<概要>
池田四人衆とは、国人であった摂津国池田家が、戦国大名として成長する過程で生まれた、家政機関です。
四人衆制度は池田信正が当主であった時代に生まれ、長正、勝正の代まで機能していました。
元亀元年6月の池田家内訌で、当主の勝正が追放され、その時に四人衆も再編されます。その後もその機構を受け継いだ状態で三人衆体制と集約されますが、その時には時代の要請に応えられない状態となってしまい、機能不全に陥ります。
そうなると、家政運営もうまくいかなくなり、結局は血(血統や家系)の争いとなって自滅してしまう事となりました。ですので、四人衆制度の誕生から終焉までを見た時、勝正追放事件を以て、四人衆制度は一旦閉じたカタチとなります。
<(1)信正時代>
当主信正が、池田家を発展させる過程で当主を補佐する目的で、一族の中から池田勘右衛門尉正村・同苗十郎次郎正朝・同苗山城守基好・同苗紀伊守正秀の4名がその任にあたったと考えられます。
多分、信正は京都に居た管領の側に仕えるために常駐する必要が出たためで、国元での池田に当主と同等の家政執行機関が必要になって編成されたのでしょう。
その後、信正が不本意に管領細川晴元に切腹させられると、次の後継問題で家中が分裂してしまいます。
<(2)対立時代>
この時、四人衆が擁立する当主候補である孫八郎と、別の当主候補である長正が対立します。その過程で、それぞれが別々の運営体制を持つ事となり、それが暫く続きます。その時間が、立場の固定化を招きました。
それから、この長正の代で荒木氏の登用があったようで、長正の重臣として書状などの公文書も発行しています。この荒木氏の何れかの家系が、荒木村重につながると見られます。
<(3)長正時代>
しかしながら、四人衆が当主として推す孫八郎は、弘治3年に病気など、何らかの理由で死亡します。近世への幕開け的な時代でもあり、家中が分裂している場合でもなかった事から、それらを悟ったのか、四人衆と長正は和解したようです。
これにより、当主は正式に長正となり、家政機関も再編されます。しかし、この時、長正の成長に功労のあった荒木氏を中枢機関から外す事はできなかったらしく、一族の外からの登用となって、四人衆と荒木氏が同じような立場での体制となったようです。
これは近世に近づくにつれて、政治の要望が、「大量に」「迅速に」、移動や管理が求められるようになり、人員が不足していた事にもよるのかもしれません。
何れにしても、池田家中の大きな問題が克服されるにあたっては、その取り巻く環境に対応させて解決を図ったのでしょう。この再編の過程で、人材の登用も積極化したのかもしれません。
そんな矢先、当主の長正が死亡します。永禄6年2月頃のようです。
<(4)勝正時代>
この時は、後継者が予め決まっていたようで、スムーズに代替りが行われています。
しかしながら、若干の波乱はあり、四人衆の内2名(池田勘右衛門尉正村・同苗山城守基好)が勝正により粛正され、新たに勝正親派の人材が2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)加わります。
この2名を加える事で、その他の荒木氏とのバランスを変える意図があったのかもしれません。意思決定機関の多数派工作の可能性もあります。何れにしてもこの事で結果的に、荒木氏の池田家中での立場は更に強くなったといえます。
勝正は、結束するための摂理の整理、つまり、人員の整備をする事無く、長正からの制度をそのまま引き継いでしまったために、議論の収拾ができなくなったのかもしれません。これは時代のセイかもしれませんが、勝正の当主時代に一度、大きな内訌が起きています。
しかしながら、勝正の代では歴代の中で最大の版図を築くまでに成長します。河内・大和国など、近隣でも知られた存在になっています。
そんな事もあり、問題の種は見えなくなり、うやむやになってしまいます。
そして間もなく、織田信長の入京という日本史の中でも画期の時代を迎え、その対応を迫られました。やはりそれは非常な難題で、結局は家中での議論が紛糾し、闘争となってしまいました。
元亀元年6月、越前国朝倉氏討伐から戻ったところで、池田家中の内訌が起きてしまいました。この時、池田家は摂津守護職を任されていた事もあり、守護所での騒動発生は、室町幕府内でも動揺が広がったようです。
問題の種は時間が成長させ、芽を出し、花を咲かせたのです。
京都奪還を目論む三好三人衆が勢いを増し、旧誼を通じて池田家の調略を行いました。大坂の本願寺には、同じ日野家の縁を通じて三好三人衆に加担する近衛前久が起居もしていました。近衛氏は藤原氏の筆頭で、同じ藤原家系の池田家はこれらの縁故に何らかの活路を見出したのかもしれません。
これらの詳しくは、また別の機会を設けたいと思いますが、この勝正の追放を以て、池田家の歴史は終焉に等しい状態に陥ります。良かれと思ってした事が、結局は混乱を招き、その後の池田家中は更に短い間隔で内訌を繰り返すようになります。
長くなりましたので、続きはまた後で。少々お待ち下さい。次は、元亀元年6月の内訌後から、池田家滅亡までのをご案内します。
