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2024年6月29日土曜日

松永久秀が、幕府政所伊勢貞助などへ宛てた新出史料の特別公開を展覧して

令和6年(2024)6月15日から、高槻しろあと歴史館にて、最近発見された松永久秀書状の展示が行われましたので、見てきました。

その書状は欠年史料でしたが、同館により、天文22年(1553)のものと比定されており、私も内容からして間違いの無い見立てだと思います。
 年記以下は、7月30日付のものですが、内容としては、その近辺の出来事を語った、いわゆる軍記物『細川両家記』『足利季世記』『長享年後畿内兵乱記』、また『言継卿記』の記述に加えて、その正確さを証明するかのように、新出史料は、それらの流れと一致する当時の情報交換が行われています。加えて、既出史料にはない出来事もあり、前述の軍記物などを補足するかのような興味深い要素も見られます。

一方で、同館を訪ねたついでに、何か目新しい資料はないかと物色していると、『しろあとだより:24号(令和4年(2022)3月発行)』があり、それもネット内でダウンロードして、記事を読みました。
 そこには、特に今回の展示を意識したはずは無いと思いますが、天文22年の芥川城落城時の「帯仕山」についての考察記事が載せられていました。
 今回もまた、奇縁がそこに...。私自身も、池田長正の動向を追う中で、天文22年という年が気になっていました。その年は、その前後で、断片的な長正及び池田衆の史料が見られるのですが、関連性を帯びておらず、その記述の意味を判断できずにいました。
 それからまた、この年は、京都の中央政権でも画期を呈した動きがあり、それまでの流れが変わる、要注意の年でもあります。

今回もまた奇縁のおかげで、保留状態にあったところを、前に進める動機を作ってもらいました。
 以下、天文22年の池田長正及び池田衆の動向の思索として、キーワードを挙げておきたいと思います。その前提として、馬部隆弘先生による天文22年頃の京都中央政権についてのご見解を紹介しておきたいと思います。
※戦国期細川権力の研究P705

---(1)---------------------
天文19年から22年までの間に、三好長慶方が臨時公事の賦課に積極的に関与し始めるのは、管領細川氏綱と長慶の主従関係が崩れ、特に天文21年2月に、長慶が御供衆に加えられて幕臣となった事が大きな理由である。ただし、天文22年前半まで、氏綱方と長慶方は、あくまでも別個に文書を発給していて、上下関係は歴然と残っていた。ところが、天文22年後半になると、氏綱内衆と長慶内衆の家格差は大幅に縮まり、両者の連署状が成立する。
 このように、公事と書札礼の両面を踏まえると、氏綱と長慶の関係性は、天文21年と翌22年の二度の転機を経て変化したと指摘し得る。
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これは非常に重要なご指摘で、この事で、これまでの欠年史料の特定が進み、非常に複雑な人物関係が繙かれるに至りました。
 それ故に、私の研究範囲である摂津池田氏の行動についても、ある程度の推測が立つようになりました。大きな前進です。
 この年も、正統な池田家惣領を主張する池田長正と、近世でいうところの家老的組織である池田四人衆の人々は、その主張を認めず、分裂していた可能性が高いように思われます。

例えば、欠年史料で、12月15日付けの池田四人衆が、当郡中所々散在へ宛てて下した禁制的法度は、後の考証(若しくは備忘録的メモ書きかもしれません)で「天文22年」としてありますが、実はこの考証は、馬部先生の研究成果による恩恵で、正確である可能性が増した訳です。池田四人衆の池田勘右衛門正村・池田十郎次郎正朝・池田山城守基好・池田紀伊守正秀が、当郡中(摂津国豊嶋郡)所々散在へ宛てて音信(折紙:直状形式)。
※箕面市史(資料編2)P411

---(2)---------------------
箕面寺山林所々散在従り盗み剪り者、言語道断の曲事候。宗田(池田信正)御時之筋目以て彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在る於者、則ち成敗加えるべく由候也。仍て件の如し。
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箕面寺中枢機関であった岩本坊

