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2014年1月29日水曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その3:幕府(織田信長)が五畿内など諸勢力に対して人質を出すよう命じた事について)

将軍義昭を中心とする幕府は、信用できるに足る実力があるのかどうか、京都周辺の大名や権門など、諸勢力が注意深く見、観察していました。
 一方で、その幕府に敵対する勢力、三好三人衆などを中心とする反幕府勢力の動きも侮れないものがありました。諸勢力は家名を保つために、どちらに加担すべきかを非常に慎重に見極めていました。

その事は織田信長もよくわかっていたはずで、その行動結果は信用されるに足る安定した政権を作るために腐心した歴史だったとも思えます。

さて、その信長の、慎重で確実な方法を選ぶ性格が裏目に出た失敗は、元亀元年5月頃の、畿内など諸勢力への「人質差し出し」命令でした。先ず、その関連史料をご紹介します。
※大日本史料10-4-P556、織田信長文書の研究-上-P409、信長公記(新人物往来社刊)P102

-史料(1)-------------------------------------
『織田信長文書の研究』織田信長が、吉田(毛利家一族)へ宛てた、7月10日付けの音信:
(前略)、一、在洛中畿内の面々人質相取られ、天下に意儀無き趣き候条、(後略)。
『信長公記』越前手筒山攻め落とさるるの事条:
(前略)。4月晦日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛尉光秀、丹羽五郎左衛門尉長秀両人、若狭国へ遣わされ、武藤上野介友益人質執り候て参るべきの旨、御諚候。武藤友益母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構え破却させ。5月6日(中略)。さて、京表面々等の人質執り固め、公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるに於いては、時日を移さず御入洛あるべきの旨、仰せ上げらる。(後略)。
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史料では、そのはっきりとした時期は判らないものの、信長が4月30日に京都へ戻ってから、翌月9日に京都を発つまでに実行されたものと思われます。
 他方、五畿内やその西側の地域では、三好三人衆方への繋がりを断ち切れず、不穏な動きも見られていました。
 例えば、同年2月の時点で堺商人今井宗久は、幕府衆(将軍義昭の側近)上野秀政・一色藤長・玄浄院・金山信貞・河内国高屋・和田惟政・朝山日乗・明智光秀・野村越中守・御局様・木下秀吉・森可成・松永久秀・畠山高政・佐久間信盛・柴田勝家・中川重政・蜂屋頼隆・丹羽長秀・金森長近・河尻秀隆・武井夕庵・一角好斎・御長・雲松軒・布施式部丞へ宛てて、三好三人衆方の動きを報告しています。
※堺市史5(続編)P927

-史料(2)-------------------------------------
急度啓上せしめ候。淡路国へ早舟押し申し候処、一昨日辰刻(午前7時〜9時)、阿波国衆不慮雑説候て、引き退かれ候。然る処、安宅神太郎信康手の衆、相慕われ候処、阿波国衆手負い死人200計り之在りの由候。敵方時刻相見られ申し候。恐々謹言。
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それから、越前国敦賀から京都へ戻り、京都周辺の動向を見ていた信長は、河内守護畠山左衛門督昭高へ音信し、5月4日付けで、敵への対応について、指示を与えています。
※寝屋川市史3(古代・中世史料)P950

-史料(3)-------------------------------------
其の表の雑説の儀、未だ休み之由候。治定の所実らず候歟。紀伊国・同根来寺馳走申しの旨然るべく候。旧(もと)から申し如く候。信長毛頭疎意無き於候。御手前の儀、堅固に仰せ付けられるべく事肝要候。恐々謹言。
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そのような不安定な状況でもあり、信長は来る朝倉・浅井方との決戦を目前にして、主立った勢力から人質を取りました。それには当然、池田家も含まれていたと考えられます。

そして5月中旬、越前国朝倉義景は、近江国へ向け、20,000の軍勢を出陣させ、これに呼応して同じ頃、浪人中の近江守護六角氏は、5月12日付けで近江国長命寺へ宛てて禁制を下す等して、活動を活発化させています。
※戦国遺文(佐々木六角氏編)P315

-史料(4)-------------------------------------
一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事、一、放火並びに竹木伐採、田畠苅り執り事、一、兵糧米・矢銭等相懸け一切非分課役事、右条々、堅く停止され了ぬ。若し違犯輩は厳科に処されるべく者也。仍て下知件の如し。
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近江国での決戦の機運は高まり、反幕府方諸勢力は申し合わせた動きを見せます。信長はその最中に六角方と和睦の交渉を行いましたが、5月19日に破談となり、鈴鹿山脈の千草越えで岐阜への帰途につきました。その途上、信長は鉄砲で狙撃されましたが、危うく難を逃れました。
 一方、京都とその周辺の幕府衆も作戦通りの準備を急いでいました。そして朝倉氏は近江国へ向けて出陣しています。浅井氏領で合戦が行われるとの目算を立て、概ね双方は手筈を整えていたのでしょう。

この軍事衝突は、浅井氏への報復を目指しながらも先ず、東海道の自由をどちらが取るか。その目的しかありません。

この頃、近江国の北半分は浅井氏が優勢で、その浅井氏領内を攻めるには、東西両方から攻める必要がありました。東側は信長を中心とする、美濃・尾張・三河・伊勢国を中心とする勢力で構成されていました。
 そしてもう一方の西側は、幕府勢が高島郡に進む予定で、それは後巻きを兼ねて、朝倉・浅井方を攻める事になっていたようです。これに将軍も出陣する予定で、池田衆が再びそれに供奉する予定だったようです。その関連史料をいくつかご紹介します。
 信長が高島郡への参陣について、若狭守護武田氏一族同名彦五郎信方へ、6月6日付けで音信しています。
※福井県史(資料編2)P722

