2026年7月26日日曜日

荒木村重の重臣でもあった摂津国人北河原氏(与作)について考える

摂津国と河内国北半分を領した戦国大名荒木村重の重臣として活動していたとみられる北河原氏は、あまり資料が無く、個人的にも気になっていた人物(一族)です。その本拠地は川辺郡の伊丹城のすぐ北側にあった北河原村と考えられています。
※兵庫県の地名1(平凡社)P410

明治42年(1909)測図当時の北河原村
--資料(1)---------------
北河原村(伊丹市北河原、北伊丹2丁目、北本町3丁目):
伊丹郷の北側、猪名川と駄六川に挟まれた低湿地にある。北川原村とも(延宝5年「巡見絵図」篠木家蔵ほか)。慶長国絵図に村名がみえ、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では天津北河原(あまつきたがわら)とする。正保国絵図(京都府立総合資料館蔵)は「天津ノ内北河原村」「天津村」と天津村を枝郷とする。天津村を含んだ石高は慶長国絵図435石余、摂津一国御改帳325石余、正保郷帳328石余。摂津一国御改帳では幕府領建部与十郎預地、寛永3年(1626)大坂城代阿部正次領となり、慶安元年(1648)幕府領に戻り、同2年大坂城番安部信盛(武蔵岡部藩)領。延宝6年(1678)分家の旗本安部領となり明治維新を迎える(伊丹市史)。天保5年(1834)猪名川対岸の森本村が水不足のため同川からの取水溝を深く掘ったが、当村が溝を埋めたことから争論になり近隣の村が仲裁に入り内済した(「天保凶作記録」小坂田村文書)。明治15年(1882)の戸数24・人口108(県布達丙7号)。産土神は郷町の野宮(現猪名野神社)で天津村とともに神事割を負担(「正心調法記」武田家文書)、元禄16年(1703)神輿が巡行している(有岡庄年代秘記)。江戸後期には大和大峰山の行者講があり講田をもっていた(「行者講勘定帳」「道中控」行者講文書)。講は昭和16年(1941)に中断したが、同32年に再興された。ほかに八幡宮があったが大正4年(1915)猪名野神社に合祀。浄土宗来迎寺がある。
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◎摂津国川辺郡の北河原氏に関する故地が豊嶋郡石蓮寺村にもある
永年、私も上記のような知識のままだったのですが、猪名川・藻川を東に渡った豊嶋郡側にも、北河原氏の故地があることを、最近知りました。
※大阪府全誌3(清文堂出版)P1284

明治42年(1909)測図当時の石蓮寺村
--資料(2)---------------
摂津国豊嶋郡小曽根村大字石蓮寺条:
(前略)興法寺は字蓮垣内にあり、利生山と号し、真宗西本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とす。当国川辺郡橘御園庄今福里に、六孫王経基の後裔源道悟なるものあり、承元元年(1207)3月圓光大師教化の際に発心剃髪し、ついで見真大師に帰依して道宗と法名し、同地に一宇を創立したるも、元亀元年(1570)8月石山戦争の時、織田氏の家臣来たりて同里を焼きければ、遁れて本地に来たり、乱定り後堂宇を再建せしもの即ち当寺にして、後慶長10年(1605)住職祐宗檀徒の協力を得て之を再建せり。境内は302坪を有し、本堂・庫裏・書院・土蔵・鐘楼・薬医門を存す。
【北河原与吉兵衛の宅址、北河原与茂作の墳】
北河原与吉兵衛の宅址は西方にあり。東西32間・南北33間の地なり。氏は荒木村重の家臣なりしが、同僚と隙ありて本地に隠れ、居を此に占めしという。其の子北河原与茂作の墳は、また人家の西端竹林中にあり、周囲30間・高さ1丈余りの封土にして、裡(うら)に多宝塔に似たる一個の石碑ありて文字なし。与茂作荒木氏の滅びし後、池田備後守に仕え慶長2年(1597)朝鮮の役に従いて屢(しばしば)軍功を立てしが、一日身に不祥のことあり、自覚して曰く、我命旦夕に迫るの兆しならんと。即ち鬢髪(びんぱつ)を剪り、義子本阿弥に告げて曰く、我已(以て)不吉の兆しあり。外土の枯骨となるらん。汝凱旋帰朝するを得ば、之を遺族に附与せよとて決別し、其の身は軍に臨み、奮戦数合、被矢恰も蝟毛(いもう:ハリネズミの毛)の如く、流血淋漓(りんり:滴り落ちる様)歩する能わず、終いに斃る。実に8月23日なり。本阿弥養父の遺物を持して郷に帰り、具に其の状を一家に語り、其の頭髪を此に埋めて其の冥福を祈りしと。事は載せて北河原氏の旧記にあり。(後略)とある。
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この具体的な場所が不明なのですが、興法寺が慶長10年(1605)に移ってきたとある事から、この辺り一帯は欠所地のようになっていて、そこが北河原氏の縁故地かとも考えたのですが、『大阪府全誌』では、両方の存在要素を記述してあるため、別々のものとも思われます。字石蓮寺村の西方とあった、やはり村内の西側という事なのだろうと考えると、若竹池に沿ったあたりなのかもしれません。この池より西は、低地で谷となっており、それを経て福井集落があります。

