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2026年3月31日火曜日

摂津国豊嶋郡に所在する久安寺の伝総門が存在した可能性は高い

応永年間(1394-1427)に大修理された楼門
非売品で、流通していない書籍『久安寺ものがたり』には、久安寺に伝わる逸話がまとめられています。同書は、ご住職であった故国司禎相さんが、後世への引き継ぎとして、既知の限りを尽くしてまとめられています。
 そこには、非常に重要な事柄が収められており、郷土研究を進める上でも、外す事のできない伝書です。今では知り得ない久安寺の過去の繁栄と、その痕跡について、貴重な手がかりでもあります。
 この著書の中で気になっている要素の一つとして、「久安寺に総門があり、それが現在の楼門から南へ2キロメートル程のところにあったと伝わる。」との記述です。
※久安寺ものがたりP93+P54

-(資料1)------------------
◎外院は楼門より五十丁(約2キロメートル:誤記か。)南に総門が建てられ、様々な施設と共に僧院があったという。この様なスタイルがこの時代の仏教寺院の典型であった。
◎この門(楼門)より北には、内院として四十九院と堂塔。南側の外院は東山町神殿(ここには一本松があったという)に総門が、また香華田(寺の運営に充てがう田)や寺院僧堂もあったと聞き及ぶ。吉田橋の東(イゴキ)に、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院。東山に松雲寺、木部に蓮台寺(現ショウノミ堂)、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。
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◎伝総門の場所を特定できる有力な手がかり
上記の注釈で、「一本松があったと伝わる」との記述...。互いに意識していたとは思いませんが、それを結びつける記録があります。
※新修 池田市史 第5巻P627+P635(池田の民話一覧 28番)

-(資料2)------------------
【池田の民話一覧 28番】
琴の松(神殿の松)/ 東山町 / 東山町と中川原町の間の池田亀岡線(中川原北縁)
※地元では「こどのまつ」と読んでいたため「琴の松」「神殿の松(神をこうと読む)」の文字表記が存在すると思われます。
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そこには伝承として、「神殿(こど)の松」との記録が確認できます。これは伝承と伝承の一致であり、確かな証拠として、一段階昇格する要素になるように思います。
 これにより、久安寺の総門は確かに存在した可能性が高まりました。東山村の南縁、中河原村の北縁にそれはあったのです。

また、この辺りは墓石が寄せ集められて「地蔵さん」として祀られている場所が複数あり、他の地域と比べても多く感じられます。何度かこの辺りを歩いていて、「地蔵さん」がとても多いのはどうしてだろう?と感じていました。

ここで久安寺について、ザッと概要を見ておきたいと思います。
※大阪府の地名1(平凡社)P319

-(資料3)------------------
高野山真言宗。大沢山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
 天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
 文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
 文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる
 境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
 慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
 楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。おもな寺宝に安養寺旧本尊と推定される藤原時代木造阿弥陀如来像(国指定重要文化財)、同時代の薬師如来像、久安寺真名縁起、同仮名縁起、久安寺文書一巻がある。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。
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◎伝総門付近にあった村々
それから、久安寺総門があったと考えられる場所にある村について見てみましょう。先ずは、東山村についてです。
※大阪府の地名1(平凡社)P318

-(資料4)------------------
伝行基創建の曹洞宗東禅寺
中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。
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続いて、中河原村についてです。
※大阪府の地名1(平凡社)P318

-(資料5)------------------
臨済宗天龍寺派松雲寺
木部村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、その左岸を余野道(摂丹街道)が通る。村域東部は五月山の北側にあたる山地で、耕地や集落は西部に展開。嘉禄2年(1226)11月15日の土師某田地売券(勝尾寺文書)に「在摂津国豊島北条仲川原村十九条二里十六坪内西依也」とみえ、この「仲川原村」を当地にあてる説もあるが、五月山より南の地で当地ではないとの見解が強い(池田市史)。康正2年(1456)造内裏段銭並国役引付によると、代官と思われる安東平左衛門が、中川原段銭として1貫文を進納、また「後法興院雑事要録」の文明11年(1479)条によると、当地に摂関家が得分権を有しており、代官池田若狭守が200疋を進納している。
 元和初年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後、幕府領として続くが、文政10年(1827)より三卿の一橋領となり(川西市史)幕末に至る。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では182石余であるが、享保20年(1735)摂河泉石高調では219石余。植木栽培が盛んであった。臨済宗天龍寺派松雲寺・真宗大谷派千行寺がある。
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◎久安寺は一時的に没落している
一方で、久安寺の寺院そのものについて、再び見てみます。『久安寺ものがたり』の記述に気になる要素があります。
※久安寺ものがたりP110

-(資料6)------------------
永禄年間(1558-70)、兵乱により寺領は没収され、天正年間(1573-92)の兵火では楼門と三重塔を残し、伽藍僧堂灰燼に帰したと伝わっています。
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応永年間の楼門修復以前に製作された仁王像
このあたりの出来事について、今現在も発掘調査は行われておらず、また、史料調査もされていない事から、科学的な知見は得られていません。
 上記寺伝に「永禄年間、兵乱により寺領は没収され、...。」とある部分、事実だとすれば、どの勢力によるものなのか気になります。この地域の有力武家である池田氏は、永禄年間にほぼ最盛期を迎えます。典型的な中世型武家である池田氏が、朝廷や室町幕府(足利氏)とも縁のある久安寺を潰すような行動はしないように思います。

◎久安寺と摂津池田氏の関係
この要素を以て全てではありませんが、池田氏と久安寺の関係を知る一例を挙げてみます。
※大阪府の地名1(平凡社)P610

-(資料7)------------------
【赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)】
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
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上記について、その奥書部分です。
※池田郷土史研究8-P22

-(資料8)------------------
【大般若経修補本奥書】(川西市満願寺蔵)
天文十六年丁未、池田信正以此経、奉納于摂津豊嶋郡久安寺、永禄八年池田御寅丸、同太松丸、同妙安禅尼等加修補、慶長十三年池田筑(備)後守光重、子息多聞丸重重修補(下略)同経本五二二巻奥書に、多聞丸寅年施主息災延命御祈祷、慶長十三年五月吉日
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このような記述を見れば、永禄年間頃も池田氏と久安寺は共存関係を保っていたと考えられ、その寺領を没収するような強権は発動し得ず、それを越える権力もありません。寺領没収があるとすれば、これよりも後の時代(近世)になると考えられます。それについては後述します。

吉田町から出土した約2万枚の古銭(宋銭)
◎久安寺の没落時期の特定

一般的な感覚では、中世の終わりの最動乱期、荒木村重と織田信長の時代以降であるように思われます。
 吉田村の地面下から多量の古銭が見つかるなどしており、このあたりにまで兵火や混乱が迫った事が、公的にも想定されています。ひとつの判断基準なるものと思われます。この頃だとすれば、久安寺は荒木方に付いたのかもしれません。
 その復興として、豊臣秀吉が天正年間の終わり頃、あるいは文禄年間に久安寺にて「月見の宴」を催したのかもしれません。これは今のところ想像の域ではありますが...。
※久安寺ものがたりP110

-(資料9)------------------
天正の末、豊臣秀吉は久安寺に詣で、三光大膳神に祈願し珍寿山に月見の宴をはり、庭を借景よろしく庭造りの範だ、と誉めた(『摂津名所図絵』)と伝わっています。秀吉を迎えた小坂院(久安寺の塔頭)には桃山風の木戸を残し、楼門前の丹波屋(亀山街道沿いの岩崎家)には、秀吉一行の行列順を記した文書が残っています。文禄元年(1592)3月、秀吉は久安寺の塔を京の伏見城へ運び出したといわれています。(『穴織宮拾要記』)
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この頃から秀吉の寺社政策は、保護下での統制を行っており、政権は寺社後援策をとっているようです。
 そして一方で、秀吉は朝鮮出兵を計画し、3月1日に出陣日を定めて、行動が始まります。秀吉自身も肥前国名護屋へ向けて出陣しています。こういった大きな動きも参考にしつつ、史料の発掘をする事も課題です。


さて、久安寺の寺院規模感で参考になる資料がありますので、それも見ておきます。久安寺に伝わる古い巻物に描かれた境内図があります。
※久安寺ものがたり巻頭資料

時期は不明ながら久安寺最盛期と思われる境内図

これは、いつ頃のものか不明ですが、江戸時代の繁栄の様子と考えられます。再び『久安寺ものがたり』を引用します。
※久安寺ものがたりP54

昭和後半まであった一本松
-(資料10)------------------
この門(楼門)より北には、内院として四十九院と堂塔。南側の外院は東山町。神殿(ここには一本松があったという)に総門が、また香華田(寺の運営に充てがう田)や寺院僧堂もあったと聞き及ぶ。吉田橋の東(イゴキ)に、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院。東山に紫雲寺、木部に蓮台寺、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。
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◎久安寺境内の外にも関連集落が広がっていた

久安寺には往時、内院と外院があり、病院施設もある「寺尾千軒」なる大集落や附属の町が、外院としてあったと伝わります。
 著者の国司さんは資料(1)により「東山に紫雲寺、木部に蓮台寺、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。」としていますが、それらは行基開創の諸寺が連なる何かがあったのかもしれません。
 余談ながら、久安寺川(現余野川)から北側の集落は、久安寺と直接的に山の尾根が連続しており、時代が下るにつれて(特に室町時代以降)、こちら側の地域へ影響力を増したのではないかと考えられます。また、その川の名の通り、久安寺が治水や用水の開発・管理を行っていたとも考えられます。
 そしてまた、南北朝時代、南朝方の中心人物であった、北畠親房や足利尊氏と久安寺は縁があります。
※久安寺ものがたりP51

-(資料11)------------------
久安寺本尊、千手観音の両脇侍、不動明王と毘沙門天の二木造は、親房の寄進だと伝えられている。この仁王像も親房や尊氏の何らかの護持力があったのではと考えられる。尊氏の花押のある「池田荘寄進状」が保存され、池田伊居太神社社殿の修築などからも、室町時代の何者かが力を注いだのだろう。その大きな力が二王尊像を荘厳している。
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◎久安寺に城(八幡)があったと伝わる
一方で、久安寺の山内に城があったとも伝わります。
※摂陽群談(大日本地誌大系:大正5年刊行)P174、P137

-(資料12)------------------
【八幡古城】
豊嶋郡伏尾村久安寺山内にあり。多田満仲公の家臣藤原仲光在城。後に播磨守在城と云へり。氏年暦所伝未詳。山の原に麗水あり。井水の部に記す。是れ則ち城郭の用水也と云へり。
【水槽清水(みずふねしみず)】
同郡伏尾村久安寺内、城山の原にあり。是れ則ち古城の用水也と云へり。数月雨なうして水不乾。亦淫雨洪水すると云へども、濁らざるの名水也。
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池田市古江南公園が八幡宮跡地

「八幡城」とは、足利尊氏が、源氏の氏神である八幡宮を篤く崇敬し、軍事・政治の拠り所ともしていた事と無関係ではないかもしれません。
 それからまた、古江丘陵の西端にある古江村には「八幡宮」があり、その東隣の片岡にある「如来寺」の山号が「八幡山」です。如来寺は、元は道場であり、江戸時代の宝暦年間に寺号を許されたのですが、「八幡」との山号は何らかの縁りがあるものと思われます。

