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2023年5月21日日曜日

摂津国人池田信正が、天文16年に摂津国榎並庄にあった大金剛院(赤川寺)の「大般若経六百巻」を同国豊嶋郡の久安寺に寄進した事についての考察

偶然の出会いであった、大坂本願寺五十一支城の一つとされている伝葱生(なぎう)城を調べる内に、その付近にあった赤川寺と摂津池田家との関わりが浮かび上がり、これまた電撃的な、嬉しい出会いとなった事、非常に驚いています。
 赤川寺にしても葱生城にしても、両要素は摂津国榎並庄にあります。ここにある榎並城は、三好政長が居城しており、この人物は池田信正の義理の父親にあたります。要するに妻の父親、信正の舅です。ですので、榎並庄は、摂津池田家にとっても非常に関係の深い場所でもあります。
 この際、詳しく見て、これまでに知り得た要素の整理と再検討、また、今後の備えにもしておきたいと思います。先ずは、もう一度、赤川寺(大金剛院)と般若寺について見ておきたいと思います。
※大阪府の地名1-P610(赤川廃寺跡)

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◎赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
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この「大般若経」の奥書によると、寛喜2年(1230)に完成した経典600巻をその300年余り後の天文16年(1547)に池田信正が、摂津国豊嶋郡の久安寺(現池田市)へ寄進しています。この久安寺は、信正の居城池田城からも至近にある大寺院です。
 信正が西成郡(東成郡とも)の大金剛院(赤川寺)にあった大般若経を知り、久安寺に寄進するという経緯はどのような理由によるものだったのでしょうか。豊嶋郡の久安寺について、一旦、以下に示しておきます。
※大阪府の地名1-P319

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久安寺楼門
高野山真言宗。大澤山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
 天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
 文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書く(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
 文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる。
 境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
 慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
 楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。(中略)。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。
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久安寺は真言宗。大金剛院(赤川寺)は、天台宗です。その当時は、宗派が違ったかもしれませんが、両寺とも興りは古く、また、「般若経典」は、どちらの宗派も共通して尊ばれています。
 一方、この時代には、摂津池田家の菩提寺は塩増山大広寺としていたようですので、池田領内にあった久安寺などの大寺院とも、付き合いや親交があったのでしょう。

続いて、榎並庄について見てみましょう。ここは摂津池田家とも非常に関係の深い場所でもあり、長文になりますが、榎並庄部分を全文引用しておきます。
※大阪府の地名1-P625(城東区)

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現城東区野江・関目付近を中心とし、かつての大和川と淀川の合流点に近い低地帯に存在した大規模な庄園。もと東成郡に属するが正確な庄域は定めがたい。近世には淀川南東、鯰江川以北の摂州25村を榎並庄と称しており(摂津志・享保八年摂州榎並河州八箇両荘之地図)、現旭区・都島区のほぼ全域と、城東区北半、鶴見区の一部にあたる。野江村の水神社付近には中世榎並城があったといわれ、馬場村(現旭区)の集落部を字榎並というのが注目される。

