聖源寺享保12年(1722年)」とあります。聖源寺は明治時代に廃寺となったようです。
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この聖源寺は、東足代村に縁があるゆです。足代村といえば、先ほどの小寺高仲も足代出身の武将との事でしたので、この西高井田地域は、小寺(足代)氏の支配する所だったかもしれません。

撮影:2005年5月
◎河内国岩田村地で戦死した武将飯島三郎右衛門

それから、同じ東大阪市の旧岩田村にあたる場所に、弓術の達人であった戦国武将飯島三郎右衛門の墓があり、同氏も高井田村出身でした。その墓はその伝戦死地にあるようです。ここにも東大阪市と岩田町文化財保存会による案内板があり、以下のように紹介されています。

---(資料4)----------------
飯島三郎右衛門の墓(平成9年3月:東大阪市・岩田町文化財保存会):
飯島三郎右衛門は市内高井田村の生まれで、幼少の頃より弓道が得意で成人して、戦国の武将織田信長に仕えました。信長の死後、豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は、その子秀頼に仕えました。元和元年(1615)5月「大坂夏の陣」の若江、八尾付近の戦いで、木村長門守重成に属して徳川軍と戦い、相手方の武将山口伊豆守重信に槍で突かれ、この地で戦死しました。重成、重信ともに戦死するという壮烈な戦いであったといいます。三郎右衛門の長男三吉(さんきち)は殉死をとげ、妻及び母も自刃したが、乳母に助けられた次男が成人した後、この地と高井田に父の墳墓を建てたと伝えられています。
 また、三郎右衛門戦死のこの地は、沼地で大小の用水の集合地であり、若江村と岩田村を結ぶ「雁戸樋橋(かりんどひばし)」という細い橋がありましたが、今も道路の下には昔と変わること無く、楠根川にそそぐ水が流れています。
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◎河内国高井田村(現東大阪市)について
高井田村は、長瀬川曹沿いであり、奈良街道も通す要地でしたので、大きな村でした。高井田村の概要を以下に示します。
※大阪府の地名2(平凡社)P981

---(資料5)----------------
高井田元町付近(撮影:2017年4月)
高井田村(東大阪市高井田、高井田(本通1-6丁目、西1-6丁目、東1-4丁目、中1-6丁目)、長栄寺1-2丁目):

森河内村の南にある。近世には若江郡に属したが、当地の鴨高田神社が渋川郡の同名式内社に比定されるので、古代には渋川郡であったかもしれない。東の村境を長瀬川が流れる。暗峠越奈良街道が東西に走る。正保郷帳の写しにみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(1673-81)河内国支配帳とともに高1711石余、幕府領。天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳では同高で、京都所司代戸田忠昌領。元文2年(1737)河内国高帳では1817石余、幕府領。宝暦10年(1760)には幕府領(瀬川家文書)、幕末にも幕府領。文久元年(1861)の村方様子大概帳(塚本家文書)の署名者は庄屋4・年寄8で、4村か、本郷と3つの枝郷に分かれていたと考えられる。高持百姓は103軒。農間余業は白木綿織。大和川付替え以後用水が不足し、夏に10日も照り続けば干害となった。悪水は西方の平野川へ落ちているが、淀川の水位が高くなった時には逆流して田畑が冠水した。前掲大概帳によると、村の南東から南・西・北にかけて延長1650間の内除堤を自普請でつくっているが、淀川・大和川からの出水に備えたものであろう。長瀬川を航行する井路川剣先船を宝永2年(1705)に村民が6艘所有していたが、のちに2艘に減少した。天明3年(1783)から他の4ヵ村とともに松原宿の費用の46パーセントを負担した(布施市史)。産土神は鴨高田神社。真宗仏光寺派西運寺、新真言宗長栄寺、真宗大谷派楊山念正寺、真宗仏光寺派本光寺、融通念仏宗念唱寺がある。
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続いて、高井田村に関係の深い高井田庄についてです。
※大阪府の地名2(平凡社)P981

