2025年9月27日土曜日

摂津国東成(欠)郡左専道村(現大阪市城東区諏訪)にあった城らしき「古城」という小字(地名)

摂津国東成郡左専道村内「古城」推定地
元々は別の調べごとで、大阪府東成郡史を読んでいたのですが、そこに、筆者の生まれ育ちの地でもある旧左専堂村にも「城」らしきものがあった記述を見つけ、驚きました。これについて全く聞いたことがありませんでした。
 それを確認するために、文化財関連など心当たりの公的な関係部署には問い合わせてみたのですが、初耳とのことでした。ただ、古い地番に行き当たることができず、「法務局」での確認になりそうです。とりあえず、場所の特定について、そこまでは辿り着きました。
 また、旧左専道村に代々お住いの古老(1935年生まれ)にも同件を尋ねてみたのですが、「初耳だ」とのことで、場所の特定や様子には辿り着けませんでした。

この「古城」の小字については、非常に気になる要素ですので、調べを更に深めたいと思います。

◎城の存在を感じさせる小字「古城」の記述
さて、それについて先ず、現在手元にある資料を集めておきたいと思います。その出発点である『東成郡史』の記述該当部分からご紹介します。
※東成郡史(大正11年(1922)12月25日発行)P776

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東成郡城東村:
【地勢及び地味】
展開せる大阪平野の一部にして土地平坦なり。本村内を貫通する河川なし。但し池沼及び井路多し。地質は第四紀層に属する肥沃の土壌にして、殊に米・麦・菜種・野菜・大豆等の作物に適す。
【区割り】
本村は鴫野、左専道、永田、天王田の四大字より成る。鴫野は村の西部を占め、永田、左専道は東部に連なり、天王田は中部に位す。天王田は寛文7年、本庄村より分割して置く所なり。各大字に属する小字名及び番地は左の如し。

明暦元年大坂三郷町絵図
(大阪歴史博物館所蔵)
【大字左専道】
東島(地番略)、上島、中島、下島、古城(自140番至166番ノ2)、西溝、高野田(こおやでん)、中屋敷、西河原、橋本西側、苔木、南尼田、北尼田、切下、佃、宮前、里前、里中。
【水利(水系)運河】
大字鴫野に在り。摂津土地株式会社の経営にて開鑿したるなり。寝屋川朝日橋より西三十間の所に関門を設け、此処より南南東に向かいて進み、約150間(2.7キロ)にして東に折れ、又約100間(1.8キロ)にして南に折れ、経営地端に至る。総延長511間(9.2キロ)、幅8間(14メートル)、深さ干水時に於いて40石積みの運送船の通航を自由ならしむ。大正3年(1914)着手同年竣工す。幅7間(13メートル)の支線あり、その延長168間(3.1キロ)、大正8年(1919)9月竣工す。又城東土地株式会社にて、近く千間井路を開鑿して運河となす計画あり。
【池沼】
本村に池沼多し。大正7年(1918)度調査土地台帳によれば総数52、総面積2町3段1畝18歩にして、悉く民有なり。往時は池沼の数今日に比し尚多数なりしものの如く、明治9年(1876)の調査に拠れば周囲2町(約218メートル)以上のもの大字天王田に33、同永田に5、左専道に18、鴫野に41ありき。此等は水質薄濁、水藻魚亀を産し、池底の泥土は肥料に用う。大なる池沼は其の形大抵細長なり。
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小字に「古城」とあり、その他にも「島」とつく小字が多くみられます。これについて同書「池沼」の項目で、「本村に池沼多し。(中略)周囲二町以上のもの(中略)大字左専道に18、(中略)大なる池沼は其の形大抵細長なり。」とあるように、湿地帯の自然環境でもあったことから、「島」と名の付く小字が多かったようです。

古城についての地番を辿れば、大まかには現永田1~3丁目のあたりのようです。明治18年(1885)の様子を記録した地図に、その範囲を示してみます。赤色で囲んであります。
 この時点で、既に開墾されており、「田」が一面に拡がっています。また、ご覧の通り、小字「城」の場所は、左専道村の中心部からは少し離れた場所です。