〔摂関家領〕
「法隆寺別当次第」に長元8年(1035)から長暦3年(1039)まで法隆寺別当をつとめた久円が、その任中に西大門を造立するため「榎並荘一所」を売却したとみえる。しかし榎並庄には法隆寺だけではなく多くの領主の所領が錯綜していたらしい。承暦4年(1080)に当庄をめぐって内大臣藤原信長と信濃守藤原敦憲との間に争論が起こった際、榎並庄の四至内に所領をもつ者に公験を提出させたところ、藤原信長・藤原敦憲・故藤原憲房後家・皇太后藤原歓子・右中弁藤原通俊や四天王寺(現天王寺区)・善源寺(跡地は現都島区)らの多数が応じている(「水左記」承暦4年6月25日・同29日条)。この相論で藤原敦憲は父憲房が故関白家(頼通)から領掌を認められたときの政所下文を提出して対抗しているが(同書同年閏8月8日条)、結局、信長の圧迫を逃れるため関白藤原師実にその所領を寄進したようで、その頃から摂関家の榎並庄支配が急速に進展し、摂関家領となっている。建長5年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)の榎並に「京極殿領内」と注記があるのは、当庄が師実(京極殿)の時代に摂関家領として確立したことを示している。摂関家では前遠江守藤原基俊を預所に補任して支配させた。ところが基俊が預所職を子孫に伝える際、摂関家は榎並庄を上庄・下庄に分割、基俊の嫡女(冷泉宰相室)を下庄の、次女(清章室)を上庄の預所に任じた(「榎並庄相承次第」勧修寺家本永昌記裏文書)。このうち上庄の預所職は次女の夫清章に伝えられたが、保元2年(1157)4月、関白藤原忠通は榎並上庄を東方と西方に分け、清章の譲状に任せて、その着女を東方の預所に補任し庄務執行を命じた(「関白家政所下文案」・「榎並庄相承次第」同文書)。
 前掲近衛家所領目録によると、榎並庄を伝領した近衛基通は、鎌倉初期に上庄西方を近衛道経の妻武蔵に分与したが、上庄東方と下庄は本所の直轄とし、政所の年預を給主として支配させた。榎並上庄西方は「庄務無本所進退所々」に、榎並庄東方・同下庄は「庄務本所進退所々」に書上げられており、当時の東方給主は行有法師、下庄の給主は資平・行経であった。この上庄と下庄の位置を明確に示す史料はないが、延徳元年(1489)12月30日の室町幕府奉行人連署奉書案(「北野社家日記」延徳2年3月4日条所収)には「榎並下庄東方号今養寺、同上庄四分一号高瀬」とみえ、上庄の庄域が高瀬(現守口市)に及んでいる点から、上庄北部、下庄は南部に位置したものと考えられる。しかし平安末期から鎌倉中期にかけての摂関家に対する当庄の負担・奉仕については、わずかに関白忠実の春日詣の前駈るへの負担(「永昌記」嘉承元年12月17日条)、摂関家の元日の供御座の進納や吉田祭の費用の勤仕(執政所抄)、春日祭の舞人・陪従への負担(「猪隅関白記」正治2年正月10日条)などが知られる程度で詳細は不明。建長5年3月成立の高山寺縁起(高山寺蔵)には、中納言藤原盛兼が長日勤行の仏聖灯油ならびに人供料として当庄の私得分の田畑の一部を高山寺(現京都市右京区)に施入し、後日、関白近衛家実の計らいでその坪付を寄進した旨が記され、田畑の一部は高山寺の所領となっている。
「荘園物語」挿絵より:豊中市教
 鎌倉中期以降、当庄に対する武士の侵略が次第に激しくなり、建長2年2月6日、北条時頼は御教書(海蔵院文書)を出し、河内守護三浦泰村が榎並下庄を自分の所領と称して侵害するのを禁じ、代々摂関家領である旨を伝えている。しかし、その後も武士の侵略はやまず、暦応2年(1339)9月、足利尊氏が播磨国平野庄の替りとして榎並下庄東方や楠葉河北牧(現枚方市)年預名などを洞院家に付与した際、榎並下庄東方は「城三郎跡」と注されており(河東文書)、すでに鎌倉末期には下庄東方に幕府方の武士の某城三郎の所領が形成されていたことがわかる。これらの侵略は単に武力によって行われたのではなく、承久の乱以降、この地に地頭が設置され、秦村や城三郎が補任され、地頭職の支配を通じて所領を形成したのではないかと推定される。下庄がいつ東方と西方に分かれたかつまびらかでないが、少なくとも城三郎のときには東方がその所領となっており、東方と西方の分割は、庄園領主である摂関家と地頭との下地中分による支配の分割によって生じたものと考えられる。その城三郎の東方が足利尊氏に没収され洞院家領となったのであるが、永徳2年(1382)10月16日には山名氏清が榎並上庄東方の年貢のうち30石を山城石清水八幡宮に寄進しており(石清水文書)、争乱の展開の中で武士の侵略・押領が激化していった。
明治41年の榎並庄の状況
 こうした情勢のなかで、近衛家の支配は衰退を余儀なくされた。近衛家は榎並下庄の庄園領主権を京都北野天満宮の別当職を兼務する曼殊院門跡に寄進したものとみえ、正安3年(1301)7月29日付の伏見上皇院宣案(曼殊院文書)によって、門跡が相伝の理にまかせて下庄を領掌することが認められている。これが当庄と北野天満宮の関係を示す早い史料であるが、康永2年(1343)6月には、光厳上皇も榎並下庄東方を北野神社の別当大僧都に安堵する院宣(曼殊院文書)を出している。貞和4年(1348)4月には参議藤原実豊が亡息の菩提所領として榎並下庄西方の田地七町五反を長福寺(現京都市右京区)に寄進(長福寺文書)、さらに観応元年(1350)8月には興福寺が春日社領榎並庄など三庄の返付を北朝に訴えている。「御挙状等執筆引付」に、この三庄は永仁年間(1293 - 99)に春日社へ寄進され柛供を備進してきたが、まもなく顛倒されたとあるので、鎌倉末期から南北朝初期にかけて榎並庄が奈良春日社領となっていた時期もあり、当庄をめぐる庄園領主権がきわめて錯綜した様相を呈していたことがわかる。こうしうて近衛家の支配は消滅し、室町時代になると他の庄園領主に関する史料もみえなくなり、もっぱら北野天満宮領としてあらわれてくる。
〔北野天満宮領〕
北野天満宮は光厳上皇の院宣で榎並下庄東方を安堵されたあと、応永23年(1416)11月10日付の法印禅順譲状写(北野神社文書)に「榎並上庄 公方御寄進内 半分並下庄東方同下司公文職同田畠」とあるように、将軍足利義持の寄進もあって、15世紀中葉頃には榎並上庄半分と同下庄東西両方が北野天満宮領となっている(同文書)。「北野社家日記」などによると、初め榎並庄の管理支配に当たったのは、祠官家の一つ松梅院であった。しかし社家内部で競合対立があり、将軍足利義教のとき松梅院禅能が勘気を受け、かわって宝成院が奉行したのを契機に、15世紀後半を通じて榎並庄の管理支配権をめぐる両者の対立が断続的に繰り返された。とくに長享2年(1488)から延徳3年にかけて松梅院・宝成院双方がそれぞれ幕府首脳に働きかけて、当庄の管理支配権を激しく争った。「北野社家日記」延徳2年3月4日条によると幕府側でも困惑したとみえ、「榎並庄上東西半分、下庄東西一円」を松梅院禅予に、榎並下庄東方地頭職と同上庄四分一地頭職を宝成院明順に領知させるというきわめて曖昧な裁定を下している。両者が争っていたとき、現地では武士の侵略や庄民の抵抗がますます激しくなっていた。当時の「北野社家日記」には「榎並庄不知行」により神事が退転したという記事が頻出し、北野天満宮の庄園支配が崩壊の危機に直面していたことを物語る。天文10年(1541)12月15日付の後奈良天皇女房奉書(北野神社文書)も榎並庄について「ちかきころその沙汰いたし候ハぬゆえ」神事が退転していると記す。
榎並座発祥の地石碑
〔猿楽榎並座〕

