永禄7年の三好長慶没後、まだ若年だった後継者義継を支える目的で、「三好三人衆」なる家中の有力者が官僚機構を中心として家を支える方策を打ち出しました。それまでにも、内政機関のようなものは、あったようですが、長慶の巨大な存在感と求心力を維持するために、特に意識して組織されたようです。
当初は、そこに松永久秀も加わっていましたが、思いの違いから、三好一族衆と久秀の外様衆の闘争に発展します。
外敵に備えるどころか、内部抗争に陥ってしまい、敵の付け入る隙を与えてしまいます。時が経ち、その抗争で劣勢に立たされた久秀勢は、外部勢力と手を組むようになります。これまでの敵であった勢力とも交わるようになり、争いはドロ沼化してしまいます。
さて、そんな「三好三人衆」と言われる一団にも変遷があり、当初は、三好長逸、石成友通、三好下野守であったのが、永禄12年5月に、下野守が死亡したことにより、その弟である為三が補充される事となったようです。
しかし、その頃には三好家そのものも衰退の徴候が現れ、且つ、織田信長が戴く将軍義昭の京都中央政権が勢いを増していた時期でした。
もはや三好家は団結の中心ではなく、集団の一翼的な立場になってしまいました。ブランド力を維持しているだけの集団です。そんな後期三好三人衆とも呼ぶべくその中に、三好為三は兄の後継者として、名を連ねていたようです。
それ知る史料として、元亀元年8月2日のものと思われる、三好三人衆方三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、山城国大山崎惣中へ宛てた音信があります。
※島本町史(史料編)P435
---史料(1)------------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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大山崎の摂津・山城国境(2014年撮影) |
一方で「三好三人衆」という集団は、比較的長期の活動実績もある事から広域に認知されてもおり、この集団の知名度を利用していた事も、この時期に認められるように思います。連名に見られる、奈良氏は奉行人のような立場の人物で、過去の文書履歴を管理して、新たな体制内で間違いの無い判断ができるように、重要な相手にはアピールの意味もあって、このような構成になっているのかもしれません。
その他、後期三好三人衆によると思われる史料がありますので、ご紹介しておきます。今のところ、元亀元年4月22日の史料と推定され、石成友通と三好為三が、大和西大寺の関係者へ宛てて音信した史料です。大和国はこの時に敵対していた松永久秀の根拠地でもあります。
※戦国遺文(三好氏編2)P259
---史料(2)------------------------
◎石成主税助友通が、大和国西大寺綱維房へ宛てて音信(返報)
此の表在陣之儀に就き、御音信為御折紙殊に御巻数並びに鳥目弐拾疋語御意懸けられ候。御懇ろ儀畏み入り候。将亦其の表手遣い之刻、御寺中並びに在所之儀、疎略存ずべからず。恐々謹言。
◎三好一任斎為三が、大和国西大寺同宿中へ宛てて音信
御音信為巻数並びに鳥目20疋御意懸けられ候。御懇之至り畏み入り候。積もり参らせ御札申し入れるべく候。猶御使者へ申し候。恐々謹言。
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摂津国野田城跡(2013年撮影) |
三好三人衆という組織の代替わりは、その主体を見失っていたと、その歴史から知ることができます。家を支える視点から離れ、個々人の利益のための「三好三人衆」ブランドの利用に陥ります。
元々、この三好為三という人物は、その父である三好越前守政長(宗三)の遺志を継ぎ、「摂津池田家の財産は自分のものだ。」との主張を生涯に渡って続けています。
この三好為三については、このブログで過去記事がありますので、そちらをご覧下さい。
◎三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について)
https://ike-katsu.blogspot.com/2013/08/4.html
さて、そんな三好三人衆方の状況を知ってか、知らずか、織田信長はそ中の立場ある人物に調略を仕掛けます。それが、元亀元年8月付、織田信長による細川六郎宛の朱印状でした。
※泰厳歴史美術館蔵 元亀元年8月付、細川六郎宛の織田信長朱印状
---史料(3)------------------------
条目
一、池田当知行分、并前々与力申談候、
但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者、可被加御異見之事。
右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
---------------------------
