有馬城跡から有馬の町を見る |
しかし、残念ながら年記を欠き、6月24日とのみあるだけで、何時の事なのか不明です。ですので、研究は進んでいません。この史料は神戸市のとある個人さんの所蔵史料で、私も一度実物を拝見したいと思いつつ、未だ実現には至っていません。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180などにあります。
同史料は京都を含む、当時の首都の歴史、地域史にとっては非常に重要な史料です。特に、私の研究している池田勝正にとっては、言うまでもなく重要です。
冷静に考えると、京都の政治にとっても重要なのですから、日本の歴史にとっても重要なはずですが、どうもそのあたりが、うまく連動していないようです。時代的には、京都で政権地盤を築く織田信長の黎明期の範囲に入ります。
現在の有馬城跡 |
さて、この『中之坊文書』については、若干の推定と通説、間違いが存在しています。ご存知の方も多いと思いますが、それらをご紹介しておきたいと思います。
- この史料は兵庫県史などにより、元亀元年のものと管見の消極的な推定がされています。
- 元亀元年6月の池田家内訌時に、当主の勝正が追放された後に発行された、池田二十一人衆によるもの、との通説があります。
- 史料によっては翻刻に誤字があります。また、史料中の「卜」の文字が読めず、欠字扱いになっています。
(1)の推定は(2)の通説を含め、双方は発想の連動があるようですが、どちらも当時の史料を見比べると、完全に推定が一致するとは言い難いように思います。
というのは、以下の理由があります。
(b)署名人数は20人しかおらず、小河出羽守家綱は、池田家中とは別の人物の可能性がある。
(c)荒木村重が「池田」姓を用い、信濃守の官途を名乗る理由を考える必要がある。
(d)元亀元年の池田家内訌の直後には、勝正の後継者が立てられていたとの伝承があり、その確認が出来ていない。史料上ではそれらしき「民部丞」なる人物が確認できる。
ところで、『中之坊文書』の内容をご紹介しておきます。
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本文:
湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名部分:
小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、菅野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
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となっています。
本文は、非常に短いですが、それについて20人もの人々が署名しています。また、湯山の集落政治のまとめ役の人々が、随分と馳走を申し出た事について、少しも疎かには扱わない。恐れ入り謹しんでお伝えします。と池田の人々は伝えています。
こういった状況から、この時の池田家中は、突出した当主が居らず、合議的体制で一時的に運営されていたとも考えられます。当主の書状に添えて発行される副状にしては、人の数が多過ぎます。
白井河原古戦場付近 |
ここから協力(馳走)を取付ける事ができれば、池田衆は憂い無く大軍を東に投入できる環境が調います。
6月下旬といえば、今の暦で言うと、8月上旬頃で、そろそろ稲の作況を見る時期です。そんな時期に池田衆は、何らかの交渉を行っているのです。
また、ちなみに連署の顔ぶれは、白井河原合戦の様子を描いた伝記等でも見られます。
郡山城跡付近から西国街道を見る |
『中之坊文書』について、個人的にはそのようなストーリーを組み立てています。同文書については、論文を書き、近い内に皆さんにもご覧いただければと考えていますので、ご興味をお持ちの方は、お楽しみにお待ち下さい。
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