1939年(昭和14)3月発行の『池田町史』法園寺の条に、上月(赤松)十大夫政重についての記述があります。これは寺に残る寺伝や過去帳なども調べて紹介されているようです。以下にその記述を抜粋します。
※池田町史 第一篇 風物詩P135
-(資料1)---------------------------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、
赤松氏上月十大夫政重之塔
寛永19年午9月12日卒
法名、可定院秋覚宗卯居士
宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。
享保7年壬寅9月12日
※■=欠字
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それから、『池田市内の寺院・寺社摘記』という、いつ頃書かれたのか不明ですが、昭和後半頃と思われる著者不明の冊子があり、そこに法園寺の紹介があります。地元の郷土史家が書かれたようですが、ここにも少し違う謂われがありますので、参考までにご紹介します。但し、原典の記述は無く、その旨ご注意下さい。
※池田市内の自院・寺社摘記P33
-(資料2)---------------------------------
(前略)
創建の年月が詳らかでありませんが、再建せられたのは天文7年(1538)で、山城国洛陽の法園寺4世勝誉が当寺に転任して、現山号を命名。檀徒と協力して経営し、諸堂を完備再興して、宝永年間(1704-11)に池田筑後守勝正が先妣妙玉大姉の冥福のための大修理を加えて、今日に至っております。
(後略)
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上記で、明らかに違うところがあるので、お知らせしておきます。宝永年間と池田勝正は、全く別の時代ですので、明らかに時日とは一致しません。永禄年間(1558-70)の間違いかもしれません。
ただ、池田勝正の妻としての「先妣妙玉大姉」が現れますが、より古い『池田町史』では、「池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所」とあって、記述が異なっています。
多分、後者が正しく、三好越前守政長(入道して宗三)の娘を後妻にもらった信正であれば、史実と合致しますので、こちらが正しいのではないかと思います。
そもそも、池田氏の正式な菩提寺は大広寺ですので、その城主の妻の墓をこちらに置いているというのは、一族とは少し違う扱いにしていた事になります。
さて、(資料1)に話しを戻します。その文中、上月政重は、寛永19年(1642)に75歳で亡くなったとしてあるので、逆算すると1567年(永禄10)の生まれとなります。また、政重は3歳の時に、三好・荒木両党により、父子一族悉く殺害されたとあり、これは元亀元年(1570)6月の池田家中の内訌である事が判ります。この伝承は、史実をある程度正確に伝えているようです。
その時、政重はどこに居たのかというと、同じ摂津の川辺郡の「荒蒔城」としており、これは今の伊丹市荒牧に比定されますが、ザッと調べた範囲では、荒牧村には確かに館城の伝承地があり、それなりの勢力を持っていたようです。以下に少しだけ、紹介してみます。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)P429
-(資料3)---------------------------------
(前略)
応永26年(1419)11月の上月吉景譲状並置文(上月文書)に「あらまき」とみえ、吉景は荒牧の地頭職を室町将軍から与えられ、守護からも荒牧のうち三分の二の知行を認められた。残りの三分の一は吉景の舎弟則時に与えられ、のち景氏に伝承された。この年吉景は、地頭職と同地の三分の二を子息景久に譲っている。
文正元年(1466)閏2月、有馬温泉(現神戸市北区)の帰途、京都相国寺蔭凉軒主で、播磨上月氏出身の李瓊真蘂は、荒牧の上月大和守入道宅とその南側の子息太郎次郎館を訪れている。屋敷は足利尊氏から、軍忠によって拝領したという(「蔭凉軒日録」同年閏2月22日条)。
上月大和守入道は庶子家とみられ、荒牧に居館を構えていた事が確認される。太郎次郎は、200〜300人もの「歩卒、僕従」を率いて湯治中の真蘂を警護したほか、有馬に滞在して種々接待につとめ、またこの頃上月氏は25間もの倉を昆陽野から購入したという(「同書同月11日条・17日条など」)。荒牧上月氏の勢力の一端が知られる。字城ノ前に荒牧館跡があったとされるが、遺構は認められない。
