また、ちょっと元亀元年越前朝倉攻めについて考えてみます。この時、摂津守護格として、池田勝正が三千の兵を率いたとの記述から、幕府方武力の中核的な存在であったと考えられます。これ程の数を一家で出せるのは、畿内地域でも、そう多くはありません。この時、明智光秀も幕府衆として従軍していますが、単独で兵を多数率いていたわけでは無いようです。
そういった状況の中で、池田勝正は元亀元年越前朝倉攻めに従軍する訳ですが、近江国高島郡から北への道程がはっきりしないところがあります。この高島郡は肥沃な土地で、様々な権利関係がある複雑な状況だったようです。
西島太郎氏は朽木氏をはじめとした、この地域の研究者ですが、その論文を読むと非常に深く分析されています。大変勉強になります。宮島敬一氏は浅井氏を主に素材として研究されていて、こちらも勉強になります。
永禄4年頃から、浅井氏が高島郡に影響力を行使しはじめ、幕府、六角、浅井氏の想いが錯綜する複雑な関係になっていったようです。
この地域は、西佐々木七家と言われた勢力があり、佐々木越中家を筆頭に、田中、朽木、永田、能登、横山、山崎の各氏が構成していたようです。この惣領家が佐々木越中家であったと考えられています。その佐々木越中家の居城が、清水山城で、安曇川の北側にあります。
さて、元亀元年越前朝倉攻めの時、織田信長は、高島郡に入ると、その地域筆頭の佐々木越中家の居城では無く、田中氏の居城である田中城に宿泊(本営)しています。これは、少し違和感を感じる事です。
やはり、幕府・朝廷公式の軍勢である、引率者織田信長が高嶋郡に入ったなら、地域の筆頭である佐々木越中家がこれを迎える筈です。
※清水山城については発掘などの物理的検証が始まったばかりですし、文献史料の発掘も西島氏によってやっとはじまったところですから、史料がないだけだとは思います。
個人的に、この時に信長が田中城に入ったのは、この地域の勢力分断があったためではないかと今のところ考えています。そのため、軍事的・政治的に重要であった高嶋郡で、敵対する動きを見定め、各地域勢力の軍勢集結地にし、物資や港の確保などといっ事も同時に行うところであったようにも考えています。
そして信長は、そこから山手へ入り、朽木方面を経由して熊川へ。そしてもう一隊は、西近江街道を北へ進んだのではないかと考えています。
一方、浅井氏は、既述のように湖北地域の勢力拡大の野心は持ち続けており、永禄11年12月12日の段階でも、高島郡の朽木氏に領知についての起請文を発行しています。そしてまた、翌年正月の本圀寺の戦いを経て、同年6月下旬には、六角氏の牢人が奈良方面へ現れるとも噂とともに、浅井氏が信長から離れる噂が立っています。高嶋方面の利権関係が更に緊迫していた事が想定できるように思います。
こういった事を背景にして、元亀元年越前朝倉攻めは行われ、浅井方の影響力の強い高島郡から北へも敢えて、幕府・織田方は軍勢を進ませた可能性もあると思います。一応、公的には友好関係ですから、浅井氏は拒む事ができません。この行動にどう反応するか、幕府・織田方は確認しなければならなかったのかもしれません。
それが、信長の田中城宿泊だったのではないかと、個人的に考えています。安曇川から北は浅井方の影響地であったのかもしれません。
そういった状況の中で、池田勝正は元亀元年越前朝倉攻めに従軍する訳ですが、近江国高島郡から北への道程がはっきりしないところがあります。この高島郡は肥沃な土地で、様々な権利関係がある複雑な状況だったようです。
西島太郎氏は朽木氏をはじめとした、この地域の研究者ですが、その論文を読むと非常に深く分析されています。大変勉強になります。宮島敬一氏は浅井氏を主に素材として研究されていて、こちらも勉強になります。
永禄4年頃から、浅井氏が高島郡に影響力を行使しはじめ、幕府、六角、浅井氏の想いが錯綜する複雑な関係になっていったようです。
この地域は、西佐々木七家と言われた勢力があり、佐々木越中家を筆頭に、田中、朽木、永田、能登、横山、山崎の各氏が構成していたようです。この惣領家が佐々木越中家であったと考えられています。その佐々木越中家の居城が、清水山城で、安曇川の北側にあります。
さて、元亀元年越前朝倉攻めの時、織田信長は、高島郡に入ると、その地域筆頭の佐々木越中家の居城では無く、田中氏の居城である田中城に宿泊(本営)しています。これは、少し違和感を感じる事です。
やはり、幕府・朝廷公式の軍勢である、引率者織田信長が高嶋郡に入ったなら、地域の筆頭である佐々木越中家がこれを迎える筈です。
※清水山城については発掘などの物理的検証が始まったばかりですし、文献史料の発掘も西島氏によってやっとはじまったところですから、史料がないだけだとは思います。
個人的に、この時に信長が田中城に入ったのは、この地域の勢力分断があったためではないかと今のところ考えています。そのため、軍事的・政治的に重要であった高嶋郡で、敵対する動きを見定め、各地域勢力の軍勢集結地にし、物資や港の確保などといっ事も同時に行うところであったようにも考えています。
そして信長は、そこから山手へ入り、朽木方面を経由して熊川へ。そしてもう一隊は、西近江街道を北へ進んだのではないかと考えています。
一方、浅井氏は、既述のように湖北地域の勢力拡大の野心は持ち続けており、永禄11年12月12日の段階でも、高島郡の朽木氏に領知についての起請文を発行しています。そしてまた、翌年正月の本圀寺の戦いを経て、同年6月下旬には、六角氏の牢人が奈良方面へ現れるとも噂とともに、浅井氏が信長から離れる噂が立っています。高嶋方面の利権関係が更に緊迫していた事が想定できるように思います。
こういった事を背景にして、元亀元年越前朝倉攻めは行われ、浅井方の影響力の強い高島郡から北へも敢えて、幕府・織田方は軍勢を進ませた可能性もあると思います。一応、公的には友好関係ですから、浅井氏は拒む事ができません。この行動にどう反応するか、幕府・織田方は確認しなければならなかったのかもしれません。
それが、信長の田中城宿泊だったのではないかと、個人的に考えています。安曇川から北は浅井方の影響地であったのかもしれません。