大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。
これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。
※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。
今回は、第三十二回「反撃の二百挺(ちょう)」2020.11.15 放送分です。
◎概要 -----------
今回の時間的流れは、1570年(元亀元年)5月から9月下旬頃まででした。越前国の朝倉氏攻めから戻り、反幕府連合が具現化したところを描いていました。
さて、大河ドラマも、新型コロナの想定外があるとはいえ、番組内容に随分と批判が多くなっているようですね。将軍のデートシーンとか、薬屋の日常とか、旅芸人の身の上話などなど、主人公と関係の無いところに時間を割き過ぎていることに、不満を持っている人が多いようですね。それよりも、本能寺の変を経て、天王山の戦いまで描く時間があるのか?と心配する声が出ています。私もそう思います。結局、明智光秀の人物像が見えてこないのではないかと思います。
その事は脇に置いて、いつものようにドラマの隙間を楽しみましょう。
このドラマ中に描かれていた当時の時期、摂津池田家では、大変なことが起きていました。家中騒動です。家中の経済的・労務的疲弊が表層化し、議論が収斂せずに感情的になります。闘争に発展してしまい、当主勝正の側近2名が殺害され、勝正は城を出ます。
池田家は元亀元年6月以降、一時的に三好三人衆方に復帰します。元亀年間は4年の時間があるのですが、摂津池田家も将軍義昭の中央政府も七転八倒の苦悩を味わいます。そして遂に、どちらも組織崩壊となって、新たな時代を迎えるのです。
荒木村重、中川清秀、高山右近は、池田家中にあって、この流れの中で台頭し、荒木村重は遂に、摂津国及び河内国北半分を任されるまでの大名に急成長するのです。
今回は、以下の要素で解説します。
◎今井宗久、筒井順慶
今井宗久については、これまでにもお伝えしていますが、今井氏は奈良の今井町出身であることから今井を名乗りました。それ故に、奈良の勢力とは結びつきが強く、もちろんそれは、公私ともの付き合いです。
今回、奈良の人である筒井順慶が登場しました。見ての通り、坊主ではありますが、代々興福寺に所属する家でした。奈良だけは守護が置かれない、幕府権力の及びにくい地域で、興福寺がそれを司っていました。奈良だけは通念が違い、一般的な国の「国人(こくじん/こくにん)」ではなく、「国民(くにたみ)」と呼びました。
お坊さんも色々あって、学問に長けた人、力のある人、商才のある人、医学、技術などなど、宗教といえども、一つの国のように機能していましたので、自衛手段も持たなくてはなりません。
長い時間の中で、筒井氏は武士に近い職種になった人々で、こういった人々は他にも多くあり、また、興福寺に限らず、比叡山などの大きな寺社ではそういった組織がありました。奈良では特に、そういった人々を衆徒(しゅと)と呼んだようです。
◎茶会
今井宗久が筒井順慶を明智光秀に引き合わせるため、茶会に誘います。茶とは、喫茶ですが、これは鎌倉時代に健康維持のために、薬と同じような感覚で日本に伝来したようです。はじめは特に、寺での修業の一環で、喫茶を行っていたようですが、それが一般的になっていきました。
この頃には、茶会と言っても茶だけを飲むのではなく、娯楽的な面もありました。食事、飲酒、囲碁・将棋などなどを行っています。普通の食事とは少し区別があったようですが、茶道のような、形式的な作法は発展過程であって、今のように固定した概念はなかったようです。村田珠光という奈良の人が、「わび茶」の創始者と伝わっており、権威化したのは千利休ですね。
池田家でも、池田紀伊守正秀という人物が、茶道や和歌に通じ、名物茶器も多数所有し、松永久秀もそうでした。後に荒木村重も利休七哲と言われた数寄者に数えられ、池田家中にも当時の流行を心得る人々がありました。池田市域では、豊臣秀吉が久安寺で大茶会を催したと伝えられています。
◎鉄砲
堺市役所に展示してある鉄砲 |
1543年、鉄砲は種子島にポルトガルから伝わったとされています。このシーンの時代設定は1570年ですから、鉄砲伝来とされる年から37年も経過しています。現在よりもいくら発達と伝播が遅いと言っても、この当時既に日本国内では、各地で鉄砲が生産されはじめており、特に畿内(近畿)地域では、生産・運用共に先進地域でした。
今も当時も、経済活動を元にした生活をしていますので、売れる商品は作り、より良く発展させます。この鉄砲の有用性、また、守るに長けた武器として需要はうなぎ登りでした。発足当初でもあり、劣勢を自覚していた将軍義昭・織田信長政権は、この鉄砲の有効活用に全力を上げていました。
