「中嶋」という地域は、その名の通りの「島」ですが、これが江戸時代の開拓を経て、今は非常に大きな面積の島になっています。戦国時代には、大小いくつもの島が浮かぶ群島地域で、地形が随分と違います。同じような自然環境は、伊勢国長島や尾張国の河口にもあります。
しかしながら、この地域は水陸交通の要衝であり、大きくは南に中津川・北に神崎川などの水利と肥沃な土地に恵まれた所で、野里・賀島・宮原(及び南北)・柴島といった荘園もありました。この他、味原に牧場(後に荘園)もありました。
また、この中嶋は長禄4年(1460)には、欠郡(かけのこおり、けつぐん)との記録が当時の史料に見られるようで、戦国時代には神崎川以南の3郡を「欠郡」と呼んでいたようです。だいたい現在の大阪市域がそれにあたります。
「欠郡」の呼称の語源は、1383年(永徳3)摂津守護に復帰した細川頼元がこの3郡を分郡として畠山氏ら隣国守護に奪われた(欠郡)ためというのが有力説のようです。
その中心であった一時代は、現在の東淀川区東中島に創設した「崇禅寺」だったのでしょうか。嘉吉の乱(1441年)を機に、播磨守護赤松満祐が、将軍義教の菩提を弔うために「崇禅寺」を建立しています。
この「中嶋」の中心がどこか。そこにあった、その中心たる「中嶋城・堀城」は、どこにあり、どのような経緯を辿ったか。それは欠郡北部で、現在の大阪市西淀川区・淀川区・東淀川区です。これは大正時代後半から昭和前半にかけて変遷を伴いながら、現在に至ります。中央部の淀川区が最も新しいようで、当初は東西2つの区分けでした。
大正14年に大阪市の第2次市域拡張で、大阪市に中嶋地域が編入されるまでは、島一帯は西成郡でした。
それから、戦国時代は、その地域を形成する群島の主要な幾つかの島を指して「中嶋」としていたようで、それは大川以北の北区(旧大淀区含む)も入るようです。
この中嶋地域は、摂津池田家や荒木村重・中川清秀などとも深い関係のある場所であり、日本史上も重要な場所ですので、理解を深めておきたいと思います。
崇禅寺(現東淀川区東中島5丁目)には、明治2年に摂津県が設置される程ですので、地政学的にも、それに見合う場所であった事が判ります。
以下、場所が広いので、それぞれの区(関係する区も含む)毎に分けて、ご紹介します。
- 西淀川区編
- 淀川区編 ←NEW
- 東淀川区編
- 此花区編
- 荒木村重の崇禅寺合戦について
- 中嶋の城、特に「中嶋城」と「堀城」について
- まとめ
【関連記事】
【参考】
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明治18年頃の西成郡中嶋の様子(グレー色の帯は現在の淀川) |
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承応・寛文頃(1652-73)大阪町中並村々絵図部分 国立国会図書館蔵 |
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