この文書内容についてですが、実は天文20年5月付けで、同じ内容のものが、池田長正により作成されています。その後に、同内容で上記の触れを池田四人衆が出すというのは、その前例の打ち消しであり、その時点での権力の表明でもあります。
 これは、天文22年8月18日、細川晴元方の多田・塩川勢力が、「池田表」にて蜂起するのですが、失敗します。この事で芥川城は利を失い、この翌日に芥川城の芥川孫十郎(右近大夫)は、降伏を申し入れます。
 よって、この「池田表へ蜂起」に、池田長正が晴元方として加わっていたのではないかと、推測できるようになります。

池田長正は、先代惣領の筑後守信正の子でありましたが、その妻の舅である三好政長(宗三)が、その立場を悪用して、長正を介し、池田家そのものを乗っ取ろうとしていました。それがために、池田家中からは猛反発を受けていました。その中心を担ったのが、池田四人衆であった訳です。
 故に長正は自らの身分と権力の裏付けを、外来権力に頼らざるを得ず、三好政長を側近として重用した管領細川晴元の権力に依存した権力体となっていました。よって長正の行動も活動拠点も、常に晴元権力の所在地にあったと考えられます。
 逆説的にみれば、長正は池田城内には起居する事ができなかったとも考えられます。少なくとも天文22年当時は、城内に居住する条件になかったと思われます。
※細川両家記(武家部:群書類従20号)P613、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

---(3)---------------------
『細川両家記』天文22年条:
一、同8月18日、細川晴元方の牢人衆多田・塩川方衆一味して池田表へ打ち出され候といえども、存分成らずして則ち明くる日帰る也。
『足利季世記』天文22年・芥川落城之事条:
8月18日、晴元方の牢人摂津国多田の塩川伯耆守に一味して、池田表へ蜂起し、芥川の後巻きをせんと企みけれども叶わず散々に成り行けば。
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軍記物とはいえ、今よりもこの当時は、言葉選びには慎重だったと思います。「蜂起」という言葉をどうして選んだのでしょうか?「責め」ではなく。池田家内部からの動きも感じさせるのですが、ちょっと気になります...。
 そして、上記の軍記物の正確さを裏付ける、当時の史料が存在します。前管領細川晴元方塩川国満が、天文22年8月22日付で、池田表を攻めたことについて、平尾孫太郎某へ感状を下しています。
※池田郷土研究8-P39

---(4)---------------------
去る18日(8月18日)池田表に於いて太郎右衛門尉討死、比類無き忠節候。なお委細新九郎申すべく候。恐々謹言。
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芥川城からの遠望(撮影:2001年2月)
それからまた、芥川城に籠もっていた芥川孫十郎も、細川晴元権力に依存する人物で、その家中において池田長正と同様の構図・立場にありました。孫十郎は、三好氏一族に迎えられていましたが、叛服常無く、いわゆる「問題児」でした。
 そのような境遇から、この芥川孫十郎と池田長正は、しばしば行動を共にし、共通の目標に向かう動きもしていました。その状況を知る一端として、天文21年6月4日付けで、松永久秀が京都大徳寺塔頭大仙院侍衣禅師へ宛てた音信に、池田長正と芥川孫十郎についての記述がみられます。
※戦国遺文1-P121など

---(5)---------------------
尊書拝受致し候。仍って今度丹波国の儀、不慮の次第候。悪逆人の儀、退治の行候処、摂津国人池田兵衛尉(長正)・小河式部退城仕り候。則ち池田の城存分に申し付け候。芥河孫十郎事も造意の段白状候て、種々懇望半ば候。何れの道にも手間入るべからず候間、御心安く思し召されるべく候。此等の趣き、宜しくご披露預け候。恐々謹言。
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また更に、この史料について、軍記物の記述があります。天文21年5月23日、三好長慶が丹波国八上城を攻めていたところを、形勢不利となって陣を解き、撤退します。それについての記事です。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P612、長享年後畿内兵乱記(続群書類従第20号上:合戦部)P318