今井宗久は幕府の御用商人として、この鉄砲の流通確保・生産を一手に任されており、この当時は、生産効率を上げるために生産地の集約を進めていました。堺の近郊にその場所を求めていたのですが、そこに池田家の権益がありました。今井宗久は、これらを幕府に返上せよと池田家に迫りますが、当主の池田勝正は、それらに正当性がない事からそれを受け入れませんでした。この用件の窓口になっていたのが、荒木村重でもありました。
その場所は堺五個荘といわれる地域で、今も堺市に五個荘というところがあります。その周辺に鉄砲工場を集約しようとしていました。
また一方で、摂津池田家も多くの鉄砲を所有していたとみられ、翌年の白井河原合戦では、3000の兵の内に300挺の鉄砲を配備していました。だいたい、一割ですね。これは、攻める作戦でしたので、護る場合とは、配分が違うかもしれません。また、これは主力部隊のみの数ですので、守備する地域もあるわけで、当然そこにも必要になります。だいたい、鉄砲は兵の構成の一割と考えても300〜500は保有していたと思われます。
◎三好三人衆と池田家内訌
このドラマ中に描かれていた時期、摂津池田家では、大変なことが起きていました。家中騒動です。
将軍義昭政権下で、摂津守護職を任され、歴代最高の地位を得たのですが、役務が重く、経済的にも疲弊し始めていました。連続する戦争への出兵、権利の返上などで、急激な環境の変化に池田家中は耐えられなくなっていたようです。そこに三好三人衆方への復帰要望が高まりを見せていたとみられます。近衛前久の動きもあったと考えられます。
池田勝正は、忠実に将軍義昭政権を支える考えで行動していたのでしょう。しかしそれに異議を唱える家中の状況がありました。姉川合戦の直前、遂に池田家中では議論が収斂されず、感情的な闘争へと発展。四人衆と呼ばれた家老の内、2名が殺害されて、池田勝正は池田城を出ます。その後すぐ、三好三人衆の内、三好長逸と石成友通が同城に入ったとの噂が立っています。その後、一時的に池田家は三好三人衆方として行動します。この時、革新的な家政体制も導入し、三好三人衆に倣った、当主を置かない、合議体制を導入していました。また、集団(三名による)主導体制とみて良いと思います。
◎姉川合戦
姉川古戦場遠景 |
シーンでは、合戦図で終わりましたね。池田家にとっては、これにも出陣を予定していました。当主の勝正は、京都の屋敷でその調整と準備を行っていたようです。ところが、本国の池田での様子がおかしいことから、勝正が国元に戻ったところで、議論紛糾し、内訌に発展してしまいます。これはどうも、6月18日頃からのことで、19日の夜になって意見が激しく衝突し、重臣2名が殺害され、勝正は夜中に城を出たようです。小姓両人、小者両人、観世三郎元久(観世流猿楽師七世の大夫の家筋父の諱は元忠。)を伴って、池田城を出たとあります。
勝正は、この紛糾の間にも将軍義昭へ状況報告を行っており、ついに破談となった後の20日には、一度、将軍に状況報告を自ら行っているようです。
この事態を受け、将軍は姉川合戦への出陣を断念し、諸将へ出陣延期を伝えています。勝正が途中経過として随時の報告を行っていた間も、出陣を諦めておらず、延期の下知を二度も行っています。希望を捨てず、姉川合戦の想定日ギリギリまで策を講じていましたが、遂に、その前日に出陣中止を公布します。将軍義昭は是非とも出陣することを考えていたようです。将軍の出陣は、後巻き又は、後詰めといわれる、重要な戦術的意味と、将軍自らの出陣という戦略的な意味があり、これができなくなったことで、織田信長にとっては戦いを有利に進められない苦境に立たされたのです。これは、外聞も直ぐに状況を察知します。生まれて間もない幕府は、弱いのではないかという憶測にも繋がりました。
◎三好三人衆など反幕府(将軍義昭)勢の蜂起
ドラマでは、幕府政所のトップ摂津晴門が、反織田信長連合のまとめ役のようになっていますが、これを行っていたのは、京都から落ち、丹波国、後に大坂本願寺に身を寄せていた近衛前久でした。この実態は橋本政信氏により素晴らしい論文が出され、私はその説を支持しています。
さて、池田家の内訌や、近江国守護六角氏の動きなどの動きから、三好三人衆を中心とした軍事的策動があることは、織田信長も見通していました。浅井氏の政権離叛からそれは察知された事です。越前朝倉攻めの中でそれが判明すると、急遽京都に戻って、10日程過ごします。その間、各地の情報収集を行い、大坂本願寺の動きも警戒していました。しかし、状況からして、性急な動きは無いと見て、姉川での合戦を以て、決戦を行う方針を打ち出したようです。この一戦は、大局から見て必ず勝たなければならない戦でしたが、信長はその目的を果たします。これが負け戦であれば、政局は大きく変わっていたでしょう。前哨戦の六角も撃破し、軍威は保つ事ができました。
しかし、池田家内訌が反政府の烽火となり、この後、三好三人衆の大挙攻勢、本願寺勢の武力蜂起、筒井順慶の奈良での攻勢などが一斉に行われ、幕府方は窮地に立たされます。
