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2020年3月8日日曜日

明智光秀も度々利用した余野街道上に存在した、池田市伏尾町の八幡城が巨大であった可能性について

現在の池田市伏尾町にあった八幡城について、詳細は判っていないのですが、その城が巨大であった可能性を考えている方がいます。
 池田郷土史学会会員の岩垣 正氏による調査で、縄張り図が描かれ、それによる全容想定図も描かれています。氏は学生時代に日本画を専攻され、それ故にこのような図を描くことも可能でした。
※図の制作者様には許可をいただいて掲載しております。

摂津八幡城想定復元図:岩垣 正氏

摂津八幡城縄張想定図:岩垣 正氏

調査時の現地の状況

池田郷土史学会による数度の踏査と、業界でも有名な専門家による実地見聞も行われています。八幡城は現在も調査中ですが、その専門家の判断によると、今のところ城なのかどうか判断がつかないとのことです。もう少し詳しく必要要素の発掘と現地調査が必要なようです。ただ、一部は寺の施設ではないかと判断されていました。

そういうった現状ですが、個人的には、ここにこのような城があっても不思議では無いと感じています。
 というのは、享禄年間から天正年間始めまでの摂津国池田周辺の動きを見ていますが、池田家が隆盛した天文年間から永禄の三好長慶政権時代特に、丹波国方面から池田へ敵が南下する例があまりありません。河辺郡あたりに南下する例が集中していることに、違和感を持ていました。もっとも、池田家は「余野街道(池田道、亀岡道とも)」沿いに影響力を拡げ、止々呂美、余野、木代などの地に婚姻、代官地などを持っていた影響もあったと思われます。
 それに比べて芥川や西岡方面は、丹波方面から敵方勢力が度々降りてきて、山城・摂津国で打ち廻りました。池田方面の、このような動きが少ないのはどうしてなのか、永年に渡って疑問に感じていました。
※三好長慶が京都防衛のため、芥川山城に拠点を構えるようになると、この地域への南下は無くなる。
 しかしながら、こういった城があるならば、それは私の疑問を解いてくれます。これ程の城があるならば、軍勢が丹波国(余野)方面から南下することは不可能です。

また、摂津池田衆の主体が滅び、代わって荒木村重の統治下に移ると、丹波国方面へは池田を通って入ることも多くなるようです。それもやはり、このような施設が途上にあれば、軍事・政治的に大きな意味と利便性があるからです。
 明智光秀の丹波攻めでは、度々池田を通路に使っています。また、天正三年の丹波国撤退の折、池田を通って退却しています。

それからもう一つの大きな要素は、久安寺という大寺院の存在です。このお寺は、戦国の争乱で荒れ、また、忌まわしい明治の廃仏毀釈によってそれまでの宝物や資料の大多数を毀損してしまい、残った遺物が殆どありません。それ故に、口伝と仏像などの遺物、僅かに残った形跡から再生・復元推定するしかありません。しかし、状況証拠から必然は見えてくるものと思われます。その久安寺についても、近日、詳しく検証したいと思います。

この久安寺は、行基の創建から天皇の勅願寺としての由緒を持ちます。ですので、巨大な宗教組織、施設が豊島郡(池田)の北部に存在したことは確実です。当然これに、池田氏も対処する必要があり、地域政治を執る上で、協調なり上下関係なりが存在したことは想定できます。
 それがどういったものだったのか、当時の必然性は、今のところ不明ですが、非常に興味深い要素が細河郷い存在していたことだけは確かです。これまでにあまり、これへの思索が行われていないようですので、少しこだわって掘り下げてみたいと思っています。

最後に、以下、「八幡城」について、先行する研究資料を上げておきます。

◎八幡城:はちまんじょう(池田市伏尾町)
  • 伏尾の北方、東野山の山頂にある。東西南の三面を久安寺川に囲まれ、北方は低地で濠渠も形をしており、これを城山という。頂上に平坦地があり、周囲870メートル余、武烈天皇崩御の際、丹波国桑田郡にあった仲哀天皇5世の孫大和彦主命を迎えようとして、迎えの武士が桑田に向かったが、王は捕り方の兵と誤解、逃れて東能勢止々呂美の渓谷を下りて、東野山に来て住んだ。その後、1世の孫猪名翁に至って、行基菩薩を迎えて久安寺を建立した。
     後、承平天慶年間(931-46)、多田源満仲の家臣藤原仲光がここに館を築いて居住した。また、元弘年間(1331-33)には、赤松播磨守則祐はこの地に砦を設けて拠った事がある。【全集:八幡城】
  • 『摂陽群談』によれば、伏尾にある古刹久安寺(聖武朝神亀2年、僧行基開創)山内に築かれた山城で、多田満仲の臣藤原仲光が在城と伝える。遺跡は東野山山頂部にあり、土壇が存在したという。【大系:八幡城】
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。慶長10年(1605)摂津国絵図には伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉石高帳に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】
  • 八幡城址は北方東野山にあり、楕円形をなし、周囲大凡八丁の地にして、東西南の三面は久安寺川之を囲繞(いじょう)し、北方は低地にして壕渠の形を為せり。土壇は今も尚存して、俚俗は之を城山と呼び、多田満仲の家臣藤原仲光此に居り、後播磨守と称する者の籠もりし所なりと伝うれども、其の氏名年紀などは詳らかならず。また廃絶の年月の如きも知るに由なし。山に麗水あり、城兵の用いしものなりという。
     本地は延宝年間より徳川氏代官の支配となり、同代官継承して斎藤六蔵に至る。其の後の管轄及び区画の変遷は、大字吉田に同じ。【大阪府全志】
  • 同郡伏尾村久安寺山内にあり。多田満仲公の家臣藤原仲光在城後に播磨守在城と云へり。氏年歴所伝未詳。山の原に麗水あり。井水の部に記す。是即ち城郭の用水也と云へり。【摂陽群談】

 

※念のため、これらの出典は、後で付け加えたものではなく、公開当初からあるものです。そのような卑怯な事は絶対にしません。私は常に、論拠を以て話す姿勢は崩しません。分からないことは、想定として記述しています。

2016年9月17日土曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(細河庄内の東山村と武将山脇氏について)

摂津国豊嶋郡細河郷内の東山村(現大阪府池田市)は、室町時代の応仁・文明の乱以降、成長し始めた池田家にとって、次第に政治・軍事面においても重要な関係に深化します。その東山村からは、山脇氏が頭角を現し、池田氏と姻戚関係も結び、池田一族として家政の一翼を担っていきます。
 また、その拠点としての池田城を守るための防御構成も年々強固なものに成長させていきます。同時に、政治・経済的な支配も拡がり、その意味でも五月山と細河郷、そして東山村は、大変重要な位置付けともなります。
 そうなると、自然と城郭化していくものと思われますが、今のところ、公式に城郭に関する調査もされていませんので、想像の域を脱する事はありませんが、全く無かったとは言えない資料も断片的に見出せます。そういった可能性もご紹介できればと思います。

そして、摂津国内の最大勢力を誇った池田家も内紛を繰り返し、遂には解体となりますが、その池田家を継ぐ事になったのが山脇系池田氏であり、池田家の歴史を見る上でも、この東山村の歴史を掘り下げておく事は重要です。
 今ある資料や筆者の見聞きした事など、ひとまずそれらを包括的にまとめ、今後の研究に繋げていきたと思います。

<概要>
先ず始めに、他の項目と重複しますが、現在既に論説されている東山村とそれに関する寺社を示してみたいと思います。なお、東山村が含まれるより大きな地域単位としての細河郷(細川庄)については、先に公開しました当ブログの「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺)」をご覧下さい。

◎ご注意とお願い:
 『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。
 
各項目の出典は、○○(県名)の地名【地名】、新修池田市史(○巻)は【新市史○巻】、池田町史(第一篇:風物誌)が【池田町史】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。

(資料1)-------------
◎東山村(池田市東山町)
東山村の見取図(新修池田市史より)
中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。
 慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。
 村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】

◎真宗 東本願寺末 返照山 円城寺(池田市東山町)
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とする。天文14年(1545)4月西念の創立なり。慶応4(1868)1月29日、火災に罹り焼失し、明治元年住職知成檀家と協力して、之を再建せり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:円城寺】
  • 細河谷と呼ばれ、久安寺川の両側に広がる一帯の植木の郷の起源は、350年から400年に遡る正保年間(1644-48)及び更に天文年間(1532-55)にも至ると言われています。
     その東北山側に東山(町)があります。日照時間の短い湿度と日陰と赤土を生かした「東山の鉢挿」は、有名なサツキ・ツツジの特産地として知られています。(サツキツツジは池田の市花となっています。)この様な集落の佇まいに、円城寺の古寺がひっそりと歴史を刻んでいます。
     東山バス停の地蔵堂を過ぎ、しばらくして右折れし、なだらかな山麓の坂道を数分登ると左手に石垣を巡らせた円城寺があります。その裏手には、同寺の経営される細河保育園があって、元気な子ども達が寂しさを和らげてくれます。
     円城寺の開創は天文14年(1545)、僧西念によると伝えられます。当主(住職)は17代目となるので、少なくとも500年以上になる寺です。しかし残念な事に、明治元年、この寺に仮寓していた乞食の失火によって堂宇全てが焼失し、貴重な文書・遺物が失われてしまいました。けれども本尊の阿弥陀仏と仏画は辛うじて持ち出され、現在拝むことができます。
     本尊・仏画はよく修復されて、仮本堂ながらも立派に祀られています。秘められた歴史の遺品として、まだまだ調査の必要な寺院です。特に本尊の台座は、他に見られない重厚な造りとなっています。【改訂版 池田歴史探訪:円城寺】
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗東本願寺末である。天文14年僧西念の創立なりと伝へらる。【池田町史:円城寺】

◎曹洞宗 大広寺末 瑠璃光山 東禅寺(池田市東山町)
  • 字上条にあり。瑠璃光山と号し、池田町(市)曹洞宗大広寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とする。僧正行基の創建に係り、紫雲寺と号せしが後、屢々兵燹(へいせん)に罹りて廃絶せしを、慶長9年(1604)2月、僧東光、其の旧蹟に一草庵を結びて再興し、今の寺名に改む。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:東禅寺】
  • 東禅寺へは少々体力が必要です。円城寺から上へ右手(南へ)にとると、少し下って薬師堂のある広場に出ます。ここから左手(山手)を更に集落の急な坂道を登りつめた台場にひっそりと古寺が佇みます。
     当寺の開創は、慶長9年(1604)、僧「東光」と伝えられます。また、元「紫雲寺」で、行基菩薩の開創とも伝えられています。現在の建物は古いものではありませんが、今の住職が中興の祖から7世にあたりますので、開創からは20世にもなり、400年を越える歴史のある古寺と言えます。本堂の釈迦如来のほかに、この寺の宝物は観音堂に安置されている四躯の仏像です。何れも池田市重要文化財として指定されています。(中略)。
     本堂の鬼瓦に揚羽蝶が見られますので、織田氏・尾張池田氏との関わりがあるかもしれません。池田の埋もれた歴史がこの寺にもあると思います。境内に引かれた涌水は、渇き疲れを癒やす甘露として、知る人ぞ知る名水です。墓地の歴代の住職の墓石は重厚感があります。また、同寺には石造美術品として、宝篋印塔があり、応永2年(1395)の銘が刻まれています。【改訂版 池田歴史探訪:東禅寺】
  • 東山字上絛にあり、瑠璃光山紫雲寺と号し、曹洞宗総持寺末である。【池田町史:東禅庵】
    ※池田町史の編纂当時、東禅寺は「東禅庵」であったらしい。表記は東禅庵としている。

◎愛宕神社(東山神社)
  • 東山の氏神は、普段は「愛宕さん」と愛情を込めてよばれている愛宕神社で、白馬にまたがった神神像のご神体(元禄8・1695の作という)がある。しかし、一方で吉田にある細川神社の氏子でもあって、人々は二重氏子になっていることになる。
     愛宕神社には禰宜講があり、勧請の状況や宮座の存在をうかがわせるが、詳細な記録は残されていない。禰宜は現在11人で、かつては終身であったが、昭和56年以降は、80歳定年制に切り替えられた。禰宜になるには百姓株の男子であれば誰でも良いとはいえ、年配者である事が求められ、推挙を受けて禰宜になる時には婚礼のような儀式を行った。禰宜講に入る事を「イリクー(入組)」とよぶ。
     愛宕神社の祭祀日は、昭和55年の申し合わせにより、原則として毎月24日に決められた。村祭や正月、2月の節分、4月と6月の節供などで祝祭日が重なる時は、それに合わせて変更する事になっている。24日の祭祀は、当番の禰宜が祭主となって勤め、神主を招く事はしない。したがって、禰宜の奉仕は年間12回にもなる。(中略)。
     直会(なおらい)は、禰宜講で行い、昭和50年(1975)頃まで続いた。正月、節分、麦初穂(7月5日)、愛宕(9月21日)、松立て(12月24日)の年に5回であった。
     現在、初穂料として、百姓株の氏子は年間に麦初穂200円、米初穂300円を納める。財産による年貢は、若干の相違はあるが、7,000円ぐらいである。【新修池田市史:東山(氏神と祭)】
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既述のように東山村は、寛永・正保期(1624-48)の摂津国高帳での村高は541石余で、細河郷内では最も大きな石高を有しています。残念ながら人口に関する記録が見当たりませんが、石高に比例した人口であったと思われます。明治期の地図では、近隣の集落と比べても集落範囲が大きく表されています。
 また、東山村は五月山山塊北側の一段高くなった段丘に村が拡がっており、寛永・正保期には植木栽培が盛んであった記録があるようです。植木栽培は細河郷では古くから行われており、江戸時代にも絶える事無く行われていた事が判ります。

<交通>
東山村の眼下に余野街道があり、その脇にある余野川を挟んで、北方の低山の尾根上には、妙見道も望む事ができる眺望が開けています。この妙見道を目安として、河辺郡と豊嶋郡の境があり、河辺郡北部には多田源氏の系譜を持つとされる塩川氏が勢力を持っていました。
 また、東山村は、その余野街道を北から南下すると、平野部の入口にあたる場所でもありました。更に、村からその背後にあたる五月山には、何本もの山道(やまみち)があり、一旦、山に上がれば、南側の秦野村や新稲(現箕面市)、北東部の勝尾寺や高山村(現豊能町)方面へも行き来できました。

<多田院御家人塩川氏と細河郷>
摂津国河辺郡北部(現兵庫県川西市など)の山下城(一庫城)を本拠とした塩川氏は、多田院御家人の筆頭として、多田庄と能勢郡に影響力を持ちました。同庄は、他にあまり例のない程の広さを持ち、しかもその内に多田銀山(現兵庫県猪名川町)を含みます。また、能勢郡内(現大阪府)にも鉱山があり、その採掘に使われた間歩跡が、今も多数残っています。
 鎌倉時代から室町時代の応仁・文明の乱頃までは、塩川氏の勢いが強く、細河郷もどちらかというとその影響を受けていたようで、細河郷内での伝承記録にもその断片が見られます。その頃は、五月山が実質的な河辺郡との境になっていたかもしれません。参考として、多田源氏に関する資料を少しご紹介したいと思います。

