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2024年7月26日金曜日

また一人、素晴らしい先生に出合いました。『世界史の中の戦国大名』を読んで

『世界史の中の戦国大名』との出合いは、ユーチューブチャンネルでみた、同書の書評からでした。

◎キリシタン大名の振る舞いから考える~「グローバル化」しても失ってはいけないものとは何か?|『世界史の中の戦国大名』鹿毛敏夫(講談社現代新書)|@kunojun|久野潤チャンネル


私は永年、この時代を研究していますので、興味が湧き、早速購入して読んでみました。しかし、読み終えると、この久野先生の言われるような鹿毛氏の極端な思想や読み違えではなく、その時代をしっかり研究していれば、割と自然な流れのように感じますし、私にとってはこの書評で言われるような受け取りはしませんでした。

それよりも寧ろ、鹿毛先生の述べられている視点が、私の研究に足りなかった事に大きなショックを受けた程です。私の取り組みの認識を改め、全体を見直さなければならないと強く感じた程、鹿毛先生の素晴らしいご研究です。
 勿論、鹿毛先生も、先人の研究成果の恩恵を受けつつ、また、他の研究の成果とも相まって、素晴らしいご成果となっているのですが、これは一方で、史料や研究が比較的豊富となった社会全体の成果でもあるように思います。

とは言え、鹿毛先生の独自視点と探究心が成せる素晴らしい成果だと思いますし、何よりも研究姿勢が大変ご立派で、私の手本としたい先生が、また一人増えたことに幸せを感じます。

私が感動した、その素晴らしい鹿毛先生の銘文の一部を以下に抜粋して、ご紹介したいと思います。
※世界史の中の戦国大名(講談社現代新書)P297

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エピローグ「世界史の中の戦国大名」の精神性より
「暴力」で語られてきた戦国時代史
そもそも、日本史で「史実」として語られているもののなかには、実は、その根拠が曖昧なものや偏向的な考察によるもの、あるいは一面的な歴史館に負うものなど、その見直しを求められるものが少なくない。本書で見てきた戦国時代史もその一つである。
 日本史における十五世紀後半から十六世紀は、「戦国」との名称の通り、確かに人間同士の戦いの多い時代だった。高校生たちが学ぶ教科書においても、この百六十年間ほどの歴史は、応仁の乱・桶狭間の戦い・長篠合戦・賤ヶ岳の戦い等の戦争や争乱を軸に時代の画期が示され、その内容も、争い・分裂・抗争・大勝・征討・征服・覇権、そして追放・屈服・滅亡等の暴力的な言語に象徴させて、その時代を語る構成になっている。その教科書に学ぶ子どもたちの頭のなかには、必然的に、武力的勝者へのあこがれや英雄視、そしてその軍事的勝者が形作った社会の正当化・正義化の意識が醸成されていく。さらに、後の近代国家の成立とそのテリトリーの存在を前提に、国家の歴史は分裂から統合へと向かうもので、その統合の妨げとなる「敵」を征討して滅ぼす(殺す)ことが歴史の必然的正義であったとの価値観のみが重層的に再生産されていくのである。
 百六十年間におよんだ戦国大名の群雄割拠状態を脱して、一元的な統一政権を樹立した、いわゆる「天下統一」の営みは、日本の政治史において、まぎれもなく重要な画期であり、その国家統合の取り組みが成されてこそ、後の近世・近代日本の発展が実現した事実は論を俟たない。しかし、その軍事的特徴の強い十六世紀という時期においても、列島各地に生きた天皇、諸大名から一般庶民までの日常が確かに存在した。
 現在の研究史の状況では難しいことではあるが、地域権力の闘争・合戦とその勝ち負け、そしてその勝者の軌跡ばかりにとらわれるのではなく、政治権力が分裂状態の列島各地において、おのおの大名が領域社会の為政者として、いかなる内政を行い、また、海外を含む支配領域外の政治権力とどのような外交関係を結んだかという、「地域国家」の為政者としての内政と外交のあり方を検討し、その特徴に応じた時間軸と空間軸を設定しながら、多様性にあふれた日本社会の内部構造を比較・相対化させて叙述する戦国時代史の姿を、いつかは見てみたいと思う。
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その通りだと思います。この思考法こそが、繙く、解き明かす事であり、それが本当の意味の研究だと思います。なぜその必要があったのか。なぜ、そうなったのかという視点に立たなければ、起きている事の意味が理解できません。
 鹿毛先生の言われるように、「暴力」だけを見て、全体を理解したかのように陥ってしまえば、研究とは言えませんし、理解したとは言えません。未来への知恵ともなり得ません。

是非、お手にとって『世界史の中の戦国大名』を読んでみて下さい。とっても面白いですよ!

2021年8月17日火曜日

荒木村重の末裔!?「ポツンと一軒家」の番組を見て。記事訂正です。

前記事の訂正です。この番組は、歴史番組では無いので、あまり掘り下げはなかったですね。近日に以下の要素で、訂正と補足を致します。

「ポツンと一軒家」番組の公式サイト
https://www.asahi.co.jp/potsunto/

【荒木村重の子孫と伝わるお宅】
◎本家と分家が隣接し、墓も敷地内にある
私の本家もそうですし、中国山地の奥地では、珍しくない習慣だと思いますが、地域性があるでしょうか?また、先祖の墓群も、土地の一角にあります。一方で、菩提寺は少し離れた場所にあり、隣国の旧備中国川上郡で、この領主が備中松山藩でした。なぜ、こんな遠距離に菩提寺にあり、しかも隣国なのかは聞き及んでおらず、自分の家系も少し調べて、残しておかないといけないと思っているところです。本家の伯父さんが元気な間に。
 あ、脱線しました。テレビの番組中で紹介されていた光景は、私にとっては、それ程珍しいものではなく、淡々と見ていました。
★余談
我が家の墓群には、珍しいものがあります。基本的に、明治時代以前は、一人にひとつの墓塔ですが、二人でひとつの墓に入っている先祖がいます。刻んである年月を見ると、女の子が幼くして亡くなったらしく、先にその墓を立てました。その後に、亡くなったお父さんの名が同じ墓塔の側面に刻まれています。一緒に入っているのだと思います。とても可愛がっていたのでしょう。このひとつは、非常に珍しいお墓です。


