2010年11月24日水曜日

勝正のエピソードは色々あります

○キリシタンとの関わりがあり、記述にも頻出する。
○阿波足利政権を支える。
○三好三人衆方に加担し、大和国の松永久秀を攻めた時、東大寺大仏の焼失を目撃す。
○番替で兵を交代制として編成。
○動員兵力は三千から四千くらいまで可能だった。
○鉄砲の組織的運用の可能性。
○四人衆は実在するも、二十一人衆は実際には存在せず。
○播磨国鶴林寺へ禁制を掲げる。
○播磨国竜野方面へ遠征。
○但馬国此隅山城へ遠征。
○三千の兵を率いて越前朝倉氏討伐に従軍し、金ヶ崎退き口でも活躍す。
○摂津国原田城を守る。
○四人衆が分裂し、荒木村重と対立するも、四人衆は勝正を迎えず。
○荒木村重は、旧池田家臣を不登用の方針を採る。
○天正二年に摂津池田家は完全に壊滅したと考えられる。この年以後、勝正の史料上の記述は見られず。
○天正三年五月十五日に池田四人衆の一人池田正秀の史料上の実在を確認するも、この後は途絶える。

2010年1月30日土曜日

大和信貴山城について


 現在の大阪府と奈良県の境目として、南北に横たわる生駒山地の頂上部が設定されています。
 中世の頃もこれと同じく、生駒山地が河内国と大和国の国境でした。室町末期の戦国時代、国境は軍事的にも非常に重要な意味を持っていました。
 そのため、その付近には多くの城が作られ、近世概念が芽生え始める頃には、それらがネットワーク関係を以って構成されていたようです。
 永禄年間には、大和領有を目論む三好長慶勢の最前線となり、生駒山地の北端部に飯盛山城を大城郭に変貌させます。
 それに先立って、松永久秀が生駒山地の南端付近に信貴山城を根拠地として、大規模に改修を行っていました。
 この事は、京都と大阪、和泉方面から大和国への流通について監視や管理が可能となり、三好勢にとっては、大和への進攻のための補給をその西側の大坂湾から安定的に受ける事ができます。
 また、生駒山地の頂上部はほぼ平坦で、道を通して南北の移動が可能です。そのことは、生駒山地を東西に貫く、いくつかの街道管理のためにも必要な事でもあります。要するに、生駒山地を利用すると非常に迅速に大和・河内両国の有事に対応する事が可能になります。
 この事から、飯盛山城信貴山城は、生駒山地を利用して、相互関係を保持していたと考えてもいいように思います。両城ともに、兵や物資を大規模に備蓄が可能なつくりとなっていますし、有事への機動性を確保する意図があったと考えてもいいように思います。
 また、生駒山地(津田城・二上山城)や摂津国北部の山地(池田城・芥川山城)を支配する事は、大阪平野を取り囲む広域の情報ネットワークを活用する事が十分可能で、実際にそれぞれの山城に登ってみると、その事が考慮されていたと考えざるを得ません。
 それぞれの城は目視が可能な位置にあり、それぞれを伝えば、京都へも奈良へも神戸へも簡単な伝達が可能になっていますし、交通の拠点にあたる位置には、大規模な城が存在している点から考えても、連絡を迅速に行い、素早く行動できるようにできるネットワークと仕組みになっていたと考えられます。

2010年1月20日水曜日

奈良県北葛城郡箸尾にあった城

奈良県北葛城郡箸尾の箸尾城は、同郡長河荘荘官であった箸尾氏の本拠であったところに城はありました。こちらは、中世の堀や道が今も残っており、すばらしい史跡です。街そのものが資料館のようです。奈良県には環濠集落が多数あり、近年では急激にその数を減らしているとはいえ、今も箸尾のように面影をしっかり残しているところもあります。
 さて、摂津池田氏の系図での記述に、この箸尾に池田宗伯なる人物が三好三人衆により知行を得ていたとあります。真偽の程はわかりませんが、全く完全否定もできるほど、荒唐無稽でも無いのです。
 永禄10年に池田勝正が奈良へ進攻して活躍していますので、それに関係する可能性はあります。
 今後とも研究を続けたいと思います。

