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2019年8月25日日曜日

此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(戦国武将甲賀谷長正という人物像の輪郭)

今のところ、甲賀谷又左衛門尉正長についての直接的な史料は限定的ですが、様々な断片的資料を集めてみると、旧池田(荒木)家中の人々の動きから推測もできるように思えます。今現在、甲賀谷正長について判っていることから、以下にまとめてみたいと思います。

摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
◎甲賀伊賀守とのつながり
池田での古老の話しによる(西暦2000年頃の)と、その方の小さい頃から「甲ヶ谷」の人々は、近江国甲賀(現甲賀市)から移り住んで来た、と聞き伝わっているようです。前述の通り『穴織宮拾要記 末』の記述(資料7)には、甲ヶ谷には「甲賀伊賀守」という家老が居たとあり、この人物は甲賀地域出身の人物と考えられます。この人物が住む地域であった事から「甲賀谷」という呼び名がついたのだろうと考えられます。
 甲賀地域出身者は、特に「土木技術」に優れた技能を持ち、破壊と普請(造作・造成)が常の時代にあっては、これらの人々は各地で大切にされたのではないかと思われます。現代のように、公的機関としての学校の無い時代には、技術伝承を徒弟制度の中で、一族や衆がそれを保持しています。それらの事も含め、甲賀谷正長は、地名を冠する程この甲ヶ谷に深くつながる人物である事が想定できます。婚姻や血縁もあったりするかもしれません。「名は体を表す」と云われる程、意味の無い名乗りは、全く考えられないからです。
 また、一方で、尼崎長遠寺での行動を見ると、多宝塔や客殿などに棟札を上げているところを考慮すると、木工・大工技術に優れた人物であった可能性もあります。
 現甲賀市域には優れた建築物が多く存在し、安土城もそういった技術に頼って完成した経緯を考えると、土木・建設に優れた才能を発揮した人物であった可能性も考えられます。
 もしかすると、呉春酒造の酒蔵梁の書き付けにある「甲賀谷仁兵衛・助兵衛」は、甲賀谷正長と関係の深い人物かもしれません。また、元禄10年の池田村絵図に記録されている「甲賀谷」の大工5名は、正に仁兵衛と助兵衛、その人です。呉春酒造の梁に縁起を書いたのもその人です。

伝法正蓮寺の寺紋と摂津池田の甲賀谷氏
大阪市此花区伝法の海照山 正蓮寺の寺紋「巴藤」
寺院はたいてい、宗派に属している事が多いので、宗紋を持っています。それに加えて、そのお寺にゆかりの深い紋を持っています。ですので、2つの紋がある事が多いのです。時にはそれ以上の事もありますが、たいてい、そういう構成になっています。伝法の正蓮寺は、日蓮宗ですので、「井桁に橘」紋を宗紋として掲げてあります。そしてもう一つ、寺紋は「巴藤」です。
 摂津池田家の本姓は「藤原」でした。時代の習慣としての行動と判断は、同族の結合が信用の繫がりの拠(よりどころ)です。ですので、藤原系とのつながりは、自分を守ることであり、助け合いであるのです。現代社会のように戸籍制度もありませんし、学校、警察もありません。現代のように、公的な信用醸成の制度はありません。そうであれば、どうしても信用の拠は、血統的なつながりに頼るところが大きくなります。
 故に、摂津池田氏の場合、どうしても藤原氏とのつながりが深くなり、接点も藤原氏の同族結合となっていきます。また、例えば、池田や伊丹といった名乗りは、時代やその時の個別環境により、変化します。荒木村重が池田家中に所属した時は、荒木と池田姓を使い分けていました。
 しかし、その家系が持つ紋は、あまり変化しません。ただ、功名があった時や所属によって下される紋はあったようですが、「一族」を示す紋は変わることがありませんし、それが一族生存の基本です。家紋は自分と家族の起源を示す、非常に大切な印なのです。現代の日本国国旗と同じです。
 歴史的な調査で「紋」は、探求の手がかりとして、非常に有力です。
 正蓮寺を創建した甲賀谷正長は、この寺の起源ですので、やはり甲賀谷氏の「巴藤」紋を用いたのではないかと思われいます。そうすると、甲賀谷氏は、藤原氏にゆかりの一族となります。前述のように、甲賀谷氏は元々近江国甲賀にあったようですが、そのルーツは「藤原氏」であった縁で、池田家につながりを持つようになった可能性が考えられます。

