1570年(元亀元)6月の摂津国池田家中の騒動は、荒木村重にとっても、時の幕府にとっても大きな転機となった出来事でした。
未だに謎の多い、荒木村重ですが、織田信長政権を支えた武将の一人として活躍し、それについては色々と知られつつあるようです。
そんな村重について、情報を更に掘り下げようとすると、信長時代の数年間の事しかわからず、それ以前の池田家中での行動となると、ほとんど知られていません。ウィキペディアなど、村重について取り上げた記事を読んでみると、内容はほとんど同じで、村重の出世のエピソードとして、この池田家内訌から取り上げられている場合が多いようです。しかし、それらの内容も大体は正確ではありません。
実は織田信長、時の幕府の研究をする上でも、元亀元年のこの池田家の内訌については、非常に重要な要素を孕んでいるのですが、詳しく研究されたものは見た事がありません。
そんな状況であり、自分で調べなければ何もわからないので、10年以上かかって池田勝正の事を調べる内に、この池田家内訌の事も色々と解ってきました。
それからまた、来年の大河ドラマで荒木村重も取り上げられるようですので、そのお役に立てばと思い、村重も関わった池田家内訌について、いつものように、いくつかに分けて、ご紹介したいと思います。
さて、本題です。
元亀元年6月の池田家内訌は、18日から19日にかけて起きたようですが、当然ながら、その争いに至るまでには色々な要因が積み重なっています。様々な鬱積が重なり合って、内訌のカタチで爆発している訳です。
それらの要素を含め、順に説明していきたいと思います。先ずは、その当時に記録された、池田家内訌についての史料をご紹介します。最初に、京都に居た公卿山科言継の記録を見てみましょう。池田家内訌については、19日〜26日までの条で見られます。
※言継卿記4-P424
-史料(1)---------------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。又阿波・讃岐国の衆三好三人衆、明日出張すべくの由注進共之有り云々。(後略)。
6月20日条:
(前略)。武家へ参り、摂津国池田二十一人衆、四人衆の内同名豊後守(正泰)・同名周防守正詮両人昨日生害云々。惣領筑後守勝正刀根山へ落ち行き、次に大坂へ落ち行き、小姓両人、小者両人計り、観世三郎元久供云々。御前(将軍義昭)に参り、様体申し入れ了ぬ。次に幕府衆上野中務太輔秀政(500計り)、細川兵部大輔藤孝(200計り)、一色紀伊守某・織田三郎五郎信広(100余り)、都合2,000計り、摂津国山崎迄打ち廻り云々。彼の方(山崎方面)自り注進、三好左京大夫義継衆金山駿河守信貞、竹内新助(所属不明)等参り、種々御談合共之有り。
6月26日条:
(前略)。池田筑後守勝正、三好左京大夫義継同道せしめ上洛云々。池田の城へ三好日向守・石成主税助等之入り由風聞。
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山科言継は、京都在住の公卿である事から、いち早く情報を掴み、関心を以て記録しています。また、彼は個人的にも池田家中の重要人物である池田紀伊守正秀とも面識があり、池田家の事はよく知っていたようです。池田氏は、幕府を支える摂津守護職を任される家であり、その意味でも重要な立場にあった事から、関心の高さは自然な事です。
それから、奈良興福寺多聞院の坊官である英俊が、この池田家内訌について、日記に残しています。この多聞院英俊は、永禄9年から同11年にかけて、三好三人衆と松永久秀が闘争を続けた際、奈良とその周辺に池田衆が度々出陣しており、摂津池田家については、その事を通して知るようになっていたようです。そのため、関心があったのか、日記にも池田家内訌についての情報を書き留めています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P194
-史料(2)---------------------------------------
6月22日条:
(前略)。去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内二人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
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更に『細川両家記』という、いわゆる軍記物にも、池田家内訌についての記述があります。ちなみに同書は、取扱いに注意を要する軍記物の中では、特別扱いされる資料で、内容が割と正確である事から一級資料と目されています。その資料の池田家内訌部分を見てみましょう。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634
