2020年11月21日土曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十二回「反撃の二百挺(ちょう)」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

今回は、第三十二回「反撃の二百挺(ちょう)」2020.11.15 放送分です。

 

 ◎概要 -----------
今回の時間的流れは、1570年(元亀元年)5月から9月下旬頃まででした。越前国の朝倉氏攻めから戻り、反幕府連合が具現化したところを描いていました。
 さて、大河ドラマも、新型コロナの想定外があるとはいえ、番組内容に随分と批判が多くなっているようですね。将軍のデートシーンとか、薬屋の日常とか、旅芸人の身の上話などなど、主人公と関係の無いところに時間を割き過ぎていることに、不満を持っている人が多いようですね。それよりも、本能寺の変を経て、天王山の戦いまで描く時間があるのか?と心配する声が出ています。私もそう思います。結局、明智光秀の人物像が見えてこないのではないかと思います。

その事は脇に置いて、いつものようにドラマの隙間を楽しみましょう。

このドラマ中に描かれていた当時の時期、摂津池田家では、大変なことが起きていました。家中騒動です。家中の経済的・労務的疲弊が表層化し、議論が収斂せずに感情的になります。闘争に発展してしまい、当主勝正の側近2名が殺害され、勝正は城を出ます。
 
池田家は元亀元年6月以降、一時的に三好三人衆方に復帰します。元亀年間は4年の時間があるのですが、摂津池田家も将軍義昭の中央政府も七転八倒の苦悩を味わいます。そして遂に、どちらも組織崩壊となって、新たな時代を迎えるのです。
 荒木村重、中川清秀、高山右近は、池田家中にあって、この流れの中で台頭し、荒木村重は遂に、摂津国及び河内国北半分を任されるまでの大名に急成長するのです。

今回は、以下の要素で解説します。

◎今井宗久、筒井順慶


今井宗久については、これまでにもお伝えしていますが、今井氏は奈良の今井町出身であることから今井を名乗りました。それ故に、奈良の勢力とは結びつきが強く、もちろんそれは、公私ともの付き合いです。
 今回、奈良の人である筒井順慶が登場しました。見ての通り、坊主ではありますが、代々興福寺に所属する家でした。奈良だけは守護が置かれない、幕府権力の及びにくい地域で、興福寺がそれを司っていました。奈良だけは通念が違い、一般的な国の「国人(こくじん/こくにん)」ではなく、「国民(くにたみ)」と呼びました。
 お坊さんも色々あって、学問に長けた人、力のある人、商才のある人、医学、技術などなど、宗教といえども、一つの国のように機能していましたので、自衛手段も持たなくてはなりません。
 長い時間の中で、筒井氏は武士に近い職種になった人々で、こういった人々は他にも多くあり、また、興福寺に限らず、比叡山などの大きな寺社ではそういった組織がありました。奈良では特に、そういった人々を衆徒(しゅと)と呼んだようです。

◎茶会
今井宗久が筒井順慶を明智光秀に引き合わせるため、茶会に誘います。茶とは、喫茶ですが、これは鎌倉時代に健康維持のために、薬と同じような感覚で日本に伝来したようです。はじめは特に、寺での修業の一環で、喫茶を行っていたようですが、それが一般的になっていきました。
 この頃には、茶会と言っても茶だけを飲むのではなく、娯楽的な面もありました。食事、飲酒、囲碁・将棋などなどを行っています。普通の食事とは少し区別があったようですが、茶道のような、形式的な作法は発展過程であって、今のように固定した概念はなかったようです。村田珠光という奈良の人が、「わび茶」の創始者と伝わっており、権威化したのは千利休ですね。
 池田家でも、池田紀伊守正秀という人物が、茶道や和歌に通じ、名物茶器も多数所有し、松永久秀もそうでした。後に荒木村重も利休七哲と言われた数寄者に数えられ、池田家中にも当時の流行を心得る人々がありました。池田市域では、豊臣秀吉が久安寺で大茶会を催したと伝えられています。