◎「正」の通字を持つ意味
摂津池田家は、元々「藤原」性です。また、その一族当主は「筑後守」を名乗り、諱(いみな)に「正」の字を持ちます。これは、通字(つうじ)といって、これを継いでいるかどうかで区別があります。更に、「正」の字が諱の上か下か、でも違いがあります。例えば、勝正、信正、知正などが、下正(したまさ)といい、正詮、正久、正秀などが、上正(うえまさ)といいます。
 時代によって、違いもあるようですが、傾向からすると、下正は、惣領家(当主)とそれに近い人々が用い、家老など、少し本家筋とでもいいましょうか、少し血の遠いと思われる家系は、上正を用いているように思います。
甲賀伊賀守屋敷跡(2001年頃撮影)
さて、今回注目している甲賀谷正長も、正の字を持ち、しかも上正です。甲賀伊賀守は、家老との伝承ですので、池田家のその当時の慣習を踏襲したと思われる形跡があります。
 伝承されていた、甲賀から来た人々は、時の流れの中で池田家と婚姻などで縁を深くし、「正」の字を得たのかもしれません。正長の生きた時代は、池田家も滅びて(滅びつつあった)しまい、戦国時代も終盤でしたので、その時代に必要な名前に変えて行きます。「甲賀」と「正」を残すことの意味があたのでしょう。また、正長は「左衛門尉」という官途も名乗っており、位は正六位から従六位です。一般人ではありません。
 伝法の正蓮寺では、「甲賀谷正長は武士」と伝わっていますが、これは正確な伝わり方をしているのではないかと思われます

◎没年の推定
尼崎市教育委員会による『長遠寺所蔵甲賀谷氏関係資料』によれば、寛永14年(1637)6月27日付の鐘楼棟札に、「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也 願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」とあることから、この頃に正長は死亡していることが窺えます。
 また、同資料の元和9年(1623)5月付けの本堂棟札に、「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」によれば、長遠寺本堂を寄進しているようです。本堂はその寺の中心建築物ですから、相当な費用も必要だと思います。この頃には事業(実際の生業は不明)も順調で、そういった行いのできる環境が整っていたものと想像されます。この頃の池田は、酒造業が盛況で、活気に包まれていたころでもあります。
 一方で、この翌々年(1625)、伝法の正蓮寺を創建しますので、少し前からそういった取り組みの準備もしていたのかもしれません。
 ちなみに、同資料をもう少し見ると、元和元年(1615)9月5日付で、正長が長遠寺に「日蓮曼荼羅本尊(尼崎市指定文化財)」を寄進していますが、この時の裏書きに「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)」とあって、改元を機に、隠居して息子なる人物に当主を譲っているようです。この頃から法名(法号の日寶は、元和4年11月17日か)を正蓮と名乗っているようです。
 正長の息子は、「貞勝」を名乗っているようで、正長はその後見役となっていたのでしょう。息子は「正」の通字を継がず、「貞勝」となっているのは、池田は京都所司代の支配管轄で、この時の筆頭は板倉勝重・重宗でしたので、その板倉氏と何らかの関係があるのかもしれません。今のところ想像ですが...。

