戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
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2024年6月6日木曜日
摂津国人惣領格の池田長正が、芥川孫十郎と共に活動していたかもしれない史料を発見!
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今のところ不確定要素があるので、断言はできないのですが、可能性としては大いにある史料を見つけました。 私に、何かとご教示下さる「利右衞門」さんからのご連絡で、これまで見えなかった池田家の足跡の一部が見えました。これには不思議な事が起きて、一気に進みました。 私もこれは読まなけれ...
2019年6月18日火曜日
中之坊文書に署名している播磨国人らしき藤田橘介重綱について
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年欠の『中之坊文書』について、これまでにも何度か、本ブログにて紹介しているところですが、この文書は摂津池田家の歴史を見る上で、非常に重要な文書の一つです。しかし、そこに署名している人物の出自が不明なところがあって、まだまだ課題の多い史料でもあります。 そんな中、意図せず、ツ...
2016年6月29日水曜日
戦国武将の戦い方
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政治問題の解決方法の一つとして、武力による解決が日常的に行われていた戦国時代、武士は常に「戦い」の研究を行って、備えを怠りませんでした。そんな内乱の時代、摂津国豊嶋郡を本拠とする池田氏も、武士として度々戦場へ出ています。 軍勢を出し、互いに想定した場所が合戦場になり、戦...
2016年5月14日土曜日
摂津池田家解体後に池田紀伊守家系の人物が、毛利輝元へ客将として迎えられている史料
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元亀4年7月に足利義昭が京都から落ちた事で、幕府機能が停止します。しかし、織田信長方が五畿内地域で優勢ではあったものの、その後も余震が続き、天正3年春頃までは足利義昭方の勢力も抵抗を続けて、侮れませんでした。 とはいうものの、織田方は重要な戦で確実に勝ち、また、政治的対応も...
2015年7月4日土曜日
信長公記にも登場する、摂津武士池田紀伊守入道清貧斎(正秀)について
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私の調べている期間内で、池田正秀なる人物は池田家政の中心的人物で、非常に重要です。 池田家当主が信正(のぶまさ)の時代、時代の要請や池田家自身の繁栄で、当主だけでは手が足りなくなり、その補佐役として、信頼の置ける人物を一族の中から選抜して、その役に就かせたようです。 江...
2013年6月24日月曜日
池田四人衆から三人衆へ
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<概要> 元亀元年(1570)6月、摂津国守護所である池田城内において内訌が発生。同国守護職であり、池田家当主でもあった池田勝正は、重臣集団から追放されて城を出ました。 池田衆は、将軍義昭を中心とする幕府方に忠誠を尽くして東奔西走しましたが、過酷な政権維持環境のために家中...
2013年6月16日日曜日
池田四人衆について
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<概要> 池田四人衆とは、国人であった摂津国池田家が、戦国大名として成長する過程で生まれた、家政機関です。 四人衆制度は池田信正が当主であった時代に生まれ、長正、勝正の代まで機能していました。 元亀元年6月の池田家内訌で、当主の勝正が追放され、その時に四人衆も再編され...
2012年8月4日土曜日
摂津国吹田村にも関わった池田正行という武将
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池田勝正の一族で、池田正行なる人物が居ました。何通かの音信が史料として残っていますので、実在の人物です。この正行は、池田家中の政治に深く関わっており、その音信の内容も非常に興味深く、また、重要なものです。 正行は、吹田村について音信の中で触れています。以下はその音信の内容で...
2 件のコメント:
2012年3月23日金曜日
永禄6年(1563)3月、池田勝正が池田四人衆の内2名を粛正した事
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永禄6年(1563)2月、摂津国池田家の惣領池田長正が死亡した事により、勝正がその跡を継ぎました。 翌月22日、池田勝正は酒宴の席で、同家官僚機構ともなっていた池田四人衆の内2名(池田山城守基好・同苗勘右衛門尉正村)を殺害しました。他にもそれに連なる人物も粛正したようです。...
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