荒木村重についての発見やそれに関連する池田長正につながる大きな発見があったので、備忘録的に、記事にしておきたいと思います。後日、しっかり検証して、レポートとして書き直します。
この5月の連休に、ちょっとブラブラしようと思い、永年気になっていた高槻市の上宮天満宮周辺を見て回ろうと計画を立てました。
このあたりには、和田惟政供養塔のある伊勢寺、三好義興の墓と伝わる霊松寺、西国街道上の要衝である上宮天満宮があります。ネット上でその周辺地図を見ていた所、古曽部に日吉神社がある事に気付きます。
古曽部は、古曽部焼という磁器生産地としては知っていたのですが、ここに日吉神社があって、その創建が荒木村重であったというのは、知りませんでした。5月3日。早速、心弾ませて訪ねてみました。
古曽部日吉神社の由緒を以下にご紹介しておきます。
(古曽部日吉神社パンフレットより)----------------------
古曽部の高台に鎮座します日吉神社は、戦国時代に武将・荒木村重によって創建されて以来、長らく古曽部の地主神として祀られて参りました。境内からの素晴らしい見晴らしはまさに圧巻です。古曽部は古くは「社戸」「許曽部」などとも表記され、「神社に関わる者」を意味する姓のひとつであったと伝えられています。
天正元年(1573)7月、荒木村重が織田信長に謁した際、芥川城を落とした武功を賞されて、摂津守に任じられました。その折に、荒木村重は古曽部の地に正倉を創立して、近江国日吉神社から分霊を勧請し、祭典を執り行いました。
古くは祭典の折に、歴代城主が乗馬を献上するのが永年の恒例となっておりました。これが、日吉大神社の起源でございます。
社殿は、慶長十九年(1614)1月11日に再建されたもので、境内は385坪を有し、本殿は神明造・檜皮葺きに彩色を施されています。
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【参考】
◎古曽部日吉神社公式HP
とのことです。非常に興味のある地域の歴史です。確かに史実の流れもそのようになっており、荒木村重が、将軍義昭との抗争の中で、織田信長に加担したことの功績は非常に大きく、信長から称賛を得たのも事実です。参考までに天正元年のめぼしい動きを上げておきます。
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2/15 将軍義昭方池田衆、将軍警固として京都二条城に入る
2/17 二条城の防備強化普請を行う
2/23 織田信長、荒木村重の「無二之忠節」の約束に喜ぶ
2/26 織田信長、荒木村重と摂津衆の扱いについて細川藤孝へ音信
3/5 高槻城内で高山友照と和田惟長が争い、惟長が城を出る
3/7 将軍義昭、織田信長からの和睦案を拒絶
3/12 丹波守護代格内藤忠俊、兵を率いて将軍義昭へ参候
3/13 将軍義昭方池田衆、京都八条方面で陣取りを巡って東寺衆と喧嘩
3/14 将軍義昭、味方についた摂津池田遠江守へ内書を下す
3/27 将軍義昭、二条城の防御態勢を整える
3/29 荒木村重、細川藤孝と共に京都知恩院にて織田信長と会見
3/30 荒木村重、京都九条方面を打ち廻る
4/2 織田信長勢、洛外を放火
4/5 将軍義昭と織田信長の和睦会談が行われる
4/6 荒木村重、織田信長方の和睦交渉団に名を連ねる
4/7 将軍義昭と織田信長の和睦が成立
4/27 将軍義昭方池田紀伊守正秀など、織田信長方和睦交渉団から起請文を受け取る
4/28 将軍義昭方池田紀伊守正秀など、織田信長方和睦交渉団へ起請文を提出
7 荒木村重、芥川山城を攻める? ←出典確認中(三田市史に『野史』とある)
7/5 将軍義昭、眞木嶋城にて再度挙兵
7/18 将軍義昭降伏
7/28 「天正」に改元
8 荒木村重、織田信長より摂津一職を任される?
9/10 高山友照、摂津国本山寺知行安堵の旨を伝える
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色々思いついたのですが、今はキーワードだけ上げておきます。
- 荒木村重は、天正5年9月に有岡城へも山王(日吉)神社を勧請している
- 山王神は、古代氏族の秦氏が崇拝していた
- 山王神は、開発、農業、治山、治水、開拓、酒造などに霊験灼かであること
- 荒木村重は、丹波国に起源を持つ事を意識していた可能性
- 荒木村重は、藤原系譜ではない
- 古曽部郷の重要性(伊勢寺、霊松寺、上宮天満宮は全てその内にある)
- 伊勢寺は、伊勢貞国(室町幕府政所執事)屋敷地を伊勢一党の菩提を弔うため寺地として寄進したと伝わる
- 古曽部日吉神社地の要害性の利用(軍事戦術上の布石)
- 芥川山と高槻城の間の要地
- 西国街道の監視(南側は縄手で湿地であり、西国街道の監視には最適)
- 楊谷寺 (柳谷観音)を経た西岡地域(長岡京方面)への直轄街道の確保
- 高山右近に対する目付け的な行動及び補完関係
以下、資料的に写真も載せておきます。
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古曽部日吉神社本殿 |
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日吉神社境内地から南側を望む |
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古曽部日吉神社本殿への階段 |
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古曽部日吉神社参道 |
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古曽部村中心地の町並み |
村重は、一五七三年五月二十七日付ルイス・フロイス書簡によれば、当時は茨木城主でした(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第3期第4巻、同朋舎、一九九八年、二一一頁)。位置関係を考えると、大変興味深いですね。貴重な情報を誠に有難うございます。
返信削除お久しぶりです。天正元年の項目は、随分と私の年表ノートにもメモが書き溜まっていますので、更新しないといけなくなっているところに、この出合いがありました。更新しないといけません。
返信削除その中で、最重要項目の池田衆と東寺領民の喧嘩です。『東寺執行日記』が、追々刊行されていますので、それも楽しみにしています。ここに池田衆として池田久左衛門尉とあるのですが、元亀3年などに現れる民部丞との照合が進められるのか否か、楽しみにしているところです。
フロイスの情報とも相対させて、詳しく分析したいと思っています。
この池田久左衛門がどちら側にいるのか、ちょっと確認しないといけません。フロイスの書簡は、人物の構成で勘違いのあるところもあって、当時の史料との照合が必要になってきますし、翻訳上の問題もやはり、多々あります。意訳しないで欲しいのですが、ここのところは、複数の史料で確認する事が大切ですね。