◎戦国時代当時の記録に現れる「左専道村」
さて、いわゆる戦国時代に見られる、左専道村についての当時の史料をご紹介します。天文3年(1534)10月13日の事として、大坂本願寺日記にみえます。
※石山本願寺日記(下)P232

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 上野玄蕃頭・太融寺より河内サセ堂(左専道)へ陣取。薬師寺二郎左衛門(下文中断)。同朝、周防主計汁振る舞い。
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左専道集落中心部の主要道
この記録では、「河内サセ堂」とあり、そこに陣を取ったとしています。同村は摂津・河内国境に位置する集落で、本来は摂津国欠郡に属します。これは記録者である本願寺関係者の誤記ですが、より興味深いのは左専道村に陣取りした事です。残念ながら、この記録は中断されており、その他の詳しいことは判りません。
 この記録が、左専道村に伝わる「古城」と関係があるのかどうか、今のところ不明ですが、同村が当時のそのような状況、地理にあったことは確かです。

他方、この辺りの当時の地形を広域に俯瞰すると、江戸時代中期の大和川開削前の状況ですので、今とは随分と自然環境が違います。生駒山の西麓にあった深野池から、その西側にあった新開池を経て大坂湾に注ぐという大河の流れがありました。左専道村と森河内村は、その経路にあたることから要地として重要視されていました。
 戦国時代当時、そのような状況にあり、左専道村は度々、戦の陣取りに使われていました。そのために、村人の避難場所や陣所として、村の主要部の他に施設が設けられていた可能性もあります。山のない平坦な地形で、それはどのように工夫されたのでしょうか。

◎左専道村の概要
左専道村について、いつもの大阪府の地名から、該当部分を以下に引用します。
※大阪府の地名1(平凡社)P630名

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左専道村(大阪市城東区諏訪1-4丁目、永田2-3丁目、東中浜5-6丁目、同8-9丁目):
天王田村の東、長瀬川左岸にあり、東は河内国森河内村(現東大阪市)。深江村(現東成区)で奈良街道(暗峠越)から分かれた摂河国境沿いの道が、村の東端を通って剣道へと続く。集落は村域北東隅に位置し、南方にある12間四方の墓地は行基が開いたと伝える。また延喜元年(901)太宰権師として筑紫へ左遷された菅原道真が、途中立ち寄ったのが当村諏訪明神の森といい、村名の由来説話がある(大阪府全志)。中世は四天王寺(現天王寺区)領新開庄(現東成区)に含まれたとみられる。
旧放出街道
 文禄3年(1594)の欠郡内佐専道御検地帳写(諏訪神社文書)によると、村高448石(うち12石余荒地)・反別33町4反余。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領。その後幕府領となったが、寛文5年(1665)村高の内400石が旗本稲富領となり幕末に至る。稲富領を東組と称し、残る幕府領を西組とよんだが、西組は幕末には京都所司代領(役知)。元禄11年(1698)治水のため村域大和川の外島(中州)が取り払われ(大阪市史)、宝永元年(1704)の大和川付替えで川は水量が減少して大部分の川床は開発された。享保20年(1735)以降成立の村明細帳(諏訪神社文書)は、特定年の村明細帳ではなく書式・類例を記したものであるが、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳と同じ451石余が記され、稲富領400石のうち下田93石余・畑299石余・永荒7石余、幕府領51石余のうち田50石余・永荒1石余とある。また宝永5年、永田村と共同で笹関新田(現鶴見区)のうち1畝8歩の地を銀101匁余で布屋九右衛門より、幅2間半・長さ52間半の用水路を銀188匁余で鴻池新七より購入したこと、当村は砂交じりの水損場で麦は不作であること、年貢の津出しは剣先船を利用したこと、村保有の小船は14艘で下肥の運搬や農通いに使用したことなどがわかる。主要井路に橋本・西河原・高野田の各井路があった。享保20年の摂河泉石高調で、村高464石余のうち6石余が新田とされるのは、購入した笹関分か。
 諏訪神社は建御名刀美命・八坂刀売命を祀る。前掲村明細帳に引く元禄5年の寺社相改帳によると宮座65人、うち年長の9人が社務をつかさどり、禰宜・神子はいない。古来武家の尊崇厚く、豊臣秀吉奉納と伝える獅子頭一対が残る。後藤山不動寺は真言宗山科派。慶長7年(1602)宗寛により木野(この)村(現生野区)に創建されたが、水害のため宝暦9年(1759)当地に移転、のち友三寺(ゆうさんじ)と改称したが昭和17年(1942)現寺号に復した。不動明王を本尊としたので左専道不動とよばれ、正月28日は初不動といって参詣人が多く(浪華の賑ひ)、桃の名所としても知られた(浪花のながめ)。大阪では「そうはさせない」というとき、語呂合わせに「ドッコイそうは左専道の不動」ということがあった(大阪府全志)。万峯山大通寺は融通念仏宗。ほかに慶長7年頃左専道惣道場として創建されたという真宗大谷派林照寺、浄土宗地蔵庵がある。
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これまで、あまり意識していなかったのですが、『明暦元年大坂三郷町絵図』では、左専道村と森河内村の間に川が流れています。放出街道は、今も他の地面より少し高い位置にあります。明治18年の地図ではその街道の東側の脇に細長い川の跡のようなものが描かれています。これはその名残かもしれません。長瀬川と接続していたいと思われます。