この時、準備が調わなかったのか、状況許さず、六郎は直ぐに動きませんでしたが、しかし、その配下の中心的人物である、三好為三が香西佳清などを伴って、将軍義昭・織田信長方に投降します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など
---史料(4)------------------------
『細川両家記』元亀元年条:
(前略)一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『信長公記』野田福島御陣の事条:
(前略)8月28日夜に、三好為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
『言継卿記』8月29日条:明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:
(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。
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続いて、三好為三の重臣(馬廻り?)と思われる三木某などが、幕府方に投降します。
※言継卿記4-P442
---史料(5)------------------------
敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
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これは、史料(3)にある「池田当知行分、并せて前々与力申し談じ候。」に相当する動きであろうと考えられます。六郎の一団の関係者へ包括的に恩賞を用意し(唆す)、調略を実行していたのでしょう。故に、先に六郎の取り巻きから続々と投降したと考えられます。
この深刻な事態を受け、三好三人衆の筆頭構成員である三好長逸が、池田城から野田・福島方面へ入ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636
---史料(6)------------------------
元亀元年条:
一、同9月3日に三好日向守長逸、同息兵庫介も摂津国池田より出、同国福嶋へ入城由候也。
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この重要情報を得たのか、幕府方和田惟政は、池田領内の市場を打ち廻るなどして、攻撃をしています。連絡線を絶つ目的があったのでしょう。
※言継卿記4-P443
---史料(7)------------------------
9月9日条:
池田衆取り出で、摂津国川辺郡伊丹へ取り懸かり、伊丹兵庫助忠親取り出で、同和田伊賀守惟政出合い、池田へ迎え入り、市場焼き云々。
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三好為三など、敵勢力(組織)中枢の人物が投降した事により、その内部情報が、幕府・織田信長方に漏れてしまいました。そのためと思われますが、その約2週間後、幕府・織田勢は、野田・福島城の三好勢に対して総攻撃を行いました。
しかし、それを機に、大坂本願寺が三好方として大挙加勢し、攻守の形勢が逆転してしまいます。幕府・織田勢は、京都を守備するために退却を余儀無くされました。
これは、広域に見ると、反幕府・織田勢力が、京都周辺で一斉に反撃を始め、京都を占領すべく動き始めた狼煙でもありました。
三好為三などは早速、軍事動員され、比叡山へも参陣しています。しかし、状況不利となり、信長は戦略的手段を用いて朝廷を動かし、朝倉・浅井・本願寺・三好など諸勢と和睦を結びます。元亀元年も暮れる、12月の事です。
この和睦が成立した事で、本願寺門主光佐は、細川六郎へ年末年始の音信を行っています。池田郷土史学会会員の荒木幹雄氏によると、両者は姻戚関係(義理の兄弟)であったようです。
さて、細川六郎(後に右京大夫昭元)について、宣教師ルイス・フロイスは次のように記しています。
※耶蘇会日本通信(下)P232
---史料(8)------------------------
1573年4月20日(元亀4年3月19日)付、都発、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・フランシスコ・カブラルに贈りし書簡:
(前略)細川殿(昭元)御屋形は公方様に次いで日本の重立ちたる領主なるが、攻囲の中に6ヶ月間中島の城に在り、之を囲めるは三人衆、霜台三好殿及び大坂の坊主並びに多勢の兵にして、城内には御屋形の家中重立ちたる武士のキリシタン2人在りき。城は決して武力を以て陥すこと能わず、屢(次)戦争あり双方共に常に士卒を亡いたり。終いに悉く通路を断ち飢餓に依りて之を陥落せしめたるが、細川殿は信長遠方に居り之を救うこと能わざりしが故に士卒と共に堺に赴きたり。
