将軍義昭を中心とする幕府は、信用できるに足る実力があるのかどうか、京都周辺の大名や権門など、諸勢力が注意深く見、観察していました。
一方で、その幕府に敵対する勢力、三好三人衆などを中心とする反幕府勢力の動きも侮れないものがありました。諸勢力は家名を保つために、どちらに加担すべきかを非常に慎重に見極めていました。
その事は織田信長もよくわかっていたはずで、その行動結果は信用されるに足る安定した政権を作るために腐心した歴史だったとも思えます。
さて、その信長の、慎重で確実な方法を選ぶ性格が裏目に出た失敗は、元亀元年5月頃の、畿内など諸勢力への「人質差し出し」命令でした。先ず、その関連史料をご紹介します。
※大日本史料10-4-P556、織田信長文書の研究-上-P409、信長公記(新人物往来社刊)P102
-史料(1)-------------------------------------
『織田信長文書の研究』織田信長が、吉田(毛利家一族)へ宛てた、7月10日付けの音信:
(前略)、一、在洛中畿内の面々人質相取られ、天下に意儀無き趣き候条、(後略)。
『信長公記』越前手筒山攻め落とさるるの事条:
(前略)。4月晦日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛尉光秀、丹羽五郎左衛門尉長秀両人、若狭国へ遣わされ、武藤上野介友益人質執り候て参るべきの旨、御諚候。武藤友益母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構え破却させ。5月6日(中略)。さて、京表面々等の人質執り固め、公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるに於いては、時日を移さず御入洛あるべきの旨、仰せ上げらる。(後略)。
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史料では、そのはっきりとした時期は判らないものの、信長が4月30日に京都へ戻ってから、翌月9日に京都を発つまでに実行されたものと思われます。
他方、五畿内やその西側の地域では、三好三人衆方への繋がりを断ち切れず、不穏な動きも見られていました。
例えば、同年2月の時点で堺商人今井宗久は、幕府衆(将軍義昭の側近)上野秀政・一色藤長・玄浄院・金山信貞・河内国高屋・和田惟政・朝山日乗・明智光秀・野村越中守・御局様・木下秀吉・森可成・松永久秀・畠山高政・佐久間信盛・柴田勝家・中川重政・蜂屋頼隆・丹羽長秀・金森長近・河尻秀隆・武井夕庵・一角好斎・御長・雲松軒・布施式部丞へ宛てて、三好三人衆方の動きを報告しています。
※堺市史5(続編)P927
-史料(2)-------------------------------------
急度啓上せしめ候。淡路国へ早舟押し申し候処、一昨日辰刻(午前7時〜9時)、阿波国衆不慮雑説候て、引き退かれ候。然る処、安宅神太郎信康手の衆、相慕われ候処、阿波国衆手負い死人200計り之在りの由候。敵方時刻相見られ申し候。恐々謹言。
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それから、越前国敦賀から京都へ戻り、京都周辺の動向を見ていた信長は、河内守護畠山左衛門督昭高へ音信し、5月4日付けで、敵への対応について、指示を与えています。
※寝屋川市史3(古代・中世史料)P950
-史料(3)-------------------------------------
其の表の雑説の儀、未だ休み之由候。治定の所実らず候歟。紀伊国・同根来寺馳走申しの旨然るべく候。旧(もと)から申し如く候。信長毛頭疎意無き於候。御手前の儀、堅固に仰せ付けられるべく事肝要候。恐々謹言。
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そのような不安定な状況でもあり、信長は来る朝倉・浅井方との決戦を目前にして、主立った勢力から人質を取りました。それには当然、池田家も含まれていたと考えられます。
そして5月中旬、越前国朝倉義景は、近江国へ向け、20,000の軍勢を出陣させ、これに呼応して同じ頃、浪人中の近江守護六角氏は、5月12日付けで近江国長命寺へ宛てて禁制を下す等して、活動を活発化させています。
※戦国遺文(佐々木六角氏編)P315
-史料(4)-------------------------------------
一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事、一、放火並びに竹木伐採、田畠苅り執り事、一、兵糧米・矢銭等相懸け一切非分課役事、右条々、堅く停止され了ぬ。若し違犯輩は厳科に処されるべく者也。仍て下知件の如し。
