池田家中(若しくは荒木家中)にあった甲賀谷正長も、その流れの中で、自身の役割りと能力を生かして活動していたと思われます。甲賀谷氏と深い繫がりがあると考えられる「甲賀伊賀守」についての記述を参考までにご紹介しておきます。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)
(資料7)-----------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
-----------------------(資料7おわり)
上記は伝聞資料ではありますが、ある程度正確に記述されていると考えられます。また、時代もハッキリと記されていませんが、本拠地機能を拡大・移転させるにあたり、荒木村重が伊丹の有岡城を稼働させた天正3年頃を区切りに記述したものと考えられます。
個人的には、荒木村重が池田家から身を起こして地域勢力の主導権を確立して行く中での統治・支配体制(軍事的にも)ではないかと考えています。
当時の発行史料から見れば、池田一族が中心であった頃の統治機構(池田四人衆:家老)はこのメンバーでは無い事が明らかです。
記述にある「池田の城伊丹へ引さる先」とは、天正3年秋以降の事を指すと思われますが、流れとしては、天正元年の8月頃に、村重を「摂津守護に目す(正式では無いが)」公言があったようで、それを元に様々な状況変化が起きています。
織田信長の期待通りに行動した村重は、天正3年8月頃に「摂津守」を正式任官し、名実共にその座に就いています。その頃には、地域政権の体制ができていたようですが、そこに至るまでの黎明期には、地域に影響力のある人物を立てざるを得ませんので、村重に理解のある旧池田勢力を活用したのだろうと思われます。それが記述に見られる、「右五人之家老町ニ住ス」顔ぶれだったのかもしれません。
本拠機能が伊丹の有岡城に移ってからも、池田でのこの体制は続いたと思われます。「池田と伊丹は一対の城」と記述されてもおり、池田は非常に重要視されていましたので、配置の人選も念を入れたものになっていたことでしょう。
また、天正6年秋、荒木村重が織田政権から離叛し、池田の町に戦火が及んだ様子が伝承されていますので、以下にご紹介します。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 本』)
(資料8)-----------------------
一、天正之乱■当国大形在々所々三日三夜之内中二焼き払われ方々へ逃げちらし金銀たくわへ有人は他国二住ス也。一、此時池田之人々他国へ行も有、池田山のうしろ丸尾はばと云所二小屋かけ住、折々里へ下り耕作つくり住人八十余有、雨降時ハ長櫃二置かがみ住人も有、作り付たる田を伊丹より夜ル来刈とらるる人も有。
■ = 欠字
-----------------------(資料8おわり)
このように、織田政権から離叛した荒木村重は、滅ぼされてしまいます。伊丹や池田、尼崎など主要な都市は攻め落とされて、町も大きな被害を受けました。
池田の町の「甲賀谷」とは、甲賀伊賀守をはじめとした、甲賀地域から人々が移り住んだことがキッカケで地名となったと思われます。その地に関わりの深い人物が、甲賀谷氏であろうことは、自然な流れとして起きた事と考えられます。
しかし、その後、織田信長も斃れますが、時代は大きく動き、日本国全体は武力統一されて平和な世が訪れます。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)
(資料7)-----------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
-----------------------(資料7おわり)
摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による) |
個人的には、荒木村重が池田家から身を起こして地域勢力の主導権を確立して行く中での統治・支配体制(軍事的にも)ではないかと考えています。
当時の発行史料から見れば、池田一族が中心であった頃の統治機構(池田四人衆:家老)はこのメンバーでは無い事が明らかです。
記述にある「池田の城伊丹へ引さる先」とは、天正3年秋以降の事を指すと思われますが、流れとしては、天正元年の8月頃に、村重を「摂津守護に目す(正式では無いが)」公言があったようで、それを元に様々な状況変化が起きています。
織田信長の期待通りに行動した村重は、天正3年8月頃に「摂津守」を正式任官し、名実共にその座に就いています。その頃には、地域政権の体制ができていたようですが、そこに至るまでの黎明期には、地域に影響力のある人物を立てざるを得ませんので、村重に理解のある旧池田勢力を活用したのだろうと思われます。それが記述に見られる、「右五人之家老町ニ住ス」顔ぶれだったのかもしれません。
本拠機能が伊丹の有岡城に移ってからも、池田でのこの体制は続いたと思われます。「池田と伊丹は一対の城」と記述されてもおり、池田は非常に重要視されていましたので、配置の人選も念を入れたものになっていたことでしょう。
また、天正6年秋、荒木村重が織田政権から離叛し、池田の町に戦火が及んだ様子が伝承されていますので、以下にご紹介します。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 本』)
(資料8)-----------------------
一、天正之乱■当国大形在々所々三日三夜之内中二焼き払われ方々へ逃げちらし金銀たくわへ有人は他国二住ス也。一、此時池田之人々他国へ行も有、池田山のうしろ丸尾はばと云所二小屋かけ住、折々里へ下り耕作つくり住人八十余有、雨降時ハ長櫃二置かがみ住人も有、作り付たる田を伊丹より夜ル来刈とらるる人も有。
■ = 欠字
-----------------------(資料8おわり)
このように、織田政権から離叛した荒木村重は、滅ぼされてしまいます。伊丹や池田、尼崎など主要な都市は攻め落とされて、町も大きな被害を受けました。
池田の町の「甲賀谷」とは、甲賀伊賀守をはじめとした、甲賀地域から人々が移り住んだことがキッカケで地名となったと思われます。その地に関わりの深い人物が、甲賀谷氏であろうことは、自然な流れとして起きた事と考えられます。
しかし、その後、織田信長も斃れますが、時代は大きく動き、日本国全体は武力統一されて平和な世が訪れます。