---(資料6)----------------
高井田庄:
山城石清水八幡宮領の庄園。「吾妻鏡」元久元年(1204)8月21日条に「石清水八幡宮領河内国高井田」とみえ、将軍家の祈祷料所として地頭職をとどめ、八幡宮の沙汰とされている。のち永仁5年(1297)6月日付善法寺尚清処分帳(石清水文書)では、宮一若(入江通清)に譲られ、応長元年(1311)12月15日付善法寺尚清処分状写(同文書)によると、このとき検校職とともに権別当康清に譲られた。応永27年(1420)には当庄下司・公文・年預三職が石清水八幡宮寺雑掌に付され(同年8月28日「畠山満家尊行状」同文書)、長禄3年(1459)には高井田ほかが阿子々丸(善法寺享清)に付されている(同年12月30日「畠山義就尊行状」同文書)。所在地は従来大県(おおがた)郡高井田(現柏原市)一帯とされてきたが(荘園志料)、明確な根拠はなく、高井田庄に郡名を冠した史料もない。一方、当地若江郡高井田の鴨高田神社はもと八幡宮といい、かつて高井田の字西高井田に品陀別命社北の町にも八幡神社があった(大阪府全志)。また「河内志」の鴨高田神社の項によれば、当地一帯は石清水八幡宮と関係が深かったようである。断定はできないが、高井田庄は当地一帯と考えてよかろう。なお所在地不明の石清水八幡宮極楽寺領高井田小庄もある(保元3年12月3日「官宣旨」石清水文書)。これも大県郡高井田に比定する説があるが(大阪府史)、同地は大和川に面した平地のない場所なので、低湿ではあるが平地の広がる当地付近と考えられる。
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◎山城国石清水八幡宮領と鴨高田神社

この高井田庄は、山城国石清水八幡宮領でした。西高井田村にも八幡社がかつてはあり、明治時代に鴨高田神社に合祀されています。西高井田村の旧神社地は、今は小さな公園になっており、北隣りに念唱寺があります。
 このことから、西高井田村までが高井田庄域であったことが判ります。その鴨高田神社について、概要を示します。
※大阪府の地名2(平凡社)P982

---(資料7)----------------
鴨高田神社(撮影:2017年4月)
鴨高田神社(現東大阪市高井田):

「延喜式」神名帳に載る渋川郡の小社「鴨高田神社」に比定される。現在の祭神は須佐之男命、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇。旧郷社。「続日本後紀」承和3年(836)5月19日条に「河内国人散位鴨部船主、武散位同姓氏成等賜姓賀茂朝臣、速須佐之雄命之苗裔也」とあり、河内国と鴨氏との関係が知られるところから、当地に鴨氏がおり、同氏が奉祭した社とも考えられる。中世の状況は不明だが、「河内志」には「中古以此地、供山州八幡神祭料因称八幡宮」とある。当地一帯に山城石清水八幡宮領高井田庄があったと考えられ、当社も同八幡宮と関係が深かったと思われる。慶長20年(1615)大坂夏の陣で兵火に遭い、数年後再建されたという(大阪府全志)。「河内名所図会」によると、北隣の長栄寺の鎮守で八幡宮と称し、高井田村の産土神。例祭は9月15日。境内地に水神の小祠があるが、旱魃になると長栄寺住職が参って祈祷をし、その後村人とともに辻々の地蔵を巡拝して雨乞いをしたという(布施市史)。安永年間(1772-81)悪疫が流行した折、神職久左衛門が1月9日から10日断食祈祷して全村厄を免れた。これにちなみ毎年1月9日大弓による悪魔降伏の式を行ってきたが(大阪府史蹟名勝天然記念物)、昭和10年(1935)頃絶えたらしい。拝殿前の狛犬の台座銘によると、寛政(1789-1801)頃宮座の存したことも知られる。明治5年(1872)村内西高井田の品陀別命社、同40年同じく北の町の八幡社を合祀し、品陀別命(応神天皇)が祭神に加わった
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石清水八幡宮 東谷橘本坊跡
◎戦国武将荒木村重と山城国石清水八幡宮

既述の守護格戦国武将荒木村重は、この石清水八幡宮とも親しげに音信を交わしており、村重の領内にあった八幡宮領をより良く保つため、互いの友好を深めたのでしょう。
 村重が、石清水八幡宮内橘本坊に宛てた音信があります。2月28日付、天正3年と推定されるものです。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P18

