【注】過去に「摂津国人惣領格の池田長正が、芥川孫十郎と共に活動していたかもしれない史料を発見!」と題して、記事を公開していたのですが、その後の調べで、状況把握が進んだために、記事を全面的に訂正しております。
今のところ不確定要素があるので、断言はできないのですが、永禄4年7月24日付けで、右近大夫・右兵衛尉が連署し、京都北野境内へ宛てた禁制に見られる「右兵衛尉」なる人物とは、池田長正である可能性は低いように思われます。結論は、この禁制発給者(奉書)は、六角氏奉行人宮木右近大夫賢祐と平井右兵衛尉定武によるものである可能性が高いと思われます。
その史料なのですが、以下に示します。禁制です。永禄4年7月24日付けで、右近大夫・右兵衛尉が連署し、京都北野境内へ宛てた禁制です。
※北野神社文書(史料纂集 古文書編)P104(史料番号:161号)
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一、軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、放火並びに竹木伐採事、一、矢銭・兵糧米・一切の非分課役相懸け事。右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩に於いて者、厳科に処されるべく者也。仍って下知件の如し。
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池田長正は、この時期に「右兵衛尉」か「筑後守」を名乗っており、その時期が明確になっていません。長正は後に、摂津池田家の惣領を示す「筑後守」を名乗っており、最終的に摂津池田家の代表格となっている事は、史料上からも明かです。しかしこれは、公式か非公式かは不明です。
また、一方の「右近大夫」とは、芥川の可能性を考えた場合、この人物は、三好長慶の一族である常信です。彼は家中の立ち位置が安定せず、外来の権力に頼らざるを得ない内情であったようです。これは、馬部氏の研究を参考にしていますが、私の研究ノートでも、そのような動きは見られ、今のところ納得して、馬部説を個人的には支持しています。
元に戻って、池田長正もその芥川常信と同じ境遇にあり、『細川両家記』などの軍記物や他の史料でもこの両名の行動は、並んで名前がよく出てきます。家中での権力を行使(機構化)するため、外来の権力を後ろ盾にしており、その源は、どうも細川晴元の権力を充てにしていたようです。
一つの視点として、そういった中で発行された、「北野神社文書の161号文書」だとも想定できます。しかし、この文書は残念ながら、控え文書であり、本文のみで、署名した花押が省略されています。そのため、照合ができず、私の想定している人物ではなく、別人の可能性もあります。
そうなると周辺状況から、推察・特定するしかありません。この時期の周辺史料を見直してみると、近江守護六角右衛門督義弼の奉行衆である、宮木右近大夫賢祐・平井右衞門尉定武による連署状である可能性が高いと思われます。以下、それらの史料群を示します。
今のところ、上記禁制の補完史料としては、堺妙国寺日珖の日記『已行記』に芥河氏の存在確認ができる記述があります。
※已行記(堺市博物館報 第26号)P62-5
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永禄4年条、(前略)同9日(12月)、有馬中務某、芥河兄弟、河南兄弟、豊嶋父子、堀江猪介、鏡新尉受法、。
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堺にて三好豊前守入道実休が、堺妙国寺日珖に帰依したことから、これに続いてその組内衆が集団で帰依しているようで、その記録の中に「芥河兄弟」がみえます。この時点で、芥川氏一派が堺に居たことは確実で、また、顔ぶれからすると、所属としては三好実休の影響下での行動だったと思われます。馬部先生のご指摘の通り、この芥川氏は摂津国にルーツを持ちながらも、阿波国での基盤が成り立ちの柱であったことをうかがわせます。
基本的に、三好方の行動は、組内の行動だったようですが、状況に応じて応援などに派遣されていたようです。
一方で永禄4年の京都の中央政治の動きを見ていますと、この年は新たな動乱の始まりでもあり、京都市中に敵味方、双方多数の禁制が立ち、各組織とのやり取りも盛んに行われています。
その中で、上記(「北野神社文書の161号文書」)禁制を掲げた前後の近江六角氏奉行人の史料を見てみます。
同年7月3日付け、前管領細川右京大夫入道(永川)晴元養護派近江守護六角奉行人隠岐左近大夫賢広・平井右兵衛尉定武が、京都紫野大徳寺同門前に宛てて禁制を下しています。
※大徳寺文書1(大日本古文書:家わけ第17)P221
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一、当手軍勢甲乙人、乱妨狼藉事。一、放火並びに陣取り之事。一、矢銭・兵糧米・一切非分課役等相懸け事。右條々、堅く停止せしめ訖んぬ。若し違犯輩之在者、厳科に処されるべく者也。仍って下知件の如し。
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同年7月26日付け、隠岐左近大夫賢広・平井右兵衛尉定武が連署で、京都清水寺に宛てて禁制を下しています。
※清水寺史3(史料篇)P124
