2019年7月7日日曜日

前田利家、佐々成政などの武将も陣を取った摂津太田城と太田氏について考えてみる

摂津太田城については、不明な事が今も多いようです。発掘も殆ど行われずに破壊されてしまった事と、文献があまり無いところから進展が図れないようです。摂津池田氏もそうですが、散見される手がかりを集めて、そこから推量することから始めないとダメなのでしょうね。
 ネットでザッと調べてみましたが、詳しく調べられたところは、あまり無いようなので、みなさんの参考になればと思い、記事としてアップしてみます。非常に文字数が多くなりますが、現在茨木市太田やその周辺にお住まいの方々の他、太田にゆかりの方へ何らかのお役に立てばと思い、長文ですが敢えて詳しく載せておきたいと思います。

まず、『わがまち茨木(城郭編)』から該当項目を抜粋してみます。
※わがまち茨木(城郭編)P24

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(1)はじめに
茨木市には数多くの城があるらしいが、城らしい城は茨木城だけではなかろうか。太田城は砦といったほうがよいかも知れない。しかし茨木城よりも200年余りも以前の平安時代末期の城であった。今、太田城の面影は、石垣の一部だかしか残っていない。また長く続いたであろうと思われる記録も残っていない。ただ側面的な事象を取り上げて”まぼろしの太田城”を構築してみたいと思う。
(2)太田の家並
旧市街(2002年4月頃の撮影)
太田一・二丁目の旧住宅内を歩くと、道路は狭く、まっすぐに突き抜ける道ではなく、T字型(三叉路)になって折れ続いている。これは城下町の特徴を示している。一戸一戸を見ると、古風な門や門長屋・格子の玄関など時代劇映画のセットを思わせる佇まいである。
(3)太田城跡
太田には”太田地番図”という大図面がある。その中に”城の口” ”城の前”という小字があり、太田城があったように思われる。そこは太田の旧住宅の南端から約200メートル南方の地点である。城の口は広い平地にあるが、城の前はそれより低いところにあった。1960年頃までは付近一帯水田であり、よい米の生産地であった。今この城の前は町名変更で付近の土地を合わせて”城の前町”と改名している。
わがまち茨木(城郭編)より
上の二図を比べると、城の半分は東芝中央倉庫の敷地になっている。城の西側と南側の落差は7〜8メートルの急斜面であって、いわゆる舌状台地の突端を利用した城であったと推定している。大きさは東西・南北共に150メートル前後だっただろうか。その東端に高さ2メートルくらいの”城の山”があり、太田城跡のシンボルでもあった。その位置から考えると、物見櫓的な働きをしていたのではなかろうか。
 昭和35年、城跡の半分が東芝に買収され、中央倉庫にするため約2メートルばかり切り下げる土地造成を行った。その折、城の山の西方で青みがかった幅2〜3メートルの土が50メートルばかり続いて出てきたが、遺物は何も出なかった。昭和32年、城の口の西方(通称”段の森”とか”お宮の下”とかいっている)の、里道を拡張して農道にするため土を掘り返した折に、松の根が数本でてきたことから大きな森があったのではなかろうかと想像される。
○大阪府全志---「太田城址は南方にあり。太田太郎頼基の築きし所にして、同氏累世の居城たりしも、廃城の年月は詳らかならず。今は田圃となりて、城の崎、城の前などの字地を存せり。」とあるしかし、太田地番図には、城の崎の地名は見当たらない。
(4)太田野太郎丸の墓
城の山は東西数メートル、南北10メートル、高さ2メートルばかりの草地で、その南方で北面した自然石の墓石があった。表には”地蔵菩薩”、裏には”太田野太郎丸”と彫り込まれ、これを覆う常緑樹が数本植えられていた。毎年8月24日の地蔵盆には、提灯をかかげてお祭りしていた。
○大阪府全志---「其の墓は南方田圃の間にありて、高さ三尺許の自然石なり。」
○三島村誌---「太田太郎源頼基文治三丁未年摂津国川原条に於いて義経の為に討ち死に。其碑銘表面に地蔵菩薩・裏面に太田野太郎丸と記載あり。本村の南へ距ること三町にして、田間に屹立せり。」
ところが、この城の山も買収範域に入ったので、約50メートル北西の空き地に墓石を移すと共に、伊吹をを植えてこざっぱりとしたところとし、例年通りのお祭りをしていた。しかし、年と共に荒れ果ててきたので、太田共有財産管理会では、1978年(昭和53)に石垣を造り、頼基の行跡を石に刻んで立派な顕彰場所とした。
(5)太田城
城跡の面影の残る段丘(2002年4月頃の撮影)
太田野太郎丸とは、太田太郎頼基のことで、太田城を居城としていた。太田城は彼が築城したというが、記録が無いので細部の点が不明である。ただ城の東・南・西の所々に石垣が散見できる程度であったが、これも1961年(昭和36)の土地造成のため破壊された。しかし北西部の1箇所だけが残っている
 源平合戦では全て討って出て戦っているように、その当時は城を守るという考えは無く、太田城も台地の上につくった砦の域を脱しなかったと思われる。
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続いて、城郭を調べるには、バイブル的存在の『日本城郭大系12(大阪・兵庫)』より「太田城」の項目を抜粋します。ちなにに、城郭大系の該当項目も『わがまち茨木(城郭編)』を元に書かれています。
※日本城郭大系12(大阪・兵庫)P73