気になる記述の残像
これは予備的な要素として書き残しておきたいと思います。『穴織宮拾要記』は、池田の町の復興や成り立ちについて、非常に重要な記述が多い、資料としての価値が大変高いものですが、全文翻刻されておらず、今は断片的な翻刻をつなぎ合わせる中での判断です。これは、池田の町のみならず、伊丹や周辺地域に様々な影響を及ぼす、非常に重要な文書です。
 そこに記述されている一説に、気になる要素があります。「資料3」にあるのですが、- 秀吉公・秀頼公之御時より池田ハ御代官所成ル、片桐市正御預り牧治右衛門池田支配ノ時、右之屋敷本養寺へ寄付せられ候。町人も城之用聞五軒伊丹へ引、又帰り候。 - とあって、先にご紹介した五家老との関係はどれ程あったのか、非常に気になるところです。
 この「城ノ用聞き五軒」とは、商業的要素のみならず、様々な要望を引き受けるため、非常に信頼の厚い人物で有り、組織であったと考えられます。現代は、社会現象の事柄を細かく分類していますが、当時はそれ程、細かに分ける必要もなく、商業であれ、建設であれ、戦争であれ、用聞きとは要望に応える商社のような存在であたっことでしょう。これに甲賀谷氏も関わっていたかもしれません。それが気になります。
 一方で、池田郷は、その地理的位置から非常に重要な場所であり、社会に軍事的な不安定要素がある間は、幕府の直轄領として、池田家をはじめとした旧ブランドの台頭を警戒し、その胎動を許しませんでした。徳川幕府は池田に代官所を置き、村役との連携をとる体制で地域支配を行いました。
 しかし、地域政治を進める上では、事実上、絶縁させる訳にもいかず、ある程度の許容の中で、円滑な運びも計る必要があると思います。そういう中で、選別しながら有用な取り込みを行うなど、無害化されたブランドの許容(活用)は存在したと考えられます。

◎正長が活躍した背景
池田では古くから酒造が行われていたと伝わっており、池田郷内の最も酒造高のあった満願寺屋は、その代表でした。その始まりは、応仁年間(1467 - 69)頃といわれるものがあります。古来、酒造は寺で、生産されていましたので、満願寺屋という名の通り、池田の酒造のキッカケも寺に関わるものと思われます。池田郷の西北西約4キロメートルのところに、満願寺という古刹があります。
 この境内の発掘調査の結果では、平安時代末頃には寺院があったと確認されており、寺記によると神亀年間(724 - 29)に千手観音像を祀ったのに始まるとされています。池田家も満願寺に寄進などを行い、つながりも持っています。
 これが何らかの縁で、交通の要衝である池田へ移り、根付いたものと思われます。戦国時代を経て、江戸時代になる頃には、荒廃した郷土復興が盛んになっていきます。その過程で酒造業も活気を呈します。
池田村宛禁制(松平武蔵守:池田利隆のこと)
大坂冬の陣(1614)のために河内・大和国境の暗峠(くらりとうげ)に進んだ徳川家康に、池田酒・物資・軍資金を献じて、池田の立場表明(味方となる)をいち早く行ったことから、その後に保護を受けるようになったとされます。(※1)これは郷内保護のための禁制を受けるためで、その時の禁制が残って(他に板倉伊賀守の副状も)います。池田村役の庄屋菊屋助兵衞、年寄牧屋五兵衛、同淡路屋新兵衛などが付き添い、陣中見舞いを献上しています。池田村は慶長年間より正保頃まで、庄屋1人・年寄2人(安永4年2月2日文書)がいたようです。池田は重要な場所であったため、徳川幕府の直轄領(天領)でした。
 戦国時代は、禁制を発行する側であった池田が、今度は、受ける側に変わっていました。もはや、池田には地域権力が存在していませんでした。
 しかし、それまでの地域ブランド力と地勢が、他の地域とは違う価値をもっており、単なる禁制拝受ではありませんでした。そのことは、酒造業にとっても、大いなる恩恵となりました。間もなく、徳川政権から大坂の陣の戦勝の礼として、池田酒に銘を贈り「養命酒」としました。これが特権化もしつつ、その後、池田での酒造が年々盛んとなり、元禄期(1688 - 1704)には最盛期を迎えます。
 そういった行動の中心的役割を果たしていたのが、旧池田家中、荒木家中の人々で、甲賀谷正長もその一人であったと思われます。平和になりつつあるとはいえ、江戸の幕藩体制が盤石となるのは、徳川将軍3代目の家光の頃(元和〜寛永期:1615 - 44)であり、それまでは日本各地で争乱も止みませんでした。ですので、政治と武力は一体的に考え、行動する必要がまだまだあった時代でした。
 一方で、徳川幕府によって、武力の台頭を許さない社会への圧迫を加えつつある中で、世が安定しはじめており、経済活動が日本各地で盛んとなっていました。ですので、政治・経済・軍事をうまく使い分けて活動できた池田武士が活躍する場もあり、その能力を持っていた一人が甲賀谷正長だったのかもしれません。
※1:永年、満願寺屋の禁制について、徳川家康の陣所である奈良暗峠に池田酒を献上した事として、エピソードが通説化していましたが、私が改めてこの流れを検証したところ、事実とは少し違うところを発見しました。池田衆が訪ねたのは、尼崎の松平(池田)武蔵守利隆をだったと思われます。利隆の母は摂津茨木城主中川清秀の娘であり、摂津池田家とは、非常に縁の繫がりが太い関係性があった人物です。詳しくは、以下の過去記事にありますので、ご参照下さい。
 