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とあります。フロイスは、キリスト教の布教にあたり、権力構造やそれに関わる人物について、分析を行っており、それらの立場ある人物を教化する事で、更に情報も入手するという構図を作り上げていました。
ですので、フロイスのこの記述も、概ね当時の認識を忠実に記していると考えられます。本願寺光佐と昭元は、義理の兄弟ではありますが、このように「攻守」全く逆の立場に身を置く事もありました。
元亀2年頃から幕府・織田勢と三好・本願寺など反幕府勢は再び交戦を始めます。この6月頃から幕府勢は、三好方であった池田衆を積極的に攻めたため、三好三人衆方であった池田衆は劣勢に立たされます。
しかし、池田衆は起死回生の決戦を宿河原(白井河原)に挑み、見事に大勝利を得、敵大将の和田惟政とその重臣を多数を討ち捕るという、壊滅的な損害を与えます。惟政は、幕府の中枢を担う人物でもあり、その勢力を失う事で再び京都陥落の危険性が高まりました。この大合戦は、8月28日に行われ、その余波たる小競り合いは、同年11月頃まで続いています。
再び三好方が京都周辺で勢いを増した事から朝倉・浅井勢は、六角勢も加わって、比叡山方面まで迫ります。信長は、この窮地に朝倉・浅井を匿う比叡山を焼き討つという強行手段を取ります。この前年の同じ時期にも同様の行動があり、三度同じ事を繰り返さないという措置でもありました。門跡といえども、朝廷の意向にに随わない者は、武力行使を厭わない姿勢を内外に示しました。
この間、白井河原合戦に勝利した池田衆は、支配領域を拡げ、歴代最大の版図を得るに至り、政治主導者の交替時の習わしである「摂津国豊嶋郡所々散在」へ宛てた禁制を下します。
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摂津国箕面寺岩本坊(2022年撮影) |
※箕面市史(資料編2)P411
---史料(9)------------------------
摂津国箕面寺山林自り所々散在盗み取り由候。言語道断曲事候。宗田(故池田筑後守信正)御時筋目以って彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在り於者、則ち成敗加えられるべく由候也。仍件の如し。
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このように、幕府・織田勢が窮地に立つ中、細川六郎は、三好方から離れて投降します。続いて、三好三人衆の中心人物である石成友通も投降します。それは元亀3年1月のことでした。
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24
---史料(10)------------------------
17日条:
細川六郎(昭元)出頭也。見物了ぬ。騎馬薬師(寺)・三宅・香西三騎也。馬廻り打籠也。七百計り之在り。祗侯の砌、官途右京大夫、又名乗り御字遣わされ、秋(昭)元云々。
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細川六郎が投降すると、直ぐ「右京大夫」を叙任し、正式な管領の地位に就きます。また、将軍義昭から偏諱を受けて「昭元」と名乗ります。
元亀3年3月24日、細川昭元は、石成友通を伴い、京都二条妙覚寺の織田信長に参候します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123
---史料(11)------------------------
むしゃの小路御普請の事条:
3月24日、(中略)細川六郎殿・石成主税助始めて、今度、信長公へ御礼仰せられ、御在洛候なり。今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。
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同じ頃、甲斐守護武田信玄の周旋により、織田信長と本願寺との和睦もなされています。史料(11)にある、「今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。」とは、こういった本願寺方との和睦が成った事と、昭元が光佐と義理の兄弟であったという関係もあったためでしょう。
その後、今度は将軍義昭と織田信長の不和が深刻化してしまいます。(元亀3年)5月13日付、将軍義昭の武田信玄への内書を経て、信玄が反織田信長方松永久秀側近岡国高へ音信した内容から、将軍は信長の打倒を決意していたものとみられます。
当時の通信事情から考えて、リアルタイムの意思疎通は不可能ですが、合意形成は既に整っていたと考えられます。
※戦国遺文(三好氏編3)P42
---史料(12)------------------------