(資料2)-------------
◎臨済宗 天龍寺末 薔薇山 松雲寺(池田市中川原町)
  • 字下門にあり。薔薇山と号し、臨済宗天龍寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とす。観応2年(1351)10月の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:松雲寺】
  • JA大阪北部細河支店の裏側を山手に少し登ると、松雲寺があります。細い参道へ入ると、苔むす石垣の上に真っ白な築地が続きます。しっとりとした石畳を踏んで進むと、すぐ山門に着きます。
     苔と下草に覆われた境内は、静寂そものです。正面に五月山を借景に本堂がひっそりと佇んでいます。「天龍寺派居士林道場」と書かれた木札が掛けられ、いかにも禅宗の寺らしく心落ち着く雰囲気です。
     現在の本堂は、昭和46年に建てられたものですが、創建は南北朝時代の禅僧夢想国師(疎石)で、600年以上の歴史を持つ古刹です。ご本尊は釈迦牟尼仏で、江戸時代末期の作と伝えられています。
     当寺は地元旧家である一樋家(多田御家人の系譜を持つ)の菩提寺としても関わりがあります。南側にある墓地には、歴代住職の墓石をはじめ、歴史を感じさせる古い墓石が並び、夜には怖くて近付けないような昔のままの雰囲気もあります。
     境内で心を静めて「禅定」の瞑想に、ひととき浸るのもここまで足を運ぶ甲斐があるのではないでしょうか。【改訂版 池田歴史探訪:松雲寺】
  • 中河原字下門にあり、薔薇山と号す。臨済宗天龍寺末なり。【町史:松雲寺】
◎真宗 西本願寺派 八幡山 如来寺(池田市古江町)
  • 古江字片岡にあり。八幡山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とする。本地住人岡本源之丞(了信)、本願寺良如法主に帰依し、寛文2年(1662)檀徒と協力して創立せり。(大阪府全志)
  • 八幡山と号し、寛文元年3月、開基釈了信の所有地に創立。(同寺所蔵 如来寺寺院規則)
  • 第1代寛文元年(1661)8月19日、亡 了信 創立時の如来寺は「片岡惣道場」であって、寺号は宝暦・明和(1751-72)頃に成立したらしい。(歴代住職表)
     良如法主(1612-62) 真宗本願寺派13世 諱は光円。12世准如上人第7子。
  • 八幡山 豊能郡伏尾村久安寺山内にあり。往昔、応神帝影向の山頭を以て、八幡山を称す。【池田市内の寺院・寺社摘記:如来寺】
     
  • 如来寺は、江戸前期の寛文元年(1661)本願寺13世の良如上人に帰依し、僧「了信」となった岡本源之丞ほか10数人の檀徒が建立した寺です。本堂は建立当時のもので、修復を重ねつつ300年以上も護持されて現在に至っています。(中略)。
     お寺のすぐ上は妙見街道となっています。「能勢の妙見さん」へのお参りの人々が絶えず往来しました。今は池田市立児童館となっている所に、古江の旧家森家の屋敷がありました。森家は肥後熊本細川藩の家老を先祖とする家柄で、この場所で漢方薬院として施薬・医療を業としました。妙見さんへ参る人々などの憩いの茶店が軒を並べ、中には体調を崩す人もあり、薬院は重宝され随分と流行りました。こうしてこの辺りは森家ゆかりの人、多田源氏落ち武者「ふるごんぼう」と呼ばれた古江御坊信仰の人等が集まり、邨が出来て賑やかになりました。やがて森家の財力によって檀那寺が建てられ、如来寺の前身となりました。この寺の殆どのものが森家の寄進によるもので、屋根瓦には森家の家紋である九曜星(肥後細川家の家紋)の紋が使われています。森家の菩提寺としての如来寺の墓地には歴代住職をはじめ、森家累代の墓があります。
     ちなみに箕面公園滝道に「森 秀次」の銅像があります。氏は、府会議員時代に、箕面山を密教の神聖な山として公園化に反対する人々を説得し、尽力されました。銅像は、公園の生みの親としての功績を讃えられたものです。氏はその後、国会議員となられ、大正15年(1926)に72歳で逝去されました。【改訂版 池田歴史探訪:如来寺】
    ※参考サイト:森秀次像は三度作られた
  • 古江字片岡にあり、八幡山と号し、真宗西本願寺にあり。【町史:如来寺】
◎真宗 東本願寺末 大雲山 専行寺(池田市中川原町)
  • 字南絛にあり。大雲山と号し、真宗東本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とす。万治2年(1659)正貞の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:専行寺】
  • 国道から少し入るだけで旧街道は交通もまばらで、気持ちを落ち着きます。この中川原は、細河植木の集散地で、近くには細河園芸農協市場もあります。街道に沿う専行寺は、日当たりが良く、明るい境内は夏には、蓮の花が咲き、仏心が和みます。
     このお寺の創建は、万治2年(1659)、僧「正貞」と伝えられ、340年を越える古刹です。本堂も再建されていますが、修復を重ね270年を経る建物です。本尊は阿弥陀如来立像で、室町時代後期の作と思われます。(中略)。
     当寺の紋は笹りんどうで、多田源氏の紋と同じです。多田神社または、多田源氏家人と関わりがあるものと思われます。古江「如来寺」の建立に功績のあった、森家の先祖、肥後熊本細川藩家老であった人が、はじめは「専行寺」に入り、間もなく古江の片岡で森家を興して、如来寺を建てたと伝わります。
     昔、専行寺は門徒の信仰の寺としてだけではなく、寺子屋としても一円の郷の子ども達が集まり、学びました。この寺子屋は、明治7年(1874)、細郷小学校として、現在の細河小学校の前身として移転しました。浄土真宗の寺院は、世俗的で、民衆に慕われやすい道場の色彩があります。門徒が心を合わせ、苦労を重ねて寺を建て、何百年も維持されてきた努力は、美しく、尊いものです。【改訂版 池田歴史探訪:専行寺】
  • 字南條にあり、大小(雲?)山と号し真宗東本願寺末なり。【町史:専行寺】
-------------(資料2 終わり)

細河郷にはこういった、多田院御家人とのつながりが、断片的にいい伝えられています。
 また、やはり地勢柄、細河地域は旧河辺郡や能勢郡地域との交流が絶えず、婚姻や商売などで今もつながっており、時代を経ても変わらない、不変の摂理があるようです。

<村の民俗と伝承資料>
東山村はそんな環境と歴史を持ちますが、更に地域を掘り下げ、村の民俗と伝承資料を以下にあげてみます。村の人々が寺院をどのように捉えて信仰しているかがわかる資料をご紹介します。
※新修池田市史 第5巻 P309

(資料3)-------------
かつてのドウノマエの様子(新修池田市史より)
【東山村の寺院と民間の信仰】
東山村の寺院には東禅寺と円城寺があり、人々は正月には東禅寺に、盆には円城寺にお参りに行くならわしがあった
 東禅寺は山号を黄梅山といい、つぎのような伝承がある。すなわち、今は余野川上流にある久安寺は、その昔、神亀年代(724〜29)に全国を行脚中の行基僧正が足をとめたことにより開かれ、院内塔頭49坊があった。その内のひとつに瑠璃光寺があり、薬師堂には薬師如来坐像と四天王、十二神将像が安置されていた。
 保延6年(1140)の山内の大火の際、焼失を免れ、その後荒廃していたが、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。ただし、これを証明する文書は無い。
 ムラの中に薬師堂があり、その前の広場を「ドウノマエ(堂の前)」という。2月8日と8月8日の年2回、百姓株で祭を行い、子供を集めてお菓子などを配る。かつては薬師講を作って堂の管理をしていたが、戦後は百姓株の管理となった。
 また、国道沿いの村への入口の位置に地蔵堂がある。毎年8月24日の地蔵盆には僧侶を招き、婦人会が御詠歌をあげる。村にはほかに、釈迦堂、金剛、庚申さん、辻堂がある。【新市史5巻:東山】
-------------(資料3 終わり)

もう一つ資料をご紹介します。東山村の人々の生活について、聞き取り調査が行われています。「垣内と講」についてです。もしかすると、東山村は植木栽培など、多様な産業があって、村全体で農業を営むような共同体ではなかったのかもしれません。
※新修池田市史 第5巻 P306

(資料4)-------------
【垣内と講】
本家を「主家」、分家を「インキョ(隠居)」というが、同族による集まりや助け合いは、冠婚葬祭の場合程度であって、日常的にはみられない。
 相互扶助を求めて重要な人間関係を形成したのは、近隣集団の「カイチ(垣内)」であった。カイチは、現在でいえば隣組に相当するが、ムカインジョ、ミナミンジョ(南カイチ、ユバジョ(弓場ジョ?)ともいう)、大崎カイチ、タナカンジョ、ヤマシガイ(山新開)の五つのカイチがあり、「ジョ」の名称でよばれることが多かった。カイチの役割としては、普段の暮らしの中での助け合いのほか、葬式の手伝いが大きかった。それぞれのカイチは、主に百姓株の人々による5〜10戸からなっていたが、(近現代の)隣組ができたことによって、弱体化した。現在では、いずれも2〜3戸程度の近所づきあいにとどまっている。
 ムラの農民をひとつの百姓株にまとめ、ムラ全体で行事を行うようになったのは、戦後になってからである。かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。昭和初期には大講が20戸ほどで最も多く、その他はいずれも10戸くらいで構成された。その後、講の機能は次第に薄れ、今では名称が残るのみである。
-------------(資料4 終わり)

<東山村と秦村との関係を示す伝承資料>
更に、興味深い伝承資料をご紹介します。今は所在が判らないようですが、法園寺(ほうおんじ:現池田市建石町)というお寺に「赤松氏上月十大夫政重」という人物の塔婆があって、そこに刻まれた碑文が池田町史(1939年発行)に紹介されています。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

(資料5)-------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

赤松氏上月十大夫政重之塔

寛永19年(1642)午9月12日卒
法名、可定院秋覚宗卯居士

宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。

享保7年(1722)壬寅9月12日
※■=欠字
-------------(資料5 終わり)

この伝承によると、上月政重が3歳の時(元亀元年:1570)に、三好・荒木勢に居所を襲われて、乳母によって助け出され、母方である豊嶋郡畑村の石尾下野守方へ逃れたとあります。その後、成長した政重は22歳の時、親戚の誼で、池田備後守知正に取り立てられたとの経緯が記されています。
 また、この知正は池田家の当主を継いでいますが、慶長9年(1604)3月18日、49歳で死去します。この年に、東山村の東禅寺も再興されており、これはやはり何らかの繋がりがあっての事だと思われます。

<東山村と池田氏との強いつながり>
この知正の死去の前、子がなく無嗣であったために、弟の子三九郎を養子として迎えますが、三九郎は、慶長10年7月28日、18歳の若さで死亡します。
 池田家の断絶の憂き目を救うため、三九郎の父(知正弟)である弥右衛門尉光重が家督を継ぎます。光重は、間もなく備後守の官途を名乗り、戦乱で荒廃した池田郷とその周辺の復興にあたります。
 さて、池田家の家督を継いだ光重ですが、東山村を本拠としていた人物である事が「池田城主池田系図」などに記されており、東山村での有力者山脇氏に連なる人物と考えられます。
 一方、この山脇家には家伝(系図)が残り、池田城主との強いつながりがあった事を記しています。永正5年(1504)の池田合戦を中心に既述されています。
※池田郷土研究 第8号(池田郷土史学会刊)P16

(資料6)-------------
○正棟-池田民部丞、属足利義澄公、忠信篤実無二心、永正5戊辰年夏、大内義興、細川高国等、攻池田城、正棟固守数日、防之術尽城陥、于時託泰松丸、貽謀正能父子、隠同国有馬谷、5月10日正棟登城自殺、東山密葬、謚円月光山居士。
○正重-池田勘右衛門、後号監物、民部丞、生害之時、与母共父之首隠、従城裏山伝移東山村、大山谷之口山林埋葬、密請僧吊、隠住山脇源八郎。【山脇氏系図:昭和26年7月 林田良平假写】
-------------(資料6 終わり)

この永正5年の合戦については『細川両家記』という軍記物に記述があり、内容は、多少の誤差はあるものの、大筋で山脇家の家伝と一致しています。
※細川両家記(群書類従第20号:合戦部)P585

(資料7)-------------
永正5年戌辰4月9日、(前略)。摂津国池田筑後守(貞正)は、細川澄元方をして我城に楯籠也。細河高国聞召、其の儀ならば退治有べきとて、同5月初の頃高国方の細川典厩尹賢を大将にて猛勢推寄ける処に、筑後守は物の数ともせずして戦うといえども、池田遠江守、高国へ参られければ、寄せ手は是れに機を射て、5月10日に堀を埋めさせ、厳しく攻めければ、城の中より思い思いに切って出、同名諸衆20余人腹を切り、雑兵70余人討ち死に也。国中に同心する者無きに、かように振る舞いける事よ。大剛の者哉と感ぜぬ人こそなかりけれ。
-------------(資料7 終わり)

この時の池田家当主は、貞正(さだまさ)ともされますが、今も池田市にある大広寺に貞正以下、主立った武士が逃げ入り、そこで切腹します。重臣などもそこで果てたようです。その貞正が切腹した時の床板を大広寺本堂入口の天井板として使い、それが「血天井」として今に伝わっています。
大広寺入口の天井にある「伝血天井」
それから、この時の貞正一行の行動は、自分の家族を非難させるための行動だったと考えられ、大広寺の脇からは、五月山へ上がる山道が幾筋かあり、その道を伝って貞正の妻と子は東山村へ逃れたものと思われます。池田城もこの時、自焼(じやけ)していますので、最後の抵抗をして、時を稼いだのかもしれません。
 貞正の妻と長男の三郎五郎、それに弟の正重を叔父の池田正能などが護り、城を出たようです。一行は、東山村の山中(大山谷之口山林)に貞正の首を埋め、妻と弟正重は山脇氏を名乗って隠れ住んだとしています。また、貞正の妻は、山脇家出身ではないかと推定する研究者もおられます。
 長男三郎五郎は、その後に東山村を出て、身寄りを頼って有馬郡下田中へ更に逃れたようです。

<別の山脇系池田氏の活動痕跡>
堺商人の今井宗久の音信に、気になる人物が見出せます。これは、永禄12年(1569)のもので、その時の池田家当主であった勝正が、播磨・但馬国方面へ出陣している留守中に池田覚右衛門・秋岡甚兵衛尉某へ宛てて音信したものです。
※堺市史5(続編)P906

(資料8)------------- 
態と啓せしめ候。仍て堺五ヶ庄に相付き、摂津国天王寺の内に之有る善珠庵分事、度々御理り申す事に候。織田信長従り丹羽五郎左衛門尉長秀・津田(織田)掃部助一安に仰せ付けられ、勝正並びに各へ御申しの事候。様体於者、黒崎式部丞(今井宗久被官)へ往古従りの段委曲申し含め候。無事儀急度仰せ付けられ於者畏み存ずべく候。尚池田(紀伊守入道)清貧斎正秀・荒木弥介(村重)へ申し候。恐々。
-------------(資料8 終わり)

