2024年7月26日金曜日

また一人、素晴らしい先生に出合いました。『世界史の中の戦国大名』を読んで

『世界史の中の戦国大名』との出合いは、ユーチューブチャンネルでみた、同書の書評からでした。

◎キリシタン大名の振る舞いから考える~「グローバル化」しても失ってはいけないものとは何か?|『世界史の中の戦国大名』鹿毛敏夫(講談社現代新書)|@kunojun|久野潤チャンネル


私は永年、この時代を研究していますので、興味が湧き、早速購入して読んでみました。しかし、読み終えると、この久野先生の言われるような鹿毛氏の極端な思想や読み違えではなく、その時代をしっかり研究していれば、割と自然な流れのように感じますし、私にとってはこの書評で言われるような受け取りはしませんでした。

それよりも寧ろ、鹿毛先生の述べられている視点が、私の研究に足りなかった事に大きなショックを受けた程です。私の取り組みの認識を改め、全体を見直さなければならないと強く感じた程、鹿毛先生の素晴らしいご研究です。
 勿論、鹿毛先生も、先人の研究成果の恩恵を受けつつ、また、他の研究の成果とも相まって、素晴らしいご成果となっているのですが、これは一方で、史料や研究が比較的豊富となった社会全体の成果でもあるように思います。

とは言え、鹿毛先生の独自視点と探究心が成せる素晴らしい成果だと思いますし、何よりも研究姿勢が大変ご立派で、私の手本としたい先生が、また一人増えたことに幸せを感じます。

私が感動した、その素晴らしい鹿毛先生の銘文の一部を以下に抜粋して、ご紹介したいと思います。
※世界史の中の戦国大名(講談社現代新書)P297

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エピローグ「世界史の中の戦国大名」の精神性より
「暴力」で語られてきた戦国時代史
そもそも、日本史で「史実」として語られているもののなかには、実は、その根拠が曖昧なものや偏向的な考察によるもの、あるいは一面的な歴史館に負うものなど、その見直しを求められるものが少なくない。本書で見てきた戦国時代史もその一つである。
 日本史における十五世紀後半から十六世紀は、「戦国」との名称の通り、確かに人間同士の戦いの多い時代だった。高校生たちが学ぶ教科書においても、この百六十年間ほどの歴史は、応仁の乱・桶狭間の戦い・長篠合戦・賤ヶ岳の戦い等の戦争や争乱を軸に時代の画期が示され、その内容も、争い・分裂・抗争・大勝・征討・征服・覇権、そして追放・屈服・滅亡等の暴力的な言語に象徴させて、その時代を語る構成になっている。その教科書に学ぶ子どもたちの頭のなかには、必然的に、武力的勝者へのあこがれや英雄視、そしてその軍事的勝者が形作った社会の正当化・正義化の意識が醸成されていく。さらに、後の近代国家の成立とそのテリトリーの存在を前提に、国家の歴史は分裂から統合へと向かうもので、その統合の妨げとなる「敵」を征討して滅ぼす(殺す)ことが歴史の必然的正義であったとの価値観のみが重層的に再生産されていくのである。
 百六十年間におよんだ戦国大名の群雄割拠状態を脱して、一元的な統一政権を樹立した、いわゆる「天下統一」の営みは、日本の政治史において、まぎれもなく重要な画期であり、その国家統合の取り組みが成されてこそ、後の近世・近代日本の発展が実現した事実は論を俟たない。しかし、その軍事的特徴の強い十六世紀という時期においても、列島各地に生きた天皇、諸大名から一般庶民までの日常が確かに存在した。
 現在の研究史の状況では難しいことではあるが、地域権力の闘争・合戦とその勝ち負け、そしてその勝者の軌跡ばかりにとらわれるのではなく、政治権力が分裂状態の列島各地において、おのおの大名が領域社会の為政者として、いかなる内政を行い、また、海外を含む支配領域外の政治権力とどのような外交関係を結んだかという、「地域国家」の為政者としての内政と外交のあり方を検討し、その特徴に応じた時間軸と空間軸を設定しながら、多様性にあふれた日本社会の内部構造を比較・相対化させて叙述する戦国時代史の姿を、いつかは見てみたいと思う。
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その通りだと思います。この思考法こそが、繙く、解き明かす事であり、それが本当の意味の研究だと思います。なぜその必要があったのか。なぜ、そうなったのかという視点に立たなければ、起きている事の意味が理解できません。
 鹿毛先生の言われるように、「暴力」だけを見て、全体を理解したかのように陥ってしまえば、研究とは言えませんし、理解したとは言えません。未来への知恵ともなり得ません。

是非、お手にとって『世界史の中の戦国大名』を読んでみて下さい。とっても面白いですよ!