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太田城は安威川の東岸、西国街道に接した南側付近一帯に築かれていたと推定されるが、昭和35年、この地に東芝中央倉庫が建設された際に、旧地形は全く損なわれてしまい、今はただ「城の前」町という町名にその名を留めるのみとなってしまった。それでも、1960年(昭和35)以前の様子は、太田在住の歴史家加藤弥三一氏の著された『まぼろしの太田城』によって僅かながらうかがうことができる。
城跡の面影の残る段丘(2002年4月頃の撮影)
同書によれば、従前この地には「城の口」「城の前」という小字と、「城の山」という小丘陵が存在していた。「城の口」は、同書中の図をも加味していえば、舌状に張り出した台地の先端部付近の平地を指し、「城の山」はその先端のやや東寄りに位置する高さ2〜3メートルの微高地であった。その大きさは、東西数メートル × 南北十数メートルであったという。「城の前」はこの舌状台地の南側一帯で、落差は7〜8メートルもあったといい、良田であった。また、「城の口」は、その西方を「段の森」あるいは「お宮の下」とかいったが、1957年(昭和32)、俚道拡張工事の際に土を掘り返したところ、数本の松根がでてきたところから、大きな森となっていたのではないかといわれている。さらに、東芝中央倉庫の造成工事に際して、この地を約2メートル切り下げたところ、「城の山」の西方で青味(泥)がかった幅数メートルの土が、南北に50メートルばかり続いていた。当時の堀かと思われたが、遺物は何も出土しなかった、と記されている。
 いずれも正確な場所がわからないのは残念なことであるが、加藤氏の貴重な著述によって、太田城の概略を知る事ができるのは、ありがたいことである。
 さて、以上に要約した加藤氏の所説によれば、太田城は、その南面においては7〜8メートルの比高を有する舌状台地の突端に築かれた城郭であったと推定される。「城の山」も、おそらく太田城に関係する施設であったと思われ、その位置からすれば、物見櫓的機能が想定されよう。
安威川の様子(2002年4月頃の撮影)
ところで、この太田の地は、東方の芥川と西方の安威川とによって挟まれた丘陵が沖積平野へと移行する傾斜変換点付近に立地しており、古来、開けた土地であった。『新撰姓氏録 摂津国神別』には、前述の中臣藍連と同族である中臣太田連の名が見えている他、太田城の北東、継体陵古墳の西傍には式内太田神社も鎮座している。また、京都と中国地方とを結ぶ西国街道も太田を通っていて、交通上の要衝としての側面も忘れることはできない。
 したがって、『大阪府全志』は太田城を太田頼基(12世紀後半在世)の築城とするが、おそらくその初源はさらに遡るものと思われ、その形態も、居館を兼ねた館城であった可能性が大きい。また、『平家物語』第12巻に、西国街道を通って中国地方へ落ちのびる源義経の軍勢に対する太田頼基の言葉として、「我が門の前を通しながら矢一つ射かけであるべきか」とみえているが、城跡の南面がその更に南側より7〜8メートルも高く、自然の要害をなしていた感があることと思い合わせれば、太田城は北側の西国街道に面して大手を開いていたことも考えられる。
昔の伝太田頼基墓(今よりも前の形態)
さて、平安時代末期頃に太田城に在城したと伝えられる太田頼基は、『尊卑分脈』によれば、多田源氏の祖、満仲九世の孫で、太田太郎と号したとされる。この頼基の名が史上初めて現れるのは『平家物語』第4巻で、治承4年(1180)4月9日の夜、源頼政が以仁王から令旨を賜らんとして、王のため馳せ参ずるであろう源氏の名を数えあげていく件があるが、その中に、「多田の次郎朝実、手嶋の冠者髙頼、太田の太郎頼基」とみえている。
また、『吉記』の寿永2年(1183)7月24日の条には、多田の下知と称して、太田太郎頼基なるものが、西国から送られてくる平氏の糧米を奪ったり、乗船を破壊したりしたこともみえており、この頃、太田氏は多田源氏の一族として、その支配下に組み込まれて活動していたことがうかがわれる。その他、太田頼基の名は『吾妻鏡』『玉葉』『源平盛衰記』などに見えるが、その居城については、『玉葉』43巻、文治元年(1185)10月30日の条に、「摂州の武士太田太郎以下、城郭を構えて云々」とみえるのみで、詳細は不明である。そして、それから約300年を経た大永7年(1527)に、細川高国と同晴元との間で戦われた合戦の最中に、太田城は周辺の茨木城・安威城などと共に、晴元方の武将柳本弾正の手によって開城させられてしまったという記事(『足利季世記』)を最後に、史上から姿を消してしまう。
 なお、『信長公記』には、天正6年(1578)の荒木征伐の際、信長が「荒木の城へ差し向け、太田郷北の山に御砦の御普請申し付けられ候」とあるが、これは地形から見て全く別の城(砦)を指すものであろうと思われる。
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以上のように地形的には、太田村のあたりから段丘状になり、見通しも利く事から、軍事的な要地であったと思われます。
 『信長公記』の記述は、天正6年(1578)秋、荒木村重の織田信長政権離叛による武力闘争ですが、それより以前にも太田村は重要視されています。元亀2年(1571)秋の白井河原合戦の時です。『中川史料集』に太田郷の事が記述されています。先ずは、『信長公記』荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事の条をご紹介します。
※『改訂信長公記』(新人物往来社)P235

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◎次の日(11月10日)、滝川左近将監一益、明智惟任日向守光秀、丹羽惟住五郎左衛門尉長秀、蜂屋兵庫頭頼隆、氏家左京亮直通、伊賀(安藤)伊賀守守就、稲葉伊予守良通、島上郡芥川、島下郡糠塚、同太田村、猟師川辺(地名?)に陣取り、御敵城茨木の城へ差し向かい、太田の郷、北の山に御砦の御普請申し付けられ候。(中略)茨木へ差し向かい候付け城、太田郷砦御普請出来(しゅったい)申すについて、越前衆、不破、前田、佐々、原、金森、日根野、入れ置く。(中略)
◎11月18日、信長公、總持寺へ御出で、津田七兵衛信澄人数を以て、茨木の小口押さえ、総持寺寺中御要害、越前衆、不破河内守、前田又左右衞門尉利家、佐々内蔵佐成政、金森五郎八長近、日根野備中守弘就、日根野弥治弥次右衛門尉盛就、原彦次郎長頼などに仰せ付けられ、太田郷御砦引き払い、近々と取り詰めさせ。(後略)
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日本城郭大系12(大阪・兵庫)より
『信長公記』によれば、前田利家、佐々成政といった武将が、太田城に陣を取っています。西国街道を押さえる意味もあって、太田は重要視されていたと思われます。この折、普請作業も行われていますので、元の形態は改変されているようです。また、文中の「太田の郷、北の山に御砦の御普請申し付けられ候。」とは、太田茶臼山古墳(継体天皇 三嶋藍野陵)と思われます。太田の開発前のお話しを聞きますと、そのあたりがひときわ地形が高く、「山」と認識される場所であったようです。
 太田村の北側、2キロメートル程のところに塚原や安威といった要所があり、そこに通る塚原街道や茨木街道を押さえるための砦も普請したかもしれません。双方の道の北へは、丹波国と繋がっています。ちなみに、『公記』は、摂津池田を攻める時も、五月山を「北の山」と記しています。
 一方、この時点で織田信長の有力武将であった、明智光秀の名も記述されており、太田村の重要性から、きっと明智光秀も太田城に入ったりしていたのではないでしょうか。丹波国方面と頻りに連絡を取り合っていたりします。

続いて、『中川史料集』太祖清秀公の元亀3年の項目の記述です。
※中川史料集P21

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一、9月1日、暁、郡山御立ちあり。近郷の領主御味方として馳せ参る。人々には下村市之丞、熊田孫七、鳥養四郎大夫、山脇源大夫、太田平八、粟生兵衛尉、戸伏一族各手勢を召し連れ御備えに加わる。然る所に茨木方の諸士太田郷の山々、西の尾筋に出張し、弓鉄砲を打ち掛け遮り留めんとす。熊田千助、一の御先備えにて、加勢の人々相加わり鉄砲を真っ先に進め、即時に追い払い手を分け、馳せ立て競い進む。熊田孫七、森田彦市郎は地蔵峠より、人数を進め西南に掛け打ち入る。茨木方にも水尾図書助、倉垣宮内少輔等激しく防ぎ戦うといえ共、御先手は名を得たる者どもなれば、水尾、倉垣暫時に敗軍して討死す。(後略)
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この詳しい分析は、当ブログの記事「白井河原合戦」をご参照いただければと思いますが、やはり太田村は要衝である事が、こういった記事により判明します。
 この白井河原合戦当時、元亀2年(1571)8月28日に合戦が行われ、高槻の地域領主(摂津守護)和田惟政が、高槻を中心としつつ太田村あたりも支配していたようです。その時の太田城主が、太田氏であったかどうかは不明ですが、『中川史料集』では、「太田平八」なる武士が登場しています。やはり、太田一族は脈々と続いていたのです。
 地形もですが、村に西国街道を通しており、また、川も隣接しています。更に、土地も肥沃で、米を初めとした産物に恵まれているなど、非常に重要な土地であったようです。

続けて、この太田平八について、『豊後岡藩(中川家)諸士系譜二』にその手がかりが記されています。
※摂津市史(史料編1)P532

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 ◎第18巻
此の巻に者元亀三年九月朔日茨木城御討入之刻、大祖の旗下に属する輩記之。
太田元左衛門
其の祖太田平八、代々摂州太田の郷を領す。後家督衰微して水の尾村(現茨木市)に家居す。元亀三年九月茨木御討入の時来て、太祖の旗下に属す。
◎第19巻
此の巻に者元亀三年九月茨木城御討入之後、摂州の諸士、大祖の旗下に属する輩記之。
太田忠右衛門
其の祖太田志摩守、代々摂州太田郷に有りて、室町公方の御家人たり、元亀三年九月、清秀公茨木御討入之刻来て旗下に属す。
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近世の中川家の文書に、家臣としての太田氏の名が見られます。ここに「太田平八」の名が見え、本流でありながら太田郷から出た家系としての太田氏を記しています。また、別の太田氏も記されており、こちらは、後に本流となった太田氏一派らしく、「志摩守」を名乗っているようです。
 どこでもあるのですが、太田氏も同族同士の内訌が起き、太田を出た一派があったり、取り込んだりした一派があって、本流が入れ替わったりした時期があったのではないかと思います。