◎村重の謀反の理由
番組レギュラー出演者の林先生が「荒木村重の謀反の理由は、今もよくわかっていない。」とのコメントがありました。林先生は、「歴史」もお好きそうで、しかもマイナーなところにご興味があるのかもしれないと、ふと、好感を持ったコメントでした。
 謀反について、私なりに調べたところで、思いますに、やはり、明智光秀と同じように、黒幕は、備後国鞆の浦(現広島県福山市)に居所を構えていた「足利義昭」だったと思います。村重に前後して起きた、織田信長に対する謀反は、全てそこに繋がると思います。
 荒木村重が天正6年(1578)冬、同年2月の播磨国三木城の別所長治の離叛(織田政権への主従的関係は薄く協力者的行動)、前年10月、大和国信貴山城の松永久秀謀反が、前後して起きています。摂津国大坂に、本願寺宗が拠点を持っており、これとの連携で思いの実現を図ろうと考えていたのだと思いますが、連携が散発的で、戦略的に有効打に欠く結果となってしまいました。織田信長の統治下での躊躇いが、そのような消極的で、中途半端な行動に繋がってしまったのだと思います。
 明智光秀は、それらの経緯を知っていますので、やはりそこは頭を働かせて策を練りましたが、最終目的は達することが出来ずに終わりました。


◎日本海と太平洋の今と昔の感覚
太平洋に富の源ができたのは、明治時代以降であり、それまでは全て、日本外側に富の道がありました。太平洋戦中でも、満州・朝鮮半島・樺太以南は日本領土であり、頻繁な往来がありました。日本海側が閉ざされ、地域が衰えるのは、つい最近の戦後です。
 私の若い頃、バイクで日本一周の旅(何度かに分けて)をして、日本海側も回りました。日本海側には大きな屋敷、繁栄の跡が見られ、何も知らなかった私は、それらの光景が非常に興味深く映ったものです。
 そりゃそうです、富や恵みなどのフロンティアが、全部日本海側にあったのです。室町時代の戦国時代、日本海側の大名が成長したのは、大陸との独自貿易によるもので、近年の研究では、鉄砲は様々なルートから入っていたことが解っています。


【岡山県のオグラさん宅】
◎農民(住民一揆)
住民一揆は、江戸時代初期の島原の乱が、全国的には有名でしょうか。松倉重政が領する島原藩が、領民から年貢を過重に取り立てたために、絶えかねた領民(キリスト教徒が多かった)が、大規模な一揆を起こした歴史です。その鎮圧は凄惨を極め、その跡地で畑仕事などをしていると、今も遺物が出てくるようです。
 また、江戸時代の中頃以降、各地で大規模一揆が多発しています。それは、徳川幕府による経済政策の失敗と藩の政策の失敗で、絶えかねた関係者が国を超えて一揆を起こしていました。絞油や綿生産に携わる人々が、連動して起こすなどすると、藩は、領域を越えて対策が取れず、幕府もこういった広域の対策もしづらいため、当初は対策に苦慮したようです。
 詳しく説明できないのですが、統制経済と庶民の生産力の向上のバランスが崩れてしまい、貨幣発行の調整もうまく行かず、それ故に幕府の信用が低下していく...。これが幕末の倒幕に繋がります。今も昔も起こり得る状態が、この時代の歴史として見ることができます。
 さて、岡山県で起きた大規模一揆は、どのような背景があったのか、今のところ詳しくはわからないのですが、江戸時代も中頃以降であれば、上記のようなことがあったのでしょう。重税ということも理由としてはあると思います。島原の乱の頃、最終的には税率は、何と!10割です。全部が税金です。無茶苦茶でした。


◎木地師
現代生活では、食事の時にの器は陶器です。しかし、江戸時代でも、庶民は木の器を使う事が多くありました。陶器は贅沢品です。
 また、山は恵みをもたらす、資源の場所でした。蒔きや薪、木材、山の幸、薬、水資源などなど、社会の生活を支える無くてはならない場所でした。
 今も木曽地域では、民芸品として、伝統工芸としてこういった木工製品が製造・販売されているのは、ご存知の方も多いと思います。
 しかし、江戸時代やそれ以前の時代の需要とは、規模が違いますので、各地で木工製品を生産する拠点がありました。山仕事の合間や冬期いった、山に入ることの出来ない時期の仕事としても発達したようです。
 軽く、落としても割れないので、これはこれで重宝していたのかもしれませんが、木地に滲み込むので、漆を塗ります。
 近江商人の中でも日野商人は、漆器「日野椀」を全国に供給し、確かな製品とデザインで、全国ブランド化していました。戦国武将の蒲生氏のバックアップもあったようです。また、数ある近江商人グループの中でも日野商人は古参で、早くからこういったブランドを立ち上げることができたのも、やはり、全国各地を統治して城下町を築いた、蒲生氏郷の支援もあってのことでしょう。


【余談】
◎前近代の山の暮らし
前項の「木地師」で、書いてしまいましたが、前近代の生活、というか、近年まで山に頼る社会生活が続いていました。ですから、そこに経済要素も生まれ、そこで生活する人々も多くありました。
 しかし、今は、それらの連鎖が悉く衰退、切断されてしまっている状況です。消費地の都会では、関心も持ちません。本来は人間生活にとって、普遍の要素、命を繋ぐ源が山にはありますが、最近は、それらを忘れ、レジャーの場のような感覚に、都会人は陥っています。
 一番解りやすい要素は、「水」です。健全な山を保たなければ、日頃の飲み水、治水による作物の生産ができません。
 山が荒れています。もの凄く荒れています。だから、崩れもします。自然にしていても、山は平らになろうとしますので、崩れます。しかし、手入れをしていない林はそれを助長します。また、山が荒れているために、動物も食べるものが無く里に出てきます。動物は食べるものが無いのです。お負けに、経済原理を机の上で考え、実行します。開発をするなと言っていません。聞いて、見て、必要な事には手を打たなければ、必ず自分に不幸の種を蒔くことになるのです。一般的では、経済的ではないけども、必要なことを行うのが政治だと思います。
 こういった状況をみて欲しいと、文化財調査も兼ねて、立場ある方に声を変えたりしていたのですが、興味が無いのか実現に至らないままです。そういったことも、今後、折を見て、興味のある方をお誘いして、企画できたらと思います。


◎いわゆる限界集落
前近代の時にあった、社会生活の中で、経済的な繫がりが循環し、山の暮らしは維持されてきました。しかし、その輪が途切れ、必要な事をしないまま、取り残されているのが山の暮らしです。「限界集落」とマスコミかインテリが名付けて、カテゴリー分けしていますが、それに対策を打たないために、消滅集落が進んでいます。「ポツンと一軒家」は、それで番組が成り立っているのだと思います。
 マスコミだけではなく、政治も媒体報道にばかり意識を向けている(自分で調べる事無く)のではないかと思います。本当に100年に一度、50年に一度の雨だけが原因かというと、そうでもない事が多くあると思います。何もできない山に、太陽光発電所が乱立し、それが災害に繋がっているのではないかと、囁かれるのも、背景にはそういう現実があります。

