2012年7月28日土曜日

摂津国吹田城(大阪府吹田市)の事

摂津国嶋下郡にあった吹田城については、不明な点が多く、発掘調査もあまり行なわれていない状況にあって今も所在地不明なままです。

この吹田城は、在地土豪の吹田氏にも関係が深いと考えられ、また、その吹田氏は池田氏とも関係を深くしていました。特に池田勝正の時代には結びつきを強くしていました。また、両氏は春日神社・興福寺に関係する接点があったようです。

そんな事もあって、以前から興味を持っているのですが、中々自分なりの解明が進みません。解らないながら、やはり気になって吹田城の記事にはしてみたのですが、腑に落ちないままです。

吹田城のページ

最近また吹田城が気になっていて、少し気合いを入れて考えてみようと考えています。解った事は、またこちらのブログでもご紹介致します。

さて、今ちょっと考えた事を少しまとめてみたいと思います。とりあえず一通り書物を読み直してみます。
『大阪府の地名』『日本城郭体系』『日本城郭全集』『関西地誌図集成』『大阪都市地図』などを見ると、吹田は神崎川(古くは三国川とも)沿いの集落であり、また、千里丘陵やその南周縁を通る街道を複数持つ要地である事が再認識させられます。
 更に吹田は、江口や一津屋など、川沿いの重要な村も近くにあります。これらの立地から、吹田は水・陸の交通を制するには、非常に重要な場所です。『関西地誌図集成』の明治前期に測量された精密図を見てみると、川と密接な関係を持った他の集落と比べても何倍も大きな規模で記録されています。
 ちなみに、江戸時代には吹田村をはじめ、市域の大部分が幕府の直轄領になって、厳重に管理されているようです。

アサヒビール工場北側の府道14号
やはり戦国時代にも城があったとすれば、その村に密接に関わっていたと思います。今推定されている、アサヒビールの工場敷地内、第一小学校付近、第三小学校付近、公園付近は、村の構成からすると離れ過ぎているように考えられます。ただ、関係施設であったのかもしれませんが、主たる施設では無いように思えます。
 また、今は自動車の通行等のために道幅も広げられていますので、当時とは随分と様子も変わっています。
 全国的に第一次世界大戦が終わった大正時代頃に、自動車通行用の道路整備が行われているようで、この頃に画期を迎えているようです。更に、太平洋戦争の末期には、疎開道路が作られ、空襲による火災対応のために道路が拡げられています。吹田村の中心部に広い道路があるのは、そのためのようです。
一般戦災ホームページ(吹田市における戦災の状況(大阪府)):総務省

さて、先ほどの『関西地誌図集成(大日本帝国陸地測量部:明治18〜23年頃測量)』の吹田村部分を見ると、吹田村の真ん中に不自然な水田があります。吹田村周辺は、深田も多いのですが、村の中に水田が残されています。今の内本町2から同3にかけての地域です。この地域からは北東の鬼門に高浜神社が位置する事になります。古地図では、その南側に堤防代わりの街道が高く土盛りされて東西に走り、南界のように区切られています。
 更に、内本町3には泉殿神社の御旅所があり、このあたりが吹田殿(西園寺家別業との推定説)の屋敷跡らしく「吹田殿址」 となっています。

このあたりが城としての中心で、集落全体が城としての概念を持ち、集落を守っていたのではないかとも考えています。西は今の内環状線(国道479号)付近にかけて、北はJR線あたりまで。線路は村の外側に敷設されたのでしょう。
 そして、東側は、今の吹田市川園ポンプ場のあたりまでで、こあたりに割と広い空き地があり、北側の高低差で村の境になっているようです。

また、吹田砂堆という砂地が、片山の丘陵から川に向かって伸びており、今の内環状線()国道497号線から北東(旧西尾家住宅のあたり)、ダイエーの北東面から川に向かって伸びる道路あたりまでがその範囲になっています。吹田砂堆は周囲の低地に比べて1〜2メートル程高く、また、砂地であるために水はけも良いため、洪水への心配も少ない微高地は居住地として早く利用されていたようです。

片山公園の様子
吹田砂堆からは外れてしまうのですが、第三小学校のあたりには字名で「城ヶ前」 と呼ばれていたらしく、城との関係を伺わせる痕跡があります。
 「東摂城趾図誌」には、その第三小学校のあたりに吹田城があったとする伝承を書き残しており、これが吹田城の有力な跡地推定になっています。
 試掘などが行なわれたようですが、今のところそれらしき痕跡は出ていない様です。
 またそこは、佐井寺方面、岸部方面への幹線街道(亀岡(高槻)街道)にも接しています。その空き地の北に隣接して深田になっています。

しかし、ここが城だとすると、低湿地部分にあたり、水害への備えをしなくてはならず、相当な工事が必要となります。吹田の旧集落にある古いお寺は皆土台を1メートル程高くし、その上に建物が建っています。やはり、洪水を意識して建てられている事が、今歩いてもわかります。
 戦さの最中に雨が降り、自分の城が水没してしまう事は何としても避けなければいけませんが、逆にそこをキチンと対応していれば、攻めにくい城になる事は確かかもしれません。

そうすると、発掘では結構な構造物が検出されるはずですよね...。

もちろん、村を守る城は1カ所では無く、片山方面にもあったと思いますが、今のところ何ともいえないですね。片山姓の土豪も当時の史料に見られます。
 片山の丘陵上の施設となると、近隣の垂水村・佐井寺村や山田村との関係もありますので、その時の政治・軍事環境がどうなっていたかをもう少し調べてみたいと思います。

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)

2012年5月6日日曜日

永禄11年の足利義昭上洛戦と摂津池田城(はじめに)

永禄11年秋、足利義昭を奉じた織田信長が、みごとに上洛を果たしたことは、日本史上ではあまりに有名な出来事です。
 しっかりと周辺状況を分析し、勝算を立てた上での戦略と戦術は、それまでの他の武将とは大きく違いました。多少の無理があったとしても、致命的な要素では無く、計算と準備がそれを上回っていたのです。また、社会の信用を得るための重要な核も十分に認識しており、それは時間と共に理解(利益も)の輪を拡げたのも事実です。
 部分的には、綱渡りのような不安定な状況もありましたが、それを克服できたのは、それ自体が、摂理に沿った行動の結果であったと思います。信長にとってもこの上洛戦に対する取り組みは、ひとかたならぬ思いがあった事でしょう。

さて、そんな中、信長の計画は、ほぼ予定通りに進み、敵対勢力は総崩れとなって敗走しました。しかし、摂津国最大級の国人勢力である池田家は、三好三人衆方として抗戦の構えを見せ、織田勢に一戦を挑みました。池田勢はこの上洛戦で、最も激しく抵抗しています。

