2013年6月24日月曜日

池田四人衆から三人衆へ

<概要>
元亀元年(1570)6月、摂津国守護所である池田城内において内訌が発生。同国守護職であり、池田家当主でもあった池田勝正は、重臣集団から追放されて城を出ました。
 池田衆は、将軍義昭を中心とする幕府方に忠誠を尽くして東奔西走しましたが、過酷な政権維持環境のために家中が動揺しました。
 そこに旧誼を頼って三好三人衆が調略を行った結果、池田家中はその誘いに乗ったようです。これらの交渉は越前国朝倉氏討伐のため、勝正が留守にしていた時期を狙って行われていたようです。

その池田衆の越前国出陣では、3,000もの兵を出しているにも関わらず織田信長は、池田衆を信用せず、万一のためとして人質を出す事を要求しました。
 この事で池田家中の議論は紛糾し、誰を人質として出すのかでも、意見が分かれたのかもしれません。兎に角、池田四人衆の内、勝正親派と考えられる人物2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)が殺害されました。しかしながら勝正は殺されませんでした。勝正は池田城を出、能勢街道を南に辿って刀根山を経て、大坂方面へ落ちたとされています。勝正は一旦、原田城に入ったのかもしれません。
 池田家中で内訌の起きた18日、この日は将軍義昭が近江国高島郡への出陣のため、京都を出る事が予定されていた日でもありました。この事態を幕府は深刻に受け止め、池田家中の内訌の報に接すると、出陣延期の旨の触れを出しました。
 朝倉・浅井氏との戦争では将軍義昭の動座が必要であり、いわゆる「姉川合戦」は、幕府として勝たなければならない決戦と目していました。
 そしてまた、将軍義昭の出陣が予定されていたのですから、その予定日に向けて、軍勢や様々な手配が行われていた事でしょう。遅くてもその前日には兵を率いて京都に入り、打ち合わせや軍容等を調える必要があった筈です。
 出陣の延期(結果的に中止)は、池田衆が大きな要素を支えていた事を示すものとも想定できます。

その後勝正は、18日の内訌発生以来、暫く史料上には現れず、26日になって河内国守護の三好義継を伴って入京し、将軍と対面しています。勝正はこの7日の間、様々な対応や調整を行っていたと思われます。ですから勝正入京の目的は、将軍義昭への事態の報告であろうと考えられます。勝正はこの後、一貫して幕府方として行動しています。

家政機関の変遷
<(a)後任当主擁立時代>
他方、三好三人衆方となった池田衆は、勝正追放直後は「民部丞」なる、新たな当主を立てていた可能性もあります。

<(b)多人数合議制時代>
しかし間もなく淘汰され、当主を置かない多人数の合議的体制で家政を執るようになったと見られます。
 それが「池田二十一人衆」と伝わった集団であり、小河出羽守家綱を始めとする20名の池田家中の人々による欠年(元亀2年と個人推定)6月24日付け連署状(『中之坊文書』)であろうと考えられます。
 ちなみに「小河家綱」とは、池田家中ではあまり聞いた事の無い人物で、宛先(摂津国有馬郡湯山年寄中)への影響力を持つ外部の人物かもしれません。

<(c)池田三人衆時代>
しかし、これ程の人数が居ては意思決定が遅くなるため、更に体制の変更が行われて、三人衆体制になったと考えられます。元亀2年春頃からそういった動きがあったのではないかと考えています。
 3人とは、多数決制を利用する場合に都合の良い奇数であり、意思決定機関としての意見が割れる事態を避けられる点で理想的であり、役割分担も好都合である事が多いでしょう。また、この「三人衆」制は、三好三人衆をモデルにしたのかもしれません。実際にこの体制で数年間、家政を運営し、実績もありました。
 もちろん池田三人衆は、各々に家中で求心力のある棟梁的な人物であった事は間違いありません。そしてこの池田三人衆体制が、割と短期間の内に結果を出す事になります。それが元亀2年8月の「白井河原合戦」です。
 伝承記録なども参考にすると、この時荒木村重は、まだ新参的な立場であったらしく、囮役という危険な役を買って出ましたが、この事で大勝利につながった事から、一躍、近隣にも名を知られる程になります。
 池田三人衆体制は、池田家の劣勢をはね除け、しかも勝正よりも更に広い版図を築いたのですから、これ程の実利はありません。