◎鉄砲
堺市役所に展示してある鉄砲

1543年、鉄砲は種子島にポルトガルから伝わったとされています。このシーンの時代設定は1570年ですから、鉄砲伝来とされる年から37年も経過しています。現在よりもいくら発達と伝播が遅いと言っても、この当時既に日本国内では、各地で鉄砲が生産されはじめており、特に畿内(近畿)地域では、生産・運用共に先進地域でした。
 今も当時も、経済活動を元にした生活をしていますので、売れる商品は作り、より良く発展させます。この鉄砲の有用性、また、守るに長けた武器として需要はうなぎ登りでした。発足当初でもあり、劣勢を自覚していた将軍義昭・織田信長政権は、この鉄砲の有効活用に全力を上げていました。
 今井宗久は幕府の御用商人として、この鉄砲の流通確保・生産を一手に任されており、この当時は、生産効率を上げるために生産地の集約を進めていました。堺の近郊にその場所を求めていたのですが、そこに池田家の権益がありました。今井宗久は、これらを幕府に返上せよと池田家に迫りますが、当主の池田勝正は、それらに正当性がない事からそれを受け入れませんでした。この用件の窓口になっていたのが、荒木村重でもありました。
 その場所は堺五個荘といわれる地域で、今も堺市に五個荘というところがあります。その周辺に鉄砲工場を集約しようとしていました。
 また一方で、摂津池田家も多くの鉄砲を所有していたとみられ、翌年の白井河原合戦では、3000の兵の内に300挺の鉄砲を配備していました。だいたい、一割ですね。これは、攻める作戦でしたので、護る場合とは、配分が違うかもしれません。また、これは主力部隊のみの数ですので、守備する地域もあるわけで、当然そこにも必要になります。だいたい、鉄砲は兵の構成の一割と考えても300〜500は保有していたと思われます。

◎三好三人衆と池田家内訌
このドラマ中に描かれていた時期、摂津池田家では、大変なことが起きていました。家中騒動です。
 将軍義昭政権下で、摂津守護職を任され、歴代最高の地位を得たのですが、役務が重く、経済的にも疲弊し始めていました。連続する戦争への出兵、権利の返上などで、急激な環境の変化に池田家中は耐えられなくなっていたようです。そこに三好三人衆方への復帰要望が高まりを見せていたとみられます。近衛前久の動きもあったと考えられます。
 池田勝正は、忠実に将軍義昭政権を支える考えで行動していたのでしょう。しかしそれに異議を唱える家中の状況がありました。姉川合戦の直前、遂に池田家中では議論が収斂されず、感情的な闘争へと発展。四人衆と呼ばれた家老の内、2名が殺害されて、池田勝正は池田城を出ます。その後すぐ、三好三人衆の内、三好長逸と石成友通が同城に入ったとの噂が立っています。その後、一時的に池田家は三好三人衆方として行動します。この時、革新的な家政体制も導入し、三好三人衆に倣った、当主を置かない、合議体制を導入していました。また、集団(三名による)主導体制とみて良いと思います。


◎姉川合戦
姉川古戦場遠景

シーンでは、合戦図で終わりましたね。池田家にとっては、これにも出陣を予定していました。当主の勝正は、京都の屋敷でその調整と準備を行っていたようです。ところが、本国の池田での様子がおかしいことから、勝正が国元に戻ったところで、議論紛糾し、内訌に発展してしまいます。これはどうも、6月18日頃からのことで、19日の夜になって意見が激しく衝突し、重臣2名が殺害され、勝正は夜中に城を出たようです。小姓両人、小者両人、観世三郎元久(観世流猿楽師七世の大夫の家筋父の諱は元忠。)を伴って、池田城を出たとあります。
 勝正は、この紛糾の間にも将軍義昭へ状況報告を行っており、ついに破談となった後の20日には、一度、将軍に状況報告を自ら行っているようです。
 この事態を受け、将軍は姉川合戦への出陣を断念し、諸将へ出陣延期を伝えています。勝正が途中経過として随時の報告を行っていた間も、出陣を諦めておらず、延期の下知を二度も行っています。希望を捨てず、姉川合戦の想定日ギリギリまで策を講じていましたが、遂に、その前日に出陣中止を公布します。将軍義昭は是非とも出陣することを考えていたようです。将軍の出陣は、後巻き又は、後詰めといわれる、重要な戦術的意味と、将軍自らの出陣という戦略的な意味があり、これができなくなったことで、織田信長にとっては戦いを有利に進められない苦境に立たされたのです。これは、外聞も直ぐに状況を察知します。生まれて間もない幕府は、弱いのではないかという憶測にも繋がりました。


