戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2025年9月27日土曜日
摂津国東成(欠)郡左専道村(現大阪市城東区諏訪)にあった城らしき「古城」という小字(地名)
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摂津国東成郡左専道村内「古城」推定地 元々は別の調べごとで、大阪府東成郡史を読んでいたのですが、そこに、筆者の生まれ育ちの地でもある旧左専堂村にも「城」らしきものがあった記述を見つけ、驚きました。これについて全く聞いたことがありませんでした。 それを確認するために、文化財関連な...
2025年9月25日木曜日
摂津国欠郡中嶋にあった城について考える(大阪市淀川区編)
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大正時代初期:伝法付近の大浦渡の様子 いわゆる戦国時代ころ、摂津国欠郡中嶋という所は京都を首都とした国家体制において、非常に重要な場所でした。 現在は淀川区に東西淀川区で構成された一つの大きな島ですが、これは江戸時代からの営々と続けられた開拓の姿で、戦国時代には、大小の島が浮か...
2025年9月19日金曜日
摂津国欠(西成)郡中嶋にあった城について
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「中嶋」という地域は、その名の通りの「島」ですが、これが江戸時代の開拓を経て、今は非常に大きな面積の島になっています。戦国時代には、大小いくつもの島が浮かぶ群島地域で、地形が随分と違います。同じような自然環境は、伊勢国長島や尾張国の河口にもあります。 しかしながら、この地域は水...
2025年9月18日木曜日
元亀2年に細川(典厩)藤賢が、摂津国島下郡の戦国武将野辺(部)弥次郎へ下した感状について
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摂津堀城跡伝承地 摂津国欠郡に存在したと考えられる中嶋城について調べる内に、気になる史料もありますので、取り上げたいと思います。 先ず郡名なのですが、ここは元々西成郡でしたが、戦国時代には欠郡(かけのこおり、けつぐん)と呼ばれていました。江戸時代になると、神崎川以南のこの地域は...
2025年8月27日水曜日
永禄12年頃の播磨国方面の事(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)
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元亀元年(1570)8月付で、織田信長から管領格(家)である細川六郎に送られたであろう朱印状、第二番目の条項、 ” 一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、其躰之儀、申談事。 ” とは、播磨国がどのような状況であったか。それについて、摂津池田家を通し...
2025年7月23日水曜日
和歌山県東牟婁郡串本町に複数見られる、巨大城郭群らしきものについて
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現和歌山県東牟婁郡古座川町高池地域の中西家に伝わる「池田八郎三郎勝政が荒木村重に押領され、その子吉兵衛勝恒が当村に逃れ居住」との伝承を追っていたところ、その周辺にある巨大な城郭群らしきものを多数発見し、驚きました。 【過去記事】 池田筑後守勝正の子とされる「勝恒」が、天正年間に和...
2025年7月10日木曜日
細川京兆家(昭元)と典厩(藤賢)について(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)
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地域権力としての摂津国豊嶋郡を支配する池田氏は、その性質上、上位権力と切り離して存在し得ず、どうしても連動してしまうのが本質でした。 池田氏も、それについて無意識であった訳ではなく、その不安定要因のを分散、体制構築を試みた一つは、様々な権威に繋がる事でした。直接的には、将軍や管...
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