-史料(5)-------------------------------------
前置き部分:
委曲嶋田但馬守秀満に相含め候。定め申し届けるべく候。
本文:
来る28日(6月28日)江北(近江国北郡)へ至り行及ぶべく候。其れに就き高嶋郡御動座為すべくの旨候。此の時候条参陣遂げられ、御馳走肝要候。恐々謹言。
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また、その近江国高島郡への出陣について、将軍義昭が、近江国人佐々木(田中)下野守へ、6月17日付けで御内書を下しています。
※大日本史料10-4-P526

-史料(6)-------------------------------------
今度其の表に至り進発せしめ候。然らば此の節軍忠抽ぜられるべく也。近年不(無)沙汰の段、是非無き次第に候。先々如く其の覚悟すべく事肝要也。奉公浅深に依り、恩賞有るべく候。委細御走衆三上兵庫頭輝房申し含め差し下し候。尚細川兵部大輔藤孝申すべく也。
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更に、同日付けで同じ宛て所への奉書を幕府奉公衆細川兵部大輔藤孝が下しています。
※大日本史料10-4-P526

-史料(7)-------------------------------------
本文:
浅井御退治為、其の国へ至り御動座成られ候。以前の御奉公の筋目に軍忠抽ぜられるべく旨、御内書成られ候。御恩賞の儀は、随分馳走せしむべく候。委しくは、御走衆三上兵庫頭輝房申されるべく候。恐々謹言。
注釈:
是れ如く佐々木・京極・朽木を始め、三上兵庫頭軍勢を催し、御進発有るべくの処、近江国の軍散し■■は、其の事止む。
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この準備の最中、頼りにしていた摂津守護池田家中で内訌が発生します。6月18日の事です。

これについて幕府は、直ちに反応・対応し、細川藤孝は、畿内御家人中へ宛てて音信します。この日付は、6月18日です。
※大日本史料10-4-P525

-史料(8)-------------------------------------
今18日御動座の旨、先度仰せ出されと雖も候。調略の子細有るに依り、来る20日に御進発候。其れ以前参陣肝要の由仰せ出され候。御油断有るべからず候。恐々謹言。
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奉書では、20日に京都を発つから、それ以前に京都に入れと言っています。28日に決戦を行うには、これがギリギリのリミットです。

ちなみにこの動きは『言継卿記』にも記録されています。この事は、同日記だけを見ていては状況が判りませんが、その関連史料を併せ読むと状況が判明します。
 さて、18日付けで発した藤孝名の奉書は、出陣の延期を伝えており、その時点では事態の沈静化を期待していたようです。決戦の日は28日と決まっており、幕府は何とか間に合わせたいと考えていたのでしょう。

将軍の高島郡への出陣は、勝敗を決すると目される重要な役割だったためです。

しかし、翌日になっても池田家中の騒動は収まる気配は無く、しかも悪化。池田家当主の勝正が城を追われて京都へ報告に上ります。
 これを受けて幕府は、将軍出陣を更に延期する事を決め、その反勢力鎮圧のために、翌20日、摂津国方面へ軍勢を出します。言継卿記を見てみます。
※言継卿記4-P424

-史料(9)-------------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。又阿波・讃岐国の衆三好三人衆、明日出張すべくの由注進共之有り云々。(後略)。
6月20日条:
(前略)。御前へ参り様体申し入れ了ぬ。次に幕府衆上野中務大輔秀政(500計り)、細川兵部大輔藤孝(200計り)、一色紀伊守某・織田三郎五郎信広(100余り)、都合2,000計り、摂津国山崎迄打ち廻り云々。彼の方(山崎方面)自り注進、三好左京大夫義継衆金山駿河守信貞、竹内新助(所属不明)等参り、種々御談合共之有り。(後略)。
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この間、信長は何とか近江国北部に味方を作ろうと腐心し、要港の一つである菅浦へ禁制を下します。ここは、禁裏とも浅くない関係を持つ集落です。また、浅井氏配下でもあった地域でした。
※大日本史料10-4-P532

-史料(10)-------------------------------------
一、甲乙人乱妨狼藉の事、一、陣取り放火の事、一、竹木伐り採りの事、右違犯の輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て下知件の如し。
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そして6月26日、再び池田勝正は京都へ入り、将軍義昭に面会しました。この時、もう一人の河内守護三好左京大夫義継を伴っていました。
※言継卿記4-P425

-史料(11)-------------------------------------
(前略)。摂津国池田筑後守勝正、三好左京大夫義継同道せしめ上洛云々。(後略)。
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勝正のこの時の入京の目的は不明ですが、その翌日に決定された将軍出陣の事実上の中止を勘案すると、それは詳しい状況報告を将軍に行い、全体の行動の協議を行ったものと見られます。河内守護である三好義継を伴っていたのは、同国の動きと同時に松永山城守久秀から入る大和国方面の情報も併せて聞くためだったのではないかと思われます。
 ちなみに、この頃奈良では地震が頻発しており、かなり大きな揺れもあったようです。この会議で奈良の地震についての話題も出たのかもしれません。

将軍義昭が出陣を再び延期した事について、『言継卿記』に記述がありますので、ご紹介します。言継は同じ日に同じ項目を重ねて書いてしまい、それについて「按ズルニ、此ノ項重出」と注釈を付けています。
※言継卿記4-P425