<(d)池田三人衆分裂時代>
しかし間もなく、頼りにしていた三好三人衆も分裂を始めて衰退し始めます。元亀3年の夏から秋頃、運命共同体であった池田衆もそれに相対するように分裂を始めます。
 「池田一族派」対「荒木村重派」という構図となったようです。そのキッカケは、いわゆる「よそもん(部外者)」かもしれません。状況が複雑で、根深くなったため、感情が先行する事は現在でもよくある事です。
 ここで各派の習性が象徴的というか、興味深い方向へ進みます。池田一族派は、一度廃嫡したとも思われる「民部丞」を再び担ぎ出す動きを見せます。
 ちょうどこの時、幕府内でも将軍義昭と織田信長との内訌があり、分裂していました。この動きの中で、双方が親派作りに腐心し、有力諸家の争奪戦を繰り広げます。
 池田一族派は、この流れの中で将軍義昭方に活路を見出します。将軍義昭はこれを喜び、池田一族派を側近に取り立てるなど、優遇します。
 一方の荒木村重派は、細川藤孝を通じて織田方となり、信長を喜ばせます。また、村重は高槻城の内訌を実行に移して織田方勢力にするなどの手土産付きでしたから、随分と耳目を集めたようです。村重は、白井河原合戦から連続する要素を利用したのかもしれません。

元亀4年7月18日、将軍義昭の籠る山城国槙島城が織田方に攻められて落ち、降伏した事から、室町幕府は機能を停止します。
 これにより、池田家中の争いも決着がつき、荒木村重の時代が幕を明ける事となりました、池田家の歴史も、この時をもって終わったといえます。

同月28日、元号は「天正」と変わり、それが池田家の終わりと、荒木村重時代の到来のハッキリとした区切りとなりました。

<(e)摂津池田家の滅亡>
天正の世になってからの京都を中心とする五畿内情勢ですが、実は、天正2年頃までは決定的な要素を欠いてもいたために、まだ、将軍義昭の残党が本願寺方の協力などを得て活動していました。そのため、池田衆もその集団に属して活動していたようです。
 しかし、天正3年になるとその決着がつき、史料上でも活動が見られなくなります。この頃に池田衆としての活動は、本当の意味で閉じたと考えられます。




2013年6月16日日曜日

池田四人衆について

<概要>
池田四人衆とは、国人であった摂津国池田家が、戦国大名として成長する過程で生まれた、家政機関です。
 四人衆制度は池田信正が当主であった時代に生まれ、長正、勝正の代まで機能していました。
 元亀元年6月の池田家内訌で、当主の勝正が追放され、その時に四人衆も再編されます。その後もその機構を受け継いだ状態で三人衆体制と集約されますが、その時には時代の要請に応えられない状態となってしまい、機能不全に陥ります。
 そうなると、家政運営もうまくいかなくなり、結局は血(血統や家系)の争いとなって自滅してしまう事となりました。ですので、四人衆制度の誕生から終焉までを見た時、勝正追放事件を以て、四人衆制度は一旦閉じたカタチとなります。

各時代の体制
<(1)信正時代>
当主信正が、池田家を発展させる過程で当主を補佐する目的で、一族の中から池田勘右衛門尉正村・同苗十郎次郎正朝・同苗山城守基好・同苗紀伊守正秀の4名がその任にあたったと考えられます。
 多分、信正は京都に居た管領の側に仕えるために常駐する必要が出たためで、国元での池田に当主と同等の家政執行機関が必要になって編成されたのでしょう。
 その後、信正が不本意に管領細川晴元に切腹させられると、次の後継問題で家中が分裂してしまいます。
 
