<概要>
元亀元年(1570)6月、摂津国守護所である池田城内において内訌が発生。同国守護職であり、池田家当主でもあった池田勝正は、重臣集団から追放されて城を出ました。
池田衆は、将軍義昭を中心とする幕府方に忠誠を尽くして東奔西走しましたが、過酷な政権維持環境のために家中が動揺しました。
そこに旧誼を頼って三好三人衆が調略を行った結果、池田家中はその誘いに乗ったようです。これらの交渉は越前国朝倉氏討伐のため、勝正が留守にしていた時期を狙って行われていたようです。
その池田衆の越前国出陣では、3,000もの兵を出しているにも関わらず織田信長は、池田衆を信用せず、万一のためとして人質を出す事を要求しました。
この事で池田家中の議論は紛糾し、誰を人質として出すのかでも、意見が分かれたのかもしれません。兎に角、池田四人衆の内、勝正親派と考えられる人物2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)が殺害されました。しかしながら勝正は殺されませんでした。勝正は池田城を出、能勢街道を南に辿って刀根山を経て、大坂方面へ落ちたとされています。勝正は一旦、原田城に入ったのかもしれません。
池田家中で内訌の起きた18日、この日は将軍義昭が近江国高島郡への出陣のため、京都を出る事が予定されていた日でもありました。この事態を幕府は深刻に受け止め、池田家中の内訌の報に接すると、出陣延期の旨の触れを出しました。
朝倉・浅井氏との戦争では将軍義昭の動座が必要であり、いわゆる「姉川合戦」は、幕府として勝たなければならない決戦と目していました。
そしてまた、将軍義昭の出陣が予定されていたのですから、その予定日に向けて、軍勢や様々な手配が行われていた事でしょう。遅くてもその前日には兵を率いて京都に入り、打ち合わせや軍容等を調える必要があった筈です。
出陣の延期(結果的に中止)は、池田衆が大きな要素を支えていた事を示すものとも想定できます。
その後勝正は、18日の内訌発生以来、暫く史料上には現れず、26日になって河内国守護の三好義継を伴って入京し、将軍と対面しています。勝正はこの7日の間、様々な対応や調整を行っていたと思われます。ですから勝正入京の目的は、将軍義昭への事態の報告であろうと考えられます。勝正はこの後、一貫して幕府方として行動しています。
<(a)後任当主擁立時代>
他方、三好三人衆方となった池田衆は、勝正追放直後は「民部丞」なる、新たな当主を立てていた可能性もあります。
<(b)多人数合議制時代>
しかし間もなく淘汰され、当主を置かない多人数の合議的体制で家政を執るようになったと見られます。
それが「池田二十一人衆」と伝わった集団であり、小河出羽守家綱を始めとする20名の池田家中の人々による欠年(元亀2年と個人推定)6月24日付け連署状(『中之坊文書』)であろうと考えられます。
ちなみに「小河家綱」とは、池田家中ではあまり聞いた事の無い人物で、宛先(摂津国有馬郡湯山年寄中)への影響力を持つ外部の人物かもしれません。
<(c)池田三人衆時代>
しかし、これ程の人数が居ては意思決定が遅くなるため、更に体制の変更が行われて、三人衆体制になったと考えられます。元亀2年春頃からそういった動きがあったのではないかと考えています。
3人とは、多数決制を利用する場合に都合の良い奇数であり、意思決定機関としての意見が割れる事態を避けられる点で理想的であり、役割分担も好都合である事が多いでしょう。また、この「三人衆」制は、三好三人衆をモデルにしたのかもしれません。実際にこの体制で数年間、家政を運営し、実績もありました。
もちろん池田三人衆は、各々に家中で求心力のある棟梁的な人物であった事は間違いありません。そしてこの池田三人衆体制が、割と短期間の内に結果を出す事になります。それが元亀2年8月の「白井河原合戦」です。
伝承記録なども参考にすると、この時荒木村重は、まだ新参的な立場であったらしく、囮役という危険な役を買って出ましたが、この事で大勝利につながった事から、一躍、近隣にも名を知られる程になります。
池田三人衆体制は、池田家の劣勢をはね除け、しかも勝正よりも更に広い版図を築いたのですから、これ程の実利はありません。