◎三好三人衆など反幕府(将軍義昭)勢の蜂起
ドラマでは、幕府政所のトップ摂津晴門が、反織田信長連合のまとめ役のようになっていますが、これを行っていたのは、京都から落ち、丹波国、後に大坂本願寺に身を寄せていた近衛前久でした。この実態は橋本政信氏により素晴らしい論文が出され、私はその説を支持しています。
 さて、池田家の内訌や、近江国守護六角氏の動きなどの動きから、三好三人衆を中心とした軍事的策動があることは、織田信長も見通していました。浅井氏の政権離叛からそれは察知された事です。越前朝倉攻めの中でそれが判明すると、急遽京都に戻って、10日程過ごします。その間、各地の情報収集を行い、大坂本願寺の動きも警戒していました。しかし、状況からして、性急な動きは無いと見て、姉川での合戦を以て、決戦を行う方針を打ち出したようです。この一戦は、大局から見て必ず勝たなければならない戦でしたが、信長はその目的を果たします。これが負け戦であれば、政局は大きく変わっていたでしょう。前哨戦の六角も撃破し、軍威は保つ事ができました。
 しかし、池田家内訌が反政府の烽火となり、この後、三好三人衆の大挙攻勢、本願寺勢の武力蜂起、筒井順慶の奈良での攻勢などが一斉に行われ、幕府方は窮地に立たされます。
 池田勝正は終始、幕府守護職の職責を全うし、若しくは、それにしがみつき、随時の報告を行っていたようです。一旦将軍に状況報告をした後、事態の収拾も兼ねた状況把握のため、要所を巡っていたようです。6月26日、河内国半国守護の三好義継と共に京都へ入り、将軍と面会しています。勝正は、味方の糾合と残存兵力を把握する動きも行っていたと見られます。
 ドラマでは、海老江の陣が取り上げられていましたが、天満森から海老江へ陣を移していたのですが、池田勝正もこの陣におり、一定の役割りを果たしていました。


◎比叡山での対峙

西本宮大門

ドラマの描き方は、ちょっと問題が起きるのではないかと心配になるところもありますね。実際は、比叡山に組織的な武力闘争をする意志があったかどうかは疑問視されていて、発掘結果からも、これまでに言われていたように、大がかりな焼き打ちは行われていない事がわかっています。
 戦国時代には、戦争などで不利になった側が逃げ込む場としての存在が明らかになっています。現代感覚で言うと、「夫婦げんかの時の駆け込み寺」みたいな要素(←ちょっと昭和感覚)があります。基本的に宗教というのは、精神のよりどころであり、叡智の拠点であって、そういう在家のゴタゴタとは別の次元の領域でした。今の感覚とは少し違います。
 社会としての法律や警察などの環境も違いますから、もちろん自衛しなくてはなりません。消防も医療も、何もかも。ですから、今とは違う多少の荒っぽさはあります。しかし、それらは、相当な理由がなければ行為としては発生しないのです。法治はあり、無法ではありませんでした。
 朝倉・浅井方は、比叡山の領域へ、領主が意図せず逃げ込んだのが実情で、これに対して比叡山が断固とした態度を取らなかったところに誤解が生まれたのでしょう。それは、経済関係です。これは、比叡山の経済関係に恩恵を受けた地域に集中し、その付近で曖昧な行動があったために、混乱させました。
 織田信長は逃げ込んだ朝倉・浅井方に対して、武士ならば「そこに隠れずに堂々と出てきて勝負しろ」と相手に問いかけています。また、それまでざわついていた比叡山の麓は、織田信長の出陣の報が伝わると、静かになったと記されています。それ程、織田信長は、一目置かれる社会的認識を得ていたと言えます。
 比叡山は京都を護り、天皇からも血をもらった門跡寺院です。それ故に、戦国時代と言えども、無法な事はできません。天皇がそれを許しません。信長は、それらを見越して天皇の許し(勅許)を得た行動を終始行っていたのは、こういう窮地で大いに役だったのです。この歳の暮、幕府方は結局のところ戦局不利となり、天皇の勅命で各方面と和睦します。ドラマでは個別の和睦となっていますが、実際は、いくつかの局面で天皇の勅命によって和睦に至っています。

 