その時、池田城とその周辺で何が起きていたのかをご紹介したいと思います。また、池田勢が、なぜ抗戦し、その理由についてもお伝えできればと思います。

(1)なぜこの上洛戦が永禄11年秋だったのか
(2)中央政権を担った第十四代室町将軍義栄の事
(3)三好三人衆と松永久秀の長期抗争
(4)近江守護六角氏と西国方面の様子
(5)足利義昭を奉じた織田信長の上洛戦
(6)池田城攻めの様子と詳報
(7)摂津守護に取り立てられた池田家について


2012年5月2日水曜日

奈良多聞山城の守備

永禄10年春から翌年夏までの奈良多聞山城攻めに参加した池田勝正は、その守備をどのように考えていたのかが気になっていました。

永禄11年9月、遂に多聞山城は落ち、松永久秀は、そこから北に2里程の鹿背山城へ移ります。逃げる事ができたと言う事は、そういう縄張りになっていて、その領域は守備環境も整っていたということになろうかと思います。

それにしても、1年以上に渡って、多聞山城を目指して攻めています。相当な守りになっていた事と思います。

不退寺側からの関西本線の様子
多聞山城の立地を見ると、その南を流れる佐保川を守りに用い、大豆山なども重視していた事を考えると、要所に迎え城を作っていたように思えます。
現在の奈良県奈良市法蓮町にある不退寺は、多聞山城を守るためには重要な場所になったのではないかと思います。
 そのすぐ北側に山塊の突端部分があり、現在の国道24号線とJR関西本線の通るところは谷になります。そしてそのすぐ西には、「宇和奈辺・小奈辺」をはじめとする古墳群があります。これは城のようなものです。谷を挟んで東西の山に、何らかの施設を設置していたのではないかと思います。


一条橋東詰
というのは、不退寺あたりから一条通りを東進されると佐保川を境とした防御が難しくなるからです。多聞山城の裏手にも回り込みやすくなります。また、永禄12年10月に松永久秀は、法蓮郷(位置不明)に新しく市を立てていますので、このあたりを城下とする概念はあったのだろうと思われます。
 多聞山城が1年半もの間、持ちこたえたのは超昇寺城を含めた、この西側の守りと柳生街道などからの補給が確保できていたからだと思います。
 ちなみに、超昇寺城は永禄11年に落城したと伝わっているようですが、それは概ね正確で、時期としては5月の後半ではないかと思われます。
 その理由は、5月19日に15,000程の軍勢を率いて、篠原長房 や三好下野守が山城国木津方面から南下し、西ノ京へ陣取ります。これは軍勢を大挙動員し、守りの穴を空けて、事態の打開に動いたのではないかと思われいます。この道程に、超昇寺城はあります。
 この事で、河内国から大和国へ入る東西に走る道、清滝街道とそれに加えて南北の道を確保して、多聞山城との縁切りを行なって、孤立化を図ったのだろうと思われます。



眉間寺道跡の碑
また、興福寺や東大寺方面が長期に競り合いの場となり、三好三人衆方が中々佐保川を渡る事ができなかったのも、そういった状況を物語るのかもしれません。


多聞山城は狭義の意味では、聖武天皇陵から奈良地方気象台のある山を含んだ部分(その間は眉間寺道)まで城郭にし、最終防御のための堅固な構えを作り、更に広域の防御連携を行なっていたと思われます。  

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ) 


2012年3月23日金曜日

永禄6年(1563)3月、池田勝正が池田四人衆の内2名を粛正した事

永禄6年(1563)2月、摂津国池田家の惣領池田長正が死亡した事により、勝正がその跡を継ぎました。
 翌月22日、池田勝正は酒宴の席で、同家官僚機構ともなっていた池田四人衆の内2名(池田山城守基好・同苗勘右衛門尉正村)を殺害しました。他にもそれに連なる人物も粛正したようです。

この事件で荒木弥助が手柄を立て、勝正に一目を置かれるようになったようです。この事件(内訌といえるかも)について、『言継卿記』『細川両家記』『足利季世紀』『陰徳太平記』に記述があります。

こういった代替わりによる内紛は、先代の長正の時にもあり、時代が足早に進むようになると池田家中も相対的な影響を受けるようになって、内紛に至る間隔も狭くなっていきます。

最終的に、元亀4年(天正元年は同年7月に改元)の将軍義昭の都落ちと同じくして、池田家は崩壊・解体してしまいますが、内紛の原因は多くの場合、官僚機構である四人衆が源泉となっていました。

当主を補佐するべき官僚機構が、権力集団となってしまい、結局は当主と対立してしまう性格を持つようになります。

今でも起きている事が、この時代にもハッキリと見られます。


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2012年2月15日水曜日

摂津原田氏とその城について考える(はじめに)

摂津国の有力国人であった池田氏と、関係の深い同国の豪族原田氏、そして、その原田氏の居城であった原田城については、中々資料がありませんね。
 幸い、豊中市の教育委員会が原田城の発掘を続けてくれているので、そういった報告書が発行されるたびに、考古学の観点から進展しているように思います。また、今西家文書などもしっかりと再検討の視角を設けて、新たな手法で提起したりするなど、大変すばらしい活動を続けていると私は感じています。また、発掘も地道に続けられ、成果も積み上げられています。

私は池田勝正との関係で、原田城と原田氏を見ているのですが、その時代の動向については、直接的な史料は、あまり多くはありません。しかし、その数少ない史料を見ると、興味深い事が判ります。
 勝正が当主となるころには、家格の差と共に経済的な差も開き、池田周辺の豪族はそこに引き寄せられるカタチで被官化していたようですので、原田氏もそういった関係となっていたのだろうと思います。

先に述べたように、原田城は原田氏の城ですので、その大きさやカタチは、原田氏の立場や役割に相対しています。ですので、物理的な発掘で判ることと、文献から見える原田氏の活動の両方を見る事で、正確にその事象や事柄(発掘された遺物も含め)の意味が捉えられるという訳です。

原田城と原田氏は、池田家との関係も深いため、その動きを追う中で、原田氏とその城の事も少し様子が判るようになると思います。
 それらを順に説明したいと思いますが、分かりやすくするために城と原田氏を分けて、私の調査結果(終わり無く進行中ですが...)をご紹介したいと思います。ご興味のある方はご覧下さい。

それらの説明を、以下の要素から説明したいと思います。
 
(1)摂津原田城について その1:元亀4年(1574)以前
(2)摂津原田城について その2:天正元年(1574)以降
(3)考古学・発掘調査から見た原田城
(4)摂津原田氏について
(5)戦国大名中川清秀に仕官した原田氏について



2012年1月5日木曜日

宣教師ルイス・フロイスの記述に登場する、河内国讃良郡の三箇城


河内国飯盛山城に三好長慶が拠点を置いた頃、同国讃良郡内に三箇城が重要な役割を持って存在していました。

三箇城は深野池の中にある島にありました。島は主要な3つをもって名付けられ、三箇とよばれるようになったともされています。
 この付近の荘園の関係もあって、それらは九個荘や大箇、十七ヶ所などとついた地名が多くあり、どことなく異国的なネーミングのように思える三箇もそういった流れの地名のようです。