このように、余野川(旧久安寺)以北に「八幡」を冠する呼称が少なからずあるというのは、偶然ではないように思われ、久安寺内院の東側からの地形が、古江丘陵にも連続している関係上、また防衛上も、西側への関係性を伸ばしていたものと思われます。そして、古江丘陵には、能勢街道・妙見(長尾)道・多田道を通しており、交通の要衝でもありました。
 摂津池田氏が勢力を拡大する永禄年間頃は、どちらかというと久安寺川から北に久安寺勢力が浸透し、同川の南側は東山村・中河原村・木部村が独立的で、池田氏の勢力が及んでいたような構成であったと思われます。この南側、五月山の北縁は、池田氏の本拠である池田城の裏庭でもありますので、直接的な影響力を及ぼす必要があったと考えられます。
 『摂陽群談』には、(前略)久安元年、近衛帝御宇再建、久安寺と改め賜勅額、賢実上人を中興開祖とす。此の時四十九院にして、七十余町の香花田あり。文禄年中没収せり。(後略)とあります。
 また、文禄年間に豊臣秀吉は、久安寺の塔を京の伏見城へ運び出したとも伝わっています。(『穴織宮拾要記』)「文禄年中没収せり」との整合性も感じる伝聞です。
 久安寺は非常に大きな勢力であり、新たな時代の統治には、その権力が邪魔になったのだろうと思われます。このあたりの地域は、日本国内でも有数の鉱山地帯でもあり、この近くには多田銅銀山があり、銅を大量に産出した能勢・箕面地域もあります。

◎能勢街道は摂津池田氏の地域政権にとっての基幹道であった
摂津国豊嶋郡を中心とした地域政権である池田氏にとって、その本拠地の地勢特性上、経済・軍事上、最も重視したのは能勢街道でした。
 発掘調査によると、池田城変遷過程の最終段階で、能勢街道を城内に取り込む構成になっており、同街道を重視していた事が解ります。したがって、少なくとも政策として、領内にある同街道は管理・監視する必要があったと思われますので、古江丘陵のあたりがそう言う意味で、最北端の重要拠点になっていたと考えられます。 

細河地域を通る重要街道
◎伝久安寺総門は伝承どおり存在した可能性は高い
今のところ、推測ではありますが、伝久安寺総門の存在有無について、まとめておきたいと思います。

 当初、私は総門の場所を、余野街道に沿いにある東山村の地蔵堂がその跡かと考えていました。この場所にも象徴的な大きな木があり、地蔵さんが点在します。
 しかし、この度はこれまでの資料の見直しで、有力な総門跡地が浮上しました。

総門推定場所の地図を元に、少々考察を加えたいと思います。その有無から言うと、存在した可能性が非常に高いと思われます。
 そして、その場所ですが、余野街道沿いという直接的に久安寺へ向かう途上にありつつ、ここから久安寺川(現余野川)を渡って西と北への接続道があり、能勢街道・妙見道・多田道の交差点でもあります。中でも注目しているのは、中河原村から分岐した道(途中に今も中川原橋がある)を真西に進むと、能勢街道に接続しますが、その途上に古江村の「八幡社」があります。結界や道標のような役割があったと思いますし、久安寺に纏わる象徴的な意味合いもあったのではないかと思われます。

このように巨大な宗教勢力であり、都市であった久安寺ですので、楼門や総門を備えた威厳を示す時代もあったと考えて良いように思います。
 場所の特定には、更なる資料集めや聞き取りなどして精度を上げる必要もあります。継続して、追求してみたいと思います。

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2026年3月19日木曜日

池田市にある五月山愛宕神社は、摂津池田城の関連施設である可能性が非常に高い

大阪府池田市の五月山頂上にある愛宕神社(綾羽2丁目)の地は、摂津池田城の関連施設であった可能性が非常に高いと思われます。この愛宕社の由緒などについては、公的には以下のように記述されています。
※新修 池田市史5(民俗編)P135

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摂津名所図絵にある五月山愛宕神社
【愛宕神社の勧請】
愛宕神社が京都から勧請された時の次第については、柴田久徳が『愛宕火と八坂の額灯』(市立歴史民俗歴史館図録)の中で詳細に述べているので、以下、この研究を参照しながら説明を進めていきたい。愛宕神社の勧請についての同時代史料は、今のところ確認されていないが、享保12年(1727)ごろ作成された『穴織宮拾要記 末』(伊居太神社蔵)には、次のように記載がある。正保元年(1644)に多田屋・板屋・中村屋・丸屋の四人が、山上で百味の箱を竹に立てて火をともしたところ、人々がその火をみて、池田に愛宕が飛来したといいながら、競って参集したのが当地の愛宕神社の始まりである。その評判があまりに高いために、京都の愛宕神社から抗議があったが、箕面勝尾寺宝泉院は、京都所司代板倉周防守に働きかけ、和解を果たしている。和解後、慶安2年(1649)には、宝泉院は板倉周防守に感謝するため、22人の僧によって護摩を焚いている。それ以後、本格的な社殿の建築が進められている。近世都市においては多くの流行神がみられ、その中には神が飛来するというパターンもみられるが、池田における愛宕神社の創始には、典型的な都市における民衆信仰の発生過程が示されている。
 元禄6年(1693)に作られた『池田村寺社吟味帳』(伊居太神社蔵)には、当時池田にあった寺社の明細が記されているが、愛宕権現社は当時皐月山にあった上仙寺境内の一社として記載されている。ただしその説明部分には、「是ハ勝尾寺宝泉院当村高法寺両寺之支配」と書かれていることから、愛宕神社の支配はこの上仙寺ではなく、勝尾寺宝泉院と池田の高法寺の両寺がおこなっていたことがわかる。柴田久徳は高法寺が池田の会所寺としての機能を持っていたことを指摘したうえで、勧請の後、庄屋衆が愛宕神社の利権の一部を貰い受けたために、高法寺が支配権を得たことを述べている。会所寺とは、町民の集会所としての性格の強い寺院である。勧請から50年後には、愛宕神社は池田の町が全体として祭祀するという特別な位置を確かなものとしていたのである。
池田村寺社御吟味帳(部分)より
 愛宕神社勧請についての事情は、おおむね以上のとおりであるが、それ以前の五月山についても少し考えてみたい。先に取り上げた元禄6年(1693)の『池田村寺社吟味帳』の皐月山上仙寺の項目には、愛宕大権現以外に、常住院と地蔵堂2宇、護摩堂が書かれている。この堂宇の構成からは、愛宕信仰の前提として地蔵信仰があったことがうかがえるし、護摩堂という記載からは、山岳の信仰としての修験道が根付いていたことも想像できる。史料的な実証は困難であるが、池田の町民が日々仰ぎみる美しい山としての五月山に対する素朴な山岳信仰が古代から存在し、そこに地蔵信仰や修験道がまず定着し、その前提の上で、近世初期に愛宕神社が都市的様相を強くにじませながら勧請されたという歴史的推移が考えられよう。池田における愛宕神社は、単なる火伏せの神というだけではなく、在郷町池田全体の守護神的性格が感じられるが、その背景として、愛宕神社のこのような成立過程を考慮する必要があるだろう。
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もう一つ、愛宕神社についての資料をご紹介します。
※摂津名所図絵 下巻(臨川書店)P41

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【池田愛宕】
五月山にあり。池田の町より山路八町北の方なり。佐伯部の祖神を祭るとぞ。此の所高きにより、里俗愛宕とよぶ。南方大いに晴れて浪速尼ヶ崎の海上遙かに見えわたりて、風景の地なり。毎年七月二十四日群参して、数の燈籠を照らして法会を修す。此の夜大坂天満の野原より星の如く見ゆる、これを愛宕火という。
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現池田市米屋町にある高法寺
◎真言宗 待兼山 高法寺は、池田筑後守の祈願所であったという伝承

また、上記引用文中に登場する「高法寺」とは、摂津池田筑後守の祈願所であったとも伝わっており、古くから摂津池田とは関係の深い寺です。以下、その由緒です。
※大阪府全志3-P1109

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【高法寺】
高法寺は米屋町にあり、待兼山と号し、真言宗高野派西禅院末にして十一面観世音を本尊とす。僧正行基の開基なりと伝う。もと待兼山の絶頂にありて、池田城主筑後守祈願所たりしが、後兵燹に罹りて当所に移転し、慶長3年(1598)静辨之を中興せり。境内は141坪を有し、本堂兼庫裏・薬医門を存す。外に不動堂あり。
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ちなみに愛宕社では、大阪府無形民俗文化財「五月山の愛宕火(がんがら火)」も、ここを基点毎年8月24日に催行されます。同日に、地蔵盆行事も行われています。

◎高地性集落があったとみられる愛宕神社遺跡
それからまた、この場所は、弥生時代から古墳時代に渡る「愛宕神社遺跡」として、公的な認知がされてもおり、高地性集落が営まれていたと考えられています。
※新修 池田市史1-P155

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摂津名所図絵:鼓ヶ滝
【池田の高地性集落】

愛宕神社遺跡:
五月山の頂上近くの標高210メートル、麓との比高差約150メートルのところにある遺跡である。昭和6年(1931)、愛宕神社の相撲場があったところの付近で、林田良平氏が、弥生土器を採集したが現在は不明である。また、同年秀望台の下にある愛宕神社鳥居近くの旧道において石器が採集されている。その石器の石質は安山岩で有孔磨製石器が1個あり、他の石器は皮剥ぎなどに使用されたと思われる刃噐である。愛宕神社の宮司によって、弥生土器・石器・土師器などが採集保管されている。土器は畿内第五様式を中心に第三様式が一部含まれている。土器の種類は、甕と壺である。その中に中河内産の搬入の土器もある。石器は不定形の刃噐と安山岩片がある。土師器は古墳時代前期の布留式の高杯の完成品が2点ある。この愛宕神社遺跡から南方を望むと、弥生時代中期の加茂大集落が眼下に見え、西方を望むと、弥生前期の木部遺跡と、時代も性格も同じの鼓ヶ滝遺跡が見える。愛宕神社遺跡は、猪名川流域全体を見張ることのできる場所としては最高の高地性集落である。また、出土遺物から古墳時代初めには祭祀などを行っていたかもしれない。
鼓ヶ滝遺跡:
古江丘陵が西に伸びる標高約100メートルのところにある。遺跡の範囲は、尾根上の緩斜面に広がっており、その中心は北側の川西市にある。遺物は個人により採集保管されていた。土器は、畿内第五様式にあたるもので、その種類は、壺・甕・高杯・甑(こしき)などであった。この遺跡の特徴は、猪名川と両岸の山塊とによって関門状になっているところである。遺跡は、左岸の端で比高差約60メートルの古江丘陵の尾根にあり、多田方面をみると矢問遺跡が見え、南方は木部遺跡と加茂大集落が見える。また、この地は、池田地方と多田地方との交通上の要所であることから、人と物の交流に関係のあった遺跡ではないかと推定される。
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この場所は同じ高地性集落の鼓ヶ滝遺跡(標高100メートル)よりも更に高く、標高が210メートル(麓との比高差約150メートル)に位置します。改めて、高地性集落の概要を引用してみます。
※かわにし文化財ウォーキング(川西市教育委員会)P36

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【鼓ケ滝遺跡 古代の狼煙台?】
(前略)
弥生時代中期から後期にかけて、大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸にかけての地域では、鼓ヶ滝遺跡と同じように標高100〜200メートルの山頂に集落をつくることが多くなり、これを高地性集落と呼びます。
 高地性集落は、高い山上に集落があるために稲作には適しません。それでは、なぜ、このような所に集落をつくったのでしょうか?
 各地の発掘調査例をみてみると、濠や土塁のようなものが集落の回りを巡っていたり、鉄・銅・石鏃や投弾と考えられる石器が多数出土しています。また、中国の歴史書の『後漢書』に「倭国大いに乱れ…」という記載があることから軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。中でも芦屋市の会下山遺跡は有名な高地性集落で、遺構などを現地で見学できるようになっています。
 鼓ケ滝遺跡周辺は現在でも但馬・丹後方面へ向かう交通の要衝です。弥生人達も山上から人々の通るのを眺めて、危険がせまると狼煙を上げていたのでしょうか。
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「鼓ヶ滝(山)」の軍事的な要素について、もう一つ資料を見てみましょう。摂津名所図絵の各地の名所解説に以下のようにあります。上記絵図の赤色丸印部分です。
※摂津名所図絵(臨川書店)下巻P71

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【旗指山】
多田村にあり。峰巒高聳(ほうらんこうしょう)にして、一郡の秀嶺なり。曾て満仲公此の峰に御旗を靡かし、諸軍の機を窺い給うとなり。
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江戸時代の伝承ですが、鼓ヶ滝の高みを利用して陣を取っていた様が「旗指山」として使われていたと伝わっています。これは「旗振山」としても使われていた可能性もあります。

