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2022年10月14日金曜日

摂津池田家惣領家(筑後守)の幼名は「太松丸」である可能性

数年間、サボっていた調べ事も、最近また、気持ちが向くようになり、このやりかけた調べ事をなんとか終わらせて、後世の役に立つカタチにしなければと思うようになりました。
 自分自身の興味を書き綴り、自分の頭の中を整理しつつ、皆さんに紹介するというスパイラルを作るのも、良いように思います。

さて、今回は、池田家惣領家系の筑後守の幼名は「太松丸」読み方が判りません。「たしょうまる」でしょうか。「たしょうがん」という薬みたいな呼び方では無かったとは思います。さて例えば、こんなシーンを想像してみましょう。
 小さな子が、何か良くないことをしようとして、その親が声をかけます。「これ、ふとまつまる(太松丸)!」...。ちょっと違う気がします。一方、「これ、たしょうまる(太松丸)!」これならシックリ来るような気がしますよね。こんなのファンタジーの世界ですが...。

近年すっかり、馬部隆弘先生のファンになり、色々と論文を読んでいます。馬部さんは凄いです。もの凄く深い。そして広い。私がこれまでに疑問に思って放置していたことが、馬部先生のお陰で、次々と解け、目が覚め、暗闇で光を見るような心地です。

そんな喜びに包まれる中で、この気付きも永年の疑問にヒントを与えてもらった要素の1つです。史料を三つご紹介します。
※以下それぞれの史料中、「太松丸」の記載は赤色文字で強調表示してあります。

--(A:永正5年(1508)8月10日)----------------------------
毎々申し遣わし候。其の方儀、油断無く相調えられるべく事肝要候。此の方の事は、別儀無く候。猶与利弥三郎(不明な人物)申すべく候。謹言。
※細川六郎澄元、摂津国人三宅出羽守、宿久若狭守、瓦林九郎左衛門、原田豊前守入道、福井三郎、池田太松丸、芥河豊後守入道宛の音信
【出典】新修広島市史6(資料編 その1:知新集)P222、戦国期細川権力の研究P207
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--(B:天文17年(1548)6月29日)----------------------------
一、大門役 波多野孫四郎・香西越後守、一、小門役 芥川孫十郎・山中橘左衛門尉、一、裏門役 池田太松丸、一、楽屋奉行 山中新佐衛門尉、一、惣奉行 塩川伯耆守・三好宗三、一、御進物奉行 飯尾上野介・茨木伊賀守、一、供物奉行 垪和道祐・高畠伊豆守・田井源介・平井丹後守・波々伯部伯耆守、一、御膳奉行 波々伯部伯耆守・中條五郎左衛門尉、一、諸衆相伴 波多野孫四郎・長塩民部丞、一、御走衆相伴 山中新左衛門尉、一、侍雑司相伴 豊田弾正忠、一、御酒奉行 安久良紀伊守・筒井神介・穂積右衛門尉、一、蝋燭奉行 吉阿、一、御折奉行 平井丹後守・飯尾越前守、一、御茶湯(御前) 伊阿、一、惣茶湯 残り同朋衆(但今度者御寺の、以下欠)、一、灯台請取 作阿・慶阿、一、年行事 長塩民部丞・柳本孫七郎、一、御成門 飯田蔵人・撫養掃部助、一、官女間 安成若狭守・秋山勘解由左衛門尉、一、兵庫間、嶋田若狭守・中村加賀守・第十加賀守、御対面所 澤田新左衛門尉・鶏冠井六介、一、十八間 波々伯部源五郎・望月太郎左衛門尉、一、三間 入江四郎左衛門尉・中村式部丞・山本与四郎、一、屏中門番 藤岡三河守・原田孫九郎・待井孫七郎・竹田六八・中澤与五郎・竹田修理亮・今井八郎左衛門尉・石柴左京進・藪田左馬允・友成与五郎。

【出典】戦国期細川権力の研究P443、続群書類従35(武家部)P221(『天文(十)七年細川御成記』「御成役者日記」条)
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--(C:天文17年(1548)8月12日)----------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正:宗田)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者、三好宗三(政長)相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物(ぞうもつ:隠す・賄賂を受け取る・盗んだもの・不正手段によって得た物)相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木ノ本に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政長父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、細川晴元方近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言。

【出典】戦国遺文(三好氏編1)P79など
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(A)の史料は、細川六郎澄元が、摂津国人三宅出羽守、宿久若狭守、瓦林九郎左衛門、原田豊前守入道、福井三郎、池田太松丸、芥河豊後守入道へ宛てて音信したものです。
 この時期、管領細川氏家督を巡り、激しい内部闘争を繰り広げており、細川澄元方として池田城を頼み、籠城していたのですが、池田家中の有力者で同族の遠江守正盛が、寄せ手の細川高国方に内通したため、池田城は陥落しました。城主(惣領)である筑後守貞正は、切腹して果てました。
 しかし、嫡子や妻など近親者は落ちのびています。この筑後守嫡子(太松丸)など、澄元方の摂津国人に宛てて細川澄元本人が、池田城陥落直後に音信しています。

(B)の史料は、天文17年6月に将軍義晴が、管領細川晴元邸を訪ねた時の記録です。
 この頃、管領細川晴元(澄元嫡子)が、側近の三好政長の讒言を真相確認をせずに聞き入れ、晴元の中心でもあった、この当時の池田家当主、筑後守信正を切腹させてしまいます。突然の切腹で、思い通りの後継者も育っていない中で、、急遽、惣領として立てられたのが「太松丸」でした。筑後守信正は、晴元邸で切腹させされており、その晴元邸に将軍義晴が訪問するという伝統的示威行事に、太松丸は晴元の近臣としての役目を課されていました。その時の記録です。

(C)の史料は、天文17年8月、三好筑前守長慶が、細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉元継・高畠伊豆守長直・田井源介長次・平井丹後守直信へ宛てて音信したもので、長慶が定頼に、三好政長の排除を求めたものと考えられています。
 この一件の真相は、娘を池田信正に嫁がせており、三好政長は姻戚上の義理の父の立場にありました。それを理由に、非常に裕福であった池田家の財産を我が物にしようとする素行があり、日頃から晴元の権力を利用して、池田家の権利などを掠め盗る動きがあったようです。
 これに耐えかねた池田家中は、同じ管領格の細川氏綱(高国弟)が台頭してきた事から、そちら側に未来を見出して離叛します。自衛措置とも言えるでしょう。しかし、タイミング悪く、その行動(蜂起)は鎮圧されてしまいます。信正は、これまでの貢献も考慮して、一度は赦免されたものの、責任を問われて切腹を命じられます。
 この晴元の行動に対して、この当時から重すぎるとの批判があり、摂津国人衆の間で波紋が拡がっており、晴元権力に対する大規模な反発が起きました。これについて、三好政長の同族であった三好長慶が、細川晴元の義父である近江守護六角定頼へ訴え出た時の史料です。