奈良市油阪東町の草鞋山 西方寺

平成12年(2000)当時の表門
奈良市油阪東町に草鞋山西方寺というお寺があります。非常に古い由緒を持つお寺で、大変趣のある古刹です。
 その西方寺は、池田勝正に縁があるお寺で、松永久秀と三好三人衆が激しく争った永禄10年、勝正は三好三人衆方として、松永久秀の本拠地である奈良へ進攻します。
 5月17日、久秀の居城奈良多聞城を攻めるため、三好三人衆方は、奈良の市街周縁部に陣を取ります。勝正はこの時多聞城の南にある砦、宿院城のすぐ西側一丁程のところにあった西方寺に陣を取りました。三好三人衆勢としては、最も敵に近い最前線でした。
 翌日の18日夜、勝正は宿院城に夜襲を敢行します。しかし、守備が堅く失敗します。この時、下村重介なる人物が戦死します。重介は、100人程を束ねる足軽大将であったと『多聞院日記』に、伝聞情報として記述されています。
 下村氏については詳しくは解らないのですが、今の池田市木部あたり出身の有力者なのかもしれません。この辺りには、館城のような施設があったとも伝わっています。

西方寺には、その当時からの山門などが残り、大変興味深いお寺です。付近には、東大寺はもちろん神社仏閣など多数の史跡があり、戦国ファンの方が訪れても楽しめるところだと思います。地形や空気感など、その場に立って始めて解る要素が沢山あります。
 もちろん、奈良のおいしいものも沢山ありますので、好奇心・触覚・お腹などなど、じっくりと楽しめます。

「奈良市油阪にある草鞋山西方寺と池田勝正 」と題して、新しい記事を掲載しました。どうぞご覧下さい。
 

明智光秀も陣を取った、戦国時代の史料に現れる森河内村(現東大阪市)と左専道村(現大阪市城東区諏訪1-2丁目)について

明治時代中頃の地図
東大阪市森河内(現西・東の長瀬川沿い)というところは、今や都会の一部ではありますが、このあたりは非常に昔の面影の残る貴重な地域です。
 この「森河内」は、前近代時代頃まで交通の要衝で、陸路・水運が交差する地域でした。また、戦国時代末期には大坂石山本願寺(城)にも近く、本願寺宗の影響力の強いところでした。そんな立地から、戦国時代には度々この森河内が拠点として利用され、争奪戦も繰り広げられています。

摂津国の戦国大名荒木摂津守村重も三好義継が自刃した天正元年(1573)以降、中河内地域から北側を領有している事から、村重と森河内地域も村重と何らかの関連を持っているかもしれません。

さて、いつものように、先ずは、大阪府の地名2(平凡社)にある「東大阪市」の森河内村の記述を抜粋してみます。
※大阪府の地名2-P981

(資料1)-------------------------------
森河内村(現東大阪市森河内:本通1-3丁目、西1-2丁目、東1-2丁目、森河内、古川町、島町)
森河内村域東部に見られる旧家
河内国若江郡に属し、東は稲田村・川俣村。大和川付替えまでは、新開池から西流してきた流れに村の北東で楠根川が、北西部で長瀬川が各々合流していた。「私心記」の天文3年(1534)3月10日条に「御厨・杜河内セメ落候」とある。同年10月11日条には「河内(丹下備後)森河内へ陣取候」とみえ、同月20日条によると細川晴元方と石山本願寺(跡地は現中央区)との合戦が「森河内之南」で行われている
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川方の本多忠朝が布陣した(譜牒余録)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(1673-81)河内国支配帳・天和元年(1681)河州各郡御給人村高付帳いずれも高582石余で幕府領。
 宝永2年(1705)から、大和川付替えで水量の減少した長瀬川の川床に新喜多新田が開発され、村域が二分された。元文2年(1737)河内国高帳では高438石余、幕府領。宝暦10年(1760)には幕府領(瀬川家文書)。幕末にも幕府領。
 楠根川の在郷剣先船を元禄5年(1692)には1艘所有していたが、享保5年(1720)には既に手放していた(布施市史)。産土神は八幡神社、真宗仏光寺派竜華山称光寺・同派宝樹山法林寺・融通念仏宗寿量山圓通寺がある。
-------------------------------(資料1おわり)