<(d)池田三人衆分裂時代>
しかし間もなく、頼りにしていた三好三人衆も分裂を始めて衰退し始めます。元亀3年の夏から秋頃、運命共同体であった池田衆もそれに相対するように分裂を始めます。
「池田一族派」対「荒木村重派」という構図となったようです。そのキッカケは、いわゆる「よそもん(部外者)」かもしれません。状況が複雑で、根深くなったため、感情が先行する事は現在でもよくある事です。
ここで各派の習性が象徴的というか、興味深い方向へ進みます。池田一族派は、一度廃嫡したとも思われる「民部丞」を再び担ぎ出す動きを見せます。
ちょうどこの時、幕府内でも将軍義昭と織田信長との内訌があり、分裂していました。この動きの中で、双方が親派作りに腐心し、有力諸家の争奪戦を繰り広げます。
池田一族派は、この流れの中で将軍義昭方に活路を見出します。将軍義昭はこれを喜び、池田一族派を側近に取り立てるなど、優遇します。
一方の荒木村重派は、細川藤孝を通じて織田方となり、信長を喜ばせます。また、村重は高槻城の内訌を実行に移して織田方勢力にするなどの手土産付きでしたから、随分と耳目を集めたようです。村重は、白井河原合戦から連続する要素を利用したのかもしれません。
元亀4年7月18日、将軍義昭の籠る山城国槙島城が織田方に攻められて落ち、降伏した事から、室町幕府は機能を停止します。
これにより、池田家中の争いも決着がつき、荒木村重の時代が幕を明ける事となりました、池田家の歴史も、この時をもって終わったといえます。
同月28日、元号は「天正」と変わり、それが池田家の終わりと、荒木村重時代の到来のハッキリとした区切りとなりました。
<(e)摂津池田家の滅亡>
天正の世になってからの京都を中心とする五畿内情勢ですが、実は、天正2年頃までは決定的な要素を欠いてもいたために、まだ、将軍義昭の残党が本願寺方の協力などを得て活動していました。そのため、池田衆もその集団に属して活動していたようです。
しかし、天正3年になるとその決着がつき、史料上でも活動が見られなくなります。この頃に池田衆としての活動は、本当の意味で閉じたと考えられます。
元亀元年(1570)6月、摂津国守護所である池田城内において内訌が発生。同国守護職であり、池田家当主でもあった池田勝正は、重臣集団から追放されて城を出ました。
池田衆は、将軍義昭を中心とする幕府方に忠誠を尽くして東奔西走しましたが、過酷な政権維持環境のために家中が動揺しました。
そこに旧誼を頼って三好三人衆が調略を行った結果、池田家中はその誘いに乗ったようです。これらの交渉は越前国朝倉氏討伐のため、勝正が留守にしていた時期を狙って行われていたようです。
その池田衆の越前国出陣では、3,000もの兵を出しているにも関わらず織田信長は、池田衆を信用せず、万一のためとして人質を出す事を要求しました。
この事で池田家中の議論は紛糾し、誰を人質として出すのかでも、意見が分かれたのかもしれません。兎に角、池田四人衆の内、勝正親派と考えられる人物2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)が殺害されました。しかしながら勝正は殺されませんでした。勝正は池田城を出、能勢街道を南に辿って刀根山を経て、大坂方面へ落ちたとされています。勝正は一旦、原田城に入ったのかもしれません。
池田家中で内訌の起きた18日、この日は将軍義昭が近江国高島郡への出陣のため、京都を出る事が予定されていた日でもありました。この事態を幕府は深刻に受け止め、池田家中の内訌の報に接すると、出陣延期の旨の触れを出しました。
朝倉・浅井氏との戦争では将軍義昭の動座が必要であり、いわゆる「姉川合戦」は、幕府として勝たなければならない決戦と目していました。
そしてまた、将軍義昭の出陣が予定されていたのですから、その予定日に向けて、軍勢や様々な手配が行われていた事でしょう。遅くてもその前日には兵を率いて京都に入り、打ち合わせや軍容等を調える必要があった筈です。
出陣の延期(結果的に中止)は、池田衆が大きな要素を支えていた事を示すものとも想定できます。