<(2)対立時代>
この時、四人衆が擁立する当主候補である孫八郎と、別の当主候補である長正が対立します。その過程で、それぞれが別々の運営体制を持つ事となり、それが暫く続きます。その時間が、立場の固定化を招きました。
 それから、この長正の代で荒木氏の登用があったようで、長正の重臣として書状などの公文書も発行しています。この荒木氏の何れかの家系が、荒木村重につながると見られます。
 
<(3)長正時代>
しかしながら、四人衆が当主として推す孫八郎は、弘治3年に病気など、何らかの理由で死亡します。近世への幕開け的な時代でもあり、家中が分裂している場合でもなかった事から、それらを悟ったのか、四人衆と長正は和解したようです。
 これにより、当主は正式に長正となり、家政機関も再編されます。しかし、この時、長正の成長に功労のあった荒木氏を中枢機関から外す事はできなかったらしく、一族の外からの登用となって、四人衆と荒木氏が同じような立場での体制となったようです。
 これは近世に近づくにつれて、政治の要望が、「大量に」「迅速に」、移動や管理が求められるようになり、人員が不足していた事にもよるのかもしれません。
 何れにしても、池田家中の大きな問題が克服されるにあたっては、その取り巻く環境に対応させて解決を図ったのでしょう。この再編の過程で、人材の登用も積極化したのかもしれません。
 そんな矢先、当主の長正が死亡します。永禄6年2月頃のようです。
 
<(4)勝正時代>
この時は、後継者が予め決まっていたようで、スムーズに代替りが行われています。
 しかしながら、若干の波乱はあり、四人衆の内2名(池田勘右衛門尉正村・同苗山城守基好)が勝正により粛正され、新たに勝正親派の人材が2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)加わります。
 この2名を加える事で、その他の荒木氏とのバランスを変える意図があったのかもしれません。意思決定機関の多数派工作の可能性もあります。何れにしてもこの事で結果的に、荒木氏の池田家中での立場は更に強くなったといえます。
 勝正は、結束するための摂理の整理、つまり、人員の整備をする事無く、長正からの制度をそのまま引き継いでしまったために、議論の収拾ができなくなったのかもしれません。これは時代のセイかもしれませんが、勝正の当主時代に一度、大きな内訌が起きています。
 しかしながら、勝正の代では歴代の中で最大の版図を築くまでに成長します。河内・大和国など、近隣でも知られた存在になっています。
 そんな事もあり、問題の種は見えなくなり、うやむやになってしまいます。

そして間もなく、織田信長の入京という日本史の中でも画期の時代を迎え、その対応を迫られました。やはりそれは非常な難題で、結局は家中での議論が紛糾し、闘争となってしまいました。
 元亀元年6月、越前国朝倉氏討伐から戻ったところで、池田家中の内訌が起きてしまいました。この時、池田家は摂津守護職を任されていた事もあり、守護所での騒動発生は、室町幕府内でも動揺が広がったようです。
 問題の種は時間が成長させ、芽を出し、花を咲かせたのです。

京都奪還を目論む三好三人衆が勢いを増し、旧誼を通じて池田家の調略を行いました。大坂の本願寺には、同じ日野家の縁を通じて三好三人衆に加担する近衛前久が起居もしていました。近衛氏は藤原氏の筆頭で、同じ藤原家系の池田家はこれらの縁故に何らかの活路を見出したのかもしれません。

これらの詳しくは、また別の機会を設けたいと思いますが、この勝正の追放を以て、池田家の歴史は終焉に等しい状態に陥ります。良かれと思ってした事が、結局は混乱を招き、その後の池田家中は更に短い間隔で内訌を繰り返すようになります。

長くなりましたので、続きはまた後で。少々お待ち下さい。次は、元亀元年6月の内訌後から、池田家滅亡までのをご案内します。




2013年6月15日土曜日

荒木村重など、池田一族が署名した『中之坊文書』について

有馬城跡から有馬の町を見る
摂津国有馬郡湯山年寄中に宛てた、荒木村重など池田家中の諸侍が署名した『中之坊文書*』は、非常に重要な史料です。
 しかし、残念ながら年記を欠き、6月24日とのみあるだけで、何時の事なのか不明です。ですので、研究は進んでいません。この史料は神戸市のとある個人さんの所蔵史料で、私も一度実物を拝見したいと思いつつ、未だ実現には至っていません。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180などにあります。
 