甲賀谷正長と伝法及び尼崎のつながり
甲賀谷正長と伝法及び尼崎のつながりですが、それらはやはり、「酒造」と「日蓮宗信仰」ではないかと思います。日蓮宗は町屋と町衆を布教対象にしており、そういった点で、人々の集まる町には自然と縁が深くなります。
 ちなみに、正長と関わっている法華宗系の寺院(池田の本養寺、尼崎の長遠寺)は、京都六条本圀寺の六条門流です。伝法の正蓮寺は、その流れの中で創建されています。
 また、酒は輸送が重要であり、これも町や輸送の拠点との結びつきが強くなります。その意味で、尼崎・伝法は、輸送の拠点であり、地縁と人と宗教が、持ちつ持たれつの関係で調和が取れていたのだと思われます。伝法は、特に酒の輸送で発展した町で、池田・伊丹の酒造の発展と両輪で成長したともいえる歴史を持っています。(資料4「伝法村」の下線部分を参照下さい。)また、伝法は元々交通の要衝で、戦国時代には、城や砦が置かれていたとの伝承もある程です。同地は輸送の大動脈であった瀬戸内海が西側に開けている訳ですから、どの時代も自然と重要視される地理となっています。
 そういった古今東西、森羅万象をうまく使い分け、池田の酒造などの産業育成、町の発展を担った中心的な人々が活躍した時代が、甲賀谷正長の生きた時代だったのだと思います。


尼崎 長遠寺 甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の墓






此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(戦いの無い平和な時代の池田と甲賀谷氏を考える)

図1:元禄期の酒屋・炭屋の分布図
池田も伊丹も尼崎も、戦いの無くなった世で、復興を遂げていきます。その過程で池田は満願寺屋を中心とした酒造業が隆盛し、一大産業化して町の復興を牽引します。池田酒は、その品質がもてはやされ、江戸でもブランドとなっていきます。池田酒について以下にご紹介します。
※江戸下り 銘醸 池田酒と菊炭(池田市立歴史民俗資料館)

(資料9)-----------------------
【池田の酒造業の発展】
池田の酒造業は、満願寺村(川西市)から応仁年間(1467 - 69)、池田に移って酒造業をはじめた満願寺屋にはじまるといわれている。家伝によれば、宝暦14年(1764)時点ですでに、「2〜300年以前より酒造仕候様に相聞へ」といい、慶長19年(1614)、大坂冬の陣で家康が暗峠に陣した際、池田の銘酒を献じ、そのために朱印状が授けられたという。
表1:摂泉十二郷の江戸積入津樽数
物事の始まりをよく古く表現することは、古来から常に行われてきたことなので、これをもって池田の酒造業の始まりとするわけにはいかないが、室町時代終わりごろには、既に町屋が形成されるなど、早くからひらけた土地であったため、酒造業の始まりも、戦国時代末期から安土・桃山時代ごろまで遡ることができるものと推定されている。
 江戸時代に入り、幕府の酒造統制政策のもと、池田は「往還の道筋、市の立つ処」として酒造業がみとめられ、朱印状の庇護もあって、伊丹と並ぶ銘醸地へと発展したのである。