ここでちょっと、もう一つ別の地誌で石蓮寺村についてみてみます。
※大阪府の地名1(平凡社)P276

--資料(3)---------------
石蓮寺村(豊中市若竹町1-2丁目、服部緑地):
小曽根村の北にあり、同村の枝郷(元禄郷帳)。村域は千里丘陵を含み、集落(若竹町1丁目)は丘陵から低地に移った菰ヶ池・中池・若竹池の東側に展開している。村名の基となった寺院石蓮寺は天平年間(729-749)創立と伝え(大阪府全誌)、その寺跡が現若竹町1丁目に残る。天正7年(1579)3月13日、滝川一益が摂州石蓮寺郷中に対し禁制を出しており(渡辺家文書)、小村の形成が認められる。慶長10年(1605)の摂津国絵図には「関連寺」がみえるが単独の村高は不明。元和初年の摂津一国高御改帳では小曽根村1885石余の中に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳に村名がみえ、高20石余。領主の変遷は小曽根村に同じ。村高が少なく、面積は合わせて1町6反余。しかし他村高持分が多く、服部村2石余、北条村(きたじょうむら)2斗余と5ヶ村計135石余に達している(宝暦8年「村明細帳」今西家文書)。これは当村の戸数が多いのにかかわらず耕地が少なく、集落部分だけが南へ突出していて集落周辺が他村耕地によって囲まれていたためである。前掲村明細帳によると家数80、うち高持67、水呑13。鍛冶屋3、樫屋3、紺屋2、医者2、牛12。天竺川に沿った丘陵上に山ノ池(南北西側で103間、東西北側で82間)という巨大な溜池が存在しており、貞治元年(1362)にはすでに築造されていた(豊中市史)。浄土真宗本願寺派興法寺は「永禄年中摂州川辺郡橘御園之庄今福村より当村へ引寺仕候」という(前掲村明細帳)。
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新修 豊中市史(古文書・古記録)より

ここには、北河原氏についての記述はありませんが、この村に隣接している巨大な池は、貞治元年(1362)には既に築造されていた事がわかり、用水についての重要な役割を持っていたであろう事が判ります。

◎北河原氏が実在した事を証明する史料
さて、そんな環境で生きた北河原氏ですが、武士としての活動を資料から見たいと思います。当時の一次史料が少ないながら存在します。年記を欠きますが、天正3年(1575)以降(村重が「摂津守」を名乗るのは天正3年8月以降であるため)と推定される、中川清秀から「北但」への音信があります。この「北但」とは、個人的に北河原氏ではないかと推定しています。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P27

--資料(4)---------------
観世彦右衛門尉豊次知行分之儀、荒摂(荒木摂津守村重)申し付けられ候間、筋目を以って其の分為るべく候。貴様百姓中此の通り申し付けるべく候。恐々謹言。
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続いて、同じく北河原氏へ宛てた毛利輝元一族小早川隆景からの音信です。天正7年(1579)と推定される2月28日のものです。
※伊丹史料叢書2(伊丹中世史料)P118

--資料(5)---------------
未だ申し通さずと雖も候。啓せしめ候。抑も荒木摂津守村重公儀に奉対され、御忠勤之故、存じ之外大利を得本望候。此の方之儀、追々出勢せしめ之条、御本意■有るべからず候。其の内所々堅固御才覚専一候。向後別して申し談ずべく候。恐々謹言。
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また、非常に気になる一次史料があります。荒木村重の先代、すなわちその父の可能性がある荒木信濃守勝重なる人物が、北河原氏らしき「北與」に宛てて音信しています。文中に「善」なる人物も現れ、これも北河原氏の一族だと思われます。年記未詳の2月14日の音信(返報)です。
※豊中市史(史料編1)P126

--資料(6)---------------
前置き:尚々善(北河原右善?)へも以別帋可申入候へ共、御意得候て御演説所仰せ候。
本文:如仰久敷不申承不断御床敷令存候。折節御懇御状本望之至候。随而此間者弥介(村重)方に長々逗留仕候。内々に我等も可参心中之候処難去用所共候て不参御残多存候。此由北右へも被仰候て可給候。次以前承候南郷(摂津国垂水西牧)知行分事、勝正折帋之儀も可相調候へ共、無紛儀候者、可為有様候之絛可御心安候。殊に彼庄之事者同美(荒木美作守宗次)存知之由にて候之間、被仰様体委可申聞候。其方之儀不苦候者、北右善へ被成御同道、ふと御出奉待候。我等もやかて可参候。急申候間此外不申候。恐々謹言。
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先ず、この史料の年代比定をしないといけないのですが、結論から言いますと、永禄8年(1565)かその前年ではないかと思われます。

