旧下三箇地域の下野付近 |
江戸時代に記された、大和川付け替え後の陸地化した地割り図の様子から、三箇村地を抽出する事で、島であった頃の推定がされています。また、そこを通る街道を歩き、実際の地面の高低差を観察する事もできました。
やはり、島の跡になっているところは、少し高くなっており、その事にまつわる様々なお話しもあって、興味深かったです。
三箇菅原神社 |
近世の三箇村は、上三箇と下三箇に分かれており、213軒の家に1,127人が暮らしていたようです。
また、中世時代に開基及び起源を持つ寺が5つ程あります。
真宗大谷派大長寺 |
・正覚寺 ※永正14年(1517)8月1日付の阿弥陀如来絵像所蔵
・大長寺 ※伝永正14年開基
・水月院 ※中世に遡るか
・本妙寺 ※伝文安2年(1445)京都本圀寺日助上人が伽藍創建
住道駅から飯盛山を望む |
水月院跡 |
・菅原神社は、産土神で土着の神様である
・曹洞宗系の寺院が隣接して存在したらしい事
・神社の周囲は更に地面が高くしてある
・菅原神社から北へ伸びる旧街道は「城の堤」と呼ばれていた事
しかしながら、今回「島」と推定されるであろう領域からすると、その城の位置の意味合いがわからず、不自然に思えてしまい、必然性がわからないのです。また、地面の高さから言えば、重要施設を作る割には、十分な高さとも言えない要素もあり、適切な場所かどうかも少し疑問があります。
いずれにしても、もう少し深野池や新開池の正確な淵取りがわかれば、島との関係性も明らかになる事でしょう。島と池との関係がはっきりすれば、今の推定地の必然性がわかったり、他の位置の可能性も出て来ると思います。
城ノ堤(三箇4〜6丁目にかけて) |
また、何か三箇城について情報があれば載せていきたいと思います。
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