---(資料8)----------------
此の表出陣に就き、両所御香水頂戴せしめ候。殊更に味(物事の意味やおもしろみ・おもむき)茶菓子贈り給わり、御懇ろ之至りに候。開陣之刻、申し述べるべく候。恐々謹言。
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大坂本願寺跡地(撮影:2014年1月)

大坂本願寺を孤立・封鎖のため、天正2年(1574)から翌年夏にかけて、摂津・河内国内の本願寺方とそれに味方する三好三人衆方などの勢力を一気に制圧する作戦を織田信長が命じています。
 資料(8)は、この動きの中で、石清水八幡宮が、国単位の地域統治者であった荒木村重に誼を通じたものと思われます。

◎戦国武将小寺高仲の戦死時期
話しを元に戻し、やっとテーマの核心です。河内の戦国武将小寺高仲が、信長勢との戦いで戦死したとの伝承は、いつのことなのか考えてみます。
 信長が足利義昭を奉じて入京するのは永禄11年(1568)秋です。そして、近畿を概ね平定、特に河内地域においては、天正3年夏頃です。その間にいくつかの地域毎の小競り合いはありますが、特に激しい闘争は、天正2年夏頃から翌年夏頃にかけてです。
 以下、ざっとその間の流れと出来事を書き出してみます。

---(資料9)----------------
【天正2年】
7/31   織田信長方細川藤孝勢、河内国三箇城(現大東市)を攻める
9/18   織田信長方細川藤孝勢、河内国堀溝(現寝屋川市)など飯盛山城下で交戦
9/21   本願寺坊官下間頼廉など、河内国人宇治彦右衛門尉跡目(現門真市)へ感状を下す
9/24   織田信長、河内国萱振(現八尾市)での功名に対して細川藤孝へ感状下す
9/29   織田信長方細川藤孝、某へ河内国飯盛城下(現四條畷市)の交戦などについて音信
10/20 織田信長衆明智光秀など、紀伊国根来寺在陣衆中へ河内国南部での戦況を音信
11/16 織田信長勢開陣する
【天正3年】
2/28   織田信長方荒木村重、八幡山(山城国男山の異称)橘本坊へ音信(返信)
3    織田信長、摂津国平野庄へ禁制を下す(朱印状)
3/15  足利義昭衆大和孝宗、甲斐守護武田勝頼一族穴山信君宿所へ河内国の戦況を音信
3/22  織田信長、細川藤孝へ本願寺攻めの兵動員について音信
4/1  織田信長、河内国内などに徳政令を出す
4/6  織田信長、京都から河内国へ向けて出陣して八幡へ陣を取る
4/7  織田信長、河内国若江城に入る
4/13  織田信長、摂津国天王寺へ移陣
4/14  織田信長勢、摂津国大坂本願寺周辺へ押し寄せて苅田などを行う
4/19  織田信長勢、摂津国新堀城・河内国高屋城を落とす
4/21  足利義昭方本願寺門徒衆の河内国萱振勢、織田信長へ人質を出す
4/21  織田信長、京都へ戻る
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大阪町中並村々絵図
(承応・寛文頃:1652-73)
◎小寺氏と飯島氏は河内国に生まれ、河内国で戦死
河内国の平定戦の中で、高井田に近い地域での戦いは、天正2年の秋です。小寺高仲は、この時の高井田の戦いで戦死した可能性があります。
 もちろん他の年月の可能性はありますが、概ねの確率の高さを示しておき、後年の研究の深まりに期待したいと思います。

それから、弓術の達人であった飯島三郎右衞門は、信長方として転戦したと伝わっているようですので、もし三郎右衞門が、この頃の戦いに参加しているなら両者は、敵味方の関係でもあった筈です。三郎右衞門は信長方で、攻める側です。三郎右衞門の戦死時期からすると、両者の世代に少し開きがあるかもしれません。

高井田庄は、永年に渡り石清水八幡宮領で、村もそこに属していましたから、その時期には信長など、時の統治者と友好を保って、領地経営の安定化を図ろうとしていたと思われます。資料(8)の村重とのやり取りは、そんな状況が想定できます。