これらの史料により、惣領筑後守家に家督の問題が起きた時には「太松丸」の名が見られる事がわかります。ただ、一応は嫡子での相伝ではあるのでしょうが、その基本を守れない場合には、養子での血縁維持を行っていたのかもしれません。「太松丸」の名乗りは、父母が必ずしも一致せず、その時の事情で襲名するという可能性もあるのかもしれません。
 また、父親が同じでも母親が違う、いわゆる「腹違い」といった情況もあると思います。

それはさておき、この場合の家督選定は、晴元の信頼厚い三好政長の血縁に近い人選を強要されたと考える事は、不自然では無いように思います。不本意ながらも要求された条件を受け入れたにもかかわらず、池田家からの希望を受け入れなかったと、この文面から読み取れるように思います。その後、世論の支持と三好長慶の保護もあり、池田家中は三好政長の一派を池田家から追放しています。
 更につけ加えるならば、当主と一心同体化した、官僚機構(この事態で、もう一つの権力体となった)であった池田四人衆が、家政体制護持のために、別の家督適格者(孫八郎:遠江守家系か)を立てて、「太松丸」擁立派池田長正と対立して、暫くの間、対立構図が続きます。双方に正統を名乗る勢力が並立する期間が出現します。


上京の右京大夫・典厩屋敷付近(2017年撮影)

2017年3月23日木曜日

摂津池田家当主よりも地位の高い池田播磨守正久という人物について

摂津国内の有力国人であった池田氏は、その活動範囲の広さから様々な史料が残っています。ただ、それらは断片的で、連続性が無いために、関連性の判断が非常に難しいところがあります。

今回ご紹介する、池田播磨守正久の書状もそのひとつです。いつもの様に、先ずその史料からご紹介します。年記未詳で、無神(10)月20日付けで、今西宮内小輔(春憲)宿所へ宛てたものです。
※池田市史(史料編1)P25、豊中市史(史料編1)P115、春日大社南郷目代今西家文書(本文編)P446

(史料1)----------------------------
前置き:尚々納所仕候様々御馳走所給候。尚此者可申候間、不能懇筆候。
本文:此間不申通御床敷存候。仍去年も以書状申候代物之儀、急度被成御馳走候而可給候。若貴所被仰儀、無同心之体候者、此方へ可被成御引付候。催促付可申候。但寄井筒屋其方へ不被借候哉。こい(乞い)可申候はば、御報に委細可承候。御隙之時進入御奉待候。恐々謹言。
----------------------------(史料1 終わり)

年記未詳の史料という事からその比定なのですが、個人的には『春日大社南郷目代今西家文書』の推定も参考にし、今のところ天文16年(1547)と考えていますが、これについては他の年代の可能性もあります。しかし、確証無く、流動的なところがあります。

それで、その年代比定の理由ですが、宛先である「今西宮内小輔」の活動時期は、天文から天正に渡り活動していて、池田家当主の信正・長正・勝正の3代を跨ぎます。ですので、この視点では、殆ど年代推定の幅を狭めることができません。
 次に、文の内容ですが、「尚々納所仕候様に御馳走所給候」や「仍去年も以書状申候」「若貴所被仰候儀無同心之体候者、此方へ可被成御引付候」などの部分は、天文15年に南郷目代今西家から大規模な代官請けを得た池田家が、今西家との関係を繋ごうとしていた行動で、池田信正失脚中の家政に関する動きと考えてみました。
 この史料のように池田正久は、家政の一端を担って活動していたのかもしれませんが、残念ながら、他に正久の史料は見当たらず、この件についての詳細は不明です。

更に、正久の官名である「播磨守」ですが、これは山陽道(8カ国)に属する大国(他に上国・中国・小国の区別あり)の扱いです。この大国は、地位にすると「従五位」で、池田家当主の「筑後守」の地位「従五位下」を上回るもので、播磨守は一段地位の高い人物となります。
 池田家中には、従五位下を上回る地位の人物は見当たらず、池田正久は家中で一番地位の高い人物という事になります。一般的には、こういう社会的地位を家中の者が得る時には、当主を超えない範囲で地位の配分(栄典授与・論功)が行われますが、何らかの特別な手柄を立てて地位を得ていくという可能性も無い訳ではありません。
 しかし、そういった場合は家中が割れて敵味方となり、激しく争う場合や、家を出た者が別の有力者に属して出世したような場合などに見受けられたりします。

いずれにしても、池田正久の地位の高さの実用性は、当主が健在で正常な家政運営が行われている間には、可能性として低いように思われます。
 それにあたる時期としては、天文16年6月25日に細川氏綱を擁立した池田家が管領細川晴元に背いて降伏し、恭順していた頃(信正は隠居し、宗田との入道号を名乗ったらしい)、即ち、池田家中が主体的で正常な家政を執り行えなくなっていた時期の正久の行動と考えてみました。

ちなみに、この池田家が細川晴元に対して恭順している時期に、池田家にとって大きな出来事がありました。
 池田信正は、義理の父である三好政長を通して晴元に謝罪し、一応は許されていました。政長は、晴元の最側近でもあり、その流れで接点を活かすことは自然な見立ててです。しかし、池田家にとって予想外だったのは、親類として保護するどころか、政長が池田家中の政治に介入を始め、財産なども不当に取り上げる行動に出た事でした。
 信正の妻は、三好政長の娘で、それにつながる一派が池田家中に居て、諍いが起きていたようです。
 もしかすると、池田正久は三好政長一派である可能性もあるにはあります。何事も有利に運ぶために、社会的地位を高くする方法もあるのかもしれません。そうだとすると、姓名も「三好」だった可能性もありますね。これは今のところ、筆者の空想レベルなのですが...。
 
それから、個人的には訝しんでいるところもあるのですが、この播磨守正久が池田勝正の父と推定する研究者もあるようです。その根拠も今のところは、希薄ですが、こちらが完全否定する程の材料も無いといったところです。

また、文中に「但寄井筒屋其方へ不被借候哉」との表現が見られます。「井筒屋」とは商人らしき人物ですが、この井筒屋について、関係無いとは思うのですが、池田の郷土史に井筒屋が関連していますので、一応、参考までにあげてみたいと思います。
※『わたしたちの郷土 -文学に現れた遺跡と人物-』より

(資料2)----------------------------
昭和30年代の池田本町の井筒屋跡写真
写真:昭和30年代の池田本町の井筒屋跡
【井筒屋跡】
本町いづつやの2階に住む豊年の新米坊主呉春(自筆の大黒天図署名より)
天明元年(1781)当時、存充白と名乗っていた松村呉春は京都から蕪村門の先輩、川田田福の好意に甘え池田の本町にあるその出店井筒屋の2階に移り住むこととなった。
 翌天明2年の年頭に当たり全てを新しくしようと考え、池田の古名、呉服で春を迎えるのだから呉服の呉と春とを結びつけて、呉春と呼ぶことにした。時に31才。
 本町井筒屋云々の署名は天明2年9月、呉春が池田荒城氏(満願寺屋)の転居祝いに贈った大黒天図に残されたものであるが、その頃はまだ丸坊主になって日が浅かったので、自分でも珍しくこんな称えをしたものらしい。一説には本町通、現紅屋呉服店ともいう。
【川田田福】
田福は、井筒屋庄兵衛と称した京都の人で呉服商を営み、池田本町に出店を持っていたので、池田と因縁が深い。田福は蕪村について俳諧を学び、その門下の中でも尊敬に値する人物であった。田福は謡曲、蹴鞠にも興味を持ち、また絵画をもよくしたようである。池田の高法寺に川田祐作居士遺愛碣というのが建っているが、これは荒木李𧮾の撰木で弟の荒木梅閭の筆である。
----------------------(資料2 終わり)