この池田覚右衛門なる人物は、この史料の他には見当たりませんので詳しくは解らないところもあるのですが、音信の内容からして、当主勝正の重臣であったり、側近的人物であった事は確かです。
 そしてこの、覚右衛門なる人物は、先に紹介しました「資料4」にある、「かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。」の角右衛門講に相当する可能性があるかもしれません。それらの講の多くは、人の名前に由来するようですし、「講」とは、そこに縁や利益を共にする人々が集まる組織でもあります。「角」と「覚」の違いはありますが、角右衛門講とは、池田覚右衛門に由来し、そこに関係した人々の集団だったのではないかと思われます。もちろん地縁も含めての事だと思います。
 それからまた、西暦2000年頃だったと思いますが、個人的に東山村で、山脇氏や戦国時代の頃の事について何人かにお話しをお聞きした事があります。その時、「先祖は武士だったが、武士を辞めて帰農したり、武士を続ける人は他の場所へ移った。」など、言い伝えがあるようです。
 それについては、「資料3」にある、「慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。」にある伝承と同一線上の要素ではないかと感じます。
 慶長9年とは、東山村に縁の池田知正が死去した年ですし、その時に大広寺末の禅寺である東禅寺が、その地の豪族・庄屋の協力で開創(再興)する訳です。これらの複数要素の重なりは、単なる偶然では無いと思います。知正の墓は大広寺に今もあるのですが、その出身地である地元でも知正を弔うような気持ちがあっての動きではないかと思います。

<知正が池田家家督を継いだ理由>
池田家本流からは少し離れた一族であったと考えられる山脇系池田氏が、なぜ名族池田家を継ぐ事になったかといえば、天正年間の2度の大乱が、非常に致命的で、池田とその周辺を破壊し尽くし、人も社会も全て失う程の戦争であったためと考えられます。
 徹底した破壊は、人同士のつながりも絶ち、恨みすらも生まれます。人が死に、財産も失えば、人を束ねる事も難しくなり、組織も財力もある外来勢力に太刀打ちできなくなります。
 実際にはどうだったのか、まだまだ判らない事もありますが、感状の縺れもあり、それまでの統治者であった池田氏の本流が、逆に戻りづらい環境になっていたのかもしれません。若しくは、池田氏の本流が本当に滅びてしまったのか。
 とは言え、復興にあたっては、地域を束ねる求心力は必要ですので、本流よりは少し離れますが、他の候補よりはより本流に近い血脈を持つ東山村の山脇系池田氏から知正が選ばれたのかもしれません。
 本流の池田家当主は代々「筑後守」を名乗りましたが、知正は「備後守」を名乗り、明らかにそれまでの池田氏のつながりとは区別されています。知正の後を継いだ弟の光重も、同じく備後守です。
 知正や光重は、荒廃した池田を復興させようと色々と手を尽くそうとしていた事も史料を読めばわかります。大広寺を旧地に戻し、少しずつ整備を行おうとしていたと思われ、その頃の建物や梵鐘、肖像画などが残っています。他にも色々な行動をしているのですが、ここでは書き切れませんので、別項で紹介したいと思います。
 知正が池田家を継いだ頃は、時代が大きく変わろうとしていた時であり、大乱でヒト・モノ・コトを立ち直れない程に失い、それでも地域の求心力として当主を努めた人物であったのかもしれません。
 実質的にこの2人が、最後の池田氏だったと言えます。その後の池田郷と細河郷は、徳川幕府の直轄地として統治されるようになり、商業の町となって、地域の主導者排除されるようになって、忘れられていきます。

<出土遺物からの戦国時代細河郷の想像>
少し遡って、細河郷は、永禄・元亀年間(1558-73)頃になると、池田氏の影響下に入っていた事と思われます。それ以前の天文年間(1532-55)には同地で影響力を強めていた可能性も十分にあります。その裏付けとも考えられるのが、いくつかの寺の寺伝に「兵火による焼失」が見えます。また、昭和46年(1571)4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に、主に室町時代に流通していた多量の古銭が出土しています。(総合計18,317枚)「伝承」は、ある程度、正確に記述されているのではないかと思われます。
 やはり、この遺物の出土状況からみても、細郷が戦乱に遭っていた事が想定できます。これらは当時としては資産であり、地中に埋められていたのは、戦乱を避けるための「避難」のためであったと考えられます。
※参考:1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか。

<細河郷に伝わる戦国時代の痕跡>
東山村の向かい側、西側に吉田村があり、ここにも戦国時代の痕跡を示す伝承があります。吉田村にある細川神社付近には、本は武士であったと伝わるお宅もあり、個人的に色々お話しを伺った時には、槍なども見せてもらった事があります。
 村の北西側に山塊が拡がり、その尾根上に妙見道が通ります。この道が河辺郡と豊嶋郡の境で、非常に重要な場所でもありありました。
※新修池田市史 第5巻 P318

吉田村の見取図(新修池田市史より)
(資料9)-------------
【集落】
植木・盆栽の生産の集落があるのは、祠堂の南あたりである。ヒノミヤグラ(火の見櫓)の立つ所に吉田町公民館がある。そこが、このあたりの集落の中心である。この集落の入口にあたる所には、地蔵堂があり、トンドバともいう。付近には吉田公園があり、大きな椋の木がある。この土地はモレチ(漏れ地)である。
 集落のある場所から久安寺川にかけては、松などの植木の苗木が栽培されている。その苗床をノラとよぶ。このあたりは、オシロダニ(お城谷)とよばれ、織田信長の城があったと伝えられる。織田信長が治めていた時代の遺構とされる「信長の手水鉢」があった。いずれも現在は、道路拡張のため埋まってしまっている。またオダノカイチ(織田の垣内)とよばれる土地がある。そこにも織田信長が治めていた時代の城の遺構と伝えられる石垣の跡があったが、これも伏尾台の住宅開発ですっかりなくなってしまった。
-------------(資料9 終わり)

また、伏尾村のあたりから吉田村を経て山塊が伸びて、その終端の南面に古江村があります。その途上に片岡集落があります。
 この古江・片岡集落付近では、余野川と猪名川が合流し、妙見道と多田道、能勢街道(篠山道)も村内に通す要所です。また、既述の通り、妙見道が河辺郡と豊嶋郡の境でした。
 こういった環境ですので、やはりここには、戦国時代の痕跡があり、言い伝えられています。
※新修池田市史 第5巻 P333

(資料10)-------------
【古御坊】
村の墓のもう一つ高い所に、古御坊というお寺があったという。今でもそこは、古御坊と伝えられている。戦国時代に池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。そこに寺男としておった人が片岡某という人で、寺が焼かれて行き場が無いので、ここに降りてきて住み着いたという。その片岡某の名前からここを片岡といっていた。江戸時代は古江村字片岡といわれていた。
-------------(資料10 終わり)

古江村の見取図(新修池田市史より)
この伝承にある古御坊といわれたお寺の詳しい事はわかりませんが、池田城と何らかのつながりがあったものと思われます。
 同じような例で、今の大阪大学のあるあたりに待兼山という丘陵部があり、ここに能勢街道が通っていました。その場所に高法寺(現池田市綾羽)というお寺があったのですが、このお寺は池田城主とのつながりが深く、天正年間(1573-92)の荒木村重の乱で、織田信長方に焼かれたとの伝承を持ちます。このお寺は、平時はやはり、池田・伊丹城の施設の一部として機能していたと考えられます。
 その例にもあるように、古江の「古御坊」も交通の要衝で、郡境にあり、しかも一方の河辺郡には常に争っている塩川氏の勢力下ですので、軍事施設ではない「寺」を於いて、緩衝対策を取って警戒していたものと想像もできます。

<寛永諸家系図伝に見られる池田知正と光重>
 最後に、系図に見られる池田知正をご紹介してみます。江戸時代には、幕府によって公的系譜の編纂事業を2回(こまかなものも色々ある)行っていますが、『寛永諸家系図伝(家譜)』は、その最初です。
 寛永18年(1641)から事業に着手され、同20年9月に完成しています。これを経て、更に幕府はその精度を高めるべく寛政11年(1799)に『寛政重修諸家譜』が編纂が始められ、文化9年(1812)に完成して将軍に献上されました。これらは、幕府運営(統治)の基礎資料とすべく作成されましたが、それぞれに特徴や利点、不備があります。
 この資料を見比べてみると、『寛政重修諸家譜』には、摂津池田家の記載がありません。これは既に没落した家である事と、地方豪族の系譜はあまり重視しない分類方針であったためのようです。この頃、時代的に身分制度が定着し、武家社会優位の風潮になっていた事もあるのかもしれません。
 さて、もう一方の 『寛永諸家系図伝』には、あまり詳細ではないものの、摂津池田氏の記載があります。中でも今回は、知正の家系の記述を見てみます。ちなみに、この中では「清和源氏頼光流」の「池田」姓として伝えています。

(資料11)-------------
【重成(知正)】
久左衛門 備後守 生国 摂州。
摂州豊嶋郡のうち神田村・細川村にて2,780余石を領す。
 織田信長の命により、荒木摂津守村重に属して与力となる。村重敗亡の後、秀吉、重成を召し出され、本領神田村・細川村を領して、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。其の後東照大権現(徳川家康)に仕え奉る。
 慶長5年(1600)、奥州御陣に供奉の時、上方の騒動により、大権現小山より上方へ御進発の御供いたし、御帰陣の後、御加増ありて5,100余石の地を領す。同8年、病死。

【重信(光重)】
弥右衛門 備後守 生国 同国。
父重成(知正)と同じく秀吉に仕う。
 慶長5年、奥州御陣の時、重成と同じく供奉す。同8年、大権現(家康)の命により、父の遺跡を継ぎ、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。駿州府中にひとりの神子(みこ)あり。人を誑かして金銀を多く借り取る。重信(光重)が家人の関弥八郎にも又借りて是れを与う。その後、金銀を貸したる主より神子に返弁すべきの由はたり(?:諮り。ルビは徴とあり、糾明の意。)ければ、、我借る所の金銀は悉く弥八郎これを取りて、神子が元にはこれなしと云うにより、各々此の事を重信も知るべきの由を訴ふる時、大権現御鷹野あそばされ、江戸に趣(赴)かしめたまふ時、重信供奉す。駿府に還御の後、この事の評議ある故、重信いささか知らざるの旨じき(直)に訴訟を捧ぐる故、その難を免かるると雖も、直訴致したる罪により御勘気を蒙り、所領を没収せらる。その後も大権現これを哀れみ給いて、重信が旧領の古米並びに家財等を給いて、富士のふもと法命寺に籠居す。
 大坂両度の御陣に、仰せによりて有馬玄蕃頭豊氏手に属して彼の地に赴く。大坂御帰陣以後、大権現しばしば御無礼の御気色ある故、遂に御前へ召し出されず。
 寛永5年(1628)5月19日、病死。法名同休。

【重長】
久左衛門 生国 摂州。
父と共に流浪して、有馬豊氏に付き従う。豊氏、重長が事を酒井雅楽頭忠世並びに大僧正天海を以って言上しければ、則ち御免を蒙る。
 寛永11年(1634)より、将軍家(家光)へ召し使はる。同12年、御小姓組となる。同15年、御切米を給わる。
 家紋 三木瓜。
-------------(資料11 終わり)

それぞれ諱(いみな)が歴史史料とは違って記述されているのですが、その内容は直ぐにそれと判ります。また、知正について、この系図では「民部丞」を名乗っていない事になっています。
 それともう一つ、気になるところがあります。この池田知正の家系を「清和源氏頼光流」としてあり、藤原流では無い事です。池田家本流の家系は「藤原」である事が史実として明白ですので、やはり細河郷東山村の池田氏は、別系譜である事が明確にされているようです。
 こうなるとやはり、家紋というのも自ずとメボシが立ち、これまで流布されている、摂津池田家の家紋は「三木瓜」ではなく、本紋としてはやはり「藤」をモチーフにした家紋であろうと思われます。つまり、『寛永諸家系図伝』の清和源氏頼光流の摂津池田重成(知正)系の紋が三木瓜であって、本流の池田家系はそれとは別の紋、藤原を示す家紋を使用してものと考えられます。
 それからまた、参考までに、知正の行動についてですが、羽柴(豊臣)秀吉時代にも各地に転戦しており、さ程多くはありませんが、兵を率いて出陣しています。天正10年(1581)5月からの備中高松城攻めでは、蛙ヶ鼻付近に布陣し、天正12年3月からの美濃国小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍の後ろ備(合計10,000)の右翼に90程の兵を率いて参陣しています。

<まとめ>
このように、東山村にそのものが残っていなくとも、忘れられるなどして、特に意識される遺物が無いとしても、その周辺地域には少なくない戦国時代の痕跡が残っています。もちろん、これまで見たように、僅かながら東山村にも、池田城と池田氏とは、細くない、いや、強いつながりを持つ痕跡を残しています。また、村から輩出される人物も、少なからず史料上に見られ、池田家の歴史に深く関わっています。
 やはり筆者は、戦国時代には東山村にも、村を護るための施設や仕組み、組織などがあったと感じます。「資料4」にもあるように、実際に東山村の垣内の一つのミナミンジョを「ユバジョ」とよんでいる習慣があり、これは「弓場所」ではないかとする消極的な推定がされています。
 ちなみに池田城跡の字名で「ユンバ」とよばれるところがあり、ここは「弓場」であったと伝えられています。弓は戦国時代の主力武器でしたので、練習をするための広場があったと考えられます。 


細河地域は、その北側の止々呂美地域に新名神高速道路の出入口が設置され、この先、開発が急速に進む事と思われます。その事で、益々時代に必要な発展をしていくのだろうと思います。そういった状況の中で、この思索が、今後の研究の何かの役に立てばと願います。



2016年5月3日火曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(細河庄内の木部村と武将下村氏について)

摂津国豊島郡細川郷(庄)内の下村氏は、同郡内から成長を遂げた戦国領主池田氏に早い時期から被官化していたと考えられる。
 実際にはもっと早くから確認できるのかもしれないが、筆者が池田勝正の活動に主眼を置き、その活動を追っている関係で、享禄2年(1529)から天正7年(1579)までの史料しか確認できていない。以下で扱う資料は、そういった状況でのものである事を予めご了解いただきたい。
 それから、下村氏の本拠である木部村とそこに関係する寺社、また出来事、歴史的遺物なども併せて示し、包括的に理解を深めたいと考える。

先ず始めに、他の項目と重複するが、現在既に論説されている木部村とそれに関する寺社を示してみる。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。


◎木部村(池田市木部町)
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山腹にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川と合流する。池田村より北上してきた能勢街道は、村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。
     慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降は、すべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。
     木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しない、という条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が、池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】
  • 池田備後守光重寄進状 昭和11年7月 林田良平稿「大広寺年表」所載
    一相乗實(池田知正)並びに池田三九郎為、木辺村於、米10石御寺納候。田数別紙之在り。仍って後日為寄進件の如し。
       慶長10年(1605)10月吉日 池田備後守光重(花押)
        大広寺御納所
    【池田郷土研究第8号12頁:例会281回(昭55・5・11)蝸牛驢文庫所蔵】