その後勝正は、18日の内訌発生以来、暫く史料上には現れず、26日になって河内国守護の三好義継を伴って入京し、将軍と対面しています。勝正はこの7日の間、様々な対応や調整を行っていたと思われます。ですから勝正入京の目的は、将軍義昭への事態の報告であろうと考えられます。勝正はこの後、一貫して幕府方として行動しています。
家政機関の変遷 |
他方、三好三人衆方となった池田衆は、勝正追放直後は「民部丞」なる、新たな当主を立てていた可能性もあります。
<(b)多人数合議制時代>
しかし間もなく淘汰され、当主を置かない多人数の合議的体制で家政を執るようになったと見られます。
それが「池田二十一人衆」と伝わった集団であり、小河出羽守家綱を始めとする20名の池田家中の人々による欠年(元亀2年と個人推定)6月24日付け連署状(『中之坊文書』)であろうと考えられます。
ちなみに「小河家綱」とは、池田家中ではあまり聞いた事の無い人物で、宛先(摂津国有馬郡湯山年寄中)への影響力を持つ外部の人物かもしれません。
<(c)池田三人衆時代>
しかし、これ程の人数が居ては意思決定が遅くなるため、更に体制の変更が行われて、三人衆体制になったと考えられます。元亀2年春頃からそういった動きがあったのではないかと考えています。
3人とは、多数決制を利用する場合に都合の良い奇数であり、意思決定機関としての意見が割れる事態を避けられる点で理想的であり、役割分担も好都合である事が多いでしょう。また、この「三人衆」制は、三好三人衆をモデルにしたのかもしれません。実際にこの体制で数年間、家政を運営し、実績もありました。
もちろん池田三人衆は、各々に家中で求心力のある棟梁的な人物であった事は間違いありません。そしてこの池田三人衆体制が、割と短期間の内に結果を出す事になります。それが元亀2年8月の「白井河原合戦」です。
伝承記録なども参考にすると、この時荒木村重は、まだ新参的な立場であったらしく、囮役という危険な役を買って出ましたが、この事で大勝利につながった事から、一躍、近隣にも名を知られる程になります。
池田三人衆体制は、池田家の劣勢をはね除け、しかも勝正よりも更に広い版図を築いたのですから、これ程の実利はありません。
<(d)池田三人衆分裂時代>
しかし間もなく、頼りにしていた三好三人衆も分裂を始めて衰退し始めます。元亀3年の夏から秋頃、運命共同体であった池田衆もそれに相対するように分裂を始めます。
「池田一族派」対「荒木村重派」という構図となったようです。そのキッカケは、いわゆる「よそもん(部外者)」かもしれません。状況が複雑で、根深くなったため、感情が先行する事は現在でもよくある事です。
ここで各派の習性が象徴的というか、興味深い方向へ進みます。池田一族派は、一度廃嫡したとも思われる「民部丞」を再び担ぎ出す動きを見せます。
ちょうどこの時、幕府内でも将軍義昭と織田信長との内訌があり、分裂していました。この動きの中で、双方が親派作りに腐心し、有力諸家の争奪戦を繰り広げます。
池田一族派は、この流れの中で将軍義昭方に活路を見出します。将軍義昭はこれを喜び、池田一族派を側近に取り立てるなど、優遇します。
一方の荒木村重派は、細川藤孝を通じて織田方となり、信長を喜ばせます。また、村重は高槻城の内訌を実行に移して織田方勢力にするなどの手土産付きでしたから、随分と耳目を集めたようです。村重は、白井河原合戦から連続する要素を利用したのかもしれません。
元亀4年7月18日、将軍義昭の籠る山城国槙島城が織田方に攻められて落ち、降伏した事から、室町幕府は機能を停止します。
これにより、池田家中の争いも決着がつき、荒木村重の時代が幕を明ける事となりました、池田家の歴史も、この時をもって終わったといえます。
同月28日、元号は「天正」と変わり、それが池田家の終わりと、荒木村重時代の到来のハッキリとした区切りとなりました。
<(e)摂津池田家の滅亡>
天正の世になってからの京都を中心とする五畿内情勢ですが、実は、天正2年頃までは決定的な要素を欠いてもいたために、まだ、将軍義昭の残党が本願寺方の協力などを得て活動していました。そのため、池田衆もその集団に属して活動していたようです。
しかし、天正3年になるとその決着がつき、史料上でも活動が見られなくなります。この頃に池田衆としての活動は、本当の意味で閉じたと考えられます。