さて、史料1の文の内容は、少し音信が途絶えたが、去年も書状で伝えた「代物」の事、必ずの取り計らいを期待する。もし、そちらでそれに同意しない者があれば、催促を行うので、こちらへ報せてもらいたい。ただし、井筒屋よりそちらへ借りられるか。乞う事があれば、報せにより承る。状況次第に進めてもらい、それを待つ。、というような旨で伝えており、「代物」についての用件のようです。代物とは「銭」の事なのかもしれません。
 この音信の時期は、10月ですので、米の収穫時期です。前置きにある文は、その事のようです。しかし、それとは別に、去年から代物の事について伝えているようです。それを南郷目代の今西宮内少輔にも協力を求めているのは、上位の権力からの用件なのかもしれません。

池田正久についての史料は、この1点しか見当たらず、不明なところも多いのですが、今後も調査を続けていきたいと思います。



2013年9月2日月曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その6:三好為三と下野守が別人であると考える要素)

三好下野守と同苗為三が別人だという事は、史料上では明らかです。その一方で、同一人物であるとの要素(説)も検証しつつ、別人であるとの考えの精度を、更に高める必要もあろうかと思います。
 また、くどい様ですが、両者の前提は、下野守は政勝の兄で、政勝は入道して為三と名乗ったと考えています。

さて、三好下野守と同苗為三について、既述の記事から抜き出して、両者が別人であると考えさせる中心部分の史料を元に、考えをまとめてみたいと思います。両者の活動の経緯については、それぞれの記事をご覧下さい。
 両者が別人と私が考える決定的要素は、永禄12年5月頃、三好下野守が死亡した後にも、三好為三の活動が史料上で見られる事です。しかも、下野守と入れ替わるように、それまで殆ど見られなかった、為三の自署史料も現れます。
 先ずは、下野守が死亡したと伝える史料から見てみましょう。永禄12年5月26日条にある『二條宴乗記』の記述です。
※ビブリア52号P78・62号(補遺)P64(二條宴乗記)

-史料(1)-------------------------------
52号:
三好下野(守)入道釣閑斎、当月三日に遠行由。あわ(阿波)於、言語道断之事也。
64号:
三好下野(守)入道釣閑斎、当月三日に遠行由。
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 三好下野守は、阿波国で死亡したらしいと、入って来た情報を短く書き留めています。これについて、二條宴乗記は「言語道断」と自分の感想を書き残していますが、言葉に言い表せないと、しています。
 これは、その人格や個人的な事にも寄るとは思いますが、一乗院が色々と下野守を通じて様々な便宜(興福寺の権利獲得などの政治的な折衝窓口として)を得ていた事から、その死亡によって、何か大きなものを無くしたような気持ちになっていたのかもしれません。下野守は、様々な団体の訴えを聞き、対応していました。

また、キリスト教の宣教師ルイス・フロイスの編纂した『日本史』第29章(第1部77章)-司祭を(都へ)連れ戻す事に関して翌1568年に更に生じた事-条には、三好下野守の死について記述があります。
※日本史4-五畿内篇2(中央公論社刊(普及版))P70

-史料(1-a)-------------------------------
けれども1年と経たぬ内に、この下野殿は奇禍に遭い、哀れな死を遂げたし、(後略)。
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下野守は死亡したとの記述がここでも確認できます。この史料は、その出来事から「1年も経たない内に」という期間まで考証を加えてくれています。また、フロイスは当然、二條宴乗の記した日記を見る事はできません。下野守が死亡したと、フロイス自身も記録にとどめ、把握していた訳です。
 やはり、下野守の永禄12年頃の死亡は、事実と考えられます。また、「奇禍に遭い」とは、何かの謀略による死を示唆しているのでしょうか?何れにしても、その最期については、詳しく判りません。

ちなみに二條宴乗とは、奈良興福寺一乗院の坊官で、本願寺宗でいうところの下間氏のような役割を果たす、家政機関の中心人物です。また、奈良興福寺の一院である、多聞院の英俊が残した『多聞院日記』という文書もありますが、こちらも宴乗と同じような立場で残した日記です。
 こういった家政機関は、独自に色々と情報を収集し、備忘録として日記に残していたのです。奈良はこの当時、大都市でしたので、多くの商人や重要人物が出入りし、情報をもたらしました。
 それらの日記を読むと、特に二條宴乗は、堺の動きも熱心に収集していたようです。商人や使者などから、色々と話しを聞いている様子も日記から判ります。三好下野守が死亡したとの情報は、堺方面から、もたらされたのかもしれません。

そして、下野守が死亡したと奈良興福寺一乗院に伝わった翌月の閏5月、三好為三が関わる、三好三人衆家中での死亡者も出る程の喧嘩について、同じ奈良の多聞院に伝わっています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

-史料(2)-------------------------------
淡路国於喧嘩有て、三好為三被官矢野伯耆守以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
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この記述は奈良興福寺における、三好三人衆についての関心の高さを窺わせます。永禄10年から翌年にかけて、三好三人衆と松永久秀の抗争があり、これが奈良を舞台に行われた事から、興福寺は三好三人衆についてよく知っています。また、様々な土地や権利の安堵も受けていたりしますので、実益も受けていました。
 同12年から元亀元年頃まで、将軍義昭政権の永続性を不安視し、三好三人衆が返り咲く可能性を、多くの宗教勢力を始め、その他大小の権威が想定していた事もあって、興福寺もそれに漏れない考えを持っていた事を窺わせる動きです。

上記2つの史料からは、下野守が死亡した後にも為三は生きていたという事が判ります。更に、元亀元年9月1日条の『多聞院日記』には、三好為三の動きが記述されています。これに関連して、『言継卿記』8月29日条にも、為三についての記述が見られます。
※言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206など

-史料(3)-------------------------------
『多聞院日記』9月1日条、(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。『言継卿記』8月29日条、明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
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多聞院英俊は、三好為三の動きに関心を持ち続けています。多分、英俊は、為三についてどこに所属する、どんな人物で、どんな経歴を持つのかを、ある程度は知っていたのだろうと思います。
 英俊は為三について自身の日記中に、人物録のように詳しくは書き残してはいませんが、その動向に関心を持ち続けているという事は、そこに何らかの重要性を感じているからに違いありません。
 ちなみに、三好下野守は、数千の軍勢を常に動かす程の人物でしたので、「300計り」とは規模が小さ過ぎます。また、下野守は三好三人衆の中枢であり、そんなに簡単に寝返るとは考えられません。