詳しくは、過去記事の「荒木村重の父、若しくは村重の先代にあたる人物(信濃守勝重)の史料が実在する可能性について」をご覧下さい。

◎北河原氏の地域武士としての繁栄の終焉
このように北河原氏は、荒木村重と行動を共にし、実在していた事は確かな人物です。その他、北河原氏についての記述は、いわゆる軍記物に度々登場します。『信長公記』に有岡(伊丹)城が落ちた後、村重一党が処刑されますが、その内訳に北河原氏の家族が記述されています。天正7年冬の事です。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P281

--資料(7)---------------
伊丹城相果たし、御成敗の事条:
(前略)12月16日、辰の刻(午前7〜9時)車一両に二人づつ乗りて、洛中をひかせられ候次第。(中略)五番(35歳)宗察娘(伊丹源内ことを云ふなり)伊丹安大夫女房、此の子8歳。(17歳)瓦林越後守娘、北河原与作女房。(中略)此の外、車三両には子供御乳付々7〜8人宛て乗られ、上京一条辻より、室町通り洛中をひかせ、六条河原まで引き付けらる。(後略)
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上記によると、北河原与作の妻は、瓦林越後守の娘だったようで、重臣同士の姻戚関係が結ばれ、強固な団結体制が窺えます。また、『大阪府全誌』にある伝承によると、北河原氏は荒木氏の滅亡後、池田備後守知正に仕えたとあります。本人は落ち延びたのでしょう。ちなみに、この池田備後守は、荒木久左衛門と同一人物と考えられ、彼も落ち延びています。
 更にまた、同じく池田備後守に仕えたと伝わる上月(赤松)十大夫政重なる人物が存在します。政重が22歳の時、天正17年(1589)に、親戚を因んで池田備後守被官となったようです。この上月氏は池田の「五人之家老」の一人で、上月角■(右?)衛門と浅からず関係があったと思われ、地域社会に影響力のあった人物と思われます。川辺郡荒牧の上月氏に続いていると考えられます。

詳しくは、「池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆」の過去記事をご覧下さい。

◎北河原氏の地域武士としての活躍

それから、武士としての活躍が、『陰徳太平記』に記述され、内容も詳しい事から身分の高い人物であった事をうかがわせます。元亀2年(1571)8月のことです。
※陰徳太平記3(東洋書院)P268

--資料(8)---------------
白井河原合戦並びに高槻荊木両城合戦之事条:
(前略)相続く士には、中川瀬兵衛、池田久左衛門、安部野仁右衛門、星野左衛門尉、山脇加賀守、同源太夫、野村丹後守、藤井加賀守、荒木善太夫、同善兵衛、伊丹勘左衛門、瓦林越後守、秋岡次郎太夫、本庄新兵衛、粟生伊織、安都部弥一郎、北河原新五同与作同与一右衛門、福田午介、佐伯庄右衛門等皆武功度々の勇者にて、何れも足軽の大将也。(後略)
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同太平記から、天正年間の別の出来事を引用します。
※陰徳太平記4(東洋書院)P134