中世の榎並庄の歴史において特筆されるのは、丹波猿楽の一座といわれる榎並座がここを根拠として台頭し活動したことである。榎並庄の猿楽は、初め近くの住吉社(現住吉区)への奉仕を通じて発達してきたが、鎌倉末期には、丹波猿楽の矢田(現京都府亀岡市)の本座、宿久庄(現茨木市)の法成寺座と並んで「新座」として京都へも進出するようになった。文永7年(1270)6月の京都賀茂社の御手代の祭礼に、本座・新座・法成寺座の三座猿楽が勤仕したとあるのが早く(賀茂社司古記)、南北朝期には名称も新座に代わって榎並座とよばれるようになり、「妙法院法印定憲記」康永3年4月19日条によると榎並座は醍醐寺清瀧宮祭礼の猿楽楽頭職を獲得している。足利将軍の保護を受け、世阿弥が伝える義満の前での榎並・観世立会能のエピソードも生みだされ(申楽談儀)、応永年間になると、矢田本座から伏見(現京都市伏見区)の御香宮・法安寺の楽頭職を買得するなど目覚ましい活躍を示す(「看聞御記」応永27年3月9日条など)。役者としては馬の四郎・左衛門五郎らが有名で、後者は能「鵜飼」「柏崎」の作者といわれる(申楽談儀)。しかし榎並座では応永30年に楽頭が譴責を受けて死に、後を継いだ弟も死去するという事件が起き、清瀧宮楽頭職が観世座に奪われるに至った(「満済准后日記」応永31年4月17日条)。これを契機に急速に衰え始め、わずかに「エナミ大夫生熊」(「満済准后日記」応永33年4月21日条)、「春童」(看聞御記」永享10年3月12日条)の存在が知られるだけで、以後榎並座の活動は中央の記録から姿を消す。
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榎並庄は低湿地で、洪水が起きやすいという難所ではありましたが、化学肥料も無い当時、洪水は肥沃な大地に変えてくれるという利点もありました。それ故に、敢えて、低湿地を選んで集落を形成するというところもあります。「輪中」はその典型です。

さて次に、その榎並庄にあって、その中心ともいえる榎並城について見てみます。
※大阪府の地名1-P627

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榎並城(城東区野江4丁目)
水神社
中世榎並庄に築かれた城で、野江水神社(野江神社)付近にあったとみられるが遺構は確認できない。「花営三代記」応安2年(1369)3月23日条に楠木正儀が天王寺から退却して榎並に陣したとみえ、古くから軍陣を布くのに適した場所だったようである。十七箇所城とも称したといわれ、同書同年4月22日条に正儀が「河内十七箇所」に退いたとみえ、明応2年(1493)の河内御陣図(福智院家文書)に森口(現守口市)南方、八箇所(現門真市など)西方に「十七箇所」と書き込まれているのは当然のこととする説もある。榎並城については「細川両家記」の天文17年(1548)10月28日条にみえるのが早く、三好政長・政勝父子と長慶の抗争は、その後ますます熾烈になり、翌年6月17日政長は榎並城を政勝に任せ、兵三千騎を率いて淀川北岸の江口(現東淀川区)に渡り城郭を構えて迎撃態勢をとった。しかし6月24日長慶軍は江口城を総攻撃し、政長を討死させた(細川両家記)。一説に政長は榎並城へ逃れようとして水死したともいわれる(暦仁以来年代記)。政長敗死の報を受けた政勝は、城を捨てて瓦林城(現兵庫県西宮市)へ退却した。「万松院殿穴太記」は榎並城について、もともと三好政長の居城で屈強の要害を構えていたと記しているので、おそらく天文年間に政長が築城したものとみてよいであろう。政長・政勝の後、当城がどうなったかつまびらかでないが、この地には石山本願寺合戦のときにも本願寺(跡地は現中央区)側の端城(陰徳太平記)が置かれたとみられる。
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この榎並城の城主であった三好政長は、既述の通り、自分の娘を池田家に嫁がせて、姻戚関係となっていましたが、それがいつの事だったのかは、今のところ不明です。戦国の乱世でも、婚姻は非常に重要な契約でしたので、道義的な習わしは守られ、血筋も大切に守られていました。