五月山頂上の代表的な道
(奥地への道は省略、他にも無数に道がある)
◎五月山半島には無数の山道が交わる重要な通路

このように五月山愛宕神社の地は、古くから人の活動が認められ、軍事的、時には精神的な場所でもありました。また、五月山は山頂が比較的に平坦であるためか、多くの山道を通して、その交差点ともなっていました。
 半島状の五月山の根本にあたる北東方向には、勝尾寺・箕面寺や茨木方面、北へは高山や能勢・丹波国方面へつながる山間道が通じていました。
 近距離では五月山南麓にある池田城とその町などと、細河郷の村々を繋ぐ山間道が多数あり、相互に行き来は盛んに行われたようです。五月山頂上が交通上のロータリー構造になり、分岐点・結節点として、平地を通る西国街道や能勢街道などと同様に、重要な通路になっていました。

五月山の山間道の利用を考える上で参考になる史料があります。欠年2月14日付、楢葉宗祐なる人物が、摂津国豊嶋郡勝尾寺年行事へ宛てた音信で、池田への連絡(夜間の移動)のため、その使者である「中間(ちゅうげん)」の道案内を依頼しています。この宗祐なる人物は、摂津国人芥河孫十郎常信の被官であり、年代比定は天文21年と嶋中佳輝先生は述べられています。以下、その史料をご紹介します。
※勝尾寺文書1139号(箕面市史:史料編2)P379、歴史研究(戎光祥出版)724号-P79+83

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前置:寺納候。御油断候ては然るべからず候。
本文:急度申し入れ候。仍って此の中間は「芥新十」より池田まで急用候て参り候池田へ案内者御添へ候て、遣わされるべく候由「新十」より申しかへの由申され候。今夜中に遣わされるべく候。詳しくは此の者申すべく候。恐々謹言。
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五月山愛宕神社の地形
◎五月山愛宕神社の場所は、監視・管理・連絡などの要害施設

それ故に、戦国時代にあっては、これらの街道の監視・管理などを目的とした場所として、五月山愛宕社の地に要害を設けていたと考えられます。五月山の北から西及び南側の警戒や連絡場所として機能していたと思われます。ここからは、それらを一望することができます。
 今の五月台展望台は、観光用も兼ねて広くなっていますが、ここは太平洋戦争中には防空監視所があったようで、この頃に手が加えられているのかもしれません。
要害性のある西側からの入口
 五月山愛宕社へつながる山道は、2つあり、ひとつは五月台(展望台)の中央部にある階段から神社へ登る道があります。もうひとつは、神社境内へつながる鳥居のある所から南へ伸びる道(今はドライブウェイで切断)があったようです。なお、これらは時代による変遷はあると思われます。

◎古江村方面の郡境の警戒
摂津池田領内の北端にあたる、古江から吉田村に至る小丘陵は河辺郡との境にあたり、比較的長期間に亘り敵対していた塩川氏との最前線となっていた重要な場所です。また、ここには能勢街道など複数の重要街道を交差させています。
 この半島状のいわゆる「鼓ヶ滝」は、古江丘陵と呼ばれます。この丘陵は、猪名川を挟んで西側にある、より標高の高い釣鐘山(約200メートル)・石切山(約284メートル)から見下ろされる立地にあります。したがってその不利を補うために付近の要所と連携を取って同半島を守る必要があり、その意味でも、五月山愛宕社に示威的な建造物などを置きつつ、その見通しにより、警戒・監視・補完を常時行う必要があったと考えられます。
 余談ながら、古江丘陵の南側、猪名川を越えて、河辺郡小戸村や栄根村、賀茂村、久代村へも池田氏が影響力を持っており、これらも塩川・伊丹氏など河辺郡勢力への対応を行っていたと思われます。

◎能勢街道は摂津池田氏の地域政権にとっての基幹道であった
摂津国豊嶋郡を中心とした地域政権である池田氏にとって、その本拠地の地勢特性上、経済・軍事上、最も重視したのは能勢街道でした。
 発掘調査によると、池田城変遷過程の最終段階で、能勢街道を城内に取り込む構成になっており、同街道を重視していた事が解ります。したがって、少なくとも政策として、領内にある同街道は管理・監視する必要があったと思われますので、古江丘陵のあたりがそう言う意味で、最北端の重要拠点になっていたと考えられます。

五月山愛宕神社の周囲にある何本もの深谷
◎山を支配する事は水利権にも及ぶ

現代のように、水道の蛇口を捻れば、いつでも安全な水を当たり前のように得られる時代は、つい最近の事で、生命線である水の確保については、非常な労力が必要でした。戦国時代は、水の取り合いでもありましたが、山を支配する事は水の確保の面でも、必要な課題でした。
 生活の水はもちろん、農産物生産にも水は欠かせません。谷の上、尾根の最上部など、用水のための谷から、最適な所にある池を管理するためにも、要所に何らかの屯所は必要でした。そういう意味でも五月山愛宕社には、何本もの深い谷があり、水源管理(分水嶺)としても重要な場所でした。

この後の近世徳川時代には、分水嶺と交通の要衝は、全て幕府直轄地に指定しています。池田・細河郷も然りで、重要な場所だったからこその対策です。幕府の安定政権のための必須要素、交通と水を掌握することは、戦国時代を経た、知的政策でもありました。一方で、「水」争いなど、直轄化してその種を摘む事で、治安維持にも役立ちました。

それら幾つもの重要要素を持つ五月山愛宕社の地は、やはり戦国時代には軍事的な性格を帯びた施設がなければならない場所であった事が解ります。
 時代は降り、江戸時代となっても、やはり池田村としての重要な場所で、日照りが続くと同地で「雨乞い」が行われています。その場所が高法寺の支配地でもあり、同寺は池田郷の寄り合い場所ともなっていて、町政運営を話し合うために年寄り衆の集う寺でもありました。

五月山愛宕神社のある場所は、時代により意味合いが変化するのですが、重要な場所である事は変わらず、現在に至っています。


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2026年3月9日月曜日

摂津国豊嶋郡古江村(現大阪府池田市古江町)にあった古代寺院の(伝)等覚寺を探る

池田市五月台展望台(五月山)からの古江町遠景
今の大阪府池田市古江町にあったと伝わる古代寺院の等覚寺について、考えてみたいと思います。
 この等覚寺については、戦後は特に歴史資料上では、あまり触れられなくなって益々探求から遠のくばかりになり、人々に忘れられようとしています。
 それらの伝承資料を確認するため、池田市細河地域の各場所を踏査しています。その結果、それらは確かにあったと実感しています。
 また、考慮に入れるべき興味深い分野として、この辺りは鉱山がおおくあるということです。猪名川上流から五月山にかけては日本有数の鉱山地帯で、満仲を祖とする多田源氏が大きく勢力を拡大していった背景に、これらの鉱山の支配は見逃せません。長暦元年(1037)に摂津国能勢郡で銅鉱が発見され、銅が朝廷に献上されたことが『扶桑略記』に記述されています。(古江の歴史と民俗)
 今後は、各分野の専門家にも相談し、それらの意味を確認して、認定を行っていきたいと考えています。非常に有意義な発見に繋がる可能性も大いにあると考えられ、今後も地道に調査を進めていきたいと思います。

◎伝えられている等覚寺の姿
戦前に発行された池田町史(昭和14年発行)には、以下のようにあります。
※池田町史 第一篇(風物詩)P317

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【等覚寺址】
古江北方にあり、伝え言う当寺は天平年間(729-49)僧行基の開基なりしが寿永年中(1182-85)の兵燹にかかり、悉く烏有に帰せしと。今は田圃となりて遺址の見るべきものなきも字地に寺名及堂塔址を残せりと。(大阪府全志)
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この出典そのものは、大正11年(1922)11月に発行された『大阪府全志』によっています。内容は、殆ど同じですが、以下に掲示しておきます。
 ※大阪府全志3(昭和50年復刻版)P1116
 
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【大字古江】
(前略)等覚寺の址は北方にあり。伝え言う、寺は天平年間僧行基の開基なりしが、寿永年中の兵燹に罹りて悉く烏有に帰せしと。今は田圃となりて遺跡の見るべきなきも、字地に寺名及び堂塔銘を残せり。本地の領主及び区画の変遷は、大字中河原に同じ。
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どちらの記述にも「字地に寺名及び堂塔址を残す」とあるのですが、地籍(地番)には、今のところあたっておらず、これはまた、課題としておきます。位置特定が更に具体化するかもしれません。

古江村地図(新修 池田市史より)
◎近世に見られる等覚寺の記述
それから、平成11年(1999)に発行された『新修 池田市史』に等覚寺についての記述がみられます。
※新修 池田市史2-P156

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【古江村の寺社改め】
村の中には、住職や神主のいない小さな寺堂や庵、神社が多く存在した。(徳川)幕府はこれらの把握のため、村ごとの寺社改めもおこなった。元禄5年(1692)の寺社改めでは、古江村・畑村の届の写が残っている。
 「古江村寺社御改帳」には、寺として無二庵・清香寺、神社として八幡宮が書き上げられている。無二庵は、文明10年(1478)開基の禅宗の古刹で、当時は了納が住持を務め、その境内は除地となっている。無二庵境内には等覚寺・森堂があるが、前者は行基開基の伝承を持つ観音堂、後者は観音休堂とされている。もともと観音信仰があったところに、無二庵が開庵されたとも考えられる。八幡宮も無二庵の鎮守とされているが、起源は案外古い可能性があろう。無二庵では、近世には村の寄合も行われたこともあった。また清香寺は年貢地にあり、寺は廃絶して寺号のみ残り、敷地は村が支配して助兵衛に管理させていた。
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今もある無二庵(観音堂)
上記の伝記によると、文明10年には既に開創されていた寺であり、別説の永禄5年(1561)開基は、再興などいう事になるのかもしれません。
 また、同寺の山号が「鼓瀧山」とは、鼓ヶ滝を想起させる命名ですし、境内に「等覚寺」があるのは、無二寺が系譜を引き継いでいる要素があるのかもしれません。今後、もう少し調べてみます。
 それから、無二寺が八幡宮をも掌管していたと届け出ているのも気になります。古江村から少し離れた場所にある久安寺(現池田市伏尾町)内に城があり、それが「八幡城」であったと伝わるため、何か関連があるのかどうか気になります。

加えて、同市史から等覚寺についての記述をもう一つご紹介します。
※新修 池田市史2-P728

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【開基をめぐる諸説】
万治3年(1660)2月、片岡村惣道場(現八幡山 如来寺)の屋敷用地として、字等覚寺の下畑一畝五歩(35坪)が、代銀60匁で古江村本郷の七左衛門から片岡村へ譲り渡された。また、道場庫裏屋敷の用地として、字八幡屋敷の下畑十六歩(16坪)が、片岡村の治右衞門から代銀50匁で譲られている(「記録帳」)。(後略)
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上記には、同村内片岡の惣道場の屋敷用地として「等覚寺の下畑」の一部が売却されています。この場所がどこなのか、今のところ調べが及んでいませんが、片岡村が古江村の中心集落(本郷)とは少し離れた別の麓に展開されている集落ですので、等覚寺の土地の一部を売却するとなると、同寺域はこの山の頂きあたりに広く展開していたのかもしれません。