戦国武将である小寺氏も飯島氏も河内国に生まれて、同国内で戦死しています。どのような想いで戦っていたのでしょうか。

 

【参考動画】
◎120m先のマトをも射抜く!!実戦技術を求める弓術家の業【安藤光太郎】 


 

2025年10月19日日曜日

元亀元年(1570)、摂津国大坂本願寺一揆の理由

元亀元年、三好三人衆が京都の奪還を目指して、大挙軍勢を摂津国中嶋内の野田・福島へ進めたが、幕府・織田信長勢に圧されて軍事的に劣勢となっていた。
 しかし、9月12日夜、大坂本願寺が教団をあげて一斉蜂起し、結果的には、その窮地を救うと共に旧中央政権である三好三人衆方の復権に加担するなった。

この大坂本願寺宗の武力蜂起に至る理由は、複合的であろうと思われるが、筆者は「教団の自衛」が第一義であり、その達成のために味方としての姻戚関係や縁故をたぐり寄せた結果であったのが、実際であるようにみえる。多面的な要因があると思われる。以下、それに関する動きについて、史料をあげつつ考えてみたい。

この頃の本願寺宗(法主は光佐)は、三好三人衆方との交流を持っていないと思われる。少なくとも「顕如上人文案」集には見あたらない。

第十四代室町将軍義栄
永禄11年(1568)秋、足利義昭を奉じた織田信長が、京都へ大挙攻め上り、その時の中央政権であった三好三人衆の奉じる将軍義栄を駆逐してしまった。
 その後、危なげながらも信長の推す将軍義昭政権が幕府の体を保ち続けて、京都での政権を維持していた。これが元亀年間の激しい争いを経て、幕府の内紛を治めた信長が、「天正」と改元して、永年の闘争を終わらせた。

元亀元年(1570)9月12日夜、大坂の本願寺宗は、それまでの中央政権との融和方針を覆し、一斉武装蜂起に踏み切る。

時を少し遡る。

◎将軍義昭政権樹立当初の本願寺宗は、融和的な方針だった
永禄12年(1569)11月20日、本願寺光佐が、幕府奉行人明智光秀へ音信している。これは阿波国の本願寺宗門徒が、三好三人衆方に加担しない旨、その方針を伝えている。
※本願寺日記(下)P588

---史料(1)----------------
【本文】
御内書之趣き拝見致し候。仍て阿波国表之儀、門下之族此之方依り申し付け為、馳走致す之由、曾(すなわ)ち分別以て能わず候。惣別此の如く之段、双方合力助言之儀、一切之無き事候。此れ等之旨然るべく様申し入れせしむべく給い候。恐々謹言。
【注釈】
此の時之御使梅咲軒也。表書彼の御使よりこのみによって此の如く沙汰外…。
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また、同年12月28日付けの光佐の音信は、正親町三条公兄へ宛てられており、幕府からの命令による加賀国軽海郷(現石川県小松市軽海町)の領知(返還?)について伝えている。
※本願寺日記(下)P588

---史料(2)----------------
(鳥)寔に未だ申し通さず処、御札本懐之至り候。抑も御家領加賀国軽海郷事、 綸旨並びに武家御下知之旨蒙り仰せ候。此の方に於いて更に疎略無く候間、御心安かるべく候。随而三種三荷送り給わり候。恐悦之至りに候。是れ従り又三色三荷推し之進め候。猶下間丹後法印申し入れるべく候。恐々謹言。
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史料の(1)と(2)は、時の本願寺法主が、阿波国三好家の奉じる管領細川家と公卿三条家(転法輪流)との血縁があることを既知で、それに幕府が対策を行っていると思われる。
 それ故に、本願寺光佐の書札集には、管領格細川六郎への音信が、一揆直後の暮れ(元亀元年)の挨拶まで確認できない。
 一方、元亀元年(永禄13)1月内までは、織田信長や幕府要人に新年の挨拶を行い、友好の絆の維持に気を配っている。
※本願寺日記(下)P590