また、この三箇には、三箇伯耆守頼照(サンチョ)という有力武将が居り、活躍しています。頼照はキリシタンで、サンチョという洗礼名を持ち、この方面でも中心的役割を果たしたようです。宣教師ルイス・フロイスの記述にも頻出しています。
 ちなみに元亀2年8月28日の白井河原合戦の折、ルイス・フロイスは飯盛山城に居り、そこから高槻方面で多数の銃声音を聞き、火災を見たと書き残しています。

さて、三箇の城跡なのですが、この場所が今も特定できていません。深野池は江戸時代の大和川付け替えによって、環境が大きく変わってしまい、どこからどこまでが島だったのか。また、その島のどこに城があったのかなど、不明なところが多くあります。

ただ、江戸時代の領地境界を記した地図では、「三箇村地」として あるところを見ると、干拓が行なわれた後も所有権は三箇村民のものとして存在していた事がわかります。
 やはりその場所は3カ所あり、一番大きな三箇村地が今のJR住道駅周辺となっており、この辺りに城があった可能性もあります。

深野池は交通・漁労・水源など、重要な場所であり、もちろん、拠点飯盛山城の防衛システムを構成する要所でもあって、これが特定できれば、地域史にとって大きな前進となることでしょう。

大きな事は、今ここで直ぐに実現はできませんが、そういった事も願いつつ三箇城についてまた調べていきたいと最近気になっています。




2011年11月15日火曜日

白井河原合戦に至るまで(その4 完結:合戦の意味を考える)

結果を構成する要素というか、出来事の背景を見る事は、非常に重要だと思いますし、それがいわゆる「歴史科学」だと思います。
 本来、「武力」と「政治」は共に存在し、どちらが上とか下とか、先とか後ではなく、それらに宿る権力は表裏一体であり、あたりまえの構成要素です。
 太平洋戦争後に敗戦国となった日本は、元来の自主権を喪失し、厳しい監視下に置かれる事で「武力」を手放す事となり、今ではその概念が政治の中で極小化してしまった、特異な政治環境となっています。ですので、現代から一般的概念として軍事と政治が一体だった時代を見る時、そのあたりの事情もしっかりと意識する必要があります。

しかし、地球上の大多数の国々は、武力が政治の一部であり続けています。それがために、戦国時代に日本人が経験した苦しみを、平成の世となった今でも堪え続けている国が多くあります。一方で、日本はある意味、別の苦しみの途中なのかもしれません。

永禄11年10月の将軍義昭政権樹立以降、義昭は将軍として誰もが認める存在であったかのように理解(解釈)される向きもありますが、実際に、当時の社会的認識は非常に不安定な状況であった事が解ります。
 義昭が将軍となる直前は、三好三人衆が推す阿波国内にあった足利家(阿波公方家)の義栄が、正式な将軍でした。しかし、その政権も半年程で、義昭を奉じる織田信長に遂われてしまい、その座を明け渡します。
 この両勢力は、そのまま朝廷内にも相似構図を作りだし、当時の中央政権に対する立場や利益をそのまま反映していました。
 政権中枢に就く側も遂われる側も、共に余念無く派閥形成に励み、権力を奪い合います。そして両勢力は利益を糾合できるような社会的身分の高い、名の通りの良い人物を味方に付けようとします。それは、永年熾烈な争いを続けた相手であっても、一時的であれ一致できる利益が目前に見えた時には、妥協もできる程でした。

永禄11年秋以降、中央政権から遂われた三好三人衆は、再度京都への返り咲きを目指して環境作りを進めていました。その事は、軍事的優位に立つ事も重要な要素です。なぜなら、話し合いでは折り合いがつかないからです。権力の発動も絶対的でない場合もあります。

さて、中央政権与党であった将軍義昭と織田信長の視点からは、様々な書物で記されている通り、皆さんのよく知っている歴史となっていますが、中央政権復帰を目指す三好三人衆と関係権力はどんな動きをしていたのかという点では、あまり知られていないように思いますので、そちら側からの視点で、動きを捉えてみたいと思います。また、京都を中心とする五畿内地域の有力勢力や伝統的権威は、どのように中央権力闘争を見ていたのかを考察してみたいと思います。

永禄11年9月、足利義昭を奉じて京都を軍事制圧しようとする織田信長勢に、身の危険を感じた三好三人衆方公卿や幕府要人は京都を離れます。間もなく将軍義昭政権へ帰参した人物もありましたが、そうでない人物は各地に潜伏して、反幕府方としての行動を続けます。遂われた側は、それが奪われた知行の回復など、利益に直結してもいたからです。
 それらの人々は反幕府としての勢力となり、その力を京都へ向けるように策を巡らせていました。阿波国足利家、管領継承者細川六郎(昭元)、公卿近衛前久、同烏丸光康、同高倉永相父子、同水無瀬親氏、また、本願寺宗当主の光佐、比叡山・石清水神宮寺など伝統的な宗門、堺・尼崎などの重要港湾の商工町衆などが、反幕府的行動を取っています。

斎藤夏来氏による、興味深い研究『織豊期の公帖発給権 -五山法度第四条の背景と機能-』があります。
 永禄11年6月と元亀元年7月の2度にわたり、京都相国寺住持に補任されている江春瑞超は、その時点で開封披露する入寺式を行わず、元亀2年になって相国寺に入って、公帖を開封披露しているようです。

これは非常に興味深い事です。

公帖とは台帖・公文などとも呼ばれるもので、これは室町幕府足利将軍から与えられる文書です。これによって、禅宗官寺の住持に補任されて出世する叢林長老は、諸山・十刹・五山の住持を歴任し、最終的には南禅寺住持に補任されて、紫衣着用を許される存在だったようです。
 ただし、室町中期以降は、各地の諸山・十刹寺院は多くが廃壊し、名目的補任がなされる場合もあったようですが、南禅寺住持を頂点とする権威は機能していたようで、これが将軍からの公認を受ける事と与える事の格式をも維持させていたようです。
 そういう意味のある公帖を、江春瑞超なる人物は、第14代将軍義栄から永禄11年7月に受けていますが、その開封披露をすぐに行わず、その実力を見極める態度を取っています。興味深いのは、義昭は永禄11年10月に正式な将軍となっているにも関わらず、義昭が公帖を発行したのは元亀元年7月です。そして、江春瑞超はその時点でも将軍の実力を見極めるかのように、公帖の開封披露を見送っています。

そしてまた、雲岫永俊なる人物は、将軍義栄(この時は実際には将軍ではないが、将軍と目される状態ではあった)時代の永禄10年10月付けで、景徳寺・真如寺住持となっています。そして、後の将軍義昭時代の元亀3年11月付けで、再度両寺の住持となっていますが、その折、義昭は永禄10年10月付けで義栄が発行した文書(御判)を破棄して、その立場を誇示しており、ある意味これはその時の政治的なターニングポイントである事を表しているといえます。