さて、その太田村と同村を内包する太田保について、『大阪府の地名』から抜粋してみます。先ずは、太田村の項目です。
※大阪府の地名1(平凡社刊)P185

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◎太田村(茨木市太田1-3丁目、太田東芝町、東太田1-4丁目、花園1-2丁目、城の前町、高田町、西太田町、十日市町、三島丘1-2丁目)
太田神社(2019年6月撮影)
耳原(みのはら)村の東、島下郡の中央東端にあり、東は島上郡土室(はむろ)村。村の西を安威川が流れ、中央部を西国街道が横断。古くは「大田」と表記。「新撰姓氏録」(摂津国神別)に、天児屋根命十三世の孫の御身宿禰の末裔とある中臣大田連本貫の地といわれ、継体天皇三島藍野陵という茶臼山古墳、延喜式内社に比定される太田神社、飛鳥時代の太田廃寺跡がある。「播磨国風土記」揖保郡大田里の項に「摂津国三島賀美郡大田村」がみえ、三島賀美郡にあたる島上郡には大田の村名がなく、当村との関係も考えられる。
 中世には造酒司領大田保が設けられた。また幕府御家人で摂津源氏の流れをくむという太田太郎頼基(「平家物語」巻一二判官都落ち)の居城があったと伝え、城の崎・城の前などの関係小字が残る(大阪府全志)。南北朝期には西国街道の宿所であったとみられ、応安4年(1371)有馬温泉(神戸市北区)へ出かけた京都八坂神社社家顕詮は、下向途中の9月20日、大田宿北側の「的屋」で一泊している(八坂神社記録)。
 戦国期には車屋という旅宿もあった(「大乗院寺社雑事記」文明19年3月14日条)。総持寺散在所領取帳写(常称寺文書)文安2年(1444)正月17日請取分に、大田村の「高津か」「馬田」「め極のつ」の総持寺領のことがみえ、高津か(髙塚)は茶臼山古墳をさすとみられる。
 元和初年の摂津一国高御改帳によると大田村1,015石余は丹波篠山藩松平康重領。以後篠山藩の支配が続き、延享3年(1746)三卿の田安領となって幕末に至る。江戸時代中期以降の戸口は65戸・300人前後(太田区有文書)。特産物に寒天があった。寛政10年(1798)安威村をはじめとする島下・島上29ヵ村が、太田村5名、上音羽村・道祖本(さいのもと)村各1名の寒天業者を相手に製造差留訴訟を行った。差留の理由は製造工程で原料の天草を安威川・茨木川に晒すため、その灰汁や塩分が用水を通して田地に流れ込み作付けが悪くなること、寒天製造は多くの労働力が必要とし、また農業日雇よりも軽労働なので、日雇稼が寒天製造に集まり、農業経営に差支えること、製造業者の中には田地を売払って専行化した者もおり、農地の余剰があること、天草を煮詰めるのに大量の薪・炭を必要とするため、薪・炭が高騰、それを理由に野道具鍛冶屋が農具の値を引き上げたこと、薪・炭の消費や京都の大火などで郡北の山林が乱伐され、保水がきわめて悪くなったことなどであった(水尾区有文書)。寒天製造は17世紀中頃、山城伏見から北摂地方へ移され、すでに元禄初年には天満市(現北区)の重要乾物となっていた。最盛期は明和〜寛政期(1764〜1801)で、寛政10年には当村を中心とした一里四方の地に、60〜70の釜が設けられていたようである(同文書)。文化10年(1813)には寒天株仲間も結成され、大坂三町人の一である尼崎家がその元締となった(石田家文書)。寒天のほか独活(うど)も当地の特産物で、天保年間(1830〜44)当村の与左衛門により品種改良がなされ、以後太田村では全村的に栽培、「与左衛門うど」とよばれて高く評価され、現在まで引き継がれている。
雲見坂(2002年4月頃の撮影)
茶臼山古墳西隣の太田神社は速素戔鳴命・天照皇大神・豊受大神を祀り、「延喜式」神名帳島下郡の「太田神社」に比定される。「延喜式」九条家本・金剛寺本は「大田神社」と表記。中臣大田連と関連の深い神社とみられている。俗に大神宮ともいう。神社には他に八坂神社・女九神社があり、女九神社は継体天皇の九人の妃を祀るという。寺院には浄土真宗本願寺派の安楽寺・西福寺・称念寺がある。なお西国街道に面して舟形光背の線刻如来石造があり、鎌倉時代のものといわれている。西国街道を横切る雲見坂は、太田頼基が雲気をみて戦の勝敗を占ったところと伝える。
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続いて、太田保についてご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社刊)P186

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◎太田保
茨木市東部、安威川流域にあった造酒司領。島下郡に属し、近世の太田村を中心として一部に耳原村を含んだ(勝尾寺文書)。「山槐記」応保元年(1161)12月26日条に「造酒司申、摂津国大田保為奈佐原■■妨事」とあるのが早く、東接する新熊野神社(現京都市東山区)領島上郡奈佐原庄より押妨を受け国司に訴えたが、その沙汰がない間に再度の押妨にみまわれている。造酒司領大田保は、諸寮司に割当てた官田の一つで、宮中での諸行事などに供される酒や酢の原料となる米を負担していた。成立は不明であるが、他の諸寮司田の成立からみて9世紀末頃と考えられ、また造酒司領の保が置かれたのは、令制下に摂津国に25戸設けられた酒戸(令義解)のいくつかが当地にあったことによるのではないかと推定される。大田保は造酒司領として鎌倉期まで続いていた。「平戸記」仁治元年(1240)閏10月17日条に引く嘉禄2年(1226)11月3日の左弁官下文に、造酒司への諸国納物のなかの摂津国米149石2斗のうち「於72石者、以大田保便補之、不足77石3斗」とみえ、摂津国からの納米は所済されず、当保からの便補によってまかわなわれている。この下文は同記同月日条所引の仁治元年閏10月3日の造酒司解に副進されたもので、その解文には「大和河内和泉摂津等、如形雖有便補之地、更不及半分之所済、於其外八ヶ国者、惣以忘進済之思」とあり、諸国からの納米が難渋するなかで、摂津国では大田保が貴重な便補地であったことを伝えている。
 室町期には足利将軍家の管轄に入ったらしく、「満済准后日記」永享4年(1432)2月22日条に「一条家門へ自将軍所領二ヶ所被進之云々」、康正2年造内裏段銭並国役引付に「弐貫五百文(中略)日野前大納言御家領(摂津国大田保段銭)」とみえる。これよりさき、永享3年11月15日の室町幕府奉行人連署奉書(御前落居記録)に「大田七郎頼忠与日野中納言家雑掌相論摂津国大田保内所職田畠(畠田五郎左衛門入道浄忠跡)事」とあり、南西方畑田に本拠があったと考えられる畠田浄忠の欠所地をめぐって、在地土豪の大田頼忠と日野家雑掌との間で紛争があった。以上のことから大田保のほとんどは足利将軍家より日野家に与えられ、公文職は裏松中納言(義資か)家に与えられていたが、永享4年将軍義教は改めて公文職を一条家に与えたことがわかる。当保の所職田畑は、本来足利将軍家領で、取巻く貴族らに随分得分として分与されていたと考えられる。なお、一条兼良の「桃華蘂葉」には「摂津国大田保公文職並売得田畠、普光院時(足利義教)、同時載一紙所宛行也、依有要用売与池田筑後守了、(此中少分為堀川判官給恩除之)」とみえ、その後、一条家は公文職と売得田を摂津国人池田氏に売却している。おそらく在地土豪太田氏や池田氏の進出によりその支配が維持できなくなったものと思われる。
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これらの記述(事実)が示すように、地味、地勢が豊かである故に、権威までも吸着した歴史があります。時代による差異はありますが、江戸時代の基準で1,015石の採れ高は、非常に大きく、表高でこの規模ですから、やはり非常に豊かな土地であった事は間違いありません。
 戦国時代もいよいよ深まると、成長した地域勢力が、この地を求めて競うようになります。それが太田氏であり、同国人である池田氏であった訳です。池田氏は摂津国内でも、飛び抜けて優勢な勢力であり、本拠の豊嶋郡を出て島下郡まで勢力を伸ばす程に旺盛でした。