(後略)
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村の歴史としては上記のようにあり、館を持ち、200〜300人の動員力を持つ荒牧上月氏は、確実に存在しています。
いずれにしても政重は、代々住む荒蒔城で三好三人衆方となった荒木(池田)一党に攻められて、一族郎党の多くが殺されたとしています。その折、政重は乳母に助け出されて、親類(母方の弟か)のある畑村へ逃げ(避難)、そこで育てられたようです。
政重22歳の時、天正17年(1589)に、親戚を因んで池田備後守知正の被官となりますが、慶長9年(1604)の知正の死去を契機に、稲葉氏へ再仕官したようです。
ここで、少し気になるのは、上月家と池田知正の家系が親戚であったかのように伝えてある点です。単純に書いてあることを辿ると、政重の母方が畑村の石尾下野守家から出ていて、この石尾家が細河郷の山脇系池田家とも姻戚関係などを持っていれば、接点が見出せます。畑村と東山村は、五月山を経た山道でつながっていますので、不自然な関係ではありません。
また、この政重は、稲葉氏の家臣としての職を辞して、池田に戻り、その2年後の寛永19年(1642)9月に75歳で亡くなると、法園寺で葬られます。上月政重が池田に戻り、なぜ法園寺に葬られたのかについては、理由があるようです。
この上月氏は、池田家中で家老を務め、法園寺のある建石町に家老屋敷を持っていたとの伝承記録があり、その事にも関係しているためと考えられます。
それについて『穴織宮拾要記 末』の中に記述があるようです。「五人之家老町ニ住ス」として、池田民部、大西与市右衛門、河村惣左衛門、甲■伊賀、上月角■衛門と記されています。その文を抜粋します。
※参考:池田城関係の図録(池田城域南端)
-(資料4)---------------------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云右五人之家老町ニ住ス。
(後略)
※■=欠字
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文中の「池田の城伊丹へ引さる先」の事としてある意味は、天正3年(1575)に荒木村重が、池田から伊丹へ本拠を移す前の様子を描いているようです。ただ、勘ぐり過ぎかもしれませんが、この一節は、民部丞屋敷の事だけにかかる意味なのか、5人の家老屋敷の同時代性を言っているのか、迷うところではあります。
それから、上月角■(右?)衛門なる人物の屋敷が、建石町の南側より裏の畠ノ字上月かいち(垣内)と云う所にあった、と記述しています。
上月政重が、稲葉氏の家臣を辞して池田に戻り、その死後、建石町の法園寺に葬られたのは、この事と関係があると思われます。
多分、池田家中で家老を務めたらしい上月角■衛門とは、政重の一族で、天正3年では、政重が僅か8歳(数えで9歳)であり、家老を務めるという訳にもいきません。上月氏の別の有能な人物が取り立てられたのでしょう。元亀元年の上月氏の惨禍の折、家中が二分され、三好三人衆方荒木氏に味方した一派があったのかもしれません。
一方、上月氏の居城とする荒蒔(荒牧)は、村重系の荒木氏が本拠を構えていたと考えられる栄根・加茂村から西へ進んだ、平井・山本あたりの影響(支配)地の西端あたりで、微妙な位置にあります。塩川氏との勢力境界あたりで、山本村には、喜音寺(きおんじ)という塩川氏ゆかりの寺もあります。
それ故に、元亀元年は三好三人衆方の勢力が再び増していた時期でもあって、荒木村重や池田家にとって、近接する有力な勢力への備えや有馬街道の確保の観点でも荒牧は、押さえておくべき地域だったのかもしれません。
それから、この上月政重の塔婆ですが、1999年頃に私自身も建石町の法園寺さんを訪ねて聞いてみたのですが、1995年の阪神大震災で寺地に小さくない被害が出てもいて、その時には所在が判らなくなっていました。その時はあまり詳しく聞くこともできなかったのですが、またこれも、再度尋ねてみようと思います。
上月氏と言えば、やはり、播磨国人で赤松氏一族としての上月氏が有名ですよね。この城での攻防戦は、荒木村重の織田信長からの離反を巡る動きの中で、注目される歴史です。この荒牧上月政重の系譜もやはりそこにつながるのですが、池田との接点はどこかというと、池田には有馬街道が通っており、文字通り有馬(有馬郡は赤松氏が入り、分郡守護を代々伝領。)を経て、三木や加古川方面ともつながっていた、当時としての主要道路があったためです。官道であった西国街道にも匹敵する脇往還道で、交通量も大変多かったともされている道で、政治・経済ともに播磨国方面と池田は、有馬街道を通じてつながりを深く持っていました。