それからもう一つ、将軍義昭の信用度の社会的認識を示す要素を考えてみます。

足利義昭が奈良を脱出し、近江国から若狭国を経て越前国朝倉領内に入り、遂に一乗谷へ至った頃の事です。
 義昭は決して優遇されたわけではありません。越前国の玄関口敦賀郡で長期に渡って足止めされ、やっと一乗谷へ迎えられるかと思えば、その外側にある寺地に起居させられ、朝倉家のために一働きさせられています。義昭もこの事で、朝倉氏の憂いを断ち、上洛へ向けた環境作りになると考えていたのでしょう。
 そしてそれは、義昭が永年僧侶であったため、朝倉氏にとって有益かどうか吟味されたのでしょう。天正元年11月以降の毛利氏との状況と全く同じです。
義昭は、朝倉氏と敵対していた加賀国の一向衆との和睦調停を見事に実現し、それが認められて、やっと朝倉氏の本拠である一乗谷朝倉邸への「御成り」となります。
 しかし、その後も朝倉氏は、義昭の望みに積極的に応じようとはせず、間もなく義昭とは物別れとなります。個人的にはこの事が、義昭の朝倉氏に対する遺恨となったのだろうと考えています。朝倉氏は、自分の都合だけを義昭に要求し、義昭の願いは全く聞かなかったからです。
 一方の朝倉氏の当主義景は、将軍義輝の不慮の死に、はじめは同情的なところがあったものの、ただ前将軍と血のつながりがあるだけの僧侶に、どれ程の実力があるのか、疑問視していたのでしょう。何の肩書きも、実績もない義昭に。また、武士としての教育も受けておらず、帝王学も身につけていません。

もう一人、公卿の近衛前久の動きも見ておきましょう。

橋本政宣氏の研究によると、公家衆の代表的存在である五摂家の筆頭近衛家当主前久(さきひさ)は、永禄11年から天正3年まで、7年間の京都出奔の際には、反幕府(反将軍義昭)戦線の一環として三好三人衆・大坂本願寺・越前国朝倉義景・近江国六角承禎・浅井長政・若狭国武田氏と交渉を持って、活動しました。
 前久は始め、大坂の本願寺に、次に丹波国赤井氏に寄寓していたようです。中でも元亀2年までの近衛前久の動きを見てみると、興味深いです。
永禄11年11月頃、前久は大坂本願寺に入り、保護を受けています。前久は早速、反幕府方として動いていたようです。当然、本願寺方との連絡や意志疎通もあった事と思います。
 翌年1月11日条の『二條宴乗記』に、前久の事が記されています。三好三人衆方の京都本圀寺襲撃事件に、石清水八幡宮寺が加担していた事について、前久も関係していた事が記されています。
 同年2〜3月にかけて、幕府方織田信長は、三好三人衆方に加担した堺・尼崎・兵庫の環瀬戸内海の都市(京都との関連都市)へ武力行使を行い、屈服(完全ではないが)させます。
 また、同年4月には、織田信長の命令で、山城国普賢寺衆の今中・上松・大西・田辺などが誅殺されています。この地域は、近衛家領でもあった事から三好三人衆方に加担する動きがあったらしく、信長はそれを制したようです。
 それからしばらく、今のところの私の知る限りでは前久の活動が史料に見られないのですが、元亀元年8月になって前久が、薩摩国の島津貴久へ音信しています。その中で、近江国南北(六角承禎・浅井長政)・越前国朝倉氏・四国衆(三好三人衆)が一味せしめ、近日自分も出張すると、伝えています。
 薩摩国内に近衛家の所領があったり、薩摩隼人ゆかりの山城国綴喜郡田辺と近衛氏が古くから関係があるなどで、両家は懇意にしていたようです。また、この頃に島津氏が所用で上洛する予定などがあって、両者は頻繁に連絡を取り合っていました。
 その中の近況として、京都周辺の情勢も記されています。それらの音信からは、近衛前久が反幕府勢力を束ねる「要」的な動きをしている事もわかります。

更にもう一人。

管領細川晴元の嫡子で正統な継承者である六郎昭元の動きも最後に見ておきたいと思います。正確にはこの時点で昭元ではありませんが、便宜上、昭元で統一的に記します。
 管領は中央政権の中枢を担う要職ですが、この昭元は、三好三人衆権力の中でも重要な位置づけでした。三好三人衆は、永禄11年秋に京都を落ちる時にも昭元をしっかりと保護し、手放しませんでした。昭元も初期段階ではその持てる権威で、三好三人衆の京都復帰を応援し、支えていました。
 永禄12年3月20日(年記は個人推定)、昭元は早速、丹波国人赤井直正に音信しています。その数日後の23日付けで、同じく直正に宛てて丹波国人らしき内藤貞虎が音信し、三好三人衆などの動きを伝え、今後の予定も伝えています。
 更に同年閏5月7日(年記は個人推定)、再び昭元が直正に音信し、出陣について手はずを整えて、油断の無いように、などと伝えています。
 この頃三好三人衆勢は、淡路国にあって五畿内方面を窺っていたようです。また、和泉国方面でもその一団が活動し、幕府方は気を緩める事ができない状態でした。
 こういった要素を細かく見ると大変な文字数になってしまいますので割愛しますが、三好三人衆勢は元亀3年の夏頃までは、五畿内地域での求心力を保ち得て、幕府方に対し、優位に立つ場面が何度もありましたが、結局求心力の中心軸がずれてしまい、局地勢力となってしまいました。
 元亀元年4月の越前国朝倉氏攻めと、いわゆる姉川の合戦においては幕府方が勝利したものの、同年9月の大坂本願寺の幕府(政権)離脱で、幕府方は一気に軍事的形勢は不利となります。
その流れに乗ろうと、三好三人衆は昭元を始め、阿波守護家筋の細川讃岐守真之や三好宗家の筋目に最も近い人物で、阿波国の実質的な統治者である三好長治も出陣させ、五畿内地域へ政治的な権力誇示を行います。
 私戦では無く、より広い人々のための利益、すなわち広義の意味合いを行動に帯びさせるためには、それを集約・象徴できる人物が必要となります。
 三好三人衆方にとってその一人が昭元であったわけです。また、元亀2年の初冬、より広域の勢力を糾合するため、また、束ねるためにも、旧誼でもあった反幕府的志向性の強い近衛前久とのつながりを、改めて強くする事を企図して、三好三人衆方は3,000石の知行も直接的に献じます。
 前久は大坂本願寺に起居し、三好宗家の嫡流筋は本国阿波を固め、昭元は多地域(管領家は代々丹波国に縁故地を持っていましたので、拠点は丹波だったのかもしれません)に広く対応し、更に、三好宗家の跡継ぎが元亀2年3月頃から三好三人衆方に復帰後、河内国北・中部を固め、これと共に松永久秀・久通父子も大和国北・中部に権力を保ちました。