伝等覚寺からの系譜
を持つ聖観音立像
(池田市史 史料編より)
◎無二寺十一面観音立像についての調査結果

次に、十一面観音立像についての公的調査の結果をご紹介します。
※新修 池田市史1-P463

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【無二寺十一面観音立像】
古江町無二寺(曹洞宗)の観音堂に、十一面観音立像が本尊としてまつられている。像高102.9センチメートル。頭上に髻を結い、如来化仏、変化面を載せ、条帛、天衣、二段折返しの裳を着け、右手を垂下し、左手を屈して華瓶を持ち、左に腰を捻り、右脚を遊ばせて蓮台上に立つ、通行の十一面観音像である。
 材はクスかと思われるが、より検討したい。髻は別材であろうか。頭体幹部は右手首、左臂先を矧ぎ付ける。両足先も矧ぎ付ける。如来化仏、変化面を差し込む。天衣の両体側に垂下する部分を矧ぐ。これら矧ぎ付け部はすべて後補で、そのほか、大きな両耳、金銅製の冠帯と胸飾、地付きに一本出ているほぞも後補である。そのうえ地付きから5.0〜8.0センチメートルの高さまでを後補としている。この像の後補直前での状態はあまり良くなかったことがわかる。さらに全身に胡粉下地に古色を塗っているが、これも後補で、このために大きく美観を損ねている。
 やや面長ながら眉、伏し目は伸びが良く、品の良い鼻、小さな口は穏やかな表情となっている。しかし起伏の少ないところは、後世に手を入れているためと思われる。撫で肩で細身の体軀は女性的である。首を立てて、やや猫背に立つ側面観は平安後期に一般的なもので、扁平は体側も同じである。彫りも浅く、衣丈も無丈で、淡泊な印象である。角立った衣丈の表現、地付き部に裾が付く表現が当初からの形であるなら古い要素を持つと考えられ、制作期は12世紀末ごろと思われる。本像も原所在地は不明である
 なお、台座天板裏面に墨書がある。
大坂堺筋平野 / 大坂御堂筋 /(墨消)但馬 / ■保三 / ■年十一月 / 貞二郎 / 大仏師 / 外記(花押)
これにより台座は天保3年(1832)に制作されていることがわかる。光背も同時で、全身の古色もこの時と判断される。
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この公的な鑑定結果からしても、12世紀末頃と判断されており、平安時代に遡る歴史を持つ仏像です。やはり、等覚寺から受け継いだ仏像の可能性が高いと考えられます。また同結果から、伝等覚寺の言い伝えによる「寿永年中(1182-85)の兵燹にかかり、悉く烏有に帰せし」との時期的な一致もみられ、この「聖観音立像」は、その後に復興された仏像である可能性も考えられます。

◎伝等覚寺と鼓ヶ滝遺跡は、連続した関係性があるのか
それからまた、等覚寺跡は、古江の北方にあったとしており、ここには「鼓ヶ滝遺跡」もあります。それについて、兵庫県川西市発行(1998年)の『かわにし文化財ウォーキング』に、同遺跡の紹介がありますので、ご紹介しておきます。
 ※かわにし文化財ウォーキング(川西市教育委員会)P36
 
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摂津名所図絵に描かれた鼓ヶ滝(旗指山ともある)
【鼓ケ滝遺跡 古代の狼煙台?】

能勢電車を鼓ケ滝駅で降りて、線路沿に南へ歩くと、相当急な坂道になります。この坂道を登りきった山項に鼓ケ滝遺跡があります。
 鼓ケ滝遺跡は、この山項を中心に東西約700メートル、南北約250メートルの範囲で、現在の池田市と川西市にまたがっています。この遺跡については、弥生時代中・後期の巣落跡という以外は不明で、これまで2回の発掘調査でも溝やピットがみつかっただけで、住居跡や墓などの集落の構造を確認できる遺構はみつかっていません。また、遺物は弥生土器や石器が多数出土していますが、土器については細片がほとんどで、形のわかるものはほとんどありません。その中で、地元の山県みさおさん採集品の中に、高さ8.2センチメートルの弥生時代後期の壺形土器が1個あり、当時の生活を知る唯一の手掛りとなっています。
 弥生時代中期から後期にかけて、大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸にかけての地域では、鼓ヶ滝遺跡と同じように標高100〜200メートルの山頂に集落をつくることが多くなり、これを高地性集落と呼びます。
 高地性集落は、高い山上に集落があるために稲作には適しません。それでは、なぜ、このような所に集落をつくったのでしょうか?
 各地の発掘調査例をみてみると、濠や土塁のようなものが集落の回りを巡っていたり、鉄・銅・石鏃や投弾と考えられる石器が多数出土しています。また、中国の歴史書の『後漢書』に「倭国大いに乱れ…」という記載があることから軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。中でも芦屋市の会下山遺跡は有名な高地性集落で、遺構などを現地で見学できるようになっています。
 鼓ケ滝遺跡周辺は現在でも但馬・丹後方面へ向かう交通の要衝です。弥生人達も山上から人々の通るのを眺めて、危険がせまると狼煙を上げていたのでしょうか。
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鼓ヶ滝遺跡全景(かわにし文化財ウォーキングより)

ここには「軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。」との見解が示されています。
 「鼓ヶ滝(山)」の軍事的な要素について、もう一つ資料を見てみましょう。

◎『摂津名所図絵』に描かれた鼓ヶ滝と旗指山
摂津名所図絵の各地の名所解説に以下のようにあります。絵図の赤色丸印部分です。
※摂津名所図絵(臨川書店)下巻P71

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【旗指山】
多田村にあり。峰巒高聳(ほうらんこうしょう)にして、一郡の秀嶺なり。曾て満仲公此の峰に御旗を靡かし、諸軍の機を窺い給うとなり。
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江戸時代の伝承ですが、鼓ヶ滝の高みを利用して陣を取っていた様が「旗指山」として使われていたと伝わっています。
 このように、非常に興味深い要素を多々確認できます。高地性集落として使われていた「鼓ヶ滝」の付近では、同じく高台に環濠を伴う大集落を形成した、加茂遺跡があります。

◎地図から考えてみる
地図を見てみます。ここは今も昔も境目で、近世から近代に至るまで、摂津国の豊嶋郡と河辺郡との境界でした。現代は、大阪府と兵庫県の境で、非常に重要な場所です。
  そして更に、現代の地図を見てみますと、兵庫県川西市鼓ヶ滝1丁目16番のあたりが、奇妙に大阪府池田市側に入り込んだ境界になっています。この理由は解りませんが、意味があるのだと思います。

Google マップの衛星写真モード(キャプチャー)

明治42年測量:陸軍参謀本部地図

そこで更なる推測のため、赤色立体地図を見てみます。生活に欠かすことのできない「水」を確保するために、谷を人工的に普請したと思われる跡が多数見られます。自然地形を利用して、水を配る事を企図したらしき跡(赤色実線)が、同一線的に南北に見られます。この谷を堺とするように、東西に大きな区画が感じられます。

赤色立体地図による地形の観察


それからまた、この鼓ヶ滝遺跡及び古江の等覚寺跡あたりは戦国時代後期には、摂津国豊嶋郡を中心とした池田氏が五月山南麓に本拠を構えて、勢力を拡大していました。河辺郡との境である、この丘陵を重要視していたと考えられる事から、等覚寺跡や高地性集落跡を再利用するなどしていた可能性が考えられます。

ミツマタ(枝が3つに分かれる木)
ちなみにこの付近には、紙の原料である、ミツマタなど木が多数みられます。都市や寺院では紙の需要が大量にあり、これを満たす(賄う)ために、生育環境に適する場所には悉く植えられていたと思われます。概ね、谷に多く植えられていたようで、多数を目にしました。

◎能勢街道は摂津池田氏の地域政権にとっての基幹道であった
摂津国豊嶋郡を中心とした地域政権である池田氏にとって、その本拠地の地勢特性上、経済・軍事上、最も重視したのは能勢街道でした。
 発掘調査によると、池田城変遷過程の最終段階で、能勢街道を城内に取り込む構成になっており、同街道を重視していた事が解ります。したがって、少なくとも政策として、領内にある同街道は管理・監視する必要があったと思われますので、古江丘陵のあたりがそう言う意味で、最北端の重要拠点になっていたと考えられます。
 
◎室町時代末期の郡境の推測

一方、河辺郡には、多田院御家人筆頭とされる塩川氏が居り、池田氏にとっても、この丘陵がその敵対していた頃には、最前線になっています。その時代にもやはり「要塞・のろし台・みはり台」などの機能を持たせた要地であった可能性は高いと考えられます。
 この古江地域には、能勢・多田・妙見街道を通し、猪名川には川港があったようです。五月山南麓に本拠を構える池田氏にとって、この地域は後背を守る重要な地域であり、交通の要衝であっため、主体的な管理を是非とも行うべき所でした。これは、天文年間からそのような動きがあったのかもしれません。 
多くの重要街道が交差する細河郷
(新修 池田市史)
 伝等覚寺についての興廃は、資料上で辿る事は難しいと思われますが、現地地形やフィールドワーク(現地踏査)を通じて、その間を埋める事は十分に可能だと考えられます。
 現時点での見立ては、妙見道などを通すこの舌状丘陵は、天文から永禄年間以降の隆盛期の池田氏が、この地域を掌握していたのではないかと感じています。
 その根拠の一つは、永禄5年(1561)、僧雲清により創建(別説では文明10年開基)されたとされる(大阪府全志)古江村内の鼓瀧山 無二寺が、池田氏の菩提寺である大広寺末寺である事。ここには和泉式部に関わる宝篋印塔があり、それにまつわる伝承も存在し、池田と関わっています。それを擁する事についても無縁ではないと思われます。
 その他にも、その丘陵上に多数の池田氏に関連するらしき遺跡が多数あり、それらを総合しても、この丘陵の支配は池田氏が優勢であった事を伺わせます。
 また、同じく古江村内の小字片岡というところの伝承では、「古御坊」と呼ばれる寺院があり、それが池田城の落城と共に焼失し、廃寺となったとの伝承があります。
※新修 池田市史5(民俗編)P333
 
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【古御坊
村の墓のもう一つ上の高いところに、古御坊というお寺があったという。今でもそこは、古御坊と伝えられている。戦国時代に池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。そこに寺男としておった人が片岡〇〇という人で、寺が焼かれて行き場がないので、ここに降りてきて住み着いたという。その片岡某の名前からここを片岡といっていた。江戸時代は古江村字片岡といわれていた。
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この伝承では、「古御坊は池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。」とあるため、天正6年(1578)秋から始まる、荒木村重の信長政権からの離反に伴う闘争に関係するかもしれません。
 拡大して想像するなら、大和国北部の松永久秀の守備構想のように、多聞山城と鹿背山城を一体化させたものであったり、荒木村重の伊丹城と池田城の連携のように補完し合う守備構想を立てていた可能性もあったかもしれません。何しろ鼓ヶ滝の山は低く、東側の「現滝山」から俯瞰される状況でもあり、この不利を補って維持する必要(工夫・連携構想)があったとも考えられるからです。

昭和43年10月頃の唐船ヶ淵付近
(グラフいけだNo.27 1978年3月発行)
摂津池田城の守備構想の中にあったと思われる猪名川は、水量の少ない冬期などは、徒渡り(徒渉)が可能で、岩や石が多い川原に板や梯子などを渡せば対岸に渡ることができます。
 それ故に、各地に渡河阻止や、渡られた場合の備えが必要であったと思われます。そういう意味でも、城や寺などで監視や管理、防御想定などがされており、村の避難所的な曲輪が多数見らるのは、その結果であろうと考えられます。

史料上からも、多くの街道を交差させる池田領内において、敵の侵入による合戦が、天文年間(1532-55)以降徐々に少なくなり、永禄年間(1558-70)になると殆どありません。非常に防御が固かったため侵入できなかったのだと思われます。

それらから想定される事は、古江地域の地政学的要素の不変性を帯びており、弥生時代から永きに渡って、利用され続けた実態です。伝等覚寺や伝古御坊は、時の勢いによる実態の痕跡と考えられます。


2025年2月28日金曜日

摂津の有力国人池田氏が、摂津国豊嶋郡細河庄に合法的な進出が成ったと考えられる史料

 現大阪府池田市の細河地域に古代寺院が存在した事について、摂津の豪族池田氏の史料を見直していましたら、判断の指標になりそうな重要な記述(史料)に気づきました。池田氏が摂津国豊嶋郡細河庄に合法的な進出が成ったと考えられる、史料です。
これは、権大外記で左大臣の鷹司家家来であった中原康富の日記『康富記』で、文安5年(1448)8月3日条にあります。『新修 池田市史』には、この記述について、背景と記述の意味が説明されています。
 それによると、この日、中原康富が鷹司邸に召された折、「摂津細河庄の本家職分を池田筑後守充正(政)と契約した」と聞かされて、康富はこれを頻りに止めたけども、お聞き入れなく、もったいなき次第なり。これは匡具(ただとも)の仕業によるものらしいが、佞臣(ねいしん)というべきなり。、と憤慨している記録のようです。
 また、続けて背景環境の解説では、細河庄の本家職すら得分化して、既に国人池田筑後守充正の代官請けとなっていた。、読み解いています。
さて、この後、池田家中では、一族で細河庄の受け持ちを分割しており、文明14年(1482)11月28日付で、中川原村は池田若狭守正種が受け持って、年貢を近衛家に納めています。(もちろん手数料(25%程)を差し引いています。)

久安寺も近衛家と関係の深い寺院ですので、同じ藤原系統である摂津池田家からも現場で支援を受けて、勢力拡大に一役買っていたのではないかと思います。久安寺の山門は、室町中期頃のものとされていますので、これは、この史料の動きと一致するものと思います。

本来、五月山北辺に栄えた古代寺院が、久安寺の隆盛と入れ替わったか、吸収されたのでしょう。更にこの動きの中で、池田氏は自らの氏寺である大広寺の末寺を入れて、支配強化を行っているように見えます。

ちなみに大広寺は、応永2年(1395)に創建されたとされています。五月山周辺は、見事に大広寺ネットワークが張り巡らされて、摂津池田氏と共存関係を築いていたように思われます。

 

『康富記』文安5年(1448)8月3日条

 
大澤山 久安寺山門(大阪府池田市)

塩増山 大広寺山門(大阪府池田市)


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2025年2月26日水曜日

長久3年(1042)に描かれたとされる、摂津国豊嶋郡細河庄に存在した古代寺院跡(玉性院?)を発見か!?

