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2018年2月4日日曜日

永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻について

筆者は、但馬・因幡山名氏の事は、池田勝正も従軍したため、関心を持っています。

永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻は、複合的な目的を持っていたと考えられ、そのひとつに、山名氏の制圧もあったと思います。毛利の要請もあり、幕府の軍事行動は、協力関係を保ちながらの共通目的の遂行でもありました。
 しかし幕府・織田方の思惑には、生野銀山の支配もあったと思われます。将軍義昭政権が始動したものの、資金面も含め、無いものづくしでした。

しかし、幕府・織田方の想定通りにはいかなかったのが、歴史としての結果です。

それから、この時の事を少し細かく見ると、毛利方と敵対する、三好三人衆方に加担する赤松・浦上・宇喜多勢の牽制(龍野赤松氏支援)のために、播磨国庄山の辺りに拠点を設け、そこから軍勢を割いて、但馬山名氏制圧のために北上させているようです。
 しかし、肝心の播磨国方面の軍事作戦が失敗し、龍野赤松氏が青山合戦でまさかの敗走となったため、北上していた軍勢は逆包囲を避けて、急遽退却した。決して幕府・織田信長方が優位ではない、微妙な状況を感じ取って、山名氏とその有力者は権益確保の抵抗を行ったのではないかと考えています。

その後、同年秋に再度、池田勝正ほか摂津衆などの軍勢が播磨国に再侵攻し、龍野赤松氏の支援を行っているようです。養久の乙城の伝承がそれに関するものではないかと思います。
 それと、この時の出来事と思われる事件が『播磨国鵤莊史料』に見られます。御太子絵伝を池田衆が持ち帰ったところ、色々不吉な事が起きるので、返す。、みたいな事が書かれていて、これが永禄12年秋の事ではないかと考えています。第一次播磨侵攻では、ここまで進軍できていないため。

ですので、幕府・織田勢は、庄山あたりを拠点にして活動し、ここを突破口として様々な軍事・政治的な重要資源としていたと考えられます。幕府の官吏的使僧の朝山日乗が、庄山城から、毛利方へ状況をこと細かに報告しています。
 少なくとも、この時点では別所氏も幕府方でしたし、不可能なことではないとも思います。第二次侵攻もその線上にある要素ではないかと思われます。

一方で、元亀元年(1570)の朝倉氏攻めは、この膠着した山名氏の対策も意識して行われた、大動員を条件とした示威的軍事行動ではなかったかと思います。錦の御旗をも持ち出していますし。これがうまくいけば、山名氏の背後を脅かす勢力を形成できます。
 実は、今井宗久の音信のやり取りにもあるように、将軍義昭の意向である三好三人衆攻めも、当面の達成目標の有力候補であったようですが、この優先度を下げて、朝倉氏攻めに変更したのは、山名氏の事も意識しての事だったのではないかと考えています。

将軍義昭政権樹立後、一貫して今井宗久は、淡路・阿波国攻めを意識し、そうとう綿密でこまめに、三好三人衆方の動向を幕府に報告しています。当初、優先順位としては、こちらの方向性が有力だったと考えられます。兄である将軍義輝を弑逆した、中心人物ですから当然のことです。
 それが、急旋回するような唐突感でもって、永禄12年冬頃から翌年初頭にかけて、越前攻めになったのは、やはり前記の状況を打開するために、将軍義昭政権としての方針の変更、目的達成の優先順位を変更したと考えられます。政権基盤安定の大きな目的のために...。
 
近日に、このテーマを少し詳しく紐解いてみたいと思います。

2015年2月27日金曜日

永禄12年の但馬山名氏攻めと播磨国攻め従軍(はじめに)

永禄11年秋、足利義昭の要請に応じた織田信長を伴って入京し、第十五代室町将軍に任ぜられると、翌年から早速、政権の基盤作りを精力的に行います。
 摂津国内最有力の勢力であった池田衆は、京畿政治の中でも中心的役割を担うに足る実力を持ち、幕府からも頼りにされていました。
 正式に義昭政権が発足すると、様々な依頼も幕府に寄せられるようになり、幕府自体は決して安定しているとは言えない中でも、政権支持勢力をできるだけ取り込む、繋ぎ止めるためにもそれらに応える必要がありました。とりわけ、西国方面は常に乱れ、安定しませんでした。
 これに対応するために、街道でつながり、播磨方面とも決して浅くない関係を持つ池田家をその任に就かせたようです。池田家は守護家ですので、幕府の播磨への窓口ともいえるかもしれません。
 それらについて、以下の項目を上げ、考えてみたいと思います。
 

(1)池田勝正の播磨国担当
(2)但馬国山名氏攻めへの池田衆従軍
(3)幕府方と毛利氏との協力関係
(4)龍野赤松氏救援作戦従軍
(5)瀬戸内海北岸の三好三人衆勢力の掃討
(6)幕府による第一・第二次播磨国侵攻作戦について