こういった人々が、一団を形成していくのですが、それはその地域への保証の維持でもあり、同時に保護や利益確保の名目で武力を行使する理由ともなりました。そういった利益の確定が、軍事力をともなって地域社会の成立構図を再編していくのですが、それが三好三人衆方に有利に働いていたのは、元亀2年9月の比叡山焼き討ち頃までで、それ以降は、徐々に中心線というか、中央政権の争奪における権力の対する焦点が変わっていきます。
 また、軍事的には幕府・織田信長方に対して三好三人衆方優位でしたが、三好三人衆方の勢力に綻びが見られるようになり、三好三人衆に最も近い一族からも脱落者を出すようにもなります。反幕府方の「核」でもある三好三人衆の体制が崩壊する事態に陥りました。更に、連合諸勢力の協調が崩れてしまいます。

しかし、この権威保持の志向性は、対する幕府方とて同じで、政権を安定させるには必須条件でした。

さて、こういう要素を見ると、京都やその周辺では、元亀2年頃まで、将軍義昭が正式な幕府としての中心的地位にはあるけれども、各界の重要人物にはその永続性について、非常に不安視されていた事もわかります。






2011年10月8日土曜日

白井河原合戦に至るまで(その3:合戦の頃の周辺戦況と関連性)

元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方である摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。
 この戦いに至るには、その前段階があります。その過程について、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、そこに至るまでの環境を確認したいと思います。

白井河原合戦をとり囲む、その外側の環境も俯瞰しておきましょう。

元亀元年(1570)12月も暮れ近くになって、幕府方であり官軍の総大将でもある織田信長が軍事的劣勢となり、三好三人衆を始め、越前国守護朝倉氏・京極氏被官浅井氏・六角氏・本願寺宗と一旦和睦を結びます。
 しかし、正月を過ぎると、すぐに信長は戦端を開きます。近江国の中東部、東海道の通路を開くため、早速、信長は動きます。浅井氏被官の磯野貞昌を味方に引き入れるなどします。
 1月28日、三好三人衆方の本願寺光佐は、これらの不穏な動きに早速反応し、諸門徒に檄文を発して、信長に対するよう要請します。そしてこの頃にはもう既に三好三人衆が、五畿内で行動を起こしていました。
 3月5日、三好山城守康長被官木村宗治が、松永久秀を訪ねて、三好方に復帰するよう促しているようです。続いて同月22日、河内国若江城に居た松永久秀・三好義継を同じく木村宗治が訪ねています。これは調略です。
 5月になる頃には三好三人衆方が攻勢を強めて、再び各地で火の手が上がり始めます。
 そして、それに更なる拍車をかけたのは、中国地方の巨頭毛利元就の死去です。これを知った近隣の諸大名は、協同して毛利領内へ攻め入ります。三好三人衆・浦上宗景・尼子・大友などが毛利領境を積極的に侵すようになります。この頃、毛利氏は幕府に積極的に加担する大きな勢力でもあり、決して余裕があるわけではない幕府でしたが、共存のためにも毛利家を援助しなければならなくなりました。
 状況を俯瞰すると、この環境でより京都に近く、中央政治における為政者としての実績を持っていたのは三好三人衆で、京都奪還を目指したその行動は、反幕府(将軍義昭)諸勢力への求心性も発揮していました。三好三人衆は京都の周縁部、近江・丹波・若狭・越前諸国勢力と直接的に連携できる関係にもありました。そしてこれに本願寺宗という宗教的つながりも持ち合わせています。

 五畿内の中の摂津地域という部分で見た場合には、多少劣勢にも見えますが、このように三好三人衆方に復帰した摂津国池田家を取り巻く環境は、大局的には決して悲観する状況ではありませんでした。
 一方、本願寺光佐の嫡子と朝倉義景の娘との婚姻の話しが進められ、同盟勢力同士の結びつきを強める動きや、7月に近江国守護の六角承禎が近江国内で挙兵して、浅井氏と連携した動きを強めます。更に、備前国の大名浦上氏は、播磨国へも兵を進め、自らの境界を拡大しようとするかたわら、幕府方勢力の牽制も行いました。
 これがために幕府方摂津守護の伊丹氏は、本拠地の伊丹から思う通りに動く事ができなくなったようです。また、伊丹氏は本拠の南、尼崎方面へも三好三人衆方淡路衆や本願寺方勢力のために、警戒せざるを得なくなります。
 それから三好三人衆は、権力の取り込みも積極的に行っています。将軍義昭と敵対関係にあった公卿近衛前久に接近し、また、前久自身も利害関係の一致から、積極的に三好三人衆方の政治的な動きを支えていました。更に三好三人衆は、正式な管領継承権を持つ細川昭元をも抱え、昭元自身も積極的に三好三人衆の政治的動きを支えていました。

近畿からは遠い大友・尼子・河野氏などの動きについては、まだ私の調べが及ばず、不明な事が多いので記しませんが、三好三人衆の影響力の強い、特に近畿に影響のあった大名を見てみます。

備前・美作国などを勢力圏としていた大名浦上宗景は、元々播磨国守護家の守護代的立場で(時代により離れたりすり寄ったりですが)、その縁でこの時は、置塩城の守護家筋の赤松氏についていました。
 そしてその間に挟まれた龍野の赤松氏は、それと敵対し、幕府方についていました。
 浦上氏は三好三人衆方と同盟し、毛利方に対する備えと東への攻勢に、自ら持てる資力を注ぎました。浦上氏は龍野の赤松氏を圧迫し、その領域を自らのものにすべく企みながら、行動します。これは、播磨国東端の別所氏にとっても脅威となります。
 そしてその別所氏は、龍野赤松氏・毛利氏と同盟し、自領の西側を牽制しようとし、そして更に幕府と結んでいました。ちなみに別所氏は、この数年前には三好三人衆方の有力勢力でした。
 これに対し、三好三人衆方は瀬戸内海東側の制海権を優位に保ち、更に本願寺とも連合して、幕府方勢力を圧迫します。特に三好三人衆勢は、海を渡って自在に背後へ廻り込んだり、同盟勢力に加勢を行えます。
 どちらかというと、この方面では、やはり幕府方が不利、幕府方勢力は、積極的には動けない状況であったようです。瀬戸内海も多くの海域で三好三人衆方勢力が有利だったと考えられます。
 幕府方の播磨国東部の勢力が、東へ動けない状況の中、三好三人衆方池田家は、京都を目指して動く事が可能となっていたのです。三好三人衆勢力全体から「駒」的要素を見ると、「本能寺の変」の明智光秀のように、京都を目指す事が可能な自由な「駒」と、それが可能な周辺環境が出来上がっていました。もしかすると三好三人衆勢力は、総合的な計画を立て、役割分担していた可能性もあります。
 池田衆は、その任を勤めるべく役割りを任され、また、それに足る実力を持っていたように思えます。

