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2023年3月18日土曜日

櫻正宗との運命の出会いと驚きの偶然

本当に何の脈絡も無く、ユーチューブ内での動画候補に上がっていたコンテンツをクリックしたのがキッカケでした。
 その動画に、私にとっては、もの凄い情報が収められていました。私の調べている、池田酒史・郷土史に関する濃密情報でした。『メタボのオッサンの唄』さんのチャンネルにある「【小林商店 直売所】此花区春日出100年続く激渋角打で日本酒と料理を堪能する【大阪市/此花区】」という動画の中、9:10から灘酒の櫻正宗についての紹介があります。この醸造元の代表である山邑家が、戦国時代の池田城家老と関係のあることが判明しました。


動画の中で紹介されていた櫻正宗公式ホームページにある該当部分を引用します。
※酒蔵の軌跡ページ(https://www.sakuramasamune.co.jp/history/

---(資料1)----------------------------------------------
1644:山邑家の原点
当社・櫻正宗の山邑家もまた、酒造りが本格化した伊丹・荒牧村で米を作り、余剰米で酒を造る農家でした。
 伝法の正蓮寺開山時に山邑の酒をたくさん寄進し、「荒牧屋」という屋号で1625(寛永2)年に創醸されました。その後、酒造に重きを置き、1717(享保2)年に初代山邑太左衛門を名乗り、創業しました。
創業の頃、荒牧屋の酒銘は「薪水」でした。酒銘には当代の歌舞伎俳優に関する者が多く、「薪水」もまたそれに習い、俳優の名を取ったものでした。
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山邑家の家伝によると、山邑家は、摂津国河辺郡荒牧村にあって、余剰米で酒も造る農家で、「荒牧屋」の屋号を称し、1625年(寛永2)に創業したようです。

 

櫻正宗公式サイトの該当ページ ※一部強調表現加工

 

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灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係(はじめに)へ戻る

摂津池田城家老の存在

摂津池田の伝家老屋敷位置
摂津池田家から台頭した荒木村重が摂津国守護職として有岡城主となり、摂津国内を治めていた頃、池田城家老として、5人の名が池田に伝わっています。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

---(資料2)------------------------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
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上記にある家老の家系の内の2名が、「荒牧屋」を称した山邑氏と同じ時代に生き、縁をつなぎます。
 その家老の一人は、上月角■衛門で、その系譜を持つと思われる人物が、上月十大夫政重と考えられます。この人物は、荒牧(荒蒔)出身の赤松一族です。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

---(資料3)----------------------------------------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年(1538)にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

【赤松氏上月十大夫政重之塔】
寛永19年午9月12日卒 法名、可定院秋覚宗卯居士
宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。
享保7年壬寅9月12日
※■=欠字
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★上記、上月氏についての詳しくは「池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2016/07/blog-post_3.html

資料3の伝承を読むと上月政重は、寛永19年(1642)に75歳で亡くなったとしてあるので、逆算すると1567年(永禄10)の生まれとなります。また、政重は3歳の時に、三好・荒木両党により、父子一族悉く殺害されたとあり、これは元亀元年(1570)6月の池田家中の内訌である事が判ります。この伝承は、史実をある程度正確に伝えているようです。

一方、もう一人の家老は、甲■伊賀守という人物で、その系譜を持つと見られるのは、甲賀谷又左衛門尉正長です。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より(抜粋)

---(資料4)----------------------------------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。(後略)
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更に、尼崎長遠寺への莫大な貢献を知る事のできる関係資料です。
※尼崎市立文化財収蔵庫(同市教育委員会 歴博・文化財係)様からのご提供資料

---(資料5)----------------------------------------------

資料名
年代
内容等
1
多宝塔棟札
慶長11年
「願主甲賀谷又左衛門尉正長敬白」
2
多宝塔棟札
慶長12年
「甲賀谷又左衛門尉正長(花押)
3
日桓曼荼羅本尊
慶長13年1月2日
裏書「授与甲賀谷又左衛門尉正長」
4
客殿棟札
慶長18年4月6日
「大願主甲賀谷又左衛門造之」
5
日蓮書状
(乙御前母御書)
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日
願主甲賀谷又左衛門法名正蓮(花押)
6
日蓮曼荼羅本尊
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)
7
日桓曼荼羅本尊
元和4年11月17日
裏書「甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶授与」
8
日厳曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
9
日聡曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
10
日円題目
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
11
本堂棟札
元和9年5月
「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」
12
甲賀谷正蓮書状
8月14日
長遠寺宛
13
鐘楼棟札 
寛永14年6月27日
「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也
願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」
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★上記、甲賀谷氏についての詳しくは「此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(伝法(大阪市此花区)について)」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2019/08/blog-post_20.html

上記一覧による尼崎長遠寺への篤信行動から甲賀谷正長は、1637年(寛永14)頃までには没していたようです。ちなみに同寺へは、荒木村重や池田家当主であった池田勝正なども関係を持っていました。
 また、正長は隠居し、入道号を名乗っており、その名が「正蓮」で、日蓮宗に深く帰依していました。摂津国西成郡伝法の正蓮寺は、1625年(寛永2)に、正長が開基となって創建されたお寺です。
 精神的な拠り所としての日蓮宗への帰依だけではなく、港としても重要であり、尼崎や伝法に物流の拠点を持つ意図も同時にあったのではないかと思われます。両寺は街道によって繋がっています。
 ちなみに、その後、正蓮寺は七堂伽藍が備わり、大坂二十五ヵ寺に数えられる程に栄えます。正蓮寺川もその名の通り、正蓮寺にちなんで呼ばれるようになったようです。

池田城家老の身分であったこの両名は、同時代に生きた人物でした。また、時代は太平の世となり、戦国時代に荒廃した事物が復興する中で、地域の自立、産業育成を各地が競い合いました。そんな中で、池田郷は酒造の先進地域の一つでもあり、酒造産業が急速に成長していました。

 

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