元亀元年(1570)8月付で、織田信長から管領格(家)である細川六郎に送られたであろう朱印状、第二番目の条項、
” 一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、其躰之儀、申談事。 ”とは、播磨国がどのような状況であったか。それについて、摂津池田家を通した目線でご紹介したいと思います。この朱印状が発行されるに至る、その前年を中心に見ていきます。
刀田山 鶴林寺(撮影2004年12月) |
※兵庫県史(史料編・中世2)P432
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一、当手軍勢甲乙人濫妨狼藉之事、一、陣取之事付きたり放火之事、一、竹木剪り採り之事。右条々堅く堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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しかし、この矢先、前年秋に都落ちをした前中央政権(将軍義栄)中枢である、阿波・讃岐国を拠点とする三好三人衆勢が、大挙京都に攻め上ります。
これは既に前年暮れから再攻勢の体制を整えた三好三人衆方が、和泉国を中心に上陸し、各地で合戦に至るなどしていました。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P105
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永禄12年1月5日条:
(前略)一、去る二十八日歟。和泉国家原の城松永より池田丹後守・寺町以下百余入れ置き処、三人衆より攻め、八十日余討死落居了ぬ。則ち池田丹後守・寺町玄蕃討死了ぬと云々。実否知らず。近日牢人衆打ち出しの旨とりとり之沙汰。松永弾正少弼留守故歟。帰城あらば申す事止むべく哉。(後略)
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したがって、永禄12年早々の池田勝正の播磨国出兵は不可能となり、京都の将軍居所(六条本圀寺)急襲の救援に全力をあげる事となります。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P92など
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京都六条本圀寺跡(撮影2014年8月) |
正月四日、三好三人衆並びに斎藤右兵衛大輔龍興・長井隼人等、南方の諸牢人を相催し、先懸けの大将、薬師寺九郎右得門尉、公方様六条に御座候を取り詰め、門前を焼き払い、既に寺中へ乗り入るべきの行なり。爾(しかり)処、六条に楯籠る御人数、細川典厩藤賢・織田左近・野村越中守・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智十兵衛尉・森弥五八・内藤備中守・山県源内・宇野弥七。若狭衆、山県源内・宇野弥七両人は隠れなき勇士なり。御敵薬師寺九郎左衛門尉、旗本へ切ってかかり、切り崩し、散々に相戦い、数多に手を負わせ、鑓下にて両人討死候なり。襲い懸かれば追い立て、火花をちらし相戦い、矢庭に三十騎計り射倒す。手負・死人算を乱すに異ならず。乗り入れるべき事、思い懸けも寄らざるところに、三好左京大夫義継・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正各々後巻きにこれあるの由、承る。薬師寺九郎左衛門尉小口(虎口)を甘(くつろ)げ候。是れは後巻き桂川表の事、細川兵部大輔藤孝・三好左京大夫義継・池田筑後守勝正・同清貪斎正秀・伊丹・荒木、茨木へ懸け向かい、桂川辺にて御敵に取合い、則ち一戦に及び、推しつおされつ、黒煙を立てて相戦い、鑓下にて討取る首の注文、高安権頭・吉成勘介・同弟石成弥介・林源太郎・市田鹿目介・是れ等を始めとして、歴々の討ち捕り、右の趣き、信長へ御注進。
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この時の交戦は、三好三人衆方にも勢いがあり、乱戦となります。池田勝正や細川藤孝は行方不明、幕府方河内若江城主三好義継は戦死という第一報が駆け巡ります。
※言継卿記4(国書刊行会)P300
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『言継卿記』1月7日条:
七条於昨日討死之衆(桂川自り東寺之西に至る)千余人云々。但し名字共其れ慥かに知られず云々。石成北野之松梅院へ逃入り云々。各打ち入り破却云々。又落ち行き云々。但し三好左京大夫義継討死云々。久我入道愚庵、細川兵部大輔藤孝、池田筑後守勝正之見ず由之有り。三好日向守入道以下各八幡へ落ち行き云々。(後略)
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結果的にこれらの情報は誤報で、幕府方が将軍義昭を守り抜き、新生幕府は存続となりました。この事態を受けて、急遽根本対応を行い、再発防止策を講じます。
- 将軍居城の建設
- 三好三人衆方に加担する勢力の討伐