さて、元亀元年9月、為三の幕府・織田信長方への投降時、為三は幕府方に寝返りの条件を要求しています。同年9月20日付けで、信長が為三へ宛てた音信があります。
※織田信長文書の研究-上-P392

-史料(4)-------------------------------
摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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これについて、信長と幕府は、1年近く経ってから解答をしています。随分と結論に至るまでに苦慮していたようです。しかし、この頃幕府・信長方が、京都周辺において軍事的な空白地域を作り出していたため、それへの対応として、こういった措置が取られたようです。

先ず、元亀2年6月16日、信長が為三の要求について、結論を出します。
※織田信長文書の研究-上-P392

-史料(5)-------------------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭(忠親)へ了簡される事肝要候。
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この史料で注目したいのは、「史料(4)」の要求に対して信長は、為三の本知は東成郡榎並庄だから、そこを先ずは回復するようにとの、解答をしています。豊嶋郡領有の要求の代替案を出して対応しています。これは幕府方として身を寄せていた、池田勝正に対応する配慮と考えられます。
 そして「史料(5)」に続いて、将軍義昭が、為三の要求に解答を出します。同年7月31日付けで、為三に宛てて御内書を下しています。
※大日本史料10-6P685

-史料(6)-------------------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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直上の2つの史料を見ると、信長は厳しい条件を為三に告げていますが、将軍義昭はその厳しさを緩和し、希望が持てるような内容を加えて伝えています。

一方で、将軍義昭の御内書に見える「舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事」とは、下野守存命中にはあり得ない概念が記されています。
 三好三人衆の一人であった下野守が、既に死亡している旨を、将軍義昭・信長方に寝返る際に、為三は告げていたのでしょう。
 何れにしても永禄12年5月以降、三好下野守に関する資料は見られなくなり、直接的史料も見当たりません。しかしながら、それと入れ替わるように為三の資料は現れるようになります。
 
「史料(6)」に代表されるその関連の動きを見ても、三好下野守と為三は、確かに兄弟であろうと考えられます。
 それからまた、既出の「史料(4)」に関連する興味深い史料があります。天文17年8月12日付けで、三好長慶が、管領細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉・高畠伊豆守・田井源介長次・平井丹後守へ訴えた史料です。
※大阪編年史1-P459

-史料(7)-------------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併て面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松(長正か。不明な池田一族。)、条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所、彼の様体者、三好宗三相拘え渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木本(木ノ本?)に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政勝父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言。
※■=欠字部分。
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この頃は三好宗三が嫡子の同苗右衛門大夫政勝に家督を譲り、家の後見人として活動していた時期です。
 史料の下線部分、宗三・政勝父子の行動に注目して下さい。天文17年の時点で、血縁を持つ裕福な池田家の乗っ取りを、宗三・政勝父子は企んでいました。これは実態からすると、婚姻による、同化政策ともいえます。

天文17年から22年後の元亀元年、三好政勝はこの時に、これまで果たし得なかった野望を固有の権利として、将軍義昭・織田信長へ要求したのが「史料(4)」の背景と考えられます。
 そしてその回答として信長は「史料(5)」で、為三の本知は摂津国東成郡榎並庄である事から、そこを先ず回復するようにと、伝えています。その理由は、宗三・政勝父子がかつて、榎並城主だったからです。

そして更に、三好三人衆のひとり、有能であった兄の下野守の後継として、阿波三好家に復帰し、その跡職を継ごうとします。それに関すると思われる史料があります。
 欠年8月2日付け、三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、山城国大山崎惣中へ宛てて音信しています。
※ 島本町史(史料編) P435

-史料(8)-------------------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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しかし、為三は一族との折り合いをつけられなかったようです。それから間もなく、為三は離反する事となりました。
 その離反が、元亀元年9月、摂津国野田・福島の陣から将軍義昭・信長方に投降した「史料(3)」の行動理由だったと考えられます。
 ちなみに、真偽の程は難しい判断を要しますが、摂津池田家と関わりの深い、個人宅に伝わる興味深い史料があります。欠年10月7日付けで、三好為三が上御宿所へ宛てて音信しているものです。
※箕面市史(史料編6)P438

-史料(9)-------------------------------
代官之事 一、刀根分、一、茨木分、以上。
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元亀3年4月頃、三好為三は、将軍義昭・信長方から再び離反し、三好三人衆方に復帰したようです。これは年記を欠く史料ですが、内容を見ると、元亀3年に該当するものかもしれません。元亀元年との推定もありますが、文中に登場する松永久秀・篠原長房・織田信長の関係性が、判明している10月13日段階では、元亀元年と想定すると各々の場所との整合性が取れません。
 欠年10月13日付けで、為三が、聞咲(所属不明)という人物に音信した史料です。
※戦国遺文(三好氏編2)P272、大阪編年史1-P459

-史料(10)-------------------------------
前置き:尚々細々書状を以って申し入れるべく候ところに音無く、中々是非に及ばず候。そもしの事に有るべからず■■■候。尚追々申し承るべく候、以上。
本文:御状委細拝見せしめ候。その後切々申し承るべく候に、遠路候へば、とかく音無く本意に背き存じ候。一、摂津国大坂の事、京都へ相済まさず候。この一儀種々才覚申し儀候。この間日々天満宮まで罷り出、大坂へ参会申し候。御屋形様へ重々懇ろ候の事、一、篠原長房・安宅神太郎渡海候。奈良右(不明な人物)河内国若江に寄せられ候。安宅神太郎摂津国東成郡榎並に在陣候。昨日(10月12日)松永山城守久秀・十河・松山重治等と牧・交野辺罷り立ち候。少々川を越し、摂津国高槻へ上がり候由候。同国茨木表相働き、同国池田へ打ち越し相働くべく候旨候。一、その表の事、「むさと」之在り由候。推量申し候。扨々(さてさて)笑止に候。細々仰せられ候、随分御才覚この時候。一、織田信長火急に上洛すべく候由候。左様候はば、何方も相済ませるべく候。御屋形様へは池田跡替え地為、河内半国・堂嶋・堺南北・丹波国一跡前へ遣わし候。■斎の事、今少し見合わせ申し候者、相済ませるべく候。堂嶋にて御存知の如く摂り、一円之無き事候間、御馳走申さず無念候。其の為然るべく使いに相調うべく候。一、摂州(意味は不明)尚承られるべく候。いささか等閑無く候。何れも追々申し談ずべく候。此の外急ぎ候間、申し候旨申し候。恐々謹言。
※■=欠字(判読不明も含む)部分。
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この史料も下線部分に注目して下さい。この段階でも為三はまだ、摂津国豊嶋郡と思しき池田領の領有に拘っており、しかも、その領域が膨大に拡がっています。この根拠はやはり、天文17年の事件以来の「史料(7)」によるものと思われます。

