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2023年9月5日火曜日

「忍者を追う歴史学」と題して、磯田道史教授による最新の成果が発表されました。やはり摂津池田にもその名残があり、愛宕火(がんがら火祭)は接点がある可能性。

忍者の研究は非常に困難を究め、その特性からして、資料が出ません。ですから研究が進まず、想像の世界も多くあり、関心の高い分野でありながら学術研究の進まない、謎の領域でした。
 ところが、近年、忍者に関する史料が発掘(発見)され、この事で、一気に知見(調査)が前に進みました。多くの手がかりがあり、今後も関連した研究が続々と出されるでしょう。

以下の発表動画をご覧下さい。お馴染み、磯田先生による講演ですが、いつものように大変楽しく、しかし、しっかりと要点を押さえ、非常に興味深い内容です。

シリーズ「日本研究のトビラをひらく」:
【前編】「忍者を追う歴史学」磯田道史教授


シリーズ「日本研究のトビラをひらく」:

【後編】「忍者を追う歴史学」磯田道史教授

 

この研究成果を聞いていると、やはり摂津池田でも「忍者」の存在を感じざるを得ず、形跡もあるように思います。それは何かというと、この番組から感じるキーワードを先ず、上げてみたいと思います。

・甲賀、紀伊国雑賀、山伏、薬(そら耳)、鉄砲、城、木村姓などです。

以下、それぞれ、注記します。

【甲賀】
池田城下に「甲賀谷」という集落があり、過去に古老に聞いたところでは、近江甲賀から移って来た人々が住んだ地域であると、代々伝わっているとの事でした。また、この集落には、戦国時代に「甲賀伊賀守」という家老が、屋敷を構えており、この系譜の家が江戸時代には、酒造とその流通に関わっている事が判っています。

【紀伊国雑賀】
荒木村重は、織田信長政権から離叛した時、大坂本願寺と共に、雑賀地域の人々と、頻繁に連絡を行い、協働もしていた事が史料から判ります。また、池田筑後守勝正の子とされる「勝恒」が、天正年間に和歌山県東牟婁郡古座川町(旧池口村)に逃れて居住したとの伝承があり、これも雑賀との関係が深くあります。

【山伏】
摂津地域北部の山地には、霊山として多くの修行場があります。そのため、真言宗などの寺院も多く、山歩きをして心身を鍛えるギョウを行う僧も多く居りました。戦国時代の池田氏は、摂津国豊嶋郡を中心に治めましたが、その中心的な役割を果たしたのが箕面寺という寺でした。山伏姿で、護摩を焚いて祈祷をするギョウも日常的に行われていました。
 1644年(正保元年)に興ったと伝わる伝統祭事である愛宕火(がんがら火祭)は、特に城山町(現池田市)の催行する同祭事は、この名残を持つものかもしれません。

【薬】
実際には、番組中にこのワードは出ていませんが、聞こえたような気がします...。(^_^;) 忍者と言えば「薬」みたいなイメージもあります。
 近江国甲賀地域の縁なのか、池田の地味、多数の寺院、多くの街道を交え、都市として発達(市場機能)したからなのか、城塞都市、武士の集住地域など様々な要因で池田と薬との関係があったようにチラホラ、見聞きしています。
 平安時代、現池田市住吉辺りに薬草園があって、当時の中納言菅原峰嗣は、天皇の待医や薬草頭などをつとめた人で、時々いそこにも見廻りに来ていたようでした。また、太平洋戦争前の事、古老の話によると、五月山山麓に薬草園(シオノギ製薬)があったとのことです。今は、全く面影はありません。
 それから、近からず、遠からず気になるのは、伊丹製薬株式会社という会社が、大正2年に     初代伊丹太蔵氏が大阪市浪速区で薬店開設したのに始まり、現在に至っています。地理的には、無縁という感じもないのですが、池田と「薬」については今後も調べを進めます。やはり、薬と忍者というのも、非常に関係の深い繫がりです。

【鉄砲】
元亀2年(1571)の秋に勃発した、いわゆる白井河原合戦で、池田勢は300丁の鉄砲を多用し、和田惟政勢を壊滅させました。永禄10年(1567)の冬、奈良東大寺合戦時も池田勢は、その主力的一団として活動し、対する松永久秀勢と激戦を繰り広げていました。この時は、銃撃戦が主体で、池田勢は相当数の鉄砲を使用していたようです。池田衆は、鉄砲を運用し、多用する体制と技術を持っていたとみられます。

【城】
摂津国池田には、同国内の最大級の城がありました。戦国時代には池田氏が豊嶋郡を中心とした支配を行い、池田家当主は、惣領と称されていました。宣教師ルイス・フロイスの当時の報告書にも池田氏が紹介され、「富裕な家」であったと認識されており、兵の装備は行き届き、必要があれば何時でも一万の兵を采配できるともあり、戦国大名とも言って過言では無い勢力に成長していました。
 そんな池田氏は、それなりの規模の城を持ち、最終的には同国守護に任じられるために、幕府の政務所となるべく規模と郭式が調えられたと考えられます。
 城下には、甲賀谷と言われる集落もあり、拡大する都市を構成する様々な技能や役割りを持った人々が住みました。建設や土木といった技術系の人々も当然ながら、池田氏との関係を持っていたと考えられます。