-史料(3)---------------------------------------
一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。相残り池田同名衆一味同心して阿波国方へ使者を下し、当城欺(あざむ)き如く成り行き上は、御方へ一味申すべく候。不日に御上洛候儀待ち奉り由注進候也。並びに摂津国欠郡大坂へも信長より色々難題申し懸けられ条、是も阿波国方へ内談の由風聞也。旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭藤賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息同苗徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同苗備中守、同苗帯刀左衛門、同苗久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。
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最後に、伝承資料をご紹介します。『荒木略記』という系図中の代表的人物に説明を付けてある、家系図と伝記が一つになったような資料があります。その村重の項目には、元亀元年6月の池田家内訌の事が記述されています。ちなみに、村重以外にも色々と記述があるのですが、それらは誇張してある事に加えて、事実誤認が沢山あります。何百年も後になって書かれているものはこういった内容のものも多くあります。これは資料としては取扱いに注意が必要です。参考までにご紹介します。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P1
-史料(4)---------------------------------------
荒木村重条:
(前略)。然る所に池田勝正作法悪しく、武勇も優れ申さず。右に申し候桂川合戦の時も家来は手柄共仕り候に打ち捨て、丹波路を一人落ち申され候。か様の体にては、池田を和田伊賀守・伊丹兵庫頭に取られ申すべく事治定に候間、勝正を牢人させその子息直正と申し候を取り立て大将に仕るべくとて勝正の侍大将仕り候池田久左衛門尉(後に備後守と申し候)を取り入れ、荒木一家中川瀬兵衛尉清秀相談にて勝正を追い出し、直正を取り立て候所に、直正猶以て悪人に候に付き、此の上は大将に仕るべく者無く候間、荒木一家瀬兵衛尉清秀・池田備後守申し合わせ、(後略)。
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これらの資料を考え併せると、以下のような状況が浮かんできます。先ずは箇条書きで要素を抜き出してみます。
次に、それらの要素を踏まえ、詳しく状況を分析してみたいと思います。
内訌は、18日〜19日にかけて家中で内訌が起き、19日、その過程で重臣2名が殺害され、当主池田勝正は池田城を出ます。勝正は、小姓2名、小者2名程、観世三郎元久を連れて、一旦刀根山へ落ち、その後大坂へ向かったようです。勝正はその足で京都へ向かい、将軍義昭と面会し、状況説明を行っているようです。
勝正のこの時の足取りですが、文面通り受け取って、大坂に一旦入ったと考えるには少々矛盾が起きるように思えます。この頃、大坂の本願寺方は既に三好三人衆方でもありましたし、その城内には三好三人衆方であった公卿近衛前久が身を寄せていましたので、そんなところをウロウロしていては、直ぐに通報もされますし、物騒です。
勝正は池田城を出て、直ぐに将軍義昭へその状況を伝えています。速やかに報告しようとするのは、当然の事です。
ですので、勝正は大坂に入らず、能勢街道を使い、刀根山から小曽根方面などへ出、吹田を経由して京都へ向かったと考えられます。その間にある原田城に一旦寄ったかどうかは、今のところ判りませんが、大坂まで南下すると時間が余計にかかります。
それから、勝正本人が将軍へ報告を直接行ったかどうか、厳密に見ると『言継卿記』から読み取れないところもありますが、この前後の環境や一次情報を重視する当時の環境からして、将軍義昭の近江国(高島郡)への動座を控えた重要な時期でもあり、摂津守護職たる勝正がその報告を直接行う必要性があったと考えられます。文中の「御前」に出たのは、供の小姓や観世三郎ではなく、勝正自身を指すと思われます。
報告を受けた将軍義昭は、その事態の深刻さから、すぐ様、近江国出陣の延期を関係者に通知しています。ちなみに、池田家の内訌が伝わった18日にも将軍義昭は近江国出陣の延期を関係者に通知しており、この出陣でも池田家は幕府方の中心的な役割を果たす重要な位置付けであった事が窺えます。
次回は、池田家内訌に至った原因を考えてみたいと思います。
