2022年8月13日土曜日

摂津原田城についてのご紹介(城主(土豪)とともに城館の変遷がわかる遺構としては大変貴重)

16世紀後半の推定復元図
16世紀後半の推定復元図
摂津国豊嶋郡内にあった、原田城について、詳しく取り上げていなかった事に今さら気付き、先ずは記事を作った次第です。
 それについて、豊中市教育委員会発行の『原田城跡(豊中市指定史跡)・旧羽室家住宅(国登録有形文化財)』という案内パンフレットが、非常に端的に、簡潔にまとめられて分かりやすいので、こちらから抜粋してご紹介できればと思います。

摂津原田氏とその城について考える」という、特集も中途半端に終わっており、これを機に、完成させたいと思います。

原田氏は、能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場するのが、1279年(弘安元)のようで、池田氏とほぼ同時期に頭角を表して来るようです。原田氏は北から南下、池田氏は南から北上して、最終地に定着するという、イメージです。また、応仁の乱を経て、次第に経済・軍事力の差がつき、池田勝正が池田家の惣領となる1563年(永禄6)頃には、池田家の被官的情況に変化しています。また、池田勝正も原田城に度々入っていて、池田とは一心同体の存在であったようです。姻戚関係なども持っていていたのかもしれません。非常に親密な行動を互いに取っており、池田城が攻められたり、落城する時には、運命を共にすることも多くありました。

個人的に思うのは、推定復元図は印象的ですが、私が史料を見ていく中では、若干違和感も感じなくは無いです。しかし、どこかの情況で、このような視覚化は必要ですから、その均衡を保つのは至難とも言えますね。それもこれも、科学の継続が答えを出してくれることでしょう。兎に角、今後に期待です。

さて、そんな原田城について、以下、案内パンフレットの内容です。
※文章・絵・写真の全ては、案内パンフレットからです。

◎はじめに
原田城跡(北城)は、1963年(昭和38)、当時の豊中市文化財保護規則により市史跡に指定され、1987年(昭和62)の豊中市文化財保護条例の施行にともなって、あらためて市史跡に指定された中世城館です。
 「城」というと、天守閣がそびえ立つ江戸時代の城郭、あるいは山そのものを要塞にする戦国時代の山城をイメージすることでしょう。しかし、原田城跡はそうした大規模な城郭ではなく、原田・曽根一帯を中心に活動した土豪原田氏の居城で、いわゆる「小規模城館」と呼ばれるものです。


◎北城と南城

原田村には、北城と南城という二つの城がありました。江戸時代末期に作成された絵図(『文政七年原田村絵図』)を見ると、原田村の中に南城跡を示す四角形の堀跡が描かれています。南城は、発掘調査によって16世紀後半に内堀と外堀が掘削されたことが確認され、その範囲と位置が推定されています。
 一方、北城については「北城跡」と記され、その一帯には松林が描かれています。北城についても発掘調査によって鎌倉時代に築かれたことがわかってきました。

◎北城の構造

北城は、豊中台地南西端の丘陵にあり、南西に広がる平野を一望できる絶好の位置に立地します。その丘陵の東側には、南北140m・東西120mの城域を示すように、「ヨ」字状の外堀が巡らされています。丘陵先端にある約50m四方の主郭部は、荒木村重の乱が起きた16世紀後半に、幅15m・深さ5mもある内堀を巡らすなど、大規模な改修を行って守りを固めています。
出土した巨大な堀跡
 主郭部の内側には、現在でも高さ1.5m〜2.8m・幅5〜10mの土塁が残っているほか、東側と南側にもその痕跡が確認されています。
 主郭内部の発掘調査では、数多くの柱穴や疎石痕が確認されており、土豪の居宅に相応しい家屋が建てられていた可能性があります。また、焼けた壁土や廃棄された土坑、3層にわたる焼土層があることから、数回の火災があったと考えられます。
16世紀後半:荒木村重の乱の頃

◎北城の築城と原田氏

原田氏は、1279年(弘安元)に能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場します。一方、北城は13世紀後半から14世紀初頭のうちに築かれたことが、発掘調査で出土した遺物から推定されています。
 1344年(康永3)に、原田氏は大炊寮(おおいりょう)の所領である六車御稲(むぐるまみいな)の年貢を押領するなど、徐々にその力を蓄えていきます。15世紀中頃には原田一帯を支配する土豪に成長すると共に、室町幕府の管領(将軍の補佐役)で、摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれ、戦乱の世に巻き込まれていくことになります。
16世紀中葉から後半頃の勢力図

◎北城の廃城とその後の原田氏

1547年(天文16)、細川氏の内紛で細川氏綱側についた原田氏は、その敵である細川晴元の大軍に攻められ、北城は落城しました。これにより北城は廃城し、興廃していったことが推測されます。16世紀後半には南城の堀が掘削されていることから、これ以降、原田氏は南城を中心に活動していたとみられます。
 また、荒木村重の乱では、織田信長方の古田織部と中川清秀が北城に陣を構えたようです。1994年(平成6)に行われた発掘調査からは、16世紀後半に大改修が行われ、一時的に城として使われたことが明らかとなっています。
 慶長年間(1596〜1615)には、北城・南城とも廃城し、原田氏の多くは豊後国直入(なおいり:大分県竹田市)などへ移り、現地には土塁や堀跡、伝承だけが残されました。

◎原田城跡のもつ意義
戦国時代には、織田信長のように華々しい活躍が伝えられる武将が多くいます。それら戦国武将の活躍を支えた人々の中には、中世の村を基盤に活動する土豪たちがいました。原田氏も、戦乱の世に生きた土豪の一人でした。
 このような土豪たちは記録の中に数多く見出され、豊中市内では芝原(柴原)・熊田(熊野田)・利倉など、村の名前を冠した土豪が知られています。彼らが活動の拠点とした城館で、堀の配置が復元できる事例は、大阪府内では原田城跡以外にはあまりなく、さらに城主である土豪とともに城館の変遷がわかるものは、今のところ他に見られないことから、原田城跡は非常に貴重な史跡であると言えます。


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