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一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、寺内放火・竹木伐り採り事、一、矢銭・兵糧米・一切の非分課役相懸け事。右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩速やかに厳科に処されるべく者也。仍って下知件の如し。
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翌27日付け、永原越前守重康・同苗安岐守重澄が連署で、京都東山禅林寺侍衣禅師へ宛てて音信(禁制内容について)しています。
※織田信長文書の研究-上-P160
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御屋形(近江守護六角右衛門督義弼)様御下知の旨に任せ、当手人数乱妨・狼藉・寺内放火・竹木伐採・謂われず儀申し懸け事、一切停止せしめ訖んぬ。然るに自り違乱輩之在者、堅く申し付け候者也。仍って折紙件の如し。
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同年7月28日付け、平井右兵衛尉定武・隠岐左近大夫賢広が連署で、京都賀茂社境内所々散在へ宛てて禁制を下しています。
※賀茂別雷神社文書1(史料纂集:古文書編)P128
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一、当手軍勢甲乙人濫妨狼藉事、一、山林竹木伐採苅田等之事。一、矢銭・兵糧米・一切の非分課役相懸け事。右条々堅く停止せしめ訖ぬ。若し違犯の輩速やかに厳科に処されるべく者也。仍って下知件の如し。
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同年8月付け、平井右兵衛尉定武・沙弥貞遠(目加田?)が、京都上京室町一町に宛てて禁制を下しています。
※史料京都の歴史7(上京区)P92
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一、当手軍勢甲乙人の乱妨・狼藉・放火の事。一、山林竹木伐採の事。一、矢銭・兵糧米・一切非分課役を相懸ける事。右條々堅く停止せられ訖んぬ。若し違犯の輩に於いて者、速やかに厳科に処せられるべく者也。仍って下知件の如し。
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同年8月16日付け、六角方の宮木右近大夫賢祐・蒲生下野守入道沙弥定秀が連署し、山城国の大山崎に宛てた禁制を下しています。
※島本町史(史料編)P433、蒲生氏郷(戦国を駆け抜けた武将)P81
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一、軍勢甲乙人濫妨狼藉。一、山林竹木伐採の事。付きたり放火事。一、矢銭・兵糧米・非分相懸け事。一、国質・所質、付沙汰之事。一、荏胡麻・油商売・他職之事。右條々堅く停止され訖ぬ。若し違犯輩厳科に処されるべく者也。仍て下知件の如し。
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このように同じ時系列で、同様の官途を名乗った人物は六角氏家中に確かに存在しており、『北野神社文書(史料纂集 古文書編)』の104ページ(史料番号:161号)で官途を名乗った人物は、時期と場所的、政治・軍事的状況から、六角方の人物である可能性が高いと思われます。宮木右近大夫賢祐と平井右兵衛尉定武と思われます。
「北野神社文書の161号文書」の花押が特定できれば一番良いのですが、肝心の同文書は写しであるためにそれは無く、決定的な証拠はありません。
先にも少し触れましたように、永禄4年という年は、京都中央政治の画期であり、三好長慶が将軍義輝から桐紋使用を許されて御相伴衆となって、幕府の代理的な行動も出来る環境ともなっています。
また、永年の抗争に終止符が打たれ、細川晴元は摂津富田の普門寺へ入って、長慶の軍門に降り(これが新たな動乱の原因でもあったのですが)、晴元の旧臣も吸収されるカタチとなっていたようです。長慶は、統治領も拡がっていたことから、人材が必要となって、多少の問題児も吸収して活用していたように考えています。
そういった状況での出来事であり、芥川常信・池田長正の登用の可能性(細川晴元擁護派による)としてはにあり得る状況だと考えています。
この「北野神社文書の161号文書」の署名者が、もし池田長正と芥川常信であった場合、後に長正が「筑後守」を名乗って池田家惣領を称している事実(自称の可能性もある)と時期的な矛盾(理解の困難)が起きてしまい、それはそれで、別の課題が浮上することになります。悩ましいところです。
今回の対象文書の署名者が、近江守護六角義弼の奉行人であるなら(というか、ほぼこれ)、それはそれで、「無い」という事実が確認できましたので、成果でもあります。
池田長正の足跡がハッキリすれば、丹波荒木氏が池田家に関わるタイミングも明確になります。よって、荒木村重のルーツも明確化されますので、この長正の足取りを掴むことは、大きな意義があることです。
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摂津国人池田家惣領池田長正花押 |