1570年(元亀元)創建の清浄山安楽寺
さて、これ程の素養を持つ太田村ですので、この豊かさを持つ土地であるからこそ、それを守るための策が無いはずがありません。当然、城があり、中心になる太田氏などの勢力があったはずです。それらの手がかりがどこにあるのか、今はわかりませんが、今後、明らかになることを楽しみにしています。

さて、この太田城に興味を持ち始めたキッカケであった安楽寺様には、色々とお世話になりました。今も親しくさせていただき、取材などで何か新しい事が判れば、お知らせしたいと思います。


◎浄土真宗本願寺派 西本願寺 清浄山 安楽寺
〒567-0018 大阪府茨木市太田1丁目14番6号
https://www.ibaraki-anrakuji.com




2019年6月18日火曜日

中之坊文書に署名している播磨国人らしき藤田橘介重綱について

年欠の『中之坊文書』について、これまでにも何度か、本ブログにて紹介しているところですが、この文書は摂津池田家の歴史を見る上で、非常に重要な文書の一つです。しかし、そこに署名している人物の出自が不明なところがあって、まだまだ課題の多い史料でもあります。

そんな中、意図せず、ツイッターでRTされた記事からたどり、そのブログを眺めていますと、中之文書中の署名者の手がかりと思しき記事があり、同文書の時期や状況からして、その手がかりから得た要素を非常に有力視しています。ここで一旦、中之坊文書を以下にあげます。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180など

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湯山之儀、随分馳走可申候、聊不存疎意候、恐々謹言
年欠 六月廿四日

小河出羽守家綱、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守■清(誤読:卜清)、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、萱野助大夫宗清、池田勘介正次(誤読:正行)、宇保彦丞兼家

湯山 年寄中参
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さて、この文書の残存課題は以下です。

(1)年記がわからない
(2)人物の出自がわからない
(3)本文が短く、文書の意図がわからない
(4)池田衆(連署者)と宛所の関係がわからない

これらの内の(1)については、本ブログでも推定理由を述べて、元亀2年(1571)と、今のところ考えています。また、その時期の特定と同時に(3)+(4)も必然性の推定が出来、交通の要衝で、要地であった有馬の湯山年寄中からの協力同意に、池田衆が返報したものと考えています。
 この時期、三好三人衆勢力が再び五畿内地域で勢力を強め、将軍義昭・織田信長の幕府方本拠である、京都を圧迫する程になっていました。
 また、有馬郡に西接する播磨国(美嚢郡)三木城でも交戦があり、池田から西側の動きに確実な信頼を築いて、池田勢が敵に包囲された局面を打開するための反転攻勢を成功させようとしていた時期の音信と考えています。つまり、元亀2年の白井河原合戦直前の文書です。

◎参考:白井河原合戦についての研究 

『中之坊文書』は、私の研究にとって、そういう重要な文書なのですが、署名している20名の人物の出自が、全て把握できていないという、大変なジレンマがありました。これらの人物が判明すれば、その時の政治・軍事情勢解明の手がかりにもなるはずです。

今回、なんとなく出自の推定が立ったのは、藤田橘介重綱という人物です。志末与志さんのブログ『志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』 - 松山重治―境界の調停と軍事 -
という記事からで、それを読んでいて、「松山重治に従った勇士たち - 藤田忠正 -」の項目が非常に参考になりました。
 それによると、藤田氏は、播磨国美嚢郡の国人で、吉川荘に起源を持つ人物で、毘沙門城(現兵庫県三木市)主を務めた一族であったそうです。また、三好家中の松山重治被官であったようです。
 そういえば、私の研究ノートでの『播磨清水寺文書』では、藤田氏の名が度々見られ、このあたりに縁の国人であることは認知していたはずですが、気付いていませんでした。志末与志さんのおかげで、私の永年の疑問が晴れ、その日から少し、なんだか毎日嬉しいです。

さて、元亀2年という時期に藤田氏が、池田衆と共に名を連ねる理由ですが、池田と湯山とは有馬街道で繋がっており、政治・経済・軍事ともに非常に密接です。有馬道とは、京都 - 池田 - 湯山や、大坂 - 池田 - 湯山という流れがあり、当時の多くの人々が利用する主要道の一つで、往来も盛んでした。
 ちなみに藤田氏の家紋は、その名の通り「下がり藤」です。摂津池田氏と同じ本姓は、藤原氏で同族です。
 そしてまた、必要に迫られ、湯山と池田衆の双方にとって、何らかの約束をする時、地縁者や関係の深い既知の人物がそこに居れば、なお安心します。約束を違う確率が低くなり、実現が固くなるからです。

署名の中で、私の把握している人物を上げてみます。

【池田家臣】
池田清貧、池田(荒木)村重、池田正良、荒木卜清、神田景次、池田正慶、高野一盛(多分家臣)、池田正遠、池田正敦、藤井敦秀、瓦林加介、池田正行、宇保兼家
【不明な人物】
小河家綱、安井正房、行田賢忠、藤田重綱
【その他】 ※家臣では無いが、出自が推定できる人物。
萱野宗清(現箕面市萱野の住人)


萱野氏は、摂津守護であった高槻を本拠とした和田惟政の西進に圧迫され、自らの領知を保持するために、池田氏を頼った勢力であると思われます。
 これに同じような関係で、播磨国に出自を持つ藤田氏も行動していたのかもしれない、と思いつきました。加えて「小河」氏も不明だったのですが、読みは「おうご」で、そうすると播磨国人の「淡河」といった系譜が思い浮かびます。ただ、摂津国守護家一族の伊丹氏の縁者で「小河(おがわ)」という人物も見られますので、そこは何とも言えないところです。
 それにしても先にあげた「小河」氏は、中之坊文書では、一番初めに署名をしていますし、順番はあまり関係が無いとも言われるものの、一番初めや上位であることはやはり、何の意味も無いということは、考えられないのではないかと思います。小河出羽守家綱は、藤田重綱と同じ「綱」の字も持ちます。それも何か気になります。しかし、小河氏は池田家臣でもなく、この人物いについては、中之坊文書でのみ登場して、他では見られません。
 中之坊文書に見える人々は、播磨・有馬郡あたりの人物と池田衆が連絡を取り合い、互いの利益補助のために一時的に結束した足跡ではないかとも考えていますが、今のところは、確実な証拠はありません。

しかし、今回の藤田重綱の出自推定が立ったことで、そういった動きの可能性があったことも、推定ができるようになったかもしれません。続けてまた、調べていきたいと思います。