2019年8月22日木曜日

何と!米原正義先生がお使いの史料を入手。

ネットで「蔭凉軒日録」を購入しました。これは単なる購買行動で、説明にその事があった訳ではありません。ただ、鉛筆による線引き多数とありました。ですので、全巻揃いのわりには、お買い得な価格でした。

米原正義先生宛の音信ハガキ
数日後、それらが手元に届き、状態の確認とか、史料の具合を見ていました。確かに鉛筆の線引きが沢山あり、「随分研究熱心な人だな」と思って見ていました。付箋も沢山付いていました。パラパラとページをめくっていましたら、ハガキが挟んでありました。崩し字だったこともあって、あまりよく見ずに、ゴミ箱へ一旦捨てました。
 しかし、古そうなハガキで、ハガキ1枚が40円の時代です。何となく気になって、宛名を見ると「米原正義」とありました。あれ、見覚えのある名前。誰だったかな...。暫くして、戦国史研究の大先生である事を思い出し、裏に書いてある通信内容を読んでみました。確かに歴史史料に関する事が書かれています。同名別人ではありません。確かに國學院大學名誉教授の米原先生です。

こんなことがあるんですね。驚きました。それを知って、もう一度、史料を確認してみると、そりゃそんな先生の史料なんだから、最初の私の印象も当然ですね。
 どんな風に、研究されているのかと思い、線引きされている様子を見ていました。やっぱり私の方法と同じ、史料中から人物の行動を具に追い、それを抜き出して他の動きと照合する。これをどのくらい精緻に行うか。それしか、研究の方法は無いようです。少し嬉しかったです。私は誰に教えて貰った訳では無いのですが、手探りでやっていただけに、その方法があながち間違いでは無かったこと。

無数の線引があり、重要部分は赤線
最近、本当に文化財の破壊が激しく、また、保護や活用の最前線にいる人の深層認識(自治体の担当者や委員)に触れ、非常に杜撰(ずさん)であること。それを改善しようともしない現実を目の当たりしに、少々めげていたところもあった中での出来事です。
 それも、見つけたハガキの日付にとても近い日に史料を受け取り(同じ日だったらドラマチックだったけど...)、何だか暑中見舞いを受けたようなタイミングでした。

写真のように、もの凄く沢山の線引きがあるので、消しゴムで消しています。何年ぶりに消しゴムをこんなに使うだろう。消さずに、先生の情報を活用すればいいのですが、やっぱりこれ程に沢山あると、私の視点が定まらず、少し邪魔になりますので、消したいと思います。後で消せるように鉛筆で書かれているのも、そういう配慮だと思います。私は私の視点で、史料上の要素を追いたいと思います。

それにしても驚きました。本当に驚きました。もの凄く希なご縁だと思います。これからも私の研究を頑張ります。

2019年5月6日月曜日

新しい世、令和の新元号を戴くこと慶賀の至り。今年は皇紀2679年。

5月1日より、令和の新元号となり、各地で祝賀行事も行われたり、そういったムードになていますね。ただ、年々国家と国民の距離が開くような気もしているのですが、皇居の一般参賀は、たくさんの人が訪れているようですね。

若干、違うかもしれませんが、皇紀2600年を祝う国家行事(祝典)が、昭和15年(1940)にあり、その時の映像がありますので、ご紹介しておきます。外国からの招待参賀あって、その様子も収められています。
※皇紀:天皇の歴史で、西暦と相対する日本独自の紀年法。

凄い時代だったと思います。この人々の時代に、戦争は負けましたが、同じ人々が国家の再建を果たし、今があります。その時に必要な世の中の形ができます。この時は、近代の戦国時代とも言うべく、世界情勢でした。技術、経済力に優れる欧米列強から国を守るため、ある程度の軍国化は自然なことであり、その当時は、それについて何も特別な考えはありませんでした。日本でも、その他の国でも。
 第一次世界大戦の結果、近代戦争に負けるということの悲惨さを目の当たりにして、日本は身構えたところがあるかもしれません。当時も今と同じ、グローバル化、急速な技術の発展と国防をどのように調和させるのか、難しい舵取りを迫られていたことでしょう。国内の意見も纏めにくい時代にもなっていました。

歴史とは、その通りになぞるものでは無く、学ぶものですね。儀式や行事とは違いますから。バカな前例主義はやめて、思考の停止に気づきかないといけませんね。歴史から摂理や真理、あるべき姿を学び、実践しなければならないと思いますね。何の為にそれをするか、ちゃんと考えて行動しないといけませんね。



2019年4月29日月曜日

藤井寺市の伝統工芸品「小山団扇(こやまうちわ)」は、甲斐武田家臣山本勘介がこの地に伝えた!

藤の花を見物に、大阪府藤井寺市の紫雲山葛井寺を訪ねました。とてもきれいで、良かったです。桜もいいですが、他の花もいいですね。最近は、あまり藤の花も街中で見かけないので、少し遠くに出かけないといけません。

葛井寺(ふじいでら)の藤の花
葛井寺(ふじいでら)境内


 お寺も七世紀中頃に興りを持つ古刹で、永い歴史を持つ真言宗のお寺です。近隣には、1300年以上の歴史を持つ辛国神社や古墳群があり、一時代を築いた地域でもあります。街道の曲がりくねり、風景もとても良かったです。
 間もなく、令和の世を迎えるにあたって、意識はしていなかったものの、時間や時代の流れを少し感じることができたのは、とても良かったと思います。

 藤井寺市は、人口6万人ほどの都市ですが、有名なのはやはり、藤井寺球場のお陰でしょうね。今はもう取り壊されて、学校や住宅になっていますが、それもまた、一時代の文化を担った事物です。
 藤井寺市は、生まれて初めて訪ねたところですが、独特の雰囲気があって、それはそれで、文化の多様性や奥深さを感じました。「藤井寺まちかど情報館 ゆめぷらざ」で、色々教えていただきました。 とても勉強になりました。

そこで知ったのですが、藤井寺市の伝統工芸品として、小山団扇(こやまうちわ)というものがあるそうです。この工芸は何と、甲斐武田家臣の山本勘助がこの地に伝えたのだそうです。戦国時代の永禄年間、三好氏の動静を探るため、この地に潜伏。名を変え、隠れ蓑としての生業として団扇の製造販売をしたことから、藤井寺市域に定着したのだそうです。初耳でした。知りませんでした。その後、発展を遂げ、ブランド化すると、江戸幕府将軍や、皇室にも献上されるようになったのだそうです。
  詳しくは、以下のブログをご覧下さい。パンフレットの案内をテキスト化されています。また、観光協会のサイトも上げておきます。

ブログ:なにかいいこと「小山団扇」
https://blogs.yahoo.co.jp/tumumasi2001/38291104.html
藤井寺市観光協会公式サイト
http://www.fujiidera-kanko.info/index.html

