戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
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2025年9月25日木曜日
摂津国欠郡中嶋にあった城について考える(大阪市淀川区編)
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大正時代初期:伝法付近の大浦渡の様子 いわゆる戦国時代ころ、摂津国欠郡中嶋という所は京都を首都とした国家体制において、非常に重要な場所でした。 現在は淀川区に東西淀川区で構成された一つの大きな島ですが、これは江戸時代からの営々と続けられた開拓の姿で、戦国時代には、大小の島が浮か...
2025年9月18日木曜日
元亀2年に細川(典厩)藤賢が、摂津国島下郡の戦国武将野辺(部)弥次郎へ下した感状について
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摂津堀城跡伝承地 摂津国欠郡に存在したと考えられる中嶋城について調べる内に、気になる史料もありますので、取り上げたいと思います。 先ず郡名なのですが、ここは元々西成郡でしたが、戦国時代には欠郡(かけのこおり、けつぐん)と呼ばれていました。江戸時代になると、神崎川以南のこの地域は...
2025年6月25日水曜日
新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」が発行された、摂津池田家と細川六郎と三好為三の動き
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永禄7年の三好長慶没後、まだ若年だった後継者義継を支える目的で、「三好三人衆」なる家中の有力者が官僚機構を中心として家を支える方策を打ち出しました。それまでにも、内政機関のようなものは、あったようですが、長慶の巨大な存在感と求心力を維持するために、特に意識して組織されたようです。...
2024年10月5日土曜日
細川六郎と三好三人衆(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)
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京都の中央政権を支えた阿波国に縁を持つ三好家が、三好長慶を筆頭に、歴代最大の版図を築くに至ります。しかし、永禄7年(1564)7月、その三好長慶は失意の内に亡くなります。 その後、間もなく三好長慶を支えた一族家老・重臣同士の争いに発展し、結局は京都周辺に威勢を誇った三好氏も没落...
2024年9月23日月曜日
併せて見るべき関連性の高い史料(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)
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令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状(以下、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)について、その史料と併せて見るべき関連史料群をご紹介したいと思います。 これにより、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の...
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