【木村姓】
摂津国の一職大名となった荒木村重でしたが、当然ながら多くの家臣と被官を抱えていました。その中に木村弥一右衞門という人物が確認できます。池田氏時代にも多くの家臣と被官が居りましたが、木村姓は見られず、また、木村弥一右衞門についても、この一通にのみ登場する人物で、不詳です。
 時期的に、織田信長政権は、京都の外側地域の対応に腐心しており、京都周辺は、荒木村重に任せる政策が採られていました。その為、荒木村重の地域政権も急拡大しており、必要な人事は積極的に採用していたと考えられます。そのような事情の中で、木村弥一右衞門も荒木村重に抱えられたのでしょう。
 天正2年と推定されている4月3日付けの音信で、荒木村重から摂津国尼崎惣中へ宛てられています。内容は、新たに建設される町割りなどについての指示で、木村弥一右衞門は使者として、尼崎に赴いているようです。「長遠寺(じょうおんじ)普請之儀油断無く其の沙汰せしむべく候。」としています。
 やはり、甲賀衆は忍者としてももちろん、こういった普請や造作、土木についても長けた技術を持っていたようですから、この史料もそういった事と、もしかすると関係していたのかもしれません。
 この村重の治世の頃、または、それよりも少し後くらいの頃、甲賀伊賀守なる人物が、池田郷の地域政治に高位の人物として記録に表れます。この人物は、当時の史料にも見られる事から確かに実在しています。その名からして、甲賀地域に縁を持つ人物ではないかと思われます。

<<関連記事>>
灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係(はじめに)


ガリレオ Ch ガリレオ X 第194回:
【忍者とは何者か?】忍者の実像 最新研究が解き明かす真の姿


この番組では、「音もなく、嗅もなく、智名もなく、勇名もなし。その功、天地造化の如し。」と「忍び」の極意を伝えて締めくくってあります。本当に凄いことです。ひとつの修業であり、悟りを求める旅のようです。何やら教えを請う、永遠の宗教のようにも感じます。元来、武士もそのような精神があったようです。

【参考】
忍者の先進的な当時の最新科学力を現代科学で検証している興味深いコンテンツです。薬の調合や運用方法についても触れられています。

2023年3月18日土曜日

摂津池田城家老の存在

摂津池田の伝家老屋敷位置
摂津池田家から台頭した荒木村重が摂津国守護職として有岡城主となり、摂津国内を治めていた頃、池田城家老として、5人の名が池田に伝わっています。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

---(資料2)------------------------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
-------------------------------------------------

上記にある家老の家系の内の2名が、「荒牧屋」を称した山邑氏と同じ時代に生き、縁をつなぎます。
 その家老の一人は、上月角■衛門で、その系譜を持つと思われる人物が、上月十大夫政重と考えられます。この人物は、荒牧(荒蒔)出身の赤松一族です。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

---(資料3)----------------------------------------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年(1538)にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

【赤松氏上月十大夫政重之塔】
寛永19年午9月12日卒 法名、可定院秋覚宗卯居士
宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。
享保7年壬寅9月12日
※■=欠字
-------------------------------------------------

★上記、上月氏についての詳しくは「池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2016/07/blog-post_3.html

資料3の伝承を読むと上月政重は、寛永19年(1642)に75歳で亡くなったとしてあるので、逆算すると1567年(永禄10)の生まれとなります。また、政重は3歳の時に、三好・荒木両党により、父子一族悉く殺害されたとあり、これは元亀元年(1570)6月の池田家中の内訌である事が判ります。この伝承は、史実をある程度正確に伝えているようです。

一方、もう一人の家老は、甲■伊賀守という人物で、その系譜を持つと見られるのは、甲賀谷又左衛門尉正長です。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より(抜粋)

---(資料4)----------------------------------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。(後略)
-------------------------------------------------

更に、尼崎長遠寺への莫大な貢献を知る事のできる関係資料です。
※尼崎市立文化財収蔵庫(同市教育委員会 歴博・文化財係)様からのご提供資料

---(資料5)----------------------------------------------

資料名
年代
内容等
1
多宝塔棟札
慶長11年
「願主甲賀谷又左衛門尉正長敬白」
2
多宝塔棟札
慶長12年
「甲賀谷又左衛門尉正長(花押)
3
日桓曼荼羅本尊
慶長13年1月2日
裏書「授与甲賀谷又左衛門尉正長」
4
客殿棟札
慶長18年4月6日
「大願主甲賀谷又左衛門造之」
5
日蓮書状
(乙御前母御書)
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日
願主甲賀谷又左衛門法名正蓮(花押)
6
日蓮曼荼羅本尊
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)
7
日桓曼荼羅本尊
元和4年11月17日
裏書「甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶授与」
8
日厳曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
9
日聡曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
10
日円題目
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
11
本堂棟札
元和9年5月
「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」
12
甲賀谷正蓮書状
8月14日
長遠寺宛
13
鐘楼棟札 
寛永14年6月27日
「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也
願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」
-------------------------------------------------