為三も微妙な権力の中心線のズレを捉えつつ、そこに自分の要求を挟むという、何とも絶妙な動きをしているのには、感心させられます。
 元亀3年10月頃は、将軍義昭と信長が決定的な不和となり、幕府内部が分裂状態に陥っていましたので、為三のこういった要求は受け入れられる可能性も、無かった訳ではありません。また、文中に「御屋形様」とあるのは、三好義継を指すものと思われ、「河内半国」の領有要求も同国南側を想定しているのかもしれません。

兎に角、為三の要求は一貫しており、これを相手に求めるからには、当然ながらその要求の根拠となるものが必要条件となります。
 その必要条件とは真実の「核」であって、それが三好政勝を経て入道し、為三となった人物*であり、それらは同一人物と考えてもいいように思います。
※実際、諱の「政勝」は一生涯持ち続けますが、表にはなかなか出て来なくなります。

そしてまた、下野守と為三が兄弟であった事も間違いが無いと思います。先ずは、明確な史料がある事でそれが判ります。「史料(6)」です。更に、それを裏付けるのは「史料(8)」であると考えられます。
 「史料(8)」に署名している三好日向守、石成主税助は、三好三人衆と呼ばれるメンバーで、家政機関の最高位に就いている人物です。公文書を発行する場合、これに三好下野守は漏れなく署名しますが、この史料の場合には、下野守に代わって、為三が登場しています。下野守の弟である事から、その跡を継いだものと思われます。
 この事が為三の兄下野守の跡職を認めさせるよう主張する元になっていると思われます。政治は、前例主義ですから、その事実があればそれをしっかりと正当化してもらえる勢力に加担するべく、為三は考えていたのだろうと思います。

従って、下野守と為三は兄弟である事は、事実であると考えられます。これにより、下野守と為三の父も三好宗三であろうと、必然的に定義ができるものと考えられます。



2013年7月17日水曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)

この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

 三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)
三好下野守(宗渭)については、不明な事も多く、特にその初期の活動についてはよくわかっていません。また、諱についてもわかっておらず、通説となっている「政康」についても断定されたものではありません。

それから、三好下野守と三好為三の関係については、「兄弟」との史料があります。元亀2年(1571)7月31日付け、将軍義昭が三好為三に下した御内書です。
※大日本史料10-6P685(狩野文書)

-(史料1)------------------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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後にまた、三好為三について取り上げる予定ですが、為三は三好宗三政長の跡取り「政勝」と考えられますので、下野守と為三が兄弟であれば、両者の父は宗三政長であろうと考えられます。
 実は、現代感覚と違って必ずしも長男が家を継ぐとは限らないのですが、後の実績を見ても有能であった長兄の下野守が家の跡取りにならなかったのは、下野守が既に管領細川晴元に近従するなどして、家を離れていたなどの状況があったのかもしれません。それからまた、三好長慶と宗三政長の闘争があり、この時に競り負けた政長は隠居させられたという、急な外圧があった事にもよるかもしれません。

それから、この三好政長は、摂津国榎並庄を本拠とし、榎並城を居城としていました。
 今谷明氏は、三好長慶を中心とする勢力を阿波三好氏、三好政長を中心とする勢力を摂津三好氏などと区別して見ていたようですが、両者のこういった拠点地域を見ての事と思われます。
 長慶よりも一世代違う年長であり、細川晴元の重臣であるなどの安定感があった政長を選び、池田氏は色々と期待しつつ繋がるようになったようです。一方の政長はこれにより、摂津国内で更に安定した勢力基盤を手に入れようともしたのでしょう。
 摂津三好氏の本拠地であった榎並庄に政長は、大変こだわっていたようです。天文18年(1550)6月の江口合戦での敗戦を見ても、こだわりのあまりに状況を見誤ったようなところも見受けられます。政勝が年若かったせいもあるのかもしれません。
 そして、これが跡取りの政勝(為三)にも引継がれ、政勝もまた、その領有に非常にこだわっています。江口合戦で不覚を取ったため、強く心残りになったのかもしません。
 
しかしながら、政勝(為三)と比べると、下野守は兄弟とはいえそれ程のこだわりは見せていません。そういうこだわりをしなくても良い経済環境や立場があったとも考えられます。
 それ故にその活動の初期は特に、活動の様子がわかる史料もなかなか無く、史上でも下野守は、突然現れる感じを受けます。
 三好下野守について、私の調べている享禄2年(1529)から天正7年(1579)までの間の史料上の初見は、今のところ摂津国川辺郡本興寺(現尼崎市)に宛てた禁制です。三好散位政生として、弘治2年(1556)8月付けで本興寺並びに西門前へ宛てて禁制を下しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P444
 
-(史料2)------------------------------
一、当手甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り寄宿事付き竹木剪り採り事、一、矢銭・兵糧米等相懸け事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て下知件の如し。
-------------------------------

この時は状況からして、将軍義輝・細川晴元の下で行動していたようです。文末の「仍て下知件の如し」とは、直状形式といわれる文体で、下野守が上意を伝達している事を意味します。

一方、弘治という元号が4年で終わり、その年(1558)の2月28日から「永禄」と変わります。この元号は、将軍を経ずに天皇が申請による改元を認めており、統治者が変わった事を示していました。
 改元の申請者の実力や資金力、朝廷への貢献など、様々な点で検討されますが、それに相応しいと認められたのは、管領細川氏綱を支えていた三好長慶でした。ただ、表向きは長慶よりも上位の人物であった氏綱を立てて行われています。
 そんな中、三好下野守の音信が永禄元年閏6月20日付けで、細川晴元と共に、前記と同じく本興寺に宛てて音信されています。先ず、細川入道(永川)晴元が、摂津国尼崎本興寺へ宛てた史料です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P445
 
-(史料3)------------------------------
音信為青銅100疋到来候。誠に以って喜悦候。猶三好下野守散位政生申すべく候。恐々謹言。
-------------------------------

次に、同日付けで、三好下野守散位政生が、尼崎本興寺玉床下へ宛てた音信です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P445

-(史料4)------------------------------
屋形(入道(永川)晴元)出張に就き、御音信の通り、即ち披露致し処、祝着之旨、直札以って申され候。尚相意を得申すべく由候。将又私へ鳥目50疋、御意懸けられ候。御懇ろの段、恐悦の至り候。委細大物左衛門尉申し入れるべく候。恐々謹言。
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更に、同年6月9日付けで、山城国大山崎へ宛てて、細川入道(永川)晴元の奉行人として、三好下野守(政生)・香西越後守が、山城国大山崎へ宛てて禁制を下します。
※島本町史(史料編)P432

-(史料5)------------------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉、一、山林竹木剪り採り事並びに放火の事、一、矢銭・兵糧米相懸け事、右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩有ら者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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この下野守の一連の動きがあった頃、将軍義輝と三好長慶との間に和睦の機運が高まり、模索され始めます。しかし、将軍と晴元方の内部調整が進まず、しばらくグズグズとします。永禄元年12月、将軍義輝は5年ぶりに京都へ戻ります。

それから2年を経て、大坂本願寺宗の寺である、河内国交野郡の順興寺実従が、三好下野守へ音信しています。永禄3年(1560)4月8日付けの『私心記』に見られます。文中の土屋氏は河内北部の国人です。
※本願寺日記-下-P430