珍札披見快然候。如来の意、今度遠江国・三河国へ発向、過半本意に属し候。御心安かるべく候。抑て公方様(将軍義昭)織田信長に対され御遺恨重畳故、御追伐為、御色立てられ之由候条、此の時無二の忠功励まれるべく事肝要候。公儀御威光以て武田信玄も上洛せしめ者、異于に他申し談ずべく候。仍て寒野川弓(十三張)到来、珍重候。委曲附しと彼の口上候之間、具さに能わず候。恐々謹言。
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この頃になると、三好三人衆は、本国阿波・讃岐・淡路国方面の外へ出る程の余裕がなくなり、内部抗争などを伴って、弱体化していきます。
そのため、将軍が反信長勢を糾合し始めると、そちらへ靡く勢力が現れ、求心力は将軍義昭方向へ向かい始めます。
将軍と織田信長は、互いに反目しながら、名だたる人物の取り合いになっていました。その過程で、摂津池田衆もその影響を受けて、どちら側に加担するのかで内部で争い始めます。他の国人、例えば塩川氏などでも同じ状況でした。
そして、管領昭元も両陣営から誘いを受けていました。この流れで、将軍側近であった明智光秀や細川藤孝なども信長の傘下に入ったりしています。
摂津国中嶋城跡(2006年撮影) |
この余談を許さない状況の中で、政治・経済の中心となる中央政権(将軍義昭・織田信長)が分裂したために、細川昭元傘下として寝返った三好為三にとっても、判断の難しい局面に陥りました。
元々、将軍義昭政権下で交渉はしていたものの、為三の要求が非現実的で莫大であったため、折り合いがつかずに、交渉が纏まらなかったようです。
年が明けた元亀4年、早々から将軍義昭と織田信長は、もはや武力衝突不可避となり、両陣営は、その準備を急ぎました。
この流れで、摂津池田家中も分裂となり、池田一族衆は幕府方へ、荒木村重一党は織田方へ加担する事となって、袂を分かちます。
2月になると。両陣営は動きを活発化させ、将軍義昭の拠点である京都二条城へ続々と友軍が集結し、幕府方池田衆も2000騎を率いて入城しました。
※耶蘇会士日本通信(下)P248
---史料(13)------------------------
1573年4月20日(元亀4年3月19日)付、都発、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・フランシスコ・カブラルに贈りし書簡:
ジョアン(内藤如安)の都に着きたる日、池田殿兵士2000人を率いて公方様を訪問せり。此の兵士の到着に依り都は少しく鎮静せり。
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同月26日、摂津国中嶋城が落ち、ここを守っていた細川昭元と典厩家(管領家の分家)の細川藤賢は、堺に逃れました。
※織田信長文書の研究(上)P611
---史料(14)------------------------
猶以て朱印遣わし候はんかた候者、承るべく候。只今丹波国人内藤方への折紙之遣わし候。さてもさても此の如く体たらく不慮の次第に候。今般聞こ召し直され候へば、天下再興候歟。毎事御油断有るべからず候。替わる趣きも候者、追々承るべく候。京都の模様其の外具さに承り候。満足せしめ候。今度松井友閑・嶋田秀満を以て御理り申し半ばに候。之依り条々仰せ下さりに付きて、何れも御請け申し候。然ら者奉公衆の内聞き分けざる仁体、質物之事下され候様にと申し候。此の内に其方之名をも書き付け候。其の意を得られるべく候。此の一儀相済まず候者、其の上意に随うべく、何れも以て背き難く候間、領掌仕り候。此の上者信長不届きにて、之有るべからず候。此方隙き開き候間、不図(ふと)上洛を遂げ、存分に属すべく候。其の方無二之御覚悟、連々等閑無く入魂せしめ処、相見え候。荒木(信濃守)村重・池田其の外何れも此の方に対して疎略無く、一味の衆へ才覚肝要に候。恐々謹言。
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しかし、この中嶋城は、信長方により、直ぐに取り戻されたようです。ここは水運の要であり、非常に重要な場所でもありました。非常に長い音信なので、細川昭元(中嶋城)関連を抜粋します。
※織田信長文書の研究(上)P614
---史料(15)------------------------
五畿内・同京都之体、一々行き届け候。度々御精に入れられ候段、寔に以て満足せしめ候。(中略)一、中嶋之儀、去る27日(2/27)に退城之由、さてもさても惜しき事に候。公方所為(せい)故に候。右京兆(細川昭元)御心中察しせしめ候。質物(人質)出しに付きては進上候て尤も候。(中略)一、中嶋之事、執々(とりどり)承りに及び候処、堅固之由尤も候。則ち書状以て申し候間、御届け専用に候。然ら者、鉄砲玉薬・兵糧以下之儀者、金子百枚・二百枚程の事余に安き事に候。上洛之刻、猶以て其の擬(検討をつける)仕るべく候。弥々荒木(信濃守)村重と相談有り、御馳走専一候。(後略)
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4月、遂に両者は衝突し、信長勢は洛中・洛外を大規模に放火します。これに将軍義昭方はなす術もなく、同月7日に和睦が成立します。そして、京都へ入る予定であった武田信玄が、同12日、進軍途中で死亡してしまいます。
