戦国大名池田勝正研究所

世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ

2025年10月21日火曜日

河内国の武将小寺美濃守高仲と飯島三郎右衛門と高井田村(現東大阪市)のこと

›
自分の中の記憶の点が結びついて、線から面になることが時々あります。地域の歴史案内板にある「由緒」が、その私の切れた思考と想定の線を繋いでくれます。  河内国の戦国武将小寺美濃守高仲(現東大阪市布施付近)と同じく弓術の達人であった飯島三郎右衛門(現東大阪市岩田町)が、同国高井田を通...
2025年10月19日日曜日

元亀元年(1570)、摂津国大坂本願寺一揆の理由

›
元亀元年、三好三人衆が京都の奪還を目指して、大挙軍勢を摂津国中嶋内の野田・福島へ進めたが、幕府・織田信長勢に圧されて軍事的に劣勢となっていた。  しかし、9月12日夜、大坂本願寺が教団をあげて一斉蜂起し、結果的には、その窮地を救うと共に旧中央政権である三好三人衆方の復権に加担する...
2025年9月27日土曜日

摂津国東成(欠)郡左専道村(現大阪市城東区諏訪)にあった城らしき「古城」という小字(地名)

›
摂津国東成郡左専道村内「古城」推定地 元々は別の調べごとで、大阪府東成郡史を読んでいたのですが、そこに、筆者の生まれ育ちの地でもある旧左専堂村にも「城」らしきものがあった記述を見つけ、驚きました。これについて全く聞いたことがありませんでした。  それを確認するために、文化財関連な...
2025年9月25日木曜日

摂津国欠郡中嶋にあった城について考える(大阪市淀川区編)

›
大正時代初期:伝法付近の大浦渡の様子 いわゆる戦国時代ころ、摂津国欠郡中嶋という所は京都を首都とした国家体制において、非常に重要な場所でした。  現在は淀川区に東西淀川区で構成された一つの大きな島ですが、これは江戸時代からの営々と続けられた開拓の姿で、戦国時代には、大小の島が浮か...
2025年9月19日金曜日

摂津国欠(西成)郡中嶋にあった城について

›
「中嶋」という地域は、その名の通りの「島」ですが、これが江戸時代の開拓を経て、今は非常に大きな面積の島になっています。戦国時代には、大小いくつもの島が浮かぶ群島地域で、地形が随分と違います。同じような自然環境は、伊勢国長島や尾張国の河口にもあります。  しかしながら、この地域は水...
2025年9月18日木曜日

元亀2年に細川(典厩)藤賢が、摂津国島下郡の戦国武将野辺(部)弥次郎へ下した感状について

›
摂津堀城跡伝承地 摂津国欠郡に存在したと考えられる中嶋城について調べる内に、気になる史料もありますので、取り上げたいと思います。  先ず郡名なのですが、ここは元々西成郡でしたが、戦国時代には欠郡(かけのこおり、けつぐん)と呼ばれていました。江戸時代になると、神崎川以南のこの地域は...
2025年8月27日水曜日

永禄12年頃の播磨国方面の事(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

›
元亀元年(1570)8月付で、織田信長から管領格(家)である細川六郎に送られたであろう朱印状、第二番目の条項、 ” 一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、其躰之儀、申談事。 ” とは、播磨国がどのような状況であったか。それについて、摂津池田家を通し...
›
ホーム
ウェブ バージョンを表示

自己紹介

自分の写真
柏床宜宏
東大阪市, 大阪府, Japan
池田勝正は、摂津国豊島郡池田(現池田市)にて戦国時代後期に生きた人物です。その時代頃の資料には散見されます。しかし、これまで、誰も彼について研究した人はいませんでした。  実は、京都の中央政治の命運も左右する程の拠点的勢力で、非常に重要な役割りと位置づけにありました。あの、織田信長や幕府とも直接的に関係を持った、戦国大名です。私は、池田勝正の生涯を研究しています。  なおウィキペディア(Wikipedia)の池田勝正の項目は私が書いたものではありません。ツイッター:@katsumasa2016
詳細プロフィールを表示
Powered by Blogger.