久しぶりに更新します。ちょっと時間が無くて、テーマの途中で止まったままですいません。まとまった時間が取れないので、思索を深める事ができず、まだまとまっていません。残りは必ずアップしますので、もう少々お待ち下さい。
それで、今回はその償いという訳ではないのですが、池田市の木部地域にあった木部城をご紹介します。以前(10年以上前)、呉江舎でも取り上げたのですが、今年の5月に地元の方に詳しく状況をお聞きした事を図と写真で簡単にまとめましたので、ご覧頂ければと思います。
参考ページ:摂津池田城の支城木部砦跡?
場所は、大阪府池田市木部町376を北限とした付近一帯です。
また、今のところ想像ですが、素人ながら縄張図も書いてみました。
<図の要所説明>
上記は、今のところの情報での作図ですので、あくまで想像です。今後は更に詳しく聞き取り、専門家にも聞き、精度を上げた図を作成したいと考えています。
それから、取材した時の木部砦跡の写真をいくつか以下に紹介します。
現在の池田市木部町は、摂津国豊嶋郡細河郷内にある木部村ですが、ここには「下村」という姓があり、庄屋も務められていた家があります。
『多聞院日記』の永禄10年5月18日条に、奈良に出陣した池田勝正の配下の武将として下村重介という武将が戦死した旨が記録されています。この武将は、足軽大将で100名程を束ねていたと、その時に聞いた情報が書き残されています。
私はこの下村重介が木部村の出身の侍だったと考えていて、長い間興味を持っていました。そしてこの木部地域は、能勢街道と余野街道が交差し、猪名川と余野側も交差する重要な地域です。
また、五月山の裏に位置する細川荘の出入り口にあたり、池田を支える重要な場所でもありました。もちろん軍事上も大変重要な位置です。
それからまた、戦国時代は、国境や郡境が曖昧で、力関係で常に移動しています。猪名川を挟んだ東西は猪名川が大きいために安易に勢力が入り込むこともありませんが、細河荘の北側は山で、その尾根上を重要な街道が通っています。更にその西側には、能勢街道も通っています。
この辺りは川辺郡と豊嶋郡の境目で、川辺郡は塩川氏、豊嶋郡は池田氏が領する地域で、実力で勝る池田氏は、猪名川を越えて西に勢力を拡げていました。今の川西市小戸・小花・栄根・加茂・久代あたりにも勢力を拡げ、栄根のあたりを荒木村重一派が領していたようです。
現在と同じく兵庫県と大阪府池田市の境となっている山塊の尾根筋から南側を池田氏が、その北側を塩川氏の領域とていたのでしょう。
ですので、重要な場所には必ず軍事的な施設や設備があって、それぞれが連携していたと考えられます。写真でもおわかりのように、五月山から見れば細河荘方面はもちろん、北側は全て見渡すことができます。
そして、その南にある池田氏の拠点、池田城がこの五月山を利用して軍事的な補完関係にあった事は、戦国時代であれば、当然のことだったと思われます。
そんな凄い事が見えてくる池田市細河地区です。続きはまた、追々アップいたします。
それで、今回はその償いという訳ではないのですが、池田市の木部地域にあった木部城をご紹介します。以前(10年以上前)、呉江舎でも取り上げたのですが、今年の5月に地元の方に詳しく状況をお聞きした事を図と写真で簡単にまとめましたので、ご覧頂ければと思います。
参考ページ:摂津池田城の支城木部砦跡?
場所は、大阪府池田市木部町376を北限とした付近一帯です。
また、今のところ想像ですが、素人ながら縄張図も書いてみました。
<図の要所説明>
- A・Bの場所に高所へ上がる道が存在したか?また、存在したとすれば、施設や設備が存在した可能性もある。
- C.代官所と伝わる場所があり、重要施設が存在した可能性もある。現在も僅かながら道が折れ曲がった環境になっている。
- D.の場所に奇妙なクランク状の道があった。現在は駐車場になっている。何らかの公的な施設があった可能性もある。
- 土居という小字があった事から、土塁があり、またその上部には柵や壁などがあった可能性もある。
- 木部砦は、能勢街道と余野街道に挟まれた立地に存在している事から、防御のために、土塁で城域を囲んでいた可能性もある。
- 川は、元は堀のような役割を持ち、砦領域の外郭を流れていた可能性もある。現在の流路は、造園業が盛んとなって、後世に付け替えられたのかも知れない。
上記は、今のところの情報での作図ですので、あくまで想像です。今後は更に詳しく聞き取り、専門家にも聞き、精度を上げた図を作成したいと考えています。
それから、取材した時の木部砦跡の写真をいくつか以下に紹介します。
伝土居あたりから西を見る |
伝土居あたりから北を見る |
西縁の段差の様子(南から北を見る) |
西縁の段差の様子(北から南を見る) |
北縁の現在の様子(昭和30年代の洪水後に改修し、幅が倍に) |
伝土居付近から五月山を見る(山の窪みあたりに愛宕神社) |
五月山山上の愛宕神社から木部方面を見る |
現在の池田市木部町は、摂津国豊嶋郡細河郷内にある木部村ですが、ここには「下村」という姓があり、庄屋も務められていた家があります。
『多聞院日記』の永禄10年5月18日条に、奈良に出陣した池田勝正の配下の武将として下村重介という武将が戦死した旨が記録されています。この武将は、足軽大将で100名程を束ねていたと、その時に聞いた情報が書き残されています。
私はこの下村重介が木部村の出身の侍だったと考えていて、長い間興味を持っていました。そしてこの木部地域は、能勢街道と余野街道が交差し、猪名川と余野側も交差する重要な地域です。
また、五月山の裏に位置する細川荘の出入り口にあたり、池田を支える重要な場所でもありました。もちろん軍事上も大変重要な位置です。
それからまた、戦国時代は、国境や郡境が曖昧で、力関係で常に移動しています。猪名川を挟んだ東西は猪名川が大きいために安易に勢力が入り込むこともありませんが、細河荘の北側は山で、その尾根上を重要な街道が通っています。更にその西側には、能勢街道も通っています。
この辺りは川辺郡と豊嶋郡の境目で、川辺郡は塩川氏、豊嶋郡は池田氏が領する地域で、実力で勝る池田氏は、猪名川を越えて西に勢力を拡げていました。今の川西市小戸・小花・栄根・加茂・久代あたりにも勢力を拡げ、栄根のあたりを荒木村重一派が領していたようです。
現在と同じく兵庫県と大阪府池田市の境となっている山塊の尾根筋から南側を池田氏が、その北側を塩川氏の領域とていたのでしょう。
ですので、重要な場所には必ず軍事的な施設や設備があって、それぞれが連携していたと考えられます。写真でもおわかりのように、五月山から見れば細河荘方面はもちろん、北側は全て見渡すことができます。
そして、その南にある池田氏の拠点、池田城がこの五月山を利用して軍事的な補完関係にあった事は、戦国時代であれば、当然のことだったと思われます。
そんな凄い事が見えてくる池田市細河地区です。続きはまた、追々アップいたします。
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