★上記、甲賀谷氏についての詳しくは「此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(伝法(大阪市此花区)について)」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2019/08/blog-post_20.html

上記一覧による尼崎長遠寺への篤信行動から甲賀谷正長は、1637年(寛永14)頃までには没していたようです。ちなみに同寺へは、荒木村重や池田家当主であった池田勝正なども関係を持っていました。
 また、正長は隠居し、入道号を名乗っており、その名が「正蓮」で、日蓮宗に深く帰依していました。摂津国西成郡伝法の正蓮寺は、1625年(寛永2)に、正長が開基となって創建されたお寺です。
 精神的な拠り所としての日蓮宗への帰依だけではなく、港としても重要であり、尼崎や伝法に物流の拠点を持つ意図も同時にあったのではないかと思われます。両寺は街道によって繋がっています。
 ちなみに、その後、正蓮寺は七堂伽藍が備わり、大坂二十五ヵ寺に数えられる程に栄えます。正蓮寺川もその名の通り、正蓮寺にちなんで呼ばれるようになったようです。

池田城家老の身分であったこの両名は、同時代に生きた人物でした。また、時代は太平の世となり、戦国時代に荒廃した事物が復興する中で、地域の自立、産業育成を各地が競い合いました。そんな中で、池田郷は酒造の先進地域の一つでもあり、酒造産業が急速に成長していました。

 

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2019年8月25日日曜日

此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(戦国武将甲賀谷長正という人物像の輪郭)

今のところ、甲賀谷又左衛門尉正長についての直接的な史料は限定的ですが、様々な断片的資料を集めてみると、旧池田(荒木)家中の人々の動きから推測もできるように思えます。今現在、甲賀谷正長について判っていることから、以下にまとめてみたいと思います。

摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
◎甲賀伊賀守とのつながり
池田での古老の話しによる(西暦2000年頃の)と、その方の小さい頃から「甲ヶ谷」の人々は、近江国甲賀(現甲賀市)から移り住んで来た、と聞き伝わっているようです。前述の通り『穴織宮拾要記 末』の記述(資料7)には、甲ヶ谷には「甲賀伊賀守」という家老が居たとあり、この人物は甲賀地域出身の人物と考えられます。この人物が住む地域であった事から「甲賀谷」という呼び名がついたのだろうと考えられます。
 甲賀地域出身者は、特に「土木技術」に優れた技能を持ち、破壊と普請(造作・造成)が常の時代にあっては、これらの人々は各地で大切にされたのではないかと思われます。現代のように、公的機関としての学校の無い時代には、技術伝承を徒弟制度の中で、一族や衆がそれを保持しています。それらの事も含め、甲賀谷正長は、地名を冠する程この甲ヶ谷に深くつながる人物である事が想定できます。婚姻や血縁もあったりするかもしれません。「名は体を表す」と云われる程、意味の無い名乗りは、全く考えられないからです。
 また、一方で、尼崎長遠寺での行動を見ると、多宝塔や客殿などに棟札を上げているところを考慮すると、木工・大工技術に優れた人物であった可能性もあります。
 現甲賀市域には優れた建築物が多く存在し、安土城もそういった技術に頼って完成した経緯を考えると、土木・建設に優れた才能を発揮した人物であった可能性も考えられます。
 もしかすると、呉春酒造の酒蔵梁の書き付けにある「甲賀谷仁兵衛・助兵衛」は、甲賀谷正長と関係の深い人物かもしれません。また、元禄10年の池田村絵図に記録されている「甲賀谷」の大工5名は、正に仁兵衛と助兵衛、その人です。呉春酒造の梁に縁起を書いたのもその人です。

伝法正蓮寺の寺紋と摂津池田の甲賀谷氏
大阪市此花区伝法の海照山 正蓮寺の寺紋「巴藤」
寺院はたいてい、宗派に属している事が多いので、宗紋を持っています。それに加えて、そのお寺にゆかりの深い紋を持っています。ですので、2つの紋がある事が多いのです。時にはそれ以上の事もありますが、たいてい、そういう構成になっています。伝法の正蓮寺は、日蓮宗ですので、「井桁に橘」紋を宗紋として掲げてあります。そしてもう一つ、寺紋は「巴藤」です。
 摂津池田家の本姓は「藤原」でした。時代の習慣としての行動と判断は、同族の結合が信用の繫がりの拠(よりどころ)です。ですので、藤原系とのつながりは、自分を守ることであり、助け合いであるのです。現代社会のように戸籍制度もありませんし、学校、警察もありません。現代のように、公的な信用醸成の制度はありません。そうであれば、どうしても信用の拠は、血統的なつながりに頼るところが大きくなります。
 故に、摂津池田氏の場合、どうしても藤原氏とのつながりが深くなり、接点も藤原氏の同族結合となっていきます。また、例えば、池田や伊丹といった名乗りは、時代やその時の個別環境により、変化します。荒木村重が池田家中に所属した時は、荒木と池田姓を使い分けていました。
 しかし、その家系が持つ紋は、あまり変化しません。ただ、功名があった時や所属によって下される紋はあったようですが、「一族」を示す紋は変わることがありませんし、それが一族生存の基本です。家紋は自分と家族の起源を示す、非常に大切な印なのです。現代の日本国国旗と同じです。
 歴史的な調査で「紋」は、探求の手がかりとして、非常に有力です。
 正蓮寺を創建した甲賀谷正長は、この寺の起源ですので、やはり甲賀谷氏の「巴藤」紋を用いたのではないかと思われいます。そうすると、甲賀谷氏は、藤原氏にゆかりの一族となります。前述のように、甲賀谷氏は元々近江国甲賀にあったようですが、そのルーツは「藤原氏」であった縁で、池田家につながりを持つようになった可能性が考えられます。

