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2024年9月14日土曜日

新出の織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状が発行された、元亀元年当時の戦況

元亀元年8月付で発行された、織田信長から細川六郎(昭元)宛の新発見史料が、どんな状況で作成されたのかを見てみます。元亀元年は、西暦にすると1570年ですが、同年4月23日に改元があり、「元亀」と改まりました。
 また、この改元は、有名な越前朝倉・近江浅井氏攻めの最中に行われ、また計らずも元亀年間は激しい近畿地域争乱の幕開けとなりました。

この記事(項目)では、その年の6月以降から歳末にかけ、順に追ってみます。この本文以下に、関連する出来事の一覧を掲示します。

越前国一乗谷朝倉氏遺跡
幕府・織田信長方は、四国の三好氏本拠を攻める計画が当初にありましたが、急遽、越前朝倉氏を攻める事となりました。

若干、この理由を考えてみますと、この前年、永禄12年に但馬・因幡国の山名祐豊を幕府方が攻め、生野銀山を手に入れようとしましたが、この達成が難航していました。朝倉氏の発祥は但馬国にあるため、日本海側の勢力が連携していたものと思われます。織田信長は、この連携を断ち切るために朝倉攻めを先に実行した可能性があります。
 この準備として、永禄12年に連歌師里村紹巴を丹後国に入れて、内情偵察を行っています。7月4日に紹巴は、同国天橋立を訪ねています。紹巴は堺商人とも親密な関係にあり、これは、単なる文化活動ではないと考えられます。

話しを元に戻します。

御存知の通り、越前朝倉氏攻めの過程で織田信長の縁戚であった近江国人浅井氏の離反が確定した事から、これへの根本対応を行う事となりました。
 私はそれが、いわゆる「姉川合戦」だと考えています。その6月以降からの京都とその周辺地域を中心に戦況を見たいと思います。

既述のように、元々幕府・織田方は、四国阿波の三好氏本拠を攻める計画でしたので、堺商人などを通じて、状況把握や監視を行っていました。この音信は、その一例です。
 堺商人今井(納屋)宗久が、将軍義昭側近上野中務大輔秀政・同一色式部少輔藤長・玄浄院・金山駿河守信貞(三好義継重臣)・河内国高屋・和田伊賀守惟政・朝山日乗上人・明智十兵衛尉光秀・野村越中守・御局様・木下藤吉郎秀吉・森三郎左衛門尉可成・松永山城守久秀・畠山尾張守高政・佐久間右得門尉信盛・柴田修理亮勝家・中川八郎右衛門尉重政・蜂屋兵庫頭頼隆・丹羽五郎左衛門尉長秀・金森長近・河尻与兵衛尉秀隆・武井夕庵・一角好斎・御長・雲松軒・布施式部丞某へ各々へ宛てたものです。
※堺市史5(続編)P927

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急度啓上せしめ候。淡路国へ早舟押し申し候処、一昨日辰刻(午前7時〜9時)、阿波国衆不慮雑説候て、引き退かれ候。然る処、安宅神太郎信康手の衆、相慕われ候処、阿波国衆手負い死人200計り之在りの由候。敵方時刻相見られ申し候。恐々謹言。
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近江国姉川古戦場
繰り返しになりますが、その上で、越前朝倉氏攻めに変更し、苦境に陥るのですが、しかし同時に、この事で潜んでいた将軍義昭政権にとっての悪材料が一気に露顕(永禄13年正月に諸大名へ幕府から発した触状を元にした敵味方の確認)します。戦略に長けた織田信長は、事前にこの連合包囲を察知していたようです。
 そのため、京都の西側から三好三人衆勢が、朝倉・浅井勢と呼応した動きをすると、信長は考えていたようです。その対策として、拠点整備を行っています。6月9日付けで、幕府方細川右馬頭(典厩)藤賢が、某(幕府関係者)へ音信しています。
※新修 茨木市史(通史2)P28:狩野文書