◎池田酒 豊島郡池田村に造之、神崎の川船に積しめ、諸国の市店に運送す、猪名川の流れを汲で、山水の小清く澄を以て造に因って、香味勝て、如も強くして軽し、深く酒を好者求之、世俗辛口酒を伝へり。(「摂陽群談」元禄14年刊)
◎池田、伊丹の売り酒、水より改め、米の吟味、麹を惜しまず、・・・・・軒を並べて今の繁盛、・・・・・大和屋、満願寺屋、賀茂屋、清水屋、此の外次第に栄えて、上々吉諸白、・・・・・。(井原西鶴「織留」)

このほか、池田の酒を紹介した当時の書物は、枚挙にいとまがない。
 明暦3年(1657)の酒造株設定時には、42株、13,640石がみとめられ、元禄期には、60株を超えた。江戸積銘醸地の中でも中心的存在で、元禄10年(1697)、池田から江戸へ下った酒は、28,238駄 = 56,576樽にものぼる。これは、この年の江戸下り酒総入津髙の8.8%を占め(表1参照)、まさに、近世池田酒造業の全盛期であった。
 このころの酒屋の分布状況をみてみると(図1参照)、そのほとんどが東・西本町(現栄本町)に集中している。池田屈指の酒造家満願寺屋や大和屋も、東本町(現在のコミュニティセンターから職業安定所付近)にあった。
図3:江戸時代・池田酒の商標
満願寺屋は「小判印」「養命酒」、大和屋は「山印」「滝ノ水」を醸造し、江戸の人々の評判も高かったという。伊居太神社(綾羽2丁目)には、全盛期の元禄14年、酒屋六尺中から奉納された井戸が残っている

【池田酒造業の衰退】
幕府の酒造統制が緩和され、灘をはじめとする新興酒造地が登場してくると、池田はだんだん遅れをとるようになった。その後の酒造政策によって若干の変動はみられるものの、池田が占める江戸積入津樽数の割合は減少の一途をたどり(表1参照)、酒造株のなかでも休株のものが目立ってきた。
 衰退の要因には、いくつか指摘されている。その一つは、池田が海岸線から遠く、江戸積みには不利な条件であったことである。江戸時代を通じ、猪名川通船願いが何度となく出されるが、その都度、池田をはじめ周辺諸駅の馬借らが反対し、実現しなかった。天明4年(1874)、ようやく許可されたが、それは、下河原(伊丹市) - 戸野内(尼崎)間に限られていた。
池田から江戸までの輸送経路と運賃
したがって、池田の酒荷はまず、牛馬で広芝、あるいは神崎・下河原へ運ばれ、そこで小型廻船(小廻し)に積み替えられ、安治川・伝法まで送られたのち、再び樽廻船に積み替えられて江戸まで廻送された。このことは、単に運賃が余分にかかるというだけではなく、駄送では輸送量も限られ、なんといっても二度の積み替え作業で、江戸着までに多くの日数を要することが大きな問題であった。酒荷は、特に迅速性が要求されるものであっただけに、海岸沿いの灘にくらべ、奥まった地の池田は不利であった。
 第2点としては、酒造技術(水車精米・仕込方法)改良の遅れがあげられる。灘では、近世中期から、既に水車精米を採り入れていたのに対し、池田や伊丹では、依然、足踏み精米にたよっていた。明治期に入ると、木部の水車場を利用していたことが知られているが、いつ頃から水車による精米が始まったか定かでない。文化年間(1804 - 18)にも、木部の水車場が米搗きに使用されていた記錄があるが、酒造業との関係は詳らかではなく、仮に酒造米の精白に使用されていたとしても、灘方面の急流を利用した水車に比べ、その精白度や精白量は低かったと思われる。
 仕込技術の面では、薄物辛口への好みの変化に対応し、文化・文政期、灘では、米1石に対し水1石の仕込方法に成功しているのに対し、池田では、米1石に対する水は5割弱に過ぎなかった。
呉春酒造酒蔵梁の書付(元禄14年 甲賀谷仁兵衛)
第3点目は、在郷町池田の特権のよりどころであった朱印状が、官没収されてしまったことである。この「朱印状事件」は、安永3年(1774)、満願寺屋が大和屋からの借金300両の返済を拒否したことに端を発し、朱印状の下付先が満願寺屋か池田村かの争いへと発展、ついに、安永5年、満願寺屋の借財返済と朱印状官没収が命じられたものである。特権のよりどころを失った池田は、酒造業だけでなく、在郷町の機能全体としてもかげりをみせるようになったと訴えている。
 このほか、酒造家が金融業へ一部資本を転換するようになったことなども要因の一つにあげられている。こうした諸条件が重なって、やがて、江戸積酒造体制から脱落し、酒造株の質入れや売買が行われ、「出造り」が一般化していった。
 以上のような発展、衰退の歴史のなかにも、新旧酒造家の交代がみられる。元禄期ごろ、上位を占めていた小部屋、菊屋、満願寺屋に替わり、江戸時代後期は、甲字屋、綿屋などが成長してくる。これら新興酒造家の中には、酒造技術の改良に努め、辛口薄物の酒の量産化を実現したものもいる。しかし、こうした動きが池田の酒造業の復興までに至らなかったのは、これら酒造家が、純粋に酒造経営を行っていたのではなく、貸金を主とし、酒造業を行っていたという点にあったといわれている。仕込技術では、遅れを取らずとも、原料の酒米の多くを質入米に頼っていたことが、酒の品質を左右したのではないかと考えられている。
-----------------------(資料9おわり)
※文中の酒造家小部屋とは、「小戸」か。