ところで、天文16年という年は、池田家にとっても京都の中央政権にとっても、激動の年廻りでした。
 少し遡って、天文12年(1543)7月、管領細川高国の跡目を称して、和泉国に於いて細川氏綱が挙兵します。様々な事情で次第に社会的な支持を受けるようになっていきます。
 摂津池田家は、当主(惣領)信正の舅とはいえ、その立場を利用して、池田家の権益を押領(横領)するような事もしていた三好政長に対して、池田家中が不満を持っていた時期でもありましたが、幼小の頃から永年に渡り支えてきた管領系譜の細川晴元は、重臣であり同郷でもあった政長の行動を諫める事もなく、処置もせず放置したようでした。この態度に対して、池田信正は自衛的な対抗措置として、当時、勢いを増していた細川氏綱方に加担する事を決め、細川晴元政権からの離叛を決行します。天文15年(1546)9月でした。

摂津池田城の推定復元模型
晴元は、直ちに摂津国方面の討伐を行い、池田・原田城などを激しく攻め、旧誼も顧みず、執拗に、大規模に攻撃を行いました。結果、氏綱方の支援もありましたが、抗いきれずに池田信正は、晴元方に降伏します。
 天文16年(1547)6月25日、同じ氏綱方にあった中心人物薬師寺与一元房が、芥川山城(現高槻市)で降伏したため、池田信正も晴元方に降伏し、摂津国方面は、一旦平定されました。しかし、河内・和泉国、山城国北部方面では、闘争が続いていました。
 更に、この機に乗じて、阿波国に退居していた将軍候補の家系でもあった足利義維が、京都への返り咲きを目指して、堺へ上陸してきます。これは、この年に将軍義晴と細川晴元との確執が表面化していた事の隙を見ての動きでもあります。

一方の池田信正は、出家し、僧体となって、作法通りの詫びを入れて、細川晴元の指示に従っていたようです。晴元方から離叛して、武力抵抗をしたとはいえ、晴元政権での功労者(しかも二代に渡る)でもあった事から、どのような処分にするのか、決めかねていたようです。

今西家屋敷
天文16年とは、そのような年であり、思惑の錯綜する時期でもありました。このような時代の中、境遇の中で、池田信正は「大般若経典六百巻(大般若波羅蜜多経)」を久安寺に寄進しています。
 この時点で、僧覚賢により最初に書写されて(寛喜2年:1230)から300年余り経ている事から、補修などを施して寄進したのでしょう。廃れかけていたものを、復興したようなカタチだったのかもしれません。「大般若経典」は、大乗仏教の原点とも言える大切な経典ですので、そういった考えや願いを込めての行動だったと思われます。
 少し気になる要素があります。天文15年(1546)頃に割と大規模に洪水や日照りがあったようです。
※豊中市史(史料編2)P526(今西家文書)

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三石五斗(将監殿・大垣内殿:相合わせ)、三石者(八木小五郎方・高野源二郎方)、五斗(中村源五方)、七斗(垂水上方)、弐斗(玉林分)、弐斗(片山分)、参斗(安井出雲守方)、七石者(八木七郎兵衞方)、四石者(渡辺源兵衛方)、四斗(田木五兵衛方)、六斗(古田彦左衛門方)、四石者(新三郎殿)、一石五斗(樋口太郎左衛門方)、八石三斗五升八合(田井源介殿抱え分・香西分)、三石者(厚東二介方)、五石者(小曾禰勘兵衛方)、拾四石者(下村方両人)、三石者(大林與三次郎方)、三石者(牧野宗兵衛方)、一石五斗(栗原方)、一石者(金前坊)、一石者(御中間新左衛門)、弐石五斗(中殿)、弐石五斗(塩山十郎左衛門方)、五石者(寺江與兵衛方)、五石者((河?)端彌次郎方)、八斗(古田三郎太郎方)、四石者(宇保平三郎方)、一石五斗(幡本十郎三郎方)、一石五斗(同名善十郎方)、弐石二斗三升弐合(御局様抱え分湯浅分)、一石者(河端甚三郎方)、一石者(福井勘兵衛方)、三石者(茨木伊賀守長隆殿)、一石者(吹田殿)、拾八石者(與四郎殿)、五斗(穂積源介方)、一石四斗(宇保與市方)、弐石者(景寿院分)、弐拾石者(榎坂殿)、五斗(寺野修理方)、四斗(津田彌六方)、四斗一升(伊丹大上分)、九石者(安倍備中守方)

以上百五十石分。

右、春日社為御神供米百五十石之分、知せず于水損、諸給人為、前以って書き立て抽んず留木修理進並びに目代今西橘五郎彼の両人へ百五十石分切出上え者、別儀無く孰(いず)れ別儀無き者也。若し此の旨背き、難渋輩於者、此の方堅く成敗加え為るべく候。仍て後日為、目代に対し、染筆処、件の如し。
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今西屋敷付近の田んぼ
池田信正が、「南郷御供米切出注文」として、摂津国豊嶋郡の今西家へ神供米の切出注文発行していますが、この文中に「不知于水損、為諸給人前以書立(後略)」とあって、神供米収穫時期前に、事前に言葉を添えています。ちなみに、人物名の太字は、池田氏と関連すると考えられる人物です。

実は、天文13年(1544)7月8日から翌日にかけて、近畿・東海地域にかかて防風水害が発生していました。京都醍醐寺の僧、理性院厳助の記録『厳助大僧正記』には、四条・五条の橋、祇園大鳥居が流出するなど、京都で大きな被害が出ていたことが記述されています。
 ちなみに天文9年(1540)5月には、干損、間もなく一転して大洪水、同年秋には、イナゴの大発生による農作物の被害に見舞われるという、悲惨な状況でした。
 池田信正は、このような状況を鑑みて、契約の文面「南郷御供米切出注文」にその旨を入れ、やむを得ない時の布石を打っていたのだと思います。