<時系列>
1570年(永禄13・元亀元)------------

5月9日  織田信長、兵を率いて京都を出陣
6月2日  阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
6月4日  幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
6月6日  織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信
6月17日 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
6月18日 摂津池田城内で内訌が起こる
6月18日 将軍義昭側近細川藤孝等、畿内御家人中へ宛てて音信
6月19日 将軍義昭、池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
6月20日 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
6月26日 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に再び面会
6月26日 三好三人衆方三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
6月27日 将軍義昭、近江国出陣を延期(実質的中止)
6月28日 近江国姉川合戦
7月    三好三人衆方池田民部丞某、山城国大山崎惣中へ禁制を下す
7月6日  幕府・織田信長勢、摂津国吹田城を落とす
8月10日 流浪中の公卿近衛前久、薩摩国島津貴久へ畿内の状況について音信
8月13日 摂津守護伊丹忠親、三好三人衆・池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
8月25日 摂津国豊島郡原田内で内訌があり、城が焼ける
8月27日 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
9月    三好三人衆方池田民部丞某、摂津国多田院に禁制を下す
9月13日 大坂本願寺、将軍義昭・織田方に対して軍事蜂起
9月23日 将軍義昭・織田勢、摂津国海老江から撤退
9月25日 織田信長、比叡山の麓へ陣を取る
11月5日 三好三人衆方池田民部丞某、摂津国箕面寺に禁制を下す

 

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2020年11月10日火曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十一回「逃げよ信長」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

今回は、第三十一回「逃げよ信長」2020.11.8 放送分です。

 

◎概要 -----------
今回もまた結構、ファンタジー色の強い作りでした。大将があんなに取り乱すなんてあり得ないと思いませんか?はい、あり得ません。ダメ押しはこの辺にしておきます。しかも、信長は逃げたのではありません。

さて、今回も何と!池田勝正の登場です!!!名前だけ。

池田勝正の文字だけの登場シーン


事実はどうだったかというと、皆さまにしつこくお伝えしている通りですが、角度を変えて、簡潔にそれらの要素をお伝えしようと思います。
 明智光秀は幕府方奉公衆や軍監的立場、いわば将軍の名代的な立場で従軍していました。他にも一色藤長(御供衆)など多数の幕府衆が従軍し、軍事のみならず様々な役割りを果たしていました。
 池田勝正も摂津守護として幕府方の中核勢力として従軍していましたし、飛鳥井・日野氏等の公家も従軍していました。これは、官軍としての公戦であるためで、進軍中は錦の御旗、幕府の五三桐紋、足利の二つ引両紋などを掲げていたことでしょう。これに弓を引けば、幕府への敵対、及び朝廷への反逆となり、賊軍となります。この環境はその後も非常に有効で、比叡山勢力への強硬も朝廷権威があっためにできたことです。
 更に、この進軍中に改元を行い、朝廷との親密性も見せつけながら進みます。これにより、行軍中に参陣する勢力が増え、京都を発つ時には三万程の数でしたが、近江国高島郡に入る当たりでは五万の軍勢になっていました。

 信長は非常に用心深く、練りに練った作戦を立てます。ドラマのように慌てることも、取り乱すことも無かったことでしょう。全て想定通りに進んでいた筈です。まあ、部分的には想定外もあったと思います。

あ、そうそう、重要な要素を忘れるところでした。いわゆる「金ケ崎の退き口」と言われる撤退戦では、池田勝正が主力の軍勢でした。五万と言っても、地域の小さな勢力を集めたもので、まとまった勢力を出せるところは数える程しかありません。織田信長直属武将と言えども、一千程のクラスター集団です。
 池田家は三好一族でもあるため、使役的意味もあったのかもしれませんが、自発的に池田家は軍勢を出していたのでしょう。三千もの兵を率いた事は京都の人々を驚かせ、公卿山科言継の日記にも書き留められています。

この出陣で、浅井氏が噂通りに反逆したことを確認すると、信長は直ぐに撤退を決め、態勢を立て直すために京都へ戻りました。信長一行が少数であったのは、飛鳥井・日野氏などの公家衆を優先的に帰京させるためで、この退路も朽木谷へ入り、京都を目指します。朽木氏は将軍義輝、その先代義晴も居を構えた伝統的な幕府奉公衆で、万一の危険を避けるために近江国内を通らず、丹波寄りに道を取って、京都へ戻ります。安全な退路も確保済みでした。
 
