2020年12月10日木曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十四回「焼討ちの代償」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

今回は、第三十四回「焼討ちの代償」2020.11.29 放送分です。

 

 ◎概要 -----------

今回の時間の流れは、元亀2年(1571)から3年にかけてで、元亀3年頃から将軍義昭と織田信長の不仲が外聞にも明らかになります。この頃から将軍の独自行動が活発化します。これに不審を持つ信長は、疎ましく思いつつも幕府内部の不和は、政治・軍事的な弱点ともなることから、目の前の問題に向き合い、各個に解決を図る努力をしていました。
 しかしながら、それらは隠せなくなっており、周辺も動揺し始めます。将軍権威は軍事力が無くても侮りがたく、事情を知らない人々は、将軍の誘いに応じ始め、独自の団体概念が形成されていきます。
 近畿地域ではその政治的震源にも近いことから、動揺が早くから伝わって、それはまた機敏で過敏でした。摂津池田家でも例外では無く、最有力勢力であったことから、多方面から誘いの話しが舞い込んできます。
 この時、池田家中は三好三人衆に味方していましたが、外からの変化、それに加えて、内側からの変化が伴って、家中も再び穏やかではなくなりました。現職将軍権威に再び復帰しようとする声も出始めていました。今度は、衰微し始めていた三好勢力から離れる動きが元になていました。
 池田家の血を引く血族と、後に登用された荒木村重等の人々との間に、深い溝、心の壁が出来はじめます。要するに現代でもある、「よそ者」と一族の壁です。それから、不穏な時の権威への渇望です。
 元亀2年秋に大活躍した池田三人衆(池田紀伊守正秀、池田勘右衛門尉正村と、荒木信濃守村重)は、家中政治において、当時としては先進的でもあった、集団主導体制を敷きますが、これが時代の変化に対応できず、1年足らずで分裂してしまいます。これは当主を置かずに、官僚機構を政治のトップに据えた仕組みでしたが、感情のもつれを解決できずに分解してしまいました。今でもそうですが、平等は理想ではあるものの、正義を実現できません。それぞれに尺度が違うためです。結果として、そこに連なる運命共同体(摂津池田家と関連地域)を主導できませんででした。

幕府とて状況は同じです。その縮図が摂津池田家の中にありました。これは、相似性といわれる、フラクタル理論(数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念など)が、歴史科学にも現れると個人的に感じている、ひとつの現象です。
 織田信長が苦しみ、戦い抜いた宗教と政治の分離とか、戦国時代の悪い教訓を政治に活かした徳川家康の政治と銭の分離、法治の、より深い定着、国民の受けるべき教育などなど、今も国際社会では、その区別がつけられずに苦しんでいることが、日本は先に解決していると考えています。1516年に発行されたトマス・モアの著作ユートピア(桃源郷)読めば、その殆どが日本で実現しているように思えます。モアが挙げている、人間の理想としての要素の殆どは、日本の社会で実現しているのではないでしょうか。

話しが逸れました。すみません。

今回、取り上げる要素の中で、易や占星術などを司る人物が池田家中に居たであろうこと、茶道や和歌に通じた人物も池田家中におり、そららのことをお伝えしようと思います。また、摂津池田に武田信玄から手紙が来ていたようです。それもご紹介します。

今回は、以下の要素で解説します。

◎易(エキ:占い)
易は、当時の社会にとって重要な要素でした。今のように科学的な背景で成り立っていない世の中でしたので、この部分を担っていたと考えても良いでしょう。
 今も日常で使いますが、「神」の言うこと、すること、で解らない現象や未来を一括しようとします。これが、中世では殆どがこの領域であったことでしょう。人間が測ることができるものは、殆どありません。気温、水が沸騰する温度、移動する早さ、地球が丸いということ、人体の仕組み、病気の原因などなど、その殆どは、感じるままに理解をしていました。五感の範囲で社会を理解しています。
 しかし、今も同じことや必要なことはあまり変わりません。期限までに行うこと、何かを決定すること、決まりや約束を守ることなどなど、時間と空間にまつわる、社会的な営み、その継続と維持のための行動です。それらは、共同体を護ることに他なりません。
 多くの人間が居ると、考え方が違うのは今も昔も同じです。しかし、ひとつの方向に向かうために決めなければなりません。そういう時に、神の力というか、易による科学めいたというか、シャーマニズムのようなファジーな科学力を使って、折り目をつける訳です。一応の地位、能力を持った人物が、物事の根拠のような道筋で以て、なにがしかの混迷を収めるのです。また、日本人の文化の根底は、神事(その上に仏教が乗っている。PCの仕組みで言えば、MS-DOSの上にWindowsが乗っているみたいな...)であり、そこから少し派生したような感じで、科学めいた予見や予知も行うようなことをしていたのではないかと考えています。
 易、陰陽道や天体の知識をもって天道を説いたり、気象の予測、古事故実、作法などに通じて、重要な場面で重要な役割を果たしていたと考えています。
 池田家中でも、名に「卜」の字を持った人物がおり、この人物がそういったことを担っていたのではないかと思います。「卜」の字は、あまり多くの意味は持たず、そのものずばり、「占う」という意味しかありません。
 池田家中では、「卜」の字を使う荒木卜清という人物が居ました。お察しの通り、荒木村重の一族です。卜清は、池田家政の主要な人物でもあったようで、彼の発行した文書も残っています。