同史料は京都を含む、当時の首都の歴史、地域史にとっては非常に重要な史料です。特に、私の研究している池田勝正にとっては、言うまでもなく重要です。
 冷静に考えると、京都の政治にとっても重要なのですから、日本の歴史にとっても重要なはずですが、どうもそのあたりが、うまく連動していないようです。時代的には、京都で政権地盤を築く織田信長の黎明期の範囲に入ります。

現在の有馬城跡
ところで、湯山とは、今の神戸市北区有馬温泉町です。
 
さて、この『中之坊文書』については、若干の推定と通説、間違いが存在しています。ご存知の方も多いと思いますが、それらをご紹介しておきたいと思います。

  1. この史料は兵庫県史などにより、元亀元年のものと管見の消極的な推定がされています。
  2. 元亀元年6月の池田家内訌時に、当主の勝正が追放された後に発行された、池田二十一人衆によるもの、との通説があります。
  3. 史料によっては翻刻に誤字があります。また、史料中の「卜」の文字が読めず、欠字扱いになっています。

(1)の推定は(2)の通説を含め、双方は発想の連動があるようですが、どちらも当時の史料を見比べると、完全に推定が一致するとは言い難いように思います。

というのは、以下の理由があります。
    (a)池田二十一人衆とは、当時の史料に出て来ない。出てくるのは伝聞史料で、二十一人衆として『言継卿記』に、三十六人衆として『多聞院日記』に、どちらも一度だけ確認できる。よって、家政機関として近隣に周知されておらず、機能もしていなかったと思われる。
    (b)署名人数は20人しかおらず、小河出羽守家綱は、池田家中とは別の人物の可能性がある。
    (c)荒木村重が「池田」姓を用い、信濃守の官途を名乗る理由を考える必要がある。
    (d)元亀元年の池田家内訌の直後には、勝正の後継者が立てられていたとの伝承があり、その確認が出来ていない。史料上ではそれらしき「民部丞」なる人物が確認できる。

      ところで、『中之坊文書』の内容をご紹介しておきます。
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      本文:
      湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
      署名部分:
      小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、菅野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
      --------------------------------
      となっています。

      本文は、非常に短いですが、それについて20人もの人々が署名しています。また、湯山の集落政治のまとめ役の人々が、随分と馳走を申し出た事について、少しも疎かには扱わない。恐れ入り謹しんでお伝えします。と池田の人々は伝えています。

      こういった状況から、この時の池田家中は、突出した当主が居らず、合議的体制で一時的に運営されていたとも考えられます。当主の書状に添えて発行される副状にしては、人の数が多過ぎます。

      白井河原古戦場付近
      それを踏まえ、前記の(a)〜(d)を満たす時期を考えてみると、元亀2年ではないかと、個人的には考えています。ということは、そうです、白井河原合戦の直前になります。この史料は、同合戦に連なる動きから出た行動だったのではないでしょうか。場所としても「湯山」は、主要街道を通す要所で、池田ともつながりの浅く無い地域です。
       ここから協力(馳走)を取付ける事ができれば、池田衆は憂い無く大軍を東に投入できる環境が調います。

      6月下旬といえば、今の暦で言うと、8月上旬頃で、そろそろ稲の作況を見る時期です。そんな時期に池田衆は、何らかの交渉を行っているのです。
       また、ちなみに連署の顔ぶれは、白井河原合戦の様子を描いた伝記等でも見られます。

      郡山城跡付近から西国街道を見る
      そして見事に池田衆は、白井河原合戦に勝利し、支配地を東へ大きく拡大させる事となります。湯山の年寄衆も池田家へ加担した事を喜び、行く末に明るい未来を感じた事でしょう。

      『中之坊文書』について、個人的にはそのようなストーリーを組み立てています。同文書については、論文を書き、近い内に皆さんにもご覧いただければと考えていますので、ご興味をお持ちの方は、お楽しみにお待ち下さい。