-史料(12)-------------------------------------
6月27日条:
(前略)。今日武家御動座延引云々。(按ズルニ、此ノ項重出)。(中略)。今日武家御動座延引云々。近江国北部に軍之有り云々。(後略)。
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もう将軍の高嶋郡出陣は間に合いません。これについて、都の人々や関係者は、非常に危機感を持っていたと思われます。また、官軍に弓引く者が続出した事も。
 この翌日、日本史上あまりにまも有名な「姉川の合戦」が予定通りに行われました。しかし、織田・徳川勢が勝利しました。後巻きの無い戦いは非常に厳しかったと思われますが、重要な合戦で負けなかったのは、それ以上の誤算を引き起こさない為にも重要な事でした。

個人的に思うのは、浅井長政の離反よりも、池田衆の離反の方が状況としては深刻で、信長にとっては窮地の度合いは深かったと感じています。
 「越前朝倉氏攻め」から「姉川の合戦」は、切離れた要素では無く、一体の事象であり、ある意味、この重要な軍事政策に池田衆は大きく関わって、政権の存続に非常な影響力を持っていたと感じています。それについて、その一連の史料群が事実を伝えてくれている訳です。

それから、池田家のこの時の内訌は、幕府を通じての人質差し出し命令について、もめ事があったのかもしれません。また、新政権に懸命に尽くしたとて、信用もされず、将来への希望が揺らぐ中での家中の鬱積が、この人質差し出し命令で爆発したのではないかと、私は感じています。
 
次回は、元亀年間初頭までは、五畿内を中心とした周辺地域で結構三好三人衆勢力が侮れない勢力であった事について考えてみたいと思います。







2014年1月22日水曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その2:越前国朝倉氏攻めについて)

越前国朝倉攻めは、将軍義昭・織田信長方にとって、当初から目的化されていた事です。有無を言わせず、潰す予定だった事が、当時の史料からも判ります。

一方、将軍義昭は、幼い頃に奈良興福寺一乗院に入り、僧として生活してきた人物であり、将軍としての帝王学を学んでいないばかりか、武家としての人脈もありませんでした。「将軍」といえば、武家の棟梁ですが、義昭については血のつながり以外に全うな要素はありませんでした。
 もちろん、第十三代室町将軍であった義輝は殺害されたために、禁裏の承認を経たとは言え、正式な家督の相続手続きも出来ていません。その後の第十四代将軍義栄との正邪たる競い合いは、感覚的な感情論で、本来の手続きが取られず、また、その環境も無いままに、将軍の座を取り合ったものでした。
 
ただ、この時代には、将軍とはいえ、制度もあまり機能しておらず、その権威もその職にある個人の能力次第で、厚くなったり、薄くなったりしていました。財政も同じくです。
 ですので、永禄11年秋に将軍義昭政権が始動した時には、その基礎作りからのスタートでした。摂津国池田家は何の縁も無い、そんな状況の政権に加担しましたので、東奔西走、苦心惨憺の棘の道へ踏み入れたに等しい選択となってしまいました。

さて、永禄11年以降の幕府・将軍義昭は、制圧すべき敵(地域)を早い段階から想定していたようです。まあ、将軍とはいえ、経済も含め、特に軍事では織田信長による考えで政策の立案がなされていたようです。
 朝倉攻めについても、早くから画策されていた事を示す史料がありますので、ご紹介します。長文なので、必要部分だけを抜粋して略します。
 幕府・織田信長方朝山日乗が、毛利元就・福原貞俊・児玉元就・井上春忠・小早川隆景・口羽通良・牛遠・山越・吉川元春・桂元重・井上就重・毛利輝元・熊谷高直・天野隆重へ宛てて、永禄12年8月19日付けで音信したものです。
※兵庫県史(史料編・中世3)P640

-史料(1)-----------------------------------------------
(前略)
一、信長者、三河・遠江・尾張・美濃・近江・北伊勢の衆100,000計りにて、国司(北畠具教)へ取り懸けられ候。10日の内に一国平均たる由候間、直ちに伊賀・大和国打ち通し、九月十日比、直ぐに在京為すべく候。左候て、五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め、阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧あるべくも存ぜず候。一、豊前・安芸国和睦有る事、信長といよいよ深重に仰せ談ぜられ、阿波・讃岐国根切り頼み思し召されと候て、相国寺の林光院・東福寺の見西堂上便に仰せ出され候。信長取り持ちにて候。我等御使い申し上げ候。なお、追々申し入れるべく候。また、切々御用仰せ上げられるべく候。御心に任せ馳走候。
------------------------------------------------

音信では、このように述べています。織田信長は早くから、京都を防衛し、且つ、政権の維持から発展をさせるために必要な策を立てていたようです。
 そしてそれらに優先順位を設けて、ひとつひとつ目標を達成しました。それが後世にも伝わる歴史として残っている訳です。永禄12年から元亀元年夏までの幕府軍(信長軍も含む)の動きは、以下のような計画があって、それに基づいていました。
※以下の要素は順不同です。
 
 (1)伊勢・志摩国制圧
 (2)伊賀国制圧
 (3)阿波国三好氏攻め
 (4)但馬・伯耆国山名氏攻め
 (5)播磨国攻め
 (6)河内・和泉国の制圧
 (7)近江国の制圧
 (8)越前国朝倉氏攻め
 (9)若狭国動乱正常化への介入
 (10)公家・権門への知行返還
 (11)特に首都経済に関わる要港・街道の掌握

ちなみに、上記の(1)(2)はさておき、永禄12年時点では、どうも阿波・讃岐国の三好氏攻めを優先して想定していたようです。敵対勢力の中で、特に大きな影響力を持ち、畿内地域での統治実績を持っていた事からも、早期に制圧する必要があると考えていたのでしょう。
 播磨国攻めは、そのための布石を兼ねていたと考えられます。もちろん、毛利氏への支援も兼ねていて、複合的な要素を意識した行動でした。

