国見山展望台 |
一つは、標高286.5メートルの位置に築かれた国見山城とも称された城。もう一つは、津田村そのものか、それを含む一帯の城。
このあたりは、在地領主の中原氏が勢力を持っていたようですが、次第に津田氏に取って代わられ、その津田氏三代目にあたる正明の時代に、三好長慶に属して、更に勢力を拡大したようです。
交野郡の牧八郷と茨田郡の鞆呂岐六郷を併せて一万石余りの領有と、杉・藤坂・長尾・津ノ熊・大峰などの新村も開発するなどして勢力を拡げたようです。また、奈良興福寺との関係を持ち、津田村・藤坂村・芝村・杉村・穂谷村の「侍中」を津田筑後守範長が率いていた事が、永禄2年8月20日の交野郡五ヶ郷惣待中連絡帳から明らかになっています。
津田山城内 |
その視点で見れば、国見山城は、京都まで見渡せる視界を持ちます。また、津田は交野平野ともいうべく、天野川が流れる平地一帯も見渡せ、そこを走る幾本もの街道もまた見る事ができます。
津田の旧集落(上の方) |
ところで、個人的な感想として、津田城が上と下の2つを運用していたと考えたのは、上の城である国見山城は、京都への対応のため、摂津・河内両国の連携に必要であったからと考えています。しかし、高い所の施設の維持管理には当然ながら、費用が重みます。また、人員も必要になったりしますから、そこを担当する津田氏はやはり優遇されるでしょう。
津田の集落(下の方) |
そういった理由から、城郭化せざるを得なかっただろうと思います。旧村を歩いてみると、そこここにその跡らしきものを感じます。尊光寺という津田氏一族の寺が現津田元町に存在しますので、村は津田氏と一体化した存在だったと思われます。
その後、津田氏及び津田城は、三好長慶の死後、三好三人衆と松永久秀の闘争に巻き込まれて苦悩しますが、命脈を保ったようです。
更に、将軍義昭・織田信長の時代に動乱があり、荒木村重も関わった天正3年の河内国平定の時(四代津田正時の頃)には津田村も焼かれ、勢力を縮小させながら地域の動揺に耐えていたようですが、本能寺の変の頃には明智光秀に応じたために、決定的な打撃を受けて弱体化してしまった模様です。
津田の秋の稔り |
正保郷長の村高は1,018石で、米の他に大麦・小麦・綿・菜種・芋・茶・大豆・大根などが取れ、酒造業・絞油業・素綿業が営まれました。宝暦10年(1760)には、1,317人が住む村となっており、石高と業種の多さから見ると豊かな村となっていた事がわかります。
これ程の場所ですからやはり、政治的特権を得たならば、相当に栄えた事は容易に想像ができますし、上下2つの城を持つ事も不可能ではなかっただろうと思います。