---(6)---------------------
『細川両家記』天文21年条:
(前略)5月23日の夜半に三好筑前守長慶勢、摂津国衆諸陣悉く有馬郡へ引き退かれ候なり。(後略)
『長享年後畿内兵乱記』天文21年条:
(前略)5月23日夜、丹波国多紀郡高城と雖も三好筑前守長慶取巻く。芥河・池田・小河反逆に依り取退雑節。(後略)
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池田長正と芥川孫十郎は、常に呼応した動きをする事が多く見られます。これは、共通の利益や状況を持つ、仲間的な行動だと、資料上から読み取れます。また、このことから軍記物の大筋の正確さは、信用に足りる(100パーセントとは言えなくても)ものであることも判ります。

八上城遠景(撮影:2006年10月)
天文22年の夏、三好長慶が、その一族でありながら芥川孫十郎を芥川城に攻めたのは、丹波国方面から近江国西部にかけて、細川晴元方勢力の拠点があり、これと孫十郎が結び付いていた事からの処置でした。
 また、この年、将軍義輝も細川晴元を擁護する動きを見せ、行動を共にしていました。加えて、晴元には、摂津国の塩川・多田氏や能勢方面でも加担する勢力がありましたので、池田長正も丹波・摂津国境のあたりに居て、行動の機を謀っていたものと思われます。
 そんな中、芥川城を占領した三好長慶は、直ちに晴元勢を追って、丹波国に攻め入ります。この時、池田衆も従軍していますが、これは池田長正ではなく、池田四人衆方の勢力であったと考えられます。
 しかしながら、長慶方の軍事行動は、この時はうまく行かず、撤退。池田衆にも何らかの損害が出ていたようです。
※言継卿記3-P72、群書類従20号(武家部:細川両家記)P614、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

---(7)---------------------
八木城からの遠望(撮影:2001年10月)

『言継卿記』9月19日条:
癸亥、天晴、天専終、戌刻自り雨降り。(中略)昨日(18日)丹波国へ立ちたる三好人数敗軍云々。内藤備前守・池田・堀内・同紀伊守・松山・石成等討死云々。但し松永弾正忠(久秀)殊無き事云々。
『細川両家記』天文22年9月3日条:
(前略)同18日に後巻して此の衆打ち勝ち、内藤肥前守(備前守)国貞・永貞父子と池田、堀内を打ち取り。此の外数多討ち死也。然れ共松永兄弟は難なく打ち帰られ候也。此の時内藤方の城丹波国八木難儀候所、松永甚長頼は内藤備前守聟也ければ、此の八木城へ懸け入り、堅固なる働きとも見事なるかなと申し候也。
『足利季世記』天文22年(芥川落城之事)条:
(前略)同18日、城よりも突きて出て、相戦う半ばに晴元より香西越後守元成・三好右衞門大夫政勝(宗三子息)大将にて後巻きあり。松永が後陣に控えたる内藤備前守・池田・堀内等を打ち取りければ悉く敗北して、寄手散々に落ち行ける。大将(別働隊)討たれければ、内藤が居城八木の城明けるに、松永甚介此の城に入りて敗軍を集め、城を持ち固めける。松永は内藤備前守が聟なれば、城中にも一入頼もしく思いける落ち武者かく計らいける事、武功第一也と沙汰しける。
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天文22年付けの諸史料にみられる、摂津池田についての記述は、やはり、このように池田長正と池田四人衆が、晴元・細川氏綱(管領現職)両派に分かれて行動しています。その視点で見れば、既知(既出)の資料群は、矛盾の無い記述内容です。

そしてこの年の暮、既述の12月15日付(史料2)で、池田四人衆が当郡中所々散在に宛てて下した法度は、池田衆にとっての縁故寺院であり、且つ、摂津・丹波国境に近い場所で、氏綱方の池田四人衆が勢力を得て、先に下した池田長正権力の効果を削ぐ意味を示したものであろうと考えられる訳です。池田四人衆の権力が優位に立ち、その時局を進めたようです。
 これ以降、池田長正は史料・軍記物でも見られなくなり、代わって池田四人衆関連の史料が頻出するようになります。