◎「正」の通字を持つ意味
摂津池田家は、元々「藤原」性です。また、その一族当主は「筑後守」を名乗り、諱(いみな)に「正」の字を持ちます。これは、通字(つうじ)といって、これを継いでいるかどうかで区別があります。更に、「正」の字が諱の上か下か、でも違いがあります。例えば、勝正、信正、知正などが、下正(したまさ)といい、正詮、正久、正秀などが、上正(うえまさ)といいます。
 時代によって、違いもあるようですが、傾向からすると、下正は、惣領家(当主)とそれに近い人々が用い、家老など、少し本家筋とでもいいましょうか、少し血の遠いと思われる家系は、上正を用いているように思います。
甲賀伊賀守屋敷跡(2001年頃撮影)
さて、今回注目している甲賀谷正長も、正の字を持ち、しかも上正です。甲賀伊賀守は、家老との伝承ですので、池田家のその当時の慣習を踏襲したと思われる形跡があります。
 伝承されていた、甲賀から来た人々は、時の流れの中で池田家と婚姻などで縁を深くし、「正」の字を得たのかもしれません。正長の生きた時代は、池田家も滅びて(滅びつつあった)しまい、戦国時代も終盤でしたので、その時代に必要な名前に変えて行きます。「甲賀」と「正」を残すことの意味があたのでしょう。また、正長は「左衛門尉」という官途も名乗っており、位は正六位から従六位です。一般人ではありません。
 伝法の正蓮寺では、「甲賀谷正長は武士」と伝わっていますが、これは正確な伝わり方をしているのではないかと思われます

◎没年の推定
尼崎市教育委員会による『長遠寺所蔵甲賀谷氏関係資料』によれば、寛永14年(1637)6月27日付の鐘楼棟札に、「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也 願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」とあることから、この頃に正長は死亡していることが窺えます。
 また、同資料の元和9年(1623)5月付けの本堂棟札に、「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」によれば、長遠寺本堂を寄進しているようです。本堂はその寺の中心建築物ですから、相当な費用も必要だと思います。この頃には事業(実際の生業は不明)も順調で、そういった行いのできる環境が整っていたものと想像されます。この頃の池田は、酒造業が盛況で、活気に包まれていたころでもあります。
 一方で、この翌々年(1625)、伝法の正蓮寺を創建しますので、少し前からそういった取り組みの準備もしていたのかもしれません。
 ちなみに、同資料をもう少し見ると、元和元年(1615)9月5日付で、正長が長遠寺に「日蓮曼荼羅本尊(尼崎市指定文化財)」を寄進していますが、この時の裏書きに「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)」とあって、改元を機に、隠居して息子なる人物に当主を譲っているようです。この頃から法名(法号の日寶は、元和4年11月17日か)を正蓮と名乗っているようです。
 正長の息子は、「貞勝」を名乗っているようで、正長はその後見役となっていたのでしょう。息子は「正」の通字を継がず、「貞勝」となっているのは、池田は京都所司代の支配管轄で、この時の筆頭は板倉勝重・重宗でしたので、その板倉氏と何らかの関係があるのかもしれません。今のところ想像ですが...。

気になる記述の残像
これは予備的な要素として書き残しておきたいと思います。『穴織宮拾要記』は、池田の町の復興や成り立ちについて、非常に重要な記述が多い、資料としての価値が大変高いものですが、全文翻刻されておらず、今は断片的な翻刻をつなぎ合わせる中での判断です。これは、池田の町のみならず、伊丹や周辺地域に様々な影響を及ぼす、非常に重要な文書です。
 そこに記述されている一説に、気になる要素があります。「資料3」にあるのですが、- 秀吉公・秀頼公之御時より池田ハ御代官所成ル、片桐市正御預り牧治右衛門池田支配ノ時、右之屋敷本養寺へ寄付せられ候。町人も城之用聞五軒伊丹へ引、又帰り候。 - とあって、先にご紹介した五家老との関係はどれ程あったのか、非常に気になるところです。
 この「城ノ用聞き五軒」とは、商業的要素のみならず、様々な要望を引き受けるため、非常に信頼の厚い人物で有り、組織であったと考えられます。現代は、社会現象の事柄を細かく分類していますが、当時はそれ程、細かに分ける必要もなく、商業であれ、建設であれ、戦争であれ、用聞きとは要望に応える商社のような存在であたっことでしょう。これに甲賀谷氏も関わっていたかもしれません。それが気になります。
 一方で、池田郷は、その地理的位置から非常に重要な場所であり、社会に軍事的な不安定要素がある間は、幕府の直轄領として、池田家をはじめとした旧ブランドの台頭を警戒し、その胎動を許しませんでした。徳川幕府は池田に代官所を置き、村役との連携をとる体制で地域支配を行いました。
 しかし、地域政治を進める上では、事実上、絶縁させる訳にもいかず、ある程度の許容の中で、円滑な運びも計る必要があると思います。そういう中で、選別しながら有用な取り込みを行うなど、無害化されたブランドの許容(活用)は存在したと考えられます。