三好攻めの計画に関する史料をご覧下さい。永禄12年9月4日付けで、堺商人今井宗久が、淡路国人安宅信康衆同名石見守・菅平右衛門尉・庄久右衛門尉・梶原越前守景久宿所へ宛てて音信しています。今井宗久が阿波・讃岐方面へ攻めるための足がかりを作っていたようで、淡路国人安宅神太郎信康との調整を行っていました。
※堺市史(続編)P910

-史料(2)-----------------------------------------------
先便書状以て申し候。定めて参着為すべく候。差儀無くと雖も候。好便啓せしめ乍ら候。仍って御当家へ御忠節の段、今度美濃国於織田信長御感じ候。並びに御名誉是非無き題目候。殊更其の表の儀御調略比類無く、京都御沙汰迄候。随って当津南庄御存知、殊に珍重以て存じ候。我等儀も御存知如く、堺五ヶ庄御下知並びに御朱印を以て、拝領為され候。諸事猶以て御意覚悟を得るべく候。先度河尻与兵衛尉秀隆・坂井右近尉政尚懇ろに申し越され候間、先々宮半入(人物か?)へ当庄、将又吉日以て、相引き渡し申し候。政所の儀早々仰せ付けられ、支配等御収納之在るべく候。相応の儀於者、疎略存ぜずべからず通り、安宅神太朗信康殿へ御執り合い畏むべく候。恐々。
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しかし、永禄12年中頃に、信じがたい噂が出始めます。信長にとっては義理の弟である、浅井長政が幕府方勢力から離反するとの噂が出、大和国奈良にまで伝わっています。興福寺多聞院坊官の英俊の耳にまで達しており、その日記に記されています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P135

-史料(3)-----------------------------------------------
6月23日条:
近日江北(近江国北部)裏帰り、物騒の由沙汰在り之由とりとり沙汰云。
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更に同日記では9月に入って、伊賀・甲賀衆が近江国於蜂起するとの噂が流れている旨書き留めています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P146

-史料(4)-----------------------------------------------
9月7日条:
一、(前略)。昨日6日松永右衛門佐並びに竹内下総守同道、見舞い為伊勢国へ越すべくの由の処、合戦悪しくて、人数数多損じ、甲賀衆・伊賀惣国催して近江国一揆蜂起歟の由沙汰の間、10日迄延べ引き云々。
(後略)
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浅井氏の支配地域は、東海道・北国街道を含む近江国の北半分に及び、ここを脅かされると三河・尾張・美濃国と首都京都との交通が滞り、政権にとって様々な点で深刻な事態に陥ります。そのため、信長は浅井氏の離反が噂通りかどうか、急遽、確かめる必要に迫られて、その方策を考えます。
 これにより、公家や権門の領地も多い、近江国・若狭国への対応を行う事を決めたようです。上記の計画の内、(7)〜(11)までを一気に解決する策を考えたようです。その複数の要素が、越前朝倉氏攻めに集約されているという訳です。
 
信長は、朝倉攻めを決し、慎重に策を講じます。浅井氏が離反するという噂が立つくらいですから、誰が敵で、味方かを戦いの前に見極めておく事が必要になる訳です。そのために、以下のような指示を出します。従うかどうかという動きの監察と、戦争のための口実作りです。注目すべきは、諸大名の召集に越前国守護で、しかも義昭の将軍職継承支持者であったはずの朝倉義景の名はありません。
 以下は触れ状の案文と宛先です。1月20日付けで、信長が発行しています。
※織田信長文書の研究-上-P346、ビブリア(二條宴乗記)53-P134

-史料(5)-----------------------------------------------
信長上洛に就き京衆中立ち有るべく事
北畠大納言(具教)殿並びに北伊勢諸侍中・徳川三河守(家康)殿並びに三河・遠江諸侍衆・姉小路中納言(嗣頼)殿並びに飛騨国衆・山名殿父子並びに分国衆・畠山(昭高)殿並びに■在■国衆・遊佐河内守(信教)・三好左京大夫(義継)殿・松永山城守(久秀)並びに大和諸侍衆・同右衛門佐(久通)・松浦総五郎・同和泉国衆・別所小三郎(長治)・同播磨国衆・同孫左衛門尉並びに同名衆・丹波国衆・一色左京大夫(義有・満信)殿・同丹後国衆・武田孫犬丸元明・同若狭国衆・京極(高吉)殿並びに浅井備前長政・同尼子・同佐々木(高島郡七党)・同木村源五父子・同江州南諸侍衆・紀伊国衆・越中神保名代・能州名代・甲州名代・濃州名代・因州武田名代・備前衆名代・池田(勝正)・伊丹(忠親)・塩川・有右馬(有馬則頼?)。
同触状案文
禁中御修理武家御用其の外天下弥■■為、来る中旬参洛すべく候条、各御上洛、御礼申し上げられ、馳走肝要、御延べ引き有るべからず候。恐々謹言。
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そして同時に諸大名の動きを見るのと並行して、信長は禁裏も動かします。押領されている知行の返還を目的化するなどして、反幕府・禁裏への勢力を討伐する名目を、公的な行動の目的として打ち出します。また、幕府の権威を喧伝するために、改元申請を行って、朝倉氏攻めの途中で「元亀」の改元を実現しました。
 
