2014年12月11日木曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その7:池田勝正追放後に別の当主を立てたか)

池田勝正とその時代の池田家について見ていくと、気になる事(人物)があります。後世に創作(全くの事実無根と考えている訳では無い)された家伝で、『陰徳太平記』や『中川家記』などには、元亀元年6月の池田家内訌で勝正を追った後に、別の当主を立てたかのような記述があります。これが、事実かどうか、すごく気になっていました。
 ところが、実際の当時の史料を丹念に見ていくと、どうもそれらしい人物がいる事に気がつきました。

元亀元年夏に勝正を追放後、白井河原合戦(元亀2年8月)の大勝利を経て、一時は順風が吹いたかと思われましたが、再び家中で対立が起きます。池田一族と荒木村重などのいわゆる、外様の対立となります。
 この時、池田一族は当主として民部丞なる人物を立てる、と、将軍義昭に伝えて、その支援を約したようです。その動きを伝える史料があります。また、同史料では年記を欠きますが、内容から見て元亀3年頃の事と思われます。将軍義昭が上野中務大輔秀政へ御内書を下しました。
※高知県史(古代中世史料)P652、戦国期三好政権の研究P98

-(史料1)-------------------------
今度池田民部丞召し出し候上者、(同苗筑後守)勝正身上事一切許容能わず匆(而?)詠歎に及ぶの由沙汰の限りと驚き思し召し候。曽ち以て表裏無き事之候エバ、右偽るに於いて者、八幡大菩薩・春日大明神照鑑有りて、其の罰遁るべからず候。此の通り慥かに申し聞かすべき者也。
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ご存じのように、これはこの頃の中央政権(京都)内部で、将軍義昭と織田信長が対立した事と相対した動きです。
 やはりこの時も、池田家は頼りにされおり、双方から誘いがあったようで、池田家が分裂して、池田一族は将軍義昭に、荒木村重が織田方に味方する事がわかると、それぞれの勢力から大変喜ばれています。
 織田信長に関する史料をご紹介します。元亀4年2月23日付けで織田信長が、細川兵部大輔藤孝へ音信したものです。
※織田信長文書の研究-上-P606、兵庫県史(史料編・中世9) P432など

-(史料2)-------------------------
前置き:
公儀後逆心に就き、重ねて条目祝着浅からず候、
本文:
一、塙九郎左衛門尉直政差し上せ御理り申し上げ候処、上意の趣き、条々下し成され候。(中略)一、摂津国辺の事、荒木信濃守村重信長に対し無二の忠節、相励まれるべく旨尤も候。(後略)。
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この中央政権内の対立の結果は、皆さんがご存じの結果に終わり、織田方が将軍義昭に競り勝ち、独自の政権を樹立する事となります。
 池田家も将軍義昭政権の機能停止をもって、それまでの主従の力関係、権力構成が変わります。ただそれは、急に入れ替わった訳では無く、天正2年いっぱいまでは、池田衆ブランドも侮りがたく、荒木方との競り合いはあったようです。

さて、元亀元年6月の池田家内訌直後に視点を戻します。先述の(史料1)に登場する人物と同じかどうかは現在のところ調査中ですが、民部丞某が、元亀元年7月から11月までの間に、3ヶ所に禁制を下しています。それらは何れも、池田家当主が音信したり、禁制を下したりしている実績のあるところです。
 ちなみに、文末は「仍て件の如し」で、これは直状形式といわれるもので、本人自らが書いた命令書という概念で分類されています。

先ず1つ目の史料です。この頃は、6月28日に吹田へ三好三人衆勢力が上陸する状況で、大山崎方面もこれに関連する対応を講じていたようです。 史料は元亀元年7月付けで、民部丞某が山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下しています。
※島本町史(史料編)P443など
 
-(史料3)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事並びに放火事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、国質・所質に付き沙汰之事、一、非分申し懸け族(候?)事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩に於て者、速やかに厳科に処すべき者也。仍て件の如し。
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続いて2つ目。摂津国川辺郡の多田院へ宛てて禁制を下します。この頃は、本願寺宗が反幕府方へ付き、大きく環境が変わる時期です。また、同月8日には伊丹・和田勢が、池田領内の市場などを放火したりして打ち回ります。
※川西市史4(資料編1)P456など

-(史料4)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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3つ目です。同国豊嶋郡箕面寺に宛てて禁制を下します。この頃は、幕府方の劣勢が誰の目から見ても判る時期で、同月には、南山城地域でも土一揆が活発化したりしています。 元亀元年11月5日付けで、民部丞が摂津国箕面寺に宛てて禁制を下しています。
※箕面市史(資料編2)P414

-(史料5)-------------------------
一、山林剪り採り之事、付きたり所々散在の者盗み剪り事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の漁猟制する事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨に背く輩於者、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定むる所件の如し。
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上記の禁制が発行された時期は、反幕府勢力の三好三人衆勢力が五畿内地域で勢いを盛り返し、大規模に軍事行動を起こしていました。
 そして、これらの地域や組織に禁制を下した民部丞なる人物が、全て同一人物となれば、池田勝正追放後に当主として立てた人物である可能性は非常に高くなると考えています。同時に、伝承記録は正確な部分もあるという事も判明します。

この人物比定については、近日に明らかにする予定ですのでご期待下さい。この人物は、これまでに誰も特定していませんので、同一人物か否かがハッキリすれば、次の可能性に移る事ができ、摂津池田家についての研究は、更に一歩進む事と期待しています。



※ただいま記事(5・6・8分)を執筆中