非常に興味深い遺跡を発見したかもしれません。平安時代頃に存在したとされる、大規模寺院の跡が、今も残っていました。(これから更に調査を続けます。)
 大阪府池田市に伝わる細河庄境界絵図(長久3年:1042)について、これまでは、想像の範囲で、あまり確認もされていなかった(池田市教育委員会自体が、これは想像の社寺であるとの見解を述べています。え?調べた?)のですが、この絵図に描かれている五月山側にあった大寺院の跡が、今も残っている可能性があります。

絵図が描かれた長久3年とは、平安時代で、この当時、今は大寺院と考えられている久安寺の規模が小さく、その前身と思われる「安養院」として描かれています。
 これに対して、五月山側の現池田市木部町から東山町にかけて、大規模寺院の存在が描かれており、絵図中の「玉性院?」は、三重の塔が描かれる隆盛ぶりです。また、同市中川原町と思しき付近に、鳥居と建造物が描かれており、五月山北側山麓に、安養院(久安寺)よりも賑やかな宗教施設の様子が描かれています。

本日令和7年(2025)2月24日、どちらかというと、城跡を確認のために、専門性の高い方と一緒に見て回りました。そうする内、城と言うよりは、寺院ではないか、しかも、非常に規模の大きい寺であることを確認しました。
 その時には城では無く、寺院ではないか?、と感じただけだったのですが、それらをひと通り見終わって、手持ちの資料を確認する内に、この「細河庄境界絵図」の存在を思い出し、現地の感想と結び付きました。
※いわゆる、戦国時代にはこれらも防御施設そして利用されていたものと思われます。
 
この現池田市の細河地域は、研究する人も殆どおらず、資料も残っていません。ただ、非常に古い神社やお寺が多いという、感想の順送りが続いていただけでしたので、この気付きは、更なる思考の前進に繋がれば、非常に意義有ることと感じています。

後世に残すため、この調査を続けていきたいと思います。
 
 
長久3年(1042)摂津国豊嶋郡細河荘大絵図(部分) 池田市立歴史民俗資料館所蔵

池田市木部町と同中河原町との境界の谷にある古代寺院らしき跡


池田市中川原町にある中河原社鳥居


池田市中川原町にある中川原社の古代寺院跡を感じさせる特異な地形(後年は城跡?)


 
 

2020年3月8日日曜日

明智光秀も度々利用した余野街道上に存在した、池田市伏尾町の八幡城が巨大であった可能性について

現在の池田市伏尾町にあった八幡城について、詳細は判っていないのですが、その城が巨大であった可能性を考えている方がいます。
 池田郷土史学会会員の岩垣 正氏による調査で、縄張り図が描かれ、それによる全容想定図も描かれています。氏は学生時代に日本画を専攻され、それ故にこのような図を描くことも可能でした。
※図の制作者様には許可をいただいて掲載しております。

摂津八幡城想定復元図:岩垣 正氏

摂津八幡城縄張想定図:岩垣 正氏

調査時の現地の状況

池田郷土史学会による数度の踏査と、業界でも有名な専門家による実地見聞も行われています。八幡城は現在も調査中ですが、その専門家の判断によると、今のところ城なのかどうか判断がつかないとのことです。もう少し詳しく必要要素の発掘と現地調査が必要なようです。ただ、一部は寺の施設ではないかと判断されていました。

そういうった現状ですが、個人的には、ここにこのような城があっても不思議では無いと感じています。
 というのは、享禄年間から天正年間始めまでの摂津国池田周辺の動きを見ていますが、池田家が隆盛した天文年間から永禄の三好長慶政権時代特に、丹波国方面から池田へ敵が南下する例があまりありません。河辺郡あたりに南下する例が集中していることに、違和感を持ていました。もっとも、池田家は「余野街道(池田道、亀岡道とも)」沿いに影響力を拡げ、止々呂美、余野、木代などの地に婚姻、代官地などを持っていた影響もあったと思われます。
 それに比べて芥川や西岡方面は、丹波方面から敵方勢力が度々降りてきて、山城・摂津国で打ち廻りました。池田方面の、このような動きが少ないのはどうしてなのか、永年に渡って疑問に感じていました。
※三好長慶が京都防衛のため、芥川山城に拠点を構えるようになると、この地域への南下は無くなる。
 しかしながら、こういった城があるならば、それは私の疑問を解いてくれます。これ程の城があるならば、軍勢が丹波国(余野)方面から南下することは不可能です。

また、摂津池田衆の主体が滅び、代わって荒木村重の統治下に移ると、丹波国方面へは池田を通って入ることも多くなるようです。それもやはり、このような施設が途上にあれば、軍事・政治的に大きな意味と利便性があるからです。
 明智光秀の丹波攻めでは、度々池田を通路に使っています。また、天正三年の丹波国撤退の折、池田を通って退却しています。

それからもう一つの大きな要素は、久安寺という大寺院の存在です。このお寺は、戦国の争乱で荒れ、また、忌まわしい明治の廃仏毀釈によってそれまでの宝物や資料の大多数を毀損してしまい、残った遺物が殆どありません。それ故に、口伝と仏像などの遺物、僅かに残った形跡から再生・復元推定するしかありません。しかし、状況証拠から必然は見えてくるものと思われます。その久安寺についても、近日、詳しく検証したいと思います。

この久安寺は、行基の創建から天皇の勅願寺としての由緒を持ちます。ですので、巨大な宗教組織、施設が豊島郡(池田)の北部に存在したことは確実です。当然これに、池田氏も対処する必要があり、地域政治を執る上で、協調なり上下関係なりが存在したことは想定できます。
 それがどういったものだったのか、当時の必然性は、今のところ不明ですが、非常に興味深い要素が細河郷い存在していたことだけは確かです。これまでにあまり、これへの思索が行われていないようですので、少しこだわって掘り下げてみたいと思っています。

最後に、以下、「八幡城」について、先行する研究資料を上げておきます。

◎八幡城:はちまんじょう(池田市伏尾町)
  • 伏尾の北方、東野山の山頂にある。東西南の三面を久安寺川に囲まれ、北方は低地で濠渠も形をしており、これを城山という。頂上に平坦地があり、周囲870メートル余、武烈天皇崩御の際、丹波国桑田郡にあった仲哀天皇5世の孫大和彦主命を迎えようとして、迎えの武士が桑田に向かったが、王は捕り方の兵と誤解、逃れて東能勢止々呂美の渓谷を下りて、東野山に来て住んだ。その後、1世の孫猪名翁に至って、行基菩薩を迎えて久安寺を建立した。
     後、承平天慶年間(931-46)、多田源満仲の家臣藤原仲光がここに館を築いて居住した。また、元弘年間(1331-33)には、赤松播磨守則祐はこの地に砦を設けて拠った事がある。【全集:八幡城】
  • 『摂陽群談』によれば、伏尾にある古刹久安寺(聖武朝神亀2年、僧行基開創)山内に築かれた山城で、多田満仲の臣藤原仲光が在城と伝える。遺跡は東野山山頂部にあり、土壇が存在したという。【大系:八幡城】
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。慶長10年(1605)摂津国絵図には伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉石高帳に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】
  • 八幡城址は北方東野山にあり、楕円形をなし、周囲大凡八丁の地にして、東西南の三面は久安寺川之を囲繞(いじょう)し、北方は低地にして壕渠の形を為せり。土壇は今も尚存して、俚俗は之を城山と呼び、多田満仲の家臣藤原仲光此に居り、後播磨守と称する者の籠もりし所なりと伝うれども、其の氏名年紀などは詳らかならず。また廃絶の年月の如きも知るに由なし。山に麗水あり、城兵の用いしものなりという。
     本地は延宝年間より徳川氏代官の支配となり、同代官継承して斎藤六蔵に至る。其の後の管轄及び区画の変遷は、大字吉田に同じ。【大阪府全志】
  • 同郡伏尾村久安寺山内にあり。多田満仲公の家臣藤原仲光在城後に播磨守在城と云へり。氏年歴所伝未詳。山の原に麗水あり。井水の部に記す。是即ち城郭の用水也と云へり。【摂陽群談】

 

※念のため、これらの出典は、後で付け加えたものではなく、公開当初からあるものです。そのような卑怯な事は絶対にしません。私は常に、論拠を以て話す姿勢は崩しません。分からないことは、想定として記述しています。 


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2016年9月17日土曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(細河庄内の東山村と武将山脇氏について)

摂津国豊嶋郡細河郷内の東山村(現大阪府池田市)は、室町時代の応仁・文明の乱以降、成長し始めた池田家にとって、次第に政治・軍事面においても重要な関係に深化します。その東山村からは、山脇氏が頭角を現し、池田氏と姻戚関係も結び、池田一族として家政の一翼を担っていきます。
 また、その拠点としての池田城を守るための防御構成も年々強固なものに成長させていきます。同時に、政治・経済的な支配も拡がり、その意味でも五月山と細河郷、そして東山村は、大変重要な位置付けともなります。
 そうなると、自然と城郭化していくものと思われますが、今のところ、公式に城郭に関する調査もされていませんので、想像の域を脱する事はありませんが、全く無かったとは言えない資料も断片的に見出せます。そういった可能性もご紹介できればと思います。

そして、摂津国内の最大勢力を誇った池田家も内紛を繰り返し、遂には解体となりますが、その池田家を継ぐ事になったのが山脇系池田氏であり、池田家の歴史を見る上でも、この東山村の歴史を掘り下げておく事は重要です。
 今ある資料や筆者の見聞きした事など、ひとまずそれらを包括的にまとめ、今後の研究に繋げていきたと思います。

<概要>
先ず始めに、他の項目と重複しますが、現在既に論説されている東山村とそれに関する寺社を示してみたいと思います。なお、東山村が含まれるより大きな地域単位としての細河郷(細川庄)については、先に公開しました当ブログの「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺)」をご覧下さい。

◎ご注意とお願い:
 『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。
 
各項目の出典は、○○(県名)の地名【地名】、新修池田市史(○巻)は【新市史○巻】、池田町史(第一篇:風物誌)が【池田町史】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。

(資料1)-------------
◎東山村(池田市東山町)
東山村の見取図(新修池田市史より)
中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。
 慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。
 村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】