※池田町史 第一篇 風物詩P135
-(資料1)---------------------------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、
赤松氏上月十大夫政重之塔
寛永19年午9月12日卒
法名、可定院秋覚宗卯居士
宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。
享保7年壬寅9月12日
※■=欠字
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それから、『池田市内の寺院・寺社摘記』という、いつ頃書かれたのか不明ですが、昭和後半頃と思われる著者不明の冊子があり、そこに法園寺の紹介があります。地元の郷土史家が書かれたようですが、ここにも少し違う謂われがありますので、参考までにご紹介します。但し、原典の記述は無く、その旨ご注意下さい。
※池田市内の自院・寺社摘記P33
-(資料2)---------------------------------
(前略)
創建の年月が詳らかでありませんが、再建せられたのは天文7年(1538)で、山城国洛陽の法園寺4世勝誉が当寺に転任して、現山号を命名。檀徒と協力して経営し、諸堂を完備再興して、宝永年間(1704-11)に池田筑後守勝正が先妣妙玉大姉の冥福のための大修理を加えて、今日に至っております。
(後略)
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池田市建石町にある法園寺の正門 |
ただ、池田勝正の妻としての「先妣妙玉大姉」が現れますが、より古い『池田町史』では、「池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所」とあって、記述が異なっています。
多分、後者が正しく、三好越前守政長(入道して宗三)の娘を後妻にもらった信正であれば、史実と合致しますので、こちらが正しいのではないかと思います。
そもそも、池田氏の正式な菩提寺は大広寺ですので、その城主の妻の墓をこちらに置いているというのは、一族とは少し違う扱いにしていた事になります。
さて、(資料1)に話しを戻します。その文中、上月政重は、寛永19年(1642)に75歳で亡くなったとしてあるので、逆算すると1567年(永禄10)の生まれとなります。また、政重は3歳の時に、三好・荒木両党により、父子一族悉く殺害されたとあり、これは元亀元年(1570)6月の池田家中の内訌である事が判ります。この伝承は、史実をある程度正確に伝えているようです。
その時、政重はどこに居たのかというと、同じ摂津の川辺郡の「荒蒔城」としており、これは今の伊丹市荒牧に比定されますが、ザッと調べた範囲では、荒牧村には確かに館城の伝承地があり、それなりの勢力を持っていたようです。以下に少しだけ、紹介してみます。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)P429
-(資料3)---------------------------------
(前略)
応永26年(1419)11月の上月吉景譲状並置文(上月文書)に「あらまき」とみえ、吉景は荒牧の地頭職を室町将軍から与えられ、守護からも荒牧のうち三分の二の知行を認められた。残りの三分の一は吉景の舎弟則時に与えられ、のち景氏に伝承された。この年吉景は、地頭職と同地の三分の二を子息景久に譲っている。
文正元年(1466)閏2月、有馬温泉(現神戸市北区)の帰途、京都相国寺蔭凉軒主で、播磨上月氏出身の李瓊真蘂は、荒牧の上月大和守入道宅とその南側の子息太郎次郎館を訪れている。屋敷は足利尊氏から、軍忠によって拝領したという(「蔭凉軒日録」同年閏2月22日条)。
上月大和守入道は庶子家とみられ、荒牧に居館を構えていた事が確認される。太郎次郎は、200〜300人もの「歩卒、僕従」を率いて湯治中の真蘂を警護したほか、有馬に滞在して種々接待につとめ、またこの頃上月氏は25間もの倉を昆陽野から購入したという(「同書同月11日条・17日条など」)。荒牧上月氏の勢力の一端が知られる。字城ノ前に荒牧館跡があったとされるが、遺構は認められない。
(後略)