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今度近江国於いて大利を得られ、六角承禎父子近江国伊賀に至り退かれ候由、慥かに承り珍重候。尤も罷り上りと雖も申し上げるべく候。普請毎日申し付け候間、取り乱し自由に非ず候。形の如く(慣例に従って)申し付け候者罷り上り、毎事上意得るべく候。先日申す如く伊丹兵庫頭忠親は摂津国東成郡榎並へ人夫3日申し付け、普請合力池田筑後守(勝正は、一昨日1日摂津国欠郡へ人夫2〜300人合力為馳走仕り候。並びに上意堅く仰せ出され候故と忝く存じ候。然るべく様御取り成し頼み入り候。近日者、牢人雑談相静め申し候。此の分に候者、都鄙大慶せしめと存じ候。近江国へは、織田信長定めて罷り出られるべく候。然ら者御動座為るべく候哉、承り度く存じ候。猶々伊丹・池田へは、私城(中嶋城)の普請合力仕り候由神妙に思召され候由、仰せ出され様に御取り成し頼み入り存じ候。旁様体承り度く候間、先ず以て飛脚申し候。何れも図らず罷り上り申すべく候。かしく。
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一方この時、堺に牢人が集まり、不穏な動きが始まっていました。これは随時に、信長にも情報が入っていたと思われます。
 しかしながら、細川藤賢の音信中にもあるように、朝倉氏、特に浅井氏に決戦を挑むべく準備(姉川合戦)を進めており、これについて、計画では将軍義昭勢の後詰めを繰り出す予定でした。その中心勢力が、摂津守護池田勝正でした。
 ところが、幕府・織田方にとって深刻な想定外だったのは、この摂津池田家中で内紛が起きて、敵の三好三人衆方になってしまった事でした。
 姉川合戦で幕府・織田方が苦戦したのは、将軍義昭が自ら出陣(移座)し、後詰めに出る事ができなかったのが原因です。加えて、摂津国内最大の勢力であり、守護職であった当主池田勝正とその家が分裂し、その主勢力が三好三人衆方になった事で、京都を西側から脅かす緊張感が高まりました。

摂津池田城跡公園
6月18日に池田城内で内紛が起き、当主池田勝正は池田城を出ます。その後、諸方の情報収集を行って、同月26日、河内国守護三好義継を伴って将軍義昭に状況報告を行います。
 これを受けて幕府は、翌27日、近江国出陣を断念し、各所に通達を出します。そして翌28日の姉川合戦を迎えています。
 将軍義昭は、ギリギリまで希望を繋いでいたようですが、無理強いはせずに中止し、他へ資力を振り分ける判断になったようです。

この状況で、姉川合戦に負ければ、将軍義昭政権は総崩れとなります。だから、必ず勝たなければならなかったし、結果として勝ちました。辛勝でしたが、敵を怯ませる事には成功した訳です。
 この合戦後、直ぐに付(相)城を構築して、朝倉・浅井方の動きを封じ、今度は軍勢を西に向け集中させます。
 7月4日、信長は入京。東西主戦場の真中に居て、双方の動きに目を配ります。信長は、必要な所に次々と移動していたようで、翌月23日に再び京都へ入っています。

摂津国野田城跡推定地
この頃、京都西側の三好勢に対する目途が立ったようで、8月25日に信長は摂津国へ向けて、京都を出ています。摂津国野田・福島方面へ大挙上陸していた三好三人衆勢に対するためです。
 この時も将軍義昭の出陣を計画し、幕府の公的な戦いである事を誇示しました。その効果もあってか、この征討は有利に、比較的順調に進んでいました。

この時の幕府・織田勢の本拠は、摂津国欠郡中嶋で、そこには中嶋城がありました。ここは伝統的に細川典厩家の城で、この時には細川右馬頭藤賢が守っていました。8月1日には合戦があり、藤賢は摂津国人野辺弥次郎なる人物へ感状を下しています。
※新修 茨木市史(通史2)P29

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去る朔日(8月1日)大仁(現大阪市北区大淀付近)堤に於いて、多勢に無勢を以て一戦に及び、前代未聞比類無き働き神妙に候。弥忠節肝要に候。謹言。
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将軍義昭の出陣により、この中嶋城が本陣となって、その他の勢力は天満森などに陣を構えて三好三人衆方に対します。信長は当初、天王寺の陣へ入っています。
 三好三人衆勢は、その西側の野田・福島方面へ陣を取っていました。8,000程の軍勢だったようです。
 8月には、その周辺、尼崎や原田、河内国内で交戦が行われており、18日には本願寺勢も中嶋城周辺を焼き討つなどしていました。