- 将軍など中央組織の行動規範策定
- 首都経済の把握(堺の接収、徴税の取り決め、ニセ銭の選別、徳政の執行)
- 京都を中心とした社寺の把握
- 公家領知の調査
旧二条城石垣跡(撮影2014年8月) |
3日付で織田信長は、再度播磨国方面に目を向け、池田勝正が下した内容と全く同じ禁制を鶴林寺(現加古川市)へ下します。
※織田信長文書の研究(上)P267
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一、軍勢甲乙人濫妨狼藉之事、一、陣取り放火事、一、山林竹木伐り採り之事。右条々違背之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍って執達件の如し。
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信長は、担当の勝正を交替させたのかというと、そうでは無く、播磨国への街道を複数持ち、同国に対応するための拠点(守護所)を固めさせる事を優先させていたようで、信長は、その補完を行ったようです。京都の将軍居城と同じく、池田城も防御力を高めるなどの普請も行ったと考えられます。信長は、先遣隊(斥候としての)を送るなどしたのかもしれません。
永禄12年当時、播磨国やその周辺の情勢は、複雑を極め、止むことの無い闘争が繰り広げられていました。以下のような要素があります。
- 播磨守護家赤松氏の分裂・弱体化
- 備前国守護代浦上氏の分裂
- 因幡・但馬国守護山名氏の分裂・弱体化
- 阿波・讃岐国攻め計画
- 毛利氏の戦略手詰まり(大友氏対策に苦戦)
- 出雲国など尼子氏の最挙兵
- 伊勢国への侵攻
これらの中で、(1)と(3)の状況から、生野銀山を手に入れるため、山名氏の弱体化に付けいり、8月と10月に幕府勢は、先ず播磨国へ侵攻します。龍野城の赤松下野守政秀は、幕府勢の後巻き且つ、自らの優位性確保の攻勢に出ました。池田家もこれに幕府勢として動員されて、多数の兵を出します。幕府・織田信長方僧侶朝山日乗が、8月19日付で毛利元就などに状況を報告しています。
※益田家文書1(大日本古文書:家わけ第22)P259、細川両家記(群書類従20号:武家部)P633
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益田家文書:(前置き)
猶々趣き於者、弥々切々申し入れるべく候。又御内用濃々と仰せ蒙るべく候。御存分如く之調え之儀行等、上意を経て、(織田)信長へも御取り分申し候て、御たのみ如く調法致すべく候。信長事、如何様とも申し談ずべく之由申され候。何とぞ御縁辺申し談じ度く之由候。御分別候て仰せ越され候。急度申し入れ候。
本文:
一、白紙九郎左(不明な人物)仰せ上げられ候信長への御返事、則ち京着候。一々申し渡し、其の心得られ、御合力申され候。「両口行之事」として、一、雲(出雲)伯(伯耆)因(因幡)三ヶ国合力、則ち木下秀吉・坂井右近(政尚)両人に五畿内衆二万計り相副えられ、日乗検史為罷り出、但馬国於銀山始め為、子盗(此隅山城)、垣屋城、十日之内十八落居候。一合戦にて此の如く候。山下迄も罷り下らず、近日一途(意味=決着)為たるべく候。御心安かるべく候。一、備前美作両国御合力為、木下助右衞門尉・同助左衛門尉定利・福島両三人、池田勝正相副えられ、別所長治仰せ出され、是れも日乗検史為罷り出、二万計りにて罷り出て合戦に及び、増井・地蔵院両城、大塩・高砂・庄山、以上城5ヶ所落居候。置塩・御着・曽禰懇望半ば候。急度一途為るべく間、御心安かるべく候。今于に小寺政職相拘り候条、重ね而柴田勝家・織田掃部助・中川重政・丹羽五郎左衛門尉長秀四頭、申し付けられ候。一万五千之有るべく候。近日着陣為るべく候間、即時に播磨国人小寺・同宇野申し付け、野州(赤松下野守政秀)一統候て、備前国三ツ石に在陣仕り、宇喜多直家・備中国人三村と申し談じ、天神山根切り仰せ付けられるべく候。只今者、播磨国庄山に陣取り候。一、信長者、三河・遠江・尾張・美濃・江州・北伊勢之衆十万計りにて、国司(北畠具教)へ取り懸けられ候。十日之内に一国平均たる由候間、直ぐに伊賀・大和に打ち通し、九月十日頃、直ぐに在京為べく候。左候而、五畿内・紀州・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右十二ヶ国一統に相〆め、阿波・讃岐か又は越前かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧有るべくも存ぜず候。一、豊(豊前)芸(安芸)事和睦有り、信長弥々深重仰せ談ぜられ、阿讃根切り頼み思し召されと候て、京都相国寺之光琳院・東福寺之見西堂上使に仰せ出され候。信長取り持ちにて候。我等御使い申し上げ候。猶追々申し上げるべく候。又切々御用仰せ上げられるべく候。馳走御心に任せ候。恐惶謹言。
『細川両家記』永禄12年条:
(前略)一、同十月二十六日伊丹衆・池田衆・和田衆を御所様より赤松下野守へ御合力か為、播磨国へ加勢仰せ出され候て、陣立てにて浦上内蔵介城を攻め落とし、則ち皆々打ち帰られ候也。城主討死也。(後略)
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播磨庄山城跡(撮影2001年10月) |