それから、森河内村の産土神は八幡神社のようですが、その社伝によると、本殿は室町時代末期まで遡るとの事で、村人は勿論、村に陣取った明智光秀など、武将も武運を祈願して詣でたかもしれません。
 また、上記(資料1)に見られる「私心記(ししんき)」とは、本願寺宗の中核的な寺であった順興寺(じゅんきょうじ:現枚方市)の実従(さねみち)の日記で、その実従は、蓮如上人の末子にあたる人物です。
この私心記に、森河内方面であった合戦の様子が記述されているのですが、天文年間(1532-55)の始めの頃は、時の管領(将軍の執政職)細川晴元が、法華宗徒や本願寺宗徒と戦いを繰り広げ、「天文法華の乱」などとも呼ばれる、京都とその周辺で政治と宗教の集団が武力で争い合うという、大変な混乱があった時期でした。
 軍事的劣勢を補うために、管領細川晴元が本願寺宗を味方につけて、敵を制圧したのですが、今度はその本願寺宗と晴元が対立し、それに対抗するために晴元は、法華宗と手を結んで制圧しようとします。
 そして何と、それから間もなく、その法華宗とも晴元は対立し、弾圧するという、もの凄い歴史です。

そんな中、森河内方面の記述が「私心記」に見られます。それらは天文3年(1534)の記事として記録してあります。
※石山本願寺日記-下-P227、232

(史料1)-------------------------------
3月10日:
御厨屋・森河内攻め落とし候。又、やがて摂津国天王寺へ廻り候。(同国)高津展渡辺焼き候。
10月11日:
河内(註:丹下備後守)森河内へ陣取り候。早々也。見物する也。
10月20日:
早々より河内国へ敵出張候。此の方より民部少輔打ち出し候。玄蕃頭同前。仍って森河内之南方於合戦。利運也。敵数輩打ち取り候也。(後略)。
-------------------------------(史料1おわり)

森河内村の東側に通る南北の道
また、同じ頃、森河内に接するようにある摂津国欠郡(東成郡)左専道村の記述も見られます。天文3年(1534)の10月13日の事として記録してあります。この時、左専道は河内国に属すような記述になっていますが、勘違いや書き間違いかもしれません。
 ただ、戦国時代は国境や郡境が、勢力の強弱などにより動きますので、もしかするとこの頃の左専道は河内国に含まれていたかもしれません。天王寺領新開庄に含まれ、一体化していれば、国境の判断は迷うところですね。
※石山本願寺日記-下-P232

(史料2)-------------------------------
上野玄蕃頭・太融寺より河内サセ堂(左専道)へ陣取。薬師寺二郎左衛門(下文中断)。同朝、周防主計汁振る舞い。
-------------------------------(史料2おわり)

左専道村を東西に走る道
実は、筆者はこの左専道村に生まれ育ち(父の代で移り住んだ)、母方の祖母が森河内の新地に住んでいましたので、このあたりの地理には詳しいのです。
 しかしながら、『地名』にある、詳しい歴史の流れについて、小さな頃から知っていた訳でもありませんので、近年になって知り得た事もあります。
 私が聞いた話しとして、両親が結婚した昭和39年(1964)頃、上記にある明治時代の地図のように、まだ多くが田畑だったようです。その後の経済成長で、この地域も急速に街の様子が変わった事が窺えます。

さて、上記の古地図からも判るように、森河内村と左専道村は接するように集落があるのですが、その間を割るように街道があり、それが中高野街道(放出街道)で、この道が摂津・河内の国境にあたります。
中高野街道(放出街道)
地図は北を上にして、西側が摂津国で、その東側が河内国です。大和川付替え以前は、長瀬川の水量が多く、森河内村の新地は大和川開削後の開発で開かれたりして、様子が変わったようです。