◎曹洞宗 総持寺末 竹林山 松操寺(池田市木部町)
  • 字北条にあり。竹林山と号し、曹洞宗総持寺末なり。寛文2年(1662)8月、下村五郎右衛門の創立にして、大広寺18世雲山の開基と伝えられる。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:松操寺】
  • 木部天神社(紀部神社)前の旧道を少し北へ行くと、五月山山麓の竹林に包まれて「松操寺」があります。ここまでは車の騒音も聞こえない、ひっそりとした佇まいの尼寺です。
     開山は「下村五郎右衛門」という人で、地元では「ごろよみ」と呼ばれていました。寛文2年(1662)大広寺末として、18世により建立されました。ご本尊は釈迦牟尼仏で台座には笹りんどうの紋があって、珍しいことに獅子に乗っておられます。お釈迦様が獅子に乗られたのか、獅子が潜り込んだのか、どちらでしょうか。下村五郎右衛門の祖母の持仏であったとも伝えられていますから、400年以上昔の仏像です。両脇には、達磨大師・天元大師の木像があります。また、小さいけれども創建当時の地蔵菩薩が安置されています。
     長い間無住の時代があって、竹藪にポツンと在った草庵に、籠職人が住み込んでいた事もありました。庵主が入られて現在7世となります。本堂は、周りに増築されていますが、柱など創建当初のまま、焼けることも無く江戸時代初期から修復を重ねて350年近くの年月を経て、今日に至っています。(中略)。
     戦後は政教分離が徹底され、檀家の変遷のある中で、寺院の維持・保存は非常に難しくなってきました。院主のご苦労が偲ばれます。【改訂版 池田歴史探訪:松操寺】

◎曹洞宗 総持寺末 松尾山 永興寺(池田市木部町) 
  • 松尾山と号し、曹洞宗大広寺末にして釈迦牟尼仏を本尊とす。長禄2年(1458)2月、「永公」の創立なり。
     永興寺開山堂(いち名位牌堂)の十一面観音は、左手に水瓶(薬瓶)を提げ、右手で錫杖を立てている。ちょっと見慣れない姿だが、是れがいわゆる長谷式で、大和国長谷観音本尊の写しである。長谷寺は、天平時代に藤原房前が本願となって稽文会(けいもんえ)・稽主勲(けいしゅくん)合作のものを安置したが、現在のものは天文7年(1538)8月1日に成ったのだという。
     恐らく現本尊と同じものが古くからあって、天文年間(1532-55)にその形式を襲ったのであろう。分家が古く、本家が新しいという様な事は、理屈に合わないからである。なお錫杖を持っているのは、地蔵の兼相を表すものだとされている。
     ところで、永興寺の十一面観音は、元は木部天神の神宮寺松梅寺の本尊であったという。だいたい、松と梅は天満天神とかかわりの深いものだから、そんな名の寺に同神の本地とされる十一面観音を祀ったのは当然だろう。
     それは兎に角、この像は一木造りで、高さ110センチメートル、宝冠型のまわりに化仏を前後2体、左右3体、現在頂上に1体を配置する略式であるが、頂上仏は失われていない。それから首だけが妙に継ぎ足しの様にみえるのは、そのところだけ金箔が押し直された為か。なお左手と持物、足先が後補、台座も年代が下る。
     時代は彫眼の向き、肩の線、腰のくねり、衣丈の具合等、はっきり藤原式である。ただ中期か末期かに迷わされる。(池田市史)【池田市内の寺院・寺社摘記:永興寺】
  • 永興寺は、木部天神宮の赤い鳥居の右側の坂道を少し登ると、長尾山を望む高台にあります。このお寺は、室町時代の長禄2年(1458)、僧「永公」の開祖と伝えられますから、応仁の乱直前の540年を超える古いお寺です。永公がこの地に来たとき、粗末な庵(いおり)に十一面観音が祀られてあり、ここで一泊したところ、観音のお告げがあり、寺を建立したと伝承されています。
     ご本尊の十一面観音立像は、藤原時代1100年程前の作です。桧一木造りで、頂上仏が失われていますが、池田市重要文化財に指定されている貴重な仏像です。本堂裏の墓地には、古い歴史を語る、多くの宝塔・墓石が樹木に囲まれて森閑と並んでいます。心落ち着く風情です。
     隣地にある天神宮とは、昔は神仏習合(奈良時代に始まった神と仏の信仰を融合調和する思想の表れ)によって敷地がつながっていたそうです。以前、木部天神宮の神宮寺であった松梅寺がありました。【改訂版 池田歴史探訪:永興寺】

◎曹洞宗 静居寺末 少林寺・退蔵峰 陽松庵(池田市吉田町) 
  • 観応2年(1351)天龍寺開山夢想の開基なりと伝えらる。安永5年(1776)3月、淡路の領主稲田九郎兵衛祖先菩提のため再建せりと。境内九百坪を有し、本堂・庫裏・書院・方丈・廊下・衆寮・如幼斉・侍者寮・経蔵・山門・開山堂・禅堂などあり(大阪府全志)。
     本寺は有名なる天桂禅師留錫の道場であって、享保6年(1721)禅師を招請して中興の開山とした(寺史による)。彼の禅師の名著「正法眼蔵辨註(20巻)」「驢耳弾琴(7巻)」「報恩篇(3巻)」等は当時、眠れる法城に向かって獅子吼された書であって、当山は禅師由緒の地である。今尚は、其の名著の版木は輪堂に蔵され、禅師手澤の「正法眼蔵辨註」は、門外不出の書として当山に尚蔵されている。禅師は「正法眼蔵辨註」を享保11年に起稿され、同14年春に脱稿されている。そして6年後の享保20年(1735)12月10日に遷化された。
     当山は安居其他僧俗を問わず、時々其名著を提唱して修養の禅道場となって居る。そして当山は人寰(じんかん:人の住むべきさかひうち)を隔てて小丘によれる僻陬(へきすう:僻地)の寺院であって、幽翠静寂の勝地である。
     近時都人士が、煤煙の地を離れて当山に集い、提唱を聴く者甚だ多しと世間では、当山を一(いつ)に吉田の天桂と呼んでいる。禅師の遺蹤(いしょう:人の行ったあとかた)を偲ぶ名であろう。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:陽松庵】
  • 細河谷南斜面の日当たりの良い適度に乾燥した土地は、我国有数の松の産地で、五葉松(ヒメコマツ)、柏槙などの生産で有名です。池田の文化に多大な影響を残した連歌師「牡丹花肖柏」の号「肖柏」も松・柏に因んでいます。
     同様に松に因む参禅道場「陽松庵」の開山は、観応2年(1351)室町時代、京都天龍寺開山の夢想国師(疎石)と伝えられています。その地は木部北条にありました。その後、四国阿波蜂須賀候は、深く天桂禅師にに帰依され、創建より362年後の正徳3年(1713)、その家老である稲田九郎兵衛によって天桂禅師を招請し、堂宇を再建することを発願されました。
     享保6年(1721)、木部の牡丹屋下村小兵衛も天桂禅師に深く帰依し、所有する吉田の現在地を寄進し、稲田氏と共に天桂禅師を中興開山として新築移転建立されました。
     陽松庵は禅寺としての伽藍配置が良く整っていて、経蔵・放生池・山門・法堂・仏殿・鐘楼・座禅堂・客殿・庫裏・浴室・東司などを備えて、創建当時のまま修復を重ね、現在に至るまで保存されている池田屈指の古刹といえます。(中略)。
     天桂禅師(1648-1735)の墓所は、禅師自らが示された西側山麓の石段を登りつめた所にあります。そこには禅師が示された楠木が代々植え継がれています。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:陽松庵】

◎紀部天満宮(池田市木部町) 
  • 現在の紀部神宮、旧称木部天満宮の所在は池田市木部。当郷産土神として、崇敬甚だ厚く、祭神菅公の千載に変わらぬ忠烈精誠を仰がざるはない。創建の年代は詳らかならざるも、所伝に依れば、天神系紀国造(きのくにみやつこ)の末裔である木部氏(紀部氏)此の地に居りて祖神天道根命(あめのみちねのみこと)を斉祀し、氏の大神として尊崇されるもの、即ち当社の起源にして、後一条天皇の正歴4年(993)勅使菅原爲理太宰府に下り、菅廟に正一位太政大臣を贈り、霊代を奉じての帰途に、神託を畏みて分霊を島上郡日神山(ひるがみやま:上宮天満宮(天神社)現大阪府高槻市天神町)と当社に奉祀し、次いで、日神山の神を上宮天神、当社を木部天神と称え奉りたるものなり、という。
     天神系紀国造の氏族夙くこの地に住して、其の祖天道根命を祀り、氏神として斉き奉りたりしが、後年菅公を配祀して、天神宮と公称せしものなるべしが、正親町天皇朝の天正年間(1573-92)織田氏の兵火にかかり、社殿・神宝・古記録など悉く鳥有に帰し、今や徴すべき史料はない。
     以来、当地の名族下村五家、宮家として、京都吉田殿の免許を受け、神事を奉仕する事、実に明治40年に至れりという。
     上記は、義川百合女氏の論文を摘記させていただいたのですが、義川氏は最後に「而し、現社号は昭和26年宗教法人法に依り、上記の古文献・記録に従ひ許可されたるにて、神宮の称号は府下希有のものたるべし。」としています。【池田市内の寺院・寺社摘記:紀部天満宮】
  • 畑天満宮と区別するために「木部天満宮」としましたが、地元では「天神宮さん」と呼ばれています。本殿に掲げられている額には、「天満宮」と書かれていますので、天満宮が正しいと思いますが、称号が何時変わったのか明らかではありません。別に紀部神社とも呼ばれています。
     当社のご祭神は、言うまでも無く菅原道真公です。菅原道真は、藤原時時平の讒言によって、太宰府に左遷されて、延喜3年(903)59歳で亡くなりました。以来、天神信仰が全国的に拡がり、各地に「天神さん」として祀られていますが、ここの天神宮は、道真公と直接の由来があったように思います。と言いますのも、かなり古い社で少なくとも14世記南北朝時代には祀られていたように思います。火災には遭っていないようですが、長い間、宮司が不在で、古文書などは散逸してしまっているために、全く不明です。しかし、寛政から天保年間(1789-1843)の頃、最も繁栄していた様です。その後、明治・大正・昭和の初期まで、厚い信仰が続いていました。
     現在の本殿は、100年余り前の建立と思われますが、境内の数百年を経るケヤキの大木や石垣などに歴史の重みが感じられます。木部は「城辺」とも記録され、池田の原住民「佐伯部」の城(とりで)があたっと伝えられる平安時代からの集落でした。五月山は佐伯山と呼ばれていました。
     また、木部は大規模牡丹栽培の発祥地として500年もの歴史と主産地としての繁栄がありました。牡丹屋小兵衛が著名で、今も牡丹屋と呼ばれる下村家が健在です。現在、吉田にある陽松庵は、もとは木部にありました。陽松庵の建立に、牡丹屋小兵衛の大きな尽力がありました。
     木部天満宮は、阪神大震災で社務所が倒壊し、大きな被害を受けました。しかし、整備された神社とは、また違った神秘さと、歴史のミステリーが感じられます。
     当社のお祭りは10月24日・25日の秋祭りです。最近は祭日直近の土曜日に行われます。だんじりは、木部と新宅の2台があります。(中略)。現在は木部のだんじりだけが、2つの赤提灯を先頭に、太鼓の音色も勇ましく、大人・子ども70〜80人が曳いて、木部町を一巡します。保存会の方々のお陰で、元気な子どもたちも大いに一日を楽しみます。【改訂版 池田歴史探訪:木部天満宮】

既述のように木部村は、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、享保17年(1732)の人口は329人。この規模で神社(神宮寺)1に寺が3つと陽松庵を持つ。細川郷六ヵ村の中で木部村の石高が特に高いわけでもないが、他の村の寺数が大体は2つであるのに比べて、倍の数を保有している。

次に、戦国時代当時の資料を見てみる。永享元年(1429)8月に発行された『春日社神供料所摂州桜井郷本新田畠三帳』に、春日社柛供料所摂州豊嶋郡桜井郷本田分として、17坪・23坪などの給人で「下村五郎兵衛」と見える。これが下村氏についての史料上の初見ではないかと思われる。また、年記は未詳ではあるが、天文15年と推定される、6月1日付けの池田信正による、今西家(春日社領垂水西牧南郷目代)への神供米切出注文の中に給人として「下村両人」と見える。その後も神供料に関する記録に下村姓が見られ、天正4年(1576)分にも小曽根分として「下村分」が見える。
 そして、これらの給人の多くは、池田氏の被官であったと思われる。下村氏は、春日社領に関わる行動もしていた。早い段階の記述に見える下村氏は、士分の活動をしていたのかどうか、他の史料が無く、今のところ不明ではあるが、地域の有力者や村の防衛のために武士として活動していた一派もあっただろうと思われる。
 また、池田氏の当主が長正に代わると、下村氏は更に深く、その政治体制に関わるようになっていく様子が窺える。史料では年記を欠くが、永禄2年と思われる10月15日付けで、今西橘五郎へ宛てた音信では、池田勘介正行・荒木与兵衛尉宗次・寺井与兵衛尉綱吉・宇保平三郎安家・大井新介宗久・村田善九郎秀宗と共に、下村彦三郎仲成が名を連ねている。内容を以下に示す。
※豊中市史(史料編1)P129

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急度折紙以って申し候。仍て小曽根村井■(井関?)之事、段別一斗六升懸けられ由候。百姓等申し候。如何有り之儀候哉。前々堤切れ候時に、引き懸けなど有るべく候。当年過分に懸けられ候事。各々承引仕り難く候。この由百姓中へ聞かせ仰されるべく候。恐々謹言。
※■=米遍に斤
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続いて、当主が勝正の時代、池田氏は活動範囲が最も広くなる。大和国奈良へ軍を入れる中に、下村重介なる人物が見える。『多聞院日記』5月19日条に、
※増補 続史料大成(多聞院日記2)P14

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一、昨夜宿院ノ城へ夜打シテ池田衆損了。寂福院へコミ入了。事終次第也(下村重介死了。百計ノ大将ト云々)。坊舎オモコホチ了。並金龍院ヲモフルヰ了。日中後尊蔵院ヲモコホツ由也。定テ宿院辻之城ノ火用心二、坊ヲ可壊取之由被申歟。浅猿浅猿。
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下村重介は、奈良宿院城の夜襲に失敗し、戦死した模様。この時の重介は、100人程を采配する大将であったらしいが、大将が戦死したと伝わる程の戦闘であるから、他にも死傷者を多く出しているのだろう。この戦いについての記述が他になく、詳しくはわからない。
 その後、下村氏については、直接的史料では見られなくなるが、伝聞資料や系図、軍記物などで下村市之丞なる人物の行動が見られる。ただ、これは豊島郡細郷の下村氏とは別家系かもしれないが、参考までにあげてみたい。
 
『岡藩豊後中川氏諸士系譜(豊後竹田市立図書館所蔵)』に、下村市之丞勝重(下村伊賀守成兼長男)の項目がある。以下にその部分の内容を抜粋してみる。
 ちなみに下村成兼とは、下村仲成とは「成」の字が共通しており、通字を冠していたかもしれない。これは、今のところ個人的な想像に過ぎないが...。また、「市之丞」は正式な官位の名乗りではない。本拠地が「市場」であるためか。
※荒木村重史料(伊丹史料叢書4)P147