大洪水で付近に流れ着いた地蔵尊

一方で、榎並庄に目を向けます。もし洪水があったとすれば、低湿地であった榎並にも被害が出ていた可能性は多分にあり、赤川寺も被害を受けていたのでしょう。
 このような状況から、池田信正と大金剛院(赤川寺)の接点ですが、今のところは直接的な資料に出会っていませんが、やはり、信正の舅であった三好政長の接点によるところではないかと思われます。また、大金剛院に「大般若経典」がある事は、当時から著名だったのではないでしょうか。

これらの要素を整理すると、信正の天文16年当時の状況、その領内にあった久安寺という大寺院、信正と三好政長の関係とその居住地であった、天文13年の大規模な洪水などという接点が、全て作用して、実現した出来事だったと、今は大まかな流れのみを推測するに留まります。
 天文13年の洪水で被災した赤川寺にあった「大般若経典」を、信正が、大切な経典でもあるために、救済的な目的で避難させ、久安寺に寄進したという想定もできるのかもしれません

今後の何かの手がかりになればと期待して、この記事を終えたいと思います。


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2022年8月15日月曜日

摂津国池田の地域権力と社寺などの宗教勢力について、あれこれ思索(備忘録)

 自分の中の考えの整理、備忘録として、あれこれと雑感を書いてみます。

先月、20年ぶりくらいに、勝竜寺城(京都府長岡京市)を訪ねました。新たな発掘成果などを元に、復元遺構などがあって、大変興味深く見学させていただきました。中でも、長岡京市の市制50周年事業(2020年)として、勝竜寺城の関係資料集(『勝龍寺城関係資料集 -長岡京市歴史資料集成1-』:長岡京市教育委員会)があり、買い求めました。資料中に仁木・馬部両先生の論稿が収められており、私にとっては多くの気づきがありました。

その中の仁木先生の論稿中、「守護方拠点としての勝龍寺」章に、「諸国において、この時代の守護所が固有の建物ではなく、寺院の間借りである事例が多いことは既に論じられている。勝龍寺は、山城一国の守護所ではもちろんないが、守護方の郡レベルの支配拠点であったことは確かであろう。この時点では臨時的なものである可能性も高いが、のちに勝龍寺が帯びる「公的な性格」を既に孕んでいたともいえるだろう。」との一節があり、これには私の疑問に対する、非常なヒントがありました。

摂津池田家が、箕面寺(大阪府箕面市)に対して、惣領の代替わり、地域争乱時(禁制)、何らかの地域関係の通達、等々を出す場合、時代を経ても定型文であったり、宛先が箕面寺(豊嶋郡・政所宛なども)である事が多いのは、箕面寺に郡役所的な性格もあったのではないかと考えました。
 前述の仁木氏の論稿中の「寺院の間借り」の概念を知る前から、摂津国豊嶋郡を治めていたと思われる動きを感じており、摂津池田家と箕面寺の関係が非常に深い事に注目はしていました。しかし、それがどんな関係なのかは、理解していませんでした。それが、『勝龍寺城関係資料集』によって、認識のメドが立ちました。

古代寺院や山岳寺院と地域権力の関係や城郭の発展過程は、多くの研究がありますので、これからは、それらを読み進めて、摂津池田での、その動きについても考えてみたいと思います。

現代社会と中世社会の宗教の社会的役割りは全く違います。現代感覚で宗教を見ることはできませんし、通信事情や政治権力、協働関係は、考慮するべき必須要素だと感じます。
 勝尾寺・箕面寺の他、摂津池田家の膝元としての大寺院は、久安寺(池田市伏尾)があります。また、時代により盛衰はあるものの、他に大広寺(池田市綾羽)・弘誓寺(同市綾羽)・寿命寺(同市西本町)・常福寺(同市神田)・禅城寺(同市宇保)などの関係も、地域権力としては良好を保つ必要があったと思われますし、一体化的な協働宇関係もあったのではないかと思われます。池田一族の中には、僧も居り、これらとの関係維持も目的化(双方の調整役的な)していたところもあるのではないかと思います。

これらの組織と良好な関係を築く事に、権力は腐心していたと考えるのが自然で、このいかんで、勢力の拡大縮小の趨勢が決まったと感じています。
 今後は、こちらの方面も調べを深めたいと思います。

2021年6月5日土曜日

摂津池田家は、楠木正成の血統を継いでいたのか!?伊居太神社社宝の置手拭型兜鉢の意味を考える

 郷土史家の中岡嘉弘氏の蔵書の中から、久安寺に関する非売品の書籍『摂津の国 細河の莊 久安寺ものがたり』を読ませていただいたことがキッカケで、これまで繋がらなかった線が沢山、繋がりました。国の重要文化財ともなっている楼門からしても、相当な勢力と財力であったことは確かだったのですが、火災や明治維新後の混乱で資料が散逸し、詳しいことは解らないままです。公的な調査でも、断片的で、分野化されたものがあるばかりで、それらを繋ぐにはやはり、不明な点が多い状態です。
 しかしながら、同寺に伝わっていることや公的外の要素が書籍にまとめられ、また、宗教家としての形式の成り立ちの説明や社会的意義、経緯を論理立てて説明されている書籍に接し、私の中にあった蓄積と疑問が、いっぺんに繋がりました。

