大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。
これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。
※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。
今回は、第二十九回「摂津晴門の計略」2020.10.25放送分です。
◎概要 -----------
今回は、陰謀渦巻く、ドロドロとした組織と人間関係を取り上げていました。個人的な感覚では、何だか間延びした構成で、何が言いたいのか分からない感じでした。太夫や駒、東庵の露出が多く、肝心の光秀が脇役のようになって、人物像を描くための流れが澱んでしまっていますね。実際に、ネットでは、そういった所の批判が出ています。
さて、そういうヤッカミは脇に置き、いつものように劇中の要素を取り出して史実はどうであるか、池田家はどのような動きをしていたのかをご紹介します。
◎二条城の実態 -----------
劇中では、立派な重層天守がイメージ化されていましたね。また、格式に見合う調度品を寺社仏閣から徴発(半ば召し上げ)ていたような表現でしたが、これは概ね事実と異なるでしょう。実際は、多くの品が献上されていました。これらには、礼状と何らかの便宜が図られていました。献上する側は、これが目当てです。部分的にそのようになったものもあるかもしれません。播磨国龍野の赤松氏などは、娘を将軍の側へと送り出しています。
しかし、物品を強奪すれば泥棒と同じ行動になり、その幕府は信用されなくなります。当時も今も同じで、法治を重視(今ほど厳密では無い)しています。法と慣習に沿って取り決めを行います。
さて、二条城の実際は、40日の突貫工事でした。そのため、昼夜を問わない、多少の無理強いはありましたが、それは、これまでの幕府の権限と法による動員であって、奴隷労働ではありませんでした。賃金などの報酬は支払われます。また、義務としての使役もあり、それらを組み合わせて、折り合いをつけています。
一方で、物理的な要素はというと、40日でできる範囲は限度があります。ですので、実際は土木工事部分が主で、調度品などは、追々取り揃えられましたので、40日で大坂城のような城が出来たのではありません。堀や塀などの防御設備、将軍の居所と政務空間など、当面必要な要素を優先して拵えてあり、実際は簡素なものでした。1月27日に着工して、4月14日に落成し、将軍義昭がここに入ります。この期間で、本当に重層の建物ができたと思いますか?
一方、この御用普請も池田衆は動員されていたと考えられます。守護になった以上、将軍の公事(くじ:公的な事業)には参加しなければなりませんし、資金や労力の提供も義務化されていました。そして、将軍義昭が二条城に入った翌日の15日、京都妙覚寺にて池田衆など将軍義昭政権側(幕府)関係者、即ち池田氏などの守護が一同に集い、今後の事務の打ち合わせを行っています。
◎摂津晴門という人物 -----------
摂津晴門は室町幕府の官僚トップで、行政処理を代々任される家柄でもありました。鎌倉幕府の頃からそういった関係にあり、そのために公家などとも姻戚関係にあって、時を経るにつけ社会的地位と身分を高めていました。
しかし、永らく室町幕府の政務トップは伊勢氏で、摂津氏はあまり活躍の場がありませんでした。第十三代将軍義輝の時代、政変があって、摂津晴門を起用。その流れから、劇中の晴門は、将軍義昭の政所トップとして再登用され、引き継き政務にあたることとなりました。
しかし、実際には社会の激変に対応できず、任命権者の将軍義昭から数年後には義昭から罷免され、元の政所執政伊勢氏が返り咲きます。幕府政務の責任ある中心から永年離れていたこともあり、実力が不足していたのでしょう。
幕府とは訴訟事や財政、管理業務、軍事など、様々な機構を持ち、今の総務大臣(総理大臣といってもよい)と同じような職務内容でした。
いわゆる、戦国大名とは、これに類する統治能力を持ち、地域の安定のための機構を持ちますので、幕府並みの官僚機構を持っていました。違うのは、規模だけです。武士に限らず、寺社仏閣、商人に至るまで、組織化するためには、こういった事務処理能力が必須で、これが無ければ組織は維持できませんでした。一方で、組織規模の大小は、この官僚機構の大きさと体制を持つかによりました。
◎明智光秀のオウリョウ -----------
劇中で、明智光秀と摂津晴門の対立シーンがありました。光秀が「東寺八幡宮領」をオウリョウしていると訴えがあった事で、行き違い、陰謀があったと言い争う場面です。これは実際にあったことですが、このオウリョウとは、現代の「横領」とは意味合いが違います。文字も違い「押領」と書きます。