この事は、当時の通信事情から、また、京都周辺を封鎖している事もあり、信玄の死亡は、直ぐに将軍の元には届かず、将軍に加担する勢力との協働を計るべく、二条城防備を更に強化するなどしています。
山城国槙島城跡(2009年撮影) |
※改訂 信長公記(新人物往来社)P142
---史料(16)------------------------
真木島にて御降参、公方様御牢人の事条:
7月18日巳の刻、両口一度に、其の手其の手を争い、中島へ西へ向かって噇っと打ち渡され候。(中略)真木島には信長より細川六郎(右京大夫昭元)を入れ置き申され、諸勢南方表打ち出し、在々所々焼き払う。
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この掃討作戦で、将軍義昭方となって戦っていた、元三好三人衆の一人、石成友通は、山城国の淀城にて戦いましたが戦死しています。7月27から29日頃の事とされています。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P143
---史料(17)------------------------
岩成討ち果たされ候事条:
去る程に、公方様より仰せ付けられ、淀の城に、岩成主税頭・番頭大炊頭・諏訪飛騨守両3人楯籠り候。羽柴筑前守秀吉、調略を以て、番頭大炊・諏訪飛騨守両人を引き付け、御忠節仕るべき旨、御請け申す。然る間、長岡兵部大輔藤孝に仰せ付けられ、淀へ手遣い候ところ、岩成主税頭、城中を懸け出で候。則ち、両人として、たて出だし候。切って廻り候を、長岡兵部大輔臣下、下津権内と申す者、組討ちに頸を取り近江国高嶋へ持参候て、頸を御目に懸け、高名比類無きの旨、御感じなされ、忝くも、召されたる御道服を下され、面目の至り、冥加の次第也。何方も御存分に属せらる。
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7月28日、元号が「天正」と改まり、ひとつの時代は終わり、新たな時代の幕開けを迎えました。
<元亀元年から元亀4年までの動き> =================
◎元亀元年 --------------------
4/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派石成友通、大和国西大寺綱維房へ宛てて音信(返信)
※戦国遺文(三好氏編2)P259
4/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派三好為三、大和国西大寺同宿中へ宛てて音信
※戦国遺文(三好氏編2)P259
4/28 越前国金ヶ崎からの撤退戦始まる
※改訂 信長公記(新人物往来社)P103
5/上 織田信長、五畿内の主立った武家から人質を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P102
6/9 将軍義昭一族同苗藤賢、某(幕府関係者)へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P28、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P153
6/18 幕府衆細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
※大日本史料10-4-P525(武徳編年集成)、朝倉義景のすべてP66
6/18 摂津池田城内で内訌が起こる
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、細川両家記(群書類従20:合戦部)P634
6/19 反幕府・織田信長方摂津池田衆、三好三人衆方へ使者を派遣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634
6/26 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
※言継卿記4-P425
6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
※言継卿記4-P425
6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
※言継卿記4-P425
6/28 摂津守護和田惟政、小曽根春日社に宛てて禁制を下す(直状形式)
※豊中市史(史料編1)P121
7 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、山城国大山崎惣中へ禁制を下す(直状形式)
※島本町史(史料編)P443
7/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田某、池田家の家督を相続?