2019年6月5日水曜日

天正6年(1578)秋、摂津・丹波国境と明智光秀・荒木村重・池田勝正のこと

明治期の地図(+-+-+線が県境であり旧国境)
1576年(天正4)初頭、丹波国内の最大勢力であった波多野秀治の、織田信長政権離叛により明智光秀は、丹波国平定を目前にして、敗走します。この時、光秀は、現兵庫県三田(さんだ)市を通り、池田を経て、京都へ戻ったようです。
 この当時、摂津国内をほぼ掌握して、大名(守護)となっていたのは、荒木村重で、村重は、光秀の丹波平定戦を支援する役割りも担っていました。現在の三田市は当時、摂津国に属していましたが、播磨・丹波とも国境を接しており、要衝でした。多数の重要な街道を通し、いわば「ロータリー」のようになっていて、三田からはどこへでも進むことができました。
 江戸時代には、そういう立地から物資の集散地となり、特に米については、三田での値が、摂津国内の米価を決めたともいわれます。

さて、戦国時代、天正頃の三田へ話しを戻します。天正4年の光秀の、丹波国撤退から、その後は再入国の機会無く、時を待つことになりましたが、再びその機運が高まったのは、荒木村重が織田政権を離叛した1578年(天正6)でした。
 天正4年初頭以降、摂津国を領していた村重が、一族であった荒木重堅を三田へ入れ、領国統治を進めており、着実な成果を上げていました。光秀が丹波から撤退した同年2月、村重は、丹波・摂津の国境の村、「母子(もし)」に禁制を下し、素早く国境対応を行ったりしています。ここは、波多野氏の居城「八上」の後背地にあたり、通路でもある重要なところです。
 国境というのは、時の勢力により、実効支配が出たり、引っ込んだりしますので、境目自体は変わりませんが、実質的な状況変化があります。また、八上城の防衛を考えるなら「後背地」は確保しておかねば城が孤立し、脅かされ、物資補給もできません。

戦国時代、現在の三田市北部地域は、そういった重要な地域でした。

1578年(天正6)秋。荒木村重は、織田政権から離叛します。これは信長にとって、非常に深刻な事態となり、状況を悪化させないために、信長自らが出陣して、「初動全力」で鎮静にあたります。結果は歴史が示す通りですが、この頃の三田市北部の様子を少し詳しくご紹介します。

村重の離叛で、波多野氏勢力とは一体化します。この時両者(先に波多野氏は毛利方に)は、織田政権と敵対していた毛利輝元方となります。元々摂津の荒木氏は、丹波国が起源とみられますので、そういう接点も何らかの働きがあったかもしれません。
 さて、毛利方からすると、村重が味方に加わったことで、軍事的には一気に京都間際まで、友軍勢力が拡がり、将軍義昭再入洛が現実味を帯びるようになります。また、織田方へ頑強に抵抗していた、本願寺宗とも地続きの協力関係となります。
 一方の織田方にとっては、天下を平定するための終盤の安定感さえも出始めていた頃ですから、村重の政権離叛は、大きな危機を迎えたわけです。
 信長は、丹波国内とその周辺の事情をよく知る光秀を、再び同方面へ入れ、優先して敵勢力の分断を行いました。今度は光秀がそれらを首尾良く進め、村重勢力の弱体化に貢献します。村重方は、三田、花隈、有岡、尼崎などに追い籠められて、点の勢力維持となってしまいます。

小柿周辺の城館配置(三田市史より)
さて、この頃、村重のかつての主君であった池田勝正も三田市北部に入って活動していたようです。時期としては天正6年(天正5年も余地はある)に入ってからかもしれません。勝正は、1570年(元亀元)6月の家中内訌以来、将軍義昭方として行動していたようです。中央政権の権力が複雑に作用して、勢力が離合集散していましたので、勝正の行動の詳しくはまた後日としますが、備後国鞆に居所を構え、鞆幕府ともいわれる権力体を保持しており、それに従って勝正は、行動していたようです。鞆に近い場所に居た可能性もあり、言い伝えや遺物があります。
 摂津池田家に関する系図に、勝正は「天正6年歿」とあります。また、その他いくつかの史料や遺物があります。そして、勝正の墓と伝わる五輪塔が、三田市北部の小柿という地域にあります。
先に説明したように、この地域は、戦国時代当時は非常に重要な地域です。ここに勝正が入っていたならば、しかも墓があるなら、「戦死」ではないでしょうか。勝正の行動は、一貫性が見られるため、多分、将軍義昭方勢力として、この小柿地域に入り、同じ友軍勢力であった波多野氏と呼応して行動していたのではないかと思います。

伝館跡の石垣(2001年頃撮影)
地元の方に話しを聞いたことがあります。それによると、勝正の縁故地は、この地域に2箇所あり、(1)は、墓のあるところ。ここは、道の分岐を押さえるような立地です。かつて、墓のあるところの直ぐ上に寺があったとのこと。墓はその寺にあったが、廃寺となったために、現在地に移したとのこと。
 (2)は、(1)からすると、対角線上の北東側、小柿三舟会館のある方面にも勝正の墓(三右衛門墓とも)伝わる五輪塔があり、この周辺に勝正に従って移ってきた武士の方々が定着したとのことです。(2)の場所には、その館跡と言われる石垣も残っています。その侍(伝勝正らしき)が没してからは、同地に慈徳寺が建てられ、更に後、山王神社となり、1910年、同村内の天満神社と合祀するため移転しました。山王神社は勝正公が崇拝していたとも伝わっています。
 ちなみに、館跡があったとされる場所は、後背は山ですし、通路もあり出入りは可能です。また川も流れ出ていて水の心配もありません。館を構えるには適した地形です。
侍が没してから山王神社となった経緯はどんな感じなんでしょうね。気になります。また、この慈徳寺というのは、勝正の墓と関係するのでしょうかね
摂津池田氏の菩提寺である大広寺には、勝正が死亡したことは把握されていたようです。法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か。詳しくは、以下の参考ページをご覧下さい

(1)の伝池田勝正墓方面を望む(右の山裾あたり)
これら2箇所の縁故地は、互いに見通しが利き、重要な通路上にあります。そしてまた、それらの真ん中に、高平田中城館(城館配置図中の(11))という推定地もあって、この三点で、通路は完全に管理できる相関にあります。小柿のこの地域からは、丹波(篠山・亀岡)方面と摂津能勢方面へ繋がる道があり、非常に重要な地でした。
他方、1578年(天正6)では、特にこの地域は最前線であり、非常に緊迫した状態の地域でした。そういう地域で、明智光秀、池田勝正、荒木村重(重堅)は、再び接点を持ち、刃を交えたのです。彼らは、かつて、非常に関係の深い仲であったにも関わらず...。
※村重は、天正6年秋には動けずに、三田方面へは入れなかったかもしれませんが、何らかの情報を得ていたに留まるかもしれません。

◎参考:池田氏関係の図録「伝池田勝正墓塔」 (私の過去の記事より)
◎参考:池田筑後守勝正の法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か 

【ごあんない】
兵庫県三田市の状況をまとめた「荒木村重と摂津国有馬郡三田について」という研究発表のレジュメや荒木村重の領国支配についての論文(会報への原稿)「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」がありますので、ご希望される方には、実費にてお分けします。このブログの右帯下部にある「連絡フォーム」からお問い合わせ下さい。


※以下の360°写真は、伝池田勝正墓の今の様子(2019年撮影)です。



2019年5月6日月曜日

新しい世、令和の新元号を戴くこと慶賀の至り。今年は皇紀2679年。

5月1日より、令和の新元号となり、各地で祝賀行事も行われたり、そういったムードになていますね。ただ、年々国家と国民の距離が開くような気もしているのですが、皇居の一般参賀は、たくさんの人が訪れているようですね。

若干、違うかもしれませんが、皇紀2600年を祝う国家行事(祝典)が、昭和15年(1940)にあり、その時の映像がありますので、ご紹介しておきます。外国からの招待参賀あって、その様子も収められています。
※皇紀:天皇の歴史で、西暦と相対する日本独自の紀年法。