現代のオウリョウとは、人のものを盗る、明かな犯罪行為として、法的な規定もあります。しかし、この時代の「押領」とは、権利の衝突の意味合いがあり、よく見ると、経緯からして微妙な立ち位置による、相違的な要素が多くあります。これは「押妨」とも表され、権利を主張するものからすれば、両者とも「押妨」と評します。
この「押領」については、細川藤孝、摂津晴門、三淵藤英、はたまた、織田信長まで、皆「押妨」で争いをしています。そして、池田勝正も、その一族の池田衆も皆、この「押領」で訴訟事を抱えていたのが実情で、当時はそれほど珍しいことではありませんでした。
劇中では、手元を移した時に書状が見えたのですが、多分「宝菩提院禅我書状案 」で、これは1570年8月10付けで出されたもので、東寺百合文書「ひ函175号文書」のような気が(日付は違いますが、内容は山城国下久世のことですし、ほぼ同じっぽいです。)します。これは、実際には劇中の時間軸よりも一年ほど後です。また、光秀は、他にも同種の訴訟事を持っていたようですが、その解決には数年罹っているものもあり、今の時代感覚の清廉潔白さとは、意味合いが違います。陰謀とか、ハメラレタとかの話しではありません。
ちなみに、摂津守護となってからの池田勝正は、守護職の義務により、手持ちの領知、権利を返還させられています。これは詳しく見ると、当時の法治に照らしても、言いがかり的要素が強く、この部分で元三好派であった懲罰的扱いを受けていると考えています。この窓口は、御用商人である今井宗久に行わせている所から見ても、公権力で実行するには後ろめたさがあった行動を感じます。
◎近衛前久という人物 -----------
この人物は前回もご紹介しましたので、冒頭部分を引用しておきます。この時代の近衛家は、五摂家筆頭という名門の公家でした。この時、関白という地位にあり、皇室の政治(天皇の補佐)の担当者でもありました。また、この近衛家は、藤原鎌足を祖とする一族の筆頭でもあり、同族の日野家とも親密でした。日野家からは親鸞を輩出しています。いわば日本の頂点に位置する家柄であり、当時の政治では、巨大な存在でした。そしてまた、摂津池田家も藤原一族ですので、この近衛家を支える一族でもあったのです。
劇中、近衛前久が将軍義昭政権の復帰を懇願しているかのように描かれていましたが、史実は、同政権打倒の急先鋒で、そのために各地の勢力を糾合していました。また、織田信長も前久に将軍義昭政権の力になって欲しいと要請しており、劇中で描かれていることとは全く逆でした。脚本家はこの点も読み違えています。
反織田信長連合体の中心にあったのは、社会的地位の高い近衛前久で、そうでなければ比叡山・本願寺勢力を連合させることなど、できるはずもありません。間もなく、将軍義昭と織田信長は袂を分かち、敵対関係となりますが、将軍義昭が反信長となったことから、今度は近衛前久とも接近することになります。
◎浅井長政を当主とした浅井家の行動 -----------
近江国北部で頭角を表した浅井家は、家格としては高くなく、なぜ大名家としての通説が定着したのか、業界でも疑問を投げかける人も少なくありません。これは、越前朝倉家と結びつきを深くしてからの経済的繁栄があるからだと考えられています。
当時は、日本海が大陸との玄関となっていて、環日本海貿易が盛んに行われていました。そのため、現代とは真逆の日本海側の都市が繁栄しており、この地域から身を起こす大名が多くあったのはその為です。
劇中でも度々登場する越前朝倉氏ですが、その拠点は一乗谷であり、その谷を中心に巨大な城郭都市を建設していました。その中に朝倉氏は屋敷を持ち、字として「浅井」が残っています。いわば、近江国人という考え方よりは、朝倉方の北近江勢力であったのが実情です。滋賀県北部は、南部と違って文化風土も違いますし、そういう流れは当時から培われたものです。
一方で、この地域は浅井氏の前の時代は、多賀氏が一大勢力で、その名の通り多賀大社との繫がりを深くする家でしたが、時代の移り変わりと共に、浅井氏へ地域求心力が移っていきました。その種はやはり、今も昔も経済力です。
そして、永禄12年(1569)6月に浅井氏が幕府方から離れたとの噂が流れます。これは、奈良興福寺の坊官(官僚)である二條宴乗の日記に記されています。奈良にもこの噂が伝わっていますので、当然、幕府や主要な人物の耳に届いていたことでしょう。将軍義昭は、奈良の興福寺出身ですので、当然将軍の耳にも情報は入っていたはずです。若狭国根来地域では「お水送り」の行事があり、奈良興福寺ではこれを受けて「お水取り」があります。こういった行事からも若狭国やその周辺に興福寺領があり、情報は直ぐに届きました。
ちなみに、この年、越前朝倉氏は、仮想敵を将軍義昭政権(幕府)と決しており、雪の溶けた4月以降には、金ケ崎城、木ノ芽峠、中河内、椿坂などに城を整備して、戦争の準備を始めていました。