--資料(9)---------------
荒木村重属信長並村重讐敵事条:
(前略)折しも天正元年(1573)、(中略)荒木村重は兼ねて此の謀を聞きたりける故、荒木善太夫、同善兵衛、佐伯庄右衛門、安部仁右衛門、山脇加賀守、同源太夫、星野新左衛門等に下知して、一人も残さず討ち果たす。渠等が家人一人村重に切り懸かりけるを、村重時節(おりふし)白井河原にて蒙りたりし手疵の癒えざりければ、矢手に刀を刺しけるを、弓手にて抜き打ちに切り殺しけり。尚も余党共池田に在りければ、即時馬に打ち乗り押し寄せける間、中川瀬兵衛、河原林越後守、藤井加賀守、安部仁右衛門、安部弥一郎、佐伯庄右衛門、星野新左衛門、山脇加賀守、同源太夫、福田午助、北河原新五同与作、秋岡次郎太夫、本庄庄右衛門、大田河内守、毛利兵吉、門田民右衛門、大藪新右衛門、荒木新右衛門、同太郎右衛門等、各々策鐙(むちあぶみ)を合わせて馳せ続き、刹那が間に池田へ着き、残党の館へ押し寄せ押し寄せ、悉く打ち果たす。
(中略)
同2年(1574)荒木村重が舅北河原三河守は、伊丹兵庫頭か第一の家臣なりけるか、其の頃伊丹に荒木矛楯に及びければ、兵庫頭三河守に対し掌に疑心を抱きけるか、されとも伊丹か家人ども多く三河守か一族又は外戚のものともなれば、兵庫頭も左右なく渠を討事も叶わずとかく思案に煩いて有りけるが、今一人の家人野間勘太夫を近附け三河守定めて味方の謀策などを皆聟(むこ)の荒木に告知らすらんと覚ゆるは如何に。去りとて歴然たるしるしのなからんには誅せん事も世の舌頭の謗(そし)りあり。所詮汝等が所業にもてなして渠を追い出し候へと下知しければ、野間勘太夫承りてやがて伊丹市正・同越中守兄弟が内談して其の面々の宿意に詫(こぞっ)てついに北河原を追い出しけるを、三河守は聞ゆる剛の者なれば追い返して散々に戦いける。三河守第三の舎弟北河原市允とて当年20歳の若武者大太刀引き提げ馳出し戦いけるが、向かう敵20人迄ぞ切り倒しける。爰にへんじて右衛門というもの長刀振りてかかりければ、市正屹(きっ)と見て誠に蟷螂か龍車に向かうとは汝が事なり。我に合わぬ敵なぢといえども、相手をきらうにあらざればかかれ勝負を決すべしといいもあへず飛びかかって細首中に打ち落とす。其の兄与吉は六島か男子生け捕り人質として各一所に切り破り、池田勝入を頼りてありけるが、其の後猪名寺に城を構えて伊丹を攻めんと擬議しけり。伊丹兵庫頭此のよしを聞きて、同3月中旬猪名寺へ逆寄せにして攻めける間、三河守も打て出、数人切り伏せ比類無き働きすといえども多勢の敵に叶わずして終いに其の所にて討死す。かかりける所に荒木謀臣の為に討たれたりという風説ありければ、北河原のもの共弥々力落とし妻子悉く茨木へ落ち行けり。村重聞きて安からざる事に思い鎧とって打ち懸け、続きやもの共とて馳出しければ、例の中川等のものとも追々に馳せ着き伊丹の城へ押し寄する。池田よりも2000余人加勢しける間、伊丹叶わずと思い城を開けて逃げ去りける。かくて北河原の一党悉く村重の手に属す。(後略)
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文中にある「茨木へ落ち行けり」との条件は、早くとも元亀2年(1571)10月頃以降から、この状況は天正元年(1573)夏頃まで成立します。続けて記述は「池田よりも2000余人加勢」ともあるので、天正元年(元亀4年:改元は7月28日)以降、村重が伊丹城を落とす直前の天正2年頃の動きを割と正確に伝えているかもしれません。
 一方で、上記の軍記物である『信長公記』『陰徳太平記』にも、北河原与作は共通して現れます。その他一族の人物名も見られ、それらは若干の差はあるものの、人物名は概ね正しく伝わっているのかもしれません。

開発前の今西氏屋敷周辺
ふるさとの思い出(107)写真集豊中
◎まとめ
映画「黒牢城」は荒木村重が主役で、その周辺人物として北河原与作も取り上げられています。資料をみると、この人物は実在したのかもしれません。また、この家系は「与」を通字としているようです。荒木一族にも「与兵衛尉」など「与」を通字にしている一派もみられ、両者は何らかの共通点があったのかもしれません。
 北河原氏のこの豊嶋郡への関連は、小曽根村に奈良春日社領垂水西牧目代今西家が、池田氏と荒木氏は、代々密接に関わっています。また、この今西家の第36代春房の妻は明智光秀の娘で、同時代に村重と、この三者は縁続きとなっています。村重の嫡子村次の妻も明智光秀の娘です。
 そのため、池田氏から村重の時代に移っても、田畑の用水確保地として重要であった石蓮寺村(東隣の寺内村も同様)に、重臣であった北河原氏の一派を置いていた可能性があります。そもそも【資料6】によると、永禄8年頃には「北与」が南郷を知行しています。
 村重が織田信長との闘争に敗れ、地域を去った後、その欠所地に興法寺が入って用水管理の何らかの役を代行したのかもしれません。この石蓮寺村が重要視されていたと考えるのは、天正7年3月13日付で、滝川一益が同郷中に宛てて禁制を下しています。
※新修 豊中市史(古文書・古記録)P274

