戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
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戦国武将_近江浅井氏
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2014年1月29日水曜日
荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その3:幕府(織田信長)が五畿内など諸勢力に対して人質を出すよう命じた事について)
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将軍義昭を中心とする幕府は、信用できるに足る実力があるのかどうか、京都周辺の大名や権門など、諸勢力が注意深く見、観察していました。 一方で、その幕府に敵対する勢力、三好三人衆などを中心とする反幕府勢力の動きも侮れないものがありました。諸勢力は家名を保つために、どちらに加担す...
2014年1月22日水曜日
荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その2:越前国朝倉氏攻めについて)
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越前国朝倉攻めは、将軍義昭・織田信長方にとって、当初から目的化されていた事です。有無を言わせず、潰す予定だった事が、当時の史料からも判ります。 一方、将軍義昭は、幼い頃に奈良興福寺一乗院に入り、僧として生活してきた人物であり、将軍としての帝王学を学んでいないばかりか、武家と...
2013年11月21日木曜日
荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(はじめに)
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元亀元年(1570)6月、荒木村重も加わった池田家内訌は、突然起きたように見えますが、そこに至るまでには原因があります。その出来事の前後を見れば、それはよくわかります。どんな事もそうですよね。 個人的に池田家の内訌については、朝倉・浅井攻めの最中に起きており、将軍義昭・織田...
2011年6月15日水曜日
元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか。
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元亀元年の幕府による朝倉攻めでは、なぜ安全な湖東の浅井氏領を進軍ルートに選ばなかったのでしょうか。ふと、そんな事を考えました。 一方で、浅井方は味方である事は疑いの余地がないので、ここは安全地帯として、湖西の敵方を制圧するためにルート設定を行ったとの考えも可能です。 現...
2011年6月8日水曜日
元亀元年、浅井氏は自衛的戦争に踏み切ったのではないか?
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戦国大名というか、国人というか、近江国北部の有力者であった浅井長政などその一族については、織田信長と姻戚関係を持った事から、歴史の表舞台に取りざたされる事が比較的多いのですが、しかし、じっくり知りたいと思って調べてみると、意外と研究が進んでいない様な印象も受けます。 最近は...
2011年5月10日火曜日
元亀元年の浅井氏謀反は、織田信長に「突然」の認識が本当にあったのか。
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最近、元亀元年の織田信長(幕府)による、朝倉攻めの事が気になって、色々と調べています。 ふと思ったのですが、永禄13年(元亀元)の1月23日に発行した、諸大名への触れ状を見ると、そこに朝倉氏の名前は無く、また、朝倉氏に連れ去られた若狭守護家筋の武田孫犬丸元明の名がそこに記さ...
2011年4月11日月曜日
元亀元年の摂津守護池田勝正の金ヶ崎・天筒山城攻めについて
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7月にちょっと池田勝正について講演させていただく機会を得ていまして、現在色々と資料の整理をしています。「朝倉・浅井攻めと池田勝正」というような方向性で、内容を考えています。 普段は、仕事が終わって寝る前とか、休みの日などに、ひたすら資料を読んで調べるのですが、時々、現地に出...
2010年12月29日水曜日
元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程
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また、ちょっと元亀元年越前朝倉攻めについて考えてみます。この時、摂津守護格として、池田勝正が三千の兵を率いたとの記述から、幕府方武力の中核的な存在であったと考えられます。これ程の数を一家で出せるのは、畿内地域でも、そう多くはありません。この時、明智光秀も幕府衆として従軍していま...
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