そういう意味で、今回の高槻しろあと歴史館にて行われた、松永久秀の新出書状展示は、この重要な、天文22年の京都中央政治構造の解明に寄与する発見だったと思います。

追伸:
この激動の年、更にこのような大事件もありました。6月9日、阿波守護であった細川讃岐守持隆(氏之?)を三好豊前守(長慶実弟)が殺害。持隆は細川晴元と兄弟であり、政治・軍事上の何らかの障害になっていると考えたのでしょう。しかし、これは「主殺し」であり、当時の倫理観に照らしても、国内外に動揺が走ったと思われます。
 8月13日、将軍義輝が都落ちし、その勢いに陰りがみられたこともあり、幕府奉行衆が大量に離反して、京都に戻ります。三好長慶は、地域統治に於いて、それらの協力も得られることとなりました。
 そして、これらの動きを見ていた、阿波足利家が、京都の中央政権復帰を望み、上洛の構えを見せます。大坂本願寺などへ関係各所へ音信を行っていました。

これらの要素を個々にみれば、新聞記事を見るのと同じですが、やはりこれらの動きは関連性があって、欲求や何らかの高まりの中で、連鎖して起きています。この頃には実力者に成長していた三好長慶は、解決すべき要素に優先度をつけて、各々解決を計ったために、この後、大きく飛躍していきます。


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2017年6月9日金曜日

摂津池田家とその領知内の人々の所属意識について考える(津池田家から荒木村重へ)

例えば、「大阪人」とか、「○○市民」とか、「日本人」といった、生きるための所属(帰属)意識というのは、その社会の真っ只中に居ればあまり必要ないのですが、個人の本拠(物理的・意識的な)や文化圏は必ずあり、古今東西、絶えたことはありません。自分自身の経験からも、それは必ずあり、状況に応じて必要になります。

しかし、現代よりももっと生存環境が厳しく、個人がどこかに所属しなければ生きていけなかった戦国時代には、そういう感覚はどうなっていたのかと、個人的に興味がありました。勿論、一番身近な運命共同体である、家族や村といったところの感覚はある程度理解できますが、その範囲を拡げたところの「郡」や「国」といったところの感覚はどういうものだったのかという部分です。この内、「国」もある程度想像はつきます。
 この感覚は、協働や連帯には必要な事で、逆にそれが無ければ社会はまとまらず、地域社会(コミュニティー)は成立しません。この所属意識は、その社会や生活の「核」になる重要な感覚であり概念(文化)だと考えています。

それで、こういった感覚が、戦国時代の摂津池田一族の中にどのようにあり、また、それに関係する人々にもあったのかどうか、とても興味がありました。しかし、確たる資料も見つけられないまま、また、あったとしても膨大な史料の言葉の何が、それにあたるのかも判らず、漫然と史料を読み飛ばしていました。

そんな中にあって、ある日、大変興味深い論文と出会い、その自分の永年の疑問が氷解し理解も進みました。やはりそういう意識はあったのです。
 『中世後期畿内近国の権力構造』の中で、田中慶治氏は、中世後期の宇智郡には、一郡・惣郡という意識があったものと思われる。この一郡・惣郡という意識が、宇智郡に独自性・独立性を与え、惣郡一揆の成立に影響を及ぼしたものと思われる。、と見解を述べています。
 