少々長い引用でしたが、酒造と輸送は両輪ですから、効率のよい輸送(出荷)をどのように確保するのかは、非常に重要な問題です。この池田の一大産業の勃興に、池田の武士や元の住人が戻って従事するようになっていたようです。酒造最大手の満願寺屋は、当主の名を「荒城九郎右衛門」といい、「荒城」との字を充ててありますが、これはやはり「荒木」であろうと思われます。また、他の荒木一派も「鍵屋」という屋号で酒造業を営んでいたり、他にも池田家中の武士であった酒造家もありました。
 一方で、それに関連する役割を持つ者も当然いた事でしょう。荒木村重は没落して後、摂津国守護職であった頃の役目の延長で、鋳物師統括に関する取り計らいをしていたらしい史料もあります。
※中世鋳物師史料P141

(資料10)-----------------------
先刻申し入れ如く候。彼の知行分の儀、荒木弥四郎村基存分に成り候者、知行分存知候間、重馬之かい料の儀、進められるべく申しの由、松台(不明な人物)仰されるべく候。恐々謹言。
-----------------------(資料10おわり)

上記は年記を欠く、3月26日付の文書で、宇■真清、公卿真継久直宿所へ宛てて音信されているものです。宇■真清とは、■が欠字ですが、これは宇保という人物と思われ、宇保は今の池田市内にある地域の「宇保」の有力者と考えられます。この地域にも宇保姓の武士が居た事は、当時の発行文書からも明かです。また、真継久直とは、あまり地位の高くない公卿ですが、日野家に関係し、全国の鋳物師の統括を担っており、この頃は、一元化を推し進めている途上でした。その流れの中での文書です。

このように、甲賀谷正長も池田の家老的重職を務める役の家系にあったようですから、その政治力や人脈を活かした、時代時代の役割りがあったのだろうと思われます。
 先にも述べたように、正長は長遠寺の復興や正蓮寺の創建に、中心的な役割りを果たしており、それに伴う経済的支援もしていることから、相当な経済力も持っていたことは明かです。甲賀谷という、いち地域から町全体の政務(まつりごと)を行う地位に昇っていたのかもしれません。

最後の桶職人 武呂氏(池田酒と菊炭より)
ちなみに、甲賀谷正長の名乗りの起源であった、江戸時代の甲ヶ谷の様子について、資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料11)-----------------------
【甲賀谷町(現池田市城山町・綾羽1丁目)】
東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
-----------------------(資料11おわり)