未だに謎の多い、荒木村重ですが、織田信長政権を支えた武将の一人として活躍し、それについては色々と知られつつあるようです。
そんな村重について、情報を更に掘り下げようとすると、信長時代の数年間の事しかわからず、それ以前の池田家中での行動となると、ほとんど知られていません。ウィキペディアなど、村重について取り上げた記事を読んでみると、内容はほとんど同じで、村重の出世のエピソードとして、この池田家内訌から取り上げられている場合が多いようです。しかし、それらの内容も大体は正確ではありません。
池田城跡公園の大手門 |
そんな状況であり、自分で調べなければ何もわからないので、10年以上かかって池田勝正の事を調べる内に、この池田家内訌の事も色々と解ってきました。
それからまた、来年の大河ドラマで荒木村重も取り上げられるようですので、そのお役に立てばと思い、村重も関わった池田家内訌について、いつものように、いくつかに分けて、ご紹介したいと思います。
さて、本題です。
元亀元年6月の池田家内訌は、18日から19日にかけて起きたようですが、当然ながら、その争いに至るまでには色々な要因が積み重なっています。様々な鬱積が重なり合って、内訌のカタチで爆発している訳です。
それらの要素を含め、順に説明していきたいと思います。先ずは、その当時に記録された、池田家内訌についての史料をご紹介します。最初に、京都に居た公卿山科言継の記録を見てみましょう。池田家内訌については、19日〜26日までの条で見られます。
※言継卿記4-P424
-史料(1)---------------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。又阿波・讃岐国の衆三好三人衆、明日出張すべくの由注進共之有り云々。(後略)。
6月20日条:
(前略)。武家へ参り、摂津国池田二十一人衆、四人衆の内同名豊後守(正泰)・同名周防守正詮両人昨日生害云々。惣領筑後守勝正刀根山へ落ち行き、次に大坂へ落ち行き、小姓両人、小者両人計り、観世三郎元久供云々。御前(将軍義昭)に参り、様体申し入れ了ぬ。次に幕府衆上野中務太輔秀政(500計り)、細川兵部大輔藤孝(200計り)、一色紀伊守某・織田三郎五郎信広(100余り)、都合2,000計り、摂津国山崎迄打ち廻り云々。彼の方(山崎方面)自り注進、三好左京大夫義継衆金山駿河守信貞、竹内新助(所属不明)等参り、種々御談合共之有り。
6月26日条:
(前略)。池田筑後守勝正、三好左京大夫義継同道せしめ上洛云々。池田の城へ三好日向守・石成主税助等之入り由風聞。
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山科言継は、京都在住の公卿である事から、いち早く情報を掴み、関心を以て記録しています。また、彼は個人的にも池田家中の重要人物である池田紀伊守正秀とも面識があり、池田家の事はよく知っていたようです。池田氏は、幕府を支える摂津守護職を任される家であり、その意味でも重要な立場にあった事から、関心の高さは自然な事です。
それから、奈良興福寺多聞院の坊官である英俊が、この池田家内訌について、日記に残しています。この多聞院英俊は、永禄9年から同11年にかけて、三好三人衆と松永久秀が闘争を続けた際、奈良とその周辺に池田衆が度々出陣しており、摂津池田家については、その事を通して知るようになっていたようです。そのため、関心があったのか、日記にも池田家内訌についての情報を書き留めています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P194
-史料(2)---------------------------------------
6月22日条:
(前略)。去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内二人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
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更に『細川両家記』という、いわゆる軍記物にも、池田家内訌についての記述があります。ちなみに同書は、取扱いに注意を要する軍記物の中では、特別扱いされる資料で、内容が割と正確である事から一級資料と目されています。その資料の池田家内訌部分を見てみましょう。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634
-史料(3)---------------------------------------