◎正長が活躍した背景
池田では古くから酒造が行われていたと伝わっており、池田郷内の最も酒造高のあった満願寺屋は、その代表でした。その始まりは、応仁年間(1467 - 69)頃といわれるものがあります。古来、酒造は寺で、生産されていましたので、満願寺屋という名の通り、池田の酒造のキッカケも寺に関わるものと思われます。池田郷の西北西約4キロメートルのところに、満願寺という古刹があります。
 この境内の発掘調査の結果では、平安時代末頃には寺院があったと確認されており、寺記によると神亀年間(724 - 29)に千手観音像を祀ったのに始まるとされています。池田家も満願寺に寄進などを行い、つながりも持っています。
 これが何らかの縁で、交通の要衝である池田へ移り、根付いたものと思われます。戦国時代を経て、江戸時代になる頃には、荒廃した郷土復興が盛んになっていきます。その過程で酒造業も活気を呈します。
池田村宛禁制(松平武蔵守:池田利隆のこと)
大坂冬の陣(1614)のために河内・大和国境の暗峠(くらりとうげ)に進んだ徳川家康に、池田酒・物資・軍資金を献じて、池田の立場表明(味方となる)をいち早く行ったことから、その後に保護を受けるようになったとされます。(※1)これは郷内保護のための禁制を受けるためで、その時の禁制が残って(他に板倉伊賀守の副状も)います。池田村役の庄屋菊屋助兵衞、年寄牧屋五兵衛、同淡路屋新兵衛などが付き添い、陣中見舞いを献上しています。池田村は慶長年間より正保頃まで、庄屋1人・年寄2人(安永4年2月2日文書)がいたようです。池田は重要な場所であったため、徳川幕府の直轄領(天領)でした。
 戦国時代は、禁制を発行する側であった池田が、今度は、受ける側に変わっていました。もはや、池田には地域権力が存在していませんでした。
 しかし、それまでの地域ブランド力と地勢が、他の地域とは違う価値をもっており、単なる禁制拝受ではありませんでした。そのことは、酒造業にとっても、大いなる恩恵となりました。間もなく、徳川政権から大坂の陣の戦勝の礼として、池田酒に銘を贈り「養命酒」としました。これが特権化もしつつ、その後、池田での酒造が年々盛んとなり、元禄期(1688 - 1704)には最盛期を迎えます。
 そういった行動の中心的役割を果たしていたのが、旧池田家中、荒木家中の人々で、甲賀谷正長もその一人であったと思われます。平和になりつつあるとはいえ、江戸の幕藩体制が盤石となるのは、徳川将軍3代目の家光の頃(元和〜寛永期:1615 - 44)であり、それまでは日本各地で争乱も止みませんでした。ですので、政治と武力は一体的に考え、行動する必要がまだまだあった時代でした。
 一方で、徳川幕府によって、武力の台頭を許さない社会への圧迫を加えつつある中で、世が安定しはじめており、経済活動が日本各地で盛んとなっていました。ですので、政治・経済・軍事をうまく使い分けて活動できた池田武士が活躍する場もあり、その能力を持っていた一人が甲賀谷正長だったのかもしれません。
※1:永年、満願寺屋の禁制について、徳川家康の陣所である奈良暗峠に池田酒を献上した事として、エピソードが通説化していましたが、私が改めてこの流れを検証したところ、事実とは少し違うところを発見しました。池田衆が訪ねたのは、尼崎の松平(池田)武蔵守利隆をだったと思われます。利隆の母は摂津茨木城主中川清秀の娘であり、摂津池田家とは、非常に縁の繫がりが太い関係性があった人物です。詳しくは、以下の過去記事にありますので、ご参照下さい。
 
甲賀谷正長と伝法及び尼崎のつながり
甲賀谷正長と伝法及び尼崎のつながりですが、それらはやはり、「酒造」と「日蓮宗信仰」ではないかと思います。日蓮宗は町屋と町衆を布教対象にしており、そういった点で、人々の集まる町には自然と縁が深くなります。
 ちなみに、正長と関わっている法華宗系の寺院(池田の本養寺、尼崎の長遠寺)は、京都六条本圀寺の六条門流です。伝法の正蓮寺は、その流れの中で創建されています。
 また、酒は輸送が重要であり、これも町や輸送の拠点との結びつきが強くなります。その意味で、尼崎・伝法は、輸送の拠点であり、地縁と人と宗教が、持ちつ持たれつの関係で調和が取れていたのだと思われます。伝法は、特に酒の輸送で発展した町で、池田・伊丹の酒造の発展と両輪で成長したともいえる歴史を持っています。(資料4「伝法村」の下線部分を参照下さい。)また、伝法は元々交通の要衝で、戦国時代には、城や砦が置かれていたとの伝承もある程です。同地は輸送の大動脈であった瀬戸内海が西側に開けている訳ですから、どの時代も自然と重要視される地理となっています。
 そういった古今東西、森羅万象をうまく使い分け、池田の酒造などの産業育成、町の発展を担った中心的な人々が活躍した時代が、甲賀谷正長の生きた時代だったのだと思います。