また、貰ったパンフレットのイメージも以下に上げておきます。

小山団扇パンフの表面

小山団扇パンフの裏面

この日は、春らしい気候で、とても良い日帰り旅でした。大阪もまだまだ知らない事が多いですし、いいところがいっぱいあります。地域それぞれに魅力がありますね。


2019年4月28日日曜日

人間は二度死ぬ?平成から令和になる今、考えること。

平成の役割りを終え、新しい元号になろうとするその時の言葉として、これが相応しいかどうかはわかりませんが、ひとつの世が変わるその時を目前に控え、時間や人間などといった、半ば宗教的な思いを馳せることも、私の中に時々おきます。

とある漁港(泉佐野市)で見かけた光景も、何だかそういう思いに結びついてしまいます。水槽に、一疋だけの魚が、止まること無く泳ぎ続けていました。


ぐるぐる、ぐるぐる、泳ぎ続けています。たった一疋だけです。

見方を変えれば、これは元気な魚かもしれません。はたまた、この後、大量の仲間がこの水槽に入ってくるのかもしれません。兎に角これは、魚屋さんの水槽だという事は、一瞬忘れて下さいね。

しかし、この光景、私なりに感じたことがあります。一人だけでは生きて行けないし、未来も無い。その光景に見えたのです。

今は元気。だけど、その後です。

動物であれ、植物であれ、継ぐことの不必要は無いはずです。そう言う意味では、お墓は、とっても重要ですし、拠としての意味があったのです。
 しかし、現代日本社会のように、どことも繋がらない状態を続けていては、この水槽の魚のようになってしまうような気がします。今現在も繋がらない。未来を考えて繋がろうともしない。考えようともしない。限度も考えない。これは新しい概念の「自死」だとも思います。大きく見れば、文字通り、社会の自滅でしょうか。

人間は、肉体的に、物理的に滅びます。それが葬式で、それが一度目です。しかし、その後、その人が生きたことと、その行動。更には、それ以前の先祖の繫がりを、目に見えるカタチにしているのがお墓で、今を生きている自分と繫がりを持てる唯一の方策です。それが、現世の苦しみを緩和するための、様々な困難を乗り越える、一つのアイテムとなっているのです。
 しかし、今は、その墓さえも経済的困窮と文化的変質から、物体として残すことを望みません。人の、二度目の死を忌避する方策だったにもかかわらず...。

その「二度目の死」とは何かというと、その人に一番近い人々の心から、その人自体が消えてしまうと言うとです。その連続となれば、今生きているその人は、どこから来たのか、解らなくなるということです。

過去の日本の人々は、それを一番に恐れました。それが無くなる事は、過去も未来も現在も、全てを失うことになったからです。
 それを失えば、物体として人間(の身体)が、そこにあるだけです。それは、モノと同じ事です。戸籍などというものは、記録、データ上のものであって、物体としての証し、がなければ、この世での証明のしようがありません。それは、今も昔も同じ事です。そんな映画もありましたね。

自他の中で生きるから、「己(おのれ)」があります。自分は、人の心の中にあるのです。だから、人の心から自分が消えてしまえば、それが末期(まつご)になるわけです。それが、人間が二度死ぬという意味だと、私は理解しています。

そう言う意味では、新しい元号の「令和」は、昭和が消える、もう一つの新時代を迎えることになるのでしょうね。


2019年1月13日日曜日

文化とは何か - 摂津池田家滅亡から考える(文化形成・権威と権力) -

近年、世界中で移民や国のあり方に、大きな課題が投げかけられています。地域社会共通の認識といえる「文化」や国境の意味について、改めて考えるようになっています。
 技術の発展で、人やモノの移動、通信・金融の交換が容易になり、いわゆるグローバル化が進んだ結果です。

池田勝正が生きた室町時代末期、日本、近畿地域でもそれは起きていました。摂津池田家はその、いわばグローバル化の中で成長し、反映を築いたのですが、そのグローバル化によって、人の心を繋ぐ基本単位である「家」や組織の文化が維持できなくなり、瓦解したとも言えます。

「文化」とは、日常的によく耳にしますが、それは一体何でしょう?

人間の意識には、この文化が非常に重要であるはずですが、それについて、日頃あまり考えを深める事は無いように思います。島国であり、多分、ほぼ単一民族国家であるからでもあります。

この文化について、滅びてしまった摂津池田家を通して、考えてみたいと思います。先人は今、私たちが苦しんでいる状況を既に経験しています。近年は、歴史学に「相似性」概念を持ち込む人もあり、私はそれに影響を受けています。
 同じ日本の中で、前例としての事実が歴史であり、経緯です。要因が同じである場合が多いです。一方で、世界に目を向けた時、日本の社会経験が、世界よりも先である場合もあります。例えば、宗教と政治の関わり方とか、国民皆保険とか、教育、医療などです。

ちょっと脱線しました。話しを元に戻します。

本題の前に、「文化」についての定義をはっきりさせておかなければなりません。
 「文化」を辞書で引いてみると、
  1. 文明が進んで、生活が便利になる事。
  2. 真理を求め、常に進歩・向上をはかる、人間の精神的活動(によって作り出されたもの)。
と書かれています。 ※新明解国語辞典第三版/1959.9..20、三省堂発行
 更に、「文明」が分からず、続いて辞書を引いてみると、
  • 発明・発見の積み重ねにより、生活上の便宜が増す事。
と書かれていました。
 そのわからない部分を足して文化を説明するための文章を勝手に再構成すると、
  • 発明・発見の積み重ねにより、生活上の便宜が増し、生活が便利になる事
という事になり、現代の状況(生活)を理解する事ができます。

しかし、文化の項目の(2)について考えると、疑問が残ります。ある意味そうだと思いますが、(2)の意味を「文化」という言葉から、日常的にその性質を感じているでしょうか?

