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2023年3月18日土曜日

荒牧屋(山邑家)と池田城家老職系譜を持つ上月政重は同郷

先述の通り、上月重政のルーツの地が荒牧村であり、そこに住まう山邑氏とは当然ながら古い縁故関係があって、元禄・寛永年間という日本国内の経済復興期に、家業飛躍の好機を甲賀谷正長に求めたのだろうと思われます。この頃、めぼしい酒造地がほとんど無く、池田郷は、江戸積の下り酒を独占していました。
 伝法の正蓮寺開基というハレ舞台で、「荒牧屋」の酒を多量に寄進できるというのは、これ程のビジネスチャンスはありません。
 伝法という地は、交通の要衝であり、多くの人々が交差する場所で、当然ながら銭も情報も集まります。そんな場所に手がかりができるのは、それだけで莫大な財産となります。
※※大阪府の地名1(平凡社)P747

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【伝法村】 此花区伝法1 - 6丁目
中津川が下流の中州によって伝法川と正蓮寺川に分流する地に位置し、伝法川の北岸を北伝法(伝法北組)、南岸を南伝法(伝法南組)と称した。南東側は四貫島村。地名は仏教伝来にちなむとか、鳥羽上皇が紀州高野山に伝法院を建立する時、その用材を船積みした地であるからなどの里伝がある
 当地は、中世末期には中津川河口の湊として交通の要衝となっており、伝法口とも称された。「陰徳太平記」によると石山本願寺を攻める織田信長が、「伝法」に武将を配置している。また慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、大坂城に籠もる豊臣方が当地に砦を築いたともいわれる(大阪市史)。諸川船要用留所収の慶長8年付徳川家康の過書中宛朱印状写に過書船発着地の一つとして当地があげられている。同10年の摂津国絵図には「テンホ」とみえる。
 元和元年(1615)大坂藩松平忠明の支配下で船手加子役を賦課され、同6年には大坂御船手(小浜氏)の支配下となり、船番所も設置された。寛永11年(1634)から加子扶持7石を支給されている。寛文10年(1670)幕府領となったことにより加子役はそのままで、年貢も賦課されるようになった(西成郡史)。当地が行政的に村となったのはこれ以後のことで、それ以前は大坂に準じて幕府直轄都市の扱いを受けていたと思われる。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領となっている。以後幕末に至る。
 享保20年(1735)摂河泉石高帳によると130石余、流作地4石余。加子役は屋敷を単位に賦課され、南北両伝法に185軒の公事屋敷があった。ところが天明年間(1781 - 89)町を単位に賦課する方法に改められ、当時、当地辺りに成立していた八か町、すなわち北伝法上之町に35役、同中之町40役、同下之町30役、南伝法上之町42役、弥右衛門開の内八軒町6役、南伝法下之町12役、五右衛門開5役、十三軒町15役が課せられた。なおこの加子役の賦課率は村小入用の割付にも適用され、享保8年以降は村小入用の6割は加子役に、4割は村高に割付られたという(西成郡史)。
 大坂市中の河川を回漕する上荷船・茶船のうち、当村上荷船は最も古い由緒をもつ七村上荷船の一つに数えられている。年次は未詳だが船極印方(「海事史料叢書」所収)によると、上荷船45艘をたばねる組頭一人が南伝法に、同45艘の組頭二人と同44艘の頭一人が北伝法にいた。
 正保期(1644-48)上方から江戸への下り酒が伝法廻船で積み出され万治元年(1658)佃田屋与治兵衛が北伝法上島町で江戸積の廻船問屋を開業、寛文年中、中島屋小左衛門・小山屋源左衛門・堂屋藤兵衛が酒樽専門の江戸積問屋を開業、元禄年中(1688 - 1704)には綿屋治兵衛・大鹿屋九兵衛・宮本弥三兵衛・薬屋新右衛門らも加わって、その数を増やした(「船法御定並諸方聞書」同書所収)。それに用いられた伝法船は従来の菱垣廻船よりも迅速に回漕したため「小早」と称され、やがて酒樽以外の商品も積み込んで菱垣廻船に対抗した。これが享保期以降、樽廻船と呼ばれるようになった(「菱垣廻船問屋規錄」同書所収)。樽廻船はとくに伊丹・池田の酒造業の発展に対応して繁栄した。しかし当地においては貞享元年(1684)安治川の開削によって河港としの繁栄を順次安治川沿岸に奪われ、当時船数700余・家数800余・人数3500余と栄えていたのに対し、天明年間には船数200余・家数400・人数1900余に減少したといわれる(西成郡史)。
 もっともその頃当地には廻船業の他に酒株37・醤油造株3・樽屋26・運送屋3・寒天曝屋4・籠屋2・竹屋2・畳屋2・家および船大工9・紺屋4・質屋4・寺子屋4・商人73・医師4・按摩17・社人3・僧尼道心者35などがあり、小都市の景観を呈していた。また、伝法川に設けられた船渡しは「伝法の渡し」とよばれ、尼崎に至る街道に通じて、大名参勤の通路となっていた
 当地には鴉宮(からすのみや)・澪標(みおつくし)住吉神社、浄土真宗本願寺派浄泉寺・西光寺、真宗大谷派慶善寺、浄土宗宝泉寺・西念寺、日蓮宗正蓮寺、単立(浄土真宗系)安楽寺がある。鴉宮はもと伝法の船問屋が祀った「伝母頭神社」といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、三羽の鴉が水先案内をしたことから現社名に改称したと伝える。
 川名の由来ともなった正蓮寺では8月26日に川施餓鬼を行う。「伝法の施餓鬼」とよばれ、天神祭とともに浪速の夏の二大行事とされている。明治10年(1877)当村は南伝法村・北伝法村に分村した。なお、天保郷帳に弥右衛門開18石余と「助太夫・五右衛門開」77石余がみえるが、うち弥右衛門開と五右衛門開は当村に近い伝法川上流中州に開かれた地で、助太夫開は大野村(現西淀川区)に接して開かれた新田である。
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池田から江戸までの輸送経路と運賃