それからまた、義昭の朝倉義景に対する私怨もあったように思われます。というのは、永禄8年に将軍義輝の暗殺以降に義昭が、奈良の一乗院を脱出した後の事です。
 事件直後は将軍義輝への同情から、義昭への関心を諸大名は示しますが、実際に義昭が援助を依頼すると、どの大名も積極的な行動は取りませんでした。ご存じのように、最終的には織田信長がその依頼を引き受けて、義昭の悲願は達成されますが、その間に朝倉氏に関わる時間が非常に長かった訳です。
 時間がかかったのは、朝倉氏が義昭の実力を疑い、試そうとしたためです。義昭が朝倉氏を頼って領内に入ると、敦賀で足止めをし、一乗谷へ進んで来ると、城外の寺に留め置き、そこで義昭に一働きさせる要求をしています。
 朝倉氏がその時に手を焼いていた加賀・越前国との和睦調停です。義昭は入洛の支えになってもらおうと、懸命に努力した結果、それを見事に実現しますが、それでも朝倉氏は義昭の希望を聞き入れませんでした。
 義昭が、朝倉氏の元を去ったのは、怒って国を出たのだと思います。義景は義昭が国を出ると伝えた時には慰留しています。義景は結局、義昭を利用するだけに使ったのです。
 幕府の有無を言わせない朝倉氏攻めは、そういった態度が、感情的な要素も育てたのだろうと思います。朝倉氏にはその時の態度が、災いの元となりました。
 
永禄13年4月20日、朝倉討伐軍として30,000の軍勢が京都を発ちましたが、これには公家飛鳥井氏・日野氏などの姿もありました。幕府軍と同時に「官軍」でもあった訳です。しかも飛鳥井氏は、若狭国武田氏とは伝統的に親密な間柄で有り、人選も考え抜かれていました。
 また、日野氏は、本願寺宗主の家系と同門の家柄であり、近江国から北陸にかけて広く根付いた本願寺宗に対する役目を持っていたのではないかとも考えられます。

このように信長は、慎重には慎重を期し、また、二重三重に策を講じ、そして大軍を動員して朝倉氏攻めを行ったのです。ですので、定説となっている、「浅井長政の裏切りが発覚し、信長は数騎のみで朽木谷を経て、命からがら京都へ逃げ帰った」エピソードは事実では無く、噂通りに浅井氏の動向が確認できた時点で、安全に京都へ戻る事など、いくつもの手を打ってあったというのが実際のところです。
 ちなみに、朽木氏は幕府方の奉行人で、近江国北西部では有力な勢力の一つでした。その北側、若狭街道で通じた若狭国熊川は、幕府奉行人沼田氏の根拠地です。退却は、それらの地域を通って京都へ戻っていますので、追う朝倉氏側も簡単に手出しはできない状況もあった事でしょう。

さて、「金ケ崎の退き口」に象徴されるように、朝倉・浅井氏は幕府・官軍に弓を引いたことになりますので、信長は公戦として堂々とあらゆる手を使えるようになった訳です。その点では逆に、信長にとって好都合ともなったのです。
 実際のところ信長は、浅井氏の離反も想定しており、京都・美濃などに予備の兵も置き、次の手が繰り出せるように準備もしていました。
 
ただ、一方で、信長にとっては自分の義理の弟までもが離反したとなると、他にも離反者を出す可能性があるという緊張感は高まりました。信長は、次に必要な策を立てつつ、朝倉・浅井方に決戦を挑むべく、そちらの準備も急遽進めました。これがいわゆる「姉川の合戦」です。
 信長は、浅井氏離反が発覚すると、公家衆を守りながら4月末に京都へ戻り、そこで情報収集を行うと同時に、第二次攻撃のための指示を出していました。間もなく一定のメドが立った事から、信長は5月9日に京都を発って、岐阜へ向かいます。
 
最後に、摂津池田衆について少し触れておきたいと思います。池田衆は、永禄11年秋以降、特に但馬・伯耆国山名氏攻め、播磨国龍野赤松氏支援(毛利氏の要請も兼ねる)、越前国朝倉氏攻めの戦に、幕府勢力として多数の兵を出しています。その他にも、小さな要望にもその都度応えています。また、公家・権門・幕府などへの知行返還も余儀なくされています。
 朝倉氏攻めでは3,000もの兵を出し、これは幕府軍の中核的な勢力を成す規模です。また、「金ケ崎の退き口」では、明智光秀と共に幕府方の殿軍も努めました。史料は、元亀元年5月4日付けで、幕府奉行衆一色式部少輔藤長が、丹波国人波多野右衛門大夫信秀床下へ宛てて音信したものです。
※大日本史料10-4P358+401

-史料(6)-----------------------------------------------
是自り申し入れるべく候処、御懇ろ礼畏み存じ候。仍て去る25日(4月25日)、越前国金ヶ崎於一番一戦に及ばれ、御家中の衆何れも御高名、殊に疵蒙られ、御自分手を砕かれ候段、その隠れ無きに候。御名誉の至り、珍重候。織田信長感じられ旨、我等大慶於候。公儀是又御感じの由、京都自り申し越し候。次に当国船出の儀、申し付けるべく由、去る19日(4月19日)申し出され候条、俄に19日罷り出、24日下着せしめ、則ち相催し、29日、いよいよ出船候筈に候の処、前日信長打ち入られ候由、丹羽五郎左衛門尉長秀へ若狭国於談合候処、金ヶ崎に木下藤吉郎秀吉・明智十兵衛尉光秀・池田筑後守勝正その他残し置かれ、近江国北郡の儀相下され、重ねて越前国乱入あるべく由候。然者この方の儀、帰陣然るべくの由候間、是非無くその分に候。丹羽長秀者若狭国の儀示し合わせ候条、逗留候。一両日中我等も上洛候儀、旁御見舞い心中申すべく候へ共、御疵別儀無きの旨候間、延べ引きせしめ候。何れも使者以って申せしむべく候。定めて近江国北郡異見及び候。諸牢人等も相催すべく候間、何篇於も申し談ずべく候。急ぎ詳らかに能わず。恐々謹言。
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あまり語られる事はありませんが、事実は多数の史料が証明してくれています。