さて、五畿内に近寄りつつ、更に周辺状況を見れば、丹波国内も幕府方と三好三人衆方とに入り乱れた膠着状態で、波多野・赤井に、松永久秀の血族である内藤氏などがありました。幕府方に近い丹後国守護の一色氏は、三好三人衆方の朝倉氏に加担する武田氏と対峙し、更には地理上、近江国からも侵入を受けた場合の用意も必要でした。
 そして、その近江国北西部は三好三人衆方朝倉・浅井氏が優勢で、東南部も旧守護勢力である三好方六角氏が挙兵して、あなどれない数を有していました。
 将軍が在京してはいても、このように、それを取り巻く状況は、非常に不安定なものでした。更に、三好三人衆方に加担する、公卿近衛前久や五山といわれる伝統的権威を持つ宗教や時宗勢力にも幕府を信用しない勢力(傾向)がありました。

この状況に対し、織田信長は武力と共に政治・外交にも力を入れていました。
 三好三人衆方に協力し、一時は将軍義昭方から迫害されていた公卿烏丸光康に、知行を与える(回復)などして扶持をつけると共に、その領地を京都周縁部に設け、守りの布石の要素とします。その他、幕府内の要人などへの対応も次々と行い、人の楯を作って京都を守ろうとします。

織田信長は同時に武力も強行し、心理的な圧力・喧伝の策ともし、政権の意思力を内外に誇示します。有名な「比叡山焼き討ち」です。比叡山は当時、京都鎮護の重要な場所とそれを司る宗教組織でしたが、信長はこれに武力行使を行います。
 これ以前の永禄12年春、同じく南の京都鎮護として崇められる石清水八幡に対して信長は、三好三人衆を匿ったとして、武力行使を行っています。その他、尼崎などでも大きな宗教組織や町衆組織も同じく、交渉が決裂すると、ためらわず武力行使を敢行しています。ですので、「タブー」に手をつける信長のイメージは比叡山のみではありません。
 また信長は、決して準備の整わない行動はせず、越前朝倉征伐の折、正式に朝廷から許しを得た「官軍」の社会的大儀を維持し、更に同年暮の和睦も、朝廷との関係を保ちながら行うという、政治的後ろ盾も保持していたからこそ可能だった「比叡山焼き討ち」だったのです。
 「比叡山といえども官軍(朝廷)に弓を引く者は、信長が代って成敗する」という状況だったのでしょう。戦の勝ち負けは、今も昔も変わらず、公的意味合いが大きい程、有利といえます。更に、その公的意味合いを継続させる努力も重要です。組織的にも、その外側の社会にも。

京都を囲む軍事情勢は、元亀2年の冬頃まで幕府方が劣勢でしたが、9月のこの「比叡山焼き討ち」を境に同方面では、三好三人衆方との形勢が徐々に逆転し始めます。

しかし、白井河原合戦の行われた頃は、幕府方が劣勢の中で人員をやり繰りする厳しい状況で、京都を維持すべく苦闘していました。和田惟政はそんな中で、池田衆と決戦に挑まなければならなかったのです。






2011年9月10日土曜日

白井河原合戦に至るまで(その2:和田惟政の池田領侵攻の動き)

元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しました。
 しかし、この戦いに至るには、その前段階があります。実は池田衆は幕府方から当面の集中的攻撃対象となっており、長期の攻防で池田衆が劣勢に立たされていました。
 この池田衆は、三好三人衆方で、元亀2年5月頃に幕府方から離れて、同じく三好方へ復帰した松永久秀・三好義継と恊働関係にありました。加えて、大坂本願寺勢、和泉国衆の一部が三好三人衆方で、淡路国方面などからも本国と連なる三好勢が、随時五畿内に軍事的侵攻を行っていました。その目的は京都の奪還、則ち織田信長・将軍義昭の駆逐です。
この過程については、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、それをひも解いて行きたいと思います。
 『フロイス日本史』や『耶蘇会士日本通信』では、池田領の境近くに2つの城を築いたと記述があります。同書では、これが白井河原合戦の原因であるとの見解が示されていますが、私はこの事だけが和田方と決戦を行う直接的な理由になったのでは無く、それらの城の築造が、複数の要素の重なりの発火点になったのだと考えています。
 それから同書は、記憶違いだとは思うのですが、若干の矛盾があるように思います。外国人である事と、連続した状況を全て把握している訳ではありませんので、当然の事です。この点に注意しながら、記述を理解する必要があると思います。

さて、この池田領境界近くに築いた2つの城の場所とはどこなのか。フロイスの記述中の距離の単位には、「レグワ」とあるのですが、どうも1レグワとは、1里(約4キロメートル)にあたるようで、その事から推察すると、城の1つは、今の萱野(現箕面市萱野)あたりではないかと考えられます。
 仮に池田領を、同方面の西国街道と勝尾寺川の交差するあたりから西側と考えるなら、様々な池田方に関する構成要素と符合するように思います。この事は、今解っている事実と矛盾しないように思います。

8月22日、池田衆は3,000の兵を率いて池田城を出陣します。この頃、和田方の築いた新城を守っていた高山飛騨守が、3里離れたところに居た和田惟政に急報した、とあります。実は、フロイスはこれについて「高槻」とは書いていません。
 他の史料を見ると、この時の惟政は高槻から離れ、出陣中でした。ですので高山飛騨守は、萱野の新城からその場所に急報した事になります。
 それを考慮に入れてみると、もう一つの城があった場所とは、千里丘陵の南側の池田・和田領の境を想定できるのかもしれません。そこであれば、他の史料等からわかる池田衆の動きとフロイスの記述要素、そしてそれらの時間との一致が見られて、矛盾しません。
ちょっとフロイスの記述からは判断しがたいところもあるのですが、7月(下旬頃か)に白井河原合戦につながる一連の闘争で、高山飛騨守の息子(三男で右近の弟)が戦死しているようです。この葬儀のために、フロイスが摂津国に入っている事を記述しています。
 その高山飛騨守の息子、則ち右近の兄弟が、池田衆との一連の闘争で戦死した7月頃とは、千里丘陵の北側で話しを組み立てると、矛盾があるように思えます。更に、同丘陵の南側にこだわってみると、7月中頃から三好義継・松永久秀が軍勢を仕立てて、河内国から淀川を渡って、高槻方面に進んで、交戦しています。高槻から吹田へ繋がる線を切って、勢力の弱体化を図った行動と思われます。また、それによる、吹田などの淀川縁の確保も視野に入れていたのでしょう。
 更に同月23日、幕府衆三淵藤英・細川藤孝は、高槻方面から吹田を経て、池田の南側へ進んできます。

さて、こういった軍事行動の場合、攻める敵に対しては必ず最低2つの方向から攻めます。その事を考慮に入れると、千里丘陵の北側と南側に1ヶ所ずつ池田領との境に、和田惟政が橋頭堡的な新城を築いたのかもしれません。
 この頃、茨木・郡山は和田方として機能していましたので、千里丘陵の南北に新城を築けば補完関係も強固に維持できますし、補給も十分です。同時に、防禦的体制も兼ねる事ができます。