ちなみに、森河内村と関係が深い左専道村についても『大阪府の地名1(平凡社)』の「大阪市城東区」にある記述を紹介しておきます。
※大阪府の地名1-P630
 
(資料2)-------------------------------
左専道村(大阪市城東区諏訪1-4丁目、永田2-3丁目、東中浜5-6丁目、同8-9丁目)
天王田村の東、長瀬川左岸にあり、東は河内国森河内村(現東大阪市)。深江村(現東成区)で奈良街道(暗峠越)から分かれた摂河国境沿いの道が、村の東端を通って剣道へと続く。集落は村域北東隅に位置し、南方にある12間四方の墓地は行基が開いたと伝える。また延喜元年(901)太宰権師として筑紫へ左遷された菅原道真が、途中立ち寄ったのが当村諏訪明神の森といい、村名の由来説話がある(大阪府全志)。中世は四天王寺(現天王寺区)領新開庄(現東成区)に含まれたとみられる。
大阪市指定の保存樹
文禄3年(1594)の欠郡内佐専道御検地帳写(諏訪神社文書)によると、村高448石(うち12石余荒地)・反別33町4反余。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領。その後幕府領となったが、寛文5年(1665)村高の内400石が旗本稲富領となり幕末に至る。稲富領を東組と称し、残る幕府領を西組とよんだが、西組は幕末には京都所司代領(役知)。
 元禄11年(1698)治水のため村域大和川の外島(中州)が取り払われ(大阪市史)、宝永元年(1704)の大和川付替えで川は水量が減少して大部分の川床は開発された
 享保20年(1735)以降成立の村明細帳(諏訪神社文書)は、特定年の村明細帳ではなく書式・類例を記したものであるが、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳と同じ451石余が記され、稲富領400石のうち下田93石余・畑299石余・永荒7石余、幕府領51石余のうち田50石余・永荒1石余とある。また宝永5年、永田村と共同で笹関新田(現鶴見区)のうち1畝8歩の地を銀101匁余で布屋九右衛門より、幅2間半・長さ52間半の用水路を銀188匁余で鴻池新七より購入したこと、当村は砂交じりの水損場で麦は不作であること、年貢の津出しは剣先船を利用したこと、村保有の小船は14艘で下肥の運搬や農通いに使用したことなどがわかる。主要井路に橋本・西河原・高野田の各井路があった。享保20年の摂河泉石高調で、村高464石余のうち6石余が新田とされるのは、購入した笹関分か。
 諏訪神社は建御名刀美命・八坂刀売命を祀る。前掲村明細帳に引く元禄5年の寺社相改帳によると宮座65人、うち年長の9人が社務をつかさどり、禰宜・神子はいない。古来武家の尊崇厚く、豊臣秀吉奉納と伝える獅子頭一対が残る。
後藤山不動寺
後藤山不動寺は真言宗山科派。慶長7年(1602)宗寛により木野(この)村(現生野区)に創建されたが、水害のため宝暦9年(1759)当地に移転、のち友三寺(ゆうさんじ)と改称したが昭和17年(1942)現寺号に復した。
不動明王を本尊としたので左専道不動とよばれ、正月28日は初不動といって参詣人が多く(浪華の賑ひ)、桃の名所としても知られた(浪花のながめ)。大阪では「そうはさせない」というとき、語呂合わせに「ドッコイそうは左専道の不動」ということがあった(大阪府全志)。
 万峯山大通寺は融通念仏宗。ほかに慶長7年頃左専道惣道場として創建されたという真宗大谷派林照寺、浄土宗地蔵庵がある。
-------------------------------(資料2おわり)

上記(資料2)の文中にある、「南方にある12間四方の墓地は」とある部分、左専道の旧村域の南側にはそのような墓地は見たことがなく、「北方」の間違いではないかと思います。明治時代の地図にも集落の北西端に墓地の地図記号が見られ、南にはありません。

そして、これら両村の歴史を見ると、重要な街道を接し、また、大河にも接していた事で、水路の利用もしていたとの事で、水陸の要衝であった事がわかります。また、江戸時代を通じてほぼ幕府領で、時代が変わっても要地として把握されていた事がわかります。

時代は降って、織田信長の時代。この時の本願寺宗は、自衛的戦争を織田方(室町幕府が機能していた頃に始まった。)に対して起こします。この戦争は、その勃発から10年の長期戦になりますが、その時も森河内は重要な拠点となり、両者の争奪戦となっています。
 ちなみに、森河内は本願寺宗の本拠である大坂を守るための支城としての機能を果していました。その時の史料を一部、ご紹介します。天正5年と考えられる、10月20日付けで、織田信長から筒井順慶に送った音信です。
※織田信長文書の研究-下-P324、(新)大阪市史5(史料編)P196
 
(史料3)-------------------------------
(明智)惟任日向守光秀用所申し付け、自余(他所、丹波国)へ差し遣わし候。一途(いちず:決着する)之間、森・河内城之方に自身相越し、用心等堅固に覚悟せしめ、摂津国大坂へ通路並びに夜待ち以下の事、聊かも油断あるべからず也。
-------------------------------(史料3おわり)