尼崎 長遠寺 甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の墓






此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(摂津池田出身の甲賀谷氏の出自が武士であったであった可能性)

池田家中(若しくは荒木家中)にあった甲賀谷正長も、その流れの中で、自身の役割りと能力を生かして活動していたと思われます。甲賀谷氏と深い繫がりがあると考えられる「甲賀伊賀守」についての記述を参考までにご紹介しておきます。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

(資料7)-----------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
-----------------------(資料7おわり)

摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
上記は伝聞資料ではありますが、ある程度正確に記述されていると考えられます。また、時代もハッキリと記されていませんが、本拠地機能を拡大・移転させるにあたり、荒木村重が伊丹の有岡城を稼働させた天正3年頃を区切りに記述したものと考えられます。
 個人的には、荒木村重が池田家から身を起こして地域勢力の主導権を確立して行く中での統治・支配体制(軍事的にも)ではないかと考えています。
 当時の発行史料から見れば、池田一族が中心であった頃の統治機構(池田四人衆:家老)はこのメンバーでは無い事が明らかです。
 記述にある「池田の城伊丹へ引さる先」とは、天正3年秋以降の事を指すと思われますが、流れとしては、天正元年の8月頃に、村重を「摂津守護に目す(正式では無いが)」公言があったようで、それを元に様々な状況変化が起きています。
 織田信長の期待通りに行動した村重は、天正3年8月頃に「摂津守」を正式任官し、名実共にその座に就いています。その頃には、地域政権の体制ができていたようですが、そこに至るまでの黎明期には、地域に影響力のある人物を立てざるを得ませんので、村重に理解のある旧池田勢力を活用したのだろうと思われます。それが記述に見られる、「右五人之家老町ニ住ス」顔ぶれだったのかもしれません。
 本拠機能が伊丹の有岡城に移ってからも、池田でのこの体制は続いたと思われます。「池田と伊丹は一対の城」と記述されてもおり、池田は非常に重要視されていましたので、配置の人選も念を入れたものになっていたことでしょう。

また、天正6年秋、荒木村重が織田政権から離叛し、池田の町に戦火が及んだ様子が伝承されていますので、以下にご紹介します。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 本』)

(資料8)-----------------------
一、天正之乱■当国大形在々所々三日三夜之内中二焼き払われ方々へ逃げちらし金銀たくわへ有人は他国二住ス也。一、此時池田之人々他国へ行も有、池田山のうしろ丸尾はばと云所二小屋かけ住、折々里へ下り耕作つくり住人八十余有、雨降時ハ長櫃二置かがみ住人も有、作り付たる田を伊丹より夜ル来刈とらるる人も有。
■ = 欠字
-----------------------(資料8おわり)

このように、織田政権から離叛した荒木村重は、滅ぼされてしまいます。伊丹や池田、尼崎など主要な都市は攻め落とされて、町も大きな被害を受けました。
 池田の町の「甲賀谷」とは、甲賀伊賀守をはじめとした、甲賀地域から人々が移り住んだことがキッカケで地名となったと思われます。その地に関わりの深い人物が、甲賀谷氏であろうことは、自然な流れとして起きた事と考えられます。

しかし、その後、織田信長も斃れますが、時代は大きく動き、日本国全体は武力統一されて平和な世が訪れます。




2016年10月22日土曜日

摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

大尭山長遠寺
兵庫県尼崎市に大尭山長遠寺(ぢょうおんじ)という古刹があり、そこに甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の、特別に顕彰された墓があります。
 今のところ不明な事が多いのですが、この人物は同寺を再建した大檀越(おおだんおつ(だんおち):寺や僧に布施をする信者や檀家の事。)として墓(正長:台上院正蓮日寳大居士、妻:清冷院妙蓮日禅大姉)と碑が祀られています。
 今のところ、判る範囲をお伝えしておきますと、長遠寺内にある多宝塔(尼崎市内唯一、国指定重要文化財)を慶長12年(1607)に、甲賀谷正長が施主となって建立し、元和元年(1615)9月5日、日蓮書状(乙御前母御書)を日蓮筆曼荼羅本尊(まんだらほんぞん)と共に長遠寺へ寄進、同9年5月、本堂を造営するなどしています。
【参考】尼崎市公式ホームページ:日蓮書状(乙御前母御書)
 また、この正長の嫡子(二男以下か)と思われる文左衛門が、現此花区伝法にある同じ日蓮宗の海照山正蓮寺を寛永年間(1624-44)に創建(寛永2年(1625)と伝わる)しており、甲賀谷氏の日蓮宗への信仰の篤さと忠誠心を知る事ができます。