この事から、7月に行われた千里丘陵の南側の攻防戦で、高山飛騨守の息子が戦死したために、一旦、東へ後退。その後、池田衆が出陣する8月22日には、萱野付近の城に入っていたものと思われます。
 それから間もなく、高山衆は東進してくる池田衆と対峙しながら、東へ後退(時間稼ぎもしていたのだろう)していったものと思われます。この時池田衆は『多聞院日記』『尋憲記』にある、池田方が落とした4つの城(里(佐保)・宿久・茨木・高槻)の内、里や宿久を落とすか、攻囲して進んだのかもしれません。
 そしてまた、フロイスの記述をよく読んでみると、和田惟政が突撃前に陣を取ったらしき場所は、高山衆の入る城の近くだったと思われ、それは多分「福井」辺りの城に入っていたと考えられます。

さて、白井河原方面へ進んだ惟政は、幣久良山(てくらやま:現茨木市耳原)に陣を置きました。ここは山の直ぐ西側に佐保川がある天然の要害で、また、その北側半里(2キロメートル)程のところには、幕府衆である安威氏の本拠があります。そして南にも郡山・茨木の城があります。
 一説には、8月27日に惟政は、幣久良山(糠塚)に入ったとあります。白井河原合戦は、28日の午前中に行われたようですので、惟政が前日に入って状況を把握していたとすれば、それは史料と照合しても矛盾しません。ここは適度に広い平地もありますが、基本的には丘陵地帯で小さな丘や山が多く、しかも切り立った起伏のある地形ですので、伏兵を置くにも適した場所でした。当然、草木も茂っていた事でしょう。また、夜明けと同時に戦いを始める準備をしていたのでしょう。
 フロイスが記したように、和田方が兵を進めようと決断した環境を考えると、池田衆は和田方にそうさせるように、おびき寄せるための隙を態と作っていたと考えられます。
 この時池田衆は、下井付近に陣を取ったようです。今の郡小学校付近に2ヶ所、その跡とされる場所がありますが、どちらも陣跡だったのではないかと思います。

少し話しが前後しますが、高山飛騨守と和田惟政の動きをまとめておきたいと思います。

千里丘陵の南側の和田方新城で高山飛騨守は、交戦により息子を戦死させたために、東へ一旦後退。それが7月(下旬か)頃だったのではないかと思われます。その後、幕府勢は吹田方面を経て、池田を攻めるようになります。また、原田城に池田勝正が入る等、拠点も置き始めます。
 幕府方は三好三人衆方の拠点ともなっている池田城を制圧するため、積極的に攻め、伊丹と和田は池田を挟撃しようと出陣しましたが、8月18日の交戦で、伊丹と和田は、200余名を戦死させる敗北を喫します。そして、この時の合戦に惟政も出陣し、高槻を離れていたと考えられます。

これに合わせて高山衆は、西国街道を通す千里丘陵の北側の押さえとして、萱野に入っていたと考えられます。
 池田衆は、惟政が考える以上に力を蓄えており、8月18日の交戦では、200余名の戦死者を出すとされる、小さくない被害を受けています。重要な家臣も失ったのではないかと思います。
 その日から数日間、和田惟政は猪名川を渡って川辺郡(猪名寺・尼崎方面など)や吹田方面(庄内や江坂など)にとどまって、立て直しを図っていたと考えられます。
 一方、池田衆は池田周辺の交戦で勝利を得た事で勢いがつき、間髪を入れずに高槻を陥れるべく東進を始めたのでしょう。そして間もなく、萱野で池田衆の東進を確認した高山飛騨守は、そこから3里の距離に居た(尼崎・庄内あたりなら萱野から約3里の距離です)惟政に急報。惟政は急遽、高槻に戻り、出せるだけの兵をまとめて郡山方面に向かったのではないかと考えられます。

8月22日、池田を出陣した池田衆に対し高山衆は、郡山付近での決戦体制を整えるまでに5日間の時間を稼ぎ、要害性の高い郡山辺りで和田惟政と合流。そこで決戦し、事態を打開しようとしていたのでしょう。
 同時に惟政は兵を増強しようと各地に連絡もしていたと思われます。フロイスの記述に「惟政の家臣は高槻から3〜5里乃至8里の場所に居た」との旨の下りがありますが、その要素の指向性は、家臣の招集(動員)を描くものだったのではなかと思います。
 惟政が陣を取った場所を考えても、その事を感じさせる絶妙な場所です。幣久良山の北側には佐保・泉原・忍頂寺・千提寺・車作・音羽などに通じる街道があり、その方面の家臣の白井河原方面への着陣を予定していたのでしょうが、実際には8月28日に間に合わなかったようです。
 フロイスの記述にある、「惟政とその重臣が戦死したとの報が伝わると、家臣が散々に逃げてしまった」の旨の記述は、その事も指しているのだろうと思います。

フロイスの記述した内容の文字の間を観るならば、そのような想定もできるのではないかと思います。


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2011年9月7日水曜日

白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)

元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しました。
 しかし、この戦いに至るには、その前段階があります。実は池田衆は幕府方から当面の集中的攻撃対象となっており、長期の攻防で池田衆が劣勢に立たされていました。
 この池田衆は、三好三人衆方で、元亀2年5月頃に幕府方から離れて、同じく三好方へ復帰した松永久秀・三好義継と恊働関係にありました。加えて、大坂本願寺勢、和泉国衆の一部が三好三人衆方で、淡路国方面などからも本国と連なる三好勢が、随時五畿内に軍事的侵攻を行っていました。その目的は京都の奪還、則ち織田信長・将軍義昭の駆逐です。
この過程については、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、それをひも解いて行きたいと思います。
 『フロイス日本史』や『耶蘇会士日本通信』では、池田領の境近くに2つの城を築いたと記述があります。同書では、これが白井河原合戦の原因であるとの見解が示されていますが、私はこの事だけが和田方と決戦を行う直接的な理由になったのでは無く、それらの城の築造が、複数の要素の重なりの発火点になったのだと考えています。
 それから同書は、記憶違いだとは思うのですが、若干の矛盾があるように思います。外国人である事と、連続した状況を全て把握している訳ではありませんので、当然の事です。この点に注意しながら、記述を理解する必要があると思います。

さて、この池田領境界近くに築いた2つの城の場所とはどこなのか。フロイスの記述中の距離の単位には、「レグワ」とあるのですが、どうも1レグワとは、1里(約4キロメートル)にあたるようで、その事から推察すると、城の1つは、今の萱野(現箕面市萱野)あたりではないかと考えられます。
 仮に池田領を、同方面の西国街道と勝尾寺川の交差するあたりから西側と考えるなら、様々な池田方に関する構成要素と符合するように思います。この事は、今解っている事実と矛盾しないように思います。