直接的に、久安寺のご住職は繫がりはなかったのですが、中岡さんを通じて、それを知る事ができ、私は私の何かが出来ること、得たように感じています。
 まだまだ不完全ですが、そこに繋がる思索を少し、この記事でお伝えしておきたいと思います。また、そういう状況ですので、ご指摘や情報があれば、どうぞお気軽にお寄せ下さい。

さて、そんな中で、偶然に鎧兜に関する私の蔵書ページを何気なく捲っていた時です。伊居太神社に伝わる「置手拭型兜鉢」について、それまで漠然としていたものが、急に具体的になったような気になりました。
 同社には様々な社宝があり、戦国時代の遺物として、この「置手拭型兜鉢」が伝わるのですが、これは鎧兜研究分野では全国的に有名なものです。完全なカタチではなく、損傷激しく、しかも鉄砲と思しき銃痕のある遺物(内側からの破壊との見解も)であることも、その特異さから、注目されています。池田家や池田城とも結びつきの深い同社に伝わる遺物であることで、摂津池田家との強い繫がりがあると考えられていましたが、決定的な判断材料は無く、永年に渡り、全容は不明です。
 ある日、私は『歴史群像シリーズ特別編集【決定版】図説 戦国の変わり兜:学研刊(140頁)』に出会いました。これを購入してから随分と日が経つのに、ちゃんと見ていなかったのでしょう。また、久安寺の本を読んだことから、私の感覚が敏感になっていたからでしょう。重要な一文が目に止まりました。実際のページは以下です。

 

【決定版】図説 戦国の変わり兜:学研刊


上記の絵を部分拡大
 

上記画像の文字部分を書き起こしておきます。

【楠木正成像】
江戸時代に描かれた楠木正成画像の遺品は数多く残っている。本品もそのうちのひとつで、背後に正成の着料が描かれている。その兜が正にこの置手拭形兜なのである。実物と若干の相違はあるものの、大型の並角本(ならびつのもと)や鉄鋲、眉形(まゆなり)の切鉄など特徴をよく掴んでいる。江戸時代においては楠木正成のイメージといえば、この兜であったことがよくわかる。
【置手拭型兜鉢】
本品は江戸時代には多田満仲および楠木正成所用とされ、『集古十種』などに所載された名物兜である。古様な眉庇の形状は注目に値すし、置手拭としては最古例に属すると思われる。現状鉄地に見えるが、当初の黒漆が残る。江戸時代には本品を写した兜が幾つも作られている。

この歴史的背景の中で、伊居太神社に伝わる「置手拭型兜鉢」をご覧下さい。前後左右の主要部分には、楠木正成に因んだ「菊柄」をあしらったデザインになっています。


置手拭型兜鉢(現在は朝鮮式兜として表示) 

 

摂津池田家は、元の姓が「藤原」でしたが、地域名の「伊居太(池田)」を名乗って地域を代表する存在となりました。このブランド化の過程で、楠木正成嫡子正行の遺児を貰い受け(妻は丹波国守護代家内藤氏)て、継承する系譜が伝わっています。その関係からか、同家の通字は代々「正」の字を用いています。
 また、摂津池田家は、当初、今の池田市南部(尼崎市北部地域も含む)に勢力を持ち、次第に勢力を増しながら、五月山南麓に本拠を構えるに至ります。この場所は、当初、摂津国河辺郡(現川西市など)を拠点とする多田源氏の勢力下(日本国内で最大の荘園)で、五月山の北側の細河荘を越え、五月山南麓にまで影響力を持っていたと思われます。加えて、西側の現在の宝塚市山本付近もその勢力下であったと考えられます。

時を経て、流通経済が発達するにつけ、都市型の有徳人(武士)であった、藤原系池田氏が北上し、地域の勢力図を塗り替えるように成長して行きます。
 しかしながら、全国的なブランドであり、皇室の血統を持つ多田源氏や大寺院である久安寺の影響力は依然として強く、この折り合いをつけるべく、様々な政策や手盾を講じて、時代に必要な舵取りを行いました。池田家中にも、多田源氏の血統と姻戚関係を結ぶものもあり、時代により池田家中の構成を均衡させていきます。

 

久安寺古図


そういった意味で、「置手拭型兜鉢」は、池田家中には軍旗や家紋と同じく、象徴としての重要な役割があったものと思われます。故に、この兜は、池田家の中心たる者や家が継承していたものではないかと思うようになりました。
 室町将軍の「大鎧」や天皇の地位の象徴としての「三種の神器」といった具合に、池田家中でもそのようなアイテムがあったと思われいます。

今現在、伊居太神社では、先祖伝来のこの「置手拭型兜鉢」を朝鮮式兜としていますが、これは明かな間違いです。絶対に違います。また、そのように表記し始めたのも最近のことで、それまでは戦国時代の伝来兜としていました。それが変わったキッカケは、韓国の学者が調査のために訪ねた折、その学者がこの兜について、そのように見解を述べたことから、それまでの伝承を変更したようです。