「甲賀谷」という名字、「正長」という諱は何か摂津国池田郷と関係しているように感じます。また、この長遠寺は、荒木村重とも関係が深いお寺でもあります。
 という事からしても、甲賀谷夫妻と摂津池田は、浅からぬ縁があるように思うのですが、今のところその確定的な資料もありませんが、以下、筆者がそのように感じる根拠としての史料をご紹介しておきたいと思います。下記は、長遠寺についての資料です。
※兵庫県の地名1(平凡社)P446

(資料1)-----------------------
甲賀谷正長夫妻の墓
【長遠寺】
江戸時代の寺町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和3年(1617)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは、風呂辻町辰巳市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永2年(1705)の大尭山縁起によれば、観応元年(1350)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院16坊を数えたという。歴代住持のうち5世日了が、本山12世となるなど、京都本圀寺末の有力寺院の一つであった。
 開基の地については七ッ松で、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄12年(1569)3月の織田信長の軍勢による尼崎4町の焼き討ちの際には、当寺と如来院だけが戦火を免れたという(細川両家記)。当時は「尼崎内市場巽」に所在しており、元亀3年(1572)に信長は、同地での当寺建立に際して、陣取りや矢銭・兵粮米賦課などの禁止を命じている(同年3月日「織田信長禁制」長遠寺文書)。
甲賀谷正長の墓の説明碑
さらに天正2年(1574)には荒木村重が、信長とほぼ同内容の禁制を与えているが(同年3月日「荒木村重禁制」同文書)、禁制の冒頭には「摂州尼崎巽市場法花寺内長遠寺建立付条々」とあり、伽藍造営だけではなく、当寺を中心とする地内町の建設工事であったことを示している。村重はさらに巽(辰巳)・市庭の年寄中に対して堀構のことを申し付けるとともに(3月15日「荒木村重書状」同文書)、尼崎惣中に対して当寺普請を油断なく沙汰するよう指示しているほか(4月3日「荒木村重書状」同文書)、貴布禰社などの諸職の進退や公事・諸物成の納入、諸役諸座などの免除、守護使不入等について定めた寺院式目条々を当寺に付与している(天正2年3月日「荒木村重定書」同文書)。同16年には勅願道場となった(同年3月25日「後陽成天皇綸旨」同文書)。
 江戸時代には長洲貴船大明神宮(現貴布禰神社)の神職も兼ねており、毎年1月7日礼祭神事を執行した(尼崎志)。境内に祖師堂・妙見堂・護法堂と僧院三房があった。
 本妙院は観応元年創立、宝泉院は文亀元年(1501)創立。開基不詳。中正院(現存)は明徳年中(1390-94)創立、開基不詳(明治12年調寺院明細帳)。慶長3年(1598)建立の本堂(付棟札2枚)と同12年建立の多宝塔(付棟札5枚)は、国指定重要文化財。鐘楼・客殿・庫裏は、県指定文化財であったが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震のために全てが破損した。一石五輪塔として天正3年10月10日、慶長13年(基礎)・同14年銘のもの、同13年4月8日銘の石灯籠がある。
-----------------------(資料1おわり)

それから、同寺がどういう立地環境にあったのか、中世の尼崎の様子を復元している研究がありますので、抜粋してご紹介します。
※地域史研究(尼崎市立地域研究史料館紀要 -第111号-):中世都市尼崎の空間構造(藤本誉博氏)より

(資料2)--------------------
16世紀の尼崎(推定復元図):図4
3. 一六世紀の様相
(前略)
尼崎惣社である貴布祢神社(★せ)は、当該期には本興寺の西、近世尼崎城の西三の丸に立地していた。本興寺の西門前は、尼崎城建設の際に城下町へ移転したが、その町は「宮町」と呼称されていた。宮町とは貴布祢神社の門前に由来すると考えられる。貴布祢神社の門前と本興寺の西門前とが重なる立地になっており、貴布祢神社と本興寺は、ほぼ隣接する位置関係であった。本興寺は貴布祢神社の領域に寺領を広げる動きを見せていた。貴布祢神社の宮町が本興寺の門前に組み込まれた契機は、先述の本興寺による尼崎惣中への資金援助であった可能性もあろう。
 また、本興寺と同じ法華宗である長遠寺(○17)は、市庭の南東に立地し、三好氏の後に畿内に勢力を伸ばした織田権力を背景に寺内を構えた。おそらく、市庭や辰巳に挟まれた比較的開発の遅れていた所に寺地が設定されたのであろう。また、信長の配下の荒木村重は長遠寺に総社貴布祢神社の祭礼諸職を進退するよう定めている。これら三好氏、織田氏の動向を鑑みると、当該期の武家権力は、法華宗の特定の寺院を媒介して尼崎への関与を強める支配方式をとっていたと考えられる
(中略)
当該期は真宗や法華宗の勢力が拡大し、寺院の増加や寺内を構える動向が確認できた。また、法華宗寺院を介した武家権力の尼崎支配の動きも確認できる。
(中略)
長遠寺の寺内は先行して発展していた市庭・辰巳・別所の町場からはずれ、開発が遅れていたであろう場所に建設されている。
 長遠寺建設に際しては、信長(村重)権力は市庭や辰巳の「年寄中」や「尼崎惣中」に建設の指示を出しているが、これらの共同体は個々の地区、あるいは尼崎全体といった地縁的な領域で結成されていた組織であろう。これまでの考察で、尼崎の都市空間は特定の寺院に依拠して成立したのではなく、立地性や交通・流通の様相に依拠して形成されてきた側面が大きいことを指摘してきた。これらの地縁的共同体は、個々の寺院に依拠しない尼崎の都市空間を基盤にしたと考えられる
(後略)
--------------------(資料2おわり)