◎摂津国欠郡新開庄の概要
それから、左専道村は摂津国新開庄の北端でもあったため、その庄園について、以下にご紹介しておきます。
※大阪府の地名(平凡社)P638

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摂津国新開庄の位置図
新開庄:

現在の東成区深江・今里の付近を中心としたとみられる四天王寺(現天王寺区)三昧院の庄園。興国元年(1340)7月28日、南朝の後村上天皇は四天王寺の28世執行泰順に綸旨を下し、父孝順の譲りに任せて新開庄の領主職を相伝知行するよう命じている(秋野房文書)、また正平6年(1351)2月28日、四天王寺検校忠雲が播磨上座なる者に与えた御教書(同文書)によれば、後村上天皇の興国年間の勅裁のとおり、性順の余流である播磨上座が通順とともに三昧院領新開庄の知行を認められている。当時、室町幕府内部では、足利尊氏・義詮父子と足利直義との間が分裂する危機にあり、南朝方との間に複雑な政治関係が展開されていた。そうした政治情勢のなかで、四天王寺が南朝の意向の下に当庄の知行を維持しようとしている点が注目される。しかしその後、「満済准后日記」の永享3年(1431)3月9日条によると、かねて摂津守護細川氏の使者が禁止していたにもかかわらず、去る6日に四天王寺の僧徒が新開庄に発向して現地の堂塔・在家一宇に放火し焼き尽くす事態がおこったので、守護方は面目を失したと伝えており、四天王寺の支配に対する庄民の抵抗が激化していったことをうかがわせる。
 新開庄の名は近世にも地域名称として残り、その範囲は宝暦3年(1753)摂州住吉東生西成三郡地図によれば「暗峠路ノ大街以北、大和古川以南、平野川以東十一村」であった。
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◎今後も「小字古城」について調べを続ける
このように左専道村は、古くからの歴史を持ちますが、全国屈指の政令指定都市である大阪市内に含まれるということもあり、急速に市街化が進み、今では旧態が判らなくなっています。
 しかしながら、先人が営々と地域を守り継いできた場所であり、それを知ることは、急速な市街化過程にある中にあるからこそ、再確認も必要であろうと感じます。
 戦国時代は、話し合いもありましたが、武力で解決することが不可避であった時代でもあり、村民と家を守るためにも大変な労力を要した時代です。そんな過酷な時代を生き抜き、今に地域を繋いだ人々の経過を知ることは、人道であり、科学であり、大きな資産でもあります。

左専道村にあった「古城」について、新たに判明したことがあれば、随時ご紹介していきたいと思います。

【参考記事】
明智光秀も陣を取った、戦国時代の史料に現れる森河内村(現東大阪市)と左専道村(現大阪市城東区諏訪1-2丁目)について

 

明治18年の摂津・河内国境を中心とした周辺の様子(国境の放出街道が南北に通る)

 

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