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村の歴史としては上記のようにあり、館を持ち、200〜300人の動員力を持つ荒牧上月氏は、確実に存在しています。
いずれにしても政重は、代々住む荒蒔城で三好三人衆方となった荒木(池田)一党に攻められて、一族郎党の多くが殺されたとしています。その折、政重は乳母に助け出されて、親類(母方の弟か)のある畑村へ逃げ(避難)、そこで育てられたようです。
政重22歳の時、天正17年(1589)に、親戚を因んで池田備後守知正の被官となりますが、慶長9年(1604)の知正の死去を契機に、稲葉氏へ再仕官したようです。
ここで、少し気になるのは、上月家と池田知正の家系が親戚であったかのように伝えてある点です。単純に書いてあることを辿ると、政重の母方が畑村の石尾下野守家から出ていて、この石尾家が細河郷の山脇系池田家とも姻戚関係などを持っていれば、接点が見出せます。畑村と東山村は、五月山を経た山道でつながっていますので、不自然な関係ではありません。
また、この政重は、稲葉氏の家臣としての職を辞して、池田に戻り、その2年後の寛永19年(1642)9月に75歳で亡くなると、法園寺で葬られます。上月政重が池田に戻り、なぜ法園寺に葬られたのかについては、理由があるようです。
この上月氏は、池田家中で家老を務め、法園寺のある建石町に家老屋敷を持っていたとの伝承記録があり、その事にも関係しているためと考えられます。
それについて『穴織宮拾要記 末』の中に記述があるようです。「五人之家老町ニ住ス」として、池田民部、大西与市右衛門、河村惣左衛門、甲■伊賀、上月角■衛門と記されています。その文を抜粋します。
※参考:池田城関係の図録(池田城域南端)
-(資料4)---------------------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云右五人之家老町ニ住ス。
(後略)
※■=欠字
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摂津池田城の復元イメージ模型より(南端部分) |
それから、上月角■(右?)衛門なる人物の屋敷が、建石町の南側より裏の畠ノ字上月かいち(垣内)と云う所にあった、と記述しています。
上月政重が、稲葉氏の家臣を辞して池田に戻り、その死後、建石町の法園寺に葬られたのは、この事と関係があると思われます。
多分、池田家中で家老を務めたらしい上月角■衛門とは、政重の一族で、天正3年では、政重が僅か8歳(数えで9歳)であり、家老を務めるという訳にもいきません。上月氏の別の有能な人物が取り立てられたのでしょう。元亀元年の上月氏の惨禍の折、家中が二分され、三好三人衆方荒木氏に味方した一派があったのかもしれません。
一方、上月氏の居城とする荒蒔(荒牧)は、村重系の荒木氏が本拠を構えていたと考えられる栄根・加茂村から西へ進んだ、平井・山本あたりの影響(支配)地の西端あたりで、微妙な位置にあります。塩川氏との勢力境界あたりで、山本村には、喜音寺(きおんじ)という塩川氏ゆかりの寺もあります。
それ故に、元亀元年は三好三人衆方の勢力が再び増していた時期でもあって、荒木村重や池田家にとって、近接する有力な勢力への備えや有馬街道の確保の観点でも荒牧は、押さえておくべき地域だったのかもしれません。
それから、この上月政重の塔婆ですが、1999年頃に私自身も建石町の法園寺さんを訪ねて聞いてみたのですが、1995年の阪神大震災で寺地に小さくない被害が出てもいて、その時には所在が判らなくなっていました。その時はあまり詳しく聞くこともできなかったのですが、またこれも、再度尋ねてみようと思います。
上月氏と言えば、やはり、播磨国人で赤松氏一族としての上月氏が有名ですよね。この城での攻防戦は、荒木村重の織田信長からの離反を巡る動きの中で、注目される歴史です。この荒牧上月政重の系譜もやはりそこにつながるのですが、池田との接点はどこかというと、池田には有馬街道が通っており、文字通り有馬(有馬郡は赤松氏が入り、分郡守護を代々伝領。)を経て、三木や加古川方面ともつながっていた、当時としての主要道路があったためです。官道であった西国街道にも匹敵する脇往還道で、交通量も大変多かったともされている道で、政治・経済ともに播磨国方面と池田は、有馬街道を通じてつながりを深く持っていました。
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