以下、同論文を続けて少し引用します。なお、史料番号は、『中世後期畿内近国の権力構造』の番号に倣います。
※中世後期畿内近国の権力構造P268

(史料14)----------------------------
【坂合部氏定書】
一、木原村・畠田村ハ牧野殿ノ御領中ニテ御座候へ共、知行ハ坂合部へ取、万事人足百姓是也。
(中略)
一、坂合部幕之文(紋)ハ井筒ニ山鳩、然共同名エモ前々ヨリ井筒計ユルシ申候。
一、石井喜兵衛エモ同名ニナシ申候事ハ、世ニカハリテカラノユルシニテ候、是ハ紀州伊都郡ノ侍衆宇智之郡侍衆ノ中ニテ手柄ヲモツテ同名ニナシ申候。其時両郡之侍衆より御褒美トシテ具足太刀刀被下候ニ付、坂合部殿モ是ニコシス御喜候テ井筒ニ山鳩ノ紋クタサレ候。是ハイマモツテノ事ニテ候。井筒ニ山鳩ノ紋ハムカシヨリ後々マテ有間敷候也。

 永禄11年9月19日
  坂合部兵部之大夫頼重(花押)
  辻元伝助政清(花押)
  誠神蘭之助正経(花押)
  古沢又之丞正次(花押)
----------------------------(史料14おわり)

これについて、『中世後期畿内近国の権力構造』は史料解析し解説を加えています。簡単に触れます。

(史料解析)----------------------------
【史料14】は、大変興味深い史料である。この史料から、石井喜兵衛という侍が手柄を立てたことにより、同名成していることがわかる。池上裕子氏は、伊賀惣国一揆が百姓の侍成を行っていることに注目された。そして惣国一揆による侍成を戦国大名が行使した権限と同じであるとされ、伊賀惣国一揆を惣国一揆の到達点とされた。
 とするならば、坂合部同名中の行っている侍の同名成という身分変更も、戦国大名が行使した権限と同じである、同名中の到達点を示しているといえるのではないか。
 また宇智郡、伊都郡両郡の侍衆が石井喜兵衛に褒美を与えていることから、この時期、国人衆や百姓衆ばかりでなく、侍クラスの者も一揆を結んでいたこともうかがえる。(後略)
----------------------------(史料解析おわり)

とあります。更に続けます。
※中世後期畿内近国の権力構造P281

(史料22)----------------------------
【畠山政長判物】
為郡衆使者、大岡参洛、誠感悦不少候。殊従惣衆中太刀一腰、金200疋到来今時分祝着至候。明春者早々可令進発候之間、各堪忍肝要候。併憑入候之外、無他候。謹言。
 12月12日    政長(花押)
  三ケ殿
----------------------------(史料22おわり)

(史料23)----------------------------
【畠山卜山(尚順)判物】
就き其方働之儀、度々注進趣、得其覚候。尤神妙候。敵未大澤小峯楯籠之由候。然者早々伊都郡衆申談可被取懸候。此口之儀者、近明ニ可合戦候。委細猶林堂忠兵衛可申候。謹言。
 8月21日    卜山(花押)
  宇智郡衆中
----------------------------(史料23おわり)

「史料22」と「史料23」の史料解析をまとめてご紹介します。
※中世後期畿内近国の権力構造P281

(史料解析)----------------------------
【史料22】は宇智「郡衆」が、「惣衆中」として、畠山政長に金品を贈ったことに対する政長からの礼状である。この中で政長は、宇智郡の武士を「郡衆」、「惣衆中」として把握している。畠山氏が宇智郡を一郡として掌握していたことがわかる。
【史料23】は宇智郡の武士に、畠山卜山が出陣を命じたものである。卜山はこの文書の宛先を「宇智郡衆中」としており、宇智郡の武士をグループで把握していることがわかる。この史料からも畠山氏が、宇智郡を一郡として把握していたことがわかる。
 また【史料23】では、卜山は、宇智郡衆に伊都郡衆と相談して攻撃するように命じている。第2節であげた【史料14】でも、宇智郡と伊都郡の武士が緊密な関係にあることがうかがえた。これらのことから、戦国時代の宇智郡の武士と伊都郡の武士が連携して行動していたことが指摘できる。
 中世後期の宇智郡には、一郡・惣郡という意識があったものと思われる。この一郡・惣郡という意識が、宇智郡に独自性・独立性を与え、惣郡一揆の成立に影響を及ぼしたものと思われる。(後略)
----------------------------(史料解析おわり)