摂津国中嶋(堀)城跡
9月3日、将軍義昭は中嶋城に入り、幕府・織田方が三好三人衆方へ総攻撃を開始し、同月10日には、三好三人衆方の本陣である野田・福島城へ攻撃を始めています。
 そして12日、同城へ総攻撃を始めたところで、その横(南側から)を衝くように本願寺宗が幕府・織田方に対して武力蜂起を行い、戦況は逆転してしまいます。
 そして、これに呼応して、近江国方面の朝倉・浅井勢も京都へ迫る動きをしています。この事態を収拾するため、幕府・織田勢は野田・福島城の攻撃を中止して、京都防衛のために撤退します。各勢力も本拠地に戻って、防御態勢を取り、同時に次の手のための再編成を行いました。
 信長は、この窮地を挽回するために、軍事力だけでなく、様々な手を講じて、時間を稼ぐための休戦に持ち込もうと動きます。京都やその周辺で徳政令を発布、朝廷を動かして停戦を図ります。
 三好三人衆など、反幕府・織田勢力は、圧倒的な武力を持ちながら、驚くことに、次々とこの和睦に応じて、この年の暮れには全面的な休戦を実現しています。

今回、新たに発見された、8月付の信長による管領格の細川六郎(昭元)へ宛てた朱印状ですが、そのような戦況の中で企図された六郎の調略です。
 戦況だけを見ていると、反幕府・織田方の勢力が非常に巨大に感じますが、この流れの中に「不安の種」も見受けられます。
 三好三人衆方の中心人物である三好為三などが、幕府方に投降します。これから両軍がぶつかろうとする直前です。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

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『信長公記』野田福島御陣の事条
(前略)8月28日夜に、三好為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
『細川両家記』元亀元年条
(前略)一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『言継卿記』8月29日条
明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条
(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。(後略)
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続いて、月が変わった朔日、これも三好三人衆家中の歴々衆である三木某などが、幕府方の松永久秀に投降します。
※言継卿記4-P442

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『言継卿記』9月3日条
(前略)敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
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更に、同月3日、将軍義昭が中嶋城に入った前の日、野田・福島陣所などで大きな喧嘩が発生しています。
※言継卿記4-P442

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『言継卿記』9月2日条
武家明日中嶋の細川右馬頭城へ移座され云々。敵方香西、三宅雑談故、各為生害せしめ云々。(後略)
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この事態収拾を図る目的なのか、もう一人の三好三人衆家中の中心人物である三好長逸が、摂津国池田城から、野田・福島城へ入ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

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『細川両家記』元亀元年条
(前略)一、同9月3日に三好日向守長逸、同息兵庫介も摂津国池田より出、同国福嶋へ入城由候也。
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信長は、このような敵の内情を知っており、結束が固くない事の情報を得ていたのだろうと思われます。

この時から遡る事21年前。この中嶋城のすぐ東にある江口での大合戦(天文17年の江口合戦)も、敵方の陣中で喧嘩が始まった乱れを衝いて攻め込み、三好長慶が勝利を得た事と、状況の共通性があります。
 人間の結束の乱れを戦時・平時を問わず、冷静に見るという、別次元の格の違いが、そもそも存在していたのかもしれません。実際に、時系列で戦況を見ても、敵方の喧嘩の情報を知ったのか、そのあたりで幕府・織田勢が攻撃を始めていると見えなくもありません。

一方で、別の見方をすれば、全てが計画されていた訳ではないと思いますが、もしかすると、信長はこの窮地を逆手にとって、三好三人衆勢を本拠地から誘い出して、それを叩くという事も考えたかもしれません。攻め込むよりも、負のリスクを軽減でき、既知の地の利を活かした戦術を駆使できます。

元亀元年の夏以降、織田信長から細川六郎(昭元)宛の新発見史料は、このような戦況で発行されました。


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<元亀元年6月以降の京都周辺の戦況> =================

6/1 池田勝正、守護役として摂津国中嶋城の普請を行う
※新修 茨木市史(通史2)P28、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P153 ※狩野文書

6/2 反幕府方三好三人衆加担の牢人衆、堺へ集まる
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P189

6/17 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
※大日本史料10-4-P526、近江国古文書志1(東浅井郡誌編)P524

6/18 摂津池田城内で内訌が起こる
※池田市史(史料編1)P81、言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

6/18 幕府衆細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
※大日本史料10-4-P525(武徳編年集成)、朝倉義景のすべてP66