さて、それらの説明で、私の目の前にある池田固有の歴史的遺物(文化財、埋蔵文化財も含む)を理解ができるかどうか、また、説明がつくかどうか。大変な疑問を感じていました。
 (1)の意味で考えれば、何の格付けもされていない歴史的遺物というのは、古いだけのやっかいものでしかありません。これはごく一般的な認識です。しかし私は、もう一つの意味である(2)の事について、長い間考えていました。

私は「文化」というのは、言い換えれば「共有」ではないかと感じています。私の中では「文化」を「共有」と言い換えることによって、(1)と(2)のどちらも説明がつくような気がしています。
  進化の過程で、社会が共有してきたもの。それがそこに「文化財」として残っているという事は、先人を含めた私達が、歩んできた軌跡を再認識する事であり、また今後の応用(社会や地域)の元であると、説明ができると思います。
 そう意味で、曖昧な「文化(財)」という言葉を、あえて「歴史的文化財」「芸術的文化財」ときちんと区別して考える事で、しっかりとした意識の基礎を作る事ができるのではないかと考えています。
 
さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ本題です。

冒頭でも触れましたが、文化とは、私達が平和で穏やかに生活するにおいて、非常に大切な基礎になりますが、その重要性に気付く事はあまりありません。文化とは「共有」であり、生きる上で全ての根幹を成す「社会風土」でもあります。
 日本は長い間、近代社会となってもなお、つい最近まで「家制度」がその中心となり、個人が、一族や血縁を元に結束し、互いを守っていました。
 戦国時代もそうです。その名の通り、戦国の世の生活ですので、生死にかかわる保護を「家制度」を中心に求めていました。それについて、摂津池田氏を取り上げて、文化を考えてみたいと思います。もちろん、今は今の文化がある事は良く理解した上で進めます。

摂津池田氏は本姓は藤原で、地名を名乗るようになって、「池田」と称していました。応仁の乱の頃、「充正(みつまさ)」の代で、大いに発展し、中興と考えられています。
 池田氏は、その後200年程に渡り成長を続けましたが、勝正の代が独自権力体としては最後の当主です。
 私は勝正を中心に前後四代程を見ていますが、特に池田氏が飛躍的に発展したのは、いち早く官僚制を採り入れたことによるものです。
 意思決定と実行を別々にしたため、物事の進行が非常に速やかになって、周辺の同規模の国人衆から抜きん出た成長を遂げます。また、その成長過程で人材不足ともなり、必ずしも血縁を伴わない有能な人材を採用するようになります。その中に、荒木家や中川家などがあります。
 また、その本拠地の立地も5本の国家的主要道を通し、他にも様々な街道が扇の要のように領内で交差していたため、人や物が集まりやすい環境にありました。

そういった環境もあって、摂津国内では最大級の国人に成長し、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの日記には「要すれば軍備の調った一万の軍隊を用意できる。」とも紹介される程に有名で、大きな勢力でした。

しかし、そんな池田氏も滅んでしまいます。それは何であったか。

急成長したために「家中文化」が崩壊したためだと考えています。
 これはもう少し詳しく説明しないといけませんが、価値を「共有」するための統治の仕組み(装置)を作り出せず、感覚・感情で物事を判断したためだと考えています。必要な組織化、権力の整理を行えず、時代の要請(意思決定)に応えることができずに、対立を経て、家が滅んでしましました。
 また、その過程での決定的な悪要素は、当初は、当主(惣領)の補佐役としての家老(老人(おとな):池田四人衆)が、代を経るにつれて、独自権力化し、当主の選定にあたって対立する程になってしまいます。いわば、二重権力状態でした。
 私は勝正という人物は、池田四人衆に擁立された惣領であり、権力はどちらかというと、四人衆側の意向が強く働く実情であったと考えています。傀儡とまでは言えないですが、勝正の代になると、当主を補佐する役目が変化していたと考えられます。
 最終的には、四人衆と勝正も対立してしまい、一時的に当主を置かない時代も出現します。それ程に四人衆の権力が強かったと言えます。
 しかし、それもうまく行かず、四人衆自体が分裂し、それを以て池田氏は滅びてしまいました。この時、四人衆の中に荒木村重が居り、分裂の原因は池田一族の血と、よそ者の区別が決定的になったものと考えられます。運命共同体ともいえる組織の、文化を共有する装置が無かったための悲劇であると考えています。

翻って、今の私たちも、文化というものが理解されず、作ろうとしなければ、このようにあらゆる場面で、相違・対立が起き、意思統一ができなくなります。
 家庭、地域、府県、国など、単位が色々ありますが、文化があるからこその、その善悪の基準ができ、その内側で理解し合ってまとまります。意思形成の共有ができ、平和で穏やかに暮らせ、経済活動もできるのです。

今、移民の問題が世界的に深刻化していますが、文化そのものを理解することをしてこなかったためだろうと思います。地域文化を保持する工夫を打ち出さず、思考の停止状態であり、今、近代社会の概念と価値観を永続させるための分岐点に立っていると、非常に関心を持っています。価値の共有ができず、社会がバラバラになった時、本当に弱い存在である個人はどう生きるでしょう?
 
その意味で、文化財を大切にしない行為は、心の現れだと考えています。今や自治体(行政)そのものが、率先して歴史的文化財を蔑ろにしている状況です。考えずに、ただ見ているだけです。自治体や行政の意味さえも、もう衰退しつつあります。就職先のひとつみたいなものです。統治力(ガバナンス)が、低下すればどうなるか。無法地帯となります。法律だけで全て統治はできないのです。それは文化による「善悪の判断」が、機能しているから社会が支えられているのです。
 個人的には、建国以来、また、太平洋戦争敗戦直後よりも深刻であると感じている程です。これから先は、これまでとは全く違います。

国家観の欠如が、これまでに無い、事件と事故を起こしています。これまでには考えられなかったことが頻発しています。文化はゆっくり壊れています。この先は、更に壊れるでしょう。

文化は簡単に壊れます。組織も簡単に壊れます。例えるなら、胴上げの時、それぞれが役割りを忘れて、手を引っ込めるだけです。一度壊れてしまえば、二度と再生できません。


摂津池田氏の組織変化や権力構造の変化については、詳しく知りたい方は、こちらの資料もご活用下さい。
※用紙サイズはA3ですので、DLいただき、データをコンビニのコピー機で出力しますと、とてもきれいに印刷できます。

【追伸】
先に述べた、国語辞典からの言葉で文化の意味を考えた時の(2)の項目について、その意味で「移民」を考えるなら、簡単に自分の国を棄て、国作りの根本である「民族自決」も理解できず、愛国心で以て国を支えるつもりも無く、自分の都合で住む場所を変える性質があるなら、地域「文化」とは無縁であり、共有することもできないでしょう。


【オススメ動画】
タムボムニックTV「今 江藤淳みたいな日本人が必要!」2019/05/06 に公開
ニックさんが、運営するユーチューブチャンネルです。タイトルにはありませんが、内容は、文化についてです。日本に住む外国人から見た日本の文化とその先行について、感想を述べてくれています。
 大変簡潔に述べられていて、大変参考になります。是非、ご覧下さい。


2016年6月14日火曜日

摂津池田とも接点があった加賀国豪商銭屋五兵衛の活動

栄根寺跡にある銭屋五兵衛の顕彰碑
川西市寺畑にある栄根寺廃寺遺跡史跡公園に、加賀国宮腰の豪商銭屋五兵衛の顕彰碑があります。この栄根寺跡には、銭屋五兵衛の事を知りたくて訪ねたのでは無く、荒木村重の本拠地が、この近くの栄根村でその周辺を治めていたという伝承があって、その立地を見ようと訪ねたのでした。ここは、以前にも何度か訪ねた事があったのですが、今年のゴールデンウイークに状況が調ったので、再び訪ねてみました。