---史料(3)----------------
1月7日付:(織田信長宛て)
新春之嘉祥、更に休尽有るべからず候。仍って太刀一腰(金)馬一疋之推し進め候。表祝儀計りに候。猶下間丹後法印申せしむべく候也。穴賢。
1月16日付:(三淵伊賀守入道宛て)
(鳥)新暦之祝儀為、御太刀一腰(金)並びに御折十合、柳十荷之献じ候。宜しく洩れ申し入れせしめ給わり候。恐々。
【注釈】三淵へ樽代百疋。飯尾大和守、諏訪信濃守二人へ百疋づつ。伊勢守へ一腰、以上例年之儀也。下間丹後法印書状之遣わす。
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現大阪城内にある本願寺跡顕彰碑
◎織田信長が、本願寺宗へ大坂本拠からの退居を要求した

しかし、この頃、信長が本願寺宗に対して、大坂からの退居を要請したという。この史料の現存は確認できないものの、それを裏付ける複数の一次史料が複数現存しているため、退居要請は事実であろうと考えられている。これに関する史料をいくつかあげてみる。元亀元年8月22日付、光佐が紀伊国坊主衆中・門徒中へ宛てた音信みてみる。
※本願寺日記(下)P623

---史料(4)----------------
今般、越前国へ敵乱入之由候。此の上者、当寺之一大事籠城きはまり(究まり)無く候。然れば、何方(いずかた)もたのむべき様体無きにつきて、此の度懇志を励み、一途に籠城候べき心懸け之衆申し合わせ参上候はば、誠に以て有難く。弥々たのもしき次第為るべく候。就中珍からず候へ共、法儀の談合候て、安心決定の上には、弥々油断無く嗜み候べく候。不信の面々は、片時も急い而信をとられ候はば、有り難かるべく候。猶端坊(不明な人物)申し伝えるべく候。穴賢。穴賢。
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◎本願寺宗、一斉武力蜂起の準備行動
本願寺宗の武力蜂起は、9月12日とされる。それよりも1ヶ月前に、準備のためもあり、紀伊国方面の有力者へ決意表明をしている。
 続けて、本願寺宗の越中国瑞泉寺顕秀が、坪坂伯耆守入道(越前朝倉氏被官か)へ摂津国方面の様子を伝えている。
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P519

---史料(5)----------------
前置き:
猶々京都へ御着き、慥かに示し下し候。有り難く存じ奉り候。将亦新五郎殿(不明な人物)御所労ハ、御本復の儀候哉。御心之無く存じ候。尤も書状以て申し上げるべく候共、此の由伝達頼み入り候。態と示し預け候。本望候。
本文:
態と本望示し預かり候。一、大様(意味は不明)19日之立ち、御着き御無事。殊更御門跡様御健気御座候儀、有り難く存じ候。一、去る18日(8月18日)上野法橋父子・刑法・筑法・按法、摂津国中嶋迄三好供候て御出馬、所々放火候て、納馬の儀、いよいよ御張りの段、珍重候。一、京表の儀、上意御用心の由、併せて当方いよいよ堅固之故候哉。重而之御一着候。示し給うべく候。一、此の口の儀、先ず以て異儀無く候。昨日者敵相働き、今夜者頻りに鉄砲戦に及びの事候き。相替り事候ハバ、申されるべく候。一、近江国北部の儀、如何聞き得申し候哉。越前朝倉(左衛門督)義景一段手強きの由申し候間、然るべく候。一着候者、後使承るべく候。楮以て追而申し述べるべく候。恐々謹言。
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この音信によると、8月18日には本願寺勢が、摂津国中嶋で三好三人衆勢と共に放火などの武力行使を既に行っている。

◎法主光佐が武力蜂起を決意した事について、関係者への表明
そして、9月2日付、光佐が美濃国郡上惣門徒中へ宛てて音信し、織田信長に対して武力抵抗を行う旨を伝えている。
※岐阜県史(史料編:古代・中世1)P898