融通念仏宗寿量山圓通寺
(史料3)は、奈良興福寺の衆徒から戦国大名化した筒井順慶についての史料です。文中には、「森」「河内」と分けて記されているのですが、この頃、森口(現守口市)と森河内に陣を構築しており、両所の事を同時に言っているのかもしれませんが、単純に「森河内」かもしれません。いずれにしても森河内は、この頃までには織田方の配下ですので、そのように理解しても差し支えは無いと思います。

次ぎにまた、関連史料をご紹介します。天正6年(1576)と思われる11月3日付けで、明智光秀が、所属不明の佐竹出羽守某宿所へ宛てて出した音信です。
※亀岡市史(資料編2)P28

(史料4)-------------------------------
来る12日、南方に至り御出馬されるべく候由、仰せ出され候之間、丹波国亀山之普請相延べ候。然者油断無く陣用意専用候頃、鉄砲・楯・柵・縄・俵之儀、10日以前に河内国森河内に相着かれるべく候。我等は11日に彼の地へ罷り越すべく候条、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
-------------------------------(史料4おわり)

この頃には森河内に、更なる強固な陣を構築しようとしている様子がわかります。柵を巡らせ、俵や楯を並べた陣地を作ろうとしていた事がわかります。また、鉄砲も配備していたようです。
 光秀は、佐竹出羽守某にそれらを11月10日までに森河内に運び入れるよう指示し、光秀自身が翌11日に着いたら、作業を始められるように、段取りを組んでいたようです。

現在の長瀬川(東向)
戦国武将として有名な明智光秀や筒井順慶も森河内村に入っていたことは、これらの当時に書かれた手紙(史料)から確実です。やはり前述のように、ここは重要な街道を通し、水運も押さえる必要から、名だたる人物を入れて管理しています。
 また、私の研究の領域外ではありますが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川方の本多忠朝が布陣しているようですね。

この森河内・左専道あたりは最近、住宅の建設も盛んになりつつありますので、急速に町並みを変えつつあります。景色が一変する前に、ご興味のある方は、散策されてもそういう中世の面影を楽しめると思います。

 

2009年12月22日火曜日

池田勝正の最後 その2

2009年12月19日投稿分の続き、その2です。

天正6年の秋以降に小柿地域へ池田勝正が入ったのなら、また、別の想定が必要になります。

今のところ不確定なのですが、現広島県福山市神辺町に池田勝正そ祖に持つと伝わる旧家があります。
 私はそちらへお邪魔して色々と資料を見せて頂いたのですが、その中に天正六年十月十五日と日付の入った、池田勝正署名の木札がありました。その時の資料を総合的に見ても確定できるものは無いのですが、時代や場所からして、全く的外れでもありません。しかし、勝正が確かにそこに居たとするには、今のところ材料が足りません。

 もしもそれが、勝正の足跡だったとしたら、足利義昭に加担して備後国へ一時的に身を寄せ、何らかの理由で摂津・丹波国方面へ向かった事になります。
 天正六年の秋以降、荒木村重が織田信長から離反。足利義昭の京都復帰が、いよいよ現実味を帯びる事となりました。京都のその最も近いところに天下に名の知れた村重の領国がありました。
 ご存知の通り、信長は、村重の離反を深刻に捉え、直ちにこの制圧に全力でとりかかります。この時も信長の常套手段である、敵の孤立化を行います。補給と連絡を絶つために、要所を大軍で攻めます。
 摂津・丹波・播磨国境の近い、小柿や三田方面は特に重視して信長は軍勢を送り込みます。地図を見ればそれは一目瞭然です。摂津は荒木、丹波は波多野、播磨は別所が、足利・毛利方として連携しています。そんな地域に勝正は居た事になります。
 天正六年の師走には、三田方面も信長の軍勢が包囲網を形成して、大体の孤立化を終えます。ですので、秋から冬にかけて、小柿や三田方面では要所を取られまいと激しい交戦があったでしょう。
 勝正は足利・毛利方そとして、その一連の動きの中で織田方と交戦を行い、戦死したと想定できます。シナリオ(2)としてはそういう筋書きも描けるように思います。