荒木村重の事は、別のコラムで詳しくお伝えしたいと思います。色々と今回も感じる事がありました。やはり、現地を訪ねる事は大事だなと思いました。

ちょっと栄根寺についてご紹介します。その縁起によれば、753年(天平勝宝5)聖武天皇の夢想により行基に命じて薬師堂と薬師如来を作らせたのがはじまりと伝わり、その後、兵火にかかるなどして廃れてしまい、江戸時代には、池田の西光寺から留守の僧を置く程度に縮小していました。
 近年まで寺跡に残された薬師堂には、平安時代前期の様風を伝える硬木一材の薬師如来座像がありましたが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震によりこの薬師堂も壊滅しました。しかし、薬師如来ほか19体は損害を免れ、市の文化財資料館に保管されています。
 震災後からの発掘調査により、栄根寺廃寺の境内から白鳳・奈良時代の瓦等が多数出土しており、奈良時代の建立が確認されました。
 詳しくは、「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(池田氏の支配及び軍事に関わる周辺の村々)」の「栄根村と栄根寺跡(川西市栄根及び寺畑)」項目をご覧下さい。
 
この栄根寺は、池田とも以下の要素で関係(接点)を持ちます。
  • 栄根寺は、1631年(寛永8)から同じ浄土宗の西光寺(現池田市)の支配をうけ、留守僧を置いた。
  • 栄根寺は荒木村重系の荒木家支配地域にあった。
  • 西光寺は天文15年(1546)に池田に再建されたとの伝承を持つ。
  • 西光寺は、江戸時代になって池田に戻ってきた、荒木村重に関係する荒木家など、元池田武士であった家を檀家に持つ。
  • 在郷集落であり、商都でもあった池田の中心地に西光寺があった。
  • 栄根寺あたりの集落からすると、池田郷との経済的・文化的結びつきが強い。
  • 近世には同じ浄土宗であったらしいが、それ以前からの宗派的繋がりがあるか。
  • 池田にも来訪した儒学者広瀬旭荘(広瀬淡窓の弟)と銭屋五兵衛との交流がある。旭荘は池田で没する。
    ※参考:幕末の池田関係の図録(広瀬旭荘)
そんな栄根寺跡公園に、銭屋五兵衛の碑があることも知っていたのですが、それまでは特に調べる事も無く過ごしましたが、今回訪ねるにあたって、ちょっと気になったので、調べてみました。中でも、この本一冊を読めば、銭屋五兵衛の全てが解ります。五兵衛に興味を持った方は、一読をお勧めします。

表紙:銭屋五兵衛と北前船の時代
書名:銭屋五兵衛と北前船の時代
著者:木越 隆三(きごし りゅうぞう)
発行:2001年11月30日 第1版第1刷
発行所:北国新聞社

この銭屋の商売は、材木商を元に海運業にも手を拡げて、大変発展しますが、船に乗せる荷物もうまく扱う、多角経営のビジネススタイルだったようです。その中に、池田で集散される池田炭の取扱も一覧に見られるようです。
 私自身が銭屋五兵衛の事を調べていないので、直接的に資料に行き当たっていないのですが、手広く商品を扱っているようなので、やはり池田の主要生産品である池田酒などもあったのではないかと思います。
 銭五と西光寺や池田との関わりは、池田市の広報誌の裏表紙にある企画「わがまち歴史散歩 -市史編纂だより-」のNo.20(平成18年9月)「銭屋五兵衛の碑と池田の西光寺」に紹介されています。ここから、少し引用させていただき、詳しくは、出典をご覧下さい。
※参考:池田市公式サイト わがまち歴史散歩 「市史編纂だより」

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【三代にわたる努力】
遠地の豪商の碑がこの地に建てられた経緯を、明治41年(1908)の新聞記事では次のように紹介しています。
 池田の西光寺の住職は能登出身で、父の代から懇意であった銭屋五兵衛の死を伝え聞き、功績を伝えるべく、西光寺の住職預かりとなっていた栄根寺の境内に彼の記念碑を建てようと思い立ちます。しかし、経済的な面から、意志を継いだ次の住職の代になっても、建立は実現しませんでした。
 当初から3代目の住職のとき、ようやく転機が訪れます。阪鶴鉄道(今のJR宝塚線)の敷設による一部境内地の売却資金を元手に、栄根寺境内の整地まで進めます。
(後略)
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また、時代は違いますが、もの凄く意外なところで銭五と池田の接点があります。太平洋戦争後、池田市は世界の都市と友好関係を結び、オーストラリアのタスマニア州ローンセストン市とも結んでいます。同州は、タスマニア島にある街なのですが、この島に「かしうぜにやごへいりようち(加州銭屋五兵衛領地)」と刻まれた石があり、これについては『 幻の石碑 』(遠藤雅子氏著)という本で詳しく検証されているようです。驚きです。お互いにそれを知っていて、友好都市提携をした訳では無いと思うのですが、どこまでご縁があるのやら...。

この銭五について、どんな人物だったのか、詳しくは『銭屋五兵衛と北前船の時代』をお読みいただければと思いますが、そのダイジェストとして、同書の「はじめに」を少し紹介します。

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【伝説の銭五】
銭屋五兵衛ほど毀誉褒貶の著しい人物はいない。銭屋五兵衛の晩年は、金沢および近郊の民衆から「藩権力と結んだ政商」として批判された。銭五(銭屋五兵衛の略称)の「成功」は民衆から憎まれ、抜荷・海外密貿易の噂まで立てられ、飢饉になると騒動の標的にされた。嘉永5年(1852)の銭屋疑獄事件があれほどの大事件に発展したのも、実は当時の世評が要因であった。
 ところが、明治時代になると、銭屋五兵衛の評価は一変する。徳川幕府が墨守した鎖国体制の犠牲者として慰霊され、また検証された。つまり、銭五が密かに鎖国の国禁を犯し海外密貿易を行ったらしいという、不確かな伝承を素材に今度は賞賛した。銭五は徳川幕府の悪政である鎖国に反抗し、海外貿易を率先した偉人であり、時代遅れの加賀藩の保守政治の犠牲になったと、その悲劇性を誇張した。そして、銭五処罰の本当の理由は、河北潟への投毒容疑では無く密貿易だったと、銭屋疑獄事件の本質がすり替えられた。銭屋一族に投毒の疑いをもって罵声を浴びせた民衆は、やがて、銭屋処罰の理由は、藩首脳が密貿易の発覚を恐れての事だと合理化した。こうして明治のジャーナリズムと民衆は、銭五を海外貿易の先駆者として讃えることに熱中した。
 明治20年代は、国粋主義が台頭した時代であり、その傾向を帯びた偉人伝が多く刊行された。銭五伝も、その頃数多く刊行され、銭五の名前は全国に知られるようになった。なかでも、石川県士族の岩田以貞が、明治20年(1887)3月に東京尚書堂出版から刊行した『商人立志寒梅遺薫 -銭屋五兵衛伝-』は、数ある銭五伝の元祖といってよいもので、以後の銭五伝は、多かれ少なかれ、本書に影響された。(後略)。
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銭五の生涯は、現在にも通じる事で、決して過ぎたことではありません。現代を生きる私たちにも、これを知ることで導きになることが多くあります。
 また、この著者である木越隆三氏は、歴史の専門家でもあり、この著作を記すにあったって、歴史調査の心構えも述べられていて、この調査全体の姿勢も知ることがでます。「あとがき」を引用します。
 