--資料(10)---------------
当手軍勢甲乙人等、乱暴狼藉一切非分之事、堅く停止せしめ訖ぬ。若し違犯の輩於て者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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そして、同地には、その後も度々禁制が下されています。天正10年(1582)6月7日付の明智光秀、慶長5年(1600)9月23日付の福島正則など連署、慶長19年(1614)10月18日付の松平(池田)利隆、同年10月付の板倉勝重、同年同月18日付の豊臣秀頼、同年11月6日付の羽柴(森)忠政、同年同月13日付の徳川家康、同年12月11日付の酒井忠世など連署があり、この地がいかに重要であったかが判ります。
 『新修 豊中市史』によると、石蓮寺村は豊中台地の南端にあり、すぐ南は低地となっているので、大坂城、尼崎、生駒山が見晴らせたと思われます。東は吹田村や淀川・神崎川の川筋の村々に隣接し、多田銀山と大坂を繋ぐルート近くにも位置していました。、と分析されています。
 また、西接している福井村にも城があったと伝わり(現豊中市城山町)、その遺物もみられます。このような地勢は、室町・戦国時代にも変わること無く、重要な地であった事は間違いありません。ですので、伝承にある「隙ありて本地に隠れ、居を此に占めしという」とは、北河原氏は、元々ここに居た可能性もあるように思われます。隠れるといっても、伊丹城や北河原村から直ぐそこの距離ですから。

明治42年(1909)測図当時の集落位置関係


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2026年7月21日火曜日

摂津国豊嶋郡大広寺(大阪府池田市綾羽2丁目)の変遷を見ると画期は三度ある

摂津名所図会に紹介されている大広寺
摂津国豊嶋郡大広寺は、同国内で最大級の国人で、戦国大名で成長した池田氏の菩提寺として、応永2年(1395)に創建されています。天嵓(岩)禅師の開基です。先ず概要をご紹介します。
※大阪府全誌3(清文堂出版)P1106

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【大広寺】
大広寺は池田山の半腹にあり、塩増山と号し、曹洞宗総持寺末にして釈迦牟尼仏を本尊とす。昔此の山中に一池あり、其の水に満干のあること海潮の如くなりしも、堂宇を創建するに当たりて之を埋めしかば、其の旧跡を伝えんが為め塩増山の山号を附せしをいふ。応永2年(1395)池田筑後守充正の創建にして、天嵓禅師の開基なり。降て元禄7年(1694)16世雪峰に至り、檀徒と協力して堂宇を再建増築し、更に一層の荘厳を極め、隷寺40余院の多きに達し、塔中には陽春庵泉福院明悟院の3坊舎ありしも、明治の初め2院は他に退転して(泉福院は大阪に、明悟院は豊中村大字新免に移転)、今は陽春庵の剰せるのみ。境内は2531坪を有し、本堂・庫裏・方丈・知客寮・経蔵・鐘楼堂・土蔵・発心門・薬医門及び開山堂・鎮守堂を存す。寺宝に伝運慶作の釈迦・文殊・普賢の3蔵、伝牧渓筆瀧見観音の墨画一幅、横川景三書望海亭記一幅、大明進士梅厓の書一幅、宸翰和歌等あり。塔中陽春庵に作者不詳の聖観音立像一体あり、監査状附なり。寺地は高爽にして清浄濯麗、池田の市街を瞰下し、豊能の沃野を一眸中に収め、仰げば池田山の蒼翠は堂尖を厭し、寺は中空に懸かれるが如し。此の境裡に望海亭あり、亭は文明年中僧山祥の創営に係り、幾多の詩人墨客をして風月の娯を壇にし、詩膓を悩ましめし所なれども、已(しまい)に廃絶に帰して今は残礎を存し、一碑之を表せり。碑は天保12年の建設なり。又池田筑後守充正の墓あり。充正は文明14年(1482)10月24日に逝きて、大広寺殿玉堂祖金大禅定門と法謚せらる。
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大広寺山門(2000年頃撮影)
この文を読むと若干の違和感があります。大広寺は池田充正が菩提寺として応永2年に創建し、その充正は文明14年に亡くなります。その間、87年あります。この長期間は理解の範囲でしょうか。年記の間違いか、もう一人そこに居るような気がします。

また、江戸時代中頃の元禄11年(1698年)から編纂を開始、同14年(1701年)完成・発行された、その時点までの状況を知ることができる史料がありますので、ご紹介します。
※摂陽群談(大日本地誌大系刊行会)P299

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摂津国豊嶋郡にあり。山号塩増山、文明年中、池田城主藤(ママ:藤原か)筑後守営建、曹洞禅寺と成る。同姓備後守石碑其の部に然り。
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しかし、多くの古刹と同じく、栄枯盛衰が大広寺にもあり、池田氏の菩提寺であるだけに、池田家の解体と同時に運命を共にしています。
 一方で、中世以前から存在している寺院は、地域自治の中心でもあり、大広寺は池田氏の地域統治とも相関していた事から、池田家の解体後も地域自治への影響力の大きさ故に存続します。しかし、構成要素は変化していきます。寺そのものも「家」制度と同様の営みを続けています。