一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。相残り池田同名衆一味同心して阿波国方へ使者を下し、当城欺(あざむ)き如く成り行き上は、御方へ一味申すべく候。不日に御上洛候儀待ち奉り由注進候也。並びに摂津国欠郡大坂へも信長より色々難題申し懸けられ条、是も阿波国方へ内談の由風聞也。旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭藤賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息同苗徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同苗備中守、同苗帯刀左衛門、同苗久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。
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最後に、伝承資料をご紹介します。『荒木略記』という系図中の代表的人物に説明を付けてある、家系図と伝記が一つになったような資料があります。その村重の項目には、元亀元年6月の池田家内訌の事が記述されています。ちなみに、村重以外にも色々と記述があるのですが、それらは誇張してある事に加えて、事実誤認が沢山あります。何百年も後になって書かれているものはこういった内容のものも多くあります。これは資料としては取扱いに注意が必要です。参考までにご紹介します。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P1
-史料(4)---------------------------------------
荒木村重条:
(前略)。然る所に池田勝正作法悪しく、武勇も優れ申さず。右に申し候桂川合戦の時も家来は手柄共仕り候に打ち捨て、丹波路を一人落ち申され候。か様の体にては、池田を和田伊賀守・伊丹兵庫頭に取られ申すべく事治定に候間、勝正を牢人させその子息直正と申し候を取り立て大将に仕るべくとて勝正の侍大将仕り候池田久左衛門尉(後に備後守と申し候)を取り入れ、荒木一家中川瀬兵衛尉清秀相談にて勝正を追い出し、直正を取り立て候所に、直正猶以て悪人に候に付き、此の上は大将に仕るべく者無く候間、荒木一家瀬兵衛尉清秀・池田備後守申し合わせ、(後略)。
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これらの資料を考え併せると、以下のような状況が浮かんできます。先ずは箇条書きで要素を抜き出してみます。
- 池田家内訌は1日間では無く、18日から19日にかけて起きた。
- いわゆる池田四人衆という、池田家政機関の重臣4名の内、当主勝正親派の池田豊後守(正泰)・同名周防守正詮が、三好三人衆方に同調した池田家中の人々によって殺害された。
- 当主勝正は、19日に一旦京都へ入り、状況を説明した後で、京都を離れ、再び三好義継を伴って入京している。
- 三好三人衆方の動きが内訌の理由として、同時に噂されている。
- 将軍義昭は近江国へ出陣する予定だった。
次に、それらの要素を踏まえ、詳しく状況を分析してみたいと思います。
池田城跡公園の櫓風展望休憩舎 |
勝正のこの時の足取りですが、文面通り受け取って、大坂に一旦入ったと考えるには少々矛盾が起きるように思えます。この頃、大坂の本願寺方は既に三好三人衆方でもありましたし、その城内には三好三人衆方であった公卿近衛前久が身を寄せていましたので、そんなところをウロウロしていては、直ぐに通報もされますし、物騒です。
勝正は池田城を出て、直ぐに将軍義昭へその状況を伝えています。速やかに報告しようとするのは、当然の事です。
ですので、勝正は大坂に入らず、能勢街道を使い、刀根山から小曽根方面などへ出、吹田を経由して京都へ向かったと考えられます。その間にある原田城に一旦寄ったかどうかは、今のところ判りませんが、大坂まで南下すると時間が余計にかかります。
それから、勝正本人が将軍へ報告を直接行ったかどうか、厳密に見ると『言継卿記』から読み取れないところもありますが、この前後の環境や一次情報を重視する当時の環境からして、将軍義昭の近江国(高島郡)への動座を控えた重要な時期でもあり、摂津守護職たる勝正がその報告を直接行う必要性があったと考えられます。文中の「御前」に出たのは、供の小姓や観世三郎ではなく、勝正自身を指すと思われます。
報告を受けた将軍義昭は、その事態の深刻さから、すぐ様、近江国出陣の延期を関係者に通知しています。ちなみに、池田家の内訌が伝わった18日にも将軍義昭は近江国出陣の延期を関係者に通知しており、この出陣でも池田家は幕府方の中心的な役割を果たす重要な位置付けであった事が窺えます。
次回は、池田家内訌に至った原因を考えてみたいと思います。
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