こういった戦国時代の人々の所属意識について、それに関する論文を全て調べた訳では無いのですが、偶然に読んだ論文に、私の疑問を解く研究があり、非常に驚くと共に巡り合わせに感動しました。

この論文の視点を元に、摂津池田氏関連の史料を見てみます。すると、いくつかの気になる要素があります。何れも摂津国豊島郡箕面寺(現箕面山瀧安寺:大阪府箕面市)への文書ですが、それらを年代順にご紹介します。
 また、それらの文書形式は「直状形式」で、これは上位権力からの下達で、横並びの関係ではなく、上から下(身分)への通達です。

先ず、後の考証などで天文22年(1553)とされている池田勘右衛門尉正村・同十郎次郎正朝・同山城守基好・同紀伊守正秀などいわゆる池田四人衆が、「当郡中 所々散在」へ宛てたものを見たいと思います。日付は12月15日です。
※箕面市史(史料編2)P411

(史料1)----------------------------
箕面寺山林従所々散在盗取(剪)者言語道断曲事候。宗田(池田信正)御時之以筋目彼寺へ制札被出間、向後堅可令停止旨候。若背此旨輩於在之者則可加成敗由候也。仍件如。
----------------------------(史料1おわり)

【史料1】については、史料には元々年記が無かったようで、後年の考証などによっているので、本当に天文22年のものかという根本的な課題はあるものの、今のところ、この史料を額面通りに受け取るとすると、この頃は池田家当主の信正が不慮の切腹をさせられた事により、家政の混乱があった時期でした。
 正式に次の当主も決めていなかった状況だったようで、その空白を補うために、近世江戸時代でいうところの「家老」のような人物が一時的に家政の中枢を担っていたようです。
 文中の「宗田」とは信正の法名(入道号)で、信正の時の取り決めを今後も踏襲する旨を約す内容です。
 そして中でも重要なのは、宛先に「当郡中 所々散在」とある事で、豊島郡内という範囲を設けています。これは池田家の力の及ぶ範囲と思われ、また、池田家にとってはその責任の範囲の表明であったと考えられます。
 ですので、その中に住んだり権利を持っていたりする場合は、池田家から保護を受け、被対象者はそれを意識する訳です。

続いては、永禄6年(1563)3月30日付けで、池田勝正が箕面寺岩本坊に宛てた文書です。この時は、勝正が池田家当主になった直後で、対外的な新体制表明の意味があったと思われます。また、岩本坊は、箕面寺の中心的な存在です。
※箕面市史(史料編2)P413

(史料2)----------------------------
当郡其外拝領之内御買徳之事、縦雖為売主欠所■行々徳政之儀、当知行之筋目■不可有相違者也。仍為後日状如件。
■=欠字
----------------------------(史料2おわり)

【史料2】は、少し時代が下っていますが、池田家の当主が変わっても豊島郡内と箕面寺が持つ権益に対して、郡外であっても保護を約束する旨を伝えています。これは岩本坊に宛てられており、寺との直接的な契約を行っていることが判ります。

更に、池田勝正の史料が続きます。永禄12年(1569)3月2日付けで、筑後守(任官・名乗りはこれより前と思われる)となった勝正が箕面寺岩本坊へ宛てています。
※箕面市史(史料編2)P413

(史料3)----------------------------
当郡其外拝領之内散在御買徳分儀、縦売主雖欠所並徳政 公方(将軍義昭)徳政成候令免除者也。殊先年折紙進之候上者、尚以不可有別儀候。仍如件。
----------------------------(史料3おわり)

【史料3】は、この頃、中央政権である京都で、新将軍の就任がありました。足利義昭がその座についたのですが、永年続いた三好氏系の関連勢力では無く、その敵対勢力が最高権威の座に就きましたので、それについて地域社会の動揺を抑える意味もあってか、これまで通りに契約を履行する事を確認する内容になっています。
 また、文面はそれまでとほぼ同じですが、新政権で実施される「徳政」についての文言が追加され、寺の利益を損なわないようにする事を約束して、不安の払拭に努めています。