---史料(6)----------------
織田信長上洛に就き、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難渋懸け申し付けて、随分扱い成りと雖も彼の方へ応じ候。其の詮無く破却すべく由慥かに告げ来たり候。此の上は力及ばず候。然ら者、開山之一流、此の時退転無き様、各不顧身命(不惜身命)、忠節抽んずべく事有り難く候。若し沙汰無き輩者、長に門徒為るべからず候。併せて馳走頼み入り候。穴賢。
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◎武力蜂起実行の檄文を各地へ発送
同月6日付、光佐は近江国中郡門徒中へ宛てて武力蜂起の檄文を送る。当時の一次史料『尋憲記』でもそれは触れられている。
※本願寺教団史料(京都・滋賀編)P13、八尾市史(史料編)P181

---史料(7)----------------
『本願寺教団史料』:
織田信長上洛に就き、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題懸け申し付けて、随分扱い成り。彼方(向こう・あちら)応じと雖も候。其の專(何よりも大切なこと)無く、破却すべく由、慥かに告げ来たり候。此の上、力及ばず。然れば、此の時開山之一流退転無き様、各身命を顧みず、忠節抽んぜられるべき事、有り難く候。併せて馳走頼み入り候。若し無沙汰輩者、長に門徒為るべからず候也。穴賢。穴賢。
『尋憲記』9月6日条:
一、世上之説大坂より諸国へ悉く一揆起り候へと申し触れ候由沙汰候。
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この音信では、開戦の理由を具体的に述べられており、信長が大坂本願寺の居所退居を迫った事実を伺わせるのである。

宣教師筆とされる信長像
◎織田信長の軍事的攻撃目標は、三好三人衆ではなく本願寺だった

一方、軍記物ではあるが、『陰徳太平記』に興味深い記述がある。
※陰徳太平記(東洋書院)P54

---史料(8)----------------
信長大坂出張並びに所々合戦条:
(前略)9月4日、播磨国三木の別所孫右衛門尉、百五十騎、紀伊国畠山方玉置、湯河よりも軍兵一千余騎信長へ加勢す、同日の晩(くれ)に至りて公方義昭卿御下向有りて、欠郡中嶋の内、堀と云う所、細川右馬頭藤賢の城へ入り御有りて、旗本二千計りにて御座す。かかれは都合寄せ手の勢六万余騎に成りけり。抑(そもそも)今度信長大坂出張り指し当たる所は、三好退治たりと雖も、実は石山本願寺を攻められるべく謀計とぞ聞こえける
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織田信長は、三好三人衆を主たる敵とはしておらず、実は大坂本願寺を討つ目的があったというのである。これは、越前朝倉氏攻めでも同じ手を使っており、表向きは若狭国の「武藤氏討伐」を謳っていた。

◎大坂本願寺城下に近衛前久が身を寄せる
一方この頃、大坂本願寺内に公卿の関白近衛前久が身を寄せており、前久は将軍義栄政権樹立に貢献していた。この為に処刑される事を恐れ、丹波国黒井城を経て、本願寺方に逃げ込んでいた。9月10日、二條宴乗が、大坂にて前久に面会している。
※ビブリア53号P157(二條宴乗記)

---史料(9)----------------
9月10日条:
天晴。下■へ朝飯に参られるべく由伝え之有り。河伊同道候て参る。其の前に中路へ参る。朝飯色々罷り帰る。河伊にて又酒有り。其れより摂津国大坂へ参る。関白(近衛前久)殿様へ油煙三丁。一、上臈へ一丁。進左へ一丁。明日、河内国枚方へ参るべく由仰せ出され、御請け申す。
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前久は、将軍義昭や信長に対して敵愾心を抱いており、大坂から日本全国各地の有力者に工作を行っていた。
 そんな中、光佐は、前久と関係の深い公卿西洞院殿へも9月29日付で音信している。しかしこの頃、西洞院家は、永禄9年に無嗣による中断中であったらしいが、家人は活動していたらしい。
※本願寺日記(下)P591

---史料(10)----------------
【本文】
(引)尊書拝見せしめ候。抑当山御滞留之段、御忍びに依り只今承り様候。驚き存じせしめ候。仍て仰せ蒙り如く都鄙錯乱旧ハ事と雖も候。当寺へ織田信長恣に之所行且つ堪え難き次第候。随而条々御意之通り過当(当たり前では無い事)之至りに候。向後に於いて相応之儀疎意に存ずべからず候。就中御太刀一腰、御馬一疋拝領尤も珍重に存じ候。弥御本意之上重畳貴意を得るべく候。比れ等之旨宜しく洩れ(発し)せしむ宜(べ)く申し入れ給い候。恐惶謹言。
【注釈】
近衛殿へ御返礼 、御牢人にて当所に御逗留。
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内裏の正殿建築「紫宸殿
◎幕府方と一時的な停戦の動き