長遠寺は尼崎に古くからあったものの、中心部に移るにあたっては、荒木村重(織田信長政権)の支援を受けつつ実現した背景もあったようです。やや直接的とは言い難いところもありますが、この点から見ても、やはり縁としては、荒木村重を介して摂津池田とも浅からず繫がっていると言えます。
 そしてその甲賀谷という名字ですが、池田城下に「甲賀谷(甲ヶ谷):こかだに」と呼ばれた集落が古くからありますので、それについての資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料3)--------------------
【甲賀谷町(現池田市城山町)】
東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
--------------------(資料3おわり)

ちなみに、甲ヶ谷町についての言い伝えでは、「甲賀」から移り住んだ人々の町と伝わっているようで、「子どもの頃からそう言われてきた」と、古老にお話しを伺いました。私がそれを聞いたのは、西暦2000年前後だったと思います。
 また、甲賀谷町の北西500メートル程のところに、長遠寺と同じ日蓮宗本養寺があり、こちらも参考としてあげておきます。同寺も京都本圀寺の関係を持ちます。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料4)--------------------
【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
 元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
 なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
--------------------(資料4おわり)

資料4の文中に、「近衛様御寺」との記述がありますが、荒木村重が台頭する前に、摂津国池田で勢力を誇った池田氏の本姓は「藤原」でしたので、藤原氏の筆頭の近衛家とは親密で、活動の基本をやはり「藤原家」の因縁に置いていたと言えます。
 それから、戦国時代頃の伝承記録として、先にご紹介した「甲賀谷町」に「甲賀伊賀守」なる人物が、家老として池田城下に居住していたとあります。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

(資料5)--------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
--------------------(資料5おわり)

なお、甲賀谷氏の直接的な史料は見当たらず、最も原典的と思われる『穴織宮拾要記』でも、伝承資料という資料環境ではありますが、甲賀谷正長が、池田郷と関係を持っていたであろう必然性は、記述の資料群からしても非常に高いのではないかと感じています。

昭和初期の甲ヶ谷周辺の記憶復元図
それからまた、戦国時代の池田城下に「甲賀伊賀守」と思しき人物が居たとされる伝承について、家老という立場であるからには、身分の高い人物と思われ、池田家中の政治にも主要な役割りを担っていたと考えられます。
 池田家の人々は、代々「正」を通字として用い、「長」も通字として使用している人物が多く見られます。加えて、池田郷は江戸時代になると、元々あった地場産業の酒造や花卉栽培業、それから、地の利を活かして、炭などを扱う問屋が集中する商業都市に成長します。
 戦国時代に兵火で荒れ果てた郷土の復興のために、没落した池田氏も重要な役割を担っていました。先ず、旧地の回復のために、池田知正や実弟光重が尽力している様子が記述されています。これまでに池田家が領有していた地域に、祭事を復活させて神輿を繰り出し、地域住民に知らしめようとしたり、郡など境界にある社寺に寄進や奉納物を納めたりして、旧地回復につなげようとする動きを続けていました。
 しかし、皮肉なことに池田は、軍事的にも、商業的にも重要な立地にあったため、徳川幕府では、直轄地として統治する方針が打ち出されて、池田家の復興を阻みました。そのため、池田知正などの後継者による、池田家の旧地復活の目論見は果たせずに終わりました。

しかし一方で、池田氏による地域統治の復古は上位権力から否定されましたが、それに代わって、商業の振興は盛大となって、経済的な復興は遂げていきます。
 ある意味、江戸時代ともなれば、流通経済(商業)ですので、流通拠点との関係づくりが必要になります。池田から大坂を始めとした諸都市へ出荷・流通させるためには、尼崎という海への出入口は、重要な位置付けとなります。
 池田にとって、江戸時代という新たな時代を迎えるにあたり、刀を算盤に持ち替えて、時代を切り拓いた人々も多くありました。その一人が甲賀谷正長であり、家業を興し、財を成したのかもしれません。
 
尼崎市の担当部署に、この甲賀谷正長の事を尋ねてみたのですが、今のところ手がかりは得られませんでしたが、これらの事を伝え、情報があればご教示いただけるよう、お願いしている次第です。今後、何か判明した事があれば、また皆さんにお伝えしたいと思います。


追記:甲賀谷又左衛門尉正長について、詳しく調べてみました。以下の参考記事をご覧下さい。

◎参考記事:此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察