無かった訳ではありませんが、実際には、朝倉・浅井軍による激しい追撃は不可能であったと言って良いでしょう朝倉方本体の一乗谷出陣は、4月27日です。大軍で追撃できるはずがありません。取られた城や拠点を取り戻す程度だったでしょう。ですので、朝倉・浅井軍は国吉城を超えて、若狭国に入ることはできませんでした本格的な軍事衝突は「姉川の合戦」です。

信長が用意周到であったこと、以下に要素を箇条書きにしてみます。

  • 二条城を完成させてから朝倉攻めを決行 
  • 禁裏の部分修復を終える
  • 進軍直前に新しい道を完成させ、京都への交通・軍勢の移動を想定
  • 進軍中に改元(朝廷からの信任がなければできない) 
  • 軍事行動に対して、朝廷からの勅許を受ける
  • 朝廷がこの軍事行動の武運を勅願寺社に命じる
  • 朝廷の旧領回復(首都経済正常化)
  • 控えの兵(二次攻撃用も)を京都や主要地域に配備
  • 水軍を編成し海上を封鎖
  • 退路の準備(朽木など幕府縁の確かな勢力の領内を通過)
  • 京都周辺の勢力から人質を取る
  • 公家衆による朝廷に弓を引く勢力の現認
  • 若狭国の朝倉家介入からの開放
  • 日本海側勢力への牽制(山名氏との縁切り)
  • 三好三人衆と本願寺の連携を予期

 

このような早さと周到さは、多分、前代未聞でしょう。天下を取るだけの能力と才能は十分に備えた人物でした。個人的に調べれば調べるほど、やはり凄い人物で、日本の歴史を変えるに相応しい人物だと感じています。

また、以下は越前朝倉氏攻めについての課題と結果、時系列を箇条書きにして、簡潔に表してみたいと思います。課題については、その対応としての軍事・政治行動が歴史です。相対的にご理解頂ければと思います。摂津池田家もこれらの流れの中で、役割りを受け持ち、行動していました。

【ご案内】
越前朝倉攻めについて、私は平成23年に池田郷土史学会で研究発表を行っており、その時のレジュメをご覧になれば、だいたいの概要はおかりいただけると思います。ご興味のある方は、PDFファイルをダウンロードいただければと思います。

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(39.6MB)
 ↑用紙サイズはA3です。

▼過去記事
浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-


<課題>
・地域勢力に押領されている朝廷領の回復
・若狭国への朝倉氏による侵略・介入の停止
・近江国の敵味方の整理(浅井氏を含む)
・但馬・因幡・伯耆国を治める山名氏との縁切り
・首都交通の掌握
・朝廷経済の正常化
・幕府権威の威武
・足利義昭の私怨

<結果>
・浅井氏の幕府方からの離叛が判明
・朝廷に弓を引く勢力は賊軍である環境(大義名分)を作り上げた
・三好三人衆などの連合勢力が組織されていることが判明
・地域の旗色が鮮明となり、当面の課題の可視化に成功


<時系列>
1569年(永禄12)------------
4月    三好三人衆方越前守護朝倉義景、若狭・越前国境の金ケ崎城などを改修する
6月23日 近江国人浅井氏、幕府・織田信長方から離反するとの噂が立つ

1570年(永禄13・元亀元)------------
1月23日 織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
3月6日  織田信長、公家の領地旧記の調査を命じる
3月12日 近江国人浅井久政、近江国黒田など御寺地下人中へ宛てて音信
4月20日 織田信長幕府軍として、京都を出陣
4月26日 幕府・織田信長の軍勢、越前国天筒山・金ヶ崎城、疋田城などを落とす
4月28日 幕府衆諏訪俊郷等、山城国人革島一宣へ兵船の徴用などについて音信
4月28日 幕府・織田信長の軍勢、越前国金ヶ崎からの撤退始まる
4月28日 正親町天皇、禁裏・石清水八幡にて戦勝の祈祷を行う
4月30日 将軍義昭側近一色藤長、織田信長衆蜂屋頼隆などへ音信
5月    幕府・織田信長、京都とその周辺の主要な人々から人質を取る
5月1日  公卿山科言継、日野輝資などへ帰洛の労いを伝える
5月4日  将軍義昭側近一色藤長、丹波国人波多野秀信へ朝倉氏攻めなどについて音信
5月9日  織田信長、兵を率いて京都を出陣
6月2日  阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
6月4日  幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
6月6日  織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信

