はじめに
令和6年(2024)8月14日頃に報道されました、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状について、そこに摂津池田家の事も記述がありました。
この史料の意味やこの時の状況について検討してみたいと思います。以下の翻刻から、いくつかの要素ごとに説明をしたいと思います。
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条目
一、池田当知行分、并前々与力申談候、
但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者、可被加御異見之事。
右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
元亀元 弾正忠
八月 日 信長 (朱印 天下布武)
細川六郎殿
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なお、翻刻については、山梨県在住のAさんや兵庫県在住のNさんに助けていただきました。大変ありがたく、感謝致します。私は崩し字が未だ、ほぼ読めないため、無理をお願いしました。Aさん、Nさん、ありがとうございました。
上記の史料について、以下の要素から、その意図や意義について、考えてみたいと思います。
- 元亀元年当時の戦況
- 併せて見るべき関連性の高い史料
- 細川六郎と三好三人衆 ← NEW(2024.10.5)
- 摂津池田家の動き
- 元亀元年頃の播磨国方面の事
- 敵方(組織)の求心力を削ぐ目的があった
※三好方の世代交代期だった
※四国攻めの準備もしていた経緯から内情は概ね把握していた - 結果的に目標が達成されて、細川六郎が降る
天下布武の印章(出典:wikipedia) |
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