◎真宗 東本願寺末 返照山 円城寺(池田市東山町)
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とする。天文14年(1545)4月西念の創立なり。慶応4(1868)1月29日、火災に罹り焼失し、明治元年住職知成檀家と協力して、之を再建せり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:円城寺】
  • 細河谷と呼ばれ、久安寺川の両側に広がる一帯の植木の郷の起源は、350年から400年に遡る正保年間(1644-48)及び更に天文年間(1532-55)にも至ると言われています。
     その東北山側に東山(町)があります。日照時間の短い湿度と日陰と赤土を生かした「東山の鉢挿」は、有名なサツキ・ツツジの特産地として知られています。(サツキツツジは池田の市花となっています。)この様な集落の佇まいに、円城寺の古寺がひっそりと歴史を刻んでいます。
     東山バス停の地蔵堂を過ぎ、しばらくして右折れし、なだらかな山麓の坂道を数分登ると左手に石垣を巡らせた円城寺があります。その裏手には、同寺の経営される細河保育園があって、元気な子ども達が寂しさを和らげてくれます。
     円城寺の開創は天文14年(1545)、僧西念によると伝えられます。当主(住職)は17代目となるので、少なくとも500年以上になる寺です。しかし残念な事に、明治元年、この寺に仮寓していた乞食の失火によって堂宇全てが焼失し、貴重な文書・遺物が失われてしまいました。けれども本尊の阿弥陀仏と仏画は辛うじて持ち出され、現在拝むことができます。
     本尊・仏画はよく修復されて、仮本堂ながらも立派に祀られています。秘められた歴史の遺品として、まだまだ調査の必要な寺院です。特に本尊の台座は、他に見られない重厚な造りとなっています。【改訂版 池田歴史探訪:円城寺】
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗東本願寺末である。天文14年僧西念の創立なりと伝へらる。【池田町史:円城寺】

◎曹洞宗 大広寺末 瑠璃光山 東禅寺(池田市東山町)
  • 字上条にあり。瑠璃光山と号し、池田町(市)曹洞宗大広寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とする。僧正行基の創建に係り、紫雲寺と号せしが後、屢々兵燹(へいせん)に罹りて廃絶せしを、慶長9年(1604)2月、僧東光、其の旧蹟に一草庵を結びて再興し、今の寺名に改む。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:東禅寺】
  • 東禅寺へは少々体力が必要です。円城寺から上へ右手(南へ)にとると、少し下って薬師堂のある広場に出ます。ここから左手(山手)を更に集落の急な坂道を登りつめた台場にひっそりと古寺が佇みます。
     当寺の開創は、慶長9年(1604)、僧「東光」と伝えられます。また、元「紫雲寺」で、行基菩薩の開創とも伝えられています。現在の建物は古いものではありませんが、今の住職が中興の祖から7世にあたりますので、開創からは20世にもなり、400年を越える歴史のある古寺と言えます。本堂の釈迦如来のほかに、この寺の宝物は観音堂に安置されている四躯の仏像です。何れも池田市重要文化財として指定されています。(中略)。
     本堂の鬼瓦に揚羽蝶が見られますので、織田氏・尾張池田氏との関わりがあるかもしれません。池田の埋もれた歴史がこの寺にもあると思います。境内に引かれた涌水は、渇き疲れを癒やす甘露として、知る人ぞ知る名水です。墓地の歴代の住職の墓石は重厚感があります。また、同寺には石造美術品として、宝篋印塔があり、応永2年(1395)の銘が刻まれています。【改訂版 池田歴史探訪:東禅寺】
  • 東山字上絛にあり、瑠璃光山紫雲寺と号し、曹洞宗総持寺末である。【池田町史:東禅庵】
    ※池田町史の編纂当時、東禅寺は「東禅庵」であったらしい。表記は東禅庵としている。

◎愛宕神社(東山神社)
  • 東山の氏神は、普段は「愛宕さん」と愛情を込めてよばれている愛宕神社で、白馬にまたがった神神像のご神体(元禄8・1695の作という)がある。しかし、一方で吉田にある細川神社の氏子でもあって、人々は二重氏子になっていることになる。
     愛宕神社には禰宜講があり、勧請の状況や宮座の存在をうかがわせるが、詳細な記録は残されていない。禰宜は現在11人で、かつては終身であったが、昭和56年以降は、80歳定年制に切り替えられた。禰宜になるには百姓株の男子であれば誰でも良いとはいえ、年配者である事が求められ、推挙を受けて禰宜になる時には婚礼のような儀式を行った。禰宜講に入る事を「イリクー(入組)」とよぶ。
     愛宕神社の祭祀日は、昭和55年の申し合わせにより、原則として毎月24日に決められた。村祭や正月、2月の節分、4月と6月の節供などで祝祭日が重なる時は、それに合わせて変更する事になっている。24日の祭祀は、当番の禰宜が祭主となって勤め、神主を招く事はしない。したがって、禰宜の奉仕は年間12回にもなる。(中略)。
     直会(なおらい)は、禰宜講で行い、昭和50年(1975)頃まで続いた。正月、節分、麦初穂(7月5日)、愛宕(9月21日)、松立て(12月24日)の年に5回であった。
     現在、初穂料として、百姓株の氏子は年間に麦初穂200円、米初穂300円を納める。財産による年貢は、若干の相違はあるが、7,000円ぐらいである。【新修池田市史:東山(氏神と祭)】
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既述のように東山村は、寛永・正保期(1624-48)の摂津国高帳での村高は541石余で、細河郷内では最も大きな石高を有しています。残念ながら人口に関する記録が見当たりませんが、石高に比例した人口であったと思われます。明治期の地図では、近隣の集落と比べても集落範囲が大きく表されています。
 また、東山村は五月山山塊北側の一段高くなった段丘に村が拡がっており、寛永・正保期には植木栽培が盛んであった記録があるようです。植木栽培は細河郷では古くから行われており、江戸時代にも絶える事無く行われていた事が判ります。

<交通>
東山村の眼下に余野街道があり、その脇にある余野川を挟んで、北方の低山の尾根上には、妙見道も望む事ができる眺望が開けています。この妙見道を目安として、河辺郡と豊嶋郡の境があり、河辺郡北部には多田源氏の系譜を持つとされる塩川氏が勢力を持っていました。
 また、東山村は、その余野街道を北から南下すると、平野部の入口にあたる場所でもありました。更に、村からその背後にあたる五月山には、何本もの山道(やまみち)があり、一旦、山に上がれば、南側の秦野村や新稲(現箕面市)、北東部の勝尾寺や高山村(現豊能町)方面へも行き来できました。

<多田院御家人塩川氏と細河郷>
摂津国河辺郡北部(現兵庫県川西市など)の山下城(一庫城)を本拠とした塩川氏は、多田院御家人の筆頭として、多田庄と能勢郡に影響力を持ちました。同庄は、他にあまり例のない程の広さを持ち、しかもその内に多田銀山(現兵庫県猪名川町)を含みます。また、能勢郡内(現大阪府)にも鉱山があり、その採掘に使われた間歩跡が、今も多数残っています。
 鎌倉時代から室町時代の応仁・文明の乱頃までは、塩川氏の勢いが強く、細河郷もどちらかというとその影響を受けていたようで、細河郷内での伝承記録にもその断片が見られます。その頃は、五月山が実質的な河辺郡との境になっていたかもしれません。参考として、多田源氏に関する資料を少しご紹介したいと思います。

(資料2)-------------
◎臨済宗 天龍寺末 薔薇山 松雲寺(池田市中川原町)
  • 字下門にあり。薔薇山と号し、臨済宗天龍寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とす。観応2年(1351)10月の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:松雲寺】
  • JA大阪北部細河支店の裏側を山手に少し登ると、松雲寺があります。細い参道へ入ると、苔むす石垣の上に真っ白な築地が続きます。しっとりとした石畳を踏んで進むと、すぐ山門に着きます。
     苔と下草に覆われた境内は、静寂そものです。正面に五月山を借景に本堂がひっそりと佇んでいます。「天龍寺派居士林道場」と書かれた木札が掛けられ、いかにも禅宗の寺らしく心落ち着く雰囲気です。
     現在の本堂は、昭和46年に建てられたものですが、創建は南北朝時代の禅僧夢想国師(疎石)で、600年以上の歴史を持つ古刹です。ご本尊は釈迦牟尼仏で、江戸時代末期の作と伝えられています。
     当寺は地元旧家である一樋家(多田御家人の系譜を持つ)の菩提寺としても関わりがあります。南側にある墓地には、歴代住職の墓石をはじめ、歴史を感じさせる古い墓石が並び、夜には怖くて近付けないような昔のままの雰囲気もあります。
     境内で心を静めて「禅定」の瞑想に、ひととき浸るのもここまで足を運ぶ甲斐があるのではないでしょうか。【改訂版 池田歴史探訪:松雲寺】
  • 中河原字下門にあり、薔薇山と号す。臨済宗天龍寺末なり。【町史:松雲寺】
◎真宗 西本願寺派 八幡山 如来寺(池田市古江町)
  • 古江字片岡にあり。八幡山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とする。本地住人岡本源之丞(了信)、本願寺良如法主に帰依し、寛文2年(1662)檀徒と協力して創立せり。(大阪府全志)
  • 八幡山と号し、寛文元年3月、開基釈了信の所有地に創立。(同寺所蔵 如来寺寺院規則)
  • 第1代寛文元年(1661)8月19日、亡 了信 創立時の如来寺は「片岡惣道場」であって、寺号は宝暦・明和(1751-72)頃に成立したらしい。(歴代住職表)
     良如法主(1612-62) 真宗本願寺派13世 諱は光円。12世准如上人第7子。
  • 八幡山 豊能郡伏尾村久安寺山内にあり。往昔、応神帝影向の山頭を以て、八幡山を称す。【池田市内の寺院・寺社摘記:如来寺】
     
  • 如来寺は、江戸前期の寛文元年(1661)本願寺13世の良如上人に帰依し、僧「了信」となった岡本源之丞ほか10数人の檀徒が建立した寺です。本堂は建立当時のもので、修復を重ねつつ300年以上も護持されて現在に至っています。(中略)。
     お寺のすぐ上は妙見街道となっています。「能勢の妙見さん」へのお参りの人々が絶えず往来しました。今は池田市立児童館となっている所に、古江の旧家森家の屋敷がありました。森家は肥後熊本細川藩の家老を先祖とする家柄で、この場所で漢方薬院として施薬・医療を業としました。妙見さんへ参る人々などの憩いの茶店が軒を並べ、中には体調を崩す人もあり、薬院は重宝され随分と流行りました。こうしてこの辺りは森家ゆかりの人、多田源氏落ち武者「ふるごんぼう」と呼ばれた古江御坊信仰の人等が集まり、邨が出来て賑やかになりました。やがて森家の財力によって檀那寺が建てられ、如来寺の前身となりました。この寺の殆どのものが森家の寄進によるもので、屋根瓦には森家の家紋である九曜星(肥後細川家の家紋)の紋が使われています。森家の菩提寺としての如来寺の墓地には歴代住職をはじめ、森家累代の墓があります。
     ちなみに箕面公園滝道に「森 秀次」の銅像があります。氏は、府会議員時代に、箕面山を密教の神聖な山として公園化に反対する人々を説得し、尽力されました。銅像は、公園の生みの親としての功績を讃えられたものです。氏はその後、国会議員となられ、大正15年(1926)に72歳で逝去されました。【改訂版 池田歴史探訪:如来寺】
    ※参考サイト:森秀次像は三度作られた
  • 古江字片岡にあり、八幡山と号し、真宗西本願寺にあり。【町史:如来寺】
◎真宗 東本願寺末 大雲山 専行寺(池田市中川原町)
  • 字南絛にあり。大雲山と号し、真宗東本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とす。万治2年(1659)正貞の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:専行寺】
  • 国道から少し入るだけで旧街道は交通もまばらで、気持ちを落ち着きます。この中川原は、細河植木の集散地で、近くには細河園芸農協市場もあります。街道に沿う専行寺は、日当たりが良く、明るい境内は夏には、蓮の花が咲き、仏心が和みます。
     このお寺の創建は、万治2年(1659)、僧「正貞」と伝えられ、340年を越える古刹です。本堂も再建されていますが、修復を重ね270年を経る建物です。本尊は阿弥陀如来立像で、室町時代後期の作と思われます。(中略)。
     当寺の紋は笹りんどうで、多田源氏の紋と同じです。多田神社または、多田源氏家人と関わりがあるものと思われます。古江「如来寺」の建立に功績のあった、森家の先祖、肥後熊本細川藩家老であった人が、はじめは「専行寺」に入り、間もなく古江の片岡で森家を興して、如来寺を建てたと伝わります。
     昔、専行寺は門徒の信仰の寺としてだけではなく、寺子屋としても一円の郷の子ども達が集まり、学びました。この寺子屋は、明治7年(1874)、細郷小学校として、現在の細河小学校の前身として移転しました。浄土真宗の寺院は、世俗的で、民衆に慕われやすい道場の色彩があります。門徒が心を合わせ、苦労を重ねて寺を建て、何百年も維持されてきた努力は、美しく、尊いものです。【改訂版 池田歴史探訪:専行寺】
  • 字南條にあり、大小(雲?)山と号し真宗東本願寺末なり。【町史:専行寺】
-------------(資料2 終わり)

