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2011年4月11日月曜日

元亀元年の摂津守護池田勝正の金ヶ崎・天筒山城攻めについて

7月にちょっと池田勝正について講演させていただく機会を得ていまして、現在色々と資料の整理をしています。「朝倉・浅井攻めと池田勝正」というような方向性で、内容を考えています。

普段は、仕事が終わって寝る前とか、休みの日などに、ひたすら資料を読んで調べるのですが、時々、現地に出かけてそこの環境を自分の目で確かめる事もします。
 人間が地球の重力に逆らって生きられないように、社会も周辺環境から逃れられず、その影響を受けて形成されているからです。もちろんその土地の自然環境も。城にしろ、町にしろ、街道にしろ、それぞれ複合的に関係して形成されています。そんな訳で、途中の街道様子も含めて、金ヶ崎・天筒山城の立地環境を見に、現地に行って来ました。


元亀元年4月24日、幕府・織田信長の軍勢は、若狭国境を越えて、越前国敦賀郡内の金ヶ崎・天筒山周辺の攻撃を行っていたようです。
 幕府・織田勢は、翌25日あたりから金ヶ崎・天筒山への攻撃を開始しています。その時信長は、花城山城(敦賀市櫛川)に入って督戦していたようです。信長が本陣を置いた場所はもう一ヶ所、妙顕寺(敦賀市元町)があるのですが、ここは城に近すぎるため、25日の時点では安全確保が難しく、多分最前線の本営だったように思われます。

ただ、26日には、金ヶ崎・天筒山とその南側の拠点である引壇城が落ち、安全が確保されたために、ここに信長は本営を移したようです。
最初具足山妙顕寺さん(敦賀元町)の公式ホームページ

現地に行く価値は、こういった立地条件を見る事に加えて、地元の郷土史学会などから発行された資料も見る事ができますし、そこにお住まいになって研究されている方からもお話が聞けます。気候や習慣なども直に見聞きできます。これらは、流通している資料だけではわかりません。

朝倉・浅井攻めの時の信長は、非常に慎重で、用意も周到である事から、いわゆるカケのような行動はしていなかった事がわかります。また、信長には、日野や飛鳥井などの公家衆も同行し、朝廷公認の官軍としての行動をしているからには、尚更の事だと思います。
 朝倉攻めの目的は、朝倉が官軍に弓を引くかどうか、また、浅井が噂通りにそれに呼応する動きをするかどうか、確認のための行動であった事が、実際のところではないかと思います。
 元亀元年初頭に諸大名に出した、朝廷と幕府に従うようにとの旨の公的な触れは、朝倉義景には、送っていないだろうと思います。その触れには、義景への名前がありませんし、例え送ったとして、義景がそれに従えば、攻める理由が無くなってしまいます。
 信長は、京都への交通拠点の確保と朝倉・浅井方がこの方面で押領している権利の返上(被権者への還付、返還。)を意図もしていた事と思われますので、最初から軍事侵攻以外の選択肢は持っていなかったのだろうとも思います。
 また、朝廷・幕府・権門の復古政策(ある意味、経済基盤形成支援をはじめとした融和策)もあったように思え、京都の防衛、流通に関する要素は、直接的に政権の影響力を及ぼせるように企図していたのではないかとも思えます。そうすると敦賀や小浜は必要ですし、そこにある愛発関(あらちのせき)や木ノ芽峠などは、押えておかなければいけない場所だったのかもしれません。また、近江国の海津も含まれるかもしれません。

そして、朝倉・浅井の意志を確認した信長は、京都に素早く戻り、摂津国の本願寺や三好三人衆の動きを確認しつつ、控えの軍勢約2万を以て、岐阜へ出発。岐阜にも控えていた軍勢と合流し、朝倉・浅井方に近江国姉川にて決戦を挑みます。

呉江舎「摂津池田氏:摂津守護となった池田家」もご覧下さい。




2010年12月10日金曜日

池田勝正も従軍した、元亀元年の金ヶ崎の退き口について考える

私の思考がそっちに向いているついでに、再度「金ヶ崎の退き口」について考えてみました。

ちょっと、攻める側の幕府・織田信長方と、攻められる側の朝倉・浅井方の立場で各々考えてみてたいと思います。
 『言継卿記』を見ると、いわゆる「金ヶ崎の退き口」が開始された直後の4月29日、六角承禎などの勢力が、近江国内に内に入って放火などの打ち廻りを行っています。その後も大規模に攻勢を続けている事から、準備の上での行動だったようです。この六角氏の行動は、朝倉・浅井方とも連動した行動だったと思われ、意思統一ができていたのでしょう。

城趾から見た敦賀湾と市街地
となれば、朝倉・浅井方にとっては、幕府・織田勢が、木ノ芽峠を越えて嶺北地域に入ったところで「挟撃する事」を計画していたと考える方が自然だと思います。金ヶ崎の退き口での朝倉方の動きは、遅れた動きのように見えますが、それを予定していたために、後世に誤解されているかもしれません。

一方、幕府・織田方は、木ノ芽峠を越えてしまうと、挟撃される恐れがあり、これを十二分に注意して警戒していたはずです。疋田城や天筒山・金ヶ崎城で朝倉方が抵抗している以上、構えの姿勢をみせており、幕府・織田方に対して開戦準備をしていた事も明らかです。
 天筒山での交戦では、朝倉方に1,000名以上もの犠牲を出しているらしい事から、全体としては相当数人数を用意していた事がわかります。それは数十、数百では比べものにならない組織力と準備が必要な数です。

中池見湿地
前の項目でも触れたように、永禄12年時点で浅井方に不穏な動き(将軍義昭(幕府)からの離反)のある事が噂されており、幕府・織田方はこれを十分に警戒して、浅井方の動きを探っていたと考えるべきだと考えています。信長が引き返す決断をした、位置とタイミングが絶妙過ぎます。偶然では無理でしょう。
 また、信長は、4月23日に若狭国佐柿の国吉城に入ると、ここに2日間留まって戦況を分析し、準備が整うのを待って、関峠を経て越前国敦賀へ入っています。近江国西岸・若狭国での行動とは違って、越前国侵攻が開始されると、非常に慎重な行動を取っています。更に、国吉城という非常に堅固で安全な城を本営に選んでもいます。

要するに、「金ヶ崎の退き口」は、朝倉・浅井方の意図が、警戒していた幕府・織田方に事前に発覚しまい、朝倉・浅井方の予定が狂ってしまった戦いであったのだろうと見られます。
 ですので、現在伝わっているところの「金ヶ崎の退き口」という退却戦は、幕府・織田方にとっては、危ないのは危ないと思いますが、窮地という程のものでは無く、冷静・沈着に予定通りの行動で撤退した事でしょう。
 朝倉・浅井方が深追いしなかったのも、こういった状況から、事実上、「できなかった」というのが正確なところではないかと思います。