それからまた、光佐は、京都青蓮院関係者に10月付で音信している。これは9月20日頃、朝廷で正親町天皇の勅書を本願寺方へ下す用意をし、停戦の動きがあった事と関係するらしい。
※朝倉氏と織田信長(第8回企画展)P42

---史料(11)----------------
初めて染筆候。仍って南北総劇、今于に休まず候。其の和談之儀に就き、門跡為相調えられ候様入魂候者、一天大慶為るべく候。前々申し通し候条、内々細川兵部大輔藤孝自り試し由申すべく候。巨細庁務(鳥居小路経存)へ申し含め候間、詳らかに能わず候。
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青蓮院は門跡寺院であり、本願寺宗中興とされる蓮如は、ここで得度を受けた。その頃の本願寺宗は、この青蓮院の末寺であったという繫がりの深い関係ではあるが、元亀元年頃には、疎遠になっていたらしい。11月13日付で、光佐は、再び京都青蓮院垂髪中へ宛てて音信している。
※本願寺日記(下)P592

---史料(12)----------------
【本文】
(引)尊翰始め而拝披、尤も恐悦至極候。仍って今般不慮総劇是非無き次第に候。爰許之儀先ず以て異儀無く候。就中五明一本、杉原十帖拝受、路次等不輙之処、芳信謝し申し難く存ず計りに候。是れ従り綿三把、十帖之献上候。猶庁務申し入れられるべく之趣き宜しく申し入れ給わるべく候。誠恐。
【注釈】
「これは青門(青蓮院宮)へ御返札也。あなたよりの御礼節閣筆候。恐々謹言。本願寺殿、尊朝、此の時の御使は鳥居少路、于時庁務大蔵卿経存と云う歟。」
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ここへの音信も「始めて」と記している。杉原(紙)10帖が贈られており、今後は頻繁にやり取りする合意が図られている。

後年に描かれた光佐像(部分)
(石川県立歴史博物館所蔵)
◎本願寺光佐が三好三人衆方へ連絡する

大坂本願寺宗は、前久という人物を手の内に保持していた事も、武力抵抗に自信を持たせた一つかもしれない。
 上述の9月12日夜の本願寺宗一斉蜂起後、各有力者や組織と急速に結び付くようになる。9月19日付、光佐は、三好三人衆方の有力者である篠原長房へ音信し始める。
※本願寺日記(下)P591

---史料(13)----------------
態と一翰染め候。仍て今度渡海事早速同心有り、既に淡路国に至り着岸之由、欣悦之過ぐべからず候。弥以て相急がれ此の表着陣之儀、希(こいねが)う所に候。猶下間丹後法印頼総申し越すべく候条、詳らかに及ばず候也。
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10月1日付、光佐は再度、篠原長房へ音信する。この使いに立っている摂津国富田の教行寺は、長房の妻の実家。

---史料(14)----------------
【本文】
(鳥)渡海之儀■■■■■■ 随而誓詞到来、■■■■■■ 是れ従り下間頼総法印誓詞之申し付け候。本願寺光佐同前之事候。猶教行寺(摂津国富田)演説有るべく候也。、としている。同日付で、同じ宛先の音信もある。(鳥)一、今度渡海之儀尤も珍重■■■■■■。仍て太刀一腰、小袖五、馬一疋■■■■■■。猶下間丹後法印頼総申すべく候也。
【注釈】
大かた文章同前に、篠原孫四郎一腰、一疋、小袖三、篠原弾正忠一腰、一疋、小袖三、細川讃岐守真之殿太刀一腰、馬一疋、三好彦二郎長治殿太刀一腰、馬一疋、此の両所へは初め而御書遣わされ之間、祝儀迄也。
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◎本願寺光佐、管領格細川六郎へ音信を再開する
そして、この年も暮れる12月25日・27日付で、光佐が三好三人衆方の大将と目される管領格細川六郎に音信している。これは、永禄11年1月26日以来、約3年ぶりの事である。
※本願寺日記(下)P595