凄い時代だったと思います。この人々の時代に、戦争は負けましたが、同じ人々が国家の再建を果たし、今があります。その時に必要な世の中の形ができます。この時は、近代の戦国時代とも言うべく、世界情勢でした。技術、経済力に優れる欧米列強から国を守るため、ある程度の軍国化は自然なことであり、その当時は、それについて何も特別な考えはありませんでした。日本でも、その他の国でも。
 第一次世界大戦の結果、近代戦争に負けるということの悲惨さを目の当たりにして、日本は身構えたところがあるかもしれません。当時も今と同じ、グローバル化、急速な技術の発展と国防をどのように調和させるのか、難しい舵取りを迫られていたことでしょう。国内の意見も纏めにくい時代にもなっていました。

歴史とは、その通りになぞるものでは無く、学ぶものですね。儀式や行事とは違いますから。バカな前例主義はやめて、思考の停止に気づきかないといけませんね。歴史から摂理や真理、あるべき姿を学び、実践しなければならないと思いますね。何の為にそれをするか、ちゃんと考えて行動しないといけませんね。



2019年4月29日月曜日

藤井寺市の伝統工芸品「小山団扇(こやまうちわ)」は、甲斐武田家臣山本勘介がこの地に伝えた!

藤の花を見物に、大阪府藤井寺市の紫雲山葛井寺を訪ねました。とてもきれいで、良かったです。桜もいいですが、他の花もいいですね。最近は、あまり藤の花も街中で見かけないので、少し遠くに出かけないといけません。

葛井寺(ふじいでら)の藤の花
葛井寺(ふじいでら)境内


 お寺も七世紀中頃に興りを持つ古刹で、永い歴史を持つ真言宗のお寺です。近隣には、1300年以上の歴史を持つ辛国神社や古墳群があり、一時代を築いた地域でもあります。街道の曲がりくねり、風景もとても良かったです。
 間もなく、令和の世を迎えるにあたって、意識はしていなかったものの、時間や時代の流れを少し感じることができたのは、とても良かったと思います。

 藤井寺市は、人口6万人ほどの都市ですが、有名なのはやはり、藤井寺球場のお陰でしょうね。今はもう取り壊されて、学校や住宅になっていますが、それもまた、一時代の文化を担った事物です。
 藤井寺市は、生まれて初めて訪ねたところですが、独特の雰囲気があって、それはそれで、文化の多様性や奥深さを感じました。「藤井寺まちかど情報館 ゆめぷらざ」で、色々教えていただきました。 とても勉強になりました。

そこで知ったのですが、藤井寺市の伝統工芸品として、小山団扇(こやまうちわ)というものがあるそうです。この工芸は何と、甲斐武田家臣の山本勘助がこの地に伝えたのだそうです。戦国時代の永禄年間、三好氏の動静を探るため、この地に潜伏。名を変え、隠れ蓑としての生業として団扇の製造販売をしたことから、藤井寺市域に定着したのだそうです。初耳でした。知りませんでした。その後、発展を遂げ、ブランド化すると、江戸幕府将軍や、皇室にも献上されるようになったのだそうです。
  詳しくは、以下のブログをご覧下さい。パンフレットの案内をテキスト化されています。また、観光協会のサイトも上げておきます。

ブログ:なにかいいこと「小山団扇」
https://blogs.yahoo.co.jp/tumumasi2001/38291104.html
藤井寺市観光協会公式サイト
http://www.fujiidera-kanko.info/index.html

また、貰ったパンフレットのイメージも以下に上げておきます。

小山団扇パンフの表面

小山団扇パンフの裏面

この日は、春らしい気候で、とても良い日帰り旅でした。大阪もまだまだ知らない事が多いですし、いいところがいっぱいあります。地域それぞれに魅力がありますね。


2019年4月28日日曜日

人間は二度死ぬ?平成から令和になる今、考えること。

平成の役割りを終え、新しい元号になろうとするその時の言葉として、これが相応しいかどうかはわかりませんが、ひとつの世が変わるその時を目前に控え、時間や人間などといった、半ば宗教的な思いを馳せることも、私の中に時々おきます。

とある漁港(泉佐野市)で見かけた光景も、何だかそういう思いに結びついてしまいます。水槽に、一疋だけの魚が、止まること無く泳ぎ続けていました。


ぐるぐる、ぐるぐる、泳ぎ続けています。たった一疋だけです。

見方を変えれば、これは元気な魚かもしれません。はたまた、この後、大量の仲間がこの水槽に入ってくるのかもしれません。兎に角これは、魚屋さんの水槽だという事は、一瞬忘れて下さいね。

しかし、この光景、私なりに感じたことがあります。一人だけでは生きて行けないし、未来も無い。その光景に見えたのです。

今は元気。だけど、その後です。

動物であれ、植物であれ、継ぐことの不必要は無いはずです。そう言う意味では、お墓は、とっても重要ですし、拠としての意味があったのです。
 しかし、現代日本社会のように、どことも繋がらない状態を続けていては、この水槽の魚のようになってしまうような気がします。今現在も繋がらない。未来を考えて繋がろうともしない。考えようともしない。限度も考えない。これは新しい概念の「自死」だとも思います。大きく見れば、文字通り、社会の自滅でしょうか。

人間は、肉体的に、物理的に滅びます。それが葬式で、それが一度目です。しかし、その後、その人が生きたことと、その行動。更には、それ以前の先祖の繫がりを、目に見えるカタチにしているのがお墓で、今を生きている自分と繫がりを持てる唯一の方策です。それが、現世の苦しみを緩和するための、様々な困難を乗り越える、一つのアイテムとなっているのです。
 しかし、今は、その墓さえも経済的困窮と文化的変質から、物体として残すことを望みません。人の、二度目の死を忌避する方策だったにもかかわらず...。

その「二度目の死」とは何かというと、その人に一番近い人々の心から、その人自体が消えてしまうと言うとです。その連続となれば、今生きているその人は、どこから来たのか、解らなくなるということです。

過去の日本の人々は、それを一番に恐れました。それが無くなる事は、過去も未来も現在も、全てを失うことになったからです。
 それを失えば、物体として人間(の身体)が、そこにあるだけです。それは、モノと同じ事です。戸籍などというものは、記録、データ上のものであって、物体としての証し、がなければ、この世での証明のしようがありません。それは、今も昔も同じ事です。そんな映画もありましたね。

自他の中で生きるから、「己(おのれ)」があります。自分は、人の心の中にあるのです。だから、人の心から自分が消えてしまえば、それが末期(まつご)になるわけです。それが、人間が二度死ぬという意味だと、私は理解しています。

そう言う意味では、新しい元号の「令和」は、昭和が消える、もう一つの新時代を迎えることになるのでしょうね。


2019年2月26日火曜日

新撰組屯所となった京都壬生の八木家は、但馬国守護代八木氏の系譜!?