さて、話しは少し遡りまして、足利尊氏の室町幕府開幕の頃のことです。記述の『摂津の国 細河の荘 久安寺ものがたり』の中で、室町幕府開幕にあたり、足利尊氏がその策を練るため、尊氏と盟友であった伊勢国司北畠親房と久安寺にて語らい、活用もしたとの推測があります。これについて、裏付けとして考えられているのが、この頃に発行された、尊氏による禁制などが、久安寺、寿命寺、伊居太神社などに残っています。また、久安寺の本尊千手観音の両脇侍、不動明王と毘沙門天の二木像は、親房の寄進と伝わっています。

足利尊氏禁制

 
更に、寿命寺には、楠木正成公奉納と伝わる兜(これは置手拭型兜鉢ではない)と菊水旗が伝わっており、これは、楠木正行が箕面の瀬川合戦を経て兵庫湊川へ赴く時、正行が寿命寺に立ち寄って戦勝祈願して、この兜と旗を奉納したものとされています。

このような経緯、実績の積み重ねの中で、ブランド化と象徴化が醸成され、この兜にもの言わぬ価値が付加されていったのでしょう。池田家当主は、この兜を継承し、戦の時には身につけることで、全ての意志を代表する存在になっていたことと思われます。

時は下って、織田信長が活躍していた頃の時代。ご存知の様に戦国時代も最も激しい頃です。信長が戴いていた筈の上位権威である将軍義昭と不和になり、当時の日本国首都は混乱の極みに陥ります。
 その過程で、池田家もそれに呼応するように分裂します。この時、数世紀の間、池田家の中心であった「筑後守家」とそれに相当する中心的一族の「遠江守家」との間に過去の不仲に起因する不整合が再び不和の種となります。
 家中政治の中心軸が変わろうとするその時、誰がその正統の資格があるかで争い、この「置手拭型兜鉢」も右に左に引き合う事態に陥り、家中は混乱していたのでしょう。
 また、江戸時代の通念を考えれば、そんな中で、若しくは、「多田満仲」を系譜二持つ一派の象徴として、これを用いていたのかもしれません。
 結果的に、摂津池田家は元亀四年(1573)滅亡しますので、この兜の象徴性はある一面で大きく低下したのかもしれませんが、しかし、無価値になった訳ではなかったのでしょう。だからこそ残されたのだと思います。兜がこれ程までに損傷しても、現在に伝わっている意味が必ずあるのです。この先の事は、また、これから学んで調べを進めたいと思います。

歴史的遺物は、一般に「文化財」といいます。しかし、市区町村、都道府県、国の文化財になっていないものの側の方が圧倒的です。
 また一方で、「文化財」はとは何かという、漠然とした解りにくさもあるように思います。これについて、私なりに別の言葉で置き換えて、納得しています。「文化」のそれは「共有」です。
 その時代に地域や人々が共有していたものが、文化です。時間を経て、大多数が消滅する中で残った、いや、守ったものが文化財です。文化財(歴史的遺物)には、それに凝縮された時代やその時のカタチ(意味)を知り、現代社会の基礎を知るという意味では、非常に大切な手がかりなのです。
 そういう意味で、最も深刻なのは、その最前線である専門家自身が果たすべき義務を怠り、意味も理解していない事です。これは、このコロナ禍であらゆる分野で起きている事が露呈しましたね。既に文化財分野では、そのような状況でした。この現状は危機的です。国が、地域が崩壊します。

私は何事に於いても論拠の無い極端な見解を認めませんが、必要なことは見失うべきではないと考えています。何よりも、法的に規定された事は履行せねばならず、担当者は常々その役割りを負っています。当然ながら担当者は然るべき、報酬を得ています。法と組織とは、そういう事です。必要な事を、積み重ねる意味を法と予算とによって、組織化されているのです。今現在、それすらも行われておらず、無為に、不法に失われている例が急増しているのです。

先祖の歴史を消すことになるこの行為は、将来的な営みの主体性を失い、外圧(敵意のある行為以外にも、地域性を失って消失の原因を作る事になる)にも抗えなくなることは確実です。
 少々話しが逸れましたが、この「置手拭型兜鉢」を通じて、地域の文化財に対する日頃の想いも結びつき、このような記事にしようと思い立ちました。この記事をキッカケに、是非とも地域の文化財を知るキッカケ、それにまつわることも知っていただけたらと思います。
 ご縁があって、その地に暮らす事になり、過去と現在と未来をつなぐ文化財(共有財)の意味を感じていただけたらと思います。身近な歴史を気軽に学んでいただけたらと思います。

2020年3月8日日曜日

明智光秀も度々利用した余野街道上に存在した、池田市伏尾町の八幡城が巨大であった可能性について

現在の池田市伏尾町にあった八幡城について、詳細は判っていないのですが、その城が巨大であった可能性を考えている方がいます。
 池田郷土史学会会員の岩垣 正氏による調査で、縄張り図が描かれ、それによる全容想定図も描かれています。氏は学生時代に日本画を専攻され、それ故にこのような図を描くことも可能でした。
※図の制作者様には許可をいただいて掲載しております。

摂津八幡城想定復元図:岩垣 正氏

摂津八幡城縄張想定図:岩垣 正氏

調査時の現地の状況

池田郷土史学会による数度の踏査と、業界でも有名な専門家による実地見聞も行われています。八幡城は現在も調査中ですが、その専門家の判断によると、今のところ城なのかどうか判断がつかないとのことです。もう少し詳しく必要要素の発掘と現地調査が必要なようです。ただ、一部は寺の施設ではないかと判断されていました。

