軍勢を出し、互いに想定した場所が合戦場になり、戦うのですが、勝敗を決めるのは「後巻き(うしろまき)」または「後詰め(ごづめ)」と呼ばれる手立て(勢力)が非常に重要でした。これによって勝敗が決まると言っても良い程です。これは不変の真理で、現代戦でも非常に重要な要素です。
「後巻き」とは、前線・本隊を支援や補完する軍勢で、これが適切な位置にあれば、敵は攻めることができません。動けば、後ろや横を取られて、挟まれたり、囲まれるからです。当然、相手も後巻きはしますが、互いに、より適切な場所に後巻きの陣を取った方が勝利します。
実際に、池田衆が後巻きをした合戦の記述が、様々な資料に見られます。中でも有名な『信長公記』御後巻信長、御入洛の事の条に見られる例をご紹介します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P93
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1月6日、美濃国岐阜に至って飛脚参着。其の節、以外の大雪なり。時日を移さず御入洛あるべきの旨、相触れ、一騎懸けに大雪の中を凌ぎ打ち立ち、早御馬にめし候らひつるが、馬借の者ども御物を馬に負候とて、からかいを仕り候。(中略)。以ての外の大雪にて、下々夫以下の者寒死(ここえじに:凍死)も数人これある事なり。3日路の所、2日に京都へ、信長馬上10騎ならでは御伴なく、六条へ懸け入り給う。堅固の様子を御覧じ、御満足斜ならず。池田せいひん今度の手柄の様体聞こしめし及ばれ、御褒美是非に及ばず。天下の面目、此の節なり。(後略)。
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この時、当主の池田筑後守勝正を始め、池田紀伊守清貧斎、荒木弥介(村重)など主要な池田家中は出陣していますが、池田から京都へ向かう途中、高槻で敵(三好三人衆方入江春景?)に道を塞がれていました。そのため、北側の山道へ入って迂回し、西岡地域(現長岡京市あたり)へ出て、桂川西岸へ向かいました。
桂橋(西詰から南を望む) |
その将軍義昭救援に、河内半国守護三好左京大夫義継が、軍勢を率いて南方向から淀あたりを経由し、本圀寺へ向かいます。この間、三好三人衆勢は、西からも池田を始めとした軍勢が、本圀寺を目指して進んでいるとの報に接して、一部を割き、七条村あたりへ置きます。
桂川西岸から京都へ入ろうとする池田衆と、入れさせまいとする三好三人衆勢が交戦したようです。この前線に池田勝正は居たようで、他にも伊丹・茨木・細川兵部大輔藤孝なども共同で三好三人衆勢と交戦したようです。
ちなみに、桂川は深く、流れも早いために徒渉はできず、しかもこの時は真冬ですので、川の中には入れなかったでしょう。池田衆などの軍勢は、桂川に架かる橋を使ったか、桂付近の村から徴用した舟で対岸に渡るしかありません。橋は付近に、何本かあったようです。どちらにしても、攻める側が先に動けばそれなりの犠牲が出る状況でした。
結局、桂川と本圀寺の両所では激戦となり、三好義継が戦死したなどと噂が出る程でした。池田・伊丹衆などが川を渡って、攻めた模様です。
※当時の日本人は、殆どが泳げません。一部の武士くらいが水練をしていたようですが、池田家中はどうだったでしょうか。
桂橋西詰から北東を望む |
広義の後巻きとしての視点で見れば、護るべき本圀寺に対して、三好義継と桂川西岸の池田衆の双方が後巻きといえますが、本圀寺の友軍と三好義継の軍勢では、数が多い三好三人衆勢を圧倒できなかったようです。
また一方、この時、京都周辺にも三好三人衆方に同調する勢力があって、これらが将軍義昭方にとっては、敵方の後巻きとなっていました。ですので、池田衆が桂川方面からも攻め込んだのは、本圀寺を攻囲する三好三人衆勢を更に攻める必要がある、と判断したのだと思います。後巻きは、「そこに居る」だけでも良い場合が結構あるようです。
機を逃せば、将軍義昭が討ち捕られてしまう、一刻を争う中での判断と、行動だったと思われます。難しい局面で、老練な池田清貧斎が機転を利かし、的確に後巻きを行った事で、文字通り、将軍義昭は窮地を脱する事ができたのだと思います。
織田信長は、この池田衆(池田清貧斎)の抜群の功に対して特に賞し、その記録にも残されたのだと思われます。
この合戦で、三好三人衆方は大打撃を受け、多くの名だたる武将を亡くしたようです。三好三人衆の中心人物であった三好下野守は、この時の合戦で重傷を負ったのか、この年の5月に死亡しているようです。
※この合戦に、三好三人衆方がどんな気持ちで挑んだのかという一幕が、先にご紹介した「古典『信長記』を読んで繫がる過去と現代、そして未来!」にご紹介した記述です。
最近は機会が減ってしまいましたが、将棋を指してみればわかります。駒は攻めも守りも連携していないと全く意味が無く、戦いもそれと同じです。勝つための采配は、状況を把握し、何を、どのように使い、それをどこに置くか、が重要になるという訳です。
【追伸】この六条本圀寺・桂川の戦いについては、「研究_1569年(永禄12)正月の京都六条本圀寺・桂川合戦について」にて、詳しくご紹介する予定です。
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