2020年12月4日金曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十三回「比叡山に棲(す)む魔物」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

今回は、第三十三回「比叡山に棲(す)む魔物」2020.11.22 放送分です。

 

 ◎概要 -----------

大変遅くなり、お楽しみの方には申し訳けありません。2週遅れの最新情報をお届けします。
インターネット内での評判を見ると、持ち直すこと無く、順調に下がっている感じで、やはり、脚本家に全てを創ってもらうのは不可能だと思います。配役は悪くないと思いますが、結局は、筋書きの悪さで、評価が下がっているようですね。
 これまでは、原作があって脚本家がテレビ向けに手を加えるといった手法で、大河ドラマが作られていましたが、数年前にこれを廃止し、今は脚本家によるフィクションという建前で制作されています。作家と脚本家では能力が違い、役割りも違うので、それを無理にくっつけていりところが、そもそもの失敗です。私も最近は、退屈気味に見ています。

さて、後ろ向きの前置きをしつつ、本題です。今回は、元亀元年(1570)秋ころから翌年秋にかけての流れでした。比叡山を中心にしたストーリー展開でした。女子どもをなで切りにしたシーンが印象的でしたね。歴代大河ドラマの中でも、歴史に残る表現だったと思います。良くも悪くも...。

今回は、以下の要素で解説します。


◎比叡山のような大寺院
聖徳太子が仏教を国教とする方針を打ち出して以来、その取組は国家をあげて続けられ、奈良時代から平安時代頃までは仏教は概ね輸入(外国人僧侶など)でしたが、遂に最澄(天台宗:比叡山)と弘法(空海 真言宗:比叡山)の傑僧の開山によって、国産化の道が拓かれました。それ以前にも、役小角(えんのおずぬ:えんのぎょうじゃ)などの国民救済の活動があり、人々の苦しみから救う宗教的活動が、日本国内において勃興が見られました。
 比叡山を開いた最澄や高野山を開いた弘法の業績は、国家事業としての使命を帯びた人材が道筋をつけた足跡でした。特に比叡山は、平安京の北東方向にあって、鬼門を封じる役目と都の平穏と安寧を祈る場所としても重要な施設でした。
 室町時代になると、そこから800年程経った頃で、既に施設も充実し、不動的権威も持ち合わせていたことでしょう。天台宗については、あまり深くは調べておらず、認識が浅いのですが、門跡寺院として今も不動の地位にあります。正月の天皇への祝賀参列をする大社のひとつとして、日吉神社もあります。
 こういった大寺院は、「山」と呼ばれる概念でできており、多くの寺や子院で構成され、その頂点に衆議の議場たる本堂があります。その法主がその集団の代表です。ある意味、民主的な制度によって、その組織の維持が図られていました。
 ちなみに、こういった大寺院は全国各地にあり、池田市域にも久安寺があって、相当な規模の山であったことは、残闕や言い伝えによっても想像ができます。これがどのように池田の政治に関わったかは、大変興味のあるところで、今後も見ていきたいと考えています。
 それから、荒木村重が池田家臣から頭角を顕し、伊丹城を改修して有岡城を造成する頃には、日吉神社の勧進を城内で行いたいとして、準備をしていた記録があります。


昭和初期頃の原田城跡
昭和初期頃の原田城跡

◎元亀元年秋頃の池田城周辺

元亀元年6月の池田城での政変を機に、三好三人衆方が近畿地域へ再攻勢のために戻ってきます。これに大坂本願寺も加担して、三好方が優勢になります。
 8月25日、池田家の家臣とも言える原田城内でも内訌が発生します。原田衆は城を焼き、主たる人物は池田方に合流します。視点を変えると、この一方の勢力は池田勝正に味方したと考えられます。
 池田家内訌の余波は暫く続いていたらしく、この頃のいくつかの資料が残ります。池田某が、多田院に禁制を下し、池田城周辺で勝正勢力の粛正が行われたとの言い伝えも残っています。
 この動きに対して、幕府・織田信長方は軍勢を出し、池田領内の市場などを焼き打つなどしています。
 更に、9月中旬から本格的に大坂本願寺が三好方に加担して挙兵すると、形勢は三好方に圧倒的有利となります。この動きに沿って池田衆も箕面寺など各地に禁制を下すなどして、活動をしている様子が見られます。


◎和睦(わぼく:停戦)
ドラマ中で、織田信長が窮地に立たされた場面で、朝廷を使って事態の打開を画策する旨の描かれ方をしていたのですが、実際のところは、朝廷側が積極的に幕府(信長)の支援をしていました。朝廷経済の正常化に期待してのことでもあり、権威の再興も目的のひとつにはあったでしょう。それは、幕府にとっても持ちつ持たれつの、いわゆる「ウィンウィン」の関係を志向していたからで、これは信長の尊皇の考えと、その権威の使い分けをうまく適応させた行動だったと思います。
 朝廷側は、この幕府の窮地に、積極的に行動していたことが窺える資料が多く見出されています。決して、信長が邪な気持ちで朝廷を利用していたのではなく、誠心誠意の朝廷への気持ちが天皇の気持ちを動かした結果だと思います。


◎戦争の経済学
戦争するには兎に角お金がかかります。自国の軍隊である、自衛隊のデータではないのですが、米陸軍兵士の装備は、一人につき450万円ほどかかっているそうです。装備だけでこの金額です。食糧や他の車両や燃料などは別の計算です。もちろん、支払われる給料も含まれていません。
 完全一致ではありませんが、命の危険を伴う仕事に対して、それなりの退化と尊厳、名誉の補償が無ければ、人は集まりません。これらのことを総合的に考えて、人を動員し、目的を達成しなくてはなりません。この要素を基本として、時間軸が発生します。毎時、毎日、毎週、毎月と、どれ程の資力がこれを実現させるでしょうか。

白井河原古戦場
白井河原古戦場


◎元亀2年秋の白井河原合戦

織田信長が比叡山を焼き打つことを決したとされる日は、元亀2年9月12日です。これは、実際のところ、池田衆の活躍がそうさせた可能性があります。
 それに先立つ同年8月29日、三好三人衆方池田衆は、いわゆる白井河原合戦で幕府の重臣である和田惟政を討ち、京都へ攻め上る勢いを見せます。京都は東西南北から囲まれ、陥落寸前の環境が醸成されます。
 この窮地に対して、幕府・織田信長は起死回生の一手を打つことを企図して、曖昧な態度と、それが禍する事態の悪化を鑑みて、比叡山に対して軍事行動を強行したのが、実情のようです。敵主力の2方向のベクトルの内、ひとつを塞いでしまえば、挟まれることはありません。金ケ崎の退き口と同じ発想です。
 白井河原合戦とは、現在の茨木市郡山付近であった大合戦で、この合戦は戦局を変える大きな転換点でもありました。この戦いによって、荒木村重の名が知られるところとなり、毛利方の手紙にも村重の名が登場する程の衝撃でした。
 この合戦は詳細に見ると、練りに練られた池田方の作戦は見事なもので、池田衆の強さが再認識された出来事でもありました。3000の兵を3つに分けて行動し、荒木村重はその一隊を率いて囮として危険な役割りを担っていました。池田方は300程の鉄砲をそれぞれに分け、非常に先進的な使用方法で、敵の和田惟政を戦死させるなど、壊滅させます。
 比叡山焼き打ちは、西からのこの進撃に対する有効な軍事的・政治的手立てを打つべく考えて行動した可能性は少なからずあります。詳しくは、過去のブログ記事をご覧下さい。

 

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