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近江国での決戦の機運は高まり、反幕府方諸勢力は申し合わせた動きを見せます。信長はその最中に六角方と和睦の交渉を行いましたが、5月19日に破談となり、鈴鹿山脈の千草越えで岐阜への帰途につきました。その途上、信長は鉄砲で狙撃されましたが、危うく難を逃れました。
一方、京都とその周辺の幕府衆も作戦通りの準備を急いでいました。そして朝倉氏は近江国へ向けて出陣しています。浅井氏領で合戦が行われるとの目算を立て、概ね双方は手筈を整えていたのでしょう。
この軍事衝突は、浅井氏への報復を目指しながらも先ず、東海道の自由をどちらが取るか。その目的しかありません。
この頃、近江国の北半分は浅井氏が優勢で、その浅井氏領内を攻めるには、東西両方から攻める必要がありました。東側は信長を中心とする、美濃・尾張・三河・伊勢国を中心とする勢力で構成されていました。
そしてもう一方の西側は、幕府勢が高島郡に進む予定で、それは後巻きを兼ねて、朝倉・浅井方を攻める事になっていたようです。これに将軍も出陣する予定で、池田衆が再びそれに供奉する予定だったようです。その関連史料をいくつかご紹介します。
信長が高島郡への参陣について、若狭守護武田氏一族同名彦五郎信方へ、6月6日付けで音信しています。
※福井県史(資料編2)P722
-史料(5)-------------------------------------
前置き部分:
委曲嶋田但馬守秀満に相含め候。定め申し届けるべく候。
本文:
来る28日(6月28日)江北(近江国北郡)へ至り行及ぶべく候。其れに就き高嶋郡御動座為すべくの旨候。此の時候条参陣遂げられ、御馳走肝要候。恐々謹言。
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また、その近江国高島郡への出陣について、将軍義昭が、近江国人佐々木(田中)下野守へ、6月17日付けで御内書を下しています。
※大日本史料10-4-P526
-史料(6)-------------------------------------
今度其の表に至り進発せしめ候。然らば此の節軍忠抽ぜられるべく也。近年不(無)沙汰の段、是非無き次第に候。先々如く其の覚悟すべく事肝要也。奉公浅深に依り、恩賞有るべく候。委細御走衆三上兵庫頭輝房申し含め差し下し候。尚細川兵部大輔藤孝申すべく也。
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更に、同日付けで同じ宛て所への奉書を幕府奉公衆細川兵部大輔藤孝が下しています。
※大日本史料10-4-P526
-史料(7)-------------------------------------
本文:
浅井御退治為、其の国へ至り御動座成られ候。以前の御奉公の筋目に軍忠抽ぜられるべく旨、御内書成られ候。御恩賞の儀は、随分馳走せしむべく候。委しくは、御走衆三上兵庫頭輝房申されるべく候。恐々謹言。
注釈:
是れ如く佐々木・京極・朽木を始め、三上兵庫頭軍勢を催し、御進発有るべくの処、近江国の軍散し■■は、其の事止む。
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この準備の最中、頼りにしていた摂津守護池田家中で内訌が発生します。6月18日の事です。
これについて幕府は、直ちに反応・対応し、細川藤孝は、畿内御家人中へ宛てて音信します。この日付は、6月18日です。
※大日本史料10-4-P525
-史料(8)-------------------------------------
今18日御動座の旨、先度仰せ出されと雖も候。調略の子細有るに依り、来る20日に御進発候。其れ以前参陣肝要の由仰せ出され候。御油断有るべからず候。恐々謹言。
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奉書では、20日に京都を発つから、それ以前に京都に入れと言っています。28日に決戦を行うには、これがギリギリのリミットです。
ちなみにこの動きは『言継卿記』にも記録されています。この事は、同日記だけを見ていては状況が判りませんが、その関連史料を併せ読むと状況が判明します。
さて、18日付けで発した藤孝名の奉書は、出陣の延期を伝えており、その時点では事態の沈静化を期待していたようです。決戦の日は28日と決まっており、幕府は何とか間に合わせたいと考えていたのでしょう。
将軍の高島郡への出陣は、勝敗を決すると目される重要な役割だったためです。
しかし、翌日になっても池田家中の騒動は収まる気配は無く、しかも悪化。池田家当主の勝正が城を追われて京都へ報告に上ります。