◎筒井順慶と松永久秀
筒井順慶は大和の国民ですが、興福寺の衆徒でもあって、興福寺の一員でした。大和の国民からすると、松永久秀は余所(よそ)の人であり、国内の風土にも馴染まない、お尋ね者でした。大和国は、永年「守護不入」の地であり、幕府権威の入り込まないひとつの独立国のような地域でした。
 松永が、三好長慶の重臣として大和国の奈良に入った時、これに対して強い反発がありました。その頃からの松永の所領でしたので、松永に通じる者もあって、他に頼るところもない松永は、大和の支配に固執していました。
 この動きに長い間、付き従っていたのが、伊丹氏で、池田と伊丹氏は元々同族でありながらも、何の因果か敵対する環境にありました。池田は三好方に付き、伊丹氏はその反対側という構図が、長い間続いていました。
 また、池田家中でも度々、小さな反目があって、何らかのきっかけで池田を出た池田一族の一派が、松永氏方に身を寄せていました。その流れを汲むのが、池田丹後守正教です。正教は、切支丹大名でもあり、河内国若江三人衆の一人でもあります。

◎茶道具
三好長慶政権時代、連歌や茶の湯は、互いの交流を深めるため、盛んに興行されていました。池田家は、三好家から妻を迎えていたために、一族扱いを受けて、大いに家格を上昇させることとなり、政治・経済・軍事は、拡がりと深まりを見せます。
 中でも、三好家中の三好越前守政長は、武野紹鴎に茶を学んで、銘茶器を多く所蔵していました。九十九髪茄子(作物茄子)、松島の茶壷」(東山御物)、新田肩衝、曜変天目、伊勢天目、青磁竹の子茶入なども所持していました。また、名刀の目利きにも優れ、多くの門弟も居たようです。
 そんな状況の中、池田家でも和歌や茶道に優れた人物がおり、中でも池田四人衆の一人、池田紀伊守正秀は、それらの道に通じた文化人でした。自らの斎号を冠した「清貧釜」など、名物茶器を所有していました。また、池田家中では和歌に通じた人が多く、今も連歌集にそれらの人々が詠んだ句が残されています。

◎将軍義昭と織田信長の心情的乖離
将軍義昭は、元々は僧侶であり、武士として、将軍としての帝王学も学んでいません。それ故に、生まれながらにして武士であり、武士の家系を代々継ぐ織田信長とは、やはり融合することができなかったようです。
 将軍義昭が描く天下像と織田信長のそれとは、相容れないものがあって、遂には関係が壊れてしまいます。政治中枢内の深刻な対立が起き、今度は互いに自らの組織固めに奔走することになります。
 近畿の有力者は、こういった出来事には影響されないはずが無く、池田家中でも、その去就を巡って、対立が起きます。白井河原合戦での大成功が、池田家中の結束を固めたこともあったのですが、1年足らずで再び内訌が起きてしまいます。元亀3年(1572)夏あたりから、池田家中は騒々しくなっていったようです。この年の秋から翌年春にかけては、池田三人衆の内の2名(池田紀伊守正秀、池田勘右衛門尉正村)と荒木村重が分裂して、対立構図となります。
 今でもありますよね。国政で対立すると、地方政治も同じ構図になっていく事が。このあたりは、今も昔も変わりません。だからこそ、過去のを見、その先人の経験を現代の私たちの知恵にする必要があるように思います。

◎武田信玄と摂津池田
甲斐国の守護武田信玄が、京都を目指して軍事行動を起こすのが、元亀3年の秋です。これに先だって、近畿の要地でもあった池田へ武田信玄が布石を打ちます。武田信玄が、池田の寿命寺(池田市西本町)へ宛てて、手紙を出します。
 年紀はなく、9月11日付けのものですが、私はこれを元亀三年のものと考えています。内容は、巻数などが武田信玄に送られたことについて、礼が述べられていて、そのお礼として、信玄から黄金十一両、青銅十斤が寿命寺西坊へ贈られているとの内容です。
 信玄が京都へ向けて出陣しており、これに対する関係の深まりを意図する史料として注目されます。また、寿命寺西坊から贈ったものの中に杉原紙十帖があります。これについて、今でもこの習慣の名残があるように思われるのは、相手からの返信を希望する場合に、返信用封筒にこちらの宛名を書き、切手も貼って封筒を同封することで、相手の手を煩わせないように配慮するという感覚がありますね。これと同じように、書簡の何度とない往復を希望したり、予測される場合には、それ用の便箋を贈るという意味であったり、配慮ではないかと考えています。紙を先方に贈る行為が、頻繁に見られ、これらはそういった意味合いがあるものと、私は捉えています。
 元亀3年秋、池田は幕府方としての立場を強めていた(復帰)と考えられます。その為に、同じ幕府方の武田信玄が、京都に入った後の事を想定して、こういった準備を行っていたと思われます。この流れの中で、後に池田家の重要人物(池田遠江守:池田正村らしい)が、甲斐国に将軍義昭の使者として趣いているらしい動きも見られます。

ところで、結局将軍義昭に加担するならば、池田勝正との争いは何だったのでしょう?こういうところは、一貫性がなくなります。それについて、私は当主よりも強い権力があったとみています。池田四人衆という官僚集団です。中でも池田紀伊守です。

 

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