次回は、この過酷な池田衆の環境に追い打ちをかける、人質を差し出す命令が信長から下った事について考えてみたいと思います。






2013年11月21日木曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(はじめに)

元亀元年(1570)6月、荒木村重も加わった池田家内訌は、突然起きたように見えますが、そこに至るまでには原因があります。その出来事の前後を見れば、それはよくわかります。どんな事もそうですよね。

個人的に池田家の内訌については、朝倉・浅井攻めの最中に起きており、将軍義昭・織田信長政権の最初の大きな躓きだった、いわば失策が招いた事件であったと考えています。
 言い方を換えれば、三好三人衆が調略を成功させる隙を作ってしまう程、織田信長は五畿内社会の様相を変えてしまったのでは無いかと思います。

元亀元年4月の越前朝倉氏討伐を第一次とするならば、浅井氏の態度を見た幕府軍が態勢を立て直し、再び攻めようとした姉川の合戦を代表する軍事行動は、第二次朝倉・浅井討伐と位置づけられると思います。
 
その説明を、以下の要素からそれぞれ進めていきたいと思います。お楽しみに。

(1)6月18日に起きた池田家内訌当日を分析する
(2)元亀元年の越前国朝倉氏攻めについて
(3)5月、幕府は、五畿内の主立った家に対して人質を出すよう命令した
   ※高島郡への動座
(4)三好三人衆勢力は、依然侮れない影響力があった
(5)反幕府勢を束ねる人物 ←只今執筆中
(6)荒木村重の池田家中での地位(家中権力の多極化) ←只今執筆中
(7)池田勝正追放後に別の当主を立てたか
(7.1)池田勝正追放後に別の当主を立てたか「続報」
(8)三好為三政勝の動き ←只今執筆中
(9)その他の要素(元亀元年6月の池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか


2011年6月15日水曜日

元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか。

元亀元年の幕府による朝倉攻めでは、なぜ安全な湖東の浅井氏領を進軍ルートに選ばなかったのでしょうか。ふと、そんな事を考えました。
 一方で、浅井方は味方である事は疑いの余地がないので、ここは安全地帯として、湖西の敵方を制圧するためにルート設定を行ったとの考えも可能です。

現在伝わっている通説である、織田信長の綱渡り的な行動としての朝倉攻めについては、やはり違和感があります。

浅井氏のどんな行動で、敵対が確定したのか...。「手紙」という方法も可能だとは思いますが、地理的に小谷城から越前国敦賀郡までは、延々と浅井領です。当然、浅井方によって、厳重に警戒されているでしょう。こういう使者が行き来する事は簡単ではないと思います。
 もし、お市が信長など本家から気持ちが離れていないのなら、その後の長政との関係と行動に矛盾があるように思います。そしてまた、内通者としての何らかのペナルティも無いようなので、そのあたりが、一貫性が認められないように思えます。

はたまた、この朝倉攻めでは浅井氏は「動かない」という条件提示を破った、というような事があったのかもしれません。引壇城には、浅井氏の手勢が入っていたとも後年の軍記もので伝わります。

何れにしても、明確な敵対行為が認められたため、浅井方の旗色が判明したという事だと思います。それが、何によるものだったのか、また近日にまとめてみたいと思います。




2011年6月8日水曜日

元亀元年、浅井氏は自衛的戦争に踏み切ったのではないか?

戦国大名というか、国人というか、近江国北部の有力者であった浅井長政などその一族については、織田信長と姻戚関係を持った事から、歴史の表舞台に取りざたされる事が比較的多いのですが、しかし、じっくり知りたいと思って調べてみると、意外と研究が進んでいない様な印象も受けます。
 最近は、大河ドラマなどで湖北方面が取り上げられる機会も増えて、ようやくその研究も注目されるようになったようですが、意外にも滋賀県は、県史も古く、地域史の科学的取組みはあまり進んでいません。はっきりいって、他県と比べて遜色あります。アカデミックな方面から知事になったので、この点も取組みが進むかと期待したのですが...。色々な事情があるのでしょうけど。

さてしかし、最近は、史料の発掘が盛んで、湖北方面での興味深い視点が増えていて、面白いです。日本文化の坩堝ともいえる近江国の研究が進むのは、大変意義有る事だと思いますので、期待しています。
 特に近年、流通や交通、出土土器の全国的な分布検討など、貴重な視点と政治的な史料の融合が始まっていて、革新的な動きが出て来ているように思います。

そういった研究を興味深く読んでいて、これまでの私の摂津国人池田勝正研究を重ね合わせてみるとまた違ったものが見えてくるようになりました。
 今も昔も変わらない、「お金」の問題です。経済的観念は、あまり時代性は関係無いように思います。

そんな事を考えていると、元亀元年の幕府・織田方による朝倉攻めの折、浅井長政が朝倉義景に加担したというのは、何も不自然な事では無く、浅井氏は湖北の交通・物流拠点を侵される危険性からの自衛的対抗措置を採る事に決したのは、理解できる事です。
 朝倉氏の旧誼を重んずる判断からではなく、若狭国小浜や越前国敦賀から京都・奈良・大坂への物流拠点としての湖北は、朝倉領内の経済概念と一体化した地域であった事から、浅井氏はその点で織田信長に抗する決断をしたのだろうと思います。
 実際、大坂の本願寺寺内町には、敦賀など越前国の商人が拠点を持っていたらしく、相互関係があった事が指摘されています。