細河郷にはこういった、多田院御家人とのつながりが、断片的にいい伝えられています。
 また、やはり地勢柄、細河地域は旧河辺郡や能勢郡地域との交流が絶えず、婚姻や商売などで今もつながっており、時代を経ても変わらない、不変の摂理があるようです。

<村の民俗と伝承資料>
東山村はそんな環境と歴史を持ちますが、更に地域を掘り下げ、村の民俗と伝承資料を以下にあげてみます。村の人々が寺院をどのように捉えて信仰しているかがわかる資料をご紹介します。
※新修池田市史 第5巻 P309

(資料3)-------------
かつてのドウノマエの様子(新修池田市史より)
【東山村の寺院と民間の信仰】
東山村の寺院には東禅寺と円城寺があり、人々は正月には東禅寺に、盆には円城寺にお参りに行くならわしがあった
 東禅寺は山号を黄梅山といい、つぎのような伝承がある。すなわち、今は余野川上流にある久安寺は、その昔、神亀年代(724〜29)に全国を行脚中の行基僧正が足をとめたことにより開かれ、院内塔頭49坊があった。その内のひとつに瑠璃光寺があり、薬師堂には薬師如来坐像と四天王、十二神将像が安置されていた。
 保延6年(1140)の山内の大火の際、焼失を免れ、その後荒廃していたが、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。ただし、これを証明する文書は無い。
 ムラの中に薬師堂があり、その前の広場を「ドウノマエ(堂の前)」という。2月8日と8月8日の年2回、百姓株で祭を行い、子供を集めてお菓子などを配る。かつては薬師講を作って堂の管理をしていたが、戦後は百姓株の管理となった。
 また、国道沿いの村への入口の位置に地蔵堂がある。毎年8月24日の地蔵盆には僧侶を招き、婦人会が御詠歌をあげる。村にはほかに、釈迦堂、金剛、庚申さん、辻堂がある。【新市史5巻:東山】
-------------(資料3 終わり)

もう一つ資料をご紹介します。東山村の人々の生活について、聞き取り調査が行われています。「垣内と講」についてです。もしかすると、東山村は植木栽培など、多様な産業があって、村全体で農業を営むような共同体ではなかったのかもしれません。
※新修池田市史 第5巻 P306

(資料4)-------------
【垣内と講】
本家を「主家」、分家を「インキョ(隠居)」というが、同族による集まりや助け合いは、冠婚葬祭の場合程度であって、日常的にはみられない。
 相互扶助を求めて重要な人間関係を形成したのは、近隣集団の「カイチ(垣内)」であった。カイチは、現在でいえば隣組に相当するが、ムカインジョ、ミナミンジョ(南カイチ、ユバジョ(弓場ジョ?)ともいう)、大崎カイチ、タナカンジョ、ヤマシガイ(山新開)の五つのカイチがあり、「ジョ」の名称でよばれることが多かった。カイチの役割としては、普段の暮らしの中での助け合いのほか、葬式の手伝いが大きかった。それぞれのカイチは、主に百姓株の人々による5〜10戸からなっていたが、(近現代の)隣組ができたことによって、弱体化した。現在では、いずれも2〜3戸程度の近所づきあいにとどまっている。
 ムラの農民をひとつの百姓株にまとめ、ムラ全体で行事を行うようになったのは、戦後になってからである。かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。昭和初期には大講が20戸ほどで最も多く、その他はいずれも10戸くらいで構成された。その後、講の機能は次第に薄れ、今では名称が残るのみである。
-------------(資料4 終わり)

<東山村と秦村との関係を示す伝承資料>
更に、興味深い伝承資料をご紹介します。今は所在が判らないようですが、法園寺(ほうおんじ:現池田市建石町)というお寺に「赤松氏上月十大夫政重」という人物の塔婆があって、そこに刻まれた碑文が池田町史(1939年発行)に紹介されています。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

(資料5)-------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

赤松氏上月十大夫政重之塔

寛永19年(1642)午9月12日卒
法名、可定院秋覚宗卯居士

宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。

享保7年(1722)壬寅9月12日
※■=欠字
-------------(資料5 終わり)

この伝承によると、上月政重が3歳の時(元亀元年:1570)に、三好・荒木勢に居所を襲われて、乳母によって助け出され、母方である豊嶋郡畑村の石尾下野守方へ逃れたとあります。その後、成長した政重は22歳の時、親戚の誼で、池田備後守知正に取り立てられたとの経緯が記されています。
 また、この知正は池田家の当主を継いでいますが、慶長9年(1604)3月18日、49歳で死去します。この年に、東山村の東禅寺も再興されており、これはやはり何らかの繋がりがあっての事だと思われます。

<東山村と池田氏との強いつながり>
この知正の死去の前、子がなく無嗣であったために、弟の子三九郎を養子として迎えますが、三九郎は、慶長10年7月28日、18歳の若さで死亡します。
 池田家の断絶の憂き目を救うため、三九郎の父(知正弟)である弥右衛門尉光重が家督を継ぎます。光重は、間もなく備後守の官途を名乗り、戦乱で荒廃した池田郷とその周辺の復興にあたります。
 さて、池田家の家督を継いだ光重ですが、東山村を本拠としていた人物である事が「池田城主池田系図」などに記されており、東山村での有力者山脇氏に連なる人物と考えられます。
 一方、この山脇家には家伝(系図)が残り、池田城主との強いつながりがあった事を記しています。永正5年(1504)の池田合戦を中心に既述されています。
※池田郷土研究 第8号(池田郷土史学会刊)P16

(資料6)-------------
○正棟-池田民部丞、属足利義澄公、忠信篤実無二心、永正5戊辰年夏、大内義興、細川高国等、攻池田城、正棟固守数日、防之術尽城陥、于時託泰松丸、貽謀正能父子、隠同国有馬谷、5月10日正棟登城自殺、東山密葬、謚円月光山居士。
○正重-池田勘右衛門、後号監物、民部丞、生害之時、与母共父之首隠、従城裏山伝移東山村、大山谷之口山林埋葬、密請僧吊(弟?)、隠住山脇源八郎。【山脇氏系図:昭和26年7月 林田良平假写】
-------------(資料6 終わり)

この永正5年の合戦については『細川両家記』という軍記物に記述があり、内容は、多少の誤差はあるものの、大筋で山脇家の家伝と一致しています。
※細川両家記(群書類従第20号:合戦部)P585

(資料7)-------------
永正5年戌辰4月9日、(前略)。摂津国池田筑後守(貞正)は、細川澄元方をして我城に楯籠也。細河高国聞召、其の儀ならば退治有べきとて、同5月初の頃高国方の細川典厩尹賢を大将にて猛勢推寄ける処に、筑後守は物の数ともせずして戦うといえども、池田遠江守、高国へ参られければ、寄せ手は是れに機を射て、5月10日に堀を埋めさせ、厳しく攻めければ、城の中より思い思いに切って出、同名諸衆20余人腹を切り、雑兵70余人討ち死に也。国中に同心する者無きに、かように振る舞いける事よ。大剛の者哉と感ぜぬ人こそなかりけれ。
-------------(資料7 終わり)

この時の池田家当主は、貞正(さだまさ)ともされますが、今も池田市にある大広寺に貞正以下、主立った武士が逃げ入り、そこで切腹します。重臣などもそこで果てたようです。その貞正が切腹した時の床板を大広寺本堂入口の天井板として使い、それが「血天井」として今に伝わっています。
大広寺入口の天井にある「伝血天井」
それから、この時の貞正一行の行動は、自分の家族を非難させるための行動だったと考えられ、大広寺の脇からは、五月山へ上がる山道が幾筋かあり、その道を伝って貞正の妻と子は東山村へ逃れたものと思われます。池田城もこの時、自焼(じやけ)していますので、最後の抵抗をして、時を稼いだのかもしれません。
 貞正の妻と長男の三郎五郎、それに弟の正重を叔父の池田正能などが護り、城を出たようです。一行は、東山村の山中(大山谷之口山林)に貞正の首を埋め、妻と弟正重は山脇氏を名乗って隠れ住んだとしています。また、貞正の妻は、山脇家出身ではないかと推定する研究者もおられます。
 長男三郎五郎は、その後に東山村を出て、身寄りを頼って有馬郡下田中へ更に逃れたようです。

<別の山脇系池田氏の活動痕跡>
堺商人の今井宗久の音信に、気になる人物が見出せます。これは、永禄12年(1569)のもので、その時の池田家当主であった勝正が、播磨・但馬国方面へ出陣している留守中に池田覚右衛門・秋岡甚兵衛尉某へ宛てて音信したものです。
※堺市史5(続編)P906

(資料8)------------- 
態と啓せしめ候。仍て堺五ヶ庄に相付き、摂津国天王寺の内に之有る善珠庵分事、度々御理り申す事に候。織田信長従り丹羽五郎左衛門尉長秀・津田(織田)掃部助一安に仰せ付けられ、勝正並びに各へ御申しの事候。様体於者、黒崎式部丞(今井宗久被官)へ往古従りの段委曲申し含め候。無事儀急度仰せ付けられ於者畏み存ずべく候。尚池田(紀伊守入道)清貧斎正秀・荒木弥介(村重)へ申し候。恐々。
-------------(資料8 終わり)

この池田覚右衛門なる人物は、この史料の他には見当たりませんので詳しくは解らないところもあるのですが、音信の内容からして、当主勝正の重臣であったり、側近的人物であった事は確かです。
 そしてこの、覚右衛門なる人物は、先に紹介しました「資料4」にある、「かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。」の角右衛門講に相当する可能性があるかもしれません。それらの講の多くは、人の名前に由来するようですし、「講」とは、そこに縁や利益を共にする人々が集まる組織でもあります。「角」と「覚」の違いはありますが、角右衛門講とは、池田覚右衛門に由来し、そこに関係した人々の集団だったのではないかと思われます。もちろん地縁も含めての事だと思います。
 それからまた、西暦2000年頃だったと思いますが、個人的に東山村で、山脇氏や戦国時代の頃の事について何人かにお話しをお聞きした事があります。その時、「先祖は武士だったが、武士を辞めて帰農したり、武士を続ける人は他の場所へ移った。」など、言い伝えがあるようです。
 それについては、「資料3」にある、「慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。」にある伝承と同一線上の要素ではないかと感じます。
 慶長9年とは、東山村に縁の池田知正が死去した年ですし、その時に大広寺末の禅寺である東禅寺が、その地の豪族・庄屋の協力で開創(再興)する訳です。これらの複数要素の重なりは、単なる偶然では無いと思います。知正の墓は大広寺に今もあるのですが、その出身地である地元でも知正を弔うような気持ちがあっての動きではないかと思います。