---史料(15)----------------
25日条:
暦軸の嘉佳、珍重候。仍て太刀一腰之進め入れ候。猶明春(不明な人物)早々申し展べるべく候。委細下間丹後法印頼総申し入れるべく候。穴賢。
27日条:
芳墨披閲本望此の事候。就中太刀一腰、馬一疋贈り給い候。悦びの至り為候。猶下間丹後法印頼総申し入れるべく候条、先ず省略せしめ候。穴賢。
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 天正4年頃の石山合戦配陣図(部分)
◎本願寺宗の経済基盤を守る行動でもあった

こういった動き、また、時間の流れから、やはり本願寺宗の元亀元年の一揆は、織田信長が大坂から本願寺宗本拠を立ち退かせようとした事と、その勢力を武力で削ごうとした事により、本願寺宗は「教団自衛」のために武力蜂起したと考えられる。ちなみに、永禄11年秋の将軍義昭政権樹立後に、本願寺方へ5000貫の差出を課してもいる。
 また一方で、本願寺宗は独自に対外貿易も行っており、以下のような動きが、史料から判明する。天文16年10月1日付けの音信。
※石山本願寺日記(上)P558

---史料(16)----------------
細川右馬頭晴賢・松井十兵衛尉・小河左橘兵衛・水尾源介・並河四郎左衛門等ヘ、今度唐船寺内へ乗り入れの儀に就き、相意を得られの間、其の礼為唐船三種(献上品脱カ)五人へ宛て之遣わし候。使い河野、下間兵庫取り次ぎ。(此の年5月13日条、松井十兵衛、水尾源介、小河左橘兵衛を中嶋三代官と称せり)
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唐船の寺内乗り入れを幕府方へ申請している。
 海と川を直接的に支配できる立地から経済的な利便性、軍事面ともに非常に重要な地であった。それは本願寺宗が武力蜂起してから10年も戦い抜いた事が証明にもなるであろう。

◎本願寺宗の門跡寺院に列しているプライド
加えて本願寺宗は、永禄2年(1559)に朝廷の許可によって門跡寺院に列し、同4年に光佐は、僧正に任じられている。光佐の時代、同宗は畿内地域を中心に寺院を配し、大名に比する権力に成長して、最盛期となっていた。その自負心も、信長の態度への反発となっていたのかもしれない。

◎本願寺宗の武装蜂起は、「教団の自衛」が第一義の目的
血縁を頼るようになったのは、蜂起後の事であり、三好三人衆勢が摂津国中嶋内で窮地に追い込まれた状況を救う為とは、行動の附属のように思われるのである。組織内部向けのためもあるだろう、蜂起の理由の一部であったように思われる。
 しかしながら、血族結合も当時の社会には根強い欲求があり、近衛前久が、同族である日野家出身の藤原氏系譜である出自を持つ、大坂本願寺を頼ったのは、他宗にはない血縁組織であった面もあったのかもしれない。要不要やその時の欲求の濃淡は、当然ながら存在する。
 管領格細川六郎と本願寺光佐の音信が、重要な期間中に見られないのは、大坂本願寺の元亀元年の武装蜂起は、姻戚の管領格細川六郎の窮地を救う目的が第一義ではなく、三好三人衆勢力が崩れると、次は自分の身に降りかかるとの懸念もあっての行動であったと思われる。
 一方で、もしも、三好三人衆方が戦況を有利に進めた場合にも、何らかの加担を行い、支援などした可能性はある。
 その場合は、できるだけ矢面に立たず、後方支援などを行う方針だったかもしれない。本願寺教団は、織田信長を仮想敵としていたことは、史料からも読み取れる。
 本願寺教団は、反信長連合の一員となって、目標の共有はある程度は行っていたと考えられるが、何をどの程度合意形成し、その中心はどこなのかを判断するには、もう少し検討が必要かと思われる。越前朝倉氏や近江国の配下の寺衆などとは盛んにやり取りを行っていることから、この方面の状況は掴んで、関心を持っていたと考えられる。