その仕上げとして、官軍としての行軍という政治的な威容を調え、武力で押さえ込む方針を明示した以上、当時としての一般的な権利としての武力対抗を選ばざるを得なかったのだと思います。
 どちらかというと、朝倉氏がもう少し柔軟な対応を取っていれば、浅井氏も家名を存続できたのだろうとも思います。元々丹波国の一国人的な立場から、5代をかけて一国の守護となった経緯もあってか、モンロー主義のような直接的な利害の他は不干渉といった政治的判断がしばしば基準となっているようです。

それからまた、当時のならいとして、浅井氏に絶縁を示す場合の離縁が行われていなかった事は、交渉の余地を残すものだったのかもしれません。人質かもしれませんが...。
 いずれにしても、官軍に弓を退く立場となった浅井・朝倉など連合軍は、軍事的優位に立ちながらも、最終的に目的を遂げられなかった事実は、歴史が答えを出しています。
 結局、武力というのは、政治の一部であって、政治を尽くさないで武力ばかり使っても何の意味も無く、単なる大量殺人と犠牲で終わってしまう事が、歴史は何度も私たちに示しています。

そして「連合」というのは、やはり意思決定が難しく、重要なところで判断が下せず、結局は事態の打開ができません。「お金」の問題も当然あります。
 会社でも政治でもそうですが、協同や合同は結局、うまく行かない例が多いようです。個人的な経験からもそう思います。





2011年5月10日火曜日

元亀元年の浅井氏謀反は、織田信長に「突然」の認識が本当にあったのか。

最近、元亀元年の織田信長(幕府)による、朝倉攻めの事が気になって、色々と調べています。

ふと思ったのですが、永禄13年(元亀元)の1月23日に発行した、諸大名への触れ状を見ると、そこに朝倉氏の名前は無く、また、朝倉氏に連れ去られた若狭守護家筋の武田孫犬丸元明の名がそこに記されています。
 これは、呼び出しの意味も有る内容の書状ですが、武田孫犬丸元明の禁裏及び将軍への参候は事実上不可能です。
 その上で、浅井父子と京極高吉へも同じ旨通達されているようです。京極氏は室町幕府の四職の一家の名族です。また、その高吉の娘は武田元明に嫁しているようです。

そんな関係でもある人々を幕府の命で行動させるのですから、政治的な意味合いも重くなる筈で、これについてどのような行動を取るか、織田信長は初めから難題を相手に課していたと考えられます。
 この幕府命令について、『言継卿記』3月16日条に、河内守護三好左京大夫義継、松永山城守久秀、豊後の大名大友左衛門督義鎮(宗麟)使者、但馬国山名祐豊重臣大田垣兄弟、備前国大名宇喜多氏などが参洛して、幕府などへ挨拶に訪ねたとあります。

さて、その1ヶ月後に越前守護朝倉攻めの軍勢が京都を発つのですが、1月に発行した触れ状にもある浅井氏は、この軍事行動に参加した形跡がないように思われます。西近江街道の途中、高嶋郡あたりで合流したのかとも思いましたが、その形跡も無いようです。
 ですので、天皇からも公認されたこの官軍の征伐ともいえる軍事行動に浅井氏は、はじめから参加しておらず、その時点で、噂通りに官軍に弓を弾くかどうかの確認を取った行動であったと思われます。
 浅井氏の政権離脱は、はじめから予想された事だったのだと思います。用意周到な織田信長の行動に対して、浅井長政の行動だけが、「突然」であるのは、不自然なように思います。


また、幕府・織田信長政権が、越前の朝倉氏を攻めたのは、朝倉氏の関与を止めさせて、若狭国内乱への介入と整理、そしてまた権門や禁裏への対応を行なう意図があったように思います。
 また、浅井氏にとっても、日本海側の小浜や敦賀など良港からの物流が、近江国北部を経由して京都・奈良・大坂へも通じてもおり、朝倉氏との関係を絶つ訳にいかなかったのだろうとも思います。この権利は、当時でも莫大な額に上っていたようです。

今も昔もやっぱり「お金」の問題だと思います。




2011年4月11日月曜日

元亀元年の摂津守護池田勝正の金ヶ崎・天筒山城攻めについて

7月にちょっと池田勝正について講演させていただく機会を得ていまして、現在色々と資料の整理をしています。「朝倉・浅井攻めと池田勝正」というような方向性で、内容を考えています。

普段は、仕事が終わって寝る前とか、休みの日などに、ひたすら資料を読んで調べるのですが、時々、現地に出かけてそこの環境を自分の目で確かめる事もします。
 人間が地球の重力に逆らって生きられないように、社会も周辺環境から逃れられず、その影響を受けて形成されているからです。もちろんその土地の自然環境も。城にしろ、町にしろ、街道にしろ、それぞれ複合的に関係して形成されています。そんな訳で、途中の街道様子も含めて、金ヶ崎・天筒山城の立地環境を見に、現地に行って来ました。


元亀元年4月24日、幕府・織田信長の軍勢は、若狭国境を越えて、越前国敦賀郡内の金ヶ崎・天筒山周辺の攻撃を行っていたようです。
 幕府・織田勢は、翌25日あたりから金ヶ崎・天筒山への攻撃を開始しています。その時信長は、花城山城(敦賀市櫛川)に入って督戦していたようです。信長が本陣を置いた場所はもう一ヶ所、妙顕寺(敦賀市元町)があるのですが、ここは城に近すぎるため、25日の時点では安全確保が難しく、多分最前線の本営だったように思われます。

ただ、26日には、金ヶ崎・天筒山とその南側の拠点である引壇城が落ち、安全が確保されたために、ここに信長は本営を移したようです。
最初具足山妙顕寺さん(敦賀元町)の公式ホームページ