先日、梅を見に京都へ行ってきました。その日、壬生の新撰組関連の旧蹟も巡ってきました。昔、幕末に興味を持っていた頃、新撰組の史跡を巡っていましたが、京都の壬生寺周辺には行っていませんでした。大阪の生まれ育ちですので、隣県の京都はスグに行けますが、今回初めての訪問となりました。

新撰組について、色々な本を読んていましたが、司馬遼太郎の小説も読んでいました。「燃えよ剣」は、映画やテレビドラマにもなって、司馬氏の代表作でもありますね。

その舞台ともなった八木邸は、新撰組隊士が寝起きしていた頃と同じ場所、同じ造りの状態です。永年、実際に人も住んでいましたので、部分的に改修などはされていますが、ほぼ当時のままです。刀傷や文机も今に伝わっていて、実際にそれらを見ると大変感慨深かったです。




さて、この八木家なのですが、越前朝倉家の縁がある名家と伝わり、この壬生のあたりの取り仕切り役の家柄だったそうです。八木家の家紋も三盛木瓜紋です。

しかし、私が思いますに、室町末期の戦国時代、朝倉家の有力家臣に八木姓はありませんので、それは但馬守護家の山名氏の重臣八木氏の流れを持つのではないかと思いました。
 元亀元年(1570)の朝倉攻めの頃、朝倉氏は若狭国や丹後国、その西の山名氏とも関係を持っていたのではないかと調べていたのですが、この地域の資料に、それを裏付ける有力な証拠が無く、ちょっと調べの手が止まっていたのですが、この八木邸を訪問し思わぬ接点の可能性も見つかりました。但馬山名氏には、四人の有力者「近世の家老ともいうべく守護代(しゅごだい)」が居り、室町時代末期には、守護を凌ぐほどの勢いを持っていました。
 一方で、但馬・因幡・伯耆国を治めた山名氏は、没落しつつあったとはいえ、名家でしたので、豊臣秀吉のお伽衆となり、家は存続します。ですので、この流れで山名氏の有力家臣であった八木氏も京都に出てきたのではないかとも、今は想像しています。
 しかし、実は越前国守護となった朝倉氏の出莊が、実は「但馬国朝倉」であり、その時代からの繫がりである可能性もあります。また、朝倉氏は、平安時代から大武士団を形成し栄えていた日下部氏の流れをくむ氏族のひとつで、実は八木氏もこれに同じ系譜を持っています。
 確証はいまのところ無いのですが、何れにしても、何の縁も無いのであれば、当時であっても公言することは難しい筈です。単純に、知っている人の数が多いからです。ですので、何らかの接点がある事は、間違い無いと思います。

「京都鶴屋 鶴寿庵」の栞には、
当店は、御菓子司”京都鶴屋”と名乗ります。当家「八木家」は天正年間中(室町時代)に、京・洛西壬生村に居を構え当代まで十五代。幕末には新撰組発祥の地、壬生屯所でありました。  (後略)
とあります。

天正年間は20年間ありました。朝倉家が滅びたのは、天正元年です。本能寺の変で織田信長が斃れたのが天正10年。そのほとぼりが醒めた頃に八木家は京都に出てこられたのでしょう。

【参考】播磨屋 但馬八木氏


2019年1月13日日曜日

文化とは何か - 摂津池田家滅亡から考える(文化形成・権威と権力) -

近年、世界中で移民や国のあり方に、大きな課題が投げかけられています。地域社会共通の認識といえる「文化」や国境の意味について、改めて考えるようになっています。
 技術の発展で、人やモノの移動、通信・金融の交換が容易になり、いわゆるグローバル化が進んだ結果です。

池田勝正が生きた室町時代末期、日本、近畿地域でもそれは起きていました。摂津池田家はその、いわばグローバル化の中で成長し、反映を築いたのですが、そのグローバル化によって、人の心を繋ぐ基本単位である「家」や組織の文化が維持できなくなり、瓦解したとも言えます。

「文化」とは、日常的によく耳にしますが、それは一体何でしょう?

人間の意識には、この文化が非常に重要であるはずですが、それについて、日頃あまり考えを深める事は無いように思います。島国であり、多分、ほぼ単一民族国家であるからでもあります。

この文化について、滅びてしまった摂津池田家を通して、考えてみたいと思います。先人は今、私たちが苦しんでいる状況を既に経験しています。近年は、歴史学に「相似性」概念を持ち込む人もあり、私はそれに影響を受けています。
 同じ日本の中で、前例としての事実が歴史であり、経緯です。要因が同じである場合が多いです。一方で、世界に目を向けた時、日本の社会経験が、世界よりも先である場合もあります。例えば、宗教と政治の関わり方とか、国民皆保険とか、教育、医療などです。

ちょっと脱線しました。話しを元に戻します。

本題の前に、「文化」についての定義をはっきりさせておかなければなりません。
 「文化」を辞書で引いてみると、
  1. 文明が進んで、生活が便利になる事。
  2. 真理を求め、常に進歩・向上をはかる、人間の精神的活動(によって作り出されたもの)。
と書かれています。 ※新明解国語辞典第三版/1959.9..20、三省堂発行
 更に、「文明」が分からず、続いて辞書を引いてみると、
  • 発明・発見の積み重ねにより、生活上の便宜が増す事。
と書かれていました。
 そのわからない部分を足して文化を説明するための文章を勝手に再構成すると、
  • 発明・発見の積み重ねにより、生活上の便宜が増し、生活が便利になる事
という事になり、現代の状況(生活)を理解する事ができます。

しかし、文化の項目の(2)について考えると、疑問が残ります。ある意味そうだと思いますが、(2)の意味を「文化」という言葉から、日常的にその性質を感じているでしょうか?

さて、それらの説明で、私の目の前にある池田固有の歴史的遺物(文化財、埋蔵文化財も含む)を理解ができるかどうか、また、説明がつくかどうか。大変な疑問を感じていました。
 (1)の意味で考えれば、何の格付けもされていない歴史的遺物というのは、古いだけのやっかいものでしかありません。これはごく一般的な認識です。しかし私は、もう一つの意味である(2)の事について、長い間考えていました。

私は「文化」というのは、言い換えれば「共有」ではないかと感じています。私の中では「文化」を「共有」と言い換えることによって、(1)と(2)のどちらも説明がつくような気がしています。
  進化の過程で、社会が共有してきたもの。それがそこに「文化財」として残っているという事は、先人を含めた私達が、歩んできた軌跡を再認識する事であり、また今後の応用(社会や地域)の元であると、説明ができると思います。
 そう意味で、曖昧な「文化(財)」という言葉を、あえて「歴史的文化財」「芸術的文化財」ときちんと区別して考える事で、しっかりとした意識の基礎を作る事ができるのではないかと考えています。
 
さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ本題です。

冒頭でも触れましたが、文化とは、私達が平和で穏やかに生活するにおいて、非常に大切な基礎になりますが、その重要性に気付く事はあまりありません。文化とは「共有」であり、生きる上で全ての根幹を成す「社会風土」でもあります。
 日本は長い間、近代社会となってもなお、つい最近まで「家制度」がその中心となり、個人が、一族や血縁を元に結束し、互いを守っていました。
 戦国時代もそうです。その名の通り、戦国の世の生活ですので、生死にかかわる保護を「家制度」を中心に求めていました。それについて、摂津池田氏を取り上げて、文化を考えてみたいと思います。もちろん、今は今の文化がある事は良く理解した上で進めます。

摂津池田氏は本姓は藤原で、地名を名乗るようになって、「池田」と称していました。応仁の乱の頃、「充正(みつまさ)」の代で、大いに発展し、中興と考えられています。
 池田氏は、その後200年程に渡り成長を続けましたが、勝正の代が独自権力体としては最後の当主です。
 私は勝正を中心に前後四代程を見ていますが、特に池田氏が飛躍的に発展したのは、いち早く官僚制を採り入れたことによるものです。
 意思決定と実行を別々にしたため、物事の進行が非常に速やかになって、周辺の同規模の国人衆から抜きん出た成長を遂げます。また、その成長過程で人材不足ともなり、必ずしも血縁を伴わない有能な人材を採用するようになります。その中に、荒木家や中川家などがあります。
 また、その本拠地の立地も5本の国家的主要道を通し、他にも様々な街道が扇の要のように領内で交差していたため、人や物が集まりやすい環境にありました。

そういった環境もあって、摂津国内では最大級の国人に成長し、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの日記には「要すれば軍備の調った一万の軍隊を用意できる。」とも紹介される程に有名で、大きな勢力でした。