8月22日、池田衆は3,000の兵を率いて池田城を出陣します。この頃、和田方の築いた新城を守っていた高山飛騨守が、3里離れたところに居た和田惟政に急報した、とあります。実は、フロイスはこれについて「高槻」とは書いていません。
 他の史料を見ると、この時の惟政は高槻から離れ、出陣中でした。ですので高山飛騨守は、萱野の新城からその場所に急報した事になります。
 それを考慮に入れてみると、もう一つの城があった場所とは、千里丘陵の南側の池田・和田領の境を想定できるのかもしれません。そこであれば、他の史料等からわかる池田衆の動きとフロイスの記述要素、そしてそれらの時間との一致が見られて、矛盾しません。
ちょっとフロイスの記述からは判断しがたいところもあるのですが、7月(下旬頃か)に白井河原合戦につながる一連の闘争で、高山飛騨守の息子(三男で右近の弟)が戦死しているようです。この葬儀のために、フロイスが摂津国に入っている事を記述しています。
 その高山飛騨守の息子、則ち右近の兄弟が、池田衆との一連の闘争で戦死した7月頃とは、千里丘陵の北側で話しを組み立てると、矛盾があるように思えます。更に、同丘陵の南側にこだわってみると、7月中頃から三好義継・松永久秀が軍勢を仕立てて、河内国から淀川を渡って、高槻方面に進んで、交戦しています。高槻から吹田へ繋がる線を切って、勢力の弱体化を図った行動と思われます。また、それによる、吹田などの淀川縁の確保も視野に入れていたのでしょう。
 更に同月23日、幕府衆三淵藤英・細川藤孝は、高槻方面から吹田を経て、池田の南側へ進んできます。

さて、こういった軍事行動の場合、攻める敵に対しては必ず最低2つの方向から攻めます。その事を考慮に入れると、千里丘陵の北側と南側に1ヶ所ずつ池田領との境に、和田惟政が橋頭堡的な新城を築いたのかもしれません。
 この頃、茨木・郡山は和田方として機能していましたので、千里丘陵の南北に新城を築けば補完関係も強固に維持できますし、補給も十分です。同時に、防禦的体制も兼ねる事ができます。

この事から、7月に行われた千里丘陵の南側の攻防戦で、高山飛騨守の息子が戦死したために、一旦、東へ後退。その後、池田衆が出陣する8月22日には、萱野付近の城に入っていたものと思われます。
 それから間もなく、高山衆は東進してくる池田衆と対峙しながら、東へ後退(時間稼ぎもしていたのだろう)していったものと思われます。この時池田衆は『多聞院日記』『尋憲記』にある、池田方が落とした4つの城(里(佐保)・宿久・茨木・高槻)の内、里や宿久を落とすか、攻囲して進んだのかもしれません。
 そしてまた、フロイスの記述をよく読んでみると、和田惟政が突撃前に陣を取ったらしき場所は、高山衆の入る城の近くだったと思われ、それは多分「福井」辺りの城に入っていたと考えられます。

さて、白井河原方面へ進んだ惟政は、幣久良山(てくらやま:現茨木市耳原)に陣を置きました。ここは山の直ぐ西側に佐保川がある天然の要害で、また、その北側半里(2キロメートル)程のところには、幕府衆である安威氏の本拠があります。そして南にも郡山・茨木の城があります。
 一説には、8月27日に惟政は、幣久良山(糠塚)に入ったとあります。白井河原合戦は、28日の午前中に行われたようですので、惟政が前日に入って状況を把握していたとすれば、それは史料と照合しても矛盾しません。ここは適度に広い平地もありますが、基本的には丘陵地帯で小さな丘や山が多く、しかも切り立った起伏のある地形ですので、伏兵を置くにも適した場所でした。当然、草木も茂っていた事でしょう。また、夜明けと同時に戦いを始める準備をしていたのでしょう。
 フロイスが記したように、和田方が兵を進めようと決断した環境を考えると、池田衆は和田方にそうさせるように、おびき寄せるための隙を態と作っていたと考えられます。
 この時池田衆は、下井付近に陣を取ったようです。今の郡小学校付近に2ヶ所、その跡とされる場所がありますが、どちらも陣跡だったのではないかと思います。

少し話しが前後しますが、高山飛騨守と和田惟政の動きをまとめておきたいと思います。

千里丘陵の南側の和田方新城で高山飛騨守は、交戦により息子を戦死させたために、東へ一旦後退。それが7月(下旬か)頃だったのではないかと思われます。その後、幕府勢は吹田方面を経て、池田を攻めるようになります。また、原田城に池田勝正が入る等、拠点も置き始めます。
 幕府方は三好三人衆方の拠点ともなっている池田城を制圧するため、積極的に攻め、伊丹と和田は池田を挟撃しようと出陣しましたが、8月18日の交戦で、伊丹と和田は、200余名を戦死させる敗北を喫します。そして、この時の合戦に惟政も出陣し、高槻を離れていたと考えられます。

これに合わせて高山衆は、西国街道を通す千里丘陵の北側の押さえとして、萱野に入っていたと考えられます。
 池田衆は、惟政が考える以上に力を蓄えており、8月18日の交戦では、200余名の戦死者を出すとされる、小さくない被害を受けています。重要な家臣も失ったのではないかと思います。
 その日から数日間、和田惟政は猪名川を渡って川辺郡(猪名寺・尼崎方面など)や吹田方面(庄内や江坂など)にとどまって、立て直しを図っていたと考えられます。
 一方、池田衆は池田周辺の交戦で勝利を得た事で勢いがつき、間髪を入れずに高槻を陥れるべく東進を始めたのでしょう。そして間もなく、萱野で池田衆の東進を確認した高山飛騨守は、そこから3里の距離に居た(尼崎・庄内あたりなら萱野から約3里の距離です)惟政に急報。惟政は急遽、高槻に戻り、出せるだけの兵をまとめて郡山方面に向かったのではないかと考えられます。

8月22日、池田を出陣した池田衆に対し高山衆は、郡山付近での決戦体制を整えるまでに5日間の時間を稼ぎ、要害性の高い郡山辺りで和田惟政と合流。そこで決戦し、事態を打開しようとしていたのでしょう。
 同時に惟政は兵を増強しようと各地に連絡もしていたと思われます。フロイスの記述に「惟政の家臣は高槻から3〜5里乃至8里の場所に居た」との旨の下りがありますが、その要素の指向性は、家臣の招集(動員)を描くものだったのではなかと思います。
 惟政が陣を取った場所を考えても、その事を感じさせる絶妙な場所です。幣久良山の北側には佐保・泉原・忍頂寺・千提寺・車作・音羽などに通じる街道があり、その方面の家臣の白井河原方面への着陣を予定していたのでしょうが、実際には8月28日に間に合わなかったようです。
 フロイスの記述にある、「惟政とその重臣が戦死したとの報が伝わると、家臣が散々に逃げてしまった」の旨の記述は、その事も指しているのだろうと思います。

フロイスの記述した内容の文字の間を観るならば、そのような想定もできるのではないかと思います。