現地に行く価値は、こういった立地条件を見る事に加えて、地元の郷土史学会などから発行された資料も見る事ができますし、そこにお住まいになって研究されている方からもお話が聞けます。気候や習慣なども直に見聞きできます。これらは、流通している資料だけではわかりません。

朝倉・浅井攻めの時の信長は、非常に慎重で、用意も周到である事から、いわゆるカケのような行動はしていなかった事がわかります。また、信長には、日野や飛鳥井などの公家衆も同行し、朝廷公認の官軍としての行動をしているからには、尚更の事だと思います。
 朝倉攻めの目的は、朝倉が官軍に弓を引くかどうか、また、浅井が噂通りにそれに呼応する動きをするかどうか、確認のための行動であった事が、実際のところではないかと思います。
 元亀元年初頭に諸大名に出した、朝廷と幕府に従うようにとの旨の公的な触れは、朝倉義景には、送っていないだろうと思います。その触れには、義景への名前がありませんし、例え送ったとして、義景がそれに従えば、攻める理由が無くなってしまいます。
 信長は、京都への交通拠点の確保と朝倉・浅井方がこの方面で押領している権利の返上(被権者への還付、返還。)を意図もしていた事と思われますので、最初から軍事侵攻以外の選択肢は持っていなかったのだろうとも思います。
 また、朝廷・幕府・権門の復古政策(ある意味、経済基盤形成支援をはじめとした融和策)もあったように思え、京都の防衛、流通に関する要素は、直接的に政権の影響力を及ぼせるように企図していたのではないかとも思えます。そうすると敦賀や小浜は必要ですし、そこにある愛発関(あらちのせき)や木ノ芽峠などは、押えておかなければいけない場所だったのかもしれません。また、近江国の海津も含まれるかもしれません。

そして、朝倉・浅井の意志を確認した信長は、京都に素早く戻り、摂津国の本願寺や三好三人衆の動きを確認しつつ、控えの軍勢約2万を以て、岐阜へ出発。岐阜にも控えていた軍勢と合流し、朝倉・浅井方に近江国姉川にて決戦を挑みます。

呉江舎「摂津池田氏:摂津守護となった池田家」もご覧下さい。




2010年12月29日水曜日

元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程

また、ちょっと元亀元年越前朝倉攻めについて考えてみます。この時、摂津守護格として、池田勝正が三千の兵を率いたとの記述から、幕府方武力の中核的な存在であったと考えられます。これ程の数を一家で出せるのは、畿内地域でも、そう多くはありません。この時、明智光秀も幕府衆として従軍していますが、単独で兵を多数率いていたわけでは無いようです。
 そういった状況の中で、池田勝正は元亀元年越前朝倉攻めに従軍する訳ですが、近江国高島郡から北への道程がはっきりしないところがあります。この高島郡は肥沃な土地で、様々な権利関係がある複雑な状況だったようです。
 西島太郎氏は朽木氏をはじめとした、この地域の研究者ですが、その論文を読むと非常に深く分析されています。大変勉強になります。宮島敬一氏は浅井氏を主に素材として研究されていて、こちらも勉強になります。
 永禄4年頃から、浅井氏が高島郡に影響力を行使しはじめ、幕府、六角、浅井氏の想いが錯綜する複雑な関係になっていったようです。
 この地域は、西佐々木七家と言われた勢力があり、佐々木越中家を筆頭に、田中、朽木、永田、能登、横山、山崎の各氏が構成していたようです。この惣領家が佐々木越中家であったと考えられています。その佐々木越中家の居城が、清水山城で、安曇川の北側にあります。
 さて、元亀元年越前朝倉攻めの時、織田信長は、高島郡に入ると、その地域筆頭の佐々木越中家の居城では無く、田中氏の居城である田中城に宿泊(本営)しています。これは、少し違和感を感じる事です。
 やはり、幕府・朝廷公式の軍勢である、引率者織田信長が高嶋郡に入ったなら、地域の筆頭である佐々木越中家がこれを迎える筈です。
※清水山城については発掘などの物理的検証が始まったばかりですし、文献史料の発掘も西島氏によってやっとはじまったところですから、史料がないだけだとは思います。

 個人的に、この時に信長が田中城に入ったのは、この地域の勢力分断があったためではないかと今のところ考えています。そのため、軍事的・政治的に重要であった高嶋郡で、敵対する動きを見定め、各地域勢力の軍勢集結地にし、物資や港の確保などといっ事も同時に行うところであったようにも考えています。

 そして信長は、そこから山手へ入り、朽木方面を経由して熊川へ。そしてもう一隊は、西近江街道を北へ進んだのではないかと考えています。
 一方、浅井氏は、既述のように湖北地域の勢力拡大の野心は持ち続けており、永禄11年12月12日の段階でも、高島郡の朽木氏に領知についての起請文を発行しています。そしてまた、翌年正月の本圀寺の戦いを経て、同年6月下旬には、六角氏の牢人が奈良方面へ現れるとも噂とともに、浅井氏が信長から離れる噂が立っています。高嶋方面の利権関係が更に緊迫していた事が想定できるように思います。

 こういった事を背景にして、元亀元年越前朝倉攻めは行われ、浅井方の影響力の強い高島郡から北へも敢えて、幕府・織田方は軍勢を進ませた可能性もあると思います。一応、公的には友好関係ですから、浅井氏は拒む事ができません。この行動にどう反応するか、幕府・織田方は確認しなければならなかったのかもしれません。

 それが、信長の田中城宿泊だったのではないかと、個人的に考えています。安曇川から北は浅井方の影響地であったのかもしれません。