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一、同(永禄)12年(1569)1月4日、三好勢本圀寺の御所に押寄候に付、伊丹兵庫頭・池田筑後守を始め渡辺宮内少輔・萱野長門守・田能村伊賀守・有馬伊予守・白井主水正・下村市之丞・粟生谷兵衛尉・長柄八郎左衛門・安威三河守・畠田但馬守・(中川)清秀様・布引舎人助・荒木弥助・長目清助・桜塚庄兵衛等摂州を打立、公方家之御味方に参る。(中略)。
一、元亀元年(1570)9月、荒木信濃守村重池田城に在りて勝正か余類退治の時、清秀様・下村市之丞・粟生谷兵衛尉・安威三河守・瓦林越後守以下村重か下知に依りて、自身馬を進め人数を出し、残党共の要害に押寄壱人も不残悉く討取。
一、元亀3年(1572)8月28日白井河原合戦荒木信濃守村重和田伊賀守惟政と合戦の節、市之丞は荒木方にて、清秀様・粟生谷兵衛尉等一同に上の郡勝光寺に勢揃いして馬塚に出張し、和田勢と相戦い和田方の鉄砲頭十河扶之助を討捕。
一、市之丞儀、荒木幕下に有之時、何れの合戦にや無比類高名を顕し、村重差所の刀を引出物として賜る、其刀子孫伝来す。刀長二尺五寸、作出雲道永。
一、天正6年(1578)11月、荒木謀反之節、清秀様茨木御籠城、依之市之丞御加勢として茨木城へ参上。
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とある。また、同じく『諸氏系譜』に、何名かの下村姓の由緒が見られる。参考までにあげてみる。
※摂津市史(史料編1)P528、530、532

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第12巻
此巻にも又摂州菅家之一族、永禄年中清秀公之旗下に属する輩記之。
【下村総蔵】其祖下村次郎左衛門者播磨国赤松之支族にして、播州三木郡下村に居る。永禄年中摂州に入て伊丹家に属、其後清秀公之旗下に属す。
第17巻
此巻にも摂州にして室町公方の御家人、公方御浪人の後、大祖の旗下に属する輩記之。
【下村弥五郎】其祖下村市之丞、代々摂州島下郡下村の領主にして、室町公方の御家人たり。永禄の末、和田伊賀守に所領を奪われ、荒木信濃守に付きて本領安堵を望む。元亀3年(1572)8月、白井河原合戦の節、清秀公と御相備にして白井河原出張す。夫れより後終いに清秀公の御幕下と成る。
第20巻
此巻にも元亀・天正之頃より大祖之旗本に有て、年月不詳輩記之。
【下村九郎左衛門】其祖下村太郎太夫、山崎合戦に軍功有、主帳に見ゆ。夫れより以前、大祖の旗下に有と云う。其の来る事、元亀・天正の始めなるべし。
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上記の下村氏姓は、何れも摂津国内に縁を持つ出自らしい。豊島郡細郷の下村氏とは、直接の関係は無いかもしれない。
 それからまた、『中川史料集』では、白井河原合戦での下村市之丞について、詳述しているので、市之丞の登場部分を抜き出して紹介しておく。
※中川史料集P15(北村清士 校注)

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一、28日暁、白井河原へ御出陣に依って付き従う人々、「老職御備頭」熊田千助資勝、池田次郎長政、森田彦市郎吉俊、森村次郎大夫正家、田近新次郎長祐、中川淵之助重定、菅杢大夫相雄、野辺弥次郎村清、森田半右衛門、辻六郎兵衛、弟同助右衛門、萱野五右衛門正利、安西弥五太兵衛、上島新左衛門正恒、弟同与兵衛、弟同理左衛門、弟同庄右衛門、弟同猪右衛門、飯田七助、丸山孫六、永田伝内、嫡子同右衛門秀盛、森市兵衛、田島伝助、右の輩を始めとして、御備えの人数押し出す。荒木方より加勢として、馳せ加わる人々、粟生兵衛尉氏晴、熊田孫七資一、下村一之丞勝重、鳥養四郎大夫、既にして打ち立たんとし給う。(中略)。卯辰(午前7時)の刻の頃には、荒木の軍勢3,000の人数、郡山より馬塚にかけ、東向きに陣を敷く。和田伊賀守は、茨木の城主、茨木佐渡守重朝を語らい、1,000余人を従えて糠塚より、西向きに備えを堅む。(中略)。太祖引き続きて隙もあらせず、突いてかかり給う。粟生兵衛尉、熊田孫七、下村市之丞、鳥養四郎大夫、中川淵之助、田近新次郎、菅杢大夫など息をもつかず突撃すれば、和田が旗本崩れて八方に逃げ走る。(中略)。二本靡きの指物この靡きは、伝助取って御供す。荒木は太祖の横合にかかり、敵の色めくを見て、先手旗本一同にかかり、自身も太刀打ちして茨木佐渡守を組み打ちにす。郡兵大夫をば山脇源大夫討ち取り、十河杭之助は下村市之丞討ち取り、永井隼人を三田伝助組み打ちにし、池田久左衛門尉は槍を合わせし時に、和田方より槍下につき伏せられたるもまた起き上がり、能く敵を組み打ちにす。その余り和田方の名ある勇士共、66人悉く討ち死にす。雑兵は数を知らず。終いに和田方総敗軍となる。既に軍散じければ、太祖は御人数をまとめ、荒木が前に御出あり、戦いの次第御披露あり。同夜、荒木は郡山村に陣取り、味方の軍労を慰めんがため、池田より諸白数十樽取り寄せ、酒宴を設く。其の席にて諸士に感状を与う。此の時下村市之丞進み出で、今日の合戦は信濃守殿軍略を以て、敵を引き掛け、前後を駆り隔てらるる故に、御勝利となる事もちろんなれども、清秀よく塩合を見定め横槍を入れて、和田勢を突き崩せしより、敵一同に崩れ立ち、伊賀守・佐渡守も討ち死にせしむ。今日の勝利全く清秀の手柄なり、御杯を始められ一番に清秀に賜れと申せば、荒木もさこそ思いつれ、某たとへ先手を切崩すとも、鬼神と呼ばるる伊賀守を旗本を以て、二の見をせば六つか然るべし、清秀横槍の働きを以て味方の勝利となる。剰え和田が首を討取らるる事、今日一番の功名紛れなし、といって杯を進ぜられんとて、太祖へさして御勲功を賞す。此の御働きに依って、呉服台500貫の地も領し給う。(後略)。
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このように、下村市之丞は、武士として大変有能であったらしい事が述べられている。また、池田家中でも重く取り立てられて事もあり、「勝重」という諱は、当主勝正からの偏諱であったのかもしれない。

しかしながら、この下村市之丞が豊嶋郡細郷出身であるかどうかは、今一度慎重に考えるべき資料があるので、それも示してみる。
※摂津国豊嶋郡熊野田村古跡見聞書(竹田市立図書館蔵)

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摂津国豊島郡熊野田村古跡見聞書
 安政4年(1857)12月15日書 下村市之丞

御咄申し上げ候口上之覚え

私儀此の度摂津国豊島郡山田之庄下村市場と申す所は先祖之旧地に付き、是れに罷り越し代々之墓にも参り、先祖市之丞旧宅且つ同姓も御座候に付き、是れに暫く滞留仕り候。(後略)。
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この『見聞書』によれば、下村市之丞の縁故地は、摂津国嶋下郡山田庄下村市場であるとしている。
 この下村市之丞の主家である中川家自体は、池田家中での活動として「春日社領垂水西牧南郷柛供米切出分注文」の給人として、天文年間(1532-55)から見られるので、古くから池田家との接点がある。
 そんな中で個人的に、中川清秀そのものの起源が、多少縁起を担いだ起源を挿し入れているのではないかと感じている。清秀自身に武士の才能があり、諸々の活躍で大身に成長した事は間違いない事ではあるが、中川家が成長しきった時代性もあったのか、派手な縁起をその成り立ちの中に求めることがあったのかもしれない。
 中川家の、池田家中時代の動きを追うと、どうも唐突に感じられる事象もあるように感じている。だからその周辺の人物についても、そういった風潮の中で謂われが形成されている可能性もあるのではないだろうか。その土台がウソという訳ではない。
 他方、下村市之丞の本拠地とする山田市場は、その名の通り「市場」がある重要な地域であり、また小野原方面からの街道と千里丘陵の南側の街道の交点でもあり、土豪として成長したり、重要な人物がそこに入っても不思議では無い。ただし、嶋下郡であるこの場所は、摂関家領垂水東牧に属する。
 後に、嶋下郡山田の下村氏も中川家の転封に従う一派と旧地に残る一派が出て、ここでも運命を分かつ出来事があったようである。
 いずれにしても、精査するためには他にも情報を集め、状況証拠をもって見る必要がある。下村市之丞については今のところ、その家系が、豊嶋郡細郷の下村氏と同じかどうかは断定できない

戦国時代の池田家中及び荒木村重に属した下村氏の動きを時系列にまとめてみると、
  • 池田城の防衛上、要所である木部村の有力者下村氏が、天文年間(1532-54)には池田氏と関係が深まっている事が確認できる。
  • 池田長正の当主時代になると、池田家の公文書に下村氏が署名する程に地位を向上させ、取り立てられている。
  • 永禄10年(1567)5月、下村重介が100名程を率いる大将として奈良へ出陣し、戦死したらしい。
  • 永禄12年1月、京都本圀寺・桂川合戦に下村市之丞が出陣しているらしい。
  • 元亀元年(1570)の池田勝正追放に、下村市之丞が加わって、勝正残党を討つ行動を取っているらしい。
  • 元亀2年8月、白井河原合戦に下村市之丞が従軍して活躍し、名のある武将十河杭之助を討ち捕ったらしい。この時は荒木村重が率いる一団に属し、中でも中川清秀と共に行動して、手柄を立てた模様。
  • その後、池田家中が再び内訌を起こし、池田一族と荒木村重が争った時には荒木方に属し、ここでも活躍していたらしい。これらの功に対して村重から下村市之丞へ「出雲道永」作の刀が贈られている模様。
  • 天正6年秋、荒木村重が織田信長から離反した時、一時的にはそれに従うも、村重から離れた清秀に同調し、織田方となった模様。下村市之丞はその後、清秀と行動を共にするようになったらしい。
となる。

摂津豊嶋郡下村家はそういった経緯を辿り、江戸時代に至って家を保ったと思われる。ただ、下村一族の全てが同一行動をとった訳ではない。豊島郡に残った一派(代々庄屋を勤める)と中川家と共に豊後国へ移った一派などがあって、その時代の求めにより、それぞれが判断し、それぞれの涯分を護ったようである。

豊島郡の下村氏について、その本拠地の様子と時代による活動を見たが、やはりこれ程に戦国領主摂津池田氏と深く関係しているからには、城を持ったであろう事は、想像に難くない。しかもその場所は、要所である。それが『日本城郭全集』や『日本城郭大系』に記述されている「木部砦」であろう。以下に再度、引用してみる。
  • 天文年間(1532-54)に池田氏が拠った所といわれている。池田市の北方にあり、阪急バスにて池田駅より約7分で行ける。ここは古くは城辺(きべ)という地名で呼ばれており、今は田圃になって見るべきものはないが、「城ヶ前」「土居」と呼ばれる高地があって、土地の人はこれを城地であったと伝えており、周囲およそ100メートルばかりの地である。【全集:木部砦】
  • 城ヶ前・土居という地名があるが、遺構は全く残っていない。『摂津志』は神田・今在家・利倉等の諸砦と共に天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:木部砦】
また、記述の陽松庵の項目を見ると、同庵の前身は観応2年(1351)天龍寺開山の夢想国師の開基で、その頃は今の木部町字北条にあったと伝わる。今現在、字北条には竹林山松操寺がある。ただ、「字北条」とは現在の細川小学校から南側あたり一帯も含まれ、厳密には、陽松庵の前身施設がどこにあったのか、今のところ不明である。
 一方、江戸時代の享保6年(1721)に、新築移転して陽松庵となった場所は、下村小兵衛による土地の寄進で事業が実現している事から、このあたりも下村氏に縁の場所であった事が判る。
 ここは川辺郡との境目で、戦国時代には重要な場所でもあったため、陽松庵の造営に際して、そういった経緯があったこと自体、大変興味深い。

それからまた、永興寺は、長禄2年(1458)の創建時には、大広寺末であった。大広寺は池田氏の菩提寺であるが、永興寺は下村一族の菩提寺であり、歴代の墓塔もある。永興寺創建の頃の長禄2年は、当主充正が主導して池田氏が台頭してくる年代でもあり、その頃に大広寺末として木部村に永興寺を開山した事も興味深い。
 ちなみに、永興寺は、木部天神の神宮寺であった松梅寺の本尊である十一面観音を引き継いでいるらしい。

一方で細郷の本拠の下村氏は、江戸時代にも牡丹の栽培を続け、その道で全国に名を知られるようにもなっていた。以下、資料を引用して紹介する。
※広島史話伝説(第2号)已斐の巻P148

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◎已斐園芸植物の元組 -植木屋こと下村次郎右衛門-
花を好んだ二代将軍、徳川秀忠の妹「振姫」を妻にもらった、浅野家初代広島城主長成は、当時上流社会の諸国大名たちの間に流行していた。愛花、盆栽趣味に凝ることは、当然のなりゆきで、特に江戸時代吹上御苑に花壇を造り、自らその範を示すほど園芸好きの兄秀忠に刺激された振姫が、未だ見ぬ安芸の国へ転勤するについて、荒大名福島正則の跡を受け継ぐだけに、一層「花」の事を先に考えた事は、人情の然らしめたものであろう。
 元和5年(1619)7月4日、世子光晟を伴い、海路紀州を発し、8日夕方、はやくも広島城に到着、紀州37万6千5百石から、振姫の持参金と称せられる5万石を加え、合計42万6千5百石で、広島城主となった浅野名晟は、広島に転封を前に、元和2年1月19日、家康の三女「振姫」と結婚し、一子光晟をあげた。ところが、振姫は産後の日立ちが悪かったか、どうかして、結婚の翌3年8月29日、光晟を産んで間もなく急死した。この振姫は、生前特別牡丹花を好んでいたらしく、今の大阪府池田市に居住していた、牡丹造りの名人、牡丹屋こと下村次郎右衛門を同行する事となっていた。
 しかし、結果からみると、振姫の愛した牡丹の花は広島でその開花をみたものの、振姫の死語その墓前をかざる花となってしまった。振姫は安芸国広島の城下を見ぬままに紀州の地で他界した。
 牡丹屋次郎右衛門は、予定通り新城主とともに広島城下に赴任すると、国泰寺付近に宅地をもらい、その後城主の命により直ちに牡丹造りの適地を探し歩いた結果、已斐の地に白羽の矢を立てた。
 已斐の地は旧已斐小城を囲んで、その小茶臼山を抱くように、大茶臼山、抽ノ木山などが連峰をなして、北西から吹いてくる寒風を遮り、南面して暖かい土地で牡丹のみならず、園芸植物には理想的な適地であること等報告して、ここに屋敷地の下賜を受けて牡丹造りに精だし始めた。
 その屋敷跡はもと百花園のあった小高いところ、已斐住民が住み着いた五ツ井戸のうちの一つ、松本井戸のある上堤一帯で、園芸造花には最適の地であった。
 この牡丹園下村次郎右衛門は、植木職人であるといっても、下村姓を許されている浅野候お召し抱えの人であるから、ただ単なる下級職人といった風の者ではなく、名字につきものの帯刀をも許された家柄であった。、ということであるが、その後、下村家の末裔は如何になって行ったであろうかは、極めて興味ある問題である。
 浅野長晟公に従って現在の大阪府池田市細川から広島に来た。初代植木屋次郎右衛門より数えて八代目、現当主下村卓爾氏(82歳)はいまも八十二歳の老齢ではあるが、大阪市旭区に健在であるから、その父から聞いた記憶を辿って左記「已斐植木屋元祖 下村次郎右衛門系譜覚帳」の項に述べてみよう。(後略)。
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また、細郷の下村氏は「牡丹屋」との屋号で、大東亜戦争(太平洋戦争)前には、「大日本帝国牡丹元組」なる全国的な牡丹生産振興組織を主導し、会報などを発行していた。
 『広島史話伝説(第2号)』に紹介された、初代下村次郎右衛門は、万治3年(1660)に没している。またその名も、細郷木部村の松操寺を創立(寛文2年)した下村五郎右衛門と名付けの共通性があり、兄弟や血縁の近い一族である事を想像させる。
 