一方、幕府方の龍野赤松氏は、3,000の兵で三好三人衆方守護赤松氏配下小寺(黒田)氏などを攻めるため東進します。姫路の小寺(黒田)官兵衛尉孝高が、これに300程の兵で応じ、撃退します。青山合戦として、官兵衛孝高の名を知らしめた戦いでした。
これにより、退路を断たれる恐れがあった但馬国攻めの一隊は、播磨国へ急遽撤退したようで、庄山城を橋頭堡ついて維持し、毛利氏への対外的な面目を保ちました。
播磨国内では一定の軍事的な優勢を保ちましたが、思惑は外れて、幕府の目的は達成されたとは言い難い結果となりました。幕府は、これらの取りまとめと調整に堺商人の今井宗久を起用しています。
この時、播磨国内はどのようになっていたのかというと、守護家の赤松氏は、国内の東西に分居し、西側(現たつの市周辺)には赤松下野守政秀が勢力を保ちました。幕府は、この内部闘争にも介入し、赤松政秀側に加担します。
更にまた、(5)の状況により、毛利氏支配域の東側を(幕府方から)牽制してほしいとの要請もあり、これに応じるための播磨国対策(攻め)でもありました。
地域情勢は非常に複雑ですので、大まかに地域大名を以下の地図に示します。
![]() |
在地大名概念図 |
また、同国内の比較的大きな勢力として、三木の別所氏があります。同氏は三好三人衆方でしたが、新政権誕生と共に幕府方に加わりました。
播磨国は非常に豊かな地であり、「大国」でしたので、各地に地域勢力が割拠し、それぞれの思惑で動いていました。永禄12年当時は、前中央政権の崩壊と共に、同国内は更に複雑な動きを見せていました。
一方の幕府方も正攻法ばかりでは無く、裏でも動いており、影で敵方牽制を行っていました。
播磨三木城跡(撮影2021年10月) |
またこの時の宇喜多氏は、備中国人三村氏や毛利氏に滅ぼされた尼子氏の残党と各地で連携し、浦上氏を圧迫する構えを見せていました。
元亀元年8月付けで、細川六郎への調略を行った時の、信長による知行宛て行いの条件は、この時の状況に沿うものだったと思われます。ハッキリとした味方である、赤松政秀と別所長治の所領、また保護対象の社寺、幕府関係者の領知を除いて知行するとは、そういう意味です。
永禄12年の、二度の播磨国討伐で、一応の沈静化に成功したとみて、次なる目標に意識が向かいます。三好三人衆勢の本拠地を攻めるべく、情報収集を行っていたようです。
永禄13年2月19日付、堺商人今井宗久が、将軍義昭側近上野中務大輔秀政・和田伊賀守惟政・木下藤吉郎秀吉・松永山城守久秀などへ音信しています。
※堺市史5(続編)P927
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急度啓上せしめ候。淡路国へ早舟押し申し候処、一昨日辰刻(午前7時〜9時)、阿波国衆不慮雑説候て、引き退かれ候。然る処、安宅神太郎信康手の衆、相慕われ候処、阿波国衆手負い死人二百計り之在りの由候。敵方時刻相見られ申し候。恐々謹言。
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これは、永禄12年8月付で幕府方朝山日乗が、毛利方に伝えた連絡の中にある要素を具現化したもので、時期は遅れたものの実際に、情報収集を行って準備を進めていました。
※益田家文書1(大日本古文書:家わけ第22)P259
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(前略)九月十日頃、直ぐに在京為べく候。左候而、五畿内・紀州・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右十二ヶ国一統に相〆め、阿波・讃岐か又は越前かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧有るべくも存ぜず候。(後略)
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翌永禄13年(4月23日に「元亀」に改元)、朝倉・浅井氏討伐の最中に、幕府方の軍事的な中核でもあった摂津池田家の内紛が起こり、三好三人衆方に復帰してしまいます。これが号砲となり、五畿内を中心に広範囲に反幕府・織田信長の勢力が勢いを増します。
幕府・織田方は、一旦、持ち直したものの、9月に入ると、これまで中立的であった本願寺宗までもが反幕府・織田方として武力蜂起に至り、京都の維持も困難になる程、窮地となります。一難去って、また一難。
橋本政宣氏によると、この反織田戦線の取りまとめは、近衛前久であったとしています。史料は、元亀元年8月10日付、関白近衛前久が、薩摩国守護島津陸奥守入道貴久へ音信したものです。
※島津家文書2(大日本古文書:家わけ第16)P24、近世公家社会の研究P22+73
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旧大坂本願寺跡地(現大阪城内) |
【近世公家社会の研究の解説】
第一部 第一章 二 出奔中の動向(反信長戦線と前久):