池田勝正は終始、幕府守護職の職責を全うし、若しくは、それにしがみつき、随時の報告を行っていたようです。一旦将軍に状況報告をした後、事態の収拾も兼ねた状況把握のため、要所を巡っていたようです。6月26日、河内国半国守護の三好義継と共に京都へ入り、将軍と面会しています。勝正は、味方の糾合と残存兵力を把握する動きも行っていたと見られます。
ドラマでは、海老江の陣が取り上げられていましたが、天満森から海老江へ陣を移していたのですが、池田勝正もこの陣におり、一定の役割りを果たしていました。
◎比叡山での対峙
西本宮大門 |
ドラマの描き方は、ちょっと問題が起きるのではないかと心配になるところもありますね。実際は、比叡山に組織的な武力闘争をする意志があったかどうかは疑問視されていて、発掘結果からも、これまでに言われていたように、大がかりな焼き打ちは行われていない事がわかっています。
戦国時代には、戦争などで不利になった側が逃げ込む場としての存在が明らかになっています。現代感覚で言うと、「夫婦げんかの時の駆け込み寺」みたいな要素(←ちょっと昭和感覚)があります。基本的に宗教というのは、精神のよりどころであり、叡智の拠点であって、そういう在家のゴタゴタとは別の次元の領域でした。今の感覚とは少し違います。
社会としての法律や警察などの環境も違いますから、もちろん自衛しなくてはなりません。消防も医療も、何もかも。ですから、今とは違う多少の荒っぽさはあります。しかし、それらは、相当な理由がなければ行為としては発生しないのです。法治はあり、無法ではありませんでした。
朝倉・浅井方は、比叡山の領域へ、領主が意図せず逃げ込んだのが実情で、これに対して比叡山が断固とした態度を取らなかったところに誤解が生まれたのでしょう。それは、経済関係です。これは、比叡山の経済関係に恩恵を受けた地域に集中し、その付近で曖昧な行動があったために、混乱させました。
織田信長は逃げ込んだ朝倉・浅井方に対して、武士ならば「そこに隠れずに堂々と出てきて勝負しろ」と相手に問いかけています。また、それまでざわついていた比叡山の麓は、織田信長の出陣の報が伝わると、静かになったと記されています。それ程、織田信長は、一目置かれる社会的認識を得ていたと言えます。
比叡山は京都を護り、天皇からも血をもらった門跡寺院です。それ故に、戦国時代と言えども、無法な事はできません。天皇がそれを許しません。信長は、それらを見越して天皇の許し(勅許)を得た行動を終始行っていたのは、こういう窮地で大いに役だったのです。この歳の暮、幕府方は結局のところ戦局不利となり、天皇の勅命で各方面と和睦します。ドラマでは個別の和睦となっていますが、実際は、いくつかの局面で天皇の勅命によって和睦に至っています。
<時系列>
1570年(永禄13・元亀元)------------
5月9日 織田信長、兵を率いて京都を出陣
6月2日 阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
6月4日 幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
6月6日 織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信
6月17日 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
6月18日 摂津池田城内で内訌が起こる
6月18日 将軍義昭側近細川藤孝等、畿内御家人中へ宛てて音信
6月19日 将軍義昭、池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
6月20日 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
6月26日 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に再び面会
6月26日 三好三人衆方三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
6月27日 将軍義昭、近江国出陣を延期(実質的中止)
6月28日 近江国姉川合戦
7月 三好三人衆方池田民部丞某、山城国大山崎惣中へ禁制を下す
7月6日 幕府・織田信長勢、摂津国吹田城を落とす
8月10日 流浪中の公卿近衛前久、薩摩国島津貴久へ畿内の状況について音信
8月13日 摂津守護伊丹忠親、三好三人衆・池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
8月25日 摂津国豊島郡原田内で内訌があり、城が焼ける
8月27日 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
9月 三好三人衆方池田民部丞某、摂津国多田院に禁制を下す
9月13日 大坂本願寺、将軍義昭・織田方に対して軍事蜂起
9月23日 将軍義昭・織田勢、摂津国海老江から撤退
9月25日 織田信長、比叡山の麓へ陣を取る
11月5日 三好三人衆方池田民部丞某、摂津国箕面寺に禁制を下す