上記にあげた様々な木部村と下村氏についての要素と歴史は、個々別々のものでは無く、出所としては一つであろうと思われる。現在のように、何の縁故や謂われ無く交わる事が難しい時代にあって、ここにあげた要素のそれぞれは、偶然に結ばれたものでは無いだろう。
 今後、これらに興味を持った人々が、それらを更に深く、広く研究される事を祈りつつ、この試みが、そのキッカケになれば大変嬉しい。




2016年4月28日木曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺)

細郷(細川庄)は、古くから開け、久安寺を始めとした、非常に古い開基を持つ寺が多くあります。また、江戸時代の開基であっても、再興としての意味合いを持つ寺も多く、非常に古い時代の寺宝を持つ寺も多くあります。神社も然りです。
 細郷内には曹洞宗の寺院が多く、大広寺末寺及び同寺に関わりを持つ寺院が4つ(無二寺・東禅寺・松操寺・永興寺)あります。五月山南側の戦国領主池田氏の菩提寺である、曹洞宗大広寺と関わりを持つ寺が多い事は、非常に興味深いです。

五月山南麓にある池田城は、池田氏の成長過程で何度も戦乱に巻き込まれて落城していますが、発掘調査に関する研究では、落城の度に城郭そのものの縄張りも拡張・強化されています。これと同時に、五月山と城の関係を考え直し、落城しないための領域概念の再構成も行っていたとも想像されます。
 それらの永続的な防衛概念の構築と実践で、池田城は次第に落ちにくい城に変貌している事が歴史を追えば明らかとなります。池田城は、単立の存在ではないでしょう。
 五月山の裏から山上を取られて攻められたり、包囲されたりする事を避けるために、細郷に影響力を及ぼすことを池田氏が考えたであろう事は、想像に難くありません。研究によれば、史料上でハッキリし始めるのは、文安年間(1444-49)頃からとされ、池田氏が細川庄の代官請などを得ているようです。また、文明11年(1479)には、中河原村の代官職を得た池田若狭守の活動が見られるようになります。時代を経るにつれ、池田氏は細郷への影響力を強めた事と思われます。
 ちなみに、細郷六ヵ村(伏尾・吉田・東山・中河原・古江・木部)は、江戸時代を通じて、ほぼ幕府領で、同じく同時代に全期直轄領であった池田郷と関連を持たせた支配を行っている事からみても、これらの地域は防衛上、連続性を持たせる事が必須となっていたと思われます。
 それから、細郷は川辺郡との境目でもあり、隣接して多田神社があります。戦国時代は国や郡の境目は曖昧な事も多く、細郷の本所(領家)と多田院との境目争いも度々あったらしい事から、細郷は多田院御家人とは文化が違い、実質的な経済関係も全く異にしていたようです。

そういった状況から細郷は、永禄・元亀年間(1558-70)頃になると、池田氏の影響下に入っていた事と思われます。その裏付けとも考えられるのが、いくつかの寺の寺伝に「兵火による焼失」が見えます。また、昭和46年4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に、主に室町時代に流通していた多量の古銭が出土しています。(総合計18,317枚)
 やはり、この遺物の出土状況からみても、細郷が戦乱に遭っていた事が想定できます。伝承もある程度、正確に記述されているのではないかと思われます。
 
池田城を本城と考えた場合、重要な街道を多く通す細郷にも、支城機能を要所持たせていたと考えられ、それらの可能性を思索するために、細郷の歴史的経緯を村毎に詳しく考えてみたいと思います。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。


◎細川庄
  • 現池田市の北部、久安寺川(余野川)流域にあった庄園。近世の細郷六ヵ村の地に比定される。「後鳥羽院熊野御幸記」建仁2年(1201)10月25日条に「此宿細川庄成時沙汰也」とみえ、この時、熊野御幸に際しての雑事である長柄宿(現大淀区)の沙汰を当庄庄官成時が行ってる。ところで当庄は、建長5年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)に、後堀河天皇の中宮鷹司院藤原長子知行の一処として「知足院殿新立庄内 摂津国細河庄」とみえ、知足院すなわち藤原忠実のとき立庄されたことが知られる。鷹司院へは、同目録によると寛元2年(1244)に近衛家実から譲られている。正応6年(1293)4月日の鷹司兼平譲状案(鷹司家文書)によると、その後当庄は鷹司院から鷹司兼平の手に移っており、この時兼平からその息子兼忠に譲られている。ただ、当庄はこの時金蓮華院領となっており、金蓮華院と鷹司家の関係は、応安4年(1371)3月6日の勘解由小路兼納譲状(広橋家文書)によれば、本家と領家であった。同譲状によると、文保年間(1317-19)勘解由小路兼仲が当庄領所職を得たらしく、その後同家が同職を相伝、建武3年(1336)には勘解由小路光業が、光厳上皇より当庄の知行を安堵されている(同年8月27日「光厳上皇院宣」下郷伝平氏所蔵文書)。
     当庄は多田院(現兵庫県川西市の多田神社)に近接していたために、この間、同院との間で境相論が起こっている。正安元年(1299)11月10日の六波羅下知状(多田神社文書)によると、当庄雑掌行智が多田院地頭代道教と山野などについて争ったことがみえるが、同下知状によれば、これ以前の正元年間(1259-60)にも相論があった。いずれも多田院の勝訴に終わっている。そのほか国衙や住吉社(現住吉区)から年貢所当(正税)をめぐって、しばしば濫妨をうけている(貞治3年9月日「勘解由小路家雑掌有賢申状」広橋家文書)。ところで永和元年(1375)7月25日の諸堂造営棟別銭郷村注文(多田神社文書)によると「多田加納村々」の中に、細川庄の名がみえ、このころ多田院の加納地となっていたことが知られる。また「康富記」文安5年(1448)8月5日条によると、細川庄本家職の請負代官に守護細川氏の被官池田筑後守充正がなっている。なおいつからかは不明だが、細川庄は三条家領となっており、康正2年(1456)造内裏段銭並国役引付に「三条師殿御家領(摂州細川庄段銭)」とみえ、3貫500文を納入している。【地名:細川庄】

◎細郷
  • 現池田市の北部、久安寺川(余野川)流域にあり、近世の伏尾・吉田・東山・中河原・古江・木部の六ヵ村をいう。中世は細川庄の地で、戦国期には細川村と記されることもあった(明応4年12月22日「細川政元奉行人斎藤元右奉書」多田神社文書)。元和初年の摂津一国高御改帳に「綱郷」とみえるが細郷の誤写であろう。上記六ヵ村で、高1745石余となっている。当郷は植木の産地として知られ、「摂津名所図会」に「名産種樹、細河谷より出づる。京師、浪速及び諸国へ出す。すべてこの辺の地理、北の方山岳多く寒を防ぎ、南の方晴れて陽気早し、ゆえに諸木繁生の名地なり」とある。承応2年(1653)大内裏が炎上し、紫宸殿の左右の桜・橘が焼け枯れたため、明暦元年(1655)郷中の接木の巧者六蔵なる者が御所に召され、橘の接木に成功し「橘兵衛」の名をもらったと伝えられる。
     この話しは川辺郡長尾(現兵庫県宝塚市)にもあり、両地ともに植木の元祖を主張している。元文元年(1736)成立の豊島郡誌(今西家文書)によると細郷谷は、梅・桃・李・梨・栗・柿などの産物とともに「樹芸」があり、接木・挿木・取木などで「珍弁異花ノ名品」を多く出していたことが記され、この頃には世に知られていた。安永3年(1774)大坂天満(現北区)の植木商が株仲間を結成する時、細郷六ヵ村と、川辺郡山本村(現宝塚市)が反対し、30株の株入を認めさせている(大阪市史)。これは、村々で植木を扱う商人の株入りが認められたことで、当郷にも植木を扱う在郷商人が広く存在したことを示している。以後、当郷で育てられた植木は「池田の植木」として発展していった。【地名:細郷】

◎木部村(池田市木部町)
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山腹にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川と合流する。池田村より北上してきた能勢街道は、村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。
     慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降は、すべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。
     木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しない、という条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が、池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】
  • 池田備後守光重寄進状 昭和11年7月 林田良平稿「大広寺年表」所載
    一相乗實(池田知正)並びに池田三九郎為、木辺村於、米10石御寺納候。田数別紙之在り。仍って後日為寄進件の如し。
       慶長10年(1605)10月吉日 池田備後守光重(花押)
        大広寺御納所
    【池田郷土研究第8号12頁:例会281回(昭55・5・11)蝸牛驢文庫所蔵】

◎中河原村(池田市中川原町)
  • 木部村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、その左岸を余野道(摂丹街道)が通る。村域東部は五月山の北側にあたる山地で、耕地や集落は西部に展開。嘉禄2年(1226)11月15日の土師某田地売券(勝尾寺文書)に「在摂津国豊島北条仲川原村十九条二里十六坪内西依也」とみえ、この「仲川原村」を当地にあてる説もあるが、五月山より南の地で当地ではないとの見解が強い(池田市史)。康正2年(1456)造内裏段銭並国役引付によると、代官と思われる安東平左衛門が、中川原段銭として1貫文を進納、また「後法興院雑事要録」の文明11年(1479)条によると、当地に摂関家が得分権を有しており、代官池田若狭守が200疋を進納している。
     元和初年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後、幕府領として続くが、文政10年(1827)より三卿の一橋領となり(川西市史)幕末に至る。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では182石余であるが、享保20年(1735)摂河泉石高調では219石余。植木栽培が盛んであった。臨済宗天龍寺派松雲寺・真宗大谷派千行寺がある。【地名:中河原村】

◎東山村(池田市東山町)
  • 中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】

◎古江村(池田市古江町)
  • 木部村の北西にあり、細郷の一村。村の南西側を猪名川が南東流し、村の南端で久安寺川と合流する。北部は山地で、南部に耕地が広がる。東部を能勢街道が南北に通り、街道に沿って集落がある。
     慶長10年(1605)摂津国絵図に「古江村」とみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕府領として続くが、文政10年(1827)より三卿の一橋領となり(川西市史)、幕末に至る。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると349石余。宝暦10年(1760)の村明細帳(森家文書)によると、家数68(うち寺1・道場1)・人数161、牛12、溜池2、草刈野山1(六ヵ村立会)、村民の余業として木柴苅・木綿稼をし、池田や伊丹(現兵庫県伊丹市)の市場に売出した。年貢米は津出しで、神崎浜(現兵庫県尼崎市)へ運んだ。猪名川・久安寺川に挟まれたように立地する当村ではあるが、干損所であった。しかし、大雨の時には両川の水が合流するところから、出水する場合が多く、水損も多かった。曹洞宗無二寺と、初め片岡惣道場とよんでいたが、宝暦3年(1753)、寺号を免許された浄土真宗本願寺派如来寺がある。なお無二寺境内には貞和5年(1349)5月3日の銘を持つ石造宝篋印塔があり府指定文化財。【地名:古江村】

◎吉田村(池田市吉田町)
  • 古江村の北東にあり、細郷の一村。村の南東端部を久安寺川が南西流する。村域の北部および西部は山地で、集落は山麓平地に点在。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえる。元和初年の摂津一国高御改帳で細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれ、以後幕末まで幕府領。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると131石余。細川神社、曹洞宗陽松庵・同慈恩寺がある。【地名:吉田村】

◎伏尾村(池田市伏尾町)
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野街道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。
     慶長10年(1605)摂津国絵図には、伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉国高調に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川(現兵庫県加古川市)の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】

◎真言宗 大澤山 久安寺(池田市伏尾町)
  • 高野山真言宗。大沢山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
     天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
     
    久安寺寺号勅額(近衛天皇宸筆)
    文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書く(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
     文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる。
     境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
     慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
     楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。(中略)。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。【地名:久安寺】

◎曹洞宗 大広寺末 鼓瀧山 無二寺(池田市古江町)
  • 無二庵そのものは、延宝4(1676)浪速の人井関某が、自分の職業上、航海の安穏を祈って創立したものであるが、それまでこの辺りは、海光山等覚寺なる古刹があった。行基の創立で、寿永の乱(1182-85)に焼かれたと伝えるが、その法灯を無二庵が継いだので、恐らく等覚寺址の石塔群をも収めたものと推察。、とあります。
     また、大阪府全誌には、無二庵は字北垣内にあり、鼓滝山と号し池田町(市)曹洞宗大広寺末にして、聖観音を本尊とす。永禄5年(1562)正月、僧曇清の開創にして、其の後再建せりと云う。【池田市内の寺院・寺社摘記:無二寺】
  • 無二寺のある古江は古墳もある、古代から人が住む街道筋でした。古江は「シノブ梅盆栽」の名産地としても知られている土地柄です。余野川に架かる中川原橋を渡って、田中園芸を北へ入り、三叉路を西へ柵に沿って進むと、右手に無二寺が見えて来ます。このお寺は、和泉式部の墓とされる宝篋印塔(供養塔)があることで有名です。無二寺となる以前は、海光山等覚寺というお寺があって、行基の開創と伝えられていますから、1300年も昔の話しです。その後、寿永の乱で焼失し、廃寺となって、永禄5年(1562)に僧・曇清が無二寺として創建、天正の乱で再び焼失しますが、延宝4年(1676)に井関某によって再興されます。
     現在の本堂は30年ほど前に建立されたものです。ご本尊は、釈迦牟尼仏です。墓地には、等覚寺当時の墓石が残されていて、室町初期の阿弥陀像石仏(二体を一つにした)や室町末期の光明阿弥陀像石仏等と共に大阪府指定文化財となっている和泉式部の宝篋印塔があります。宝塔には貞和5年(1349)の銘がありますので南北朝の頃のものです。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:無二寺】

◎等覚寺址(池田市古江町)
  • 古江北方にあり、伝えいう当寺は天平年間僧行基の開基なりしが寿永年中の兵燹にかかり悉く鳥有に帰せしと。今は田甫となりて遺址の見るべきものなきも字地に寺名及堂塔址を残せりと。(大阪府全志)【池田町史:等覚寺址】