しかし、そんな池田氏も滅んでしまいます。それは何であったか。

急成長したために「家中文化」が崩壊したためだと考えています。
 これはもう少し詳しく説明しないといけませんが、価値を「共有」するための統治の仕組み(装置)を作り出せず、感覚・感情で物事を判断したためだと考えています。必要な組織化、権力の整理を行えず、時代の要請(意思決定)に応えることができずに、対立を経て、家が滅んでしましました。
 また、その過程での決定的な悪要素は、当初は、当主(惣領)の補佐役としての家老(老人(おとな):池田四人衆)が、代を経るにつれて、独自権力化し、当主の選定にあたって対立する程になってしまいます。いわば、二重権力状態でした。
 私は勝正という人物は、池田四人衆に擁立された惣領であり、権力はどちらかというと、四人衆側の意向が強く働く実情であったと考えています。傀儡とまでは言えないですが、勝正の代になると、当主を補佐する役目が変化していたと考えられます。
 最終的には、四人衆と勝正も対立してしまい、一時的に当主を置かない時代も出現します。それ程に四人衆の権力が強かったと言えます。
 しかし、それもうまく行かず、四人衆自体が分裂し、それを以て池田氏は滅びてしまいました。この時、四人衆の中に荒木村重が居り、分裂の原因は池田一族の血と、よそ者の区別が決定的になったものと考えられます。運命共同体ともいえる組織の、文化を共有する装置が無かったための悲劇であると考えています。

翻って、今の私たちも、文化というものが理解されず、作ろうとしなければ、このようにあらゆる場面で、相違・対立が起き、意思統一ができなくなります。
 家庭、地域、府県、国など、単位が色々ありますが、文化があるからこその、その善悪の基準ができ、その内側で理解し合ってまとまります。意思形成の共有ができ、平和で穏やかに暮らせ、経済活動もできるのです。

今、移民の問題が世界的に深刻化していますが、文化そのものを理解することをしてこなかったためだろうと思います。地域文化を保持する工夫を打ち出さず、思考の停止状態であり、今、近代社会の概念と価値観を永続させるための分岐点に立っていると、非常に関心を持っています。価値の共有ができず、社会がバラバラになった時、本当に弱い存在である個人はどう生きるでしょう?
 
その意味で、文化財を大切にしない行為は、心の現れだと考えています。今や自治体(行政)そのものが、率先して歴史的文化財を蔑ろにしている状況です。考えずに、ただ見ているだけです。自治体や行政の意味さえも、もう衰退しつつあります。就職先のひとつみたいなものです。統治力(ガバナンス)が、低下すればどうなるか。無法地帯となります。法律だけで全て統治はできないのです。それは文化による「善悪の判断」が、機能しているから社会が支えられているのです。
 個人的には、建国以来、また、太平洋戦争敗戦直後よりも深刻であると感じている程です。これから先は、これまでとは全く違います。

国家観の欠如が、これまでに無い、事件と事故を起こしています。これまでには考えられなかったことが頻発しています。文化はゆっくり壊れています。この先は、更に壊れるでしょう。

文化は簡単に壊れます。組織も簡単に壊れます。例えるなら、胴上げの時、それぞれが役割りを忘れて、手を引っ込めるだけです。一度壊れてしまえば、二度と再生できません。


摂津池田氏の組織変化や権力構造の変化については、詳しく知りたい方は、こちらの資料もご活用下さい。
※用紙サイズはA3ですので、DLいただき、データをコンビニのコピー機で出力しますと、とてもきれいに印刷できます。

【追伸】
先に述べた、国語辞典からの言葉で文化の意味を考えた時の(2)の項目について、その意味で「移民」を考えるなら、簡単に自分の国を棄て、国作りの根本である「民族自決」も理解できず、愛国心で以て国を支えるつもりも無く、自分の都合で住む場所を変える性質があるなら、地域「文化」とは無縁であり、共有することもできないでしょう。


【オススメ動画】
タムボムニックTV「今 江藤淳みたいな日本人が必要!」2019/05/06 に公開
ニックさんが、運営するユーチューブチャンネルです。タイトルにはありませんが、内容は、文化についてです。日本に住む外国人から見た日本の文化とその先行について、感想を述べてくれています。
 大変簡潔に述べられていて、大変参考になります。是非、ご覧下さい。


2019年1月5日土曜日

明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(はじめに)

2020年の大河ドラマは「明智光秀」が取り上げられますので、それに向けて、池田勝正・荒木村重との接点を取り上げた特集を組んでみたいと思います。

明智光秀は将軍となった足利義昭をその流浪時代から支えた人物で、将軍となった義昭からも信頼を得ていたようです。
 義昭が将軍となった永禄11年(1568)秋からは側近として活動していたようです。初期の頃は、あまり当時の史料もありません。また、同じ側近でも、細川藤孝は領知を桂川西岸の山城国内に与えられ、幕府勢力の武将としても活動しますが、光秀は将軍義昭政権初期の頃は、文官のような活動を主に行っていたようです。

しかし、光秀はもちろん武士ですので、いざとなれば戦いにも動員されますが、領知もまとまったものはなかったようですので、武士と言っても、将軍の親衛隊のような状況だったようです。

一方、摂津国最大級の国人であった池田衆の惣領池田筑後守勝正は、時の将軍(幕府)からも頼りにされる存在でしたが、当時の中央政治に家中政治も大きく影響を受け、不幸にも分裂の後、家制度の解体の憂き目に遭います。
 代わって、荒木村重が池田家中から頭角を顕し、摂津国の守護格に成長します。そのタイミングで明智光秀も新境地を開き、戦国武将として立身出世します。光秀は織田信長政権内での新興勢力として、村重とも関係を深めていきます。両者の相性も良かったのか、縁組みをして絆を強くします。
 しかし、何の因果か、両者は遅いか、早いかの違いだけで、結局は織田政権から離れ、家は滅んでしまいます。
 
詳しくは、別立ての記事をご覧いただくとして、今のところ解っている光秀・勝正・村重、三者の接点(エピソード)を以下にあげてみます。

<明智光秀と池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)>
◎京都本圀寺の戦い(永禄12年正月)
越前朝倉氏攻めと「金ケ崎の退き口」(元亀元年4月)
摂津・丹波国境と明智光秀・荒木村重・池田勝正のこと(天正6年秋)



2018年10月19日金曜日

【貴重な資料映像】日本陸軍 最前線の中隊本部の様子

ユーチューブを見ていて見つけました。中国大陸での実際の中隊本部の様子です。この映像の解説には、「中支那派遣軍第11軍。最前線の中隊本部の様子。生々しいドキュメンタリー。」と短くあります。

 刻々と変わる様子を把握しながら、必要な手立てを講じるために、控えている将校に次々と指示を与えています。また、現場から状況を伝えに来る伝令。それを聞き、地図を見、立体的に状況を把握していく中隊長。

出入口の外には、馬や犬、忙しく動く兵。大砲と機関銃の音は、四六時中聞こえています。また、小隊長なのか、担架で運ばれて来て、中隊長以下、将校がその様子を見に行きます。戦死したのかもしれません。

場面の最後は、本部を移動させます。後退では無く、戦況が好転したのか、前進させるようです。

戦国時代の本陣もこれに近い感じだったかもしれません。もっとも、大砲や機関銃を主体にした戦い方ではなかったので、高いとこから見下ろして、状況を把握していたのでしょう。鉄砲玉もそんなに遠くまで飛びませんので、もっとオープンな空間で指揮をしていたのかもしれません。
 しかし、伝令が来たり、出したり、という状況は同じで、そういう連絡や状況把握の仕方は、そんなに変わらないでしょう。

いずれにしても、実際の指揮所の様子が映像で残っていたのは、大変貴重だと思います。