<当時の史料>
5/4 幕府奉行衆一色藤長、丹波国人波多野秀信床下へ宛てて音信
※大日本史料10-4P358+401(武家雲箋)
是自り申し入れるべく候処、御懇ろ礼畏み存じ候。仍て去る25日(4月25日)、越前国金ヶ崎於一番一戦に及ばれ、御家中の衆何れも御高名、殊に疵蒙られ、御自分手を砕かれ候段、その隠れ無きに候。御名誉の至り、珍重候。織田信長感じられ旨、我等大慶於候。公儀是又御感じの由、京都自り申し越し候。次に当国船出の儀、申し付けるべく由、去る19日(4月19日)申し出され候条、俄に19日罷り出、24日下着せしめ、則ち相催し、29日、いよいよ出船候筈に候の処、前日信長打ち入られ候由、丹羽五郎左衛門尉長秀へ若狭国於談合候処、金ヶ崎に木下藤吉郎秀吉明智十兵衛尉光秀池田筑後守勝正その他残し置かれ、近江国北郡の儀相下され、重ねて越前国乱入あるべく由候。然者この方の儀、帰陣然るべくの由候間、是非無くその分に候。丹羽長秀者若狭国の儀示し合わせ候条、逗留候。一両日中我等も上洛候儀、旁御見舞い心中申すべく候へ共、御疵別儀無きの旨候間、延べ引きせしめ候。何れも使者以って申せしむべく候。定めて近江国北郡異見及び候。諸牢人等も相催すべく候間、何篇於も申し談ずべく候。急ぎ詳らかに能わず。恐々謹言。


この朝倉攻め直後、摂津池田家に三好三人衆方からの調略が行われ、内訌が発生します。これにより、姉川の合戦で、織田・徳川連合軍は苦戦に陥ります。池田家内訌により、西近江地域への将軍出陣ができなくなって、後巻きという重要な役割りを果たせなくなったからです。この時も、幕府方の主力軍勢として出陣予定でした。これについては、また次回にお知らせします。

 

【次回のこと】
元亀に改元したものの、織田信長は七転八倒の苦しみを味わいます。反織田信長(幕府)包囲網が出来上がるためです。この動きの糸を引いていたのは、摂津晴門ではありません。公卿の近衛前久でした。晴門にそんな能力も権力もありません。実際、この数年後に将軍義昭により罷免されています。

 

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2020年11月7日土曜日

戦国時代の社会的身分

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

 

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、大河ドラマ「麒麟がくる」のはみ出し企画です。ちょっと文が長くなってしまいました。ご興味ある方は、お読み下さい。同時に、画像は説明資料ですので、ご理解の一助にご活用下さい。


今や時代劇はNHKだけしか、番組制作はできなくなりました。ある機会があり、大学を卒業したばかりの若者と話しをしていたら、「時代劇は見たことがありません」との答え。若干ショックでした。もう、そんな時代です。教えないのだから、そうなるのも当然です。これから先は、そのような時代が到来することを思い知った出来事でした。

さて、そんな昭和な、そんな時代劇を見て育った時代の方々に贈る、時代劇話しです。

テレビ時代劇であれ、映画であれ、その当時の日本人には、ミドルネームのような呼称があることに気付いている人も多いと思います。ど真ん中の話題では、明智十兵衛(尉)光秀です。この十兵衛は、正式には兵衛尉(ひょうえのじょう)という社会的身分を伴っています。  十は、オリジナルです。その家に伝わる系譜だったり、その人自身に冠するものです。例えば、三や五の数字、義や助などの漢字があります。ちなみに、助だと助兵衞になってしまうので、要注意です。余談ながら、柳生十兵衛もそうですね。
 今も歌舞伎役者とか、落語家などは、襲名制があり、相撲も階級があります。こういった伝統的な分野には今も見られますね。