2009年12月19日土曜日

池田勝正の最後

歴史学を学んだわけでは無いのですが、その真相が知りたくて、もう、10年以上も池田勝正の研究をしています。
 今もわからないところは多くあるのですが、素人とはいえ、10年以上も毎日のように当時の史料や伝聞資料を読んでいると、ぼんやりとその輪郭がわかるようになりました。
 謎の多い人物と言われている勝正ですが、天正6年の死亡説があります。これは、系図などにある記述から通説となっているものですが、今のところ、それを完全否定する要素も見当たらないので、それを元に色々と調べています。
 また、今の兵庫県三田市の小柿というところに、池田勝正の墓と伝わる墓塔があります。これも確定されたものでは無いのですが、近隣のお宅には勝正に関係する言い伝えもある事から、これも特に否定する材料も無いので、今のところそれを手がかりとして研究を進めています。
 それらの要素を集約すると、天正6年小柿で死亡したという事になります。
 また、この小柿という地域は、丹波国の八上城の後背地で、城の防御上非常に重要な場所にあたります。小柿は、摂津・丹波国境で、国境線は時代によって移動していたようです。それゆえに、天正6年頃まで、波多野氏が勢力を保っていた時代は、波多野氏の支配地であったと考えられます。
 天正6年秋、摂津国守護格の荒木村重が織田信長政権から離脱します。この時、信長方の明智光秀方に包囲されていた八上城は、摂津国境とつながり補給線が確保されます。
 さて、池田勝正は、一貫して足利義昭方として働いていました。ですので、天正6年秋以降であれば、足利義昭方波多野・荒木に味方して信長方と戦って死んだのかもしれません。
 天正6年秋以前であれば、波多野方として荒木方と戦って死んだということになるのかもしれません。また、何らかの原因で病死したという事も推定のひとつとして考えられますが、今のところその死因などもわかっていません。
 ぼんやりとした記事になってしまいましたが、天正6年、勝正は足利義昭方として、その有力な協力者である波多野氏を支援するために、八上城守備の為、重要な小柿地域に入った。
 これに対し、何としても先ずは、城の補給路を断って包囲を完成させる必要から、この地域を信長方は特に攻めた。勝正はそれまでの統率力を買われて、その重要な拠点である小柿地域を守備して戦う。また、この動きに永沢寺は波多野氏に協力して物資を運んだ。その伝承がある。母子地域も波多野方が確保していた模様。しかし、勝正は奮戦虚しく戦死、または、病死した。波多野氏は窮地に立たされる。
 しかし、それから間もなく村重は、信長方から離反。補給線は繋がり、波多野氏は、命をつなぐ事ができた。
 シナリオ(1)としては、そういう筋書きも書けるように思います。

 天正6年秋以降の可能性をシナリオ(2)として、この次の記事で考えてみたいと思います。

2009年12月14日月曜日

中世国人の研究って...

大阪府池田市に住んだことがきっかけで、摂津国人池田氏の事を調べ始めました。
 最初は全くの素人からのスタートでした。私は造形やデザインの勉強をしていましたので、 歴史学というかそちらの分野の事は全くわらないまま、興味だけで進んでいました。
 しかし、10年以上もやっていると、活字になった古文書は何とか読めるようになり、 書いてある事の意味も解るようになりました。
 そこから見えてきたものは、やはり、最初に感じていた通りで、歴史とは、勝者の 歴史でした。
 負けた側の歴史は、勝者に都合よく使われて、それはもう「悲惨」といってもいい くらいです。歴史というものを細かく見ていくと、そういった事も見えてきます。
 池田筑後守勝正という人物は、実質的に池田家の最後の当主で、また、同家の最盛期でもありました。そんな、世の中の天と地を経験したような人物ですが、 彼の人生は、あまり知られる事も無く、埋もれたままです。
 しかし、彼は非常に話題の豊富な人物で、歴史的な転換点に多数立ち会って います。織田信長との対戦、また、荒木村重や中川清秀を家臣に持ち、高山右近など ともキリスト教を通して、その資料にも現れます。
 今も池田勝正の研究を続けていますが、また、機会を見つけて、池田勝正の 人物像を紹介していきたいと思います。

2009年7月22日水曜日

今後は少しずつ記事を増やします

ブログを使って池田勝正の情報を公開してみようと思います。
呉江舎のホームページにも勝正のコーナーはあるのですが、夫々の利点を活かして、
ご紹介していきたいと思います。