それからまた、正蓮寺について、縁起を紹介しておきます。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より

---(資料9)----------------------------------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく)のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。
 大阪の代表寺院25ヶ寺の内に数えられた正蓮寺は、惟うに権門の庇護に依り建立された寺ではなく、土着の一無名人の発願にて創立された庶民的な寺院であります。創建以来来伝燈絶えずして信徒参集し、寺門興隆して現在は第26世を踏襲するに至っております。
【伝法の川施餓鬼】


享保6年(1721)、当山第7世、寂行院日解上人は、日蓮大聖人が海中にて衆生済度せられた功徳を継承せんとて、川供養の行事をはじめられたのが、いまの伝法の川施餓鬼であります。創始以来、正蓮寺川に棚を作り色々な供物をして、有無両縁の万霊を供養して参りました。摂津名所図絵に記されている様に、数百曳の船団で参拝者が群集したしました。地元の伝法・高見・四貫島の各家では、遠近より親類縁者を招いて精霊をお祀りし、法要の後は各船団は棚を片付けて船遊びに興じてお祭り騒ぎになるのが常でした。陸では数百の露店が賑わい、名物の枝豆・竹ごま・焼鳥屋などが繁昌し、全く天神祭をしのぐ程の盛大な大阪の夏を締めくくる行事でした。夕刻、船団も引き揚げ露店も終わる頃には涼風も吹く時期でもあり、「暑い夏には天神祭、あついあついも施餓鬼まで」と、今日までの夏の風物詩として語り継がれ親しまれて参りました。古来より仏法経典の渡来した最初の浜とも云われる伝法の地であります。仏事が盛大に行われて来たのも当然のことと思われます。昭和46年には、川施餓鬼創始250年の記念大法要を厳修いたしました。殊に現在は、区内に奉賛会が組織され、更には浪速全般に亘る参拝会の活躍は、誠に有り難いことでもあります。ただ、昭和42年頃より正蓮寺川の汚濁が甚だしくなった為、川渡御は新淀川に移すことになりました。平成26年度に「正蓮寺の川施餓鬼」として大阪市指定無形民俗文化財に指定されました。
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縁起では、「甲賀谷又左衛門正長が篤信の武家」であったこと、「寛永2年(1625)、正長を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこり」であること、「甲賀谷正長(正蓮日宝禅定門)が生きている間に、予修として寺の開基を行った」ことが伝わっています。

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影 

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影

 

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