もっと身近には、「職能給一覧表」という、毎月の給与の基準に、こういった制度や概念が今も社会秩序を支えています。

その他、遠山の金さんは、杉良太郎などが演じた人気番組でした。金さんとは、遠山金四郎景元のことで、江戸町奉行の名奉行として名を残している人物です。この人物の官名は「左衛門尉」でした。ドラマの中で、番組後半の法廷(白州)での登場シーンでは必ず、「遠山左衛門尉様のおな〜り〜」と声が発せられます。この人物も「尉」です。
 それから、池田勝正は、筑後守(ちくごのかみ)、荒木村重は、信濃守から摂津守へ官名を変えています。

このミドルネームみたいな、この官名(名乗り)、実は当時の社会ではとっても意味があるのです。日本人が、つい最近まで使っていた、社会の指標であったり、判断の基準にもしていたり、社会秩序であった制度です。今も皇室、宮内庁では使われています。
 この社会的身分により、天皇陛下や将軍、地域の殿様などといった、重要人物にどの距離まで近づけるかの基準にもなりますし、就ける職種も制限があったりします。官職表をご覧下さい。

官職表の縦には、一〜十位までの位階があり、五位以上が殿上人といって、屋敷の座に上がれます。それ以下は、廊下やその向こう側までしか近づけません。
 これに対し、横並びは、役職です。例えば、織田信長が足利義昭を奉じて京都に入った頃、元は地方官(国司)である尾張守を名乗っていましたが、京都に上洛する途中で、「弾正忠(だんじょうちゅう / じょう)」という官位に名乗りを変更しています。これは今で言うところの、警察庁長官に相当します。

再度、官職表をご覧下さい。弾正台という役職には、正六位のところに大忠・小忠があり、小忠は六位の下です。位には上下あります。いずれにしても、六位は、あまり身分は高くありません。ですので、織田信長は、普通は天皇の近くに姿を晒すことすらできません。例外もあったでしょうが、基本的には、こういった環境は厳格に守られていました。ですので、後年、織田信長が社会的身分を急に上昇させるのは、そういった制度があったためです。

一方、筑後守、信濃守といった国司職の名乗りです。国割り図をご覧下さい。江戸時代まで、日本は合衆国制的な仕組みで国が成り立っていました。国は66ヶ国ありました。その国にそれぞれ国司がおり、これを束ねるの長官が「守(かみ)」で、その副官が「介(すけ)」です。江戸時代は、少し習慣が変わりますが、室町時代には、そういった倣いになっていました。
 国司の種類は、大国・上国・中国・小国と分かれており、小国の最高位は従(じゅ)六位、中国は正六位、上国は従五位下、大国は従五位でした。国司である限り、最高位は従五位までで、辛うじて、廊下より上での立ち位置です。

では、池田勝正はどうでしょう。筑後守です。筑後は、上国ですので、従五位下です。信濃守も同じですね。ですので、この官名をもつ両者は、対等に話しができます。
 はたまた、三淵藤英はどうでしょうか。藤英は大和守で、従五位、細川藤孝は兵部大輔(ひょうぶのたいふ)で、正五位下で、三淵よりちょっと上位です。

そしてこれらは、適当に名乗っているわけではなく、天皇から許される位です。人事権でもあります。また、これは将軍が取り次いで申請します。当然ながら、これらは費用が発生し、同時に、その名乗りが相応しいのか、また、その官位に空きがあるのかを審査し、就任の可否が下されます。
 朝廷、幕府(将軍)にとっては、実際には、重要な収入源でもあったと同時に、権威でもありました。また、これらは受ける側にとって、地域政治や家中政治には有効的に機能していました。もちろん、「並み」や「相当」といった間隔で、公式とは言えなくても、それと看做される環境があって、名乗る事もあったようです。しかし、自称「課長」では、格好が悪いし、信用度も低いので、お金を積み、社会的貢献度を重ねて、多くの人が正式な官位を手に入れようとします。

ああ、明智光秀の「十兵衛尉」の解説を忘れていました。兵衛は「兵衛府」で、「尉」は、大尉と小尉がありますね。この役職には右と左があります。織田信長と同じく、大であっても最高位は従六位です。これは信長と同じ社会的地位です。
 後に光秀は「日向守」を名乗りますが、それでも「正六位下」です。ちょっとだけ、地位は上昇しました。同じ頃、羽柴秀吉は筑前守です。身分は「従五位下」です。秀吉は光秀よりもワンランク上です。

少し長くなりました。もし、ご興味のある方は、参考にして下さい。

 