2024年7月8日月曜日

摂津池田家中の対外血縁関係

気になっていたことを、備忘録として、また、自分の頭の中の整理として記事にしておきたいと思います。

どの氏族でもそうですが、一族内に様々な系譜を持ちます。長い歴史の中で主従関係も変わりますし、政治・経済・軍事など、様々な状況により、生き残りを計るための対外的な血縁関係を結ぶようになります。
 史料から過程を追う上で、こういった要素もある程度は把握しておく必要があろうかと思います。離合集散の理由として、これらの血縁関係は必ずどこかで作用しています。

摂津池田家の系図は、5種類程あり、そこに血縁の情報も書かれていますが、この一番大きなブランド要素としては、河内国の楠木正行(その遺児が教正)につながる一派が居り、その縁で「正」の通字を用いるようになった可能性があります。
 これについて、摂津国能勢庄の野間城主内藤満幸の娘と縁組みしており、池田氏が能勢郡木代・山田方面に史料があったり、余野の領主とも後に縁組みしたりして、能勢郡に非常に深く関わりをもつのは、能勢内藤氏との縁組みが関係しているのではないかとも思います。これについて、いくつかの系図の内、「池田氏系図」をご紹介しておきます。
 ただ、野間城は近隣と比べても規模が大きかった事は明らかですが、城主が内藤氏であった事は、他の資料類では確認できず、更なる裏付けが必要だと思われます。
※池田市史(史料編1:原始・古代・中世)P131

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◎池田氏系図(続池田家履歴略記巻之四所収 題して美濃国三洞村医師野原良庵所蔵 池田御家系池田系譜とあり)
『教正』(池田十郎・兵庫頭)条:母摂州能勢庄住内藤右兵衛尉満幸女也。満幸仁勇之誉有るに依りて故判官の命に依りて満幸の娘楠帯刀左衛門正行に嫁す。正行戦死後楠左馬頭正儀、舎兄正行の室を父満幸の家に送る。故に池田教依に再嫁す。其の時教正の母(教依妻)摂州一萬貫を持参す。依って教依摂州伊丹に取出を(砦)を構う。其の後康安2年(1362)左馬頭正儀の勢と神崎之橋爪(?:場所不明)にて教正戦之武勇を顕す。永享元年(1429)10月18日卒。法号室光寺殿月厳宗照大居士。
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また、別の池田家の一派は、丹波波多野家とも関係しているようです。『細川両家記』にその事が、触れられています。
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P593

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大永6年(1526)条:(前略)あくる12月1日、此の仁陣破れけり。然るに池田弾正忠は、波多野が甥なりければ、則ち彼の方へ裏帰り、河原林・塩川衆の退き口へ矢戦するなり。有馬殿道永(高国)方なるにより、此の人々有馬郡へ逃れけり。池田は我城へ帰り楯籠もり、今度伊丹は国の留守して、我が城にあり。京田舎の騒動斜めならず。然らば細川澄元方牢人摂津国欠郡中嶋へ切り入り也。三宅・須田あまり悦で、河を越し、吹田に陣取り。道永方伊丹衆・上郡衆談合して、…。(後略)
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『細川両家記』では、波多野氏と池田氏が血縁である事から、当初は細川高国方として参戦していた摂津国人池田氏が、波多野氏に与す細川晴元方となった、としています。
 これについて、当時の史料により『細川両家記』の正確さが証明できます。高国奉行人の薬師寺国長が、摂津国勝尾寺年行事中へ宛てて音信しています。
※箕面市史(史料編2)P334

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池田従り相懸け兵粮云々。若し其の沙汰有る於者、一段曲事為るべく旨、御下知の旨に任せ、堅く申し付けられるべく候也。仍って状件の如し。
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高野山真言宗 頂應山 勝尾寺の山門
摂津池田家から兵糧等が懸けられること(この時すでに兵糧の賦課があったらしい)は、今後は一切無効である旨、高国方から勝尾寺へ命じられています。敵となった池田衆が、それまでの習慣通りに行動することを阻止しています。

それからまた、丹波国の波多野氏と摂津国の池田氏が血縁である事については、後に池田家中から頭角を顕す荒木氏との縁とも繋がっていると考えられます。
 そもそも丹波国人と思われる、この荒木氏は当初、酒造関連で摂津池田郷へ縁があったとも伝わっており、池田郷での最大の酒造家であった万願寺屋は、そのような成り立ちであったようです。万願寺屋は「荒城氏」であり、その墓群が大鹿妙宣寺(現伊丹市)にあります。
大鹿妙宣寺の万願寺屋墓
 池田家当主勝正の代に、重臣として活動していた荒木村重は、後に織田信長から摂津及び河内国北半を任される大名となりますが、村重は「日枝神」を信仰していたようで、その事からも丹波と酒造の関係を持つことは、明らかなように思われます。

血縁というのは、前近代社会の中では、生きる中心とも言える必須要素であり、やはりこの点も、研究を続ける上では、常に意識しておかなければいけない事と思います。

追伸:因みに、最終的に畿内をほぼ手中に収める阿波の戦国大名三好長慶も当初は丹波波多野氏から嫁取りをしており、その後に離縁し、河内国守護代格の遊佐氏から嫁を取っています。そのせいか、波多野氏は離縁以降、長慶に一貫して頑強に抵抗しています。