※大日本史料10-4-P522(荒木略記)、池田町史P137
7/21 反幕府・織田信長方三好三人衆勢、摂津国中嶋へ上陸
※足利義昭(人物叢書)P168、言継卿記4-P432、近世公家社会の研究P23
7/27 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸、摂津国欠郡天満森方面へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、陰徳太平記4(東洋書院)P54
8/2 反幕府・織田信長方三好三人衆三好為三など、禁制発給について山城国大山崎惣中へ宛てて音信
※島本町史(史料編)P435、戦国遺文(三好氏編2)P261
8/3 幕府衆細川藤賢(典厩)、摂津国人野部(辺)弥次郎へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P29
8/13 摂津守護伊丹忠親、反幕府・織田信長方三好三人衆派池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、陰徳太平記4(東洋書院)P54
8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
※言継卿記4-P440
8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
※ビブリア53号P155(二條宴乗記)、言継卿記4-P440、陰徳太平記4-P54
8/28 反幕府・織田信長方三好三人衆三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441
9 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、摂津国多田院に禁制を下す (直状形式)
※川西市史(資料編1)P456
9/1 阿波足利家擁立派三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442
9/3 将軍義昭、摂津国欠郡中嶋へ着陣
※ビブリア52号P157+62号P66(二條宴乗記)、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記4-P442
9/3 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸など、摂津池田城を出て摂津野田・福島城へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、戦国歴代細川氏の研究P383
9/8 摂津守護伊丹忠親・和田惟政勢、反幕府・織田信長方三好三人衆派池田領内の市場などを打ち廻る
※言継卿記4-P443、高槻市史1-P738
9/12 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城の総攻撃を行う
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637、改訂 信長公記(新人物往来社)P109
9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※池田市史(史料編1)P28、織田信長文書の研究-上-P417、戦国遺文(三好氏編2)P267
9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112
9/25 幕府・織田信長(為三含む)勢、比叡山の麓へ陣を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P113
11 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津池田知正衆中川清秀、池田周辺諸城を攻める?
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P92
11/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、摂津国箕面寺に禁制を下す(直状形式)
※箕面市史(資料編2)P414
12/8 幕府・織田信長、三好三人衆方の和睦を成立させる
※ビブリア53号P164(二條宴乗記)、戦国期歴代細川氏の研究P128
12/25 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P595
12/27 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P596
◎元亀2年 --------------------
1/16 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596
1/16 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596
2/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正秀・荒木弥介・石成友通、堺商人天王寺屋宗及の茶席に出席
※茶道古典全集8-P160
3/19 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正秀、堺商人天王寺屋宗及の茶席に招かれる
※茶道古典全集8-P160
6/4 織田信長、幕府衆細川藤賢(典厩)の知行地について細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P458
6/中 摂津守護和田惟政、摂津国豊嶋郡原田城を落とす
※言継卿記4-P502、豊中市史(史料編1)P121
6/10 摂津守護和田惟政、摂津国吹田城を落とす
※言継卿記4-P502、高山右近(人物叢書)P29
6/12 織田信長、将軍義昭側近細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P459
6/16 織田信長、幕府衆明智光秀に三好為三の処遇について音信
※大阪編年史1-P406、織田信長文書の研究-上-P392、改訂 信長公記(新人物往来社)P109
6/23 摂津守護和田惟政、摂津国豊嶋郡牛頭天王へ宛てて禁制を下す
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史1-P739+3(史料編1)P432