池田四人衆とは、国人であった摂津国池田家が、戦国大名として成長する過程で生まれた、家政機関です。
四人衆制度は池田信正が当主であった時代に生まれ、長正、勝正の代まで機能していました。
元亀元年6月の池田家内訌で、当主の勝正が追放され、その時に四人衆も再編されます。その後もその機構を受け継いだ状態で三人衆体制と集約されますが、その時には時代の要請に応えられない状態となってしまい、機能不全に陥ります。
そうなると、家政運営もうまくいかなくなり、結局は血(血統や家系)の争いとなって自滅してしまう事となりました。ですので、四人衆制度の誕生から終焉までを見た時、勝正追放事件を以て、四人衆制度は一旦閉じたカタチとなります。
各時代の体制 |
当主信正が、池田家を発展させる過程で当主を補佐する目的で、一族の中から池田勘右衛門尉正村・同苗十郎次郎正朝・同苗山城守基好・同苗紀伊守正秀の4名がその任にあたったと考えられます。
多分、信正は京都に居た管領の側に仕えるために常駐する必要が出たためで、国元での池田に当主と同等の家政執行機関が必要になって編成されたのでしょう。
その後、信正が不本意に管領細川晴元に切腹させられると、次の後継問題で家中が分裂してしまいます。
<(2)対立時代>
この時、四人衆が擁立する当主候補である孫八郎と、別の当主候補である長正が対立します。その過程で、それぞれが別々の運営体制を持つ事となり、それが暫く続きます。その時間が、立場の固定化を招きました。
それから、この長正の代で荒木氏の登用があったようで、長正の重臣として書状などの公文書も発行しています。この荒木氏の何れかの家系が、荒木村重につながると見られます。
<(3)長正時代>
しかしながら、四人衆が当主として推す孫八郎は、弘治3年に病気など、何らかの理由で死亡します。近世への幕開け的な時代でもあり、家中が分裂している場合でもなかった事から、それらを悟ったのか、四人衆と長正は和解したようです。
これにより、当主は正式に長正となり、家政機関も再編されます。しかし、この時、長正の成長に功労のあった荒木氏を中枢機関から外す事はできなかったらしく、一族の外からの登用となって、四人衆と荒木氏が同じような立場での体制となったようです。
これは近世に近づくにつれて、政治の要望が、「大量に」「迅速に」、移動や管理が求められるようになり、人員が不足していた事にもよるのかもしれません。
何れにしても、池田家中の大きな問題が克服されるにあたっては、その取り巻く環境に対応させて解決を図ったのでしょう。この再編の過程で、人材の登用も積極化したのかもしれません。
そんな矢先、当主の長正が死亡します。永禄6年2月頃のようです。
<(4)勝正時代>
この時は、後継者が予め決まっていたようで、スムーズに代替りが行われています。
しかしながら、若干の波乱はあり、四人衆の内2名(池田勘右衛門尉正村・同苗山城守基好)が勝正により粛正され、新たに勝正親派の人材が2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)加わります。
この2名を加える事で、その他の荒木氏とのバランスを変える意図があったのかもしれません。意思決定機関の多数派工作の可能性もあります。何れにしてもこの事で結果的に、荒木氏の池田家中での立場は更に強くなったといえます。
勝正は、結束するための摂理の整理、つまり、人員の整備をする事無く、長正からの制度をそのまま引き継いでしまったために、議論の収拾ができなくなったのかもしれません。これは時代のセイかもしれませんが、勝正の当主時代に一度、大きな内訌が起きています。
しかしながら、勝正の代では歴代の中で最大の版図を築くまでに成長します。河内・大和国など、近隣でも知られた存在になっています。
そんな事もあり、問題の種は見えなくなり、うやむやになってしまいます。
そして間もなく、織田信長の入京という日本史の中でも画期の時代を迎え、その対応を迫られました。やはりそれは非常な難題で、結局は家中での議論が紛糾し、闘争となってしまいました。
元亀元年6月、越前国朝倉氏討伐から戻ったところで、池田家中の内訌が起きてしまいました。この時、池田家は摂津守護職を任されていた事もあり、守護所での騒動発生は、室町幕府内でも動揺が広がったようです。
問題の種は時間が成長させ、芽を出し、花を咲かせたのです。
京都奪還を目論む三好三人衆が勢いを増し、旧誼を通じて池田家の調略を行いました。大坂の本願寺には、同じ日野家の縁を通じて三好三人衆に加担する近衛前久が起居もしていました。近衛氏は藤原氏の筆頭で、同じ藤原家系の池田家はこれらの縁故に何らかの活路を見出したのかもしれません。
これらの詳しくは、また別の機会を設けたいと思いますが、この勝正の追放を以て、池田家の歴史は終焉に等しい状態に陥ります。良かれと思ってした事が、結局は混乱を招き、その後の池田家中は更に短い間隔で内訌を繰り返すようになります。
長くなりましたので、続きはまた後で。少々お待ち下さい。次は、元亀元年6月の内訌後から、池田家滅亡までのをご案内します。
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