さて、その大広寺の画期は、少なくとも3回あります。

大広寺鐘楼堂(2000年頃撮影)
◎大広寺の歴史上の画期

(1)天正年間初頭、池田家中から荒木村重が台頭
池田家中から荒木村重が台頭し、暫くの間、対立しつつ最終的に主従が入れ替わる。このため、それまでの大広寺と池田家とのつながりを懐柔する政策も採られたと考えられ、村重の拠点を伊丹(有岡)へ移したと同時に大広寺も移転させられている。
(2)慶長年間の中頃、池田備後守知正が大広寺を元の場所に復興
荒木村重が織田信長に謀反した事から滅ぼされ、豊臣政権下で池田郷の復興を行う。その重点要素として、池田一族の精神的より所である大広寺の復興を始めた。
(3)元禄7年(1694)、本堂などを再建して子院も招致
徳川政権下で、池田郷も復興を遂げている。酒造の町として活況を呈し、再び池田の栄華を見直す復古的な様相も呈す。

◎各画期の概要

(1)の時代は、戦国時代の真っ只中で最も激しい闘争を続けていた事もあり、その変化は穏便ではなかったと考えられます。池田家体制の解体後、その影響力を弱めて、大広寺は荒木村重の統治政策の一部として都合のよいように変化させられたと考えられます。
(2)の時期には、荒木村重時代に徹底して破壊された池田家による地域統治、また、縁故地を復興させるべく、池田知正を中心として取り組みに着手していましたが、知正の系譜自体は、池田家の中心から少々遠い事もあって、その求心力が弱かったと考えられます。加えて、そのような試みの中で、時代が変わり、徳川治世下となって地政学的要地である池田郷は、独自の地域政治は否定され、池田氏は元の地域から排除されてしまいます。
(3)の時期には徳川時代となり、天下泰平時代が訪れると、日本全国で商業活動が盛んとなって、好景気に沸きます。経済的に豊かになった事で、池田郷も復興し、寺社もそれにあやかる事となります。また、「島原の乱」後、徳川幕府は、キリスト教への警戒を強めたため、寺請制度を施行します。
 寛文11年(1671)には、ほぼ制度が完成していたと考えられており、そのために、全国で寺の数は不足します。この時勢のため、大広寺も復興と拡大を続けたと考えられます。元は、池田氏の個人的な寺でしたが、この頃には、本質的な成り立ちも変わってしまっていたと考えられます。

ここで、伊丹城下へ移転させられたと伝わる、ひとつの証拠要素としての資料をあげておきます。
※兵庫県の地名1(平凡社)P406

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江戸時代の伊丹郷
絲海32号(伊丹市文化財保護協会)
大広寺村(伊丹市宮ノ前1丁目、清水1-3丁目):
伊丹郷町を形成する15ヶ村の1村。郷町から中山寺(現宝塚)市へ向かう街道に位置する。地名の由来は摂津池田村の大広寺を荒木村重の時代に移転させたことにちなむ。有岡城落城後は池田に戻った(「穴織宮拾要記」伊居太神社蔵)。文禄伊丹之図に村名がみえ、寛文9年(1669)の伊丹郷町絵図には村はなく、大広寺畠が載る。村高は天和3年(1683)頃の摂津国御料私領村高帳では伊丹内大広寺畑として高40石余。元禄郷町でも伊丹町(村)と一括だが、享保20年(1735)の摂河泉石高調や天保郷帳では伊丹町から分離されて高44石余。ただし天保郷帳には「伊丹町之内」と注記されている。領主の変遷は初め幕府領、寛文元年近衛家領、延宝3年(1675)に幕府領に戻り、天和元年京都所司代稲葉正通領になるが、同3年再び幕府領に戻り、貞享3年(1686)武蔵忍藩領、文政6年(1823)幕府領に戻り、明治維新を迎えた(伊丹市史)。宝暦5年(1755)の付込帳(伊丹市立図書館蔵)では家数は百姓7、水呑8、店借45。
 産土神は猪名野神社(「正心調法記」武田家文書)。郷帳に近い付近を通称清水町といった(「文化改正伊丹之図」伊丹市立博物館蔵)。「霊泉にして四時増減せず」(摂津名所図会)という金岡清水にちなんだ町名。聖宝が醍醐天皇に献上するため巨勢金岡に命じて風景を描かせた際に湧いたという伝説(「伊丹野宮午頭天王之縁起」金剛院蔵、「摂津名所図会」)、猪名野に遷都の噂があり巨勢金岡が測量をした時に使った泉との伝悦が残る(「有岡むかし語余録」柿衛門文庫蔵)。文化5年(1808)に小浜宿(現宝塚市)・道場河原宿(現神戸市北区)と伊丹駅の馬借が興行を認められたが、小浜宿が「土地柄よろしからず」との理由で当村で興行を実施した(「興行につき口上」小浜自治会文書)。明治7年(1874)伊丹町の一部になる。
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◎大広寺に存在した3つの塔頭
先にあげた資料『大阪府全誌』でじゃ、塔中(頭)として、陽春庵、泉福院、明悟院があったとされています。この塔頭とは何かというと、禅宗寺院が主に制度(慣習)化していたようです。参考までに、その概要を引用しておきます。
※ウィキペディア:塔頭(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%94%E9%A0%AD