続いては、荒木村重が池田四人衆のメンバーに混じって署名している史料です。この史料は年記を欠きますが、個人的には白井河原合戦に勝利した後の新体制の表明として発行した音信と考えており、元亀2年(1571)と年代を推定しています。
 日付は11月8日で、署名者は、池田十郎次郎正朝・荒木信濃守村重・池田紀伊守正秀、宛先は「当郡中 所々散在」です。
※箕面市史(史料編2)P411

(史料4)----------------------------
箕面寺山林自所々散在盗取由候。言語道断曲事候。宗田(池田信正)御時以筋目彼寺へ制札被出間、向後堅可令停止旨候。若背此旨輩於在之者、則可被加成敗由候也。仍如件。
----------------------------(史料4おわり)

【史料4】は、この前年(元亀元年:1570)に池田四人衆の内、当主池田勝正寄りの2名が殺害され、残り2名となったところに荒木村重が加わって、3名体制になっていた事を示す史料と考えられます。
 この体制を「池田三人衆」と個人的に呼んでいますが、この新たな主導体制に替わった事で、関係する各所に保証についての表明を行っていると考えられます。内容は天文22年とされる池田四人衆の発行した文書と、それは全く同じです。宛先も同じで、豊島郡中の所々散在です。
 またこれは、池田家の権力の中心を示すものであり、顔ぶれとその人物の行動が実現できる環境としては、地域闘争で圧倒的な勝利を得た、白井河原合戦の直後でしかないと考えられます。

続いては、荒木村重の統治下となった摂津国豊島郡に村重とその一族の同名平大夫重堅が、村重の禁制に対する副状を発行しています。天正3年11月26日付けで、重堅が「当郡中 所々散在」に宛てています。
※箕面市史(史料編2)P415

(史料5)----------------------------
箕面寺山林盗取之者、所々散在言語道断状事候。先規筋目を以彼寺へ村重御制札被出置之間、堅可為停止旨候。万一於異儀者可加成敗由候也。仍如件。
----------------------------(史料5おわり)

【史料5】は、この時期、織田信長政権下での荒木村重の地位も確立され、安定的な地域内評価も得られ始めていた頃です。
 この前年、天正2年いっぱいまでは、京都周辺でも足利義昭の勢力も侮れず、動乱の余震は続いていました。池田家との闘争にも打ち勝ち、遂に池田家存続の核心的要素である、箕面寺にも禁制を下し、池田家当主と同内容の文書も下す事となった村重は、池田家に取って代わる勢力である事が認められた証拠でもあります。
 
これらの史料を見ると、やはり「郡」という単位を一定の基準として持っていた事が判ります。同時に、権利と義務といった契約やその中で生きるための生活も必ずありますので、意識というものも存在した事は確実です。
 池田家はこの豊島郡を中心に活動した勢力ですが、時代を経ると勢力を拡大させ、その周辺にも影響力を持つようになります。豊島郡という旧来の概念とは別に「下郡」という、千里丘陵以西から西宮あたりの平地を指す概念も戦国時代にはあって、豊島郡内にとどまらず勢いがあれば、旧来の郡域の外側にはみ出していきます。

今の自治体単位に置き換えると、豊島郡である池田市・箕面市・豊中市・豊能町を中心として、吹田市や川西市などにも池田家の勢力が及ぶようになっていました。
 それ程の地域を池田家が中心となって統治するのですから、相当な人数が必要になりますし、そこに暮らす人々の安全や営みの支えも築く必要があります。そういう中での信頼関係も結ばれなければ、地域は成立しません。
 それが地域の「核」であり、池田家の活動の「核」だと思います。歴史を見るには、その核がどこにあるのかを見る必要がります。対象によって色々ありますけども、摂津池田家の存続の「核」は、豊島郡への意識だったのだと思います。


参考サイト:箕面山瀧安寺公式サイト