これを受けて幕府は、将軍出陣を更に延期する事を決め、その反勢力鎮圧のために、翌20日、摂津国方面へ軍勢を出します。言継卿記を見てみます。
※言継卿記4-P424
-史料(9)-------------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。又阿波・讃岐国の衆三好三人衆、明日出張すべくの由注進共之有り云々。(後略)。
6月20日条:
(前略)。御前へ参り様体申し入れ了ぬ。次に幕府衆上野中務大輔秀政(500計り)、細川兵部大輔藤孝(200計り)、一色紀伊守某・織田三郎五郎信広(100余り)、都合2,000計り、摂津国山崎迄打ち廻り云々。彼の方(山崎方面)自り注進、三好左京大夫義継衆金山駿河守信貞、竹内新助(所属不明)等参り、種々御談合共之有り。(後略)。
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この間、信長は何とか近江国北部に味方を作ろうと腐心し、要港の一つである菅浦へ禁制を下します。ここは、禁裏とも浅くない関係を持つ集落です。また、浅井氏配下でもあった地域でした。
※大日本史料10-4-P532
-史料(10)-------------------------------------
一、甲乙人乱妨狼藉の事、一、陣取り放火の事、一、竹木伐り採りの事、右違犯の輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て下知件の如し。
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そして6月26日、再び池田勝正は京都へ入り、将軍義昭に面会しました。この時、もう一人の河内守護三好左京大夫義継を伴っていました。
※言継卿記4-P425
-史料(11)-------------------------------------
(前略)。摂津国池田筑後守勝正、三好左京大夫義継同道せしめ上洛云々。(後略)。
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勝正のこの時の入京の目的は不明ですが、その翌日に決定された将軍出陣の事実上の中止を勘案すると、それは詳しい状況報告を将軍に行い、全体の行動の協議を行ったものと見られます。河内守護である三好義継を伴っていたのは、同国の動きと同時に松永山城守久秀から入る大和国方面の情報も併せて聞くためだったのではないかと思われます。
ちなみに、この頃奈良では地震が頻発しており、かなり大きな揺れもあったようです。この会議で奈良の地震についての話題も出たのかもしれません。
将軍義昭が出陣を再び延期した事について、『言継卿記』に記述がありますので、ご紹介します。言継は同じ日に同じ項目を重ねて書いてしまい、それについて「按ズルニ、此ノ項重出」と注釈を付けています。
※言継卿記4-P425
-史料(12)-------------------------------------
6月27日条:
(前略)。今日武家御動座延引云々。(按ズルニ、此ノ項重出)。(中略)。今日武家御動座延引云々。近江国北部に軍之有り云々。(後略)。
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もう将軍の高嶋郡出陣は間に合いません。これについて、都の人々や関係者は、非常に危機感を持っていたと思われます。また、官軍に弓引く者が続出した事も。
この翌日、日本史上あまりにまも有名な「姉川の合戦」が予定通りに行われました。しかし、織田・徳川勢が勝利しました。後巻きの無い戦いは非常に厳しかったと思われますが、重要な合戦で負けなかったのは、それ以上の誤算を引き起こさない為にも重要な事でした。
個人的に思うのは、浅井長政の離反よりも、池田衆の離反の方が状況としては深刻で、信長にとっては窮地の度合いは深かったと感じています。
「越前朝倉氏攻め」から「姉川の合戦」は、切離れた要素では無く、一体の事象であり、ある意味、この重要な軍事政策に池田衆は大きく関わって、政権の存続に非常な影響力を持っていたと感じています。それについて、その一連の史料群が事実を伝えてくれている訳です。
それから、池田家のこの時の内訌は、幕府を通じての人質差し出し命令について、もめ事があったのかもしれません。また、新政権に懸命に尽くしたとて、信用もされず、将来への希望が揺らぐ中での家中の鬱積が、この人質差し出し命令で爆発したのではないかと、私は感じています。
次回は、元亀年間初頭までは、五畿内を中心とした周辺地域で結構三好三人衆勢力が侮れない勢力であった事について考えてみたいと思います。