6/19 摂津国池田衆、三好三人衆方へ使者を派遣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、戦国期三好政権の研究P263、大日本史料10-4-P522

6/19 将軍義昭、摂津国池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
※言継卿記4-P424、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)

6/20 幕府・織田信長勢、京都から摂津国山崎方面などへ出陣
※言継卿記4-P424

6/26 反幕府方三好三人衆内三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
※言継卿記4-P425

6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
※言継卿記4-P425、戦国期歴代細川氏の研究P219

6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
※言継卿記4-P425

6/28 近江国姉川合戦

6/28 摂津守護和田惟政、小曽根春日社に宛てて禁制を下す (直状形式)
※豊中市史(史料編1)P121、大日本史料10-4-P554

6/28 反幕府方三好三人衆勢、摂津国吹田へ上陸
※言継卿記4-P426

6/29 幕府奉行衆勢、摂津国に出陣
※言継卿記4-P426

7 反幕府方池田民部丞、山城国大山崎惣中へ禁制を下す(直状形式)
※島本町史(史料編)P443

7 幕府方摂津守護格池田勝正派摂津国河辺郡荒蒔城主上月範政、三好三人衆方池田衆・荒木村重などに攻められる
※池田町史P135

7/4 信長入京
※足利義昭(人物叢書)P167、言継卿記4-P427

7/6 幕府・織田信長勢、摂津国吹田で交戦
※言継卿記4-P428

7/12 摂津守護伊丹忠親、摂津国尼崎本興寺に禁制を下す
※伊丹資料叢書2(伊丹中世史料)P115

7/21 反幕府方三好三人衆勢、摂津国野田・福島方面へ上陸
※言継卿記4-P432、足利義昭(人物叢書)P168

7/26 幕府方松永久秀、河内国へ出陣
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P200

7/27 反幕府方三好三人衆内三好長逸、摂津国野田・福島方面へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

7/29 反幕府方三好三人衆内安宅信康勢、後巻きとして摂津国兵庫に上陸
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

8/2 反幕府方三好三人衆内三好為三など、禁制発給につき山城国大山崎惣中へ宛てて音信
※島本町史(史料編)P435、戦国遺文(三好氏編2)P261

8/2 将軍義昭、河内南半国守護畠山昭高に摂津国内等の守備を命ずる
※泉大津市史2(史料編1)P435

8/3 幕府衆細川藤賢(典厩)、摂津国人野部(辺)弥次郎へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P29

8/5 反幕府方三好三人衆勢、河内国若江城の西方へ築城
※ビブリア52号P154(二條宴乗記)

8/9 反幕府方三好三人衆内安宅信康勢、摂津国尼崎に移陣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P635

8/13 摂津守護伊丹忠親、反幕府方三好三人衆派池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

8/17 反幕府方三好三人衆勢、河内国古橋城を落とす
※言継卿記4-P439、多聞院日記2(増補 続史料大成)P204

8/23 織田信長、入京
※言継卿記4-P440、ビブリア53号P155(二條宴乗記)

8/23 幕府・織田信長勢、摂津国へ出陣
※言継卿記4-P440

8/25 織田信長、摂津国へ出陣
※言継卿記4-P440

8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
※言継卿記4-P440、宝塚市史2-P191、三田市史-下-P241

8/26 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を包囲
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P635、多聞院日記2(増補 続史料大成)P205、言継卿記4-P440

8/18 反幕府方本願寺勢、摂津国中嶋城周辺を打ち廻る
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P519、(新)大阪市史5(史料編)P178

8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
※ビブリア53号P155(二條宴乗記)、言継卿記4-P440

8/28 反幕府方三好三人衆内三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441

8/30 将軍義昭、2,000余の軍勢で摂津国へ出陣
※言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206

9 反幕府方池田民部丞某、摂津国多田院に禁制を下す (直状形式)
※川西市史(資料編1)P456

9/1 反幕府方三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/2 反幕府方三好三人衆勢の摂津国野田・福嶋陣所で内紛発生
※言継卿記4-P442

9/2 将軍義昭、山城国西岡の勝龍寺城を出る
※言継卿記4-P442

9/3 将軍義昭、摂津国欠郡中嶋へ着陣
※ビブリア52号P157+62号P66(二條宴乗記)、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記4-P442