-(史料6)------------------------------
土屋■■■(孫三郎?)返礼ニ、絞手綱ニ具遣わし候。使い四郎左衛門。三好下野守へ樽三荷二種、四郎左衛門ト忠兵衛ト遣わし候。
※■=欠字
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この永禄3年頃は更に京都の政治情勢が変わっています。将軍義輝は永禄元年12月3日に入京し、三好長慶との闘争は一応の落着となっていました。しかし、この和睦に同意せず、細川晴元は別行動を取った事から、その時点で反幕府方となって、公式の身分的には浪人となっていました。
 三好下野守との関係は、この時に岐路を迎えたのかもしれません。下野守の弟である右衛門大夫政勝は、晴元と共に行動し、下野守は将軍や幕府方へ身を寄せるなど、別の道を選んだのかもしれません。
 永禄元年頃、細川氏綱を支えていた河内守護家畠山氏と三好長慶は、細川晴元方に対して共闘していたのですが、永禄2年には畠山家中で内訌が起こります。これに幕府方として三好長慶が介入します。乱はその年の内に沈静化したものの、翌3年早々、内訌を起こした安見氏と畠山氏が今度は一体化して、長慶に反旗を翻します。怒った長慶は再び河内国へ討伐軍を起こします。
  『私心記』を見ると、そんな状況下で、下野守が河内国で行動していた事が判ります。また一方で、この下野守の行動は、反三好長慶として一貫していた可能性はありますが、ハッキリとした事はわかりません。

長慶はこの時、将軍義輝を抱えて幕府方の重要人物(相伴衆)となっており、幕府軍としての河内国討伐戦を指揮していました。
 高い格式を持つとはいえ、いち守護職の権力的な勢力となってしまった現実ではこの力に対抗できず、畠山氏は降伏し、もう一つの守護職権を持つ紀伊国へ一旦落ち延びます。畠山氏は畿内の周縁部勢力となり、これがまた細川晴元勢と繋がるなどして、三好氏に反発します。

この流れの中で、同族であった三好下野守も許されて、三好長慶に迎えられたのかもしれません。長慶の領知が拡大され、人材が必要になったという事もあるのかもしれません。
 というのも、将軍義輝は長慶に、細川晴元との和解を促し、長慶はこれを受け入れます。永禄4年(1561)5月4日、晴元は逃亡先であった近江国朽木を出、堺を経て、摂津国高槻の普門寺へ入ります。こうなれば、三好下野守も、長慶への敵対行動の理由を完全に失います。

ちなみに三好下野守は、「三好下野入道聞書」という刀剣に関する著書も残す程、当時一流の目利き(鑑定家)でもありました。この深い知識は、多くの人に尊ばれ、下野守は細川藤孝の師でもあったようです。
 これは、晴元や将軍義輝の側に仕えるなどで、日本国中の名品を目にし、知識・経験を貯えた事の結晶かもしれません。 また、そういう役割をしていたのかも知れませんね。当時、祝事や贈答などで名刀のやり取りは頻繁に行われています。

さて、河内国が長慶によって制圧された翌年、永禄4年には、三好下野守は長慶方として行動しているようです。『細川両家記』の記述を見てみます。

-(史料7)------------------------------
(前略)、然るに又南方泉州表へは紀伊国根来寺衆、畠山高政、安見方一味して岸和田辺へ陣取り也。是併せ去年十河民部大輔殿死去により出張由也。(中略)。一、和泉国表へは、阿波国三好実休大将為、安宅摂津守冬康・三好山城守・同苗下野守・同苗備中守・篠原右京亮長房・吉成勘介、此の外河内国高屋の城の阿波国衆打ち出し、泉州表へ陣取り。敵味方の間5丁(5,500メートル)・3丁(3,300メートル)には過ぎざりけり。兎に角して年暮れ候也。
-------------------------------

これ以降、三好下野守は一貫して三好長慶の一族衆として、重要な役割を果たしますが、有能であり、人格者でもあったのか、比較的短期間の内に「家老」のような重い役割を持つ立場になっていきます。
 三好長慶が永禄7年に死亡すると、三好三人衆のひとりとして、三好家を支えます。やはり、誰もが認める能力を備えていた事は、こういった結果を見ても窺えます。
 
さて、この三好下野守と摂津池田家も浅からず関係しています。測った訳では無いと思いますが、運命がうまく両者を導いているようにも見えます。池田信正の死後、その後継を巡って家中の対立が起こりますが、弘治3年に官僚集団ともいえる池田四人衆が推す「孫八郎」が死亡したのをキッカケに、もう一方の後継候補であった長正と和解したようです。
 ちょうどその頃、京都の中央政権もひとつの画期を迎えます。細川氏綱を推す三好長慶が、細川晴元との闘争に打ち勝ち、近江国に亡命していた将軍義輝が京都に戻って和睦します。三好長慶が支える氏綱政権が安定し始めた事により、これまでとは違った動きが出始め、様々な再編、新たな課題の克服に迫られるようになります。

池田氏はこの流れに乗り、三好家と血縁を持っていた事が家運の繁栄に繋がり、一族的扱いを受けるようになります。これは政権の安定を図る必要があった時期に、池田家政がうまく対応した事にもよるでしょうし、三好下野守との個人的な相性が良かった事もあったのでしょう。
 池田家にとっては、親戚(長正から見るとオジ)が中央政権の重臣に居るのですから、これ程の良い環境はありません。池田氏は一族扱いを受け、同政権内で禁制の発行も許される程の立場に成長します。
 その後、次の当主勝正の代でも池田家は、三好家との良好な関係を維持し、三好三人衆が推す第14代将軍足利義栄政権樹立にも大きな支援勢力の一つにもなりました。

少し興味深い資料があります。『摂津国豊嶋郡池田村大広寺所蔵池田系図』に、永禄10年7月の事として、摂津池田家の一族である池田宗伯(これは法名で諱はわからず)が、三好三人衆の三好下野守により、大和国北葛城郡箸尾村に知行を得たとあります。
 系図での記述ですので、取扱いに注意は要しますが、しかし、これが時期・場所・人物ともに、全く的外れではないのです。事実、この時には箸尾庄の領主であった箸尾氏は、三好三人衆に土地を追われて居らず、欠所地になっていた事が『多聞院日記』に見られます。
 詳しくは、わが街池田:池田氏関係の図録(奈良県北葛城郡箸尾の箸尾城跡)のページをご覧下さい。
 
しかし、永禄11年秋、日本史上あまりにも有名な織田信長の中央政権への登場で、三好政権が大きく動揺します。それについての三好方の対応の拙さもあったのですが、池田氏は家の保全のため、一旦三好家から離れざるを得ない状況となります。

直ぐさま三好三人衆は、京都奪還の軍勢を起こし、将軍義昭の居所である京都六条本圀寺を目指して侵攻しました。永禄12年正月の本圀寺・桂川の合戦です。
 三好下野守は、幕府方となった池田勝正などと桂川で対戦しますが、利あらず、三好三人衆の軍勢は敗走します。三好下野守は、この時重傷を負ったのか、その年の5月3日に死亡します。『二條宴乗記』にある記述です。
※ビブリア52号P78 (二條宴乗記)
 