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たった一人の人物伝を書くため、彼を取り巻くどれだけの人物を知らねばならぬのか、その手間と苦労を思い知った。銭屋五兵衛を総合的に理解するには、家族のほか、奥村栄実ら藩の重臣たち、(加賀国)宮越の商人集団や木谷藤右衛門など影響を受けた北前船主、娘の嫁ぎ先や息子達が作った人脈、青森の滝屋善五郎をはじめとする県外各地の取引商人など、あげたらきりがない。
 彼の生きた時代の制度・習慣・常識なども理解しなければならない。五兵衛の日記と古文書を頼りに書き始めた「銭五伝」だが、随所で暗礁に乗り上げた。文献資料でわかることは多かったが、肝心な所がわからず困った。しかし、古文書の言葉の一字一句の背景を考証する事で、少しづつ解きほぐれてきた。これが古文書を読む楽しみだ。(後略)。
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本を読み進め、この言葉に行き着いた時、なんだか救われた気持ちにもなりました。私も池田勝正の事について、永年調べていますが、全く同じ状況です。レベルは違いますが、専門家でもこのようにされているのですから、私のやっている事も間違いがなかったし、それしかないのだという摂理をも知ったように思いました。「その方法しかない。だから、できるところまでやるしかない。」と、そう感じました。
 いずれ、池田勝正の事も本にしたいと思っていたので、この本を読んで、木越さんのようでありたいと思うようになりました。

このように、人物を知る叢書としての優れた著作です。私はこれを主に仕事の移動中に読んだ本だったのですが、車中で夢中になって、乗り過ごしそうになる程でした。すばらしい本でした。銭屋五兵衛の事を知りたい方は、是非同書をお読み下さい。


2014年1月6日月曜日

軍師官兵衛、見ませんでした。

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」が始まりました。ね。私は今年も見ません(でした)。大河ドラマって、何のために作っているのかもう解りません。内容を見ても、1年もかけてやる必要があると思えません。

番組宣伝企画を放送開始前に色々やっていて、見ていたのですが、 その合間に流れる映像を見ました。戦国時代なら、現役の武士で頭を剃っていない者は居ません。剃っていなければ、武士ではありません。特に被官人なら尚更です。渡辺謙の時代とは違うのです。同じ手法が通じるとも思えません。
※正月に仲代達矢とか三船とか、昔の時代劇を見ていただけに、余計にそう感じてしまうのでしょうけど。

私は今年も淡々と歴史を見つめたいと思います。そういう方針で、今年も皆様にご紹介したいと思います。直ぐそこにある歴史。私たちが住む、同じ場所であった歴史を知り、ご紹介できればと思います。

今年も皆様のお役に立つブログでありたいと願っています。m(_ _ )m

追伸:この出来事はある意味、反面教師ですね。このブログも皆さんの思いを大事にする必要があるのかもしれませんね。最近のテレビ番組制作者のように、私も完全に思い込みでやってますから...。


2012年12月13日木曜日

戦国時代も今現在も個人と社会の関係は、何も変わりません。その中心は人間です。

趣味で室町時代後期(戦国時代)の人物研究をやっていますが、ひとりの人物を通して、様々な事が見えてきます。個人と社会の関係は、時代が移っても何も変わりません。使う道具が違うだけで、その中心は人間です。そして摂理には絶対に逆らえません。

とても興味深い事をいっていた学者がありました。「戦国時代とは武士の堕落」であると。

際限なく権利と利益に拘わり、それを得て、そして保持するために殺し合うのは、正に戦国時代とは、人間として、社会として、戒めるべき一線を越えてしまった苦しみだったように思えます。力で欲望を満たし、また、知恵が欲望を支えるという間違った精神をいつまでも断ち切る事が出来なかった。それが、初期の武士社会だったように感じます。
 戦国時代を経て、近世江戸時代に向かう中で、権利の整理を行い、殺し合わない仕組みを考え出した、政治の歴史は大変すばらしいと思います。

一方でそれは「支配」ともいうのかもしれません。しかし、個人的には奴隷的な感覚を含む残酷なイメージの支配とはちょっと違うのではないかと考えています。徳川家康から3代かかって成し遂げた平和な世の中は、独断的な支配の「罪」よりは「功」の方が、日本社会にとって大きかったと思います。

さてしかし、経済や金融にのみ目を奪われ、本当の自国の「済民」を考える事ができない現代社会は、戦争(暴力)や人権を踏みにじる事にも肯定的に捉える方向に進みつつあるように思えます。銭の光が道理を曇らせる事の怖さも、より意識しなければ、その感覚は退化してしまいます。
 それを問題とも思わず、いわずもがな咎めもせず、全く先進国としての英知すらも忘れてしまって、ただ生活しているだけの国民になってしまっていいのでしょうか?そこから何が生まれるのでしょうか?
※まあ、自分だけが戒めても、それが通用しない状況に陥る事もありますので、常に備え、バランスを保つ事は大切だと思います。暴力に巻き込まれ、自分が被害を受ける恐れがある時は、対処できるだけの備えも当然ながら必要です。

自治とは何か、国とは何か。人間とは何か。社会とは何か。世界とは何か。何の為にそれを手に入れたのか。
 万事、銭だけで解決する事ができるのかどうか。将来像として、どのような道を歩むべきなのかを政治家は、しっかりと示すべきだと思います。企業も同じです。

結局、素晴らしい道具で殺し合い、奪い合い、罵る社会は、500年経った今でも同じになってしまうのでしょうか? 法治から人治の社会に逆戻りになっているのかもしれません。

2012年9月24日月曜日

組織と個人を結びつけ、維持する事

組織と個人を結びつけ、維持する事について、個人的に関心を持っています。それを維持し続ける要素とその中心たる核。また、それを維持し、発展させて行く要素とは何でしょうか?