島津氏はもと薩摩島津庄が近衛家領であった由縁もあり、とくに前久の曾祖父尚通の頃から交誼を深くしていたが、この文書も貴久から久方ぶりに音信があり物を贈られたことに答謝し、近況を述べたものである。(中略)ここで注目すべきは、前久が六角、浅井、朝倉、三好三人衆と「一味」し、近日は「出張」し、本意を遂げるはずであるから安心してほしい、と述べていることである。本意を遂げる云々というのは、いわば常套語で確信性はともかくとして、「一味」「出張」云々と見え、前久が反信長戦線の一環として軍事行動をとっていたことが知られるのである。
第三章 近衛前久の薩摩下向(はじめに):
永禄11年(1568)、織田信長に擁され上洛した足利義昭と隙を生じ、京都を出奔した関白近衛前久は、7年間にわたり在国し、天正3年(1575)6月末に帰洛した。その間、摂津大坂、ついで丹波に移り、六角、浅井、朝倉、三好三人衆等と「一味」し、また本願寺と結び、反信長戦線の一環として行動した。丹波では、黒井城に拠り信長に怨敵の色を顕わしていた赤井直正の許に寄寓していたが、天正3年6月、信長の命を受けた明智光秀により丹波の経略が着手されるに及び、たぶん信長から働きかけがなされたのであろう、前久は丹波より帰洛するのである。長く在国していて朝廷への勤仕を怠っていた前久の前譴を免じられるよう執奏したのも、信長であった。(後略)
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引用が長くなりました。
結果を知る、現代の私達からすれば、後付けの考えに陥りがちですが、信長から細川六郎への朱印状は、政治・軍事的に求心力を持つ、管領格の六郎の離反を画策して、一気に三好三人衆勢力の殲滅を考えたのではないかと思われます。こちらから海を渡る手間が省けた訳ですから、野田・福島で総攻撃を行って討つ方が労力はかかりません。
丹波八木城跡(撮影2001年10月) |
丹波国人内藤貞虎が、同国人赤井直正宿所へ宛てた音信(永禄12年(推定)3月23日付)にその記述が現れます。
※兵庫県史(史料編:中世・古代補遺9)P6
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其れ以後久しく申し通さず候。仍って京表於いて、三好三人衆を始め利を失われ故、御屋形(六郎)播磨国へ至り御下向之条、我等も御共に罷り下り候。尤も切々書状以って申し承るべく候処に、遠路に付き、万事音無き迄に候。其れに就き、御使い為、同阿(不明な人物)差し遣わされ候。万ず御入魂肝要候。御屋形様対当され、数代御忠節、並び無き御家にて候条、此の砌引き立て申されるべく事専一候。拙者も不断御近所に之有る事候間、いか様之儀にても久しく仰せ越されるべく候。御文箱使い仕るべく候。次に赤井時家、未だ申し通さず候へ共、幸便候間、書状以って申し入れ候。苦しからず候者、御届け成られ候て給わるべく候。尚期して参拝之時を期し候条、事々懇筆に能わず候。恐々謹言。
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この音信内容に少し触れると、永禄11年秋に将軍義栄が都落ちの折、細川六郎は播磨国を通って、本拠地讃岐・阿波国へ戻った事が判ります。この事から六郎は、芥川山城に居たようですので、丹波・播磨国経由で本国、阿波に戻ったと思われます。
摂津野田城跡(撮影2013年4月) |
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記(国書刊行会)P442
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『信長公記』野田福島御陣の事条:
(前略)二十六日、御敵楯籠もる野田・福島へ成らる。(中略)さる程に、三好為三・香西両人は、御味方に調略に参じ仕るべきの旨、粗々申し合わせられ候と雖も、近陣に用心きびしく、なりがたく存知す。(中略)八月二十八日夜に、三好為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。『言継卿記』9月3日条:
(前略)敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
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摂津池田家の寝返りを受けて、一旦は崩れかけたものの立て直し、この時点まで、信長の思惑通りに進んでいました。三好三人衆勢を圧倒して、壊滅を目前にしながら、本願寺宗が武力蜂起を行い、これを合図に京都周辺で一斉蜂起が起きます。間一髪、三好三人衆方は窮地を脱して、反転攻勢に構え直します。それもあってか、細川六郎の幕府方への投降は実現せず、翌元亀2年暮れを待つ事になります。
それからまた、幕府方赤松政秀(播磨国龍野)は、この年11月に毒殺されてしまい、地域の均衡が崩れます。敵対する浦上氏が播磨国内へ侵攻する事となりました。
六郎に示した調略条件が、数ヶ月後に状況が変わるというめまぐるしさです。この時点では、三好三人衆方は再び勢いを得て、六郎も態度を決めかねていたのかもしれません。調略条件としての条文にある播磨国内は、このような状況にありました。
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