-(史料8)------------------------------
三好下野守入道釣閑斎、当月三日に遠行由。あわ(阿波)於、言語道断之事也。
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記録に直接的な死因が記されている訳ではないので、病気や高齢による死亡かもしれませんが、当時の史料には「遠行」とあり、則ち死亡した事が記されています。
 しかし、本圀寺・桂川の合戦に関する当時の記述には、三好下野守が戦死したとの噂が記されており、かなりの激闘であった事と、死んだとの噂が出たくらい、三好方の負けが込んでいたようですので、これらの情報を鑑みると、下野守は合戦で深手を負ったのではないかと考えられます。


復活した福島の野田藤
それから、取扱いには注意を要しますが、元亀元年の夏、三好三人衆が大挙、摂津国野田・福嶋城へ入り、幕府・織田方へ攻勢を展開した時の、興味深い資料があります。
 同地野田の春日社の名物「藤」を詠んだ和歌を武将達が納めたようです。その中に、三好下野守の歌があります。
※なにわのみやび野田の藤(藤三郎氏著)P170

-(史料9)------------------------------
 難波江の、流れは音に聞え来て、野田の松枝に、かかる藤浪
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これは、三好家中の沢田式部少某が編んだ、和歌集らしく、そこに名を連ねる人物の顔ぶれを見ても、同時期にはあり得ない内容ですので、時期の違うものを同じテーマで纏めたものと考えられます。
 元亀元年では、三好下野守も死亡していたと考えられますので、顔ぶれに矛盾があります。この時敵であった松永久秀も「松永弾正」として名を連ねていますが、この時は山城守を名乗っています。敵を入れるとは思われませんので、ここに名を連ねる人物が皆味方であった時期に詠んだ歌なのかもしれませんが、今のところハッキリした事は判りません。

しかし、非常に興味深い資料です。

長くなってしまいました。他にも色々あるのですが、下野守については、やはりこれだけに集中して論文を書いた方が良さそうですね。そう遠く無い内に実現したいと思います。

次は、三好政勝為三について考えてみたいと思います。




2013年7月12日金曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その2:池田筑後守信正(宗田)について)

池田筑後守宗田(信正)は、管領細川右京大夫晴元に重用され、その政権を支える国人の一人でした。各地の守護も政権を支える大きな力となってはいましたが、国人はそういった地域の枠を越えて、江戸幕府でいうところの「旗本」のような、守護を通さずに直接指示を受けるような事もあったようです。

ですので、宗田(信正)は京都に屋敷を持ち、管領と行動を共にしていたようです。将軍への毎月の挨拶などの行事には宗田(信正)の名前が見えます。更に信正は、将軍からも直接的に音信(指示)も受けるようにもなっており、「御内書」などをしばしば受けています。摂津・河内・山城・近江・丹波など、京都周辺の国々では特に、そのような傾向があったようです。
 また、それらの事が常態化すると、外聞的にも身分を整える必要があり、信正は天文8年6月に「毛氈鞍覆・白笠袋」を許されます。これは、格式ある大名のみに許された栄典ですが、室町末期には乱用されていたようです。しかし、社会的な効力はある程度持っていたようです。

ちなみに「宗田」とは、隠居(現代感覚とは違う)後に名乗った入道号で、それが法名ともなったようです。また、「宗」を使う所が三好宗三一統と何らかの共通性を感じます。今のところ、その理由について、はっきりはしていません。

それからまた、細川晴元は阿波国出身であったため、これを支えるために同国の武士が代々側近として取り立てられていたのですが、その大きな勢力が三好一族でした。そのリーダー的存在であったのが長慶と政長でした。
 時が経つにつれて、長慶は独自の理念を持つようになり、人望も得るようになります。それと対象的な運命を辿るのが晴元と政長です。
 こうなると両派は対立するようになり、政権内で武力衝突も起きるようになります。それが中央政権での出来事であったために、断続的に京都も戦火に包まれるようになります。
 不幸にして摂津池田家は、この闘争の中心に置かれる事となり、更に不幸だったのは、政長方につながりを強くしていた事です。
 
以下、前回のように、主な要素を抜き出してみます。

◎天文15年 9月3日
池田信正が細川晴元方から離反する。
◎天文16年 6月25日
池田信正、細川晴元に降伏。僧体となり恭順し、入道号を「宗田」と名乗る。
◎天文17年 5月6日
池田信正、細川晴元から切腹を命じられる。
◎8月12日
三好長慶、三好宗三による摂津池田家への非行を細川晴元へ訴える。
◎10月28日
三好長慶、反細川晴元方として三好宗三嫡子政勝を攻める。

池田信正は細川晴元に取り立てられ、その事もあって大いに家運が開けたのも事実です。しかも、晴元の信頼厚かった三好政長と縁続きになった事で、更に安定の裾野が広がったかに思われたのですが、時代や人自身の変化もあり、思うような繁栄の未来は見出せなかったようです。
 信正にとっても、池田家中の人々の生命と財産を託され、発展し続けるための舵取りを任されている以上、それを削がれる可能性が見えた場合には、回避せざるを得なくなります。
 それが、天文15年9月の晴元からの離反でした。それは信正一人が決めた訳では無く、家中と話し合って決めた事でしょう。
 
しかし、池田家が頼りにした細川晴元の対抗馬である同じ管領候補の同名氏綱は、その勢力があと一歩及ばず、池田家の目論みは遂げる事ができませんでした。
 池田信正は軍事制圧され、降伏します。この時、やはり縁者であった三好(宗三)政長を頼り、細川晴元に詫びを入れ、停戦となりました。しかし、一旦は赦免されたものの、切腹を命じられるまでの約1年間、様々な思惑を交錯させつつ、検討がされたようです。

この間、晴元のその処分を巡って、色々と世間を騒がせる出来事がありました。それらの要素を箇条書きにしてみます。

責めを受ける当人が、僧体となり恭順していれば、よほどの事が無い限り切腹には及ばない慣例があった中で、跡取りも正式に決めさせないまま、晴元が信正の切腹を命じた。
摂津池田家の縁者であり、晴元の側近でもあった三好宗三が、池田家の取り計らいもせず、非道な処置を黙認したどころか、その実行を望んだ。
三好宗三が、池田信正の処分保留中に、その財産を我が物にしようと介入した。
三好宗三が細川晴元と共に、池田信正の跡取りの人事について介入した。

これらの事は、当時の社会(特に京都周辺、近隣地域)にとって、非常に関心を集め、それを巡る細川晴元の処置は大変問題視されました。その事もあって、晴元政権は信用を失い、一気に傾きました。

もちろん、池田家中でもこの問題は深刻化し、内訌に発展しました。三好宗三に関する一派は、池田を追われるなどしたようです。この闘争では、池田信正を補佐する家政機関であった池田四人衆が、次期当主となる候補を立て、別の一派も独自の候補を立てるなどして対立した様子が窺えます。