◎真宗 西本願寺派 八幡山 如来寺(池田市古江町)
    古江字片岡にあり。八幡山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とする。本地住人岡本源之丞(了信)、本願寺良如法主に帰依し、寛文2年(1662)檀徒と協力して創立せり。(大阪府全志)
    • 八幡山と号し、寛文元年3月、開基釈了信の所有地に創立。(同寺所蔵 如来寺寺院規則)
    • 第1代寛文元年(1661)8月19日、亡 了信 創立時の如来寺は「片岡惣道場」であって、寺号は宝暦・明和(1751-72)頃に成立したらしい。(歴代住職表)
    • 良如法主(1612-62) 真宗本願寺派13世 諱は光円。12世准如上人第7子。
    • 八幡山 豊能郡伏尾村久安寺山内にあり。往昔、応神帝影向の山頭を以て、八幡山を称す。【池田市内の寺院・寺社摘記:如来寺】
  • 如来寺は、江戸前期の寛文元年(1661)本願寺13世の良如上人に帰依し、僧「了信」となった岡本源之丞ほか10数人の檀徒が建立した寺です。本堂は建立当時のもので、修復を重ねつつ300年以上も護持されて現在に至っています。(中略)。
     お寺のすぐ上は妙見街道となっています。「能勢の妙見さん」へのお参りの人々が絶えず往来しました。今は池田市立児童館となっている所に、古江の旧家森家の屋敷がありました。森家は肥後熊本細川藩の家老を先祖とする家柄で、この場所で漢方薬院として施薬・医療を業としました。妙見さんへ参る人々などの憩いの茶店が軒を並べ、中には体調を崩す人もあり、薬院は重宝され随分と流行りました。こうしてこの辺りは森家ゆかりの人、多田源氏落ち武者、「ふるごんぼう」と呼ばれた古江御坊信仰の人等が集まり、邨が出来て賑やかになりました。やがて森家の財力によって檀那寺が建てられ、如来寺の前身となりました。この寺の殆どのものが森家の寄進によるもので、屋根瓦には森家の家紋である九曜星(肥後細川家の家紋)の紋が使われています。森家の菩提寺としての如来寺の墓地には歴代住職をはじめ、森家累代の墓があります。
     ちなみに箕面公園滝道に「森 秀次」の銅像があります。氏は、府会議員時代に、箕面山を密教の神聖な山として公園化に反対する人々を説得し、尽力されました。銅像は、公園の生みの親としての功績を讃えられたものです。氏はその後、国会議員となられ、大正15年(1926)に72歳で逝去されました。【改訂版 池田歴史探訪:如来寺】
  • 古江字片岡にあり、八幡山と号し、真宗西本願寺にあり。【池田町史:如来寺】

◎曹洞宗 陽松庵末 長尾山 慈恩寺(池田市中川原)
  • 字深谷にあり。長尾山と号し、曹洞宗 陽松庵末にして、毘沙門天を本尊にする。由緒は詳らかならず。もと字長尾にありしが、明治21年(1881)2月15日当所に移転せり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:慈恩寺】
  • 地元では古くから「吉田の毘沙門さん」とよばれて信仰されて来ました。住所が中川原となっていますが、これは土地を寄進された元の所有者が中川原の人であったために飛び地となっています。元は、伏尾ゴルフ場北の山頂近くにあって、細郷(細河谷)北方の守護神として祀られていましたが、明治時代現在地に移されました。(中略)。もとは真言宗でしたが、江戸時代に永平寺曹洞宗に改宗されました。しかし、現在も護摩が焚かれ、真言密教の名残があります。
     境内には元長尾山頂上にあった江戸時代後期の道標があって、「妙見江ぬけ道」と刻まれています。また参道石段右手の地蔵さんも道標となっています。
     平成16年(2004)から境内に品種の異なる100鉢の蓮の栽培を始められて、夏の7〜8月には見事な花が色とりどりに咲き、心を和ませてくれます。大変なご苦労があると思います。慈恩寺は、長い間無住職の時代があって、現在の住職は4世にあたります。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:慈恩寺】
  • 字深谷にあり、長尾山と号し、曹洞宗陽松庵末である。)【池田町史:慈恩寺】

◎曹洞宗 静居寺末 少林寺・退蔵峰 陽松庵(池田市吉田町)
  • 観応2年(1351)天龍寺開山夢想の開基なりと伝えらる。安永5年(1776)3月、淡路の領主稲田九郎兵衛祖先菩提のため再建せりと。境内九百坪を有し、本堂・庫裏・書院・方丈・廊下・衆寮・如幼斉・侍者寮・経蔵・山門・開山堂・禅堂などあり(大阪府全志)。
     本寺は有名なる天桂禅師留錫の道場であって、享保6年(1721)禅師を招請して中興の開山とした(寺史による)。彼の禅師の名著「正法眼蔵辨註(20巻)」「驢耳弾琴(7巻)」「報恩篇(3巻)」等は当時、眠れる法城に向かって獅子吼された書であって、当山は禅師由緒の地である。今尚は、其の名著の版木は輪堂に蔵され、禅師手澤の「正法眼蔵辨註」は、門外不出の書として当山に尚蔵されている。禅師は「正法眼蔵辨註」を享保11年に起稿され、同14年春に脱稿されている。そして6年後の享保20年(1735)12月10日に遷化された。
     当山は安居其他僧俗を問わず、時々其名著を提唱して修養の禅道場となって居る。そして当山は人寰(じんかん:人の住むべきさかひうち)を隔てて小丘によれる僻陬(へきすう:僻地)の寺院であって、幽翠静寂の勝地である。
     近時都人士が、煤煙の地を離れて当山に集い、提唱を聴く者甚だ多しと世間では、当山を一(いつ)に吉田の天桂と呼んでいる。禅師の遺蹤(いしょう:人の行ったあとかた)を偲ぶ名であろう。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:陽松庵】
  • 細河谷南斜面の日当たりの良い適度に乾燥した土地は、我国有数の松の産地で、五葉松(ヒメコマツ)、柏槙などの生産で有名です。池田の文化に多大な影響を残した連歌師「牡丹花肖柏」の号「肖柏」も松・柏に因んでいます。
     同様に松に因む参禅道場「陽松庵」の開山は、観応2年(1351)室町時代、京都天龍寺開山の夢想国師(疎石)と伝えられています。その地は木部北条にありました。その後、四国阿波蜂須賀候は、深く天桂禅師にに帰依され、創建より362年後の正徳3年(1713)、その家老である稲田九郎兵衛によって天桂禅師を招請し、堂宇を再建することを発願されました。
     享保6年(1721)、木部の牡丹屋下村小兵衛も天桂禅師に深く帰依し、所有する吉田の現在地を寄進し、稲田氏と共に天桂禅師を中興開山として新築移転建立されました。
     陽松庵は禅寺としての伽藍配置が良く整っていて、経蔵・放生池・山門・法堂・仏殿・鐘楼・座禅堂・客殿・庫裏・浴室・東司などを備えて、創建当時のまま修復を重ね、現在に至るまで保存されている池田屈指の古刹といえます。(中略)。
     天桂禅師(1648-1735)の墓所は、禅師自らが示された西側山麓の石段を登りつめた所にあります。そこには禅師が示された楠木が代々植え継がれています。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:陽松庵】
  • 字渓谷にあり、少林山、退蔵峯と号し、曹洞宗静居寺末なりと、観応2年天龍寺開山夢想の開基なりと伝えらる。安永5年3月淡路の領主稲田九郎兵衛祖先の為め再建せりと、境内900坪を有し、本堂、庫裡、書院、方丈、廊下、衆寮、如幼齋、侍者寮、経蔵、山門、開山堂、禅堂等あり。(大阪府全志)本堂は有名なる天桂禅師留錫の道場であって享保6年禅師を招請して中興の開山とした。(寺史に拠る)彼の禅師の名著『正法眼蔵辨註』(20巻)『驢耳弾琴』(7巻)『報恩篇』(3巻)等は当時眠れる法城に向かって獅子吼された書であって当山は禅師由緒の地である。今尚は其の名著の版木は輪堂に蔵され、禅師手澤の『正法眼蔵辨註』は門外不出の書として当山に尚蔵されて居る禅師は『正法眼蔵辨註』を享保11年に起稿され同14年春に脱稿されて居る。そして6年後の享保20年12月10日に遷化された。
     当山は安居其他僧俗を問わず時々其の名著を提唱して修養の禅道場となって居る。そして当山は人寰を隔てて小丘によれる僻陬の寺院であって幽翠静寂の勝地である。近時都人士が煤煙の地を離れて当山に集まり提唱を聴く者甚だ多しと。世間では当山を一に吉田の天桂と呼んで居る、禅師の遺蹤を偲ぶ名であろう。【池田町史:陽松庵】

◎真宗 東本願寺末 返照山 円城寺(池田市東山町)
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とする。天文14年(1545)4月西念の創立なり。慶応4(1868)1月29日、火災に罹り焼失し、明治元年住職知成檀家と協力して、之を再建せり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:円城寺】
  • 細河谷と呼ばれ、久安寺川の両側に広がる一帯の植木の郷の起源は、350年から400年に遡る正保年間(1644-48)及び更に天文年間(1532-55)にも至ると言われています。
     その東北山側に東山(町)があります。日照時間の短い湿度と日陰と赤土を生かした「東山の鉢挿」は、有名なサツキ・ツツジの特産地として知られています。(サツキツツジは池田の市花となっています。)この様な集落の佇まいに、円城寺の古寺がひっそりと歴史を刻んでいます。
     東山バス停の地蔵堂を過ぎ、しばらくして右折れし、なだらかな山麓の坂道を数分登ると左手に石垣を巡らせた円城寺があります。その裏手には、同寺の経営される細河保育園があって、元気な子ども達が寂しさを和らげてくれます。
     円城寺の開創は天文14年(1545)、僧西念によると伝えられます。当主(住職)は17代目となるので、少なくとも500年以上になる寺です。しかし残念な事に、明治元年、この寺に仮寓していた乞食の失火によって堂宇全てが焼失し、貴重な文書・遺物が失われてしまいました。けれども本尊の阿弥陀仏と仏画は辛うじて持ち出され、現在拝むことができます。
     本尊・仏画はよく修復されて、仮本堂ながらも立派に祀られています。秘められた歴史の遺品として、まだまだ調査の必要な寺院です。特に本尊の台座は、他に見られない重厚な造りとなっています。【改訂版 池田歴史探訪:円城寺】
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗東本願寺末である。天文14年僧西念の創立なりと伝えらる。)【池田町史:圓城寺】

◎曹洞宗 大広寺末 瑠璃光山 東禅寺(池田市東山町)
  • 字上条にあり。瑠璃光山と号し、池田町(市)曹洞宗大広寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とする。僧正行基の創建に係り、紫雲寺と号せしが後、屢々兵燹(へいせん)に罹りて廃絶せしを、慶長9年(1604)2月、僧東光、其の旧蹟に一草庵を結びて再興し、今の寺名に改む。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:東禅寺】
  • 東禅寺へは少々体力が必要です。円城寺から上へ右手(南へ)にとると、少し下って薬師堂のある広場に出ます。ここから左手(山手)を更に集落の急な坂道を登りつめた台場にひっそりと古寺が佇みます。
     当寺の開創は、慶長9年(1604)、僧「東光」と伝えられます。また、元「紫雲寺」で、行基菩薩の開創とも伝えられています。現在の建物は古いものではありませんが、今の住職が中興の祖から7世にあたりますので、開創からは20世にもなり、400年を越える歴史のある古寺と言えます。本堂の釈迦如来のほかに、この寺の宝物は観音堂に安置されている四躯の仏像です。何れも池田市重要文化財として指定されています。(中略)。
     本堂の鬼瓦に揚羽蝶が見られますので、織田氏・尾張池田氏との関わりがあるかもしれません。池田の埋もれた歴史がこの寺にもあると思います。境内に引かれた涌水は、渇き疲れを癒やす甘露として、知る人ぞ知る名水です。墓地の歴代の住職の墓石は重厚感があります。また、同寺には石造美術品として、宝篋印塔があり、応永2年(1395)の銘が刻まれています。【改訂版 池田歴史探訪:東禅寺】
  • 東山字上條にあり、瑠璃光山紫雲寺と号し、曹洞宗総持寺末である。)【池田町史:東禅庵】

◎臨済宗 天龍寺末 薔薇山 松雲寺(池田市中川原町)
  • 字下門にあり。薔薇山と号し、臨済宗天龍寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とす。観応2年(1351)10月の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:松雲寺】
  • JA大阪北部細河支店の裏側を山手に少し登ると、松雲寺があります。細い参道へ入ると、苔むす石垣の上に真っ白な築地が続きます。しっとりとした石畳を踏んで進むと、すぐ山門に着きます。
     苔と下草に覆われた境内は、静寂そものです。正面に五月山を借景に本堂がひっそりと佇んでいます。「天龍寺派居士林道場」と書かれた木札が掛けられ、いかにも禅宗の寺らしく心落ち着く雰囲気です。
     現在の本堂は、昭和46年に建てられたものですが、創建は南北朝時代の禅僧夢想国師(疎石)で、600年以上の歴史を持つ古刹です。ご本尊は釈迦牟尼仏で、江戸時代末期の作と伝えられています。
     当寺は地元旧家である一樋家の菩提寺としても関わりがあります。南側にある墓地には、歴代住職の墓石をはじめ、歴史を感じさせる古い墓石が並び、夜には怖くて近付けないような昔のままの雰囲気もあります。
     境内で心を静めて「禅定」の瞑想に、ひととき浸るのもここまで足を運ぶ甲斐があるのではないでしょうか。【改訂版 池田歴史探訪:松雲寺】
  • 中川原字下門にあり薔薇山と号す。臨済宗天龍寺末なり。 【池田町史:松雲寺】

◎真宗 東本願寺末 大雲山 専行寺(池田市中川原町)
  • 字南絛にあり。大雲山と号し、真宗東本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とす。万治2年(1659)正貞の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:専行寺】
  • 国道から少し入るだけで旧街道は交通もまばらで、気持ちを落ち着きます。この中川原は、細河植木の集散地で、近くには細河園芸農協市場もあります。街道に沿う専行寺は、日当たりが良く、明るい境内は夏には、蓮の花が咲き、仏心が和みます。
     このお寺の創建は、万治2年(1659)、僧「正貞」と伝えられ、340年を越える古刹です。本堂も再建されていますが、修復を重ね270年を経る建物です。本尊は阿弥陀如来立像で、室町時代後期の作と思われます。(中略)。
     当寺の紋は笹りんどうで、多田源氏の紋と同じです。多田神社または、多田源氏家人と関わりがあるものと思われます。古江「如来寺」の建立に功績のあった、森家の先祖、肥後熊本細川藩家老であった人が、はじめは「専行寺」に入り、間もなく古江の片岡で森家を興して、如来寺を建てたと伝わります。
     昔、専行寺は門徒の信仰の寺としてだけではなく、寺子屋としても一円の郷の子ども達が集まり、学びました。この寺子屋は、明治7年(1874)、細郷小学校として、現在の細河小学校の前身として移転しました。浄土真宗の寺院は、世俗的で、民衆に慕われやすい道場の色彩があります。門徒が心を合わせ、苦労を重ねて寺を建て、何百年も維持されてきた努力は、美しく、尊いものです。【改訂版 池田歴史探訪:専行寺】
  • 字南條にあり、大小山と号し真宗東本願寺末なり。 【池田町史:専行寺】