<知正が池田家家督を継いだ理由>
池田家本流からは少し離れた一族であったと考えられる山脇系池田氏が、なぜ名族池田家を継ぐ事になったかといえば、天正年間の2度の大乱が、非常に致命的で、池田とその周辺を破壊し尽くし、人も社会も全て失う程の戦争であったためと考えられます。
 徹底した破壊は、人同士のつながりも絶ち、恨みすらも生まれます。人が死に、財産も失えば、人を束ねる事も難しくなり、組織も財力もある外来勢力に太刀打ちできなくなります。
 実際にはどうだったのか、まだまだ判らない事もありますが、感状の縺れもあり、それまでの統治者であった池田氏の本流が、逆に戻りづらい環境になっていたのかもしれません。若しくは、池田氏の本流が本当に滅びてしまったのか。
 とは言え、復興にあたっては、地域を束ねる求心力は必要ですので、本流よりは少し離れますが、他の候補よりはより本流に近い血脈を持つ東山村の山脇系池田氏から知正が選ばれたのかもしれません。
 本流の池田家当主は代々「筑後守」を名乗りましたが、知正は「備後守」を名乗り、明らかにそれまでの池田氏のつながりとは区別されています。知正の後を継いだ弟の光重も、同じく備後守です。
 知正や光重は、荒廃した池田を復興させようと色々と手を尽くそうとしていた事も史料を読めばわかります。大広寺を旧地に戻し、少しずつ整備を行おうとしていたと思われ、その頃の建物や梵鐘、肖像画などが残っています。他にも色々な行動をしているのですが、ここでは書き切れませんので、別項で紹介したいと思います。
 知正が池田家を継いだ頃は、時代が大きく変わろうとしていた時であり、大乱でヒト・モノ・コトを立ち直れない程に失い、それでも地域の求心力として当主を努めた人物であったのかもしれません。
 実質的にこの2人が、最後の池田氏だったと言えます。その後の池田郷と細河郷は、徳川幕府の直轄地として統治されるようになり、商業の町となって、地域の主導者排除されるようになって、忘れられていきます。

<出土遺物からの戦国時代細河郷の想像>
少し遡って、細河郷は、永禄・元亀年間(1558-73)頃になると、池田氏の影響下に入っていた事と思われます。それ以前の天文年間(1532-55)には同地で影響力を強めていた可能性も十分にあります。その裏付けとも考えられるのが、いくつかの寺の寺伝に「兵火による焼失」が見えます。また、昭和46年(1571)4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に、主に室町時代に流通していた多量の古銭が出土しています。(総合計18,317枚)「伝承」は、ある程度、正確に記述されているのではないかと思われます。
 やはり、この遺物の出土状況からみても、細郷が戦乱に遭っていた事が想定できます。これらは当時としては資産であり、地中に埋められていたのは、戦乱を避けるための「避難」のためであったと考えられます。
※参考:1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか。

<細河郷に伝わる戦国時代の痕跡>
東山村の向かい側、西側に吉田村があり、ここにも戦国時代の痕跡を示す伝承があります。吉田村にある細川神社付近には、本は武士であったと伝わるお宅もあり、個人的に色々お話しを伺った時には、槍なども見せてもらった事があります。
 村の北西側に山塊が拡がり、その尾根上に妙見道が通ります。この道が河辺郡と豊嶋郡の境で、非常に重要な場所でもありありました。
※新修池田市史 第5巻 P318

吉田村の見取図(新修池田市史より)
(資料9)-------------
【集落】
植木・盆栽の生産の集落があるのは、祠堂の南あたりである。ヒノミヤグラ(火の見櫓)の立つ所に吉田町公民館がある。そこが、このあたりの集落の中心である。この集落の入口にあたる所には、地蔵堂があり、トンドバともいう。付近には吉田公園があり、大きな椋の木がある。この土地はモレチ(漏れ地)である。
 集落のある場所から久安寺川にかけては、松などの植木の苗木が栽培されている。その苗床をノラとよぶ。このあたりは、オシロダニ(お城谷)とよばれ、織田信長の城があったと伝えられる。織田信長が治めていた時代の遺構とされる「信長の手水鉢」があった。いずれも現在は、道路拡張のため埋まってしまっている。またオダノカイチ(織田の垣内)とよばれる土地がある。そこにも織田信長が治めていた時代の城の遺構と伝えられる石垣の跡があったが、これも伏尾台の住宅開発ですっかりなくなってしまった。
-------------(資料9 終わり)

また、伏尾村のあたりから吉田村を経て山塊が伸びて、その終端の南面に古江村があります。その途上に片岡集落があります。
 この古江・片岡集落付近では、余野川と猪名川が合流し、妙見道と多田道、能勢街道(篠山道)も村内に通す要所です。また、既述の通り、妙見道が河辺郡と豊嶋郡の境でした。
 こういった環境ですので、やはりここには、戦国時代の痕跡があり、言い伝えられています。
※新修池田市史 第5巻 P333

(資料10)-------------
【古御坊】
村の墓のもう一つ高い所に、古御坊というお寺があったという。今でもそこは、古御坊と伝えられている。戦国時代に池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。そこに寺男としておった人が片岡某という人で、寺が焼かれて行き場が無いので、ここに降りてきて住み着いたという。その片岡某の名前からここを片岡といっていた。江戸時代は古江村字片岡といわれていた。
-------------(資料10 終わり)

古江村の見取図(新修池田市史より)
この伝承にある古御坊といわれたお寺の詳しい事はわかりませんが、池田城と何らかのつながりがあったものと思われます。
 同じような例で、今の大阪大学のあるあたりに待兼山という丘陵部があり、ここに能勢街道が通っていました。その場所に高法寺(現池田市綾羽)というお寺があったのですが、このお寺は池田城主とのつながりが深く、天正年間(1573-92)の荒木村重の乱で、織田信長方に焼かれたとの伝承を持ちます。このお寺は、平時はやはり、池田・伊丹城の施設の一部として機能していたと考えられます。
 その例にもあるように、古江の「古御坊」も交通の要衝で、郡境にあり、しかも一方の河辺郡には常に争っている塩川氏の勢力下ですので、軍事施設ではない「寺」を於いて、緩衝対策を取って警戒していたものと想像もできます。

<寛永諸家系図伝に見られる池田知正と光重>
 最後に、系図に見られる池田知正をご紹介してみます。江戸時代には、幕府によって公的系譜の編纂事業を2回(こまかなものも色々ある)行っていますが、『寛永諸家系図伝(家譜)』は、その最初です。
 寛永18年(1641)から事業に着手され、同20年9月に完成しています。これを経て、更に幕府はその精度を高めるべく寛政11年(1799)に『寛政重修諸家譜』が編纂が始められ、文化9年(1812)に完成して将軍に献上されました。これらは、幕府運営(統治)の基礎資料とすべく作成されましたが、それぞれに特徴や利点、不備があります。
 この資料を見比べてみると、『寛政重修諸家譜』には、摂津池田家の記載がありません。これは既に没落した家である事と、地方豪族の系譜はあまり重視しない分類方針であったためのようです。この頃、時代的に身分制度が定着し、武家社会優位の風潮になっていた事もあるのかもしれません。
 さて、もう一方の 『寛永諸家系図伝』には、あまり詳細ではないものの、摂津池田氏の記載があります。中でも今回は、知正の家系の記述を見てみます。ちなみに、この中では「清和源氏頼光流」の「池田」姓として伝えています。

(資料11)-------------
【重成(知正)】
久左衛門 備後守 生国 摂州。
摂州豊嶋郡のうち神田村・細川村にて2,780余石を領す。
 織田信長の命により、荒木摂津守村重に属して与力となる。村重敗亡の後、秀吉、重成を召し出され、本領神田村・細川村を領して、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。其の後東照大権現(徳川家康)に仕え奉る。
 慶長5年(1600)、奥州御陣に供奉の時、上方の騒動により、大権現小山より上方へ御進発の御供いたし、御帰陣の後、御加増ありて5,100余石の地を領す。同8年、病死。

【重信(光重)】
弥右衛門 備後守 生国 同国。
父重成(知正)と同じく秀吉に仕う。
 慶長5年、奥州御陣の時、重成と同じく供奉す。同8年、大権現(家康)の命により、父の遺跡を継ぎ、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。駿州府中にひとりの神子(みこ)あり。人を誑かして金銀を多く借り取る。重信(光重)が家人の関弥八郎にも又借りて是れを与う。その後、金銀を貸したる主より神子に返弁すべきの由はたり(?:諮り。ルビは徴とあり、糾明の意。)ければ、、我借る所の金銀は悉く弥八郎これを取りて、神子が元にはこれなしと云うにより、各々此の事を重信も知るべきの由を訴ふる時、大権現御鷹野あそばされ、江戸に趣(赴)かしめたまふ時、重信供奉す。駿府に還御の後、この事の評議ある故、重信いささか知らざるの旨じき(直)に訴訟を捧ぐる故、その難を免かるると雖も、直訴致したる罪により御勘気を蒙り、所領を没収せらる。その後も大権現これを哀れみ給いて、重信が旧領の古米並びに家財等を給いて、富士のふもと法命寺に籠居す。
 大坂両度の御陣に、仰せによりて有馬玄蕃頭豊氏手に属して彼の地に赴く。大坂御帰陣以後、大権現しばしば御無礼の御気色ある故、遂に御前へ召し出されず。
 寛永5年(1628)5月19日、病死。法名同休。

【重長】
久左衛門 生国 摂州。
父と共に流浪して、有馬豊氏に付き従う。豊氏、重長が事を酒井雅楽頭忠世並びに大僧正天海を以って言上しければ、則ち御免を蒙る。
 寛永11年(1634)より、将軍家(家光)へ召し使はる。同12年、御小姓組となる。同15年、御切米を給わる。
 家紋 三木瓜。
-------------(資料11 終わり)

それぞれ諱(いみな)が歴史史料とは違って記述されているのですが、その内容は直ぐにそれと判ります。また、知正について、この系図では「民部丞」を名乗っていない事になっています。
 それともう一つ、気になるところがあります。この池田知正の家系を「清和源氏頼光流」としてあり、藤原流では無い事です。池田家本流の家系は「藤原」である事が史実として明白ですので、やはり細河郷東山村の池田氏は、別系譜である事が明確にされているようです。
 こうなるとやはり、家紋というのも自ずとメボシが立ち、これまで流布されている、摂津池田家の家紋は「三木瓜」ではなく、本紋としてはやはり「藤」をモチーフにした家紋であろうと思われます。つまり、『寛永諸家系図伝』の清和源氏頼光流の摂津池田重成(知正)系の紋が三木瓜であって、本流の池田家系はそれとは別の紋、藤原を示す家紋を使用してものと考えられます。
 それからまた、参考までに、知正の行動についてですが、羽柴(豊臣)秀吉時代にも各地に転戦しており、さ程多くはありませんが、兵を率いて出陣しています。天正10年(1581)5月からの備中高松城攻めでは、蛙ヶ鼻付近に布陣し、天正12年3月からの美濃国小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍の後ろ備(合計10,000)の右翼に90程の兵を率いて参陣しています。

<まとめ>
このように、東山村にそのものが残っていなくとも、忘れられるなどして、特に意識される遺物が無いとしても、その周辺地域には少なくない戦国時代の痕跡が残っています。もちろん、これまで見たように、僅かながら東山村にも、池田城と池田氏とは、細くない、いや、強いつながりを持つ痕跡を残しています。また、村から輩出される人物も、少なからず史料上に見られ、池田家の歴史に深く関わっています。
 やはり筆者は、戦国時代には東山村にも、村を護るための施設や仕組み、組織などがあったと感じます。「資料4」にもあるように、実際に東山村の垣内の一つのミナミンジョを「ユバジョ」とよんでいる習慣があり、これは「弓場所」ではないかとする消極的な推定がされています。
 ちなみに池田城跡の字名で「ユンバ」とよばれるところがあり、ここは「弓場」であったと伝えられています。弓は戦国時代の主力武器でしたので、練習をするための広場があったと考えられます。 


細河地域は、その北側の止々呂美地域に新名神高速道路の出入口が設置され、この先、開発が急速に進む事と思われます。その事で、益々時代に必要な発展をしていくのだろうと思います。そういった状況の中で、この思索が、今後の研究の何かの役に立てばと願います。