この時どうも、宗三とは別の血統の孫八郎を四人衆が立て、一方では信正系譜の長正が当主の座を巡って分裂したようです。しかし、その後は和解したらしく、最終的には長正が池田家の正当な当主として「筑後守」を名乗っています。

荒木村重の世となった天正4年に発行された『春日社領垂水西牧御神供米方々算用帳』には、景寿院分として5石の割り当て分が記されています。これは奈良春日神社に納める、今でいう税のようなものです。
 その内訳けが、「二石 宗田御書出也。三石 右兵衛尉御書出也、御蔵納也」とあります。宗田とは信正、右兵衛尉は長正を指すと考えられます。この両者について、取りまとめを行っているらしい「景寿院」という寺(人物か)があったようです。この景寿院とは、信正・長正を供養する寺だったのではないかとも考えられます。また、この両者に関わる事が、景寿院を通して管理されているところを見ると、信正と長正は親子だったのではないかと思われます。

結局、池田家は時代の政治状況や色々な要因が関係して、三好宗三(政長)の血統が当主に就いたようです。しかし、これが三好長慶政権内でも良い方向に作用し、池田長正の代でも発展の基礎となります。これは、後に三好三人衆の一人となる同名下野守との関係があったためだと考えられます。

という訳で、次回は三好下野守(宗渭)について考えてみたいと思います。




2013年7月8日月曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その1:三好筑前守政長(宗三)について)

堺市の善長寺にある三好政長の墓
この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

 三好為三を知ろうと思えば、一世代前から見る必要がありそうです。その父(為三が政勝と同一との前提)にあたる越前守政長入道宗三についてみておきたいと思います。

やらなければいけない事なのですが、系図関連はあまり取り組めておらず、私が把握しているのは、宗三には少なくとも3人の子がおり、1人は娘で、2人は男子。その娘が摂津国池田家当主の筑後守信正に嫁いでいるようです。
 2人の男子の内、兄が下野守を名乗り、弟が右衛門大夫で宗三跡職、つまり家督を継いでいます。
 ですから、池田信正にとって宗三の2人の男子は義理の兄弟になるわけです。

それから、私は享禄2年(1529)あたりから池田勝正について調べていますので、それ以前は、残念ながら今のところご紹介できません。政長の出自などは、他のサイトなどをご参照頂ければと思います。すいません。

という事で、私の守備範囲の中から、今回のテーマに関係する三好政長についての出来事を抜き出してみたいと思います。

◎天文13年 5月9日
三好政長、嫡子新三郎政勝へ家督を譲る。政長は隠居して入道となり「宗三」と名乗る。
◎天文17年 8月12日
三好宗三、同族三好長慶により非行を訴えられる。
◎天文18年 6月24日
三好宗三戦死。嫡子政勝は摂津国榎並城へ籠り生き延びる。

この内、大変注目される史料が天文17年8月12日の史料です。三好筑前守長慶が、細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉・高畠伊豆守・田井源介長次・平井丹後守へ宛てた音信です。以下、その内容をご紹介してみます。

-史料(1)------------------------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併て面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松(長正か。不明な池田一族。)、条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者三好宗三相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木本(木ノ本?)に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政勝父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言、としている。
※■=欠字部分。
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天文17年5月、摂津国池田家当主の池田筑後守信正が、管領細川晴元に切腹させられます。その後宗三は、舅である事を理由に、池田家の領知を同意を得ないまま処分したり、財産を自分のモノにするなどしている事を三好長慶は訴えています。宗三の目に余る非行を池田家から調停を懇請されたようです。
 長慶は、宗三が池田家中の知行・財産を掠め取っていると強い口調で非難してしています。また、池田家中に宗三の親類・宗三派が居り、内訌に陥っているとも伝えています。

兎に角、この事件からは、宗三の人間性を窺う事も出来、非常に興味深い史料です。 

また、この事を裏付ける史料が見られます。参考のため、ご紹介します。欠年11月27日付け、細川晴元方三好之虎(義賢)、摂津国人池田信正衆同名正村など(四人衆)宿所へ宛てた音信です。
※豊中市史(史料編2)P512、箕面市史(史料編6)P437

-史料(2)------------------------------------------
阿波国御屋形様科所摂津国垂水事、先年平井丹後守方と三好政長(宗三)以って調え、相渡され候へき。然るところ、近年また押領候て然るべからず候間、御代官職事、最前平井対馬守方従り仰せ付けられ候条、速やかに渡し置かれ候様、孫八郎殿(池田四人衆が推す当主)へ御異見肝要候。なお、加地又五郎申すべく候。
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更にもう一つ。上記の関連史料です。欠年11月30日付け、細川晴元方某(姓名不明盛■)が、摂津国人池田信正衆同名基好など(四人衆)宿所へ宛てた音信。
※箕面市史(史料編6)P437

-史料(3)------------------------------------------
摂津国垂水儀、此 御屋形様料所筋目を以って、先年三好宗三と平井丹後守方以って調え、相渡され候事候。然るところ、重ねて御押領然るべからず候。御代官職事、先々自り平井対馬守方仰せ付けられ候条渡し置かれ候。なお、御異見候者喜悦為すべくの由、書状以って申され候。別して御気遣い仕るべく候 。
※■=欠字部分。
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政長が善長寺の創建に関わる
このような状態であったにもかかわらず細川晴元は処置をせず、宗三への加担をやめなかったために三好長慶は、父親の代から仕えていた晴元から離れる事を決意します。
 天文18年に長慶と宗三は衝突し、宗三は摂津国江口城で戦死してしまいます。代替りした嫡子政勝は落ち延びます。

次は、この一連の関係の中での池田筑後守宗田について、取り上げようと思います。




2013年7月6日土曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(はじめに)

三好為三と同苗下野守について、花押が一致したとの事で、同一人物説があるのですが、私も初めはその説を支持していました。しかし、両者の流れを見ると、必ずしも一致しません。
 当然、私も花押を見比べていく必要があり、それをしっかりとすべきですが、今のところ史料の整合性を中心に見ている状況です。
 当時の史料などを見ると、両者は兄弟であるとの記述も見られるので、こういった点をどう説明するかについて、課題もあるように思います。今では「両者は別人」と、個人的に考えるようになっています。
 
それから、両者は池田勝正にとっては縁続きであり、一族グループにもなって、関係の深い間柄です。ですので、この事をハッキリとさせておくことは、池田家の歴史を研究する上でも重要です。
 永年気になっていた事ですので、少し考えてみたいと思います。今後は、以下の要素などでいくつかに分けて、記事を書いて行ければと思います。


 ◎その1:三好越前守政長(宗三)について
 ◎その2:池田筑後守信正(宗田)について
 ◎その3:三好下野守(宗渭)について
 ◎その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について
 ◎その5:白井河原合戦と三好為三めぐる動き
 ◎その6:三好為三と下野守が別人であると考える要素
 ◎その7:三好下野守と為三が同一人物と考えらている史料群
 ◎香西某について