甲賀谷は、近年まで大工職をはじめ、職人の多い町として知られていて、この江戸時代の流れが、その時代に沿いながら地域の定形文化が続いていたといえます。




此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(摂津池田出身の甲賀谷氏の出自が武士であったであった可能性)

池田家中(若しくは荒木家中)にあった甲賀谷正長も、その流れの中で、自身の役割りと能力を生かして活動していたと思われます。甲賀谷氏と深い繫がりがあると考えられる「甲賀伊賀守」についての記述を参考までにご紹介しておきます。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

(資料7)-----------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
-----------------------(資料7おわり)

摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
上記は伝聞資料ではありますが、ある程度正確に記述されていると考えられます。また、時代もハッキリと記されていませんが、本拠地機能を拡大・移転させるにあたり、荒木村重が伊丹の有岡城を稼働させた天正3年頃を区切りに記述したものと考えられます。
 個人的には、荒木村重が池田家から身を起こして地域勢力の主導権を確立して行く中での統治・支配体制(軍事的にも)ではないかと考えています。
 当時の発行史料から見れば、池田一族が中心であった頃の統治機構(池田四人衆:家老)はこのメンバーでは無い事が明らかです。
 記述にある「池田の城伊丹へ引さる先」とは、天正3年秋以降の事を指すと思われますが、流れとしては、天正元年の8月頃に、村重を「摂津守護に目す(正式では無いが)」公言があったようで、それを元に様々な状況変化が起きています。
 織田信長の期待通りに行動した村重は、天正3年8月頃に「摂津守」を正式任官し、名実共にその座に就いています。その頃には、地域政権の体制ができていたようですが、そこに至るまでの黎明期には、地域に影響力のある人物を立てざるを得ませんので、村重に理解のある旧池田勢力を活用したのだろうと思われます。それが記述に見られる、「右五人之家老町ニ住ス」顔ぶれだったのかもしれません。
 本拠機能が伊丹の有岡城に移ってからも、池田でのこの体制は続いたと思われます。「池田と伊丹は一対の城」と記述されてもおり、池田は非常に重要視されていましたので、配置の人選も念を入れたものになっていたことでしょう。

また、天正6年秋、荒木村重が織田政権から離叛し、池田の町に戦火が及んだ様子が伝承されていますので、以下にご紹介します。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 本』)

(資料8)-----------------------
一、天正之乱■当国大形在々所々三日三夜之内中二焼き払われ方々へ逃げちらし金銀たくわへ有人は他国二住ス也。一、此時池田之人々他国へ行も有、池田山のうしろ丸尾はばと云所二小屋かけ住、折々里へ下り耕作つくり住人八十余有、雨降時ハ長櫃二置かがみ住人も有、作り付たる田を伊丹より夜ル来刈とらるる人も有。
■ = 欠字
-----------------------(資料8おわり)

このように、織田政権から離叛した荒木村重は、滅ぼされてしまいます。伊丹や池田、尼崎など主要な都市は攻め落とされて、町も大きな被害を受けました。
 池田の町の「甲賀谷」とは、甲賀伊賀守をはじめとした、甲賀地域から人々が移り住んだことがキッカケで地名となったと思われます。その地に関わりの深い人物が、甲賀谷氏であろうことは、自然な流れとして起きた事と考えられます。

しかし、その後、織田信長も斃れますが、時代は大きく動き、日本国全体は武力統一されて平和な世が訪れます。




2019年8月24日土曜日

此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(海照山 正蓮寺(此花区伝法)について)

前回は、大尭山長遠寺(現尼崎市)を中心に、甲賀谷正長と池田のつながりについて、考えてみたのですが、今回は特に、日蓮(法華)宗系の池田やその周辺の関係寺院に範囲を拡げて調べてみました。先ずは、大阪市此花区にある正蓮寺についてです。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より