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中国の禅寺では本来、住持を隠退した者は、東堂・西堂の僧堂で雲水たちと共同生活をする決まりとなっていた。時代が降ると、大寺の中に小庵を結びそこに住する者が現れるようになったが、一禅僧一代限りの措置であった。
 そのような中国の慣習が日本に伝わると、開山など、禅寺にとってとりわけ重要な人物の墓所としての塔頭・塔院と同一視されて永続的な施設となり、日本独自の塔頭という存在が認知されることとなった。さらに時代が降ると塔頭はより広義的なものになり、墓所だけでなく高僧が住んでいた小庵やゆかりのある地に、その偉業を後世に伝えるために設立されるようになり、禅宗に限定されたものでもなくなっていった。
 室町時代、五山では庵居の風習が盛んになり、多くの塔頭が作られた。やがて塔頭を拠り所に門徒が僧兵などを集めて勢力を持つようになり、幕府は塔頭造営を規制したこともある。安土桃山時代に入ると、各地の大名が自身が教えを受ける僧の隠居所を寄進して小寺院と称する例が増え、これらも後に塔頭とされた。そのためこうした塔頭は寺院としてだけではなく、住居としての側面も持つ。
 塔頭は由来に示すとおり末寺の1つで独立した寺ではなかったが、塔頭由来の師の門下として門徒の格別の崇敬を集めて独自に檀那を持ち寺領を抱えて経営するまでになり、実質的にはその門派の独立した一寺としての発展をみた。明治時代以降は末寺になって独立している場合が多いが、大規模な塔頭を多く抱える大寺院の領内では、さながら寺院の立ち並ぶ一つの街のような光景を見ることができる。この例としては京都府の大徳寺などが著名である。
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大広寺は、池田氏の政治体制と一体化しており、統治機構としても機能していましたので、五月山周辺などを中心に領内に多くの末寺を保持していました。
 その中でも塔頭は、大広寺組織運営の中心となる、武家で言うところの「家老」のような役割を持つ、中枢組織でした。それが、3つの塔頭でした。
 しかし、それらは、同時期に成立した訳ではなく、最終的に3つになったのであり、時代により、制度の変化や役割の変化があったためと思われます。この変化の起点が、大広寺の画期とも相対しているところがあります。