◎曹洞宗 総持寺末 竹林山 松操寺(池田市木部町)
  • 字北条にあり。竹林山と号し、曹洞宗総持寺末なり。寛文2年(1662)8月、下村五郎右衛門の創立にして、大広寺18世雲山の開基と伝えられる。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:松操寺】
  • 木部天神社(紀部神社)前の旧道を少し北へ行くと、五月山山麓の竹林に包まれて「松操寺」があります。ここまでは車の騒音も聞こえない、ひっそりとした佇まいの尼寺です。
     開山は「下村五郎右衛門」という人で、地元では「ごろよみ」と呼ばれていました。寛文2年(1662)大広寺末として、18世により建立されました。ご本尊は釈迦牟尼仏で台座には笹りんどうの紋があって、珍しいことに獅子に乗っておられます。お釈迦様が獅子に乗られたのか、獅子が潜り込んだのか、どちらでしょうか。下村五郎右衛門の祖母の持仏であったとも伝えられていますから、400年以上昔の仏像です。両脇には、達磨大師・天元大師の木像があります。また、小さいけれども創建当時の地蔵菩薩が安置されています。
     長い間無住の時代があって、竹藪にポツンと在った草庵に、籠職人が住み込んでいた事もありました。庵主が入られて現在7世となります。本堂は、周りに増築されていますが、柱など創建当初のまま、焼けることも無く江戸時代初期から修復を重ねて350年近くの年月を経て、今日に至っています。(中略)。
     戦後は政教分離が徹底され、檀家の変遷のある中で、寺院の維持・保存は非常に難しくなってきました。院主のご苦労が偲ばれます。【改訂版 池田歴史探訪:松操寺】
  • 字北絛にあり、竹林山と号し曹洞宗総持寺末なり。寛文2年8月下村五郎右衛門の創立にして、大廣寺18世雲山の開基と伝えらる。(大阪府全志)【池田町史:松操寺】

◎曹洞宗 総持寺末 松尾山 永興寺(池田市木部町)
  • 松尾山と号し、曹洞宗大広寺末にして釈迦牟尼仏を本尊とす。長禄2年(1458)2月、「永公」の創立なり。
     永興寺開山堂(いち名位牌堂)の十一面観音は、左手に水瓶(薬瓶)を提げ、右手で錫杖を立てている。ちょっと見慣れない姿だが、是れがいわゆる長谷式で、大和国長谷観音本尊の写しである。長谷寺は、天平時代に藤原房前が本願となって稽文会(けいもんえ)・稽主勲(けいしゅくん)合作のものを安置したが、現在のものは天文7年(1538)8月1日に成ったのだという。
     恐らく現本尊と同じものが古くからあって、天文年間(1532-55)にその形式を襲ったのであろう。分家が古く、本家が新しいという様な事は、理屈に合わないからである。なお錫杖を持っているのは、地蔵の兼相を表すものだとされている。
     ところで、永興寺の十一面観音は、元は木部天神の神宮寺松梅寺の本尊であったという。だいたい、松と梅は天満天神とかかわりの深いものだから、そんな名の寺に同神の本地とされる十一面観音を祀ったのは当然だろう。
     それは兎に角、この像は一木造りで、高さ110センチメートル、宝冠型のまわりに化仏を前後2体、左右3体、現在頂上に1体を配置する略式であるが、頂上仏は失われていない。それから首だけが妙に継ぎ足しの様にみえるのは、そのところだけ金箔が押し直された為か。なお左手と持物、足先が後補、台座も年代が下る。
     時代は彫眼の向き、肩の線、腰のくねり、衣丈の具合等、はっきり藤原式である。ただ中期か末期かに迷わされる。(池田市史)【池田市内の寺院・寺社摘記:永興寺】
  • 永興寺は、木部天神宮の赤い鳥居の右側の坂道を少し登ると、長尾山を望む高台にあります。このお寺は、室町時代の長禄2年(1458)、僧「永公」の開祖と伝えられますから、応仁の乱直前の540年を超える古いお寺です。永公がこの地に来たとき、粗末な庵(いおり)に十一面観音が祀られてあり、ここで一泊したところ、観音のお告げがあり、寺を建立したと伝承されています。
     ご本尊の十一面観音立像は、藤原時代1100年程前の作です。桧一木造りで、頂上仏が失われていますが、池田市重要文化財に指定されている貴重な仏像です。本堂裏の墓地には、古い歴史を語る、多くの宝塔・墓石が樹木に囲まれて森閑と並んでいます。心落ち着く風情です。
     隣地にある天神宮とは、昔は神仏習合(奈良時代に始まった神と仏の信仰を融合調和する思想の表れ)によって敷地がつながっていたそうです。以前、木部天神宮の神宮寺であった松梅寺がありました。【改訂版 池田歴史探訪:永興寺】
  • 南條にあり、松尾山と号し、曹洞宗総持寺末なり。【池田町史:永興寺】

◎臨済宗 妙心寺派 超伝寺(池田市木部町)
  • 字南條にあり、厳島山と号し、臨済宗妙心寺末なり。【池田町史:超伝寺】

◎明神社(池田市伏尾町)
  • 久安寺の門前にありますが、阪神大震災でさらに被害を受けて、参詣する人も少ない状態です。神明社というのは、平安末期以降、伊勢神宮の神霊を祀った神社で、全国各地にあります。ここ伏尾の神明社は、天照大神と天満天神を祀ってあります。のちに熊野大権現・愛宕大権現・大原大明神などが、合祀されているようです。
     灯籠に延暦年間(782-806)の年号がありますので、1200年を遡る歴史ある古社です。今は善慶寺地内の「設殿」として、伏尾町自治会の管理となっていますが、郷域の氏神として、往時は大坂の商人からも厚い信仰があったようです。
     伏尾町の役員が参加して、2月・夏・秋と年に3回の祭礼が行われています。久安寺の院主が祭礼を司り、僧侶であるが神式の玉串奉てん読経という、神仏合体の形式で行われるのは珍しい。夏の祭礼には太鼓みこしや屋台が出て賑わいます。【改訂版 池田歴史探訪:明神社】

◎細川神社(池田市吉田町)
  • 吉田町の北端部山麓に鎮座する。祭神は不詳。旧村社。「延喜式」神名帳にみえる「細川神社」は、その所在が不明であったが、享保年間(1716-36)幕府の命によって並河誠所が、神体を船具とする吉田村の産土神、すなわち当社に比定した。元文元年(1736)式内社として、幕府から社表石が寄進された。安政4年(1857)社殿の再建がなされ、社蔵棟札に「修覆摂州豊島郡細川大神御社殿奉再興者也 両村氏子中」とあり、吉田村・東山村の二ヵ村の産土神となっている。明治40年(1907)伏尾の天満宮、中河原の素盞烏尊神社、古江の八幡神社を合祀して、旧五ヵ村の産土神となった。【地名:細川神社】
  • 慈恩寺山にある。今、毘沙門天と云って、久安寺奥院にあたる。祭神・創建年月は詳らかでないが、往時、この社に金皷(ごんぐ)があったと云われる。細郷社の産土神である。
     金皷について、昭和14年刊の『池田町史』に、吉田町の細川神社に、天文年間(1533-55)の金皷があると書いてあったが、調査の結果、昭和8年(1933)7月10日発行の「雲泉荘山誌 巻之四」によると、山荘の持ち主の歿後、売り払われ金皷の所在は再び不明となっている。【池田市内の寺院・寺社摘記:細川神社】
  • 細川神社は、吉田町北部丘陵の麓にあります。道路から奥まった所にあるので、ちょっと解りにくいのですが、樹木に囲まれた静寂な神域です。鳥居をくぐり、赤い小橋を渡り、境内に入ります。伊居太神社と共に「延喜式」神名帳(927年)に記載されている古いお社です。
     ご祭神は、細川水神・通船神(猪名川通い船)を御神体とする伝承があります。本殿の右手に「細川社」と刻んだ石碑がありますが、これは、大岡越前守の支援を受けた「並河誠所」(江戸時代の儒者で京都の人、伊藤仁斎の門人、並河天民の兄)が、大坂町奉行所の指令によって訪れ、細川社を延喜式内社として認定したことから建てられたもので、270年前の石碑です。明治天皇もここを訪問され、参拝されています。
     祭日は10月23日の秋祭りで、戦前まで吉田・東山・伏尾・中河原・古江の各村から、多いときには6台の太鼓神輿が出たそうです。現在は尊鉢地域の五社神社宮司が祭祀を司っておられます。【改訂版 池田歴史探訪:細川神社】
  • 吉田慈恩寺山にあり延喜式内の古社なれど祭神詳らかでない。猶社に金皷あり、其の銘に、「天文5年8月吉日 細郷荘 吉田天神」と記されて居る。古より細郷莊の産土神である。【池田町史:細河神社】

◎紀部天満宮(池田市木部町)
  • 現在の紀部神宮、旧称木部天満宮の所在は池田市木部。当郷産土神として、崇敬甚だ厚く、祭神菅公の千載に変わらぬ忠烈精誠を仰がざるはない。創建の年代は詳らかならざるも、所伝に依れば、天神系紀国造(きのくにみやつこ)の末裔である木部氏(紀部氏)此の地に居りて祖神天道根命(あめのみちねのみこと)を斉祀し、氏の大神として尊崇されるもの、即ち当社の起源にして、後一条天皇の正歴4年(993)勅使菅原爲理太宰府に下り、菅廟に正一位太政大臣を贈り、霊代を奉じての帰途に、神託を畏みて分霊を島上郡日神山(ひるがみやま:上宮天満宮(天神社)現大阪府高槻市天神町)と当社に奉祀し、次いで、日神山の神を上宮天神、当社を木部天神と称え奉りたるものなり、という。
     天神系紀国造の氏族夙くこの地に住して、其の祖天道根命を祀り、氏神として斉き奉りたりしが、後年菅公を配祀して、天神宮と公称せしものなるべしが、正親町天皇朝の天正年間(1573-92)織田氏の兵火にかかり、社殿・神宝・古記録など悉く鳥有に帰し、今や徴すべき史料はない。
     以来、当地の名族下村五家、宮家として、京都吉田殿の免許を受け、神事を奉仕する事、実に明治40年に至れりという。
     上記は、義川百合女氏の論文を摘記させていただいたのですが、義川氏は最後に「而し、現社号は昭和26年宗教法人法に依り、上記の古文献・記録に従ひ許可されたるにて、神宮の称号は府下希有のものたるべし。」としています。【池田市内の寺院・寺社摘記:紀部天満宮】
  • 畑天満宮と区別するために「木部天満宮」としましたが、地元では「天神宮さん」と呼ばれています。本殿に掲げられている額には、「天満宮」と書かれていますので、天満宮が正しいと思いますが、称号が何時変わったのか明らかではありません。別に紀部神社とも呼ばれています。
     当社のご祭神は、言うまでも無く菅原道真公です。菅原道真は、藤原時時平の讒言によって、太宰府に左遷されて、延喜3年(903)59歳で亡くなりました。以来、天神信仰が全国的に拡がり、各地に「天神さん」として祀られていますが、ここの天神宮は、道真公と直接の由来があったように思います。と言いますのも、かなり古い社で少なくとも14世記南北朝時代には祀られていたように思います。火災には遭っていないようですが、長い間、宮司が不在で、古文書などは散逸してしまっているために、全く不明です。しかし、寛政から天保年間(1789-1843)の頃、最も繁栄していた様です。その後、明治・大正・昭和の初期まで、厚い信仰が続いていました。
     現在の本殿は、100年余り前の建立と思われますが、境内の数百年を経るケヤキの大木や石垣などに歴史の重みが感じられます。木部は「城辺」とも記録され、池田の原住民「佐伯部」の城(とりで)があたっと伝えられる平安時代からの集落でした。五月山は佐伯山と呼ばれていました。
     また、木部は牡丹の発祥地として500年もの歴史と主産地としての繁栄がありました。牡丹屋小兵衛が著名で、今も牡丹屋と呼ばれる下村家が健在です。現在、吉田にある陽松庵は、もとは木部にありました。陽松庵の建立に、牡丹屋小兵衛の大きな尽力がありました。
     木部天満宮は、阪神大震災で社務所が倒壊し、大きな被害を受けました。しかし、整備された神社とは、また違った神秘さと、歴史のミステリーが感じられます。
     当社のお祭りは10月24日・25日の秋祭りです。最近は祭日直近の土曜日に行われます。だんじりは、木部と新宅の2台があります。(中略)。現在は木部のだんじりだけが、2つの赤提灯を先頭に、太鼓の音色も勇ましく、大人・子ども70〜80人が曳いて、木部町を一巡します。保存会の方々のお陰で、元気な子どもたちも大いに一日を楽しみます。【改訂版 池田歴史探訪:木部天満宮】
  • 木部中絛にあり、菅原道真を祀る。勧請の年代は詳らかでない。縁起によれば中古織田氏の兵燹に罹り社殿記録等鳥有に帰し、古を徴するに由なも勧請は余程以前の事と伝えらる、かの鬱叢たる社頭の老樹は厳として千古を語り由緒の深きを偲ばしむるものがある。当地の名家下村氏宮座として明治41年まで神事に奉仕せりと明治5年村社に列し、同41年12月神饌幣帛料供進社に指定される。【池田町史:天神宮】




2016年3月20日日曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(はじめに)

古江橋を経て多田へ続く道(1970年頃か)
政治的問題を解決するため、武力行使が一般化していた戦国時代には、摂津国豊嶋郡細河庄(郷)は、摂津国人池田氏にとっても重要な地域でした。
 しかし、そういう場所でありながら、研究や解明がほとんど進んでいません。今も池田市域内は文化圏が3つに分かれているような感覚があります。北部の細河、中央の池田、南の石橋、という感覚です。
 この感覚は、実のところ、物理的な根本的要素が大きく変わっていない事から、昔も今もそんなに変質していないかもしれません。北の細河地域は、池田との間に五月山が楔のように存在する事から、どうしても行き来が阻害され、気持ちというか、感覚的に文化の乖離ができていきます。実際、近代の池田市の地域構成史を見てもそれが分かります。
 しかし、戦国時代となれば、そうも言ってられません。直接的な生死にも関係しますし、利益や権利、生活を侵されないように、互いに結束する事が必要になります。そんな中で、木部村で頭角を現す下村氏や東山村の山脇氏といった勢力は、池田氏とも関係を深くしていきます。それもやはり、必然の事であったと考えられます。

既に発表されている大阪府の地名1 -日本歴史地名大系28-(平凡社刊)などの通説や池田市史での見解も参考にしなあら、私が見聞きした事も加えて、この細河地域と池田城(池田氏も含む)について、考えてみたいと思います。

以下の要素について、それぞれご紹介し、まとめてみたいと思います。


摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺
細河庄内の木部村と武将下村氏について
細河庄内の東山村と武将山脇氏について
◎細河庄内を通る街道
◎細河庄と周辺
◎細河庄での牡丹の花卉栽培

【参考】
戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考えてみる
戦国時代の摂津国池田氏の地域支配及び軍事に関わる周辺の村々
戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺
戦国時代に池田市の木部町にあった木部城
 

【出典】
写真:グラフいけだ1970年12月 特集:ふるさとのみちしるべ
   発行:池田市役所 / 編集:市長室・秘書課広報係