国・県対照表
国・県対照表


国・県対照と五畿七道
国・県対照と五畿七道


官位相当表
官位相当表

 

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2020年11月2日月曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十回「朝倉義景を討て」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。


これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、第三十回「朝倉義景を討て」2020.11.1放送分です。

 

◎概要 -----------
今回は、将軍のロマンスが描かれて、なんのこっちゃわからん話しになって、けっこう動揺しています。あと何回の放送分があるでしょうか。こんなに寄り道をしていて、間に合うでしょうか?というか、光秀の人物像を描くことはできるのでしょうか?このままでは、またコケる予感がします。
 それと、今回のストーリーは、ファンタジーレベルで、史実とは全く違います。最新の学説を採用して筋書きを書いたりする一節がある割りには、こんなことが起きたり、時代考証者を置いたりしている割りには、ロマンスに時間を割いたりと、この頃は何だか作者の想いがどこにあるのかわからなくなる時があります。

さて、今回のレポートですが、特に取り上げるところも無いので、越前朝倉攻めに要素をを絞って、皆さまにご紹介したいと思います。

越前朝倉攻めについて、私は平成23年に池田郷土史学会で研究発表を行っており、その時のレジュメをご覧になれば、だいたいの概要はおかりいただけると思います。ご興味のある方は、PDFファイルをダウンロードいただければと思います。

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(39.6MB)
 ↑用紙サイズはA3です。

また、同じ内容をネットでもご覧いただけるようにブログに記事をアップしています。こちらも併せてご覧下さい。以下、項目一覧です。

【摂津守護職として、将軍義昭・織田信長政権を支える】
 ◎池田衆の実力
 ◎諸役負担、軍事負担、一部の権利返
【浅井・朝倉攻め】
 ◎軍事行動の目的と池田家の役割
 ◎金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで
【池田家内訌】
 ◎内訌の様子とその後の勝正の動き
 ◎三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き


 ▼過去記事
浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-

越前朝倉攻めと池田勝正について、ちょっとだけ自分のコダワリをお伝えします。通説になっている、

  • 「戦は時の運!」みたいな、織田信長の勇猛、猪突猛進、無理強い。
  •  浅井長政の突然の裏切りからの近江国朽木(滋賀県高島市)を経由した京都への逃げ帰り。
  •  越前朝倉攻めと姉川合戦は、別々の戦い。


近江国清水山城主郭礎石建物復元図
織田信長などが陣を置いた
近江国清水山城主郭礎石建物復元図

これらの実際は、全部一つの要素・用途(作戦)であって、別々に考えるべきものではありませんでした。また、信長の行動は、非常に慎重で、用心深いため、練りに練られた行動計画を立てます。予定が狂えば、直ぐに修正案を出し、戦であれば、重要な戦いは、どんな手を使っても勝つために、自らが先頭に立って戦います。
 この重要な局面で、摂津池田家は大きな役割りを担っていました。また、劇中と違い、将軍義昭と幕府は、積極的に武威を示す行動を志向し、あらゆる手を尽くしていました。
 

しかしながら、無理を重ねた池田勝正の行動は家中の不和を招き、その動揺を察した三好三人衆方に、つけいる隙を与えてしまいました。結果的にこの不和から、家中は分裂、荒木村重が台頭しますが、それは決して狡猾な下剋上ではなく、乞われて家中の地位、ひいては、社会的地位を上昇させることになり、それも通説と史実は異なります。

これらの悲劇は、現代社会でも繰り返され、起きうる事です。組織と個人の対比の中で、組織を悪のように考える風潮がありますが、その組織に糧を得、組織に護られて日常を暮らしていることもまた、歴史から学ぶことができるように思います。組織は支えなければ、簡単に壊れます。そして、その組織が無くなった時、悲惨な将来が待っています。争いの絶えない、無限の荒廃です。それが戦国時代です。身を守ることが精一杯でした。

支えなければ、国も地域も、簡単に壊れます。現代で置き換えるなら、有名会社組織(政治組織でも可)をなぞるとそういう組織論は理解を得られるかもしれません。誰も支えなくなれば壊れます。

明日は、文化の日。日頃よく使う「文化」って、皆さんは、どのように解釈していますか?良い機会ですので、池田勝正を研究する内に、自分なりに見えてきた「文化」とは何かについて、ご紹介できたらと思います。近日に公開します。 

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