6/24 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田衆、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てて音信
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、池田市史1-P662
7/2 反幕府・織田信長方本願寺光佐、同細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P598
7/下 摂津守護池田勝正・幕府衆細川藤孝勢、摂津国池田城を攻める
※池田市史1-P668、吹田市史2-P10
7/26 幕府衆三淵藤英、摂津国豊島郡春日社目代に宛てて音信
※豊中市史(史料編1)P123
7/31 将軍義昭、三好為三に所領安堵の御内書を下す
※大日本史料10-6-P685、明智光秀(人物叢書)P61
8/2 摂津守護池田勝正、摂津国原田城へ入る
※池田市史1(史料編1)P82、大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)、戦国期歴代細川氏の研究P223
8/18 摂津守護和田惟政・同伊丹忠親勢、反幕府・織田信長方三好三人衆勢と摂津国内で交戦
※高槻市史3(史料編1)P433、陰徳太平記3-P268
8/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、兵を率いて出陣
※耶蘇会士日本通信-下-P137、フロイス日本史4(中央公論社:普及版)P268
8/28 摂津国白井河原合戦
※高槻市史3(史料編1)P433+438、多聞院日記2(増補 続史料大成)P256、言継卿記4-P523、耶蘇会士日本通信-下-P137、フロイス日本史4(中央公論社:普及版)P268、陰徳太平記3-P268、ビブリア54号-P39(二條宴乗記)、大日本史料10-6(尋憲記)、中川史料集P15
9/1 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、摂津国茨木城とその領内を攻撃
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P144、陰徳太平記3-P270、中川史料集P21
9/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、摂津国高槻城を攻める
※中川史料集P22
9/6 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田勢、戦闘に敗北
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P257
9/9 摂津国高槻の攻防について交渉が整い、一時的に停戦となる
※大日本史料10-6(尋憲記)、高槻市史3(史料編1)P439
10 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田家内の中川清秀、摂津国欠郡新庄城へ入る
※よみがえる茨木城P17+67+130
10/21 織田信長、三好一任斎為三へ音信
※泰厳歴史美術館所蔵資料 2025年4月12日報道の新出史料
11/8 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田三人衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
※箕面市史(資料編2)P411、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P17
12/13 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正行、奈良春日大社南郷目代今西橘五郎へ音信
※春日大社南郷目代今西家文書P456、豊中市史(史料編1)P128
12/17 細川昭元、幕府へ出仕
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24
◎元亀3年 --------------------
1/26 織田信長、石成友通へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127、戦国遺文(三好氏編3)P22
3 織田信長、幕府方甲斐守護武田信玄の仲介により本願寺と和睦
※御坊市史1(通史編)P478、本願寺(井上鋭夫)P222
3/14 反織田信長方三好三人衆派摂津池田三人衆荒木村重、京都吉田神社神官吉田兼見からの音信を受ける
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P37、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P41
3/24 細川昭元、織田信長へ参侯
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123、戦国史研究76号-P13
4/13 幕府方摂津国中嶋城の細川昭元、反幕府・織田信長方三好義継と和睦
※明智光秀(人物叢書)P92
4/14 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P89、戦国遺文(三好氏編3)P30、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P247
4/16 摂津守護池田勝正勢、河内国交野方面へ出陣
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P38、改訂 信長公記(新人物往来社)P124
4/18 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺衆惣中へ宛てて音信(返信)
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90、戦国遺文(三好氏編3)P31、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P248
5/10 反織田信長方将軍義昭派本願寺坊官下間正秀、近江国十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90
6/2 幕府方将軍義昭派細川昭元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208
6/12 反織田信長方三好三人衆派荒木村重、摂津国豊嶋郡春日社南郷目代今西宮内少輔へ音信