(資料1)-----------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。
 大阪の代表寺院25ヶ寺の内に数えられた正蓮寺は、惟うに権門の庇護に依り建立された寺ではなく、土着の一無名人の発願にて創立された庶民的な寺院であります。創建以来来伝燈絶えずして信徒参集し、寺門興隆して現在は第26世を踏襲するに至っております。
第7世 寂行院 日解上人墓
【伝法の川施餓鬼】
享保6年(1721)、当山第7世、寂行院日解上人は、日蓮大聖人が海中にて衆生済度せられた功徳を継承せんとて、川供養の行事をはじめられたのが、いまの伝法の川施餓鬼であります。創始以来、正蓮寺川に棚を作り色々な供物をして、有無両縁の万霊を供養して参りました。摂津名所図絵に記されている様に、数百曳の船団で参拝者が群集したしました。地元の伝法・高見・四貫島の各家では、遠近より親類縁者を招いて精霊をお祀りし、法要の後は各船団は棚を片付けて船遊びに興じてお祭り騒ぎになるのが常でした。陸では数百の露店が賑わい、名物の枝豆・竹ごま・焼鳥屋などが繁昌し、全く天神祭をしのぐ程の盛大な大阪の夏を締めくくる行事でした。夕刻、船団も引き揚げ露店も終わる頃には涼風も吹く時期でもあり、「暑い夏には天神祭、あついあついも施餓鬼まで」と、今日までの夏の風物詩として語り継がれ親しまれて参りました。古来より仏法経典の渡来した最初の浜とも云われる伝法の地であります。仏事が盛大に行われて来たのも当然のことと思われます。昭和46年には、川施餓鬼創始250年の記念大法要を厳修いたしました。殊に現在は、区内に奉賛会が組織され、更には浪速全般に亘る参拝会の活躍は、誠に有り難いことでもあります。ただ、昭和42年頃より正蓮寺川の汚濁が甚だしくなった為、川渡御は新淀川に移すことになりました。平成26年度に「正蓮寺の川施餓鬼」として大阪市指定無形民俗文化財に指定されました。
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正蓮寺さんに直接尋ねたところ、水害などで寺の文書などが流出してしまい、石仏など一部の遺物や口伝しか残っていないとの事で、今のところ、これ以上の直接的な手がかりはありません。

さて、上記の略縁起中の記述について、少し注目しておきたいと思います。甲賀谷正長は「武家」と伝わっており、やはり池田での伝承記述『穴織宮拾要記 末』にある甲賀伊賀守に系譜を持つ人物の可能性が高いように思われます。
摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
また、「たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。」との件について、池田城下には本養寺という日蓮(法華)宗のお寺があります。室町時代の創建で、近衛家ともつながり、京都の大寺院である本圀寺から開山の住持を迎えています。
 甲賀谷正長が、池田の本養寺を通じて日蓮(法華)宗に接していたのなら、京都から来た唯性院日泉上人とも接点はあるでしょう。ですので、この正蓮寺縁起中の話しの環境は、時代の事実に沿って、概ね整っています。
 それから、「毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。」の記述は、池田に海はありませんので、他のどこかでの出来事でしょう。邸内とは、池田の屋敷かもしれませんが、判別不明です。しかし、いつも身近なところに海があり、夜に起こる現象を度々見ることができるのですから、その辺りに定住するなどしていた可能性が窺えます。いくつかの屋敷を持っていたのかもしれません。
 後に延べますが、甲賀谷正長は、武士としての経験を活かした政治的活動や運送、酒造に関わる生業で、移動することが多かったのではないかと今のところ推定しています。


海照山 正蓮寺
〒554-0002 大阪府大阪市此花区伝法6丁目4−4





此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(はじめに)

摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?」の記事に続いて、同じテーマでもう少し調べを深くしてみました。この記事の中心である、甲賀谷又左衛門尉正長についてですが、その行動からして、日蓮宗(法華)への信仰を深くしている人物である事がわかります。要素を区切って、深く掘り下げていきたいと思います。

詳しくは、以下の記事をご覧下さい。

はじめに
海照山 正蓮寺について
瑞光山 本養寺について
伝法(大阪市此花区)について
摂津出身の甲賀谷氏の出自が武士であったであった可能性
戦いの無い平和な時代の池田と甲賀谷氏を考える
戦国武将甲賀谷長正という人物像の輪郭

【参考記事】摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?
【参考記事】『荒牧郷土史』に記録された「酒造」と荒牧屋について