大広寺塔頭泉福院の施設に
身を寄せていたとされる
連歌師肖柏
◎各塔頭(中)の概要
それらの創立時期を見てみます。

(a)泉福院(文明年間以前創建)------------
 調査中
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(b)陽春庵(元亀3年5月創建)------------
別々の時代に、別々の状況で書かれた伝記に奇妙な一致がある。大広寺塔頭の一つである陽春寺に伝わる内容と現箕面市新稲の池田助一氏所蔵文書の内容とが、ほぼ一致する部分がある。文字表記の違いはあるが、「イチリン:一麟・一輪」なる人物は、大広寺へ高位の僧侶として記述されている。池田助一所蔵文書の一輪は、池田四人衆の一人である池田十郎次郎正朝の弟としている。他方、陽春寺伝での一麟は、その系譜は記さないものの、大広寺塔頭の創建・開基の人物となっている。また、元亀3年5月頃は、池田氏の支配領域が歴代最大となり、同時に京都中央政権が分裂し始めて、政治・軍事面での対応の難しい時期であった。そのため、領内支配体制の強化の意味もあり、大広寺塔頭を増やした可能性もある。『池田町便覧社寺及名勝旧跡』陽春寺条:大広寺塔頭の一院にして、元亀3年5月、僧一麟創立して自ら開基と為り始め陽春庵と称せしが、明治11年庵を改めて寺と為せり。寺宝に聖観音立像一躯あり、作者詳らかならざれども其の彫刻の優逸なるを以て監査状を有せり。(後略)とある。また、『池田郷土研究』21号内記事:池田城主久宗と信正をめぐって「池田助一氏の所蔵文書」条、(前略)上野殿御子息(池田信正の実弟同苗(上野)上野介久正の子)関東へ下られ候は14歳の時なり、同道池田ノ家中星野左衛門尉山脇勘右衛門と申せし人(以下、傍注あるも判読不能)此の時の大広寺の和尚は一輪和尚と申し、此の一輪は池田四人衆の内、十郎次郎(正朝)の弟なり。(後略)とある。
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豊中市にある現在の明悟院(2026年撮影)
(c)明悟院(天正2年10月創建------------
寺伝として『大阪府全志』に記述がある。明悟院(摂津国豊能郡豊中村)字岡上町にあり、柳田山と号し、曹洞宗大広寺末にして白衣観世音を本尊とす。天正2年10月僧明仙の創立なり。当時池田の大広寺にありて、其の塔頭たりしが、明治11年7月、布教上の便宜に依りて当所に移転せり。境内は108坪を有し、本堂兼庫裏・薬医門を存す。、とある。天正2年の創立当時は、大広寺内に塔頭として成立したらしいので、池田氏の菩提寺として存続していた同寺の、新体制としての動きの可能性もある。同年、池田氏の家政は解体されて一族が散逸しており、池田家中から台頭した荒木村重の治世下で、再編が行われていたと思われる。また、同年11月に伊丹城が落城を落とした村重は、同地に本拠を移した。その折に大広寺も移転させられた(有岡城構成集落に「大広寺村」がある)とある事から、その動きとも関係があると考えられる。江戸時代に編纂された当時(元禄11年(1698年)から編纂が始められ元禄14年(1701年)に完成)の地誌である『摂陽群談』には明悟院の現在地に、その同寺の記述は無いため、その頃には存在しておらず、その後に『豊中市仏教会70周年誌』『豊中の史跡をたずね描き』に伝わるような、動きがあったのかもしれない。しかし、『豊中市仏教会70周年誌』の伝承には、戦国時代に起源を持つ伝承も伝わっているが、どこと結びつくのかは、今のところ不詳。元禄年間以降、現明悟院のあるあたりに、大広寺と縁のある寺庵が建てられ、明治時代になって、そこに明悟院が移ったのではないかと考えられる。そういう経緯の中で、明悟院の本寺である大広寺について、『全志』を見ると、(前略)隷寺40余院の多きに達し、塔頭には陽春庵(寺)・泉福院・明悟院の3坊ありも、明治の初め2院は他に退転して(泉福院は大阪に、明悟院は豊中村大字新免に移転)、今は陽春庵(寺)剰せるのみ。(後略)とある。これらの要素を考え併せると、明悟院は新興であったようである。そして同院は、大広寺及び池田氏の縁故地に移った可能性があり、豊中村大字新免村については、永正4年9月21日付で、摂津国人池田五郎某が新免村の代官職を得た記録(『後法成寺関白記』)に現れる。『豊中市仏教会70周年誌』明悟院条、戦国時代に流れ矢にあたり亡くなった主人の霊を弔うために建てられた寺。(後略)とある。『豊中の史跡をたずね描き』明悟院条、昔、岡町に田中庄兵衛(屋号は米屋)という大きな庄屋が住んでいた。そして小作人から小作料(年貢米)の売買と醸造を業としていた。何年か経つ内に家業が大きく栄えてきたので、先祖に感謝する気持ちと、先祖の霊をなぐさめるために、寄進して建てられた曹洞宗の尼寺である。
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大広寺に残る血天井(2000年頃撮影)
永正5年(1508)5月10日、池田筑後守貞正が
切腹した時の敷板(中央部分が血の跡と伝わる)

この内、泉福院の創立が最も古く、長享元・文明19年(1487)から連歌師肖柏が池田で隠棲していた頃には既にあり、同院の施設に肖柏は起居していたようです。この泉福院については、ただ今調査中ですので、判明し次第にお伝えします。
 次いで、陽春庵で、元亀3年(1572)5月の創立と伝わります。この時期は池田家中が再び荒れ始め、京都の中央政権も将軍義昭と織田信長が鋭く対立し始める時期にあたります。逆の見方をすると、池田家中の安定期の最晩年と言うことになります。
 池田領内の統治機構強化の必要性があり、塔頭を増やした可能性もあります。実際、この頃の池田氏の支配地域は、過去最大になっています。この陽春庵には、池田氏の血族が入っているらしい事からもそれは窺えます。
 そして、一番新しい塔頭は、天正2年(1574)10月創立の明悟院です。創立当初は、大広寺内にて成立しています。この時期は、池田家中から台頭した荒木村重が池田氏に代わって、その領内を統治していた頃です。同年7月に崇禅寺での大合戦、3ヶ月後の11月、遂に伊丹城を落とし、直ちに同地へ村重は本拠機能を移すべく築城を始めています。この移転の中で、大広寺も伊丹へ移転させたと伝わっており、大広寺の大きな転換点でもある時期で、体制の変更があったと考えられます。

◎まとめ
大広寺の大きな流れとしては、上記(1)〜(3)がありますが、中でも戦国期には波瀾万丈の大動乱を経ています。「大広寺」の名は存続し続けていますが、その間に大きな変化を伴っています。それは(a)〜(c)の文明年間から天正年間初頭までの期間に、塔頭の動きからも組織に変化が起きている様子が窺えます。
 何につけても同様ですが、対象は常に変化している事に注意して、思い込みで見ない事は非常に重要だと思います。本質を見誤ってしまいます。