9/3 反幕府方三好三人衆内三好長逸など、摂津池田城を出て摂津野田・福島城へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/4 幕府・織田信長方紀伊国根来寺衆・播磨国人別所右得門尉など、摂津国天王寺方面に陣を進める
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/8 幕府・織田信長勢、摂津国楼の岸・川口砦へ新手を配置
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/8 河内北半国守護三好義継・松永久秀、摂津国海老江砦を落とす
※言継卿記4-P443

9/8 摂津守護伊丹忠親・和田惟政勢、反幕府方三好三人衆派池田領内の市場などを打ち廻る
※言継卿記4-P443

9/9 織田信長、摂津国天満森に陣を進める
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、言継卿記4-P443

9/10 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を攻撃開始
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/11 幕府・織田信長勢、摂津国中嶋の内にある畠中城を落とす
※言継卿記4-P445

9/12 将軍義昭、摂津国中嶋の内の浦江に入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637

9/12 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城の総攻撃を行う
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/13 反幕府方本願寺勢、幕府・織田信長方に対して蜂起する
※言継卿記4-P445、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P110

9/14 反幕府方本願寺勢、摂津国天満森で交戦
※改訂 信長公記(新人物往来社)P110

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※織田信長文書の研究-上-P417、戦国遺文(三好氏編2)P267

9/22 将軍義昭、摂津国中嶋の陣から天満森へ後退する
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、群書類従20(合戦部:細川両家記)P638

9/23 河内南半国守護畠山昭高勢など、河内国内を打ち廻る
※言継卿記4-P448

9/24 河内北半国守護三好義継など、河内国若江城へ帰城
※言継卿記4-P449

9/25 幕府・織田信長勢、比叡山の麓へ陣を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P113

9/27 反幕府方三好三人衆内篠原長房勢、摂津国兵庫に上陸
※尼崎市史2-P5、細川両家記(群書類従20:合戦部)P639

9/28 反幕府方三好三人衆内篠原長房勢、摂津国越水城を落として尼崎へ移陣
※尼崎市史2-P5、群書類従20(合戦部:細川両家記)P639

11/5 反幕府方三好三人衆派池田民部丞、摂津国箕面寺に禁制を下す(直状形式)
※箕面市史(資料編2)P414

11/12 播磨国人赤松政秀死亡
※姫路市史8(史料編:古代・中世1)P592

12 幕府、徳政令を発布
※高槻市史1-P739、島本町史(史料編)P445

12/8 幕府・織田信長、三好三人衆方の和睦を成立させる
※ビブリア53号P164(二條宴乗記)

12/13 幕府・織田信長、近江国人浅井長政・越前守護朝倉義景などとの和睦を成立させる
※改訂 信長公記(新人物往来社)P116

12/24 幕府・織田信長、三好三人衆方大坂本願寺の和睦を成立させる
※足利義昭(人物叢書)P177

12/25 反幕府方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P595

================= <年表おわり>


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2024年9月11日水曜日

令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状について

 はじめに

令和6年(2024)8月14日頃に報道されました、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状について、そこに摂津池田家の事も記述がありました。
 この史料の意味やこの時の状況について検討してみたいと思います。以下の翻刻から、いくつかの要素ごとに説明をしたいと思います。

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条目
一、池田当知行分、并前々与力申談候、
  但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
  其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者、可被加御異見之事。
  右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
 元亀元       弾正忠
   八月 日       信長 (朱印 天下布武)

細川六郎殿

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なお、翻刻については、山梨県在住のAさんや兵庫県在住のNさんに助けていただきました。大変ありがたく、感謝致します。私は崩し字が未だ、ほぼ読めないため、無理をお願いしました。Aさん、Nさん、ありがとうございました。

上記の史料について、以下の要素から、その意図や意義について、考えてみたいと思います。

  1. 元亀元年当時の戦況 ← NEW
  2. 併せて見るべき関連性の高い史料
  3. 細川六郎と三好三人衆
  4. 摂津池田家の動き
  5. 敵方(組織)の求心力を削ぐ目的があった
    ※三好方の世代交代期だった
    ※四国攻めの準備もしていた経緯から内情は概ね把握していた
  6. 播磨国方面の事
  7. 結果的に目標が達成されて、細川六郎が降る

 

天下布武の印章(出典:wikipedia