※豊中市史(史料編1)P125、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P13
8/25 幕府方細川昭元、美濃国常在寺へ音信
※岐阜県史(史料編:古代・中世編1)P60
8/28 反織田信長方将軍義昭派本願寺勢、幕府方織田信長派摂津国中嶋城を攻める
※中川史料集P14、戦国期歴代細川氏の研究P128、元亀信長戦記P53
9/2 反織田信長方将軍義昭派本願寺光佐、細川昭元に音信
※本願寺日記-下-P602
10/7 反織田信長方将軍義昭派三好三人衆方三好為三、上御宿所へ宛てて音信
※箕面市史(史料編6)P438
10/13 反織田信長方将軍義昭派三好三人衆方三好為三、聞咲(所属不明)へ音信
※大阪編年史1-P459、戦国遺文(三好氏編2)P272
11/6 将軍義昭、同側近上野秀政へ池田民部丞召しだしについて内書を下す
※高知県史(古代中世史料)P652
11/13 織田信長、細川昭元衆薬師寺弥太郎へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究-上-P585
11/19 織田信長衆木下秀吉、将軍義昭側近曾我助乗へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P432、豊臣秀吉文書1-P16、細川家文書(中世編)P151
12/10 将軍義昭、側近一色藤長へ細川典厩藤賢について内書を下す
※福井県史(資料編2)P686
12/20 反織田信長方三好三人衆・三好義継・松永久秀・本願寺勢など、摂津国中嶋城を攻撃
※大阪編年史1-P492
◎元亀4年 --------------------
2 織田信長方摂津国人荒木村重、佐久間信盛などへ使者を遣わす
※陰徳太平記4(東洋書院)P134
2/15 摂津池田衆など将軍義昭勢、京都二条城へ集結
※亀岡市史(資料編1) P1168、耶蘇会士日本通信-下-P248、永禄以来年代記(続群書類従29-下)P268
2/23 織田信長、荒木村重の「無二之忠節」の約束に喜ぶ
※織田信長文書の研究-上-P606、兵庫県史(史料編・中世9) P432、伊丹史料叢書4(荒木村重史料)P23
2/26 織田信長、摂津池田衆・荒木村重の扱いについて細川藤孝に音信
※織田信長文書の研究-上-P611、綿考輯録1-P65
2/27 摂津国中島城が落ち、細川昭元が堺へ逃れる
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P639、耶蘇会士日本通信-下-P232、織田信長文書の研究-上-P614
3/7 織田信長、摂津国中嶋城について細川藤孝に音信
※亀岡市史(資料編2)P1168、織田信長文書の研究-上-P614、兵庫県史(史料編・中世9)P434、伊丹史料叢書4(荒木村重史料)P24
3/11 足利義昭方池田衆、京都八条へ陣を取る
※戦国期室町幕府と在地領主P298、大日本史料10-14(東寺執行日記)P246
3/12 将軍義昭方池田衆及び内藤如安忠俊、兵を率いて将軍義昭へ参侯
※亀岡市史(資料編1)P1171、耶蘇会士日本通信-下-P248、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P198、フロイス日本史(中央公論社刊)4-P290
3/13 足利義昭方池田衆、京都八条方面で東寺衆と陣取りを巡って喧嘩
※東寺執行日記3(思文閣出版)P173、耶蘇会士日本通信-下-P249「註」、フロイス日本史(中央公論社刊)4-P292
3/14 将軍義昭、摂津国人池田遠江守某へ内書を下す
※高知県史(古代中世史料)P651
3/27 織田信長派荒木村重・細川藤孝、近江国逢阪で織田信長を迎える
※フロイス日本史(中央公論社刊初版)4-P299、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P206、陰徳太平記4-P134
3/27 将軍義昭、兵を城に入れて防備を固める
※耶蘇会士日本通信-下-P259(異年年代記抄節)、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P205
3/29 織田信長派荒木村重、細川藤孝と共に織田信長と知恩院で会見
※改訂 信長公記(新人物往来社)P 137、耶蘇会士日本通信-下-P262、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P206
4/4 将軍義昭方本願寺光佐から越前守護朝倉義景への音信に池田遠江守が登場
※本願寺日記-下-P611
4/7 将軍義昭・織田信長の和睦が成立する
※大日本史料10-15-P81、福井県史(資料編2)P726、図説丹波八木の歴史2(古代・中世編)P169
4/27 織田信長衆林秀貞など、将軍義昭方奉行人池田清貪斎正秀などへ起請文を提出
※織田信長文書の研究-上-P629、足利義昭(人物叢書)P207
4/28 将軍義昭方池田清貪斎正秀など、織田信長衆塙(原田)直政などへ起請文を提出
※織田信長文書の研究-上-P630、足利義昭(人物叢書)P207
7/5 将軍義昭、織田信長に対して再度挙兵
※改訂 信長公記(新人物往来社)P139、長岡京市史(資料編2)P650
7/18 将軍義昭、織田信長に降伏
※ビブリア54号(二條宴乗記)P59、改訂 信長公記(新人物往来社)P141、信長記-上(現代思潮新社)P172
7/20 織田信長方細川昭元、山城国槙島城へ入る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P142、信長記-上(現代思潮新社)P174
7/20 織田信長方細川昭元、山城国槙島城へ入る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P142、信長記-上(現代思潮新社)P174
7/27 足利義昭方石成友通、戦死
※改訂 信長公記(新人物往来社)P143、足利義昭(人物叢書)P219
8 荒木村重、摂津国一職を約される?
※織田政権の基礎構造(織豊政権の分析1)P109、陰徳太平記4(東洋書院)P135
8/4 足利義昭方池田某自刃?
※池田市史(資料編1)P82、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P134、陰徳太平記4(東洋書院)P135
================= <年表おわり>
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