これは、現在にも通じるテーマです。

池田勝正が生きた時代の日本には「家」制度があり、その中心は血族の結合体です。また、運命共同体としての「村」という社会。そして権力。

しかし、それらは当たり前のように、何もせず存在した訳ではありません。もちろんルールも必要ですし、持続活動のための利益も必要です。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず...。」有名な一節もありますね。これは、人間社会の不滅の真理のように思います。

近江守護家の六角氏は、あれほどの権勢を誇ったにも関わらず、永禄11年秋、あっけなく崩れ去りました。三好長慶亡き後の三好家、同じく織田信長...。もちろん池田勝正亡き後の池田家、それに続いた荒木村重...。
※もちろん、滅びていない家もありますよね。滅びたところばかり見てもだめなのですが、滅びる時にその組織の真理と核が現れるように思います。

その中心は人間です。その人間の何がそうさせるのか。

家庭も組織も地域も国も、集まって生活する為には、何が必要なのでしょうか?それを支えるのは何でしょうか?個人が持つ欲望でしょうか?

織田信長などの書状等を見ていますと、統率力のある人物を捕らえたり、処刑したりする事(やみくもな殺害という意味では無く)に注意を払っています。 もちろん、良くも悪くも能力のある人物は、自分の側でも注意を払っています。

やはり、先導者というか主導者となる人物(人材)が、組織を永続せしめる「核」なのではないかと最近、自分の経験などからも感じるようになりました。
※当たり前の事ですね。遅ればせながら、やっと自分の頭で理解できるようになりました。

「烏合の衆」という言葉がありますが、沢山の人間がいても、そこに「意思」がなければ何の約にも立たず、何の生産もできません。

それからまた、その先導者とか主導者を、どうやって過ぎ行く時間の中で「適正」を判断するのか。それは誰が行なうのか...。人間の寿命を越え、何代にも渡って組織を維持し続けるための難題をどうやって克服していくのか...。

キリがないのですが、組織と個人、そしてそこにできる社会と権力について、大変興味を持っています。そんな事も、勝正の研究の中から読み取れたらいいな、と考えています。

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)

 

2012年9月14日金曜日

千年以上前のナビ

仕事でちょこちょこと京都にも行くのですが、交差点を渡る時にふと思いました。

「ナビだ」と。

東西南北を把握し、通りと筋の名前がわかれば、いつでも自分の位置が把握できます。学校でも習った碁盤の目の都市づくりですね。

こんな仕組みが千年以上前からあったとは、凄いな〜、と、ふと感じました。学生時代、旭川に住んでいたのですが、ここも碁盤目の町づくりです。札幌もです。住んでいる人も外から来た人も直ぐに把握できて便利だったのですが、その事を忘れていました。

そして自分の頭の中は直ぐに勝正の時代にタイムスリップします。

代々の当主もそうですが、池田勝正は摂津守護職を任された人物でもあり、それらの当主と同じく勝正も京都に屋敷を持っていたと考えられます。 当時の人々も、ずっと、この「碁盤の目」システムを享受してきたわけです。

京都には、今もその概念が残っていて、町づくりの中心になっています。当たり前〜、すぎる事なのかもしれませんが、何だか妙〜に歴史を実感しました。

それでは感動の写真をどうぞ。


 
摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)

 

2011年5月24日火曜日

金魚の稚魚の続報

今年の1月下旬に生まれた金魚の稚魚の続報です。

あれから、4ヶ月。20疋程が生き残り、元気に泳いでいます。けっこう、個体差があって、小さなものは1センチ程、大きなものは金魚すくいの金魚くらいの大きさになっています。色もバラバラで、フナの様な色のもの、黄色い色、透明のような色と色々あって、それぞれ時間が経つと変化していきます。赤になっている金魚はまだですね。
 この調子でいくと、先に黄色になり、後から赤い色が出てくるようですが、始めての事なので興味津々で観察しています。
 やっぱり、餌をよく食べるヤツは早く大きくなりますね。それから、小さい間は、季節の変わり目で病気になりやすく、よく観察して、おかしいなと思ったら、薬の用意をしておいた方が良いです。1疋病気になると、2〜3日ですぐに広がります。
 よくかかるのは、ヒレに白い点がつく病気で、放っておくと全身が真っ白になってエラもやられてしまい、呼吸ができなくなって死んでしまいます。
 でも適切に薬を使えば、治ります。ペットショップで色々と相談すると適切な処置も教えてもらえますので、しっかり観察して、相談してみて下さい。
 私の場合、もうまともに泳ぐ事もできず、転覆して、体は真っ白の瀕死の状態でしたが、薬でもとに戻りました。今もその金魚は元気に泳いでいます。

 しっかり観察して、それなりに気を使ってあげると、金魚を飼う事は難しく有りません。
 自然環境では、金魚たちは自由に泳いで一番良い環境を探して生きています。人間の都合で金魚たちの生きる環境を固定してしまうのですから、彼らの一番よい環境を維持してあげる事を基本にしていれば、良いのだと思います。特に、清潔にしてあげる事には気を使っています。

 これから、夏に向かってまた、成長するようですので、楽しみです。また、レポートします。

2011年1月22日土曜日

金魚の稚魚が産まれました

個人的な話しですいません。←このブログの全部が個人的じゃ!

部屋で金魚を育てようと思って去年の春、ホームセンターで金魚すくいの金魚(小赤の名前で出ています)を買いました。全くの素人だったので、何もわからず心配ばかりしながら、育てました。チカラ及ばず何匹かは死んでしまったのですが、今、4匹が元亀に、あ!違う、元気に泳いでいます。12〜3センチくらいの大きさになっています。

 最初は、七人の侍にしようと思って、7匹買って来たのですが、寒さにやられたり、病気などで、残念な事になったのですが、最初のメンバーが生き残ってくれいています。金魚も飼ってみると色々と、知らなかった事が見えて来て、人懐っこくてかわいいものです。

 金魚ってどのくらいで大人になるのかがわからず、いつものようにしていたら、卵を産むようになっていて、ある日、水槽を見てビックリです。「た、卵産んでる!」って大騒ぎです。
 その後、何度も産卵したのですが、うまく行かず、諦めていたのですが、今回は卵ごと小さな水槽にいれ、温度を少し高め(26度)にして、そっとしておいたら、何と、3日目くらいに卵から稚魚になっていました。50疋では利かない数です。

 今はとりあえず、水草を入れ、流木を入れて、エアーだけを動かして様子を見ています。透明の稚魚が思い思いに泳いでいます。かわいいです。
 年の初めから何だかこれは幸先が良い感じがしますね。どのくらいが、無事に成長してくれるかはわかりませんが、ガンバリマス。

2009年7月22日水曜日

今後は少しずつ記事を増やします

ブログを使って池田勝正の情報を公開してみようと思います。
呉江舎のホームページにも勝正のコーナーはあるのですが、夫々の利点を活かして、
ご紹介していきたいと思います。