そういうった現状ですが、個人的には、ここにこのような城があっても不思議では無いと感じています。
 というのは、享禄年間から天正年間始めまでの摂津国池田周辺の動きを見ていますが、池田家が隆盛した天文年間から永禄の三好長慶政権時代特に、丹波国方面から池田へ敵が南下する例があまりありません。河辺郡あたりに南下する例が集中していることに、違和感を持ていました。もっとも、池田家は「余野街道(池田道、亀岡道とも)」沿いに影響力を拡げ、止々呂美、余野、木代などの地に婚姻、代官地などを持っていた影響もあったと思われます。
 それに比べて芥川や西岡方面は、丹波方面から敵方勢力が度々降りてきて、山城・摂津国で打ち廻りました。池田方面の、このような動きが少ないのはどうしてなのか、永年に渡って疑問に感じていました。
※三好長慶が京都防衛のため、芥川山城に拠点を構えるようになると、この地域への南下は無くなる。
 しかしながら、こういった城があるならば、それは私の疑問を解いてくれます。これ程の城があるならば、軍勢が丹波国(余野)方面から南下することは不可能です。

また、摂津池田衆の主体が滅び、代わって荒木村重の統治下に移ると、丹波国方面へは池田を通って入ることも多くなるようです。それもやはり、このような施設が途上にあれば、軍事・政治的に大きな意味と利便性があるからです。
 明智光秀の丹波攻めでは、度々池田を通路に使っています。また、天正三年の丹波国撤退の折、池田を通って退却しています。

それからもう一つの大きな要素は、久安寺という大寺院の存在です。このお寺は、戦国の争乱で荒れ、また、忌まわしい明治の廃仏毀釈によってそれまでの宝物や資料の大多数を毀損してしまい、残った遺物が殆どありません。それ故に、口伝と仏像などの遺物、僅かに残った形跡から再生・復元推定するしかありません。しかし、状況証拠から必然は見えてくるものと思われます。その久安寺についても、近日、詳しく検証したいと思います。

この久安寺は、行基の創建から天皇の勅願寺としての由緒を持ちます。ですので、巨大な宗教組織、施設が豊島郡(池田)の北部に存在したことは確実です。当然これに、池田氏も対処する必要があり、地域政治を執る上で、協調なり上下関係なりが存在したことは想定できます。
 それがどういったものだったのか、当時の必然性は、今のところ不明ですが、非常に興味深い要素が細河郷い存在していたことだけは確かです。これまでにあまり、これへの思索が行われていないようですので、少しこだわって掘り下げてみたいと思っています。

最後に、以下、「八幡城」について、先行する研究資料を上げておきます。

◎八幡城:はちまんじょう(池田市伏尾町)
  • 伏尾の北方、東野山の山頂にある。東西南の三面を久安寺川に囲まれ、北方は低地で濠渠も形をしており、これを城山という。頂上に平坦地があり、周囲870メートル余、武烈天皇崩御の際、丹波国桑田郡にあった仲哀天皇5世の孫大和彦主命を迎えようとして、迎えの武士が桑田に向かったが、王は捕り方の兵と誤解、逃れて東能勢止々呂美の渓谷を下りて、東野山に来て住んだ。その後、1世の孫猪名翁に至って、行基菩薩を迎えて久安寺を建立した。
     後、承平天慶年間(931-46)、多田源満仲の家臣藤原仲光がここに館を築いて居住した。また、元弘年間(1331-33)には、赤松播磨守則祐はこの地に砦を設けて拠った事がある。【全集:八幡城】
  • 『摂陽群談』によれば、伏尾にある古刹久安寺(聖武朝神亀2年、僧行基開創)山内に築かれた山城で、多田満仲の臣藤原仲光が在城と伝える。遺跡は東野山山頂部にあり、土壇が存在したという。【大系:八幡城】
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。慶長10年(1605)摂津国絵図には伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉石高帳に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】
  • 八幡城址は北方東野山にあり、楕円形をなし、周囲大凡八丁の地にして、東西南の三面は久安寺川之を囲繞(いじょう)し、北方は低地にして壕渠の形を為せり。土壇は今も尚存して、俚俗は之を城山と呼び、多田満仲の家臣藤原仲光此に居り、後播磨守と称する者の籠もりし所なりと伝うれども、其の氏名年紀などは詳らかならず。また廃絶の年月の如きも知るに由なし。山に麗水あり、城兵の用いしものなりという。
     本地は延宝年間より徳川氏代官の支配となり、同代官継承して斎藤六蔵に至る。其の後の管轄及び区画の変遷は、大字吉田に同じ。【大阪府全志】
  • 同郡伏尾村久安寺山内にあり。多田満仲公の家臣藤原仲光在城後に播磨守在城と云へり。氏年歴所伝未詳。山の原に麗水あり。井水の部に記す。是即ち城郭の用水也と云へり。【摂陽群談】

 

※念のため、これらの出典は、後で付け加えたものではなく、公開当初からあるものです。そのような卑怯な事